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頑張れボクサー伊藤くん⑨ VS家族編

    小さい頃、僕は父が憧れだった。

    僕も父親みたいなボクサーになりたかったんだ。
    なりたかったんだ。

    がちゃり、ドアを開く。

    あの時の父親とは、変わり果てた父親が目の前にいる。
    僕は毎日、この父親を見つめ続ける。

    父は、元ボクサーだった。
    だけど、負けないようにと考え過ぎて、病んだ。

    そこからは、坂を転げ落ちるようだった。

    朝から酒。昼も、夜も、酒。
    浴びるように飲んで、飲んだくれて寝る。

    無精髭。酒の匂い。

    足元には空き缶が転がって、部屋は荒れ放題。

    テレビの前で、一日中、だらしなく口を開けて寝ている。

    「もう俺は戦えない」が口癖。


    たまに起きたと思えば、
    野球に向かって「なんで打てねえんだ、馬鹿野郎」と、
    唾を飛ばして怒鳴る。

    自分は、指一本、動かさないくせに。


    正直、僕はその姿を、見たくなかった。

    あんなに大きく見えた背中が、
    こんなにみじめに、崩れていくなんて。

    僕は耳を塞いだ。
    目も、そらした。


    幼少期。
    小さい頃、父はよく「俺は強いんだぞ」と言っていた。

    今も、酔うと、決まってそう言う。
    思えばあれは、ただの強がりだったんだ。

    強いと言ってないと、もう、立っていられなかったんだ。

    そのことに気づくのに、僕はずいぶん時間がかかった。

    憧れは、いつのまにか、見たくもないものに変わっていた。

    それでも、忘れられない一枚の記憶がある。

    小さい頃に、父親の試合を観に行った。

    母親がいつも口うるさくて、うざったくて、
    キーキー声で嫌いだった。

    その母親と一緒に行った。

    その日はなぜか、母親のキーキー声が気にならなかった。

    母親は腹から声を出して、父親を応援していた。

    僕もいつもならそっぽを向いていたが、なぜかその日は、
    父の試合に見入った。


    「頑張れ」
    僕はぼそっと言った。

    父は負けた。

    途中、体勢を崩し、惜しくも負けた。

    いや、今の俺から見ると、惨敗だった。

    だけどその時、僕は思った。

    かっこいいなって。

    なぜか、かっこよかった。
    ボコボコにされて、顔がパンパンに腫れていた。

    でも、なぜか。それだけ覚えている。

    その感覚を、覚えてる。


    今ならわかる。

    あれが、僕の最初の一番星だったんだ。

    勝ったからじゃない。
    強かったからでもない。

    負けて、腫れた顔で、それでも立っていた父が、
    どうしようもなく、きれいだった。

    僕がデビューしてから、一度も父親は試合を観に来なかった。

    母親が何度誘っても、来なかった。

    「もう俺は行けない」
    その一言だけ言って。

    俺はどうでもよかった。
    全てを、あの時はボクシングにぶつけたかった。

    、、、本当は。
    本当は、一度でいい、観に来てほしかっただけなのかもしれない。


    あの日の僕が、腫れた父を見上げたみたいに。
    だけどそんなこと、口が裂けても言えなかった。


    ある日、僕は父の部屋で、一冊のノートを見つけた。

    ボクシングを始めてから一度も観に来なかった父親は、
    僕の試合を全て、記事を切り取ってノートにまとめていた。

    母親に録画させた試合を全て、
    期日と試合相手を、DVDにしてまとめていた。

    僕は驚いた。

    「俺の試合なんて、興味なんてない」と思っていた。

    もう今は、ボクシングも興味がないのかと。

    違ったのか。

    ページを開く。

    パラパラとめくって、目に止まったページがあった。

    それは、愛くんとの試合。
    僕が「俺は愛されている」と初めて気づけた、あの試合。

    そこには付箋が貼りつけてあって、こう書かれていた。

    「いい試合だった。俺には遠く及ばないが、いい試合だった」


    涙が出た。
    なぜかわからないけれど、
    涙が出た。

    理由はわからない。
    わかっているけれど、わからないことにする。

    父も、同じだったんだ。

    愛を、言葉にできない人だった。

    「俺は強いんだぞ」としか、言えなかった人だった。
    その不器用な人が、僕の試合を、一つも欠かさず、切り抜いていた。

    その日は寝れなかった。

    一晩中、涙が出た。

    その次の日、何もなかったかのように、父親と朝ごはんを食べた。

    ノートを見たことは、言わなかった。
    いや、言えなかった。

    僕も、父の子だった。


    ノートを見てから、僕は変わろうとした。

    毎日の食卓で、僕はこの人に、話しかけようとした。

    でも、うまくいかない。

    目の前にいるのは、憧れた父じゃない。

    酒に濁った目。
    だらしなく崩れた、見たくもない姿。

    何度も、言葉が喉で止まった。

    何度も、やっぱりいいや、と目をそらしかけた。

    それでも、あのノートが、僕を引き止める。

    この人は、ずっと、僕を見ていた。

    言葉にできなかっただけで。
    だったら今度は、僕が言うしかない。


    話しかけて、無視されて、

    それでも次の日、また話しかけた。

    みじめだった。何度も、心が折れそうになった。

    それでも、やめなかった。


    その日も、晩ご飯だった。

    父はいつものように、テレビに向かって怒鳴っていた。

    「なんで打てねえんだ、馬鹿野郎」

    昔の僕なら、耳を塞いでいた。
    だけどもう、目をそらさなかった。

    「……父さん」
    やっと、それだけ言えた。

    それから、絞り出すように。
    「……また、ボクシング、やってみないの」

    父の箸が、止まる。

    テレビの音だけが、やけに大きく響いた。

    しばらくして、父は低く、吐き捨てた。
    「……うるさい」

    うるさい。

    その一言が、僕の奥のほうに、火をつけた。

    ふつふつと、何かが湧き上がってくる。

    怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからない。

    ふざけるな。


    あんたは、こんなところで終わる人じゃないだろ。

    ノートに、あんなに気持ちを残せる人が、
    なんで、自分のことだけ、そんなに簡単に諦めてるんだよ。

    あんたの、あの背中は、どこにいったんだよ。

    言葉じゃ、もう届かない。
    この人とわかり合える場所は、たった一つしかない。

    だったら。
    もう一度、あの場所に、引きずり上げてやる。

    気づいたら、僕は立ち上がっていた。

    「立て」
    「……は?」

    「立てよ。リングに上がれ」
    「もう俺は、年だよ」

    「いいから立て。文句はボクシングで、リングの上で言え」

    父は、鼻で笑った。
    「ばかばかしい」
    そう言って、また酒に手を伸ばす。

    だけど僕は、引かなかった。

    次の日も、その次の日も、言い続けた。
    「立て。リングに上がれ」

    無視される。

    それでも、言い続けた。

    ある夜、僕は、
    押し入れの奥から見つけた古いグローブを
    父の手に押しつけた。

    埃だらけの、いつのものかもわからないグローブ。

    「逃げるのかよ。“もう俺は戦えない”
     それ、あと何回、聞かせるんだ」

    「……」

    「一回でいい。俺と、やってくれ」

    父は、長いこと黙っていた。

    グローブを見つめたまま、動かない。

    やがて、ぽつりと言った。

    「……師匠に、連絡しとけ」


    師匠は、二つ返事だった。

    リングを用意して、レフェリーも引き受けてくれた。

    「面白いこと考えるな、お前」
    そう言って、笑っていた。


    当日。
    更衣室から出てきた父を見て、僕は、言葉を失った。

    腹は出て、足元もおぼつかない。

    何年も、拳を握っていなかった手。

    それでも
    父は、来た。

    逃げなかった。


    僕らは、ロープをくぐる。

    向かい合う。

    この人とまっすぐ目を合わせるのは、いったい、何年ぶりだろう。


    ゴングが鳴る。

    拳を構えた父が、目の前にいる。

    小さい頃、あんなに大きく見えた背中が、
    今はずいぶん小さい。

    「もう俺は戦えない」と言い続けた、その人が、
    それでも、拳を上げている。


    なんで今さら、
    なんだよ。

    なんで、あの日から、来てくれなかったんだよ。


    憧れていた。
    恨んでもいた。
    寂しかった。

    それでも、好きだった。

    全部が喉の奥でつっかえて、言葉にならない。

    言葉にならないなら、
    殴るしかないだろ。

    ぶっ!

    声にもならない声が響いた。

    バタン、、、

    鈍い音が響く。

    親父と泣きながらたたかう。

    親父もなぜか泣いていた。

    理由はわからなかった。

    だけど泣いていた。


    そして何度も立ち上がった。

    何度倒れても立ち上がった。

    レフェリーになってくれた師匠は、
    なぜか親父が倒れても止めなかった。

    師匠は、知っていたんだと思う。
    これは、勝ち負けじゃない。

    この親子が、生きているうちに一度だけ、
    ちゃんと殴り合っておかなきゃいけない。

    死んだ親友を追い続けた師匠は、
    たぶん、誰よりもそれを知っていた。

    何度倒れても、
    「大丈夫か?、まだやれるか?」
    と師匠が確認する。

    そうすると必ず、なぜか、
    「もう大丈夫だ」
    父親はそういって立ち上がった。


    よしばっちこい!!

    涙が止まらない。

    あの憧れだった、
    自分がボクシングを始める理由をくれた父親と、
    戦えている。

    全盛期からは遠いかもしれない。

    だけどそんなことどうでもよくて、
    すごくうれしかった。

    拳を交わすたびに、忘れていたものが、
    ひとつずつ、よみがえってくる。

    現実くんとの戦いで、僕は教わった。

    星座なんて、人間が勝手に引いた線だ。

    星が、いつ消えるかもわからない。

    それでも、美しいと思う心だけは、消えない。

    だから、お前だけの一番星を見つけろ、と。

    僕はずっと、その一番星を探してきた。

    自分だけの、いちばん美しいと思える、たった一つの光を。

    だけど今、殴り合いながら、やっとわかる。

    探すまでも、なかったんだ。

    僕の一番星は、ずっと前から、決まっていた。


    あの日、腫れた顔で立っていた、父。

    僕の根っこを作ったのも、
    僕の核をいちばん最初にくれたのも、この人だった。

    僕はずっと、その一つの星を追いかけて、ここまで走ってきた。

    気づかないふりをして。
    忘れたふりをして。

    それでも親父を、追いかけていた。

    どんな試合よりも、そんな相手よりも、僕の心が揺れている。

    そうだ親父!!!!

    思わず叫ばずにはいられない。

    そして、やっと、わかった。

    いま、目の前で泣いている、この人の涙。

    さっきまで、理由がわからなかった、あの涙。

    どれくらい、殴り合っただろう。

    気づけば、二人とも、マットに大の字だった。

    天井を見上げて、ただ、息をしていた。

    どちらからともなく、笑っていた。


    そして僕は、今日も戦う。

    明日も試合だ。

    強敵だけど、なぜか明日は、負けない気がした。

    僕は僕を、無敵だと思えた。
    そう、なぜか信じきっていた。

    ひどくバカな考えかもしれないけれど、今なら誰だって倒せる。
    師匠でも倒せそうだ。
    そんな感じだった。

    今日も戦う。
    今日も走る。

    明日はどんな試合になるだろうか。
    楽しみだ。

    ―大人のための絵本『頑張れボクサー伊藤くん』シリーズ―

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    君に心から伝えたいことがたくさんある。どうしても伝えたいことが。君以外の誰も見てくれなかったって、君さえ見てくれたら僕の生きた意味があるなと思う。そして、もしも僕の文章が、絵が、音楽が、君を救う理由になりえたなら僕は死ぬほどうれしい。と同時に今日も君とともに生きていけることを願う

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