
【連載小説】花水木の女たち 第14話|正しい行い
七月。
沙都子を毎週呼んでいたカトウからの電話が途絶えた。
だが、沙都子の成績は驚くほど伸びていた。
出勤数が少ないため指名数では劣るものの、指名率では店のトップ、野々花に迫る勢いだった。
ホテルへの直行直帰が常になり、店に振り込まれる売上も申し分ない。
沙都子の姿を店で見かけることは、ほとんどなくなっていた。
ある日、仕事を終え、駅に向かう途中のことだった。
芳恵は、太った男にもたれかかる女の後ろ姿を目にした。
この辺りは都内でも有数のホテル街。
風俗嬢らしい女やその客が目立つ場所だ。
それでも、なぜかこの女だけは芳恵の目を引いた。
すれ違いざま、こっそりその顔を覗き込む。
沙都子だった。
彼女は微笑みながら、男に囁いている。
「また来てくださいね」
芳恵の顔が熱くなった。
心臓が激しく脈打つ。
汗が吹き出る。
足早にその場を離れた。
男の顔には見覚えがあった。
以前、野々花の客だったのだ。オプションのSM道具を部屋に届けた際、その巨体に驚いて顔を覚えてしまった。
立ちフェラを要求するくせに、男のペニスは小さい。
野々花が「重たい腹の肉を持ち上げ続けて、腕が痺れる」と嘆いていたのを思い出す。
今日、その男は沙都子を呼び出した。
時間的にも、ちょうど仕事を終えてホテルを出たところなのだろう。
「また来てくださいね」は、風俗嬢がよく使う決まり文句だ。
何ひとつ不自然ではない。
だが——。
沙都子の顔が、頭から離れない。
(……沙都子ちゃん、大した女優だわ。あんな嬉しそうな顔をするなんて……)
そう思えばいいのに、そうは思えなかった。
電車の中、芳恵の脇に嫌な汗が滲んだ。
* * *
月末、多くの百合の花を抱えて雪乃が現れた。
雪乃は流しで花瓶に花を生けていた。
芳恵はその横に立った。
「雪乃さんが沙都子ちゃんに紹介したカトウさん、最近お見えにならないんです……何かあったんですか?」
「忙しいだけじゃないの?」
「沙都子ちゃんについて、何か聞いてませんか?」
「何も聞いてないわよ」
雪乃は花瓶を満足そうに眺めた。
「……もしかして……沙都子ちゃんが探していた男の人って、カトウさんなんですか?」
雪乃は眉を寄せ、芳恵の顔を見た。
「雪乃さんは、沙都子ちゃんが会いたかった人を見つけたんですか?」
「……ああ」
合点がいったように、雪乃は苦笑いをした。
「まさか。あの人はただの女好きよ。感じにくい女を悦ばせるのが趣味なの」
雪乃は花瓶に付いた水滴を拭き取り、玄関へ運んだ。
芳恵もそのあとを追う。
「長谷川さんもお上手だけど、あの人、短気なのよ」
「……沙都子ちゃんが『好きな人に会いたくてこの店に入った』って話は、嘘だったんですか?」
「嘘ってわけじゃないでしょうけど、ただ、沙都子ちゃんにとっては、そのとき初めて良い経験をさせてもらったんじゃないの?」
芳恵は黙った。雪乃の言葉の意味を、頭の中で何度か繰り返した。
良い経験——。
その言葉が、胸の奥で小さくつかえた。
雪乃は百合の花の並びを直し、芳恵に向き直って微笑んだ。
「あの容姿で感じやすいなんて、鬼に金棒ね。しっかり稼いでもらいましょう。本人も今が一番楽しいんじゃないかしら?」
芳恵は何も答えなかった。
* * *
電話が鳴った。
芳恵は受話器を取る。
「鈴木様、申し訳ございません。沙都子ちゃんが性病の検査に引っかかってしまい、しばらくお休みとなります。代わりに鈴木様のお好みに合いそうな子をお送りしますね……ええ、お任せください。間違いのない子をご紹介します」
芳恵は電話を切ると、沙都子へ連絡を入れる。
「沙都子ちゃん、今日の予約、鈴木様も白井様もキャンセルになったから。休んでいいわよ」
それだけ伝え、沙都子が何かを言う前に電話を切った。
来週の予約も、早く取り消さなければならない。
芳恵は予約画面を開き、手帳に書き留めた客の名前を一人ずつ確認しながら、丁寧に電話をかけていった。
沙都子の名前が並ぶ画面を見つめながら、芳恵は思う。
こんな仕事を続けていたら、引き返せなくなるのに——。
客に頭を下げながら受話器を置き、芳恵は背筋を伸ばす。
芳恵の額に、じっとり汗が滲んでいた。
タオルで額を拭い、次の電話番号を確認した。
了