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「撫子さんと学ぶ 会計事務所の仕事」 新規顧問先担当編⑧

    第八章 開始残高を作る

    「発掘調査を始めますわよ!」
    みつ子さんが、白い手袋をはめて宣言した。
    金澤金属のプレハブ事務所。その床には、「昔の書類」と書かれた段ボール箱が六つ並んでいる。
    「その手袋、必要なんですか?」
    「古文書を扱う者の礼儀ですわ」
    「中身、八年前の申告書ですよね」
    「八年も眠っていれば、立派な古文書です」
    いや、八年前の書類を古文書扱いするのは早すぎる。

    撫子さんは笑いながら、箱の横に三枚の紙を置いた。
    一枚目には「前期末にあったもの」、二枚目には「前期末に残っていた支払義務」、三枚目には「確認待ち」と書かれている。
    「今日は、会計ソフトへ入れる開始残高を作ります。ただし、最初からぴったり合わせようとしないこと。確認できた数字と、まだ分からない数字を分けて進めましょう」

    加奈子さんが、新しく用意したファイルを開いた。
    「八年前の貸借対照表は、そのまま使えませんよね。この八年間で、預金も売掛金も機械も変わっているはずですから」

    みつ子さんは、箱から申告書控えを取り出すと、人差し指を左右に振った。
    「八年前の数字は、八年前の決算日に存在した資産と負債ですわ。今日作りたいのは、直前期末の数字。八年間に売掛金は回収され、新たな税金の支払義務が生じ、機械は増えたり減ったりしていますの」

    加奈子さんは、みつ子さんの手にある申告書控えへ目を落とした。  
    「でも、何もないところから作るよりは役に立ちますよね?」
    「もちろんよ」
    撫子さんが、古い貸借対照表を加奈子さんの前に置いた。
    「資本金、持っていた機械、敷金のように、その後を追う出発点にはなる。でも、その数字をそのまま持ってくることはできない。開始残高は、前期末の日付で本当に存在したかを一つずつ確かめて作るの」
    古い申告書は答えではない。
    答えを探すための、八年前の地図ということらしい。

    *

    最初は預金だった。
    加奈子さんが、会社名義の通帳を机に並べる。普通預金が二口と、ほとんど動いていない定期預金が一口。
    「決算日は三月三十一日です。ここを見ればいいんですよね」
    「ええ。翌日の残高ではありませんわよ」
    「一日くらい、同じじゃないんですか?」

    俺が言うと、みつ子さんの視線が鋭くなった。
    「三月三十一日に振り込まれ、四月一日に引き出された百万円があったら、同じと言えまして?」
    「言えません」
    即答した。
    通帳の三月三十一日の残高と、銀行が発行した残高証明書を照合する。普通預金は一致した。定期預金も、証書の番号と金額を確認できた。
    「預金、確認できました」
    加奈子さんが、チェック欄へ自分で印をつけた。

    次は売掛金だ。
    「決算日前に納品して、まだ入金されていなかった請求書を得意先別に集めますの」
    みつ子さんが請求書の束を広げる。俺と加奈子さんで、四月以降の通帳にある入金を一件ずつたどった。
    四月十日に入金された六十万円。請求書は三月二十五日付。納品書と検収書も三月中だった。
    「これは三月末の売掛金ですね」
    「その通り」
    撫子さんがうなずいた。

    一方、四月三日付の請求書でも、検収書の日付が四月二日なら前期の売掛金には入らない。
    日付だけを見ていると、簡単に迷子になる。
    「請求書、納品書、検収書、そして入金。四枚そろって、ようやく一つの債権の動きが見えるんですの」
    みつ子さんは得意先ごとの一覧表を作り、合計額だけでなく、相手先と請求書番号まで書き込んだ。
    「売掛金は金額が合えば終わり、ではありませんのよ。誰から、いくら回収する権利があるか。その明細まで説明できて初めて残高ですわ」
    俺は一覧表の数字をもう一度足した。
    一円、合わない。
    息を止めて見直すと、電卓に六と九を逆に入れていた。
    「雅之くん。発掘現場で遺物を捏造しないでくださる?」
    「入力ミスです!」
    加奈子さんが、口元を押さえて笑った。

    *

    買掛金と未払金は、逆向きに調べた。
    三月までに受け取った材料や外注加工のうち、三月末にまだ支払っていなかったものを、仕入先別に並べる。
    四月の通帳にある支払いから請求書を探し、請求書から納品書へ戻る。
    「後から前へ追うんですね」
    「資料が欠けているときは、お金が動いた記録から原因を探すのも一つの方法よ。ただし、四月に支払ったものが全部三月末の買掛金とは限らない。四月に納品された材料代が混ざっていないかも見るの」
    撫子さんの説明を聞きながら、加奈子さんは仕入先別の表を作った。
    外注先への支払いの中に、請求書が見つからないものが一件あった。
    加奈子さんはすぐに電話をかけ、先方へ再発行を頼んだ。
    初めて会ったときの加奈子さんは、目が合うだけでぺこりと頭を下げる、小動物みたいに頼りなげな人だった。
    ところが、いざ実務に向き合うと、意外なほど手が早い。分からないことに戸惑っても、次に何をすべきかが見えれば、すぐに動ける人なのだ。
    守ってあげたくなるタイプだと思ったのは、少し早計だったかもしれない。

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    税務調査後の未納税金については、七年分の申告書、納付書の控え、税務署などと決めた分納計画が一つのファイルにまとめられていた。調査を受けたのはつい最近だ。古い請求書とは違い、資料も未納残高も整理されている。

    「この一覧の残額が、今の未納分ですね」
    加奈子さんが、分納計画の末尾を指した。
    「ええ。未納残高そのものは、この資料で確認できるわ」
    撫子さんがうなずいた。
    「開始残高へ入れるときは、法人税、消費税、県税、市税などを分けておきましょう。それぞれ納付先も性質も違うから、まとめて一つの税金にしない方が、後で確認しやすいの」

    「貸借対照表には残っている金額を入れて、分納する日は別に管理するんですか?」
    俺が尋ねると、撫子さんは分納計画をこちらへ向けた。
    「そう。貸借対照表で分かるのは、決算日時点でいくら支払義務が残っているか。資金繰りでは、それをいつ払うかが大切になるの」
    加奈子さんは新しい表を開き、月ごとの納付予定額を書き写し始めた。
    「申告が終わっても、支払いが終わったわけではないんですね。毎月、先にこの金額を確保するようにします」

    みつ子さんが満足そうに顎を上げた。
    「過去の税金を、未来の予定表に変える。これでようやく、数字が時間を持ちましたわね」
    また壮大な言い方をしている。
    けれど、未納残高が分かるだけでは足りない。支払う日まで見えて初めて、会社は次の資金不足に備えられるのだ。

    *

    固定資産については、八年前の申告書に付いていた減価償却の明細を出発点にした。
    プレス機、ベンダー、溶接機、軽トラック。
    ただし、帳簿上の名前だけでは、工場に今もあるのか分からない。

    「固定資産は、工場の稼働を妨げない日を選んで、改めて一台ずつ現物を確認しましょう」
    撫子さんが「確認待ち」の紙へ明細を置いた。
    「もう処分した機械が残っていたり、反対に中古で買った機械が載っていなかったりするかもしれないわ」
    「機械にも戸籍調査が必要ですのね」
    みつ子さんは、なぜか白い手袋をはめ直した。
    調査対象が紙から鉄へ変わっただけで、本人のやる気は増している。

    そして、在庫。
    決算日の棚卸表は見つからなかった。
    「棚卸表はなくても、手掛かりはあるわ」
    撫子さんが、税務署の作った前期の損益計算書を開き、その一行を指した。
    「ここに、期末棚卸高が計上されているでしょう」
    加奈子さんが、指先を追って数字を確かめる。
    「この金額が、今期の最初の在庫になるんですか?」
    「ええ。直前期の期末棚卸高は、今期の期首棚卸高につながる。だから、開始残高の在庫は、まずこの金額を基準にできるわ」

    「では、在庫はこれで確定ですか?」
    俺が尋ねると、みつ子さんは損益計算書を持ち上げた。
    「合計額は分かります。でも、原材料がいくら、仕掛品がいくら、完成品がいくらなのか。その内訳表がありませんわ。それに、この金額が実地棚卸で確認されたものか、税務調査の際に仕入や売上から推計されたものかも、この一枚だけでは分かりませんの」

    材料置場に今ある鉄板を数えても、それは今日の在庫であって、三月末の内訳ではない。三月末前後の仕入、使用記録、納品記録をたどり、税務署の損益計算書にある合計額と整合するかを確かめる。算定根拠については、泰裕さんへの聞き取りに加え、税務調査時の資料が残っていないかも探すことになった。

    「金額はある。でも、中身と根拠が分からないんですね」
    「そう。ゼロから探すわけではないけれど、数字が一つ書いてあるだけで確認が終わるわけでもないの」
    撫子さんの言葉を、加奈子さんはノートへ大きく書いた。

    *

    確認できた金額を、俺は開始残高の一覧表へ入力した。
    預金。売掛金。定期預金。買掛金。未払金。そして、税目ごとに整理した未納税金。
    資本金は登記事項証明書と一致した。
    固定資産には「確認中」、在庫には「内訳・根拠確認中」の印をつける。
    左右を合計すると、差額が出た。
    三百八十六万円。

    「合いません」
    俺が言うと、みつ子さんは腕を組んだ。
    「当然ですわ。まだ確認中の項目がありますもの」
    「でも、会計ソフトへ入れるなら、左右を合わせないと登録できませんよね。差額を現金に入れておくのは――」
    三人の視線が、同時に俺へ向いた。
    「だめですね」
    言い終わる前に撤回した。

    みつ子さんが、赤いペンで「現金」と書いた仮の欄へ大きなバツをつける。
    「残高を合わせるためだけに現金を増やせば、存在しない札束を作ることになりますわ。では、社長借入金ならよい、などと言い出してはいけませんわよ」
    先回りされた。
    「実務では、分からない差額を社長借入金へ押し込んでしまうことがあるわ」
    撫子さんが静かに続けた。
    「でも、会社が社長から本当に借りたのなら、振込や立替払いなどの事実があるはず。金額の根拠がなければ、それは借入金ではなく、“まだ原因を確認していない差額”よ」
    撫子さんは、窓の向こうに見える工場へ目を向けた。
    「この差額については、お父さまにも確認していただいた方がよさそうね」
    「今なら、ちょうど作業の切れ目だと思います。呼んできます」
    加奈子さんがプレハブ事務所を出ていった。

    数分後、扉が開くと同時に、工場の機械音がひときわ大きく聞こえた。加奈子さんに続いて入ってきたのは、色の褪せた作業着を着た、がっしりした体つきの男性だった。
    「金澤泰裕です。現場を抜けられんで、挨拶が遅うなりました」
    深く刻まれた皺と、油の染みた太い指。帳簿よりも鉄に触れてきた年月が、その姿に残っている。
    俺たちも改めて名乗り、泰裕さんに開始残高一覧表を見てもらった。  

    泰裕さんは、一覧表を黙って見ていた。
    やがて、太い指で未払金の欄を指した。
    「会社の口座に金が足りんとき、俺の口座から材料屋に払ったことがある。給料を立て替えた月もあった」
    加奈子さんが父親を見る。
    「そんな話、聞いてない」
    「言うても、心配させるだけやと思ってな」
    その声は小さかった。
    七年間、帳簿から逃げていた人。
    でも、会社から逃げていたわけではない。
    納期を守り、従業員へ給料を払い、材料を仕入れるために、自分の金をつぎ込んでいた。それを記録する余裕も、誰かに説明する勇気もなかったのかもしれない。

    撫子さんは、泰裕さんを責めなかった。
    「その支払いが分かる通帳や振込票は残っていますか?」
    「家の金庫に、古い通帳があるはずや。それと、払った先を書いた手帳も」
    「では、確認できたものだけを役員借入金として計上しましょう」
    「全部、社長借入金にするんじゃないんですか?」
    加奈子さんが尋ねた。
    「ええ。お父さまが負担した事実を確認できた分だけです」
    撫子さんは、差額の横に線を引いた。
    「残りは、在庫や固定資産の確認不足かもしれないし、ほかの債権や債務が抜けているのかもしれない。原因を探さず、便利な科目へ入れてしまったら、これから作る帳簿まで曖昧になるわ」

    みつ子さんが白い手袋を外した。
    さっきまで発掘隊長の顔をしていたのに、今は真剣だった。
    「開始残高とは、左右を合わせる作業ではありませんの。会社が何を持ち、誰にいくら払う義務があり、これまでの結果として何が残っているのか。それを一つずつ言葉にする作業ですわ」
    加奈子さんは、父親の方へ向き直った。
    「お父さん。古い通帳、一緒に探して。これからは、会社に入れたお金も、会社から戻したお金も、私に分かるようにしてほしい」
    泰裕さんは少し目を伏せ、それからうなずいた。
    「分かった。今度は、隠さんと出す」
    短い返事だった。
    けれど、その一言は、数字を合わせるより大きな何かを動かした気がした。

    *

    その日の終わり、開始残高一覧表には三種類の印がついていた。
    青は、外部資料まで確認できた金額。
    黄色は、資料を取り寄せれば確認できる金額。
    赤は、現物や聞き取りが必要な金額。
    完成した貸借対照表ではない。
    それでも、何が分かっていて、何が分かっていないかは見えるようになった。

    「これを会計ソフトに入れるんですか?」
    「確認済みの項目から仮の開始残高として登録します」
    撫子さんが答えた。
    「ただし、確認中の差額を現金や役員借入金へ入れて完成したことにはしない。固定資産と在庫を調べたあとで修正し、根拠資料と一緒に確定させましょう」

    みつ子さんが、確認待ちの減価償却明細を持ち上げた。
    「次の調査対象は、工場の機械ですわね」
    窓の向こうでは、夕陽を受けたプレス機が、巨大な影を床へ落としていた。
    泰裕さんが、その機械を見つめる。
    「あれは、もう二十年以上使っとる」
    その声には、単なる設備の年数とは思えない響きがあった。

    「では、このまま工場へ参りましょう!」
    みつ子さんが、再び白い手袋をはめた。
    「待って、みつ子さん」
    撫子さんが穏やかに制した。
    「今日はもう遅いし、工場はまだ動いているわ。機械の確認で作業を止めないよう、加奈子さんと日程を調整して、日を改めて伺いましょう」
    「仕方ありませんわね。では次回、鉄の遺跡を隅々まで調査いたしますわ!」
    いや、稼働中の工場である。

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    俺は古い減価償却明細と、窓越しに並ぶ機械を見比べた。
    明細に書かれた名称だけでは、どの機械を指すのか分からない。今も使われているのか、すでに処分されたのか、それとも新しく加わった機械があるのか。
    答えを出すには、日を改め、一台ずつ現物を確かめるしかない。
    紙の上の工場と、本物の工場。その対応表は、まだ白紙のままだった。  

    第九章につづく・・・


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