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ぼうっとしていた

    あらすじ

    夏菜子の母親が得意先の社長と旅行に出かけてから2日目の夜、松尾は気怠そうな顔で夏菜子の猫撫で声を嗜めていた。有線イヤホン。ウォークマン。andymoriのCD。市立図書館で運命的な出会いを果たした2人は、懐かしくて新しいものたちをきっかけに距離を縮めていくが、お互いが抱える複雑な悩みが2人の恋の行く手を阻む。過剰なほどに同時接続された退屈な現代を生きる若者は、過去の熱狂を掘り起こしながら何を思い、どのように人を好きになるのか。思春期ならではの自意識と軽やかさで混沌とした現実を軽々と飛び越えていく青春恋愛小説。


    0

     夏らしい朝だった。冷房を20℃に設定していたせいか口の中の水分は全て奪われていて、松尾はベット下の床に置いていた500mlのペットボトルに残った水を飲み干すと、隣で寝ていた夏菜子の元に戻って耳たぶを噛んだ。

     夏休みに入って2週間が経った8月の5日目。外では午前9時にも関わらずアスファルトを溶かすほどの日差しがじりじりと唸りを上げて降り注いでいた。ネットでは警報レベルの暑さがしきりに報道され、屋外での作業は極力控えてこまめな水分と塩分を補給するよう呼びかけている。

     一昨日から夏菜子の母親が得意先の社長と出雲へ旅行に出かけていることもあって、松尾が夏菜子の部屋に泊まりに来てから3日目の朝を迎えた。松尾は、目を覚ました夏菜子の乳首をタオルケットの中で強めに噛む。薄手のタオルケットに熱が籠る。夏菜子は体を捩り、腰を突き上げ、体の恥部へさらに意識を集中させていく。

     夏菜子は、ベッドのサイドテーブルの上に置いた母親の部屋から盗んできたコンドームが入った袋を手に取り、袋を破いて松尾の反り立ったペニスにするするとはめていく。息ができず苦しんでいるみたいに、松尾のペニスは上下に細かく動いている。松尾は、自分の方を向く夏菜子のヴァギナにペニスを近づけ、ゆっくりと中に挿入をする。松尾は夏菜子の細い肩を背中側から抱きかかえるように掴み、もう一方の腕を夏菜子の腰に回す。夏菜子は松尾の胸の中で抱きかかえられる赤子のように松尾の肩に手を置くと、松尾は、夏菜子の肩と腰を起点にして体を上下させていく。松尾が夏菜子を動かす度に、夏菜子が松尾を中に入れる度に、2人は1人になり、1つの生命体として呼吸を繰り返す。

     絶え間ない幸福の連続を繰り返して疲れ果てた夏菜子は、ベッドの上に死体のように倒れ込んだ。午前11時の外は飛び切り明るく、カーテンを閉めた窓の隙間からは光が溢れ出し、照明を付けていなくても部屋の中が見える程度には明るかった。2人で食べたカップ焼きそばの空。ポリエチレンの袋。スプーンとライター。夏菜子は、幸せの延滞料金を滞納し続けるくらいには価値のある時間の捨て方をしていると思っていた。松尾が隣にいるということが、夏菜子が、夏菜子として存在している証明で、セックスをしているときだけが、彼女にとってまともに息が吸えている時間だった。

     夏菜子は、ベッドの上でうずくまる体の内側で、松尾を強く求めていた。火照った体。松尾が自分の体に入っていく音。1人では到達できない快楽の上昇。エアコンの効いた薄暗い部屋で体を丸め、ぼうっとした頭の中できらきらと流れていく記憶たちを自分のほうへ手繰り寄せていると、向こうからさざ波が静かに近づいてきて、夏菜子を眠りの海へと誘おうとしている。

     松尾は、夏菜子が眠りに落ちるのを見届けると、黒色のパーカーを着てマンションを出た。

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     初夏の階段は溶けて見えた。松尾は、はち切れそうなネイビーブルーのスクールバッグを右肩に食い込ませながら左手でサイダー味のアイス棒を持ち、忙しそうに歩いている。

    「あち〜」

    「うるさい。それ、5回目」

     隣を歩く高橋は、松尾のペースに合わせながらスマホゲームをやっている。夏というには早い日差しがアスファルトを刺激し始めていた。

    「だり〜」

    「仕方ないだろ?今回は松尾が悪い」

    「あれは問題が悪い。テスト範囲にない問題出してくるもっちゃんが悪い」

    「テスト範囲が増えるって言われてただろ。聞いてないお前が悪い」

    「聞こえるように言わないもっちゃんが悪い。俺は全面的に悪くない」

    「いつまでアイス食ってんだよ。溶け始めてるぞ」

     松尾は指につきそうなサイダー味のシロップを下から覗き込んで舐めだした。高橋は呆れた表情で松尾を見つめ、スマホの画面に視線を戻す。

     松尾と高橋が歩く道の脇には自生した紫陽花が咲いているが、瑞々しさが失われ始めている。2人が通う新修高校は小高い山の上に立っており、駅前の中心街から国道沿いの住宅街まで、街全体をぐるりと見まわすことができる。創立110年を越える古風な学校は、耐震工事のために鉄筋コンクリートの入った新棟と昔の様子を残す資料館として機能している旧棟がある全校生徒300人弱の公立高校だ。市内には国道沿いにある私立新修女子学園と合わせて高校が2つしかなく、市内約6割の高校生が共学であるこの新修高校に通い、市民の半数以上がこの高校を卒業している。

     「日本一空に近い高校」と呼ばれる新修高校は、校舎は標高100mほどの小山の山頂を切り拓いて建てられた学校であるが、学生は駅側のくねくねとした坂道である通称「蛇坂」か、国道側の崖のような階段である通称「崖段」の2つの通学路を毎日上り下りしているため、地元では2つの通学路を「修験道」、新修高校に3年間通った卒業生を「高僧」と呼び、高校のある頂上を「天界」、街のあるエリアを「下界」と呼ばれて親しまれている。高校の裏門を出てすぐ始まる崖のような斜面の階段を降りると、紫陽花の植えられた小道がするりと伸びている。紫陽花が綺麗に見える隠れスポットとして地元の人たちの間で密かに知られており、6月の梅雨の時期になると親が子どもを連れて散歩をしに来ることが多い。

     紫陽花の小道を抜けると国道42号線にぶつかり、そのすぐ右隣に市立図書館がある。新修高校と新修女子の中間地点に位置する現代アートのような外観の図書館は当然のことながら高校生たちの溜まり場となっていて、特にテスト期間に入ると新高生と新女生で図書館の自習スペースはいっぱいになる。

     紫陽花の小道側の壁面には段差状に斜めに切り込みが入っていて、その模様は遠くから見ると凹と凸の上部分を向かい合わせにしたように見え、それが性行為を連想させるために教育的に不適切であるという質疑が市議会で行われたことに端を発し、図書館が新設されてからの数年間は、「高校生が図書館のトイレで淫らな行為をしている」という嘘の噂が出回り、終いには「今の高校生はどこでも性行為をする」という根も歯もないデマにまで発展し、図書館が建設されてから20年以上立つ今になっても本当に信じている人が若干いるが、今の高校生でそのような噂があったことを知っている人は1人もおらず、松尾は漏れなくその内の1人だった。

     松尾は、売店で買って食べ始めたときと比べて確実に溶ける速度が上がっているアイスを見て、残りのアイスを慌てて口に入れた。

    「は、はう。は、はう、はう」

    「バカじゃん」

     高橋は、眉毛を顔の中心に寄せてしかめっ面をしている松尾を見て笑った。こめかみに氷を押し付けられたような痛みを上手く伝えられないのか、残りのアイスを口に放り込んでしまったことを後悔しているのか、松尾は、とにかく苦しそうな顔で何かを訴え続けている。

    「いやお前が悪い」

    「は、はうはう」

    「先行ってるぞ。手洗って来いよ」

     高橋は松尾にそう言うと、図書館の自動ドアに続く階段を上って館内へと入っていった。

     エアコンの効いた図書館の自習エリアには、新高の制服を着た男子と白いセーラー服を着た女子が何組も隣同士で座っており、参考書すら広げず1つのイヤホンを2人で分けて付け、音楽を聴いているカップルもいた。

     古くから新高と新女を取り巻く噂として、「高校生の時に新高の男子と付き合った新女の女子は、一生結婚できないか出家しなければならない」というものがあった。根拠のない噂が何年にも渡って語り継がれ、新女の女子は擦れているだとか、新高の女子は芋揃いだと言った便所の落書きにも満たない噂が日常生活で普通に話されていた時代もあったようだ。結婚できなければ出家しなければならない理由はないし、新高は山の上に建てられているからお坊さんの学校だと連想したのかもしれないが、新女はキリスト教系の高校なのでなるとしたらシスターである点で絶妙に的を得ていない。

     尾ひれはひれのついた噂はいつの時代も人の間を行き来し、人を魅了し続ける。少しでも色や形が違うものを見つけると、同じになるかここから出ていくかの二択を突きつけ、同じにならない意思を見せたものには徹底的に排除するためのすべてのことが行われる。排除は毒殺と同じやり口で、僅かな嘘の混じった真実が吹聴され、それを聞いた人々の手によって噂はすくすく成長していく。時間と共にそれを知っている人は増えていき、気づいたときには誰もが知っている事実へと姿形を変えている。人々は真実に興味はなく、退屈な日々を楽しむために、娯楽としての事実を摂取し続ける。

     松尾は、自分と同じワイシャツを着ている男子と白のセーラー服を着た新女生のカップルの間を何組も通り過ぎると、高橋が座る隣の椅子にどすんとスクールバッグを下した。

    「あー涼し」

    「うるさい」

     松尾は、ワイシャツの一番上のボタンを開けてパタパタと前後に仰いでいる。天井に埋め込まれたエアコンの冷気は図書館全体に隈なく広がっていて、松尾は、海の中で手足を自由に動かしながら少しづつ深いところまで潜っていくような心地よさを服の中へ取り入れようとした。高橋はもうすでに自習机に座り、追試の問題用紙とノートを机に広げてスマホゲームをやっている。松尾は高橋のスマホの画面を覗き込んだ。

    「うわ、ザコじゃん」

    「しね」

    「うわざこじゃん」

    「黙れ」

     松尾はベタついた手をズボンのポケットの辺りで拭くと、ポケットからスマホを取り出して椅子に座った。

    「いやさすがにお前はやれよ」

    「ちょっとだけ。このクエスト終わるまで」

    「ちょっとで終わんねーだろ」

    「終わる終わる。あとちょっと」

    「マジで知らねーぞ」

     新修高校は公立の進学校で、東西有無名問わず4年制大学への進学率が高い。大学進学を期に約6割の18歳が県外へ流出し、地元に残った4割と大学を卒業して地元に帰ってくる2割が新修市の経済を回している。子どもの数が少ないので市内の保育園は次々に統合され、ついに昨年、市内唯一の保育の専門学校が隣町の学校に合併された。

     四半世紀前にはまだかろうじて残っていた街の活気は消えて無くなり、シャッター街の商店街や外壁が剥がれ落ちているデパートが町の中心街で静かに息を潜めている。数年前、心霊スポットを巡り歩く動画配信者が、『幽霊の出る廃墟寸前のデパート』として中心街のデパート『トーワダ』を取り上げたことがSNSで話題を呼び、螺旋状に伸びる深夜の駐車場を徘徊する様子を撮影した動画をSNSにアップロードする若者が一時期増えたが、今はすでに下火になってしまっている。

    「トーワダいかん?」

    「いかねぇよ」

    「スロットやりいこうよ」

    「ばかだなぁ。また補導されるぞ」

    「10時に帰ればいいんだろ?余裕だよ」

    「そーいう問題じゃ...」

    「あやべ、通信制限きてるじゃんー、まじうざ」

    「ざまあ」

    「たかちゃん、Wi-Fi貸してくんない?」

    「やだよ」

    「ねーねえねえいいじゃん。コイン100枚、あげるから」

    「ふざけんなよ、前と同じじゃねぇか。次借りるときどうすんだよ」

    「ちゃんとする。外でゲームやらない、明日から」

    松尾はスマホの画面の右上端を親指で下にスライドさせ、3本の白線が扇状に広がる無線ネットワークのピクトグラムをタップした。画面中央に英単語と数字の文字列がズラリと表示されるのを目で確認して、『myphone』と表示された文字列を押した。

    「パスワード」

    「いらねぇだろ、いつも使ってんだから」

    「え出てきたから」

    高橋は面倒そうな顔でゲームを中断する。

    「んなわけねーだろ」

    「ほら、『パスワードを入力してください』」

    「本当だ。親がパスワード変えたのかな。お前が使ってるのバレてるのかもな」

    「おいー、バラすなよ勝手に」

    「バラしてねぇよ勝手に。つか、通信制限きてるお前が悪い」

    「はー?ふざけんなよ世界」

    「世界?及んで親まででは?」

    「あのー」

    「はいすいません。声大きかったですよねすいません」

     高橋は、隣で勉強していた女子学生に何か言われたときに言うと決めていた台詞を反射的に吐き出した。相手が不快に感じている部分を一刻も早く取り除くことのみを意識したその言葉は、ピストルで放射されたかのような速さで彼女の横を通り過ぎていった。

    「あいや、Wi-Fi、私のでよければ使います?」

    「え?」

    「そちらの方の画面に出てるの、私のやつからおそらく飛んでるのかと。私も親がパスワード管理してて、たまに使えなくなったりするので」

    「えまじすか。じゃあ」

    「いいわけないだろ、すいませんこいつバカで」

    「いやぜんぜんいいですよ、私ほとんどギガ使わないし」

    「えいいんすか?じゃあ」

     松尾は勢いよく立ち上がるが、間に座っていた高橋が渋い顔をして止めに入る。

    「駄目だよ、俺ら勉強しにきたんだろ。お前物理2点だった奴がゲームしてる暇なんかねぇぞ」

    「そうですか...」

    「すいません、うるさくしちゃって。ほらやるぞ」

     彼女は笑いながら軽く会釈をすると、さっきまで解いていた参考書の問題に取りかかるために椅子に座り直し、肩に着くかつかないかくらいの長さの髪の毛を耳の後ろにかけた。

     白色のセーラー服。彼女はどうやら新女の生徒のようだった。

     彼女が髪を耳にかけたことで現れた有線イヤホンが松尾の視界に入る。有線イヤホンが余計に彼女の耳を強調させているのか、松尾は彼女の耳が思いのほか小さく感じると、それまで意識していなかった彼女の全身が徐々に浮かび上がって見え、座っているためにあまりよく分からないが、彼女が線の細い華奢な体格をしているように見えた。机の上にはピンク色のウォークマンが置かれていて、それに有線のイヤホンが繋げられている。今の時代、スマートフォン1台あれば世界中の音楽を場所や時間に囚われず聞くことができるのにも関わらず、あえて彼女がウォークマンで音楽を聞きながら勉強している様子が、松尾はあまりにも新鮮に映り、しばらくの間ぼうっと彼女の方を眺めていると、高橋が忙しなく目で小突いていることに気づき、ああ、と返して椅子に座った。


     次の日は雨だった。梅雨らしい湿気を含んだ空気が広まっている中、松尾は、降ったり止んだりしている雨を被った乾き切っていない街を図書館を目指して闊歩していた。松尾は、朝7時45分に市立図書館の玄関に着くと、すでに4,5人が自動ドアの前に並んでいた。図書館の職員が朝8時からの開館に向けて館内の掃き掃除をしている。

     松尾の家から歩いて15分の場所にある市立図書館は、学生以外の一般利用者も多く、特に土曜日のこの日は夜8時まで空いていることから、資格受験のための参考書を広げて勉強をする社会人や新聞を広げて難しい顔をしているおじさんの姿が増える。自習エリアの利用者カードを受付で見せれば館内のどの席を使ってもよいことになっているが、早い者勝ちであるために休日は席の取り合いになっていた。

     松尾は列の中にミディアムボブくらいの長さの髪の女性を見つけた。昨日、松尾に話しかけてきた新女の生徒。彼女は花柄の長袖Tシャツにデニムのパンツを穿き、肩にはエネラルドグリーンの糸で編み込まれたアラベスク柄のトートバッグを提げていた。手には小さく畳んだ状態のオレンジ色の折り畳み傘を持っている。松尾はパラパラと降っている小雨に当たらないように屋根がせり出している玄関の自動ドア前に並んでいる列の最後尾に着くと、ぐっと首を伸ばして前方の女性を覗き見ようとした。

     昨日は耳にかけていた髪を後ろでくくり、茶色のゴムでひとまとめにしている。耳にはあの有線イヤホンをつけていた。ピンク色のウォークマン。松尾は昨晩、彼女が使っているそれをネットで検索し、松尾が生まれた2010年に発売されたSONY製のものであることを特定していた。初期のウォークマンが発売された40数年前は『ポケットに音楽を入れて持ち運ぶこと』がきっと流行の最先端を名乗っていて、カセットテープに録音されたアルバムを繰り返し聞いたり、録音した自作の音源を友達と聞き合ったりしていたのだと思うし、彼女が持っていた15,6年前に発売されたウォークマンも、音声ファイルに圧縮することで『好きな音楽をいつでもどこでも好きなだけ聞くこと』が実現し、音楽がより身近に感じられる時代の到来に当時の人々は心を躍らせたのだと思う。松尾は、当時の最新技術を駆使して開発された機械を、自分と同世代の女子が使っているというなんとも言えない高揚感を、昨日からうまく咀嚼できていなかった。

     「あの」

     「はい?」

     「後ろで並んでいる方もいるので、図書館をご利用であれば最後尾にお並びいただけますか」

     開館の準備で外に出てきた職員に声をかけられた。松尾は辺りを見渡すと、自分は列から大きく外れた場所にいて、自分の右隣には数分前よりもさらに長い列が後ろにできていた。松尾は、傘を差して並んでいる人たちからじろじろ見られていることに気づいて恥ずかしくなった。

     「わああごめんなさい」

     松尾は屋根がせり出したスペースから外へ伸びる階段を降りる。家を出てきた時よりも雨は強くなっており、「そんなに強く降らないだろう」と踏んでいた松尾は、腹の中から迫り上がってきた後悔を噛み締めながら列の前方を見た。彼女が列から顔を出して、松尾の方を見て笑っているように見えた。

     図書館の自習席は案外空いていた。松尾は自習用の机が多いエリアから離れた通路の脇に置かれた二人掛けの丸テーブルに腰掛けると、スマホのロック画面を開いた。無線インターネットのピクトグラムをタップする。松尾は、規則的で意味を持った英数字が無数に表示される中にある『myphone』を見つけると、この文字列を押せば彼女のWi-Fiに繋がることができるという事実に高揚した。たった数文字の英単語だが、松尾はそれが急に魅力的に見え始め、今地球上で彼女のスマホのWi-FiのIDを知っているのは自分一人だけだということを嬉しく思った。

     「何見てんの」

     「うわっ見んなよ勝手に」

     松尾は、咄嗟にスマホの画面を机に伏せる。高橋はその様子を見てニヤリと笑う。

     「昨日の女子か。お前、ああいうのがいいんだ」

     「そんなことない」

     「そんなことないやつがWi-FiのID探さないわけないだろ」

     「は?別に探してないし」

     あそう、と高橋は素っ気なく返すと、丸テーブルの向かいの席にどかっと座り、スマホゲームを始めた。

     「だって新女だろ?超お嬢様か陽キャアスリートしか通えない監獄みたいなとこに通ってる女のどこがいいんだよ」

     「そうとは限らないだろ。普通の子だっているよ」

     「いるわけないだろー?新女はみんな阿婆擦れ、新高女子は喪女ばっか。これが現実なの。こんな田舎で恋愛なんかやめとけよ。駅前歩けば顔刺されて、一生消えない十字架背負って生きてかなきゃなんねーからな」

     松尾は高橋が言うことの半分も理解できない時があった。松尾と同い年には思えない高橋の語彙の多さと人たらしな一面は、高橋が周囲の影響を受けやすい素直な性格の持ち主であることを表している。時に最悪な言葉遣いをするときがある高橋は、友達こそ多くないが、一度心を許した相手と時間を過ごすことに生活の重心を置いており、松尾の追試の勉強に付き合うほどには人情が厚い。

     ただ、市内で2番目に大きい不動産会社の3人兄弟の末っ子である由縁は、会話の端々から分かりやすく感じられた。

     「なぁなぁ、たかちゃん家のお兄ちゃん、2010年式のSONYのウォークマンとか持ってたりしない?」

     「ウォークマン?フッ、いつの時代の話してんだよあるわけねぇだろ多分捨てたよ」

     「どんな機種だった?ピンク?イヤホンの耳に入れるとこがちっちゃいイヤホン?」

     「そこまでしらねぇけど。タカフミが持ってたのは青で、充電器とスピーカー兼ねてるタイプだったかな」

     「へえええ」

     「ほら国道沿いにセイムスがあるだろ。あそこにもともと今のゲオが入ってたんだよほら駅前の。うち近所だったからさ、保育所通ってたころタカフミにチャリの荷台乗せられてよく行ってたなー」

     「へえええ」

     「ゲオでCD借りて、それパソコンにダウンロードして、ウォークマンに入れてようやく聞けんの。ヤバくね?今考えるとそんなめんどくさいこと絶対やりたくない」

     高橋は考えることすら嫌だという顔をして頭を横に振っている。

     「どんな曲聞いてた?」

     「しらねぇよ覚えてねぇよいちいち。えー、andymoriとか?きのこ帝国とか?多分その辺なんじゃないか有名どころ。フジファブリックとか?」

     アンディモリ、キノコ帝国、フジファブリック...。松尾は天井を見上げて、自分が生まれた時代に流行っていたミュージシャンの名前を復唱した。

     「聞きたいならCD貸してやろうか」

     「えいいの?」

     「うん。前のゲオが閉店するときタカフミがよく聞いてたCD全部買い取ったんだよ。元々中古品だし、売っても値段つかないから倉庫に置きっぱなしになってるだけだし」

     「えー!まじか!サンキュウ!たかちゃん」

     「別にいいけど、松尾、どうやって聞くんだよCD」

     「あそれは大丈夫。家にあるから」

     あーそう、と高橋は言うと再びスマホの画面に目を落とした。晴れやかな表情で見上げた松尾の視線の先では、天井のエアコンに付けられた細長い紙のペラペラが勢いよく波打っている。松尾は、思いのほか自分が興奮していたことに気づいた。


     「はいよ、こんなんしかなかったけど、袋」

     「全然。十分。ありがとねたかちゃん」

     「おう」

     松尾は茶色の紙袋の中を覗き込むと、CDジャケットを何枚か取り出してみた。

     「タカノリが帰ってきてたんだけど、松尾がCD借りたいって言ったら『あんなガラクタ欲しいなんて変わり者だな』って言ってたわ」

     「えなんで?」

     「そりゃ変わってるだろ。今andymoriをCDで聞くやつがどこにいるよ」

     「まあいいじゃんいいじゃん。じゃまた学校で」
     
     CDを聞くためには外付けDVDドライブというものが必要だということを日中図書館で下調べしていた松尾は、駅前のゲオで中古の外付けDVDドライブを探すために、市立図書館前のバス停へ向かっていた。

     松尾は、彼女が列に並んでいた今朝の情景を思い出していた。ミディアムボブのポニーテール。エメラルドグリーンのトートバッグ。両耳に付けた有線のイヤホン。彼女がしていたイヤホンには、何が流れていたのか。彼女はどんな曲を聞いていたのか。なぜその曲を聞こうと思ったのか。松尾は、高橋から借りたCDの中にそのどれかが入っていることを強く願った。

     松尾は歩く速度を落とし、今朝、松尾が列の最後尾に行こうとしたときに彼女が松尾のほうを見て少しバカにしたように笑ったときの表情を思い出そうとした。松尾はそのときの映像が瞼の裏で今もまだ鮮明に残っていることに安堵し、ゆっくりと脳内の再生ボタンを押す。今朝8時前の細かい雨が浮かび上がってくる。松尾は、列からはみ出してまで彼女の姿を見ようとする自分の愚行を誇らしく思った。そして、少しでも彼女の世界に自分が存在できたという事実をゆっくりと奥歯で噛み締めてみる。記憶から十分に絞り切った果汁を大きめの氷と一緒にグラスに入れ、炭酸水で割ったスカッシュを作るときのしゅわしゅわと音を立てて弾けていく音が、松尾の耳の奥の方で今でもずっと鳴っている。絞っても、絞っても出てくる記憶はまるで湧水のように強烈で、止め処なく流れ出す力強さは川を形成し、やがて海へと帰る一つの循環の一部に過ぎないことを教えてくれる。松尾は、今もなお広がり続ける海の中にぽつんと一人放り出された漂流者で、松尾は、大きな世界の中で、自分がここにいるということに気づき、このまま溺れて死んでもいいとさえ思った。

     「松尾くん?」

     「え?」

     「松尾、くんだよね?名前」

     記憶の中の人が、目の前にいる。松尾は理解が追いつかず、その場で固まってしまった。

     「おーい?松尾くーん?」

     現実の波が松尾の体内へ流れ込む。呼吸ができなくなるほどの海水を一気に飲み込んだときのような痙攣が、松尾の意識を朦朧とさせた。

     「大丈夫?」

     彼女は松尾の顔を少し覗き込むようにしながら言った。生まれて初めて見た生物を見る子どものような純粋無垢な眼差しは、松尾の瞳孔をゆっくりとした速度で、だが確実に突き刺していく。彼女の視線は、めりめりと音を立てながら記憶の中へと侵入を始め、瞼の裏の映像が、綺麗に立ち上がったまつげの奥にある彼女の瞳へと切り替わる音がした。

     松尾は、彼女の胸元に有線イヤホンの紐がだらりと垂れていることに気がつくと、体の内側から昨日見た記憶が燦然と立ち上がってくるのを確かに感じた。

     「あ」

     「ふふっ。大丈夫?」

     「イヤホン」

     「松尾くん、であってるよね?名前」

     松尾を見る彼女の瞳の輝きは変わらない。夕暮れ時に一際目立って見える一等星のような光は、松尾に昨日見た彼女の小さな耳を想起させ、松尾は自分の心拍数が体の内側から鳴り響いていることに気づくと、うん、と反射的に頷いた。

     「イヤホン?」

     「ああ、コード付きの、イヤホン」

     「あー、昔のやつ。なんか好きなんだよねー、昔の」

     彼女は視線を下げ、気まずそうな顔をしながら耳からイヤホンを外し、有線コードとウォークマンをぐしゃぐしゃと適当にまとめてトートバックの中に放り込んだ。2人がいるバス停にバスが到着した。

     「ウォークマンだよね、それ」

     「うん、そう。あバスきた。私乗らなきゃなんだ。松尾くん歩き?ごめんね呼び止めちゃって。じゃあ気をつけてね」

     「あおれもバス」

     バスに乗ろうとしていた彼女は松尾の声を聞いて後ろを振り向き、松尾を見た。松尾は、自分の顔をじっと見つめる彼女の大きな瞳に吸い込まれそうになった。


     バスの座席は全て埋まっており、バスの中間から前方にかけて吊り革を掴んで立っている乗客でいっぱいだった。松尾と彼女はかろうじて空いている人と人の隙間になんとか入り込むようにしてバスに乗り込んだ。

     発車します、という運転手のアナウンスが聞こえると、バスはバス停の乗降エリアから国道へ合流するために右へ傾いた。松尾と彼女は入り口付近の同じ手すりに捕まりながら、車内の揺れに必死で耐えた。

     人が密集した車内で、湿気がエアコンの冷気に弾き飛ばされながら頭上をくるくる旋回している。松尾は半袖のTシャツが背中に貼り付いているのを気持ち悪く感じ、自分と同じ手すりを掴んで体を小さく丸めている彼女も同じ気持ちなのかどうか気になった。

     松尾は視線を落とすと、窓側の1人席に座る男子大学生のスマホに映るが数十秒程度の短い動画が目に入った。画面には、短過ぎるスカートを履いた制服姿の女子高生3人が、スカートの中が見えそうな角度から撮影された、陽気な音楽とメロディに合わせて小さく手足を動かしている映像や、背景に三角柱や一つ目のシンボルが描かれたポスターが飾られた薄紫色の間接照明で照らされた部屋で、カメラ後方の美肌ライトを浴びた若いツーブロックの男性が、赤色と紫色の太字のテロップに合わせながら昨日行われた外国の首相同士の会談がを及ぼす日本への悪影響について伝える映像が映し出されていた。男は、スマホで見ることに特化した撮影方法と台本で制作された数十秒完結の短尺動画を間髪入れずに次から次へとスクロールしていて、後方から覗き見ている松尾もその流れに逆えず見入ってしまった。

     完全で清潔な世界の中で生きていると、忙しない反応の要求に、人間本来の感覚が麻痺してくることがある。反応とは世界との接触を開始させる行為であるが、新しい世界との接触機会が間髪入れずに提供される環境下では、1つの世界と関係性を構築することに手間をかけたり、感情を消費したりする時間は当然無く、無数の新しい世界と出会い続けることが緊縛な貢献を意味するため、コントロールされた快楽を浴び続けることが生き延びるための必須条件となっている。公共の場でマスターベーションをすることは法律的にも倫理的にも一発アウトだが、名前と時間と感情を対価として支払えば、バスの車内で指を動かすだけで快楽を受け取ることができる。きちんと対価を支払っているので他人の目につきやすい場所でゲームをしようがアダルトビデオを見ようが特段問題はない。ただ、誰もが持つ無形資産で支払うことができるということは、世界の平和のために嘘の情報を拡散したり、特定の人物を傷つけたりすることも平等の名の下にあり得る世界線であることを意味する。過剰な同時接続社会が擦り減らした人間の欲望は、体を動かさずとも、手を伸ばさずとも、指と目を動かすだけで満たされるまでに堕ちぶれた。人は、全てが手に入る縦長の世界に完全に閉じ込められ、松尾もアテンションの言うとおりに指を上下させ、川上から流されてきた流木のように特に理由もなくバスに乗っていた。

     運転手が松尾が降りるバス停をアナウンスしたので松尾は持っていた手すりに付いていた乗降ボタンを押そうとすると、松尾よりも少し先に彼女が乗降ボタンを押し、松尾の手は彼女の手に重なった。

     次停まります、という機械音が流れた。バスは交差点で右折をするために大きく右に傾いていく。座っていた乗客が立ち上がろうとして、すいませんと他の乗客に声をかけている。松尾は、周りの音がうるさくて口をパクパクさせている彼女が何を言っているのか上手く聞き取れない。不快だっただろうか。松尾は、昨日初めて会った彼女のことがなんとなく頭から離れなくて、彼女のウォークマンをネットで特定したり、無線インターネットの接続画面で彼女のIDを確認したりと少なからずストーカー紛いの行動に手を染めた。そんな自分が彼女の手に触れてしまった。松尾は、自分の行動を心から浅ましく思った。

     彼女が松尾に視線を合わせる。バス停で刺されたときと同じ鋭い視線の先端が、再び松尾を突き刺した。松尾は視線を外す。やっぱり怒っているんだ。松尾は、不用意に彼女に触れてしまったことをバスを降りた後に丁重に謝罪し、そのまま家に帰ろうと思った。調子に乗った罰が当たったんだ、もうこれ以上は安易に深入りしません、ごめんなさい。松尾は心の中でそう思った。

     バスが停まると、彼女は人を掻き分けながらバス前方の料金精算機へ歩みを進める。松尾も彼女の後を追う。人が密集した熱帯雨林のような車内を歩く松尾は、自分が今どこに向かっているのか、このまま進んでいってもいいのか、分からなくなっていた。

     「松尾くんもここで降りるんだ」

     料金を精算し終えた松尾に彼女は言った。松尾はバスの乗降口の階段を降りながら彼女に視線を戻すと、鋭かった視線は丸みを帯びていた。

     「あ、うん」

     「家、この近くなの?」

     「いや、家は新高のほう。これからゲオに行こうと思ってて」

     「え!私の家ゲオから超近いよ」

     彼女の目尻が下がる。大人びた顔立ちをしているのに幼い笑い方をする。彼女に対する松尾の第一印象はそれだった。外は、雨が強く降り始めていた。

     「入れてあげよっか、私の傘」

     「あ、いや、大丈夫」

     「傘、持ってないんでしょ。途中まで同じ道だからいいよ」

     彼女は、ちょっと小さいけど許して、と言いながらトートバッグの中からオレンジ色の折り畳み傘を出した。松尾は目の前で何が起きているのか分からず、自分がどうしたらいいか分からなかった。

     「ごめん、本当に大丈夫!」

     松尾は、高橋から借りたCDの入った紙袋を雨で濡れないように両手で抱き抱えて駅の方へ走り出した。

     彼女はあっという間に消えてしまった松尾の背中を目で追うと、オレンジ色の傘を広げ、彼の残像を自分の中に取り込むように、走っていく松尾を追いかけた。


     白白とした蛍光灯がうるさい店内で松尾は邦楽CDの陳列棚を眺めていた。

     駅の南口に面したロータリーから国道へ抜ける道路の角に建てられた雑居ビルの1階と2階にゲオは入っていて、1階は中古のハードウェアやゲームソフト、ゲーム機などが陳列されており、2階にレンタルDVDとCDが取り揃えられている。

     松尾は、髪の毛がびしょ濡れの松尾を見て驚いている店員には目もくれずに中古の外付けDVDドライブの場所を聞くと、その場所まで案内してもらい、いくつかある内の1番安価だった「980円」の値札が付いた箱を手に2階へと向かった。

     松尾は高橋から借りたandymoriの他のCDを探そうと、邦楽コーナーのアルファベットの「A」の札が差し込まれた棚を物色した。

     彼女はandymoriや、きのこ帝国や、フジファブリックを聞いているのだろうか。松尾はそんなようなことが気になったが、どうでもよかった。一昔前に流行っていた音楽はいったいどんなメロディで、どんなメッセージを伝えようとしていたのか。その音楽は誰が演奏していて、そのアーティストが活動を続けてきた背景にはどのような歴史が刻まれているのか。また、その音楽を聞いていたのはいったいどのような層の人たちなのか。1人のアーティストのどこに共感し、どのメロディに心躍り、どのフレーズに自分を重ねたのか。そして、それが一世を風靡していたその時代、人々の間でどのような熱狂が起きていたのか。松尾は、その当時の熱狂の残り香を少しでも感じるためには当時発売されたCDを聞くことが唯一の方法であると確信していた。世界中の情報にオンタイムでアクセスできるこの時代に、物質から情報を得るという行為が、松尾の内側でフツフツと煮えたぎる灼熱の情動を刺激した。

     「あ、松尾くん」

     「え、あ」

     「松尾くんもCD借りに来たんだー」

     「あ、あうん」

     「わたしもー」

     彼女は松尾の隣に来ると、「A」の列に並んだCDを目でなぞっていく。棚の1番上の列に陳列されたCDの中に挟まった「AKB48」と書かれた札の場所で目を止める。

     「松尾くんはなに借りるの?」

     「んー、andymoriとか」

     「へー。松尾くんも音楽聞くんだ」

     彼女は棚から「大声ダイヤモンド」と書かれたCDジャケットを取り出すと、しばらくそれを見つめ、元あった場所にCDケースを戻した。

     「何、聞くの?」

     松尾は恐る恐る彼女に聞いた。彼女は松尾に視線を合わせると、すぐに視線を外し、バカにしないでね、と言って手に持っていたスマホを力強く握った。

     彼女は、自分が生まれる前に結成されたアイドルやその楽曲を聴くことが好きだった。特にAKB48が好きで、松井珠理奈と前田敦子がダブルセンターを飾った2010年代頃の楽曲を熱心に聞いているのだと言った。ただ、アイドル好きの同級生は学校に何人かはいるが、AKB48を好きだという人には未だ出会ったことがなく、学校で寂しい思いをしているのだそうだ。話を合わせるために最近のアイドルの曲も一応聞いてみてはいるみたいだが、どれもAKBが一回やったことを繰り返してるだけで面白みがないらしい。

     松尾は、彼女が喋り終わるまで見つめていた。大人びた顔立ちの彼女が、自分の好きなものの話になるとこんなにも早口で喋るようになることを意外に思った。

     「わごめん!迷惑だったよね。私一気に話しちゃうところがあるから...」

     彼女から閃光の如く放たれていた色鮮やかな情熱は、みるみるうちに萎んでいき、小さくなって消えていった。ごめんなさい、と彼女は小さく肩を落とす。松尾は、彼女が肩に提げていたトートバッグに描かれた一際目立つエメラルドグリーンの幾何学模様がゆっくりと動き出し、万華鏡の中を覗いて見ているときのような不思議な感覚に襲われた。人気の無い薄暗い山中に足を踏み入れ、伸び切った草木の先にかかる白霧に引き摺り込まれそうなおどろおどろしさが、彼女の内側から放たれていた。

     「でも分かるかも」

     松尾は陳列棚に視線を移す。

     「いいよ、無理しなくて」

     「いや、無理とかじゃなくて。自分が生まれる前に流行ってた音楽とか、なんでこんなに流行ってたのかなーとか、マジで気になってCD借りに来たもん」

     「ほんと...?」

     松尾は、彼女の声が震えているように聞こえた。

     「だって、ほらこれ。アンディモリのCD」

     松尾は、高橋から借りたCDに入った紙袋の中からandymoriのCDを出して彼女に見せた。彼女は初めて見るアーティスト名とCDジャケットをまじまじと見つめている。彼女は、借りてもいい?と言って松尾からandymoriのCDを受け取ると、ジャケットの表面と裏面を交互に見比べる。時折、彼女の瞳孔が開くのが見て分かる。白く濁った霧に包まれた茂みに差し込んだ一筋の光が朝露に反射して森全体がキラキラ輝きだすように、彼女の瞳の奥で身を潜めていた一粒の感情が明るさを取り戻しているように見えた。

     「へええすごい。松尾くん、なんでも知ってるね」

     「別に。これは高橋から借りたやつだし」

     「でも松尾くんはそれをわざわざ借りたわけでしょ?すごいよ」

     彼女はありがとう、と言って松尾にCDを返すと、子どものように笑った顔を松尾に見せた。すらっと伸びた鼻には似合わない皺がぎゅっと寄せられていた。

     「松尾くん、ウチ寄ってかない?私の家こっから近いんだ。体冷えてるでしょ。タオル貸すし、傘も貸してあげる」

     彼女はほらいこ、と言って松尾の手を取る。彼女の森にかかっていた霧は消えかかっていた。


    2

     松尾は、まだ外付けDVDドライブの代金を支払っていないのに彼女に手を引かれたまま店の外に出ようとしたため出入口付近に設置されたブザーを鳴らしてしまい、店員に注意された。彼女は、松尾が店員に怒られながら代金を支払っている様子をレジの後ろから嬉しそうな表情で見つめていた。

     雨はパラパラと細かい雨に戻っていた。ゲオが入っている雑居ビル側の道を、駅の反対方向に30秒ほど歩いたところに彼女が住むマンションはあった。アーケードのある歩道から下へすっと伸びた階段の先にある自動扉と暖色の照明、両脇に植えられたきめの細かい葉っぱが枝にびっしりと付いた樹木の待ち構える玄関は、誰でも容易に立ち入ることはできない厳かな雰囲気を醸し出していた。

     彼女は自動扉をくぐり、インターホンが埋め込まれた機械に鍵を差し込んで室内の自動扉を開錠した。ベージュの壁で囲われた無機質なエントランスを抜け、誰も座らないであろう背の低いソファを横目に松尾と彼女はエレベーターの到着を待つ。大理石柄のエレベーターのボタン。濃い深緑の絨毯。腰の高さほどのテーブルに置かれた高そうな壺とそこに生けられた花弁がトゲトゲした花。松尾は、自分が今立っている場所から目に見えるもの全てが高そうなもののように見え、緊張した。

     「このマンション、私のおじいちゃんのなの。厳密にはちょっと違うけど」

     松尾は、へえと言い、緊張しているのがバレないようにもう一度辺りを見まわした。

     上からエレベーターが降りてきた。ドアが開くと、中にはスパンコールが敷き詰められた赤色のドレスを着た年増の女と黒色のスラックスとスウェットを着た長髪の男がいた。彼女は女の姿を確認するとすぐに視線を外し、中から出てくる2人に出口を作ろうともせずその場に立っていた。自動ドア側にいた松尾は特に中の2人に視線を向けず、一歩下がって出口を作る。雨で髪の毛と服がびしょ濡れの松尾が突然現れたことに驚いているのか、松尾は心なしか中から出てくる男女にじろじろ見られているような視線を感じた。彼女はスパンコールの女と入れ違うようにエレベータに乗り込み、松尾も後を追って中に入ると、彼女は「13階」のボタンと「閉」のボタンを両手で同時に押した。

     臙脂色の絨毯が敷かれた5畳ほどの広さのエレベーターには、さっぱりとしたレモングラスと重たいラベンダーの混ざった匂いがエアコンの冷風でかき混ぜられていた。松尾は、自分が着ている服や皮膚から水分が奪われていくのを感じながら、混ぜ合わせの悪い香水の匂いに気分が悪くなっていた。

     彼女はエレベーター内の上部に取り付けられた階が上がるごとに数字が変わっていく画面を見ながら、トートバッグの紐を掴む手には力が入っていた。


     松尾は、彼女から渡されたバスタオルで髪の毛やTシャツに染み込んだ水分を拭いた。バスタオルに馴染んだ柔軟剤の匂いが松尾の鼻を刺激し、松尾は一つくしゃみをした。

     「寒い?エアコン切るね」

     「ああごめん」

     彼女はエアコンのリモコンを手に取り、「切」ボタンを押す。エアコンの動作音が唸りながら消えていく。松尾は終始下を向いている。

     「どうしたの?」

     「いや、ちょっと目のやり場が...」

     彼女はニヤリと笑う。

     「えー?何がー?」

     「いやそれはずるいって」

     「のこのこ部屋に上がり込んだのはどっちかなー」

     「いやいやそんなのこっちが不利すぎるって」

     松尾は夏菜子の部屋の上部だけをなぞるように見まわした。壁にはカメラ目線のアイドルがポーズを取っているポスターが何枚も貼られ、本棚にはCDやDVDがびっしり並べられている。松尾は玄関に漂っていたラベンダーの匂いを嗅いで再び気分が悪くなっていたが、夏菜子の部屋は匂いがきつくなく、泡立てたばかりの石けんの匂いがほのかに香っていた。

     「初めて?女の子の部屋」

     「そりゃあ、まあ」

     「そーなんだ」

     沈黙が走る。

     「CD、すごいね」

     「ああ、集め出したら全部欲しくなっちゃって。ネットで中古で買ったり、ネットオークションとかで」

     「ウォークマンも?」

     「これは、まあ。あんま受け良くないから1人でいる時しかしないんだけどさ。やっぱ昔のものとか私好きで」

     「だよね分かる。おれも昔のもの好き」

     彼女の瞳が再び輝きを取り戻す。

     体を拭き終わった松尾は、自分の体の前でタオルを広げ、綺麗に畳み直そうとしている。

     「いいのに、そのままで」

     「いやいや、ちゃんと洗濯して返すよ」

     「セックス、したことある?」

     「え?」

     彼女の視線が松尾を刺す。

     「そう、セックス。松尾くん、したことある?」

     「えーと。あいや、ネットでしか見たことない。あ、」

     彼女の目尻が下がる。

     「あー。松尾くんまだ18歳じゃないのにエッチなの見てるんだぁ」

     「あ、ああ。見てない。見てないし、したこともない」

     「私もだよ。見てないし、したこともない」

      彼女はそう言うと、座っていたベッドから立ち上がった。ドアの前に立つ松尾に近づき、松尾の唇に自分の顔を一瞬重ねた。

     「そういうこと、じゃないんじゃない?」

     松尾は戸惑いながらそう言った。

     「え?だって。初めてだから」

     彼女は床を見て恥ずかしそうにしている。

     「いくらなんでも。だって、まだ付き合ってるわけじゃないし」

     「じゃあ付き合ってたらセックスしていいの?」

     再び沈黙が走っていく。

     松尾は、彼女にどんな言葉をかけたらいいのかわからずにいた。こういう時、どうすれば良いのだろう。松尾は、これから自分が起こす行動によって巻き起こる最悪の事態が次々と頭に思い浮かんだ。付き合ってもない高校生同士の性交渉。狭い町の中で、もし噂が立てば広まるのは時間の問題。町を歩けなくなるのはもちろんのこと、高校にも行きづらくなり、親の職場でも顔を刺されることになることは容易に想像がつく。新女の生徒に手を出した新高の男。今後数年間は人々の退屈な日常を彩るエンターテイメントとして消費される運命が松尾は見え、手が震えた。分からない。どんな未来が自分に降り掛かるのか。暗闇で、真っ暗で、先の見えない未来を見なければいけないのであれば、今自分が見えている範囲のものたちに囲まれて生きていく道を松尾は迷わず選ぶ。分からないことは分からない。それを思考停止だの、逃げてるだの言われても、松尾にとってはどうでもよかった。

     「分かんない。付き合ったこともセックスしたこともないから分かんない」

     「私だって分かんないよ」

     「じゃあなんで?」

     「分かんないから。付き合ったらどんな感じなのかとか、好きな人とセックスしたらどんな気持ちになるのかとか、分かんないから、知りたいんじゃん」

     「え、今好きな人って...」

     「本当にバカ!」

     彼女は鋭い眼光で松尾を突き刺し、部屋の外へ出た。松尾は、自分の心臓がこんなにも強く動いていることに驚いた。松尾は、彼女の唇に触れ、彼女の様々なことはいまだによく分からないが、彼女が自分のことを好きであることを知った。

     彼女が部屋に戻ってきて、何をしてたのか尋ねられた松尾は、ぼうっとしてたと答え、再び彼女の怒号を浴びた。

    3

     松尾と夏菜子が付き合い始めて2ヶ月が経った。

     梅雨らしい長い雨が降っていたあの日に体を重ねてから、松尾は夏菜子のマンションに通うようになった。松尾が夏菜子の名前を知ったのは、翌日マンションに来たときに、玄関の表札に彫ってあった「小鳥遊(たかなし)」の読み方を聞いたときだった。

     夏菜子の父親は外交官で海外を飛び回り、母親は夜の店で働いていると夏菜子は言った。夏菜子の母親は毎日夕方5時ごろに家を出るので、松尾は学校が終わると図書館前のバス停で夏菜子と待ち合わせをしては、夏菜子のマンションでセックスをし、夕飯の時間になると家に帰った。

     夏休みに入ると、松尾は毎日夏菜子のマンションに出入りした。母親が家で寝ている日中はトーワダのドトールで夕方まで時間を潰し、母親が出勤する時間を見計らって彼女の部屋に戻ると、夏菜子の最推しである松井珠理奈の卒業コンサートを2人で見たり、だらだらと意味のない会話で笑いあったりした後は、決まって流れのままにセックスをした。求めるのはいつも夏菜子からだった。

     松尾が泊まりにきて2日目の夜。夏菜子の母親から「帰りは大阪駅で乗り換えるから何か欲しいものはあるか」と夏菜子に電話がかかってきた。母親が夏菜子に電話をかけてくるときは決まって新しい彼氏と上手くいっている時か酒を飲み過ぎた時のどちらかで、夏菜子は、電話先の声で母親が酔っていなさそうなことを確認すると胸を撫でおろし、焼売とシュークリームを頼んで電話を切った。

     夏菜子は電話を切ると、ベッドの上でくつろぐ松尾に近づき、顔を寄せ、猫撫で声で唇をせがむ。ぐい、と寄せられる顔を松尾は視線で追い払う。ねえええと夏菜子は声を上げ、松尾の顔にムッとした顔を近づける。松尾の顔との隙間1センチ未満の距離。もう顔とは視認できないほどの近さで夏菜子と目を合わせる松尾は、気だるように息を吐いて体を反転させると、夏菜子の上に跨る体勢で夏菜子をベッドに押し倒した。

     夏菜子は、松尾の体を求めることでようやく自分を保つことができていた。重なり合うことは夏菜子が潰れる寸前の自分を救う延命措置でありながら、潰れそうであればあるほど重なり合ったときにより一層かさ増しする多幸感の味を夏菜子は何度も求めていた。

     仰向けになる松尾の上に跨がり、下腹部の奥まで入ったそれを感じながら上半身を松尾の上に倒す。もういっそのこと、重なって1つになればいい。自分という存在ごと、元々この世に存在していなかったことにして、松尾の体内で生きていく寄生虫にでも生まれ変われたらいい。1つになれていると頭と心がきちんと分かるまで、夏菜子は松尾を求め、松尾と重なることを渇望し続ける。夏菜子はその結果、たとえ顔をぐちゃぐちゃに潰され、身体の四肢を乱暴に引きちぎられたとしても、愛する人の胸に抱かれて死ねるのであればそれが本望だと感じ、それこそが幸せの絶頂だと思った。

     夏菜子は果てると急激な眠気に一気に襲われ、遊び疲れた子どものように眠ってしまう。数分前まで猫のような声で松尾を求め、自我を忘れたように松尾の上で腰を振っていた人物とはまるで思えない大人しさでベッドに倒れ込んだ夏菜子は、大量の砂糖を一気に接種したときのぼうっとした感覚に体を預け、全ての苦しみから解放された今はもう何の心配もいらないという安心しきった表情で眠りに落ちていった。

     松尾はすやすやと眠る夏菜子の枕元で夏菜子の頭を撫でる。松尾の方を向いて眠る夏菜子の耳に視線を移すと、松尾は小さくため息をついた。

     松尾は、夏菜子と一緒にいると無性に1人になりたくなった。本当はもっと時間をかけて、手間と暇を費やして、例えば勉強や部活以外に打ち込めることをやることが良いとされる人生を選んでみるのも良いと思った。それこそ例えば、当時人気だったバンドの曲をギターで弾けるようになってみるとか、パソコンで作ったマイベストアルバムをウォークマンで聞きながら夜中散歩してみるとか。1人で完結する充足感のある遊びは、世の中にごまんと存在していて、松尾はそれらとまだ出会っていないだけなのかもしれない。単調なリズムで進んでいく日常に恐怖を覚え始めたときから感じていた喉の渇きを潤す何かに、松尾はまだ出会えていないだけなのかもしれない。

     初めて夏菜子と出会った日の情景が松尾の瞼の裏をふわっと通り過ぎていく。夏というには早過ぎる日差しが、夏菜子の顔を明るく照らしていた。夏菜子が耳につけていた有線イヤホン。ピンク色のウォークマン。自分が生まれた年に流行った音楽。目新しくて懐かしい。最先端だけど尖りすぎてない。松尾は、自分の空っぽの器を見たしてくれるものであればどんなものでも口にできた。それは、夏菜子から向けられる好意でさえも松尾にとっては同じに思えた。これまで一度も松尾のほうから夏菜子を誘ったことはなかったが、行為中の、夏菜子の狂ったように自分を求める姿を見て、松尾は、最初はそれに応えようと必死になった。ただ、今は気持ちが乗っていないことに戸惑いがあった。

     付き合うということ。セックスをするということ。夏菜子と出会ったときに感じた瞬間的な胸の高鳴りとは明らかに異なる感情は、肌や指や性器が触れあうことで一粒、また一粒と松尾の中に確かに降り積もっている。長雨の季節には珍しい季節外れの雪が松尾を包み込み、やがて目の前に広がる一面の銀世界はきっと、次の松尾の住処となる場所だ。逃れられない退屈の先には、逃れられない苦しさを抱える夏菜子がいて、出会ってしまったという運命というものを、松尾は夏菜子の隣で考えながら夜を過ごした。

     灼熱の日差しの中、下のコンビニでアイスを買って夏菜子の部屋に戻ってきた松尾は、汗で体にまとわりついた黒色のパーカーを脱ぎ捨てると、すでに溶け始めているアイスを袋からゆっくり取り出した。20℃に設定された冷房の効いた部屋で、松尾はアイスを食べても、この後夏菜子と再びセックスをしてもいいこの状況をなんとなく理解した。

     松尾は振り返り、背後で子猫のように眠る夏菜子を見た。また暴れ出すかもしれないその時は、今度は自分ももっと上手くやろう、などと松尾は思った。

    #創作大賞2026   #恋愛小説部門

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