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過去の自分を救うように、今のママ達に手を差し伸べる。そして未来の希望を共に夢見て

    私の1番幼い頃の記憶は、3歳くらいの夜だ。
    部屋の布団の上で、私は激しく泣いていた。

    怒り狂った父が、10歳の長女に馬乗りになって暴力を振るっている。次女は泣く私をあやしながら長女を助けようとし、末っ子の私は、姉たちに守られながら、ただ泣くことしかできなかった。

    私の父はお酒に溺れては暴れる人だった。
    仕事を無断欠勤してはクビになり、朝から晩までお酒漬けの毎日。

    4歳の頃、働かない父に代わり、母が夜の仕事に出かけていることを知った。
    夜、キレイにお化粧をする母。
    家計の事情を知らない私は 毎晩、母に捨てられるような恐怖から「ママ、行かないで」と泣き続け、困った顔で出ていく母を見送っていた。

    6歳の頃、その日も突然だった。
    顔を真っ赤にした父が部屋から出てきて怒鳴り散らし、突如、家のカーテンに火をつけたのだ。

    激しくなる炎の中に、父は私たち3姉妹の服を投げ込んだ。母は「外に出ていなさい!」と私たちを逃がし、1人で必死に消火した。
    玄関扉、新聞受けのスキマから見えた、泣きながら火を消す母の姿は、今でも忘れられない。

    教室で1人泣いていた、あの頃の私

    小学生になると、私の朝はいつも1人だった。暗闇の中でテレビをつけることから始まり、朝ごはんはない。夜勤明けで泥酔して寝ている母に「ママ起きて、学校行くの見送って」と、泣きながら揺さぶり起こしていた。
    それでも毎日学校へ行った。

    ある日の帰り道、後ろを歩く同級生が「かおりっていつも同じ服だよな、貧乏なのかな」と笑う声が聞こえた。
    その時初めて、着替えは毎日するものなのだと、うちは貧乏なのだと知った。

    お風呂の習慣もなく、シラミの常習だった。
    楽しみにしていたプールの朝、保健室のチェックで「まだ卵がある」と言われ、プールバッグを抱きしめて1人教室で泣き過ごしたこともある。

    小学3年生の頃、経済的な理由から忘れ物の常習だった。図工の時間、絵の具セットがない私は「お腹が痛い」と保健室へ逃げるスベを覚えた。先生からは「忘れ物をするとお腹が痛くなる便利な体ね」と突き放される。

    小学6年生になり、多感な時期を迎えた私は、給食費すら払えないのに、お酒にお金を使い、いつも母を苦しめる父への憎しみを募らせていった。


    「我が家には妖怪が住み着いている…

    …あいつを殺そう」


    本気で思った。

    そのことで頭がいっぱいになる。

    ある日、めずらしく帰ってきた姉に胸の内を明かした。すると姉は、「あんたがやらなくていい。かおりがやる前に私がやる。私も、お姉ちゃんも、何度も同じことを考えてきたから」
    と言ってくれたのだ。

    1人で憎しみを抱えていると思っていた私は、姉たちも同じ気持ちだと知り、少し心が救われた。その後、父が理不尽に暴れなくなったため、決行せずにすんだ。

    「明日は我が身」と絶望した、ワンオペ育児

    決して不幸自慢をしたいわけではない。
    私よりも過酷な環境にいる人たちは、私が暮らす沖縄にはたくさんいる。

    けれども、これらは人と比べるものではなく、それぞれが痛みを抱え、それを胸に、今を生きていることを理解し合いたいのだ。

    子ども時代の経験から、いつもテレビで見ていた「ちびまるこちゃん」や「サザエさん」のような温かい家庭を築くことが夢だった私は、25歳で結婚し、3人の子宝に恵まれた。

    しかし、「温かい家庭」を築くことは、自分の想いだけでは難しいと知る。結婚を機に移り住んだのは、知り合いが誰もいない横浜の地だった。

    初めての子育て。
    ずっと抱っこしていないと激しく泣く我が子。

    心身ともにギリギリだった。

    虐待のニュースを見ては「明日は我が身」と絶望し、「私が死ぬか、この子を殺すか、どっちが先だろう」と本気で思い詰めた。

    そして願った。

    「誰か私の代わりに、この子を育ててくれませんでしょうか」

    その時の私には、SOSを出せる場所がなかった。この時の経験が、今の私の「子育て支援」の活動につながっている。

    その後、仕事で忙しかった夫との関係をうまく築くことができず、会話も目も合わせられなくなり、長い別居期間を経て離婚にいたった。

    消耗と決別を乗り越えて、私が選んだ「活動縮小」という大きな決断

    子ども時代、ママ時代の苦難を乗り越え、自分のやりたいことを一歩ずつ積み重ね、2020年に沖縄県那覇市で「子どもの居場所こばんち」という活動を始めた。

    最初は月に1回の開所から、少しずつ活動を広げた。
    大きな転機はこばんち3年目、42歳の頃。
    初めて人件費に充てられる高額な助成金に採択された。これまでの活動資金の10倍を超える額で、大きな希望となった。

    しかしその後、お金の持つエネルギーの怖さを知る。「予算の消化」「人を雇う難しさ」「成果報告」に消耗し、これらをこなすことに精一杯になって、本来やりたかったことが見えなくなっていった。

    こばんち4年目、43歳の頃には、人間関係の壁にぶつかった。公私共に仲良く、初回からこばんちを手伝ってくれていた友人との訣別。
    些細なことから大きくこじれ、私への誹謗中傷が書かれた22ページのPDFが家族やスタッフに送られるなど、異常な状況が約半年間続いた。

    最終的に弁護士に介入してもらい終息したが、この経験から、自分の力で解決できない問題は専門家に頼る必要性を痛感した。

    そして、居場所活動を始めて6年目を迎えた2026年現在。

    私は大きな決断をした。
    助成金の活用期間を終え、2026年2月末でこばんちの活動を大幅に縮小し、スタッフも解散したのだ。

    その後3ヶ月間、体調不良とメンタルダウンに苦しみ病院を巡った結果、「甲状腺機能低下症」だと分かった。うつ病や更年期障害と間違えられやすく、気づかれにくい病気だそうだ。

    みんなの心に育つ「夢の種」

    活動は縮小したが、これからは経営基盤を強化のため、収益事業を育てることに専念している。

    こばんちの発展の先には、私にはどうしても叶えたい〈大きな夢〉がある。
    それは、地元沖縄に 子どもに特化した複合施設「子どもの城」を作ることだ。

    子どもたちを中心に「遊ぶ・学ぶ・食べる・経験する・繋がる・稼ぐ・貢献する」を1ヶ所に集約し、それらを支える「大人たちが集う場所」にする。

    さらに、24時間365日開所し、夜に居場所がない子どもたちが「ここなら行ける」とかけこめる場所をつくること。

    この妄想に近い夢を、仲間や、出会ってきたママたちに話してきた。厳しい環境で過ごしてきた人たちも、みんな目をキラキラさせて共感してくれる。
    私が子どもの頃も、ママをしている今のこの時にも、そんな場所があったらどんなに救われるだろうかと。

    先日、体調不良を報告した際に、ママたちから温かいメッセージをもらった。

    「今のうちに休んでください!かおりさんはいつかみんなの休憩スペースを作る夢がありますからね」

    「子どもの城、楽しみにしています。今の私には何もできないけど、夢が叶う頃には私も力を貸せるようになりたいです!」

    ときおり、こうやって私に夢を思い出させてくれる人たちがいる。

    あぁ、この人たちの心に〈夢の種〉が育っているんだなと気付かされ、温かい気持ちになる。

    別々の道を歩んできた私たちだけれども、未来で「人生が重なる瞬間」を思うだけで、今を生きる希望になる。

    「子どもの城計画」が、少しずつ“みんなの夢”になり始めているのを感じている。

    私の活動は、まだ始まったばかりだ。

    子どもやママたちが困った時に
    「そうだ、こばんちへ行こう」
    と思い出してもらえる存在になるために。

    私は、あの日泣いていた過去の自分を救うように、今のママたちに手を差し伸べながら、〈子どもの城〉の実現に向けて、これからも歩み続ける。

     
     
    沖縄那覇にて《子どもの居場所こばんち》活動。親子向け「お金の教室」を準備中。生まれ育った環境に左右されることなく、子ども自身が持つ《可能性の種》の成長を支援できるよう、子どもに特化した複合施設「子どもの城」計画。学校では学べない?〈自立するスキル〉を習得できる環境をつくる。