五ヶ瀬川といった宮崎の大河川と古墳の関係

宮崎県総合博物館の展示の宮崎の古墳の分布ですが、意外と五ヶ瀬川流域(臼杵郡)に古墳が目立ちますね。ここの氏族は基本的には謎ですが、中心地は英多(アガタ)郷と思われ、在来氏族が大和朝廷に味方をして古墳を築いたような気もします(日向国域でよく見られるパターン)。アガタは吾方ではないか。臼杵と言えば、大分県臼杵市ですが、豊後国海部郡穂門(ほと)郷にあたると思われます。
新撰姓氏録に英多真人が見え、ウィキペディア「難波皇子」に高坂王の子孫と書かれていますが、その出典は確認できません。日向国には日下部氏もいましたから、天武天皇の後継者だった草壁皇子に関連して、日向国にコネクションがあっても不思議はありませんが、追及は難しいようです。
五ヶ瀬川流域は案外、肥後国へ抜けるルートとして、古代において案外栄えていたのかもしれず、文献的に限界があっても(神武天皇の祭祀で日向国に関心があったであろう天武天皇と肥君・阿蘇君を含む多氏は関係が深いですが)、考古学的に注目があっていいような気もします。
全部じゃないですけど、古墳が集中しているところは大河川(一ツ瀬川・小丸川・五ヶ瀬川・大淀川)でもありますね。これは不思議なことでもあって、弥生時代の開発は治水のやり易い中小河川中心だったと言われます。宮崎県域の古墳の築造はわりと初期からで3世紀半ばからではないかという感じもなくもないですが、それは兎も角、どうも大河川に対する古墳時代の進んだ治水工事と(台地上の)古墳の築造がリンクするのではないかという気がしないでもありません。
日本書紀の治水と言えば、茨田堤ですけど、茨田連(江首)氏は領域内に山田の地を抱えていて、魏系の山田史が治水工事をもたらし、古墳作りに技術が転用された可能性もあると思います(大和の発注で設計は出雲だと思いますが)。古墳時代前期に古墳が目立つ地域に淀川流域もあって、山田の淀川を越えた対岸あたりが古墳が目立つ(湿地が多い)乙訓郡ですね。河内では大和川流域(中流域)も古墳築造地帯ですね。
弥生時代に開発が進んでなかったから(大河川周辺や台地に)古墳を築造する土地があった面もなくもないとは思われ、日本最大の仁徳天皇陵を擁する百舌鳥古墳群の石津川水系の百舌鳥川なんかは中規模河川に分類されそうですが(或いは他地域から応援が来ていたのかも?)、この辺の地域は後に(後期では)古墳築造が下火になりますね(一方の古市古墳群や長続きし、大和川や石川の流域には大規模な群集墳も造られます)。若干地元に大きな人口を抱えない地域では無理があったのでしょうか。
古墳築造を担ったとされる土師氏と関係が深い出雲の四隅突出型墳丘墓(西谷墳墓群)も大河川(斐伊川)との関係はあるかもしれません。垂仁朝の人物らしい野見宿禰の故郷にも思われる(四隅突出型墳丘墓もありましたが、出雲というより丹波文化圏だったらしく、それで丹波道主命の娘の日葉酢媛命と関係があるらしい)因幡も千代川が暴れ川だったようです。(四隅突出型墳丘墓が進出した)北陸でも九頭竜川流域とか(秋常山古墳群とか)手取川流域に大きな古墳群があります。
箸墓や山辺道陵を擁する纒向遺跡のあった(中小河川の流域ではありますが)磯城郡も低湿地型の唐古鍵遺跡の土木技術の基盤の上に成立したとは言えます。これが更に発展して、大河川を制御できるほどの土木イノベーション(渡来技術+出雲・土師系の盛土技術)が起こったからこそ、整形の巨大古墳が可能になり、同時に広大な新田開発が起こったとも言えるでしょうか。
そう考えると、古代エジプトにピラミッド建設が起こったのも、ナイル川の(氾濫を利用しましたが土手を築いて流れを制御した)灌漑と関係あるかもしれません。水利工事に携わってない時にピラミッド建設をしたみたいな?まぁ大河川と文明の関係は良く言われることではありますが。
2026年9月7日追記)私は高千穂=霧島説なんですけど、高千穂=臼杵郡智保郷説が何故生まれたのかに関しては、とても興味があります。今回はその謎に直接的には迫れませんでしたが、背景として臼杵郡の豪族は既に強かったのだなと確認できた次第です。
古墳作りの技術に関して言えば、基本的には大和の大古墳が大河川に関係ないので、直接的に出雲の技術と大和の技術の融合だと思いますけど、一応魏系の技術が入っているかの検証は必要だと思った次第です。
何で日本書紀に古墳は土師氏(出雲・因幡)が造った(垂仁天皇記の野見宿禰)が造ったとあるのに、また、箸墓には先行しますが、(纏向遺跡一帯の)三輪氏は大国主神(大物主神)の後裔を称し、箸墓の主の倭迹々日百襲姫命は大物主神の妻に位置づけられるのに、或いは箸墓は土師墓とも読め、崇神天皇記に(西谷墳墓群を造ったとも考えられる)土師氏(神門氏)も登場しているのに、出雲の技術で箸墓を築いた可能性を誰も検証しないことに強く疑問を抱いていることは一切変わっていません。
2026年9月7日追記②)今考えてみると、臼杵って臼杵市の臼塚(うすづか)古墳に由来すると言われますが、これは豊後国海部郡穂門(ほと)郷に当たると思われ、どう見ても後から生じた地名です。本来の臼杵は日向国だったはずです。臼杵の意味ですけど、古事記の出雲神話の燧臼と燧杵の可能性が高いでしょう。つまり瓊瓊杵尊のモデルと推定できる崇神天皇(及びその父の開化天皇)が出雲(三輪氏)と関係が深いことに符号します。
高千穂は宇佐神宮と関係が深く、宇佐神宮の神官に大神氏(三輪氏)はいました。つまり三輪氏の伝承では高千穂は臼杵郡智保郷ではなかったか。
誤解もあると思いますが、倭迹々日百襲姫命の伝承が日本書紀で回収されたように古事記に三輪氏の伝承はあまり反映されていません(日本書紀本文でも三輪氏は神話の骨格を変えることは出来ずに、高千穂は霧島らしい記述(日向襲之高千穗峯)になっていると思います)。出雲神話は三輪氏が大国主神後裔を称するに関わらず、素戔嗚尊(≒孝元天皇)、つまり皇室の神話なのです。
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