世にも奇妙な小噺 ~自転車倒し男~
あらすじ
帰り道の住宅街で、私は道路脇に倒れた一台の自転車と、そのそばに立ち尽くす男を見かける。荷物は散らばったまま。通行人が自転車を起こそうとしても、男はなぜか「触らないでください」と拒み、自分でやると言いながら一向に片づけようとしない。
やがて周囲から人がいなくなると、男はようやく自転車へ手を伸ばす。しかし、誰かが近づいてくるたびにその手を止めてしまう。事故の直後で混乱しているだけなのか。それとも―。
男の不可解な行動が気になった私は、通り過ぎた足を止め、ある質問を投げかける。
午後六時を少し回ったころだった。
日はほとんど沈みかけていて、住宅街にはぽつぽつと街灯がつき始めていた。
帰宅途中の私は、いつもの道を駅から歩いていた。
その途中、少し先の道路脇に、一台の自転車が倒れているのが見えた。

前かごのあたりから落ちたのだろうか。いくつかの荷物が、アスファルトの上に散らばっている。
すぐそばに、一人の男が立っていた。
三十代くらいだろうか。
男は倒れた自転車を前に立ち尽くしていた。
転んだのかな。
そう思った。
私より先に、若い男性が男のところへ近づいていった。
「大丈夫ですか?」
声をかけられ、男は少し遅れて顔を上げた。
「あ……はい。大丈夫です」
「自転車、起こしましょうか?」
若い男性がハンドルに手を伸ばす。

「あ、大丈夫です。触らないでください」
男はそう言ったあと、すぐに、
「すみません。自分でやりますから」
と付け加えた。
「……あ、そうですか」
若い男性は少し戸惑った様子だったが、そのまま立ち去っていった。
事故の直後で、少し気が立っているのかもしれない。
そう思った。
男はまだ立っていた。
自転車も、倒れたままだった。
自分でやるって言ってたけど。
まあ、どこか痛めたのかもしれない。
すると今度は、向こうから歩いてきた中年の女性が男に声をかけた。
「怪我、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「救急車、呼びましょうか?」
「……いえ。そこまでじゃないので」
男は一瞬、道路脇へ目をやった。

「そうですか。無理しないでくださいね」
女性は何度か男を気にしながら、その場を離れていった。
何となく気になって、スマホを見るふりをして少し歩調を緩めた。
女性の姿が遠ざかっていったころ、それまでほとんど動かなかった男が、初めて動いた。
道路の左右を見る。
手にしていたバッグを持ち直し、倒れた自転車へ近づく。
足元に落ちていた荷物を拾い、前かごへ戻す。
一度入れたものの、うまく収まらなかったらしい。
男はそれを持ち上げ、向きを変えて入れ直した。
それから、ハンドルへ手を伸ばす。
そのとき、向こうからまた一人、帰宅途中の会社員がやってきた。
男の手が止まった。
「大丈夫ですか」
会社員の男性は、倒れた自転車と散らばった荷物を見ながら近づいていく。
「これ、拾いましょうか」
まだ地面に残っていた荷物へ手を伸ばす。
「触らないでください……!」

男の声が響いた。
さっきより、明らかに強かった。
会社員の男性の手が止まる。
「……え?」
「……すみません。大丈夫ですから」
「そうですか……?」
会社員の男性は少し怪訝そうな顔をした。
それでも、それ以上は何も言わなかった。
そのまま男の横を通り過ぎていく。
会社員の男性が去ったあと、私もそのまま男の横を通り過ぎた。
本人が大丈夫だと言っているのだから、別にいい。
そう思って歩き続けた。
けれど、数歩進んだところで足が止まった。
さっきから、何かが少しだけ噛み合っていない。
何だろう。
うまく言えないが、妙に気になった。
私は振り返った。
男はまだ、自転車のそばに立っていた。
少し迷った。
それでも結局、来た道を戻った。
男のところまで近づくと、向こうも私に気づいた。
男は、少しうんざりしたような顔をした。
「……はい?」
「あの……」
私は自転車を見た。
「変なこと聞きますけど」
男がこちらを見る。

「これって、あなたの自転車ですか?」
「……え?」
「この自転車です」
私は、倒れた自転車を指した。
男もそちらを見る。
「……違いますよ」
「え?」
二人の間に沈黙が走った。
やがて男は私から目をそらした。
何も言わず、倒れていた自転車を起こす。
残っていた荷物を前かごへ押し込み、バッグを持ったまま自転車にまたがった。
「ちょっと……」
私が声をかけたときには、もう男はペダルを踏み込んでいた。
自転車がわずかにふらつく。
それでも男は止まらなかった。
そのまま住宅街の先へ走っていく。
私は追いかけなかった。
ただ、遠ざかっていく背中を見ていた。
違いますよ。
確かに、そう言った。
「……何だったんだ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
もう男の姿は見えない。
辺りはいつの間にか、ずいぶん暗くなっていた。
私はしばらくその場に立っていた。
けれど、考えても分からない。
仕方なく、再び家へ向かおうとした。
そのときだった。
どこかから、かすかな声がした。
「…………けて……」
足が止まった。
振り返る。
誰もいない。
街灯に照らされた、静かな道路があるだけだった。
気のせいだろうか。
私はその場で、耳を澄ませた。
しばらくして。
もう一度。
今度は、はっきりと聞こえた。
「…………たすけて…………」

終
