「文字の書き方」が気にされる最後の時代かもしれない、という話。
今は、活版印刷とフォントによって形成されてきた「文字の書き方」が一番気にされていた、最後の時期になるかもしれないですね。という話です。
せっかくなので「文字の書き方」って何?
ここで言う「文字の書き方」というのは、字が上手いか下手かという話ではありません。文字の形そのものの正しさのことです。
活版印刷の時代、文字は一つひとつ金属の活字として作られていました。同じ「あ」はどの本でも同じ「あ」であり、そこにブレは存在しません。この時代を経て、私たちは「印刷された文字は正確である」という感覚を当たり前のものとして身につけてきました。
デジタルの時代になっても、この感覚はフォントという形で引き継がれています。明朝体、ゴシック体、丸ゴシック。どのフォントを選んでも、文字の形自体は完璧に整っています。線が一本欠けた漢字や、微妙にゆがんだひらがなが印刷物に載ることは、原則としてありえませんでした。もしあれば、それは「ミス」として扱われるものでした。
崩れたフォントが店頭に並ぶようになりました
ところが最近、この前提が静かに崩れはじめています。原因は生成AIです。
生成AIで作られた画像は、文字の部分が多少崩れていることがあります。
線が一本多かったり、存在しない漢字のようなものになっていたり、よく見ると「惜しい」文字が混ざっていたりします。以前なら、こうした画像が公の場に出ることはありませんでした。
でも今は、そういう画像が店頭のPOPに普通に並ぶようになっています。
作る側も「まあ、読めるからいいか」で通し、見る側も特に気に留めません。私も最初に気づいたときは少し驚きましたが、驚いたのはたぶん、私が「文字は正確であるべき」という時代の感覚を持っているからです。
気にしない時代が来るのかもしれません
考えてみれば、「文字の形は完璧でなければならない」という感覚は、活版印刷以降のせいぜい数百年で作られたものです。手書きの時代には、文字の形なんて書く人ごとにバラバラでした。それでも文化は普通に成立していました。
だとすると、これからの世代は「文字は多少崩れているもの」という感覚で育つのかもしれません。意味が通じればよく、細部の正確さは重要ではない。そういう時代が来れば、フォントの完璧さに価値を感じるのは、私たちの世代までということになります。
つまり今は、活版印刷から続いてきた「文字の正確さ」が一番大切にされていた時代の、ちょうど終わりの時期なのかもしれません。渦中にいると時代の変わり目には気づきにくいものですが、店頭のPOPというのは、案外正直な観測地点だと思っています。
数十年後に「昔は「たかはし」の「たか」とかさいとうの「さい」の文字の形をいちいち気にしていたらしいですよ」と言われる日が来るのか。それはそれで、見てみたい気もします。
