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トマトと引き換えに、オーロラを見た話

    「心の目でみてごらん」

    そんな言葉を投げかけられたのは、オーストラリアの最南端、南極にほど近いタスマニア島でのことだった。

    標高約900メートル超えの山、体感温度は氷点下。

    真っ暗な湖畔に2時間近く立ち尽くしていたわたしたちの手先は、もうほとんど感覚がなかった。

    前日にサーモン工場を退職したばかりのわたしたちは、本来なら、ぬくぬくのベッドの中で一日中泥のように眠っているはずだった。

    もったいない? そんなことはない。

    オーストラリア生活において、家で過ごす時間が長くなるのは高い家賃の元を取り返すのと同義である。

    そんな超現実派のわたしたちが、なぜこんな過酷な場所に、しかも総勢13人もの大世帯でいるのか。

    その理由は、いくつかの偶然が重なった結果だった。始まりは、あの過酷な農場での日々まで遡る。

    *

    タスマニアでオーロラが見られるという話を初めて聞いたのは、この島に来て数ヶ月が経った頃だった。

    フロントガラスにヒビの入ったワンボックスカー。まだ夜も明けない真っ暗な中、静けさとは正反対のJ-POPを大音量で流しながら高速道路を走っていた。

    選曲できるのは運転手の権限。その日ハンドルを握っていたのは、わたしたちよりも年下の日本人の男の子だった。助手席には、韓国人の彼女さん。

    当時わたしたちは、ストロベリーとラズベリーの収穫作業をしながら生活していた。

    同行している友人とわたしの2人で、密かに「囚人ファーム」と呼んでいたその職場は、朝まだ暗いうちに家を出て、夜遅くに帰る毎日。休みも一日のうちで15分の休憩が一回取れたらいい、という過酷な環境。

    家に着いた後もすぐにくつろぐことはできず、シェアハウスの住人たちとのシャワー・洗濯・キッチンの静かなる争奪戦が始まる。


    どんな話の流れだったか、もう覚えていない。

    ただ、出勤途中に「オーロラを見たことがある」と助手席の彼女さんが言った。見せてもらったスマホの写真には、鮮やかな光が夜空で揺れていた。

    今まで、オーロラは北欧やカナダ、アラスカといった北の地でしか見られないものだと思っていた。正反対の南側、南極近くのタスマニアで見られるなどとは考えたこともなかった。

    その日、オーロラを見てみたいという夢が、心の片隅にそっと灯った。


    数週間後、同居していた20代の大学院生の息子と、タスマニアで何をしたいかという話になった。オーロラを見たいと話すと、Facebookグループとオーロラの数値を確認できるアプリを教えてもらった。そこから本格的なオーロラ探索が始まった。

    その年のお正月、これまでにないほど大きなオーロラが出たらしい。前日に数値を確認していたが、そこまで高くなかったので寝てしまった。

    翌日、SNSがオーロラで埋め尽くされていた。…悔しかった。 

    それまでオーロラは、画面の向こう側にあるものだと思っていた。北欧の旅番組で流れる、どこか遠い国の話。 マッチ売りの少女が煙の中に見た幻のような、綺麗だけれど自分には関係のない世界。

    それが、すぐそばにあると知った。しかも、見逃した。


    その後、紆余曲折を経て、わたしたちは運良くサーモン工場に拾われた。

    朝3時、4時起きで冷蔵庫のような環境だったけれど、あの囚人ファームに比べたらVIP待遇もいいところだった。

    2、3時間おきにきっちり休憩があり、休憩室には牛乳やコーヒー、お湯が完備されている。制服も支給され、医療現場の癖が抜けず早めに休憩から戻ろうとすると「まだ早い」と休憩室に送り返されるほどホワイトな環境だった。


    そして何より、工場の仲間たちはとても優しかった。

    同じ年齢くらいのアジア人が多く、わからないことがあれば「自分もはっきりとはわからないけど、こんな感じだと思う」と一緒に考えてくれる子が多かった。

    夏でも何枚も重ね着をして、手袋をしてブーツを履いて、それでもまだ寒い環境。それでも、医療現場よりも囚人ファームよりも何倍も気持ちが楽だった。工場のみんなと少しずつ同じ時間を共有するうちに、国籍を超えた交流の輪が広がっていった。


    その中で一番仲良くなったのが、台湾人のティンだった。

    ティンとの仲が深まったのには、少し風変わりな理由があった。

    ティンはとにかくよく事故を起こす子で、最近も事故って車の車軸ごと曲がってしまいしばらく運転できない状況だった。

    むしろ廃車寸前だったが、この車はわたしの彼氏みたいなものだから絶対に廃車にはしないと整備工を探していた。

    彼女の家がわたしたちの通り道だったこともあり、車の使えないしばらく送り迎えをすることになった。

    最初はガソリン代を日割り計算して払ってくれていたが、事故の修理費用と賠償金で彼女の財布がかなりカツカツだと知り、申し訳なくなった。

    「それなら、ティンのトマトをもらう代わりに送迎するよ」という形に落ち着いた。

    ティンはハウスキーパーとして家庭菜園のある大きな家を管理していて、そこには毎日のように、食べきれないほどの真っ赤なトマトが実っていたのだ。

    実はわたしは生トマトが苦手だったのだけれど、彼女の手前、それは秘密にした。毎日もらうトマトを友人に食べてもらったり、火の通ったトマト料理に変えたり試行錯誤した。

    ティンもトマトだけでは申し訳ないと思ったのか、時々、手作りのトマト入りの台湾料理をお裾分けしてくれた。きっとティンはわたしたちがトマト大好きだと思っていた。


    タスマニアの山に珍しく雪が降った日、わたしと友人はその山で小さな雪だるまを作り、内緒でティンの家の前に置いて帰ったこともあった。するとティンは寒いにもかかわらず、すぐさま家の外に出て雪だるまと一緒に撮った大喜びの動画を送ってくれた。

    そんな風にトマトや雪だるまを通じて、言葉の壁を越えた妙な絆が育まれていった。


    わたしたちが過酷なファームに耐え、サーモン工場で働いていたのは、オーストラリアに2年滞在するための条件である「88日間の指定労働」を満たすためだった。

    なんとかその期間を超えたあとも、わたしたちを引き留めていたのは、この心地よい労働環境と仲間たちの存在だった。

    だが、わたしたちには次のステップが待っていた。シドニーに戻って、看護助手をするという目標だ。

    正直、このままタスマニアに留まっていた方が、精神衛生上よろしいことは明白だった。

    だが、ファームを終わったら看護助手をする。それは、自分たちで決めたことだった。

    シドニーへ向かうフェリーの予約をしたとき、タスマニア生活の終わりが、具体的な日付を持って現れた。


    わたしたちには、ひとつの大きな心残りがあった。それがオーロラだ。

    サーモン工場の仲間のほとんどは、すでに自分のオーロラストーリーを持っていた。

    「いきなり空が光ってすごい綺麗だった」「あの場所でみた」と話す人たちのことが、うらやましくて仕方がなかった。

    2024年以降、太陽の活動は活発になっていて、普段は見えない地域でもオーロラが観測されることが増えていた。

    オーロラについて調べ始めた途端、アルゴリズムの影響でニュースもインスタもFacebookも、オーロラの話題で埋め尽くされるようになった。

    どの数値をどう確認するか、今日はどこで観測されたか。何日後に見える可能性があるのか。気づけばわたしは、オーロラのセミプロと言っても過言ではないほど知識を蓄えていた。

    オーロラを見たこともない、オーロラセミプロ。誰得かわからん知識である。

    出勤前に雲越しにうっすらと緑色の光が見えただけの日もあった。あれは本当にオーロラだったのか、今でもわからない。週末に暗闇の中を1時間走らせて郊外へ行っても、オーロラは姿を現してくれなかった。


    そんなわたしたちの様子を、ティンはとても気の毒に思ってくれていた。それからわたしたちの退職を本当に悲しがってくれた。

    そして、それをどうこねくり回したのか、彼女は突然「5月にクレイドルマウンテンへ行こう!」と言い出した。

    タスマニアの5月は秋も終わりに近く、冬になっていく。その時期の有名な国立公園であるクレイドルマウンテンの気温は、氷点下近い。そこで車中泊をしようというのだ。

    タスマニアに住んでいる人のほとんどがアウトドア好きなのは知っている。自然が大好きなのも知っている。ただ、それとこれは話が別だった。というよりも、ティンも少し前にキャンプをした後、もう二度とキャンプなんてしないと言っていたはずである。

    わたしたちはオーロラは見たい。でも、苦しい思いはしたくないのだ。

    ティンで話が止まっていたらよかった。なぜかもうすでに他のアジア人にも声をかけていた。気温0度の山に車中泊というプラン、誰も疑問を持っていなかった。

    そして総勢13名、そのうち10人がサーモン工場の仲間という大世帯ツアーを勝手に組んでいた。よく働くアジア人勢が、一気に休みを取ったら工場回らなくなっちゃう。正直、引いた。

    ところがどっこい、サーモン工場の面々は快くわたしたちを送り出し、「君たちの送迎会なんでしょう。楽しんできな!」と明るく背中を押してくれた。日本の医療現場では、なかなかお目にかかれない光景である。

    こうして、サーモン工場を退職したまさに翌日である5月1日。タスマニアに来て180日目の夜、わたしたちはあの極寒の山にいた。


    直前まで、本当に気が乗らなかった。

    前日に時間が細かく記されたタイムスケジュールを目にした途端、頭がいたくなった。

    いつも時間を気にせず個人行動が多かったので、久しぶりの集団行動に怖気づいたのだ。でも、今更引き返せない。

    時間に遅れないよう気にかけながら、クレイドルマウンテンまで4時間半ひたすら車を走らせた。

    目的地まで3分の2を過ぎたあたりで、車のエンジン警告灯が点灯した。

    どうしたらいいんだ。ひとまず車の少ない道路で一時停止すると、すぐさま後続の車に乗っていたサーモン工場の仲間が気づいてくれた。

    車の点検をしてくれたところ、おそらく原因は車のオイル切れっぽいとのことだった。

    勘弁してくれよと頭を抱えた。メンテナンスを怠っていたのは自分たちだ。

    それはわかっている。でも今?先に向かっている組もいる。遅れてしまう、と申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

    幸運なことに、車を停めた場所の近くにガソリンスタンドがあった。なんとか似た種類のエンジンオイルを補充して、事なきを得た。車に詳しい人が近くにいてくれたおかげだった。

    きっと自分たちだけだったら、山まで辿り着けなかった。


    道中トラブルはあったものの、無事クレイドルマウンテンに到着した。山が見えてきた時、その迫力に驚いた。

    目の前に大きな山がそびえ立っているのに、車を走らせても走らせても一向に近づかない。灰色の山肌のようなものは見えた。木々が生えていない場所もあった。

    想像していた山とは少し雰囲気が違った。

    到着してからは自由時間。サーモン工場の仲間の一人がシェフだったので、喜んでみんなの分の食事を作ってくれた。たらふくご飯を食べて、今回は来ることのできなかった工場仲間にみんなから誕生日メッセージを送った。

    少し休息をとって、日も暮れかけてきた頃、クレイドルマウンテンの麓にある湖へ向かった。

    標高約900メートル、骨まで凍みるような極寒だった。予定では3時間以上滞在するつもりだったが、2時間が限界だった。

    まだオーロラは見えていない。でも寒さが限界だった。

    帰ろうか。そう決めたはいいものの、みんな心残りが多すぎて足取りが重かった。数メートル歩いては後ろを振り返り、数メートル歩いては後ろを振り返り。全然駐車場に辿り着く様子がなかった。

    ようやく車が見えてきた頃、後ろからわたしたちを呼び止める声が聞こえた。ティンだった。

    「みてみて。あのあたり。光みたいなの見えない?心の目でみてごらん」

    心の中でそっとツッコんだ。何も見えないって、ティン。でも、わたしたちに見せてあげたいという気持ちが伝わってきて、思わず口元が緩んだ。

    その場にとどまったのは、見たい気持ちもあったけれど、ティンが気済むまで付き合おうという諦めに近い気持ちの方が大きかったかもしれない。

    その日のオーロラ数値は、そこまで高くはなかった。

    しかし、数分くらい経った頃だろうか、徐々に空に白っぽい光のようなものが見え始めた。イメージしていたカーテンのオーロラとは違った。

    半信半疑のまま、そこにカメラを向けてみる。シャッタースピードを遅くして撮影した画面を確認した瞬間、息をのんだ。

    そこには、鮮やかな赤や緑の光が、くっきりと映し出されていた。

    でも正直なところ、最初の感想は「え、こんな感じ?」だった。肉眼ではほとんど見えない。これ、絶対初心者にはわからないやつだ。

    ところが、しばらくその場にいると、徐々に空の光が強くなっていった。目も慣れてきたのか目視でもやや空が赤くみえてきた。それと同時に、じわじわとオーロラを見ているという実感が湧いてきた。

    普通ではない空の色に少し恐怖すら抱いた。こんなのオーロラって知らなかったら世界の滅亡かと錯覚してしまう。

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    クレイドルマウンテンとオーロラ

    気づけば湖畔は賑やかな撮影会場へと変わった。そのときにはもう、寒さは和らいでいた。

    どうやらオーロラも、ティンの圧倒的な情熱には勝てなかったらしい。


    数値を調べ、雲の動きを読み、夜ふかしして、週末に1時間かけて郊外まで車を走らせてオーロラを追いかけた。それでも、見えなかった。

    わたしと友人2人だけだったら、5月のクレイドルマウンテンに赴き、氷点下の中で車中泊をするなんて選択は絶対にしなかった。オーロラ数値だって低い。むしろ、選択肢の中にすら入っていなかった。正しいやり方で追いかけていたつもりが、肝心なところで、自分たちはどこかお行儀が良すぎたのかもしれない。

    ティンが突拍子もない計画を立ててくれたから。みんなが休みを合わせてくれたから。サーモン工場のみんなが快く送り出してくれたから。車が途中で止まらなかったから。

    そのすべてが重なって、あの奇跡のような夜があった。

    タスマニア生活の最後が、ずっと憧れていたオーロラで締めくくられるなんて、そんなご都合主義があっていいのだろうか。「フィクションだから成り立つ話じゃないの」と、友人と顔を見合わせて笑いが込み上げてきた。

    メンバーの一人が、その場でインスタント写真にしてプレゼントしてくれた。今、わたしのスマホケースの裏には、あの夜のオーロラがある。


    うまく説明はできないけれど、必要なときに必要な人に会ってきた。タスマニアでも、やっぱりそうだった。

    タスマニアで過ごした時間は、たった190日間の出来事だった。

    囚人ファームの過酷さも、サーモン工場の温かさも、ティンとのトマトの送迎も。

    振り返れば、あの夜も最初はそうだった。「え、こんな感じ?」と思った。感動するはずの瞬間に、感動しきれていない自分が正直いた。

    でも思い出すたびに、あの夜は輝きを増す。圧倒的なものは、その場で受け取りきれないほど大きくて、時間をかけて少しずつ染み込んでくるのかもしれない。タスマニアで過ごした日々が、そうだ。

    違う国で生まれ、違う言語を話す人たちが、同じ夜空を見上げて、同じ光に驚き、笑い合った。

    もしもの話をすれば、きりがない。ティンが事故を起こさなかったら、彼女の家がわたしたちの通り道でなかったら、タスマニアに来なかったら——わたしたちは同じ夜空の下にいなかった。

    それなのに、たまたま同じ場所で、同じ時間を共有できている。きっと気づいていないだけで、誰の人生にも、そんな偶然が重なっている。

    そんな愛おしい時間が、あの190日間には、確かにあった。



    ワーホリのきっかけとなった出来事はこちらにまとめています。

    オーストラリアで車を買って、盛大にやらかした話もあります。よければこちらもぜひ。


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    オーストラリアから帰国|看護師からワーホリへ|タスマニアの囚人ファームからシドニーの老人ホームまで、南半球を転々としています|旅や日常のささやかな偶然を書いています|読んだあとに、ひとかけらでも何かが残るモノを目指して|創作大賞2026 エッセイ部門 応募中

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