世にも奇妙な小噺 ~いいね貯金 家族愛編~
あらすじ
娘の病気を治したい―その願いをかなえるため、父親は「いいね貯金」のポイントを集め始める。人助けを重ねるほど数字は増えていくが、いつしか彼の目は娘ではなくポイントへ向かうようになる。命を危険にさらしてもポイントを集め続ける父親の最後の選択はー。
仕事を終えた彼が向かったのは、自宅ではなかった。
病院の自動ドアを抜け、白い廊下を歩く。右手にはコンビニの袋、左手には書店の紙袋を提げていた。中に入っているのは、娘の好きな菓子と、新しい絵本だった。
病室の扉を開けると、娘はベッドの上でテレビを見ていた。
「ただいま」
彼が声をかけると、娘が振り向いた。
「お父さん」
その一言で、顔がぱっと明るくなる。
彼はベッドの脇に椅子を寄せ、紙袋から絵本を取り出した。
「ほら。新しいの買ってきたぞ」
「ありがとう。あとで見るね。」
娘の目は、まだテレビに向いたままだった。画面には、青く光る巨大な水槽が映っている。暗い水の中を、半透明のクラゲが漂っていた。
彼もつられて画面を見た。
「クラゲ、好きだったっけ」
「うん」
娘は目を離さないまま答えた。
「本物、見てみたいな」
ベッドの反対側にいた妻が、小さく笑った。
「前から、水族館に行きたいって言ってるの」
「大きいクラゲ、いるんだよ。青いやつ」
娘がようやく父親を見る。
彼は何も考えずに言った。
「じゃあ、今度見に行こう」
娘の目が大きくなった。
「ほんと?」
「ほんと。三人で行こう」
隣で妻の表情がわずかに曇ったことに、彼は気づいていた。娘の体調では、長時間の外出は難しい。医師からも、今は病院の外へ出ること自体を止められている。
それでも、つい漏らしてしまった一言を娘の前で訂正する気にはなれなかった。
「やった」
娘は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、何とかなるような気がした。いや、何とかしてやりたいと思った。
面会時間が終わるころ、娘は眠っていた。
彼は妻に「また明日」と告げ、一人で病院を出た。外はすっかり暗くなっていた。
駐車場へ向かう途中、冷たい風が吹き抜ける。コートのポケットへ手を入れたところで、スマートフォンに指が触れた。何となく取り出すと、ホーム画面の見慣れたアイコンの中に、一つだけ異質なものがあった。
「いいね貯金」。いつから入っているのか、彼にも分からない。誰かから本心で感謝されると、ポイントが加算されるらしい。
最初は気味が悪かった。だが、職場で人を手伝ったり、困っている人に声をかけたりするたび、本当にポイントは増えた。だから最近では、存在そのものには慣れていた。
分からないのは、そのポイントを何に使うのかだった。今まで何度開いても、画面には残高しか表示されなかった。
彼は何気なくアプリを開いて、見覚えのない項目が増えていることに気付き、足を止めた。

「……願い?」
声が漏れた。
さっき病室で口にしたばかりの言葉だった。画面のさらに下を見た。
現在:126pt
必要ポイント:100pt
画面の下には、今までなかったボタンが淡く光っていた。彼はしばらく、その画面を見つめていた。もう一度、願いの文を読む。
娘と水族館へ行きたい
なぜこんなものがいきなり表示されたのか、考えても分からなかった。
ただ、百二十六という数字のうち、百を使えることだけは分かった。
翌朝、会社へ向かう前に、彼は駐車場に停めた車の中で、もう一度アプリを開いた。願いは消えていなかった。
「まさか……」
本当に水族館へ行けるようになるのか。そんなはずはない。ポイントが増えること自体、すでに十分おかしな話なのだ。だからといって、願いまでかなうなんて。
彼は笑いかけて、やめた。もし何も起きなかったとしても、失うのは百ポイントだけだ。そもそも、何に使えるのかも分からない数字だ。
指を伸ばしかけて、一度ためらった。しかし、意を決したようにボタンを押した。
126pt → 26pt
数字が変わり、ボタンの光が消える。それだけだった。
彼は数秒、画面を見つめていた。何も起きない。
「……だよな」
スマートフォンを助手席へ置いた。
自分でも、少し期待していたことがおかしかった。
エンジンをかけ、会社へ向かった。
昼過ぎになり、仕事をしていると、スマートフォンが震えた。画面には病院の名前が表示されている。彼はすぐに席を立った。
「はい」
『娘さんの今日の検査結果ですが』
医師の声に、反射的に背筋が伸びる。
『少し、数値が安定しています』
「……はい」
『体調がこのまま落ち着いていれば、短時間の外出なら検討できるかもしれません』
一瞬、意味が分からなかった。
「外出……ですか」
『もちろん、無理のない範囲でですが』
電話を切ったあとも、彼はしばらくその場に立っていた。
やがて、自分の机へ戻り、伏せていたスマートフォンを手に取り、「いいね貯金」を開いた。
百ポイント。
昨日まで外へ出られなかった娘。
そして今日、突然知らされた外出の許可。
ただの偶然かもしれない。むしろ、それ以外に説明のしようがない。
それでも彼には、百ポイントが娘との一日を作ったように思えた。
数日後、三人は水族館にいた。 娘は車椅子に座り、膝には小さな毛布をかけている。
病院の外へ出るだけでも、ずいぶん久しぶりだった。
入口に並んでいた魚の写真を見つけただけで、娘は嬉しそうに父親を呼んだ。
「お父さん、見て。これいるかな」
「中にいるんじゃないか?」

館内へ入ってからも、娘の声は途切れなかった。水槽が変わるたび、娘は何かを見つけた。
彼はそのたびにスマートフォンを取り出した。
笑っている顔。水槽を指さしている横顔。妻と話している姿。
一枚でも多く残しておきたかった。
やがて、三人は照明の落とされた部屋へ入った。
娘が声を失った。青い光の中に、いくつものクラゲが浮かんでいた。半透明の身体がゆっくりと開き、閉じる。上へ向かっているのか、下へ落ちているのかも分からない。
「きれい……」
娘がつぶやいた。
青い光が、その頬を照らしていた。
彼はスマートフォンを構えた。画面の中に、クラゲと娘の横顔が収まる。シャッターを押そうとして――やめた。スマートフォンを下ろした。
妻が隣へ来て三人で並んだ。
誰も一言も発さず、ただ、クラゲだけを見つめていた。その時間がどれくらい続いたのか、彼には分からなかった。
帰り際、娘は売店で小さなキーホルダーを見つけた。半透明の青いクラゲが、銀色の輪からぶら下がっている。
「これがいい」
娘は嬉しそうにキーホルダーを掲げた。
「病気が治ったら、また来ようね」
彼の返事が、一瞬だけ遅れた。
娘は気づいていない。
彼は笑い、娘の頭をなでた。
「うん」
妻がスマートフォンを構えた。
「二人とも、こっち向いて」
娘がクラゲのキーホルダーを掲げる。
彼はその隣に立った。
シャッター音が鳴った。写真の中で、三人は笑っていた。
水族館から戻ると、娘はまた病院での生活に戻った。

あの日の写真は、窓際に立てかけられていた。青い水槽を背に、クラゲのキーホルダーを掲げて笑う娘。その隣で、彼も笑っている。写真の下には、売店で買った青いクラゲが置かれていた。
しばらくのあいだ、娘の体調は安定していた。けれど、それは病気がよくなったという意味ではなかった。
ある日の夜、彼が病室へ入ると、娘はもう眠っていた。ベッドのそばでは、妻が医師から渡された書類を読んでいた。
「先生、なんて?」
彼が小声で聞くと、妻は書類を閉じて、浮かない表情を浮かべた。
「治療を変えるかもしれないって。今のままだと……難しいみたい」
彼は娘の顔を見た。眠っているだけなら、いつもと変わらないように見える。
枕元には、青いクラゲのキーホルダーが置かれていた。
水族館では、あんなに元気に笑っていた。
ほんの少し前のことなのに、ずいぶん遠く感じた。
病室を出たあと、彼は人気のない廊下の椅子に座った。何をするでもなく、しばらく床を見ていた。
やがてポケットからスマートフォンを取り出した。指は自然に「いいね貯金」のアイコンへ向かっていた。
画面が開くと、願いが変わっていた。

「……千二百」
思わず声に出た。
水族館は百ポイントだった。その十二倍。今の残高では、到底足りない。普通なら、そこで諦める数字だったかもしれない。
けれど彼は、画面を閉じなかった。
百ポイントで、娘は水族館へ行けた。あれが本当にアプリの力だったのだとしたら。
千二百ポイントあれば、本当に娘の病気そのものを治せるかもしれない。
不可能だと思うより先に、別の考えが浮かんだ。
「貯めればいいんだ」
声に出してみると、それはひどく単純なことのように思えた。
千二百。
遠い。けれど、ゼロではない。
必要な数字は見えている。何をすれば増えるのかも知っている。
彼は病室の扉を少し開けて、中を見た。娘は眠っている。妻はその横に座っていた。
彼はもう一度、画面を見た。そして、スマートフォンを強く握った。
それからは、以前よりも周囲を見るようになった。
会社では、大量の資料を抱えている同僚がいれば手を貸した。
残業している後輩がいれば、仕事を引き受けた。
来客が忘れ物をしたと聞けば、わざわざ駅まで届けた。
仕事帰りの駅では、階段の前で困っている人に声をかけた。
「持ちますよ」
「え、いいんですか」
「大丈夫です」
重い荷物を持ち上げ、目的地まで運ぶと相手が頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
ある時には、道に迷っている高齢の夫婦を、目的地の近くまで案内した。
またある時には、駅前で気分を悪くした人を、近くのベンチまで連れていった。
数字は少しずつ増えていった。
最初のうちは、彼自身の行動は以前とそれほど変わらなかった。もともと、困っている人を放っておけないところはあった。
違うのは、そのあとだった。誰かに「ありがとう」と言われて別れたあと、数歩歩いて、それから、スマートフォンを見る。それが一つの流れになった。
ポイントが増えていると、胸の奥が少し軽くなった。
今日も娘に近づいた。そんな気がした。
病院へ着く時間は、少しずつ遅くなった。
ある夜、病室の扉を開けると、娘はもう眠っていた。
妻が時計を見た。
「今日も遅かったね」
「駅で、ちょっと困ってる人がいて」
「仕事もあるんだから、無理しないでね」
「大丈夫」
彼は娘のベッドの横へ座った。
眠っている娘の手を握る。小さく、少し冷たい。
そのそばに、クラゲのキーホルダーが置かれていた。
彼は娘の顔を見ながら、もう片方の手でスマートフォンを開いた。
現在:384pt
必要ポイント:1200pt
まだ三分の一にも届いていない。思ったより増えない。
それでも、三百八十四という数字を見ると、何もなかった頃よりは確実に前へ進んでいると思えた。
娘の手を握りながら、彼は画面を見つめた。
娘は、病室で絵を描くことが増えていた。
魚。水槽。青いクラゲ。三人で並んでいる家族の絵。
ある日の夕方、彼が病室を訪れると、娘は何かを隠すようにスケッチブックを胸に抱えていた。
「何描いてるんだ?」
「まだ秘密」
娘はそう言ってにやりと笑った。
その日は、仕事帰りに二人を手伝っていた。
一人は駅の階段で大きな荷物を持っていた。
もう一人は、道端で自転車のチェーンが外れて困っていた。
どちらも感謝してくれた。通知も来ていた。
彼はベッドの横に座り、スマートフォンを開いた。今日の獲得ポイントを確認すると、残高が少し増えている。
「お父さん」
「ん?」
「これ見て」
娘がスケッチブックを開いた。
「クラゲ、描いたの」
「うん」
彼は答えた。視線は、まだ画面にあった。
「見てるよ」
娘は絵を持ったまま、待っていた。
彼は数字を確認していた。
今日の分を足しても、まだ必要ポイントには遠い。もっと効率よく集める方法はないだろうか。
「せっかく来たんだから、この子を見てあげて」
妻の声で顔を上げた。
「見てるよ」
「スマホじゃなくて」
言われて、彼はようやく娘を見た。
娘はもう、スケッチブックを膝の上へ戻していた。
「ごめん。見せて」
「もういい」
娘は絵を裏返した。
彼は何か言おうとした。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
短い通知音が聞こえて、反射的に、視線が下がった。
ほんの一瞬だったが、妻は、それを見ていた。
彼はすぐにスマートフォンを伏せた。
「ごめん」
娘は何も言わなかった。
伏せた画面の中で、数字だけがまた増えていた。
それから彼は、少しずつ気づき始めた。
同じ「ありがとう」でも、増える数字は違う。
荷物を持ったとき。道を教えたとき。落とし物を届けたとき。
それぞれ感謝はされる。けれど、相手が本当に困っているほど、数字は大きくなる。
ある雨の日、駅前で、一人の男性が転んだ。足をひどく捻ったらしく、自分では立ち上がれない。
彼はすぐに駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「すみません……足が……」
肩を貸すだけなら、駅員を呼んでもよかった。近くのベンチまで連れていくだけでもよかった。
けれど彼は、男性を診療所まで連れていった。着いたころには、自分のシャツまで雨で濡れていた。
「本当に助かりました」
男性は何度も頭を下げた。
少しして、通知が鳴る。
+62pt
彼は画面をしばらく見つめた。これまでの細かな人助けとは、明らかに違った。
別の日、配送用の荷台が傾き、一人の作業員の足が下敷きになっていた。
周囲にいた人たちと一緒に荷台を持ち上げる。手のひらが荷台に積まれていた段ボールに擦れた。
作業員を引き出したあと、救急隊が到着した。
その日の通知は+91ptだった。
また別の日、道路の真ん中で、一台の車が動かなくなっていた。後続車が次々と減速し、クラクションが鳴っている。運転手は一人で車を押そうとしていた。
彼は車道へ出た。
「一緒に押します」
二人で力を合わせ、どうにか路肩まで動かした。車が通り過ぎるたび、すぐ横を風が抜けた。
終わったあと、運転手は何度も礼を言った。
+98pt
数字は大きくなっていった。
その代わり、彼の身体には小さな傷が増えた。手の甲の擦り傷。肘の青あざ。脛にできた赤い傷。シャツの袖を下ろせば隠れるものもあった。けれど、すべてを隠すことはできなかった。
「お父さん、けがしたの?」
病室で、娘が彼の手を見つけた。手の甲には、小さな絆創膏が貼ってある。
「ああ、これ?」
彼は笑った。
「ちょっと転んだだけ」
「痛くない?」
「全然」
娘は心配そうに、絆創膏の上へそっと指を置いた。
その小さな指先を見ていると、一瞬だけ胸が詰まった。
妻が向かい側から彼を見ていた。
「最近、けが多くない?」
「たまたまだよ」
「何してるの?」
「別に」
彼はそれ以上聞かれないように、スマートフォンをポケットへ入れた。画面には、さっきまで数字が表示されていた。
現在:742pt
必要ポイント:1200pt
あと四百五十八。
以前なら途方もない数字だった。
今は違った。
大きな感謝なら、一度に数十ポイント入る。状況によっては、もっと。
そう考えるようになっていた。
時間が足りない。娘の病状がどうなるか分からない。
だから、小さな感謝を一つずつ積み上げている余裕はない。
彼の中で、そんな考えが少しずつ当たり前になっていった。
その日は、仕事を終えるのが遅くなった。会社を出たころには、辺りはすっかり暗くなっていた。
駅へ向かって歩いていると、少し先の空が赤く揺れているのが見えた。最初は工事の明かりかと思った。
けれど、近づくにつれて、人が集まっているのが分かった。
古い建物の一階から、黒い煙が上がっていた。火事だった。

道路の反対側には、何人もの通行人が立っている。スマートフォンを向けている人もいた。
建物の前で、一人の女性が叫んでいた。
「息子がまだ中にいるんです!」
声がかすれていた。
「誰か……!」
炎のはぜる音が聞こえる。
遠くから消防車のサイレンが近づいてくるが、まだ距離があるようだ。
彼は足を止めて建物を見た。
そのあと煙を見て、今度は女性を見る。
頭の中に、数字が浮かんだ。ポケットからスマートフォンを取り出す。
現在:742pt
必要ポイント:1200pt
四百五十八ポイント。
画面を閉じようとしたとき、ロック画面の水族館で撮影した写真が一瞬だけ見えた。
青い水槽。クラゲのキーホルダーを掲げて笑う娘。
彼は画面を見つめた。
建物の奥から、何かが崩れる音がした。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
彼はスマートフォンをポケットへ入れた。
そして、意を決したように建物へ向かって走った。
「ちょっと!」
「入るな!」
声が背中から飛んでくる。
彼は腕で口元を覆い、そのまま煙の中へ入った。
中は、ほとんど何も見えなかった。目が痛み、喉が焼けるようだった。一歩進むたび、熱が身体にまとわりつく。
「誰か!」
声を出した。すぐに咳き込んだ。
返事はない。
天井のどこかで、木材が爆ぜた。
引き返した方がいい、頭のどこかでそう思った。けれど、足は奥へ進んだ。
娘の顔が浮かぶ。
あと四百五十八。
ここで誰かを助けられれば。
そんな考えが、煙の中でも消えなかった。
そのとき、かすかな咳が聞こえた。
彼は音のする方へ向かった。
床の近くに、小さな身体が見えた。
「いた!」
子どもだった。
彼はしゃがみ込み、腕を肩へ回した。
「大丈夫か」
返事はない。意識はあるのかもしれない。
けれど、自分で立てる状態ではなかった。
彼は子どもの身体を持ち上げた。
その瞬間、背後で大きな音がした。何かが崩れ落ちる気配がした。
直後、背中に熱と衝撃が走った。
「っ……!」
膝をついた。
それでも子どもだけは離さなかった。
出口の方を見る。煙の向こうに、わずかに外の光が見える。
あと少し。
一歩ずつ進む。
息ができない。
腕に力が入らなくなっていく。
それでも引きずるように、子どもを前へ運んだ。外の声が近づいてくる。
「誰か出てくるぞ!」
彼は最後の力で、子どもの身体を入口の外へ押し出した。
何人かが駆け寄り、受け止めた。女性の泣き声が聞こえる。
「よかった……!」
「ありがとう……ありがとうございます!」
彼も外へ出ようとした。
足を踏み出す。
そのとき、背後でまた大きな音が響いた。
身体から力が抜け、視界が傾く。そのまま、地面へ崩れ落ちた。
目を覚ましたとき、最初に見えたのは白い天井だった。
鼻の奥に、消毒液のにおいが残っている。息を吸うと、胸の奥が痛んだ。肩を動かそうとすると、さらに鈍い痛みが走る。
視線を下ろすと、腕には点滴がつながれ、胸から肩にかけて包帯が巻かれていた。ここが病院だと理解するまでに、少し時間がかかった。
「……あなた?」
声のする方を見ると、ベッドの横に妻が座っていた。
その隣には、車椅子に乗った娘がいる。
「お父さん」
娘の声を聞いた瞬間、胸の奥が緩んだ。
生きている。
自分も。娘も。
彼は口を開こうとした。
けれど、その前に別のことが頭をよぎった。
ベッドわきの棚に視線を動かす。着替えと水の入ったペットボトルの横に、スマートフォンが置かれていた。
彼は包帯の巻かれた手を伸ばした。
「ちょっと」
妻が声をかけた。
それでも彼は端末を取った。画面にはひびが入っていた。電源はつけ、アプリを開いた。
あと四十一。
「……あと少しだ」
自分でも気づかないうちに、声が出ていた。
「何が?」
妻の声が低くなる。
彼は画面を見たまま答えた。
「あと四十一ポイントで……」
「何の話をしてるの?」
彼は顔を上げた。
説明しなければならないと思った。
このポイントがあれば、娘を助けられるかもしれない。
水族館だって、本当に行けた。
あのとき百ポイントを使ったあと、娘の数値が安定した。
だから。
今回だって。
「これが貯まれば――」
「あなた、自分が死ぬところだったのよ?」
妻の言葉が遮った。
彼は黙った。
「煙を吸って、火傷して」
妻は包帯に覆われた彼の身体を見た。
「もう少し遅かったら、本当に危なかったって先生が言ってた」
「でも、あと四十一ポイントなんだ」
「だから何なの?」
「これがあれば、この子が――」
「そんなものより、あなたの命でしょう!」
「そんなものじゃない!」
思っていたより大きな声が出た。
病室の空気が止まった。
娘の肩が、小さく揺れた。
彼はすぐに声を落とした。
「……全部、この子のためなんだ」
妻は何も言わなかった。
彼も、それ以上続けられなかった。
娘が膝の上で何かを握っている。
青いクラゲのキーホルダーだった。
娘はそれを見つめたまま、小さな声で言った。
「……お父さん」
彼は娘を見た。
「……死んじゃやだ」
娘の一言に彼は言葉が出なかった。
娘は、彼のポイントを知らない。千二百という数字も知らない。
ただ、目の前の父親がいなくなることを怖がっていた。
彼は目線をそらすようにスマートフォンを見た。手の中の端末が、急に重くなったように感じた。
妻は静かに立ち上がり、娘の車椅子へ手をかけた。
「今日は、もう休んで」
彼は返事をしなかった。
娘が病室を出る直前、もう一度こちらを振り返った。
彼は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
一人になった病室で、彼はもう一度アプリを開いた。
必要ポイント:1200pt
ボタンは、まだ暗いままだった。
退院してからも、肩の痛みは残った。
医師からは、しばらく安静にするよう言われていた。
重いものを持たないこと。無理に走らないこと。少しでも息苦しさがあれば、すぐに受診すること。
彼はすべて聞いていた。しかし、すべて守らなかった。
駅で落とし物を拾い、持ち主を探して届けた。

商店街で、荷物を落とした店員を手伝った。

ある雨の日には、転倒した自転車を起こし、足を痛めた持ち主を近くの休憩所まで連れていった。肩が痛んだが、それでも手を離さなかった。

画面を見た瞬間、彼は息を止めた。
あと五ポイント。
ここまで来るのに、何十人もの人を助けた。
火の中にまで入った。
あとはもう、荷物を一つ持てば届くかもしれない。
そう思うと、今までで一番近く感じた。
その日の夕方、彼は娘の病室を訪れた。
娘は眠っていた。
以前よりも、頬が痩せて見えた。呼吸も浅いように感じた。
妻はベッドの横に座っていた。
彼も反対側へ椅子を置き、娘の小さな手を握った。
娘が起きるまで、ここにいればいい。
そう思った。
けれど、頭の隅に数字が浮かんだ。
あと五ポイント。その数字が頭から離れない。
彼はポケットの中のスマートフォンに触れた。
街へ出れば、誰か一人くらい困っているかもしれない。
五ポイントなら、すぐに戻れる。
彼は娘の手を離し、立ち上がった。
「どこへ行くの?」
妻が聞いた。
「少しだけ外に」
「今日は、ここにいて」
彼の動きが止まった。
妻は怒っていなかった。ただ、疲れた声だった。
「……すぐ戻る」
妻はそれ以上何も言わなかった。止めても届かないことを、もう知っているようだった。
彼は街へ出た。
いつもなら、困っている人は簡単に見つけられた。
重そうな荷物。道に迷っている人。立ち止まって周囲を見回している人。
しかし、その日はなぜか誰も見つからなかった。
駅前を歩いて、通行人をつぶさに観察する。人々はそれぞれの目的地へ向かっている。
高齢の女性が買い物袋を持っていた。
彼はすぐに声をかけた。
「お持ちしましょうか」
「いえ、大丈夫です」
女性は笑って、そのまま歩いていった。
通知は鳴らない。
駅の構内では、旅行者らしい男性が案内板を見ていた。
「道、分かりますか」
「あ、はい。ありがとうございます」
礼は言われた。けれど、スマートフォンは鳴らなかった。
彼は人混みを見渡した。
誰か。誰でもいいんだ。
五ポイント。ほんの五ポイント。
駅前、商店街、交差点と迷子のように歩き続けた。
次第に日が落ちて、街の明かりが一つずつ灯っていく。
時間だけが過ぎていった。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
彼は反射的に画面を見た。いいね貯金ではなかった。病院からの着信だった。胸の奥が一気に冷たくなる。
「はい」
『娘さんの容体が急変しました』
周囲の音が遠くなった。
『今、どちらにいらっしゃいますか』
彼は答えられなかった。
駅前を行き交う人たちの姿が、急にぼやけて見えた。
『もしもし?』
看護師の声が聞こえる。
「……すぐ行きます」
そう言ってすぐ電話を切った。
目を閉じて、荒くなった呼吸を整える。
彼は、その場から動かなかった。
ゆっくりとアプリを開く。
現在:1195pt
必要ポイント:1200pt
誰か一人。
重い荷物を持っている人。道に迷っている人。
少し困っている人でもいい。
五ポイントくらいなら、きっとすぐに手に入る。そのあと病院へ向かっても、間に合うかもしれない。
彼は顔を上げた。
人の流れを見る。
一人ずつ、目で追う。
誰か。
誰か一人。
けれど、その瞬間。
「今日は、ここにいて」
妻の声が浮かんだ。
「……お父さん、死んじゃやだ」
娘の声が、頭の中ではっきりと聞こえた。
彼はもう一度、画面を見る。
1195pt
ここまで集めた。
火の中にまで入った。
あと五ポイントあれば、娘を救えるかもしれない。
それでも。
娘は今、病院で自分を待っている。
彼は長く息を吐いた。
そして、自分の指で画面を消した。スマートフォンをポケットへ入れる。
数秒、その場に立っていた。
それから、病院へ向かって走り出した。
肩が痛む。
呼吸が苦しい。
医師から走るなと言われていたことを思い出した。それでも止まらなかった。
彼が病室へ駆け込んだとき、そこにはすでに医師と看護師が集まっていた。
ベッドの周りを慌ただしく人が動いている。
妻は娘のそばに座り、その手を握っていた。
彼は扉の前で立ち止まった。
走ってきたせいで、息がうまく整わない。肩も痛んでいた。けれど、そんなことはもうどうでもよかった。
妻が顔を上げて彼を見た。
妻は何も言わなかった。
ただ、娘のそばを少しだけ空けた。
彼はゆっくりとベッドへ近づいた。
「……ごめん」
娘の手を握る。
「遅くなった」
手は冷たかった。以前よりずっと細くなっていた。
彼は両手で包むように、その手を握った。
娘のまぶたが、わずかに動いた。
「お父さん」
かすかな声だった。
「いるよ」
彼はすぐに答えた。
「ここにいる」
娘はゆっくりと目を開けた。ぼんやりと父親の顔を見て、それから、少しだけ笑った。
彼は、その顔を見つめた。
謝りたいことはいくつもあった。
病室へ来る時間が遅くなったこと。
せっかく描いた絵を見なかったこと。
妻の言葉を聞かなかったこと。
火の中へまで入ったこと。
今日も、娘のそばを離れたこと。
何から言えばいいのか分からなかった。
だから、何も言わなかった。
娘の手を握り続けた。
「お父さん」
「うん」
娘の呼吸は、さらに浅くなっていた。
彼は少し身を乗り出した。
「いるよ」
娘の表情が、ほんの少しだけ緩む。
彼の手を握る指に、わずかに力が戻った。
「戻ってきてくれて……」
娘は一度、息を吸った。
「ありがとう」
その直後だった。
病室に流れていた機械音が変わった。
短く、不規則な音。
そして――
一本の音が、長く伸びた。
妻が娘へ顔を寄せる。
医師と看護師がすぐに動き始めた。
彼は、娘の手を握ったまま動けなかった。
そのとき、ポケットの中で、聞き慣れた通知音が鳴った。
彼の身体が、わずかに震えた。
けれど、スマートフォンへ手を伸ばすことはできなかった。
目の前では、医師たちが娘の処置を続けていた。
彼はただ、その手を握り続けた。
病室に響く一本の音は、なかなか止まらなかった。
医師と看護師が動く。
妻が娘の名前を呼ぶ。
彼は、その手を握ったままだった。
さっきまで、ほんのわずかに握り返してくれていた手。今はもう、力がない。
何度呼んでも、目は開かなかった。
彼は何も言えなかった。
ただ、その手を離さなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
医師の声も、看護師の足音も、どこか遠くに聞こえていた。
やがて病室の動きが少しずつ静かになった。
妻は娘のそばで、顔を伏せていた。
彼は、まだ手を握っていた。
そのときになって、ようやく思い出した。
さっき鳴った音。
娘が最後に、
「戻ってきてくれて……ありがとう」
と言った直後。
あの長い機械音のあとに鳴った、聞き慣れた通知音。
ゆっくりとポケットへ手を入れて、スマートフォンを取り出した。
画面には、通知が残っていた。
+241pt
目が、その数字から動かなかった。
一拍置いて、残高が更新された。
1436pt
彼の目から堪えていた涙があふれた。
今日、街を歩き回って探し続けた数字。
それを最後にくれたのは、娘だった。
彼はアプリを開いた。
ーーー
娘の病気を治したい
現在:1436pt
必要ポイント:1200pt
ーーー
必要なポイントは、もう貯まっている。
だが、以前なら必要な数字に届けば点灯したはずのボタンが、今は暗いままだった。
彼は指を近づけてボタンに触れた。
何も起こらない。
もう一度押す。
反応はない。
彼は画面から目を離して娘を見た。
病院へ戻るまでの道が、頭の中をよぎった。
彼はスマートフォンをベッドの上へ置いた。
そして、もう一度娘の手を握った。
枕元では、水族館で買った青いクラゲのキーホルダーが水の中を漂うクラゲのように、空調の風でかすかに揺れていた。
やがてベッドの上に置かれたスマートフォンの画面が、静かに変わった。



終
