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寿陵の中国、子が親の古墳を築く日本②(清寧天皇陵から宣化天皇陵まで

    皇統の危機の時代で例外が多いのですが、清寧天皇から宣化天皇まで順に陵と宮等を見て行きます。

    清寧天皇陵

    清寧天皇陵(河内坂門原陵)ですけど、年代的には岡ミサンザイ古墳に後続する峯ヶ塚古墳(墳丘長96m)だと思います。天皇陵としては最小ですが、後裔がいないので、子が親の古墳を築くルールなら、そうなっても不思議ではありません。坂門原の氏族は坂戸物部氏の可能性が高く、物部氏が御名代部は雄略天皇と共通しますし、白髪部は手白香皇女(母が雄略天皇皇女)に継承されたと思われ、手白香皇女の墓は母が物部氏の崇神天皇陵(西殿塚古墳)付近に築造されています。

    古事記における崇神天皇陵=山辺道勾岡上陵は西殿塚古墳|古墳時代史解題

    磐余甕栗宮伝承地は御厨子(みずし)神社(橿原市東池尻町)付近ですが、稚桜神社(奈良県桜井市池之内)も近く、(履中天皇の磐余池のエピソードで知られる)若桜部造(物部氏)の根拠地の近くに宮を構えたのかもしれません。そうだとしたら、履中天皇系への継承が清寧天皇即位の時点で予定されていた可能性もあります。勿論、清寧天皇即位の時点で、億計・弘計兄弟が見つかっていた訳ではありません。飯豊青皇女への継承が予定されていたのではないかということです。飯豊青皇女は子供を産む可能性も考えられていたようです。

    清寧天皇が若桜部造の根拠地の近くに宮を構えた背景には、葛城(掖上)で桜を採取したエピソードに関わる可能性も高く、掖上鑵子塚古墳を私は清寧天皇の母の古墳に比定しています。実在性が疑われている清寧天皇ですが、完全に実在だと私は考えています。

    東池尻・池之内遺跡は磐余池と推定されていますが、6世紀後半~7世紀前半の建物や塀が多数発見されており、これは百済池のほとりの百済大井宮に比定できます。

    北の磐余池、南の百済池、中の吉備池|古墳時代史解題

    つまり、清寧天皇は雄略天皇の母の忍坂大中姫からの継承で、百済の地に宮を構え、御名代部の白髪部(若桜部造/物部氏)に関連して、磐余甕栗宮と名を残したのではないかと思います。

    これは光仁天皇(白壁)が百済武寧王系の高野新笠を娶ったことにも繋がってきます。

    清寧天皇が百済に宮を構えたこと自体が、日本が擁立した武寧王を意識していたと見ても良いでしょう。

    結局、白髪山古墳ですが、清寧天皇陵にしては時代が新しく(清寧天皇陵は雄略天皇陵とほぼ同年代の築造でなくてはなりません)、別人の古墳が坂門に近いことで誤認されて古墳名がついたと考えておきます。

    飯豊皇女墓

    飯豊皇女墓(埴口墓)ですけど、北花内大塚古墳だという通説で問題ないでしょう。墳丘長90mですが、やや峯ヶ塚古墳より小さい程度で、後継がいないこの時期の王としては違和感ありません。

    宮は古事記に葛城忍海之高木角刺宮です。高木神=大伴氏の祖神の高皇産霊尊なので、葛城直氏に関連して、角刺神社(葛城市忍海)なんでしょうが、葛城御県神社(葛城市葛木)からはやや離れます。忍海部の根拠地に宮を築いたものでしょうが、これは(開化天皇皇子の)建豊波豆羅和気王後裔で、丹波之竹野別も同祖ですから、丹波に逃げた億計・弘計兄弟が頼ろうとしたのが叔母の部民だったということで、本人かどうか証人になったのも叔母だったということだろうと思います。履中天皇皇女として、それなりに有力だったのでしょう。忍海部の継承自体は履中天皇と母の(葦田宿禰の娘の)黒媛の縁故なのでしょう。履中天皇の磐余宮は開化天皇後裔の神功皇后の宮が置かれたところだからです。履中天皇の母が葛城襲津彦の娘でもあります。

    飯豊皇女の話は伝説的ですが、やはり墓・宮共に本物っぽいです(忍海部が嘘をついた訳ではない)。

    顕宗天皇陵

    顕宗天皇陵(傍丘磐坏丘南陵)ですけど、狐井城山古墳が妥当です。傍丘磐坏丘北陵の武烈天皇共々、後継がいないので、当地に葬られたものかと思います。何故、当地かと言われれば、恐らく仁賢天皇・顕宗天皇兄弟の母の(葛城蟻臣の娘の)荑媛の古墳が北の狐井稲荷古墳なので、側に葬ったということではないかと思います。

    顕宗天皇の宮に関して言えば、弘計皇子神社(明日香村八釣)の場所は明日香村飛鳥の近くと言えます。飛鳥直氏は事代主神系(三輪氏系)ですが、恐らくそうではなく、伊与部(高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也)絡みではないかと思います(事代主神は葛城の神だと思いますが、大伴氏流もあったのでしょう)。(高皇産霊尊系の)大伴室屋が顕宗天皇を見つけたと言えるからですし、実際に見つけたのは伊予久米部だからです。八釣は雄略天皇に殺された八釣白彦皇子の土地だったんでしょうが、顕宗天皇に雄略天皇に復讐したいと思わせる土地だったかもしれません。空気を読んで思い止まりましたが。顕宗天皇が清寧天皇と大伴氏に感謝して、「八釣」に武埴安彦を祀った可能性もあるかもしれません(畝尾坐健土安神社/論社が下八釣に)。

    御名代部の福草部(天津彦根命系)は高市郡(高市県主)の縁故かもしれませんし、清寧天皇が近江と関係あるからかもしれません。

    つまり顕宗天皇も伝説的な説話で色々言われますけど、それっぽい墓と宮跡の伝承(伊予久米部嘘つかない)と御名代部があるので、実在だと思います。遺跡としては允恭天皇の宮と同所で飛鳥寺の下も候補になるかもしれませんが、そこはまぁ不明です。

    仁賢天皇陵

    仁賢天皇陵(埴生坂本陵)はボケ山古墳(藤井寺市青山3丁目)と言われていて、特に問題はありません。後継はいましたけど、私は実際には即位してない(顕宗天皇の次が継体天皇)と見ています。兄なのに弟に皇位を譲った男がそう簡単に即位するはずがありませんから。女系で継体天皇の後裔に前王統の血を入れる為に父の領地の石上にいたのだと思います。御名代部も石上部です。「陵」ですが、埴生は河内国埴生山岡上の来目皇子墓(塚穴古墳)の近くです。弟同様、大伴氏との関係が深いのかもしれません。まぁ実在なのでしょうが、後継がいても後継に古墳を築造してもらったということではないように見え、やはり即位はしてない気がします。

    武烈天皇陵

    武烈天皇陵(傍丘磐坏丘北陵)ですけど、狐井稲荷古墳が妥当だと思います。年代的には顕宗天皇陵に先行しますが、祖母の墓に追葬したのではないでしょうか?まぁ実在していなくても、この天皇に限っては、驚きはしませんが、一応継体天皇に並行して実在していたとしておきます。後継がいないということで、墓はおなざりだったのでしょう。宮(泊瀬列城宮)は雄略天皇の宮に近いはずですが、不明です。即位してなかったなら、一軒家程度(幽閉所?)の可能性すらあります。御名代部(小長谷部)もかなり適当っぽいです。一応(雄略天皇と同じ)物部氏でしょうか。仁徳天皇に近い名前(小長谷若雀命)も仁徳天皇の血を引くことを示す以上の意味はなさそうです(雄略天皇の血も引きます)。さすがの私も悪逆非道のエピソードが実際にあったこととは思いませんが。外交の事績は継体朝に起こったこととしておきます。仁賢天皇と武烈天皇の治世を足すと、磐余までの継体天皇の治世と同じということに注意が必要です。大和の二人が亡くなってから、大和に入ったというストーリーに見えます。

    継体天皇陵

    継体天皇陵(三島藍野陵)ですけど、年代的に今城塚古墳で確実と言われています。普通に後継がいるので、墓も大きいです(墳丘長190m)。これ、実は安閑天皇紀に関連エピソードがあります。安閑天皇は三嶋に「行幸」して、三嶋県主から土地を奪っているんですね。これが即位後のことかは微妙ですが、(私の持論ですが)意富富杼王の墓が三嶋にあったと思われ(太田茶臼山古墳)、継体天皇陵に相応しい土地を物色しに行ったのは確かではないでしょうか?そしてそれに気づいた三嶋県主が塩対応して、「成敗」されたみたいな。

    見出し画像はウィキペディア「今城塚古墳」墳丘全景(Saigen Jiro)

    継体天皇陵は何故、三島にあるのか?|古墳時代史解題(有料記事)
    初期大和朝廷における河内国交野郡の重要性(禁野車塚古墳)と継体天皇の最初の宮|古墳時代史解題
    もう一つの葛城氏の古墳群が京都にあった(乙訓古墳群)|古墳時代史解題

    安閑天皇陵

    安閑天皇陵(古市高屋丘陵)ですけど、高屋築山古墳で問題ないでしょう。後継がいないので、墓は小さくなっていますが(墳丘長122m)、他に候補もありません。高屋連は物部氏で、安閑天皇妃に物部氏がいます。継体天皇に物部麁鹿火が助力して、物部氏の勢力が大きかったのでしょう。勾金橋宮も物部氏の土地の可能性が高いと思います。崇神天皇陵が古事記に山辺道勾岡上陵で、崇神天皇の母が物部氏だからです。

    古事記における崇神天皇陵=山辺道勾岡上陵は西殿塚古墳|古墳時代史解題

    宣化天皇陵

    宣化天皇陵(身狭桃花鳥坂上陵)ですけど、鳥屋ミサンザイ古墳で問題ないでしょう。後継はいましたが、即位できなかったこともあってか(手白香皇女を母に持つ)欽明天皇が正統な後継者で皇統を継ぐことを予定されていたからか)、古墳は大きくならなかったようです。或いは子供が(欽明天皇より更に)若かった可能性もあると思います。宣化朝には大伴金村や大伴狭手彦の活躍もあり、墓は大伴氏が「神武天皇に賜った」領域(築坂)に決まったようです。御名代部は檜前舎人連と思われ、母方の尾張氏でした。

    継体天皇紀に引く百済本記に「辛亥(531年)~日本天皇及太子皇子、倶崩薨」とあるので、即位してないと言われることがありますが、蘇我氏が宣化朝に大臣になったエピソードもありますし、それは疑問です。恐らく伝聞情報で、宣化天皇の次に宣化天皇に子供がいたにも関わらず、欽明天皇が即位したので、死んだんだよということになったのではないかと思います(天皇名・皇子名の記載はなく、宣化天皇崩御後の話と受け取ることは可能です。紀年も合わせることが出来ます)。

    2025年11月9日追記)後期前半は文献の記述がとかく疑われがちですが、寧ろ考古学的な古墳の縮小と文献の継承の混乱の記述は一致しているんじゃないかと。こんな伝説的な記事は創作だと主張される方こそ読んで欲しい記事。まぁ武烈天皇とか伝説的な悪行(殷の紂王がモデルで冤罪ではないか)なんかに関しては疑うオチはついていますが。後、持論ですが、継体天皇と仁賢天皇・武烈天皇は並立説(前者の即位、後者の幽閉説)です。


     
     
    在野ですが(在野だからこそ)、記紀研究の最先端を自負しています。記紀批判の戦後日本古代歴史学会に喝!古墳時代史は日本の史料が解題します。主にXで活動(文明の研究も始めてます)。飛鳥・藤原マガジンで、記紀や新撰姓氏録を元にした日本古代史を発信中。愛媛県宇和島市在住。

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