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アムネシアの夢「創作大賞2026応募作品」

    あらすじ
    レミニス精神病院に入院する5人の患者と、1人の子供、記憶を失った彼らが出逢う時、導かれるのは過去に起きた一つの火災事故。
    解決したはずの事件のことを調べていくほどに浮かび上がる彼女たちの隠された記憶とは!?

    篝火

    息子の誕生日に、病院で火災が起きた。
    蝋燭というにはあまりに大きな、大きな大きな火。
    硝煙をさらに燻したようなむせかえるような匂いと、肺を圧迫するほどの薄い酸素濃度。
    蒙昧という言葉が相応しく、それは目で見ているものすら、酸素欠乏で見ている幻覚なのではないだろうかとさえ感じるほどだ。
    私の左目はもう目に入った灰かなにかによる火傷でほとんど見えなくなっているというのに私は痛みすら感じていない。
    それはひとえにパニック状態のアドレナリン過剰がそうさせているのだろうか。
    それとも私は、受け入れ難い現実をまだ受け止めきれておらず、その目の前の光景を嘘やまやかしなのだと感じるためだけに、今起こっていることを否定しようとして脳が拒絶しているのだろうか。
    あぁ…、サイレンと押し寄せる人波の奥で、野太い声が聞こえ続けては止まない、この世のものとは思えないほど、大きな大きな叫び声。
    無理もない、生きるために繋がれていたはずのシリンジポンプが今や命を奪う逃げることができない鎖となっているのだから。
    多くの人が逃げ遅れている、病院などという弱者を集めた場所なのだから当然だろう、足がほとんど動かないものや、ここから逃げようにも逃げられないもの、緊急時でさえ、自身の職責を全うしようと、火に向かっていく懸命な医師の姿もある。
    私も早く逃げるべきだろうが、私の足はここから離れることができない。
    まだ、叫び声はやまない。
    そんなに叫んだとしても、ただでさえ空気の薄いこの場所ではその叫び声で使う酸素が命取りになるだろう、静かに落ち着いて行動する方が賢明だ。
    だが、それでも叫び声は鳴り止まない。
    あぁ、そうか、気づいていなかった。

    叫んでいるのは、私だったのか。

    重傷を負い、動けなくなった妻を見捨てることができず、私は火に飲まれていく。
    あぁ…菊乃、せめて君だけは。
    私の意識はポツリと切れた。

    ープロローグー


    「え〜っと…鬼灯李蘭さん…で…お間違い無かったですかね?」
    カウンセリングルーム、と呼ばれる場所、私はこの、看護師と呼ぶには少々不衛生と言わざるをえない、赤髪の職員から入院前の面談を受けていた。
    「はぁい…じゃあ、貴方には307号室に入ってもらいます、詳しいことはまた院長が面談に来ますので、その時にお話ししてください。」
    私の目前に座るその赤髪の女性は、そういうと持っていたペンを耳において、カルテのようなものを机に伏せた。
    「何か質問はありますか〜?」
    目を合わすこともなく、社交辞令とばかりに発言をする彼女に、私は少し戸惑いながら答えた。
    「鬼灯ヒナ…という、私の妹がこの病院で働いているはずなんだが、会うことはできないだろうか?」
    「…鬼灯ヒナさん…あぁ…彼女は一階層の担当ですので、ここまでくるのは難しいかもしれません、一様、本人には伝えておきますね。」
    「一階層…というのはなんですか?」
    「一階層ですか?うちの病院は孤児院をやってるんですよ、入院患者の方は地下の病室で、孤児の子達は一階と二階のエリアで、それぞれ暮らしてもらっています。」
    「孤児院を…なるほど、にしても、どうして地下に入院施設があるんでしょうか?日光にあたる方が患者のかたの健康には良さそうなものですが…」
    我ながら少し間抜けな質問だったかなと焦るが、彼女の様子を見るにその心配は無用だったようだ。
    「あぁ、ふふ、多いんですよね、その質問、私も新人なのであんまり詳しくないんですけど、昔この病院で大規模な火事があったそうで、院長はそれがトラウマになっていて立て直す際に燃えないように、と、地下に幅広い入院スペースをとる設計をなされたそうですよ。」
    「あぁ…よく覚えています、あの火事は…」
    「?…覚えていらっしゃるんですか?」
    「あぁ…いや、思い出したんだ、今、そう言われて。」
    「ふふ、まぁその辺は院長と話してみてください、病室に案内しますよ〜、患者服がそちらにありますので、着替えたら出てきてください。」
    「あっ、すいません、貴方の名前をお聞きしてもよろしいですか?」
    「あれ?話してませんでしたっけ、私はフェール、二階層の担当医をしています。」
    「…よろしくお願いします。」
    そういって赤髪の女は部屋を後にした。

    さて、一先ずは第一関門を突破した、と考えてよいだろうか、とはいえ狩りをする獣は狩りを終えた瞬間が最も無防備になる瞬間だという、勝って兜の緒を締めよとは言ったものだが、今一度私も自身が何をすべきなのかを明瞭にしておく必要があるだろう。
    思考を巡らせながら、あまりにも遅いと怪しまれてしまうと考え、とりあえずは目の前にある患者服?と思わしきものに着替え、自身の着ていたものを畳みながら考えることとした。
    ここ、レミニス精神病院には悪い噂がある。
    数年前、大規模な火災で多くの被害を出したこの病院は、地域のボランティアや支援により、昔ほどの規模とはいかないもののなんとか建て直しを図ることができた。
    当時の院長であった、エルロードという人物は火事の責任を取って辞職したため、後任として、当時からこの病院で働いていた、日向ヒスイという人物が院長代理として、この病院の再設立の責任者となっていた。
    日向ヒスイ、という名前、生きていれば名前を聞いたことがない人はそういないだろうというような名医であり、著名な研究家の一人である。
    彼は火災が起こる前年に脳科学分野において、うつ病治療の画期的な仮説を提唱し、難しいと思われていた実験を完璧に成功させ、日本人で数名しかいないノーベル医学賞の受賞を果たした、…と、誰でも知っているような経歴をなぞってはみたものの、なにがそこまですごいのかは私は門外漢であるため専門的なことはよくわからない、ただ受賞後はテレビやラジオなど、複数メディアで彼の顔をよく見かけるようになり、一躍時の人となったことで、誰でも顔は見たことがある有名人という事実は疑いようのない事実であろう。
    しかし、そんな華やかな彼の人生を一変させたのが、レミニス総合病院の火災であった。
    彼の勤務地であったレミニス総合病院で火災が起きたことから、ネットなどでは彼のことをよく思っていなかった人からの、研究の盗作疑惑や火災の首謀者疑惑などが騒がれ始め、週刊誌などはネタになりそうなこのネタを取り上げ、この火災は、ただの一事件から彼の素性を疑う人々の批判の的となりはじめた。
    その話が燃え広がったのも、彼がその火災以降、表社会に出ることがなくなっていたことが大きく原因とされている、何があったかは知らないが、医師としても仕事を辞め、もともと決まっていたメディア出演なども欠席し、彼は完全に表社会から姿を消してしまったのだ。
    それから数年後、このレミニス精神病院の建て直し計画が始まったものの、前院長の息子であったエメロードを差し置いて、突如として日向ヒスイが院長となったことで、さらに火災の原因が彼なのではないかなどという陰謀論じみた話が上がりはじめた。
    そしてこの精神病院は半ば当てつけのような世間の意見から曰く付きと言われ、入ったら出られない、だとか、人がどんどん消えている、なんていう噂話が飛び交うほどになったそうだ。
    馬鹿げているとは思うがなぜ突然表社会へ姿を現す気になったのか、というのは私も気になっており、もし彼に話が聞けるのであれば聞きたいとは考えていた…もちろん私はそんなことのために今日この場所に足を運んだわけではない、私の目的は…
    「あれ〜?李蘭さ〜ん?お着替えは終わりましたか〜?」
    「あ…あぁ、すぐに行きます。」
    部屋を出ると、遅いと言わんばかりにフェールさんが壁に寄りかかるようにして立っていた、耳にかけたペンを思い出したかのようにもう一度持ち直して、居心地悪そうにポケットに突っ込んだ。
    「じゃあ軽い施設の紹介と部屋までの道のり、これから入院生活で守ってもらいたいものなんかを軽く説明していきますね〜。」
    「お願いします。」
    「カウンセリングルームから出てすぐのところに、レクリエーションルームと職員室があります、職員室には基本的に私がいますが、病室にナースコールがありますので、わざわざ入ってくる必要はありません…というか、他の患者さんのデータなんかもありますので、基本的には、立ち入り禁止です!レクリエーションルームはまた後日説明しますね。」
    「そして一階層下に降りると…ってヤグルマさん!?」
    「?」
    説明を聞きながら、自然に階段を降りていくと、運動部屋と思われるところにブロンド髪の女性がボーッと立っているのが見えた。
    「もー!勝手に出歩いちゃダメって言ってるじゃないですか!戻ってきてください!」
    「?…えぇっと…」
    「あぁ…またですか…」
    「どうしたんですか?」
    「ヤグルマさん…解離性記憶健忘…記憶喪失なんですよ。」
    「記憶喪失…」
    「まぁ…簡単にいうと、何回言ってもここはどこ!?って言って部屋から逃げ出そうとするんです。」
    フェールさんが呆れたようにヤグルマさんと言われるその女性の方を見ると、「ええっと…?ご…ごめんなさい?」と、よく分からないというような顔でその女性は謝った。
    「いいですよ〜もう慣れたので…じゃあ…うぅん、少しめんどくさいですけど、李蘭さん、ヤグルマさんにも一緒に施設説明をしてもいいですか?」
    「もちろん…」
    そういうとフェールさんはヤグルマさん?という女性にさっき私が聞いたような説明を繰り返していた。
    …ヤグルマ…私の知り合いにも矢車という苗字の男性がいるが…まぁそこまで珍しい苗字というほどでもない、もしかしたら関係があるかもしれないが、余計なことを聞いてこの場所に潜入したことがバレるわけにはいかない、行動は慎重に行うべきだ…とはいえ、少し引っかかるので、遠くから、ヤグルマさんという人を見つめ、自分なりにプロファイリングを行ってみる、もしかしたら、私が探している人物かもしれない。
    ブロンドの綺麗な長い髪、背丈は小さめで、タレ目のおっとりとした声色、そしてどうも記憶喪失…ということらしい。
    そういえば、何か私も大切なことを忘れているような気がする…この気持ちはなんだったか…そんなことを考えているとヤグルマさんに説明を終えたフェールさんがこちらに顔を向けて話しかけてきた。
    「李蘭さん、お待たせしました、じゃあ説明を再開させていただきますね〜。」
    そう言って階段をゆっくり降り始めた。
    ヤグルマさんは私の横についてこちらを覗き込んでこう言った。
    「李蘭ちゃん!これからよろしくね!」
    「あぁ…よろしくお願いします。」
    彼女の纒う不思議な感覚は、どうにも私の調子を狂わせた。


    空似

    …あれから妻は隣町に入院し、救急車で運ばれる過程で、お産を迎え、子を産んだ。
    あの火事は私の助手が起こしたものとして処理され、その助手もあの火事で一緒に巻き込まれ事件の後の痕跡は焼けこげて跡形もなくなってしまったそうだ。
    …彼女は最後の力で子を産んだ。
    体力を使い果たした彼女は、今は隣町の病院で植物状態となっている。
    私が幸福を望むことなどが失敗だったのだと、今更嘆こうと何も代わりはしないと言うのに、立て掛けてある写真たての彼女の顔を見るたび後悔の念が頭を渦巻く。
    残された息子が母乳ではなく粉ミルクを飲んでくれたことが幸いだった、私一人の力でもこの子を生きながらえさせることは出来るということだからだ…とはいえ、火傷の後遺症で左半身がほとんど麻痺してしまっている、医者は続けられない、粉ミルクを作ることも私にはままならない。
    となれば、私にできることなど、もうありはしない。
    妻も失ってしまった。
    必ず守ると…約束したのに。
    空を見上げ、ため息をつくと、久しくなっていなかったインターフォンが鳴る。
    とはいえ、私に仲のいい友人など数えるほどしかいない、おおかた、マスコミや新聞社が何かだろう、せっかく息子が寝たのに、なん度もインターフォンの大きな音を立てられてしまっては息子が起きてしまう。
    マスコミなどなのであればあまり刺激することはしたくないが、息子を寝かせておくためにも、追い払うくらいはしよう。
    そう思いもう一度音が鳴る前に扉へと手をかける。
    「誰だ。」
    「おっ!まさか出てくれるとは思いませんでした!」
    聞いたような声だと感じ、声の主の方を向くと彼もコチラを見て少し笑った。
    「…エメロードか。」
    「覚えててくれたんですね、それは良かった、いい話を持ってきたんです!中に入れてください!」
    嬉しそうに笑う彼だったが、私は彼のことをあまり好きではなかった。
    「…息子が寝ているんだ、もう…私を巻き込むのはやめてくれ。」
    そういうと、わざとらしく口を押さえ、子供の心配をしているそぶりをみせた。
    「…その…菊乃さんを目覚めさせられるかもしれないんです…どうか、聞いてください!」
    「……」
    閉めようとしていたドアを止め、目をつぶって少し考える。
    「興味が湧いてきたでしょう?もちろん息子さんは起こさないようにしますから。」
    そういうと、半開きのドアを押さえ、半ば無理やり彼は部屋へと押し入った。
    まぁ…話くらいは聞いてもいいだろう。
    ほとんど動かない半身を引きずりながら、私は彼を招き入れることにした。


    彼の話は、本当に子供の、夢物語のような話だった。
    病院の再建、薬の開発、人体実験…
    「…と。これで菊乃さんは目覚めさせることができます。」
    そう言いながら手元の資料をまとめ、情報が入っていると思わしきUSBを私に差し出す。
    彼の目に迷いはない、本当にできると信じて疑っていないというような顔つきだった。
    「…理屈上では…可能なのかもしれない、だが、こんな話をわざわざ君が私に話す理由はなんだ?」
    「それは…申し訳ないと思っているからですよ…」エメロードは宿題をやってきていなかったのにも関わらず、それを担任の先生にはバレていないのだと本気で信じている子供の様にわざとらしく顔を俯かせ、こちらの様子を見ている。
    「身内が起こした不祥事ですから…叶うことなら罪滅ぼしをしたいと思うんです…僕も。」
    そう、あの火災を起こした首謀者の女は、他でもない今目の前にいるエメロードの義姉にあたる女性なのだ。
    「…君と彼女は義姉弟なのだろう…そもそも彼女のことを病院へ招き入れたのは私だ、それを誰のせいだというつもりなどない。」
    「優しいんですね、まぁ義姉弟とは言っても同じ家で過ごしていたんですから、実の姉とそう変わりません、妹の方はすぐ家を出て行ったので別ですけどね。」
    時計を見る、すっかり話し込んでしまった、そろそろ夜ご飯の準備でもしなければいけない。
    「先生は、すくない可能性に頼ってでも、お嫁さんを助けてあげたいとは思わないんですか?」
    「…できるなら…そりゃあ私だって彼女を助けてあげたいと思っているさ、それでも、私の身体はこの有様さ、子供だっている、いまさら…もう、私に情熱はないんだ。」
    やらない理由ばかり口からこぼれ落ちる、どうせ出来ないと壁を作らなければ、私はまたきっと誰かを不幸にしてしまうだろう。
    「もちろん、資金ならうちからも出します、僕だって当然貴方と協力するつもりでいるんだ、すでに病院の人間にも、この話をしている、みんな貴方のことを…」
    少し熱が入り声が大きくなったエメロードに反応して、息子が起きてしまった。
    息子の泣き声に、片眉を顰めながら申し訳ないという様なジェスチャーをして、エメロードは帰宅の準備を始めた。
    「…ともかく、考えておいてください、僕は本気ですから。」
    「…考えておくよ。」
    そういうと少し不満げに頷き、データを置いて下駄箱の方へと歩いていく、私も鍵を閉めるために息子へミルクをあげながら後ろをついていく。
    「髪、伸びましたね。」
    「あぁ…自分の生活で手一杯でね、子供がいるのもそうだが、一人で暮らすと妻が普段どれだけ私を支えてくれていたのか痛感するよ。」
    「菊乃さんのお見舞いにも…最近行かれてませんよね。」
    胸が痛いと思った、今更何をと思うかもしれないが、会えばきっと、本当に崩れてしまうと思うから。
    「…行こうとは…思っているんだ、病院の人からも来るように言われているし…だけど…」
    あの火災事故、予兆を感じていなかったわけではない、それを勘違いだと信じて、自身の研究を続けていたこともまた事実だ、私は妻を見殺しにしたのだ、その事実は、どう取り繕っても変わらない。
    「貴方の後ろめたさは、貴方自身の逃げから来るものだ、向き合うことから逃げているのは、貴方の方なのだから。」
    押し黙っている私に吐き捨てる様にそういうと、エメロードは玄関を開けて、出て行ってしまった。
    「…勝手なことばかり…」
    閉じたドアにぼんやりと声を出してみるが、誰に話しているのかもわからない言い訳はひとりぼっちの小部屋にしんと溶けて行った。
    息子のおしめを変えなければならないので、すぐ鍵を閉め、私は部屋へと戻った。
    エメロードが残した資料を見返しながら、きな臭いイギリス語やドイツ語で書かれた論文に目を通していると気になる文言を見つけた。
    ほほえみの郷…最近よくSNSなどで見かけるカルト宗教の団体だが…それが皮膚移植の論文となんの関係があるんだ…?少し調べてみよう。
    時刻は23時を指していた。


    花弁

    「マーガレットさん、容態はいかがですか?」
    扉の向こうから男性の声が聞こえる。
    「おはようございます、ミェーチェ先生、今日も問題ありませんよ。」
    そう答えると、扉を開けて少し微笑みながら彼はゆっくりと私の病室のベットの横に腰掛けた。
    「はい、顔色も問題なさそうですね…左目は…まだ見えにくいですか?」
    「そうですね…左目だけすこし…もやがかかったみたいな…でも、そこまで見えにくいってほどでもないですよ!遠近感覚は…まだ若干掴めないですけど…」
    そういうと先生はなんだか申し訳なさそうな顔をした。
    「うーん…網膜の傷なので治療でどうにかなる代物でもないんですよねぇ…レーシックやICLでもどうにかなりそうにはないですし…」
    「いえいえ…十分ですよ、慣れれば全然…目は、もういいんです、それより足の方をなんとかしなくっちゃ。」
    「はい!ふふっ…そうですね、退院までの間で、ゆっくり足のリハビリを進めていきましょう。」
    「ふふ、何かおかしかったですか?」
    あまりにも嬉しそうに笑うので、なんだか不思議で質問してしまった。
    「いえいえ、マーガレットさんがとても前向きで、嬉しかっただけです、それじゃあ僕は孤児院の方にも顔を出さないといけないので、また午後になったらお迎えに伺いますね。」
    そういうといくつかの質問用紙の様なものにペンを走らせ、ゆっくりと立ち上がった。
    「あの…」
    「どうかされましたか?」
    「いえ、その…リハビリが終わってからでいいんですけど、よかったら、少し植物園を…見に行きたいなって…」
    そういうと走らせていたペンを止めて、コチラをチラリと見て、また微笑んだ。
    「ふふ、珍しいですね、マーガレットさんがどこかへ行きたいだなんて…あー!いえ!迷惑と言いたいんじゃないですよ!信頼してくれてるのかなぁ?なんて思って嬉しいんです!…って!ちょっといろいろ話しすぎですね!院長に少し話しておきます!入館許可がでたらリハビリに呼びに行く時に、お話しするので!」
    そう話すと何故か少し焦りながら彼はドアを少し荒めに閉めて廊下を走って行った。
    「あぁ…ありがとうございます。」
    そう口から声が出た時には、すでに先生の姿はなかった。
    ミェーチェ先生、すごく優しいいい先生なんだけど、植物園の管理や孤児院のお世話なんかのお医者様がやれる仕事の範疇を超えた仕事まで任されていていつも寝不足みたい。
    本格的なオペなんかは別の先生が担当するから…とは言っていたけど、会うたびにクマがひどくなっているのがわかる。
    「医者の不養生…に、ならなきゃいいけれど。」
    そんなことを考えながら、ふと自身の病室に飾られた花瓶に目をやる。
    この病院であった大規模な火災に巻き込まれて、私は危険な状態だったそうだ、目が見えないのも、足の痺れが取れないのも、その火災が原因だとか…
    …と他人事みたいに自分を俯瞰しているのには訳がある、どうも私には事故以前の記憶が欠けているのだ。
    完全にないというわけではないのだけれど、思い出そうとすると酷い頭痛がし始める、院長先生は、トラウマで一時的に脳が蓋をしている、と、おっしゃっていた。
    実際調べてみてもそういう事例は存在するそうだ、事故にあったり虐待を受けた子供なんかに多く、解離性健忘…というらしい。
    だけど…
    もう一度花瓶に目をやる、何の花かまではわからないけれど、多分水色のカズラ…毎日、毎日、私が知らない間に変わっていくあの花は、誰が用意してくれているのだろう。
    …家族、なのかもしれない。
    でも…
    「コンコン!マーガレットさん!中に入ってもいいですか!!」
    ドアの上部分についてある窓からは顔が見えないが、明るくて太陽みたいな声が聞こえてくる。
    きっと、たんぽぽくんだ。
    「どうぞー!」
    そういうとたんぽぽ君はドアの外側にある鍵を開けて、嬉しそうに入ってきた。
    「ねぇ!マーガレットさん!植物園に行くんでしょー!?」
    「あら…どこで聞いたの?そんなこと。」
    そう尋ねると、少し後ろめたそうに口を窄めて、
    「ミェーチェ先生が…院長と話してるのを聞いたの…だから、僕も連れて行って!ってお願いしたんだ!そしたらね?マーガレットさんがいいならいいよっていうから、マーガレットさんにお願いしに来たんだ!」
    「ふふ、盗み聞きは良くないね〜?でも、いいわよ、一緒にいきましょ!」
    「やったー!じゃあ先生に話してくるね!また後で!!」
    そういうと彼はまた勢いよく扉を開けて出ていった。
    たんぽぽくん。孤児院に預けられている男の子。
    とっても元気で、よくこっそり孤児室を抜け出して病室に遊びにくる子。
    本当は良くないんだろうけど、その元気さに力をもらえるっていう患者さんもいるみたいで、先生たちも迷惑をかけない限りは黙認しているみたい。
    ミェーチェ先生から聞いた話だと、私が目を覚ますまでの数日間、興味を示してよく外から覗いていたそうだ。
    …って、じゃあ今日は植物園に行けるのね。
    あまりにも自然すぎて忘れていたけれど、院長先生から許可が降りたということなのだろう。
    久しぶりの外出だ、まだしばらくはリハビリに勤めなさいと言われていたから…だんだん回復してきた…ということだろうか。
    少しずつ、記憶も戻っていくのだろうか。
    楽しみなようでいて、かなり不安だ、記憶を失ってしまうほどの大きなトラウマを、これから少しずつ、思い出していくんだ。
    例えばもし…家族がもう…いなくなってしまっているのだとすれば…記憶をなくすほどのショックを経験しているのだ、記憶を戻せば戻すほど、きっと私は耐えられなくなるだろう。
    例えばもし、大切な人を失ってしまっていたとすれば?…何も知らない私は、ここを出て、どうやって生きていけばいいのだろう。
    不安なことばかり、考えてしまう、そういう日は植物園で少し癒される…けれど、なんだか今日の窓の外は少し曇っていて、一人の病室は、いつも静かで…。


    怪物

    ジャーナリング・マインドマップ・ピラミッド構造。
    原初より思考をまとめるためには紙に書き写すことが良いとされている。
    だからここに僕が記すのは自身の思考を整理するためにある。
    さて、なぜ僕が紙にこんなことを記さなくてはいけないのか、それは他でもない自分自身がよくわかっているはずだ、そうでなければ、自分で書いたメモをいちいち見返すような愚かな行いを私は行わない。
    あの変な薬だ、あの薬を飲んでから少しずつ僕自身の記憶も曖昧になってきている。
    僕がここに書き写す情報さえ、正しい記憶なのかどうかもわからない。
    だが一つ言えることがある、誰一人、信じてはいけないということ、それは職員であり、自身であり、何よりも、僕と同階に収容されている、鬼灯ヒナとかいうやつだ。
    あれは危険だ、人を破滅に導く、ファムファタールなどではない、彼女は、全てのものを信用させるほどの…
    ペン動かす指を止めるように不快な声が耳に入る。
    「クリスさーん!クリスさーん!無視しないでくださいよぉ〜。」
    紙を見返していると、隣の部屋から声が聞こえる。
    「起きてるんでしょっ!ねぇ!ねぇねぇねぇねぇ!!」
    「…。」
    「えぇっ!本当に無視するんですかぁ!?酷いなぁ…いい情報を持ってきたのにぃ…」
    そういうと、構ってくれと言わんばかりに隣の部屋から僕の部屋の方を何度もノックし始めた。
    「…その不愉快な行動をやめろ、そもそも君のことは信用ならん、そのいい話とやらをを僕に持ってくるメリットも、君が話す意味も、僕がそれを聞く生産的理由も、僕にはわからない。」
    「はぁ〜、めんどくさい人ですねぇ〜貴方!絶対NT型でしょ?モラハラする旦那になるタイプの!っかぁ〜!いいじゃないですか!人と人とは助け合いっ!私はぁ!クリスさんをここから出してあげたいだけなんですよぉ〜!」
    姿は見えないが不快な顔をしているということだけはよくわかる、彼女はやはり劈くような高音で僕を馬鹿にするためだけの声を発している。
    「じゃあ聞こうか、僕の妻は?君と同じ部屋にいたはずの僕の妻はどこに行ったんだ?」
    毎度同じ質問をする、今更まともな回答が得られるとは思ってもいないが、それでも聞かないという選択肢は取ることができない。
    「それはまぁ!どこ行っちゃったんだろ?ヒナちゃん…記憶喪失だからなぁ〜!」
    「はっ!都合が悪くなればそれか…野蛮人はどこまで行っても変わらんな。」
    「…分かってますよ…。」
    「何か言ったか?」
    「いいえ〜!?何も〜?」
    いつもこの女は大事な部分で何かを誤魔化している、馬鹿な人間を装ってはいるが、この明らかに作為的な記憶喪失は僕を小馬鹿にしたいか、僕に対して何かを隠していなければ辻褄が合わない。
    「ふんっ…まぁいい、その話とやらを聞いてやる、信じるかどうかは別だが。」
    どうせすることもないのだし、とりあえず話だけでも聞いてみることとしよう。
    「嘘でも信じるって言っとくべきなんじゃないですか?出世しませんよ〜貴方。」
    「余計なお世話だよ、これでも僕はエリートなんだ。」
    「これでもって…アニメとか漫画に出てくるいかにもって感じのエリート嫌なやつじゃないですか貴方、誰が見たって貴方のこと、傲慢で嫌なやつだなって思いますよ?ステレオタイプそのまんま!」
    「…悪口を言いたいだけなら僕はもう部屋から出るぞ。」
    暖簾に腕押し、手応えがなく意味のない問答をただ続けられるのは非生産的で不愉快だ、話をするつもりがないなら、彼女の詭弁に付き合う必要はないだろう。
    そう思い部屋を出ようとすると。
    「けど…そっち側に出口はありませんよ。」
    と、見えてもいないコチラを見透かしたような意見が飛び込んだ。
    「…来たこともないだろうに。」
    「いえいえ〜あるんですよ、私、この病院の職員ですから。」
    「僕の妻もここの職員だよ、だがこんな場所知らないと言っていた。」
    「それは貴方のお嫁さんが孤児院の担当をしていたからでしょう?」
    「君だって一階層の人間だったろうに。」
    「そりゃあ私は医師免許を持っていないので。」

    「…は?」

    「そもそも医師免許取れる年齢じゃなかったですしね〜当時!うぅん…納得。」
    「はぁ…そうだな…君と話すのに疲れた、もう相槌は打たんからな。」
    「酷いなぁ…まぁ脱線しすぎましたか…」
    「...」
    「でも私統合失調症でこの牢屋に入れられてるんですから!しょうがなくないですか?」
    「牢屋…と表現したな、君がここに訪れたことがある職員だとすれば、やはりこの建物は病室とは関係ない何かの実験施設なのだな。」
    「あら、信じていいんですか?私の発言を。」
    「わざと道化を演じているだろう、君は、だが、今の発言には君が日常的に用いている言葉がうっかり出たように感じた、きっとそれは意識するほどのことでもなかったからだ。」
    「そうです!私はピエロ!なるべく楽しく!なるべく明るく!…そうでもしないとこんなところに長くいては可笑しくなってしまいますよ、あ、誤字ではないですよ、可笑しいんです、自分がね。」
    「だとしてと、辻褄が合わないから考えているんだ、君はどうしてこんなところにいる?君はあの忌々しい実験の加害者側ではなかったのか?。」
    「お!優しいですねーさすがは刑事さん!心配してくるているのでしょうか?」
    「…?、僕が一度でも君に警察官をしていると話したか?」
    「それは…ふふ、貴方のお嫁さんから聞いたんですよ、あんなに長く一緒に暮らしてたら恋バナくらいしますよ〜女子なんですから!と言っても私!恋したことないので話されても分かりませんけどね!あはは!」
    「…もういい、本題を話せ、何を誤魔化している。」
    「うぅん…そうだ、さっき書いていた紙とペンを1セット、いただけませんか?後悔はさせませんので!」
    扉を挟んで少し上側にある鉄格子の隙間から、彼女の細腕がちょろっと伸びてくるのが見えた。寄越せということだろう。
    「なんのメリットがある?」
    「木に縁りて魚を求むという諺を知りませんか?」
    「…見当違いだと言いたいのか?」
    「好きに解釈してもらって構いませんよ〜?助けてあげたいというのは事実なんです、とりあえず信じてみませんか?それ以外にすることもないでしょうし。」
    不服だが、彼女の言うことも一理あるだろう。
    もちろん完璧に信用はできない、が、それが嘘であれ本当であれ、ないところから手掛かりを探すよりはよっぽど近いように感じる。それに…
    自身が書いたメモの表表紙に書いてある文章を読み返す。
    “協力しなければ脱出は不可能”
    「…ほら。」
    しぶしぶだが、メモとペンを1セット渡してやることにした。
    彼女と僕の部屋とは窓があり、格子の隙間から物を渡すくらいは可能であった、部屋は大きく男性の部屋と女性の部屋との二区画で完全分断されており、二つの部屋を行き来するためには職員用の扉からでしかいけないようになっているとおもわれる。
    僕は女性部屋に入ったことがないからわからないが、建物の構造上、僕がいる部屋からは下に、女性が入る側からは上に繋がっているようだ、下には資料庫などがあり、病院の機材などが置いてあるようだが、ほとんど使われていないようで、僕が出入りしていても何も言われないあたり、見られても困るものも置いていない…もしくは僕のこともこれから殺すつもりなのであろうということが想像できる。
    ふと彼女の方に目をやると真剣に紙に何かを書き写していた。
    「何を書いている?」
    そう聞くと。
    「クリスさんのお嫁さんの似顔絵です。」
    と、茶化された。
    わざわざ文通で会話をしようとする意味がわからないほど頑固者ではない。
    大人しく待っていると。
    「力作ですよー!どうぞ、これを見て元気出してください!」
    と言いながら一枚の紙に背景色の白が見えなくなるんではないかというほど真っ黒に埋め尽くされた文字の束が送られてきた。
    「はんっ…これはなかなか力作だな。」
    「えぇ、でしょうでしょう!なんてったってヒナちゃん絵の学校に行ってましたから!」
    などと、普段と変わらない会話を交わしながら僕はその文章を読み解いていたときだった。
    「何コソコソしてんの?」
    吐息がちな若くて雄々しい男の声。
    「おぉ、エメロード!こんにちは!」
    「ヒナ、兄には敬語を使えと父上から教わらなかったか?…それとも、妾のお前にはそんな学すらないか?」
    「はて…なんのことでしょうか?」
    あちら側は何か言い争っているようだ、女性側の方からでしか声は聞こえない。
    「安っぽい猿芝居だ、何を考えているのか知らないが、記憶再生薬のありかを話すまではお前に自由はないぞ。」
    「もう全部使っちゃったんですよ、レシピなら言ったでしょう?ネズミの死骸でも入れてみたらどうか…と。」
    「ふん、何を企んでいるか知らないが、どのみち時間の問題だ。」
    「…時間の問題?」
    「お前は遅かったんだよヒナ、日向ヒスイは、後一週間後に死ぬ。」

    …日向ヒスイ…?あちらの二人は何の話をしている。
    この病院の院長がもう時期死ぬ…?
    それが、僕らを監禁している理由と関係があるのか?
    困惑しながらメモを隠し、花瓶の奥に目をやると、アリウムの花に隠れて、盗聴器と監視カメラが置かれているのを見つけた。
    なるほど、監視カメラに映らないように見ろと書いてあったので、カメラに背を向け、再度文字を読むこととする。

    クリスさんへ、一様、信じてもらえないかもしれませんがあなたの奥様である、フィオナさんは、間違い無く生きています。
    あなたが脱出するためには前にも言ったように二人の協力が必要不可欠ですが、貴方はどうもコロラドアイトの効きが早く、前話した内容を数日で忘れてしまうようです。
    貴方のメモ帳にでも、このメモを挟んでおいてください、それから、少しでいいので、私に協力してください。
    ひとまず、地下の資料庫に過去の職員名簿が残っているはずです、そこでエスメラルダという名前の職員を探してきてください。

    裏側には、他に脱出に必要なものや、監視カメラの位置などが詳細に書き記された地図が載ってあった。
    協力しなければ脱出が不可能…か、ひとまずそれが嘘でも本当でも何もないところから何かを探し出すよりは情報を得やすいだろう、一先ず指示に従い、僕はその、職員名簿とやらを探してみることにした。


    罪悪

    薄暗い地下、患者室は静まり返っていて、目の前には水槽が飾っている。
    小さなフグのような生き物に、クマノミみたいな生き物、それと、青色のよくわからない魚。
    ヒナに聞いたら分かるんだろうか。
    周りを見渡し、監視カメラなどがないことを確認してから、ポケットに隠しておいたメモを読む。

    鬼灯李蘭様へ。

    突然の連絡失礼致します。
    鬼灯家三女、鬼灯ヒナです。
    貴方と向き合うことから逃げ、お姉様のことも何も話さずに消えてしまってごめんなさい。
    そして、こんなことを頼まなくてはいけない私を、どうか許してください。
    レミニス精神病院が、まだ総合病院だった時に、私とお姉様はここで研究助手として働いていました。
    そこまでは、現場調査に来た時点で把握していたかと思いますが、事情聴取の後、音信不通になった挙句、犯人がお姉様だということになってしまった、そのことについて、私に聞きたいことが山ほどあったでしょう。
    部屋に篭りきりで何も食べる気も起きず、一人で暮らしていた私を気にかけ、毎晩私の家まで手紙を届けに来てくれていたのが、李蘭ちゃんだって、気づいていたのに、お返事できなくてごめんなさい。
    溢れかえるほどの謝罪の言葉をいくら並べても、この気持ちに収まりがつかないけれど、本題を伝えられなくなることは本意ではないため、単刀直入に、お願いがあります。
    私は鬼灯家を離れてから、大切な恩人ができました、暖かでとても素敵な人です。
    その人が、私の家のせいで、死んでしまうかもしれません。
    私は止めたい、だけど、私一人の力じゃ成し遂げられそうにありません。
    李蘭ちゃん、危険を承知でどうかお願いがあります。
    助けに来てほしい。
    詳細は別途の資料と、病院に隠してるメモを探してください。
    こんなことを頼めるのが李蘭ちゃんしかいなくて、こんなことを頼んでしまって、本当にごめんなさい。

    貴方の妹 鬼灯ヒナ。

    …ヒナ。
    私が警察官に就任し始めての任務だった。
    あの大きな火災…叫ぶ人々、そして…

    …資料によれば、エメロード様がここにいらっしゃるんだとか…それと、フィオナ?という人物に協力を依頼していると言っていた、307号室に入ることもヒナにはわかっていたようで、この部屋には脱出に必要な道具もいくらか揃っているようだ。
    …さて、何を始めるかを考えるまえに、自分なりに今からやらなくてはならないことを整理することにしよう。
    最優先事項はヒナと合流すること。
    ヒナはここの最奥部、三階層に軟禁されているようだ。
    この病院は三階層に分かれており、階層を移動するためには、カードキーが必要であり、職員が持っているものがなければ私は三階層まで降りられず、ヒナと合流できない。
    …そもそも三階層は自傷他害の恐れのある患者さんを緊急措置入院させるためのエリアだから、カードキーが必要なのはわかるが…二階層は普通の患者を入れるためのエリアであるはずなのに、なぜ一階層に上がるにもカードキーが必要なのか…
    …まぁいい、この疑問を仮に疑問一としておこう。
    次に…
    「ひゃあっ!!!」
    思わず大声を出してしまった。
    時間は深夜、患者の出歩きなどないはずの渡り廊下に髪の長い患者服の女が、しかも私の部屋の前に立っていたのだ。
    「…あ…え!?…や…ぐるま…さん?」
    「うん、そうだよー?大きな声が聞こえたけど。大丈夫?」
    そういうと髪を掻き分け私の方に顔を向けた。
    「?…うん?えっと…どうしたの?」
    「なんだか寝付けないからお話ししようかなと思って…」
    そう言いながら鍵のかかっているはずのドアを開けて彼女は堂々と私の部屋に入ってきた。
    あまりの急展開に、目を見開きながら驚いた時の姿勢のまま固まった私に「ストレッチしてたの?」などと頓珍漢なことをいいながら堂々と私のベットへと腰を下ろした。
    「ど…どうしてここに来れたの?」
    あまりの突拍子のなさに思ったことがそのまま口から出る。
    「…?そこのカードキーを押したら扉は開くよ?…そっか、まだ入ったばかりだからわかんないんだね、ごめんね驚かせて。」
    「あぁ…え?カードキー…?」
    「うん、カードキー。」
    「持ってるの?」
    「うん。」
    「えっと…な…なんで?」
    「…え〜?…わかんないや…記憶喪失だから…」
    「分かんないって…」
    困惑していると唐突に何かを思い出したようにどこかへ行こうとするのでどうしたのかと尋ねると
    「んん?ちょっとお魚に餌やりに行くからまたね。」
    などとまたよくわからないことを言いながら上階のレクリエーションルームへと上がって行った。
    「え?ちょっ…待って!!」
    扉は何故か開けられたままだったので追いかけてみる、入院初日で脱出騒ぎなど起こしたくはなかったがカードキーがあるなら彼女とはなるべく、協力しておきたい。
    「ん?どうしたの?リラちゃん」
    「ええっと…自分の記憶!なんでなくなったか気にならない?」
    「うん、気にならない、じゃあまたね。」
    「ヤグルマさん!!!」
    取り付く島もないといった様子の彼女に焦り大声を出してしまう。
    「なにぃ〜?まだ何かあるの?」
    「…えっと…私も…ついて行っていい?」
    「…!いいよっ!夜の大冒険だね!」
    「う…うん!」
    嬉しそうな彼女の表情に後ろ髪をひかれながらも、どうにか関係を取り持つことができたようだ。
    …急がば回れ…本当はヒナの捜索に乗り出したいところだけれど、カードキーの所在がわかっただけでも今日の進歩としよう、あとはいかにしてこのヤグルマさんを懐柔するか…だな。
    「…あれ?」
    魚に餌をやると言ったヤグルマさんは気づいたら運動場の方へと消えていた。


    見落とし


    「誰かね。」
    埃を被った本と上階から聞こえる足音、あとは僕の呼吸音くらいしかない空間で、僕は誰かに話しかけられた。
    「クリス…と、名乗らなくても知っているでしょう。」
    「ふむ…君か。」
    そういうと男は何かを思い出したように上を見上げて押し黙った。
    「…日向ヒスイ…なぜお前がこんなところにいる?」
    「別の階層でね、診察があるんだ、新しい患者さんが来てね。」
    「仕事…か…その新しい患者とやらもまた、記憶を奪って捨てるのか?それともお前の実の息子と同じように、モルモットにしたら外に捨てるか?」
    日向ヒスイ、最初の方こそ疑っていたが、今となっては彼がなぜこんなことをしているのかもわからない。
    とはいえ、基はといえばこいつのために僕はこんなところにいるのだから、嫌味の一つでもいう権利はあるだろう。
    「…くだらんな、威勢はもう少し理的で意味のあるものを選ぶといい、手数も手段もない人間の挑発は、負け犬の遠吠えにしか聞こえん。」
    「…僕は警察だよ?手が塞がれていようがお前のような老耄じみた人間を制圧するなど容易い。」
    我ながら安い挑発だとは思う、相手をイラつかせられればそれでいい、冷静でなければそいつから漏れることなどいくらでもあるのだから。
    「…君は交渉のテーブルについてないと言っているんだ、それができない理由があるから、君はそれをしない、それがわかっているから、この時間は無駄なんだ。」
    「…はっ…流石は著名な教授様でいらっしゃる。」
    …とはいえ、このような問答はもう何度か繰り返している、今更何かを聞き出せるとすら思っていないが、少しでも可能性があるなら賭けてみたい、我ながら諦めの悪さにはほとほと呆れ返る。
    「クリス、迷惑をかけるね。」
    「…?どういう意味だ?」
    そう問いかけると、聞こえていないかのようにヒスイは足取りを変えず資料庫を後にした。
    「なんだあいつは…」
    もう小さくなった背中に言い訳のようにそんな言葉をこぼして、振り返らない背中に舌打ちをした。
    …と、そんなことをしている場合じゃなかった…
    職員名簿は…6年前くらいだったよな…

    「クリス!」

    …フィオナ…。
    フィオナは生きてる、死んでいるはずがない…きっと今も、恐れて、不安で、それで、僕のことを待っているはずだ。
    …だから早く……

    「見つけた。」
    それは職員名簿ではなかったが、火災の記録と銘打たれたそれには、僕が探している人物について書き記されていることが背表紙からでもわかった。

    火災の記録、容疑者エスメラルダ・リ・レミニス(25)

    新聞記事のスクラップのようなものに綴じが付け加えられており、詳細な内容は昔調査したこの病院の火災のことについて書き記されているのみだった。
    ふと、何か気になることはないだろうかと読み込んでいると、引っかかるものがあることに気がついた。
    藉がイギリス籍になっている…彼女は確か日本の家の養子に入ったんじゃなかったか?旧姓で載せる意味が…あるのだろうか。
    もしかしたら的外れで、たいした疑問ではないのかもしれない…とはいえ、幸い時間はあるのだし違和感は全て調べておいた方がいいだろう…職員名簿があれば、この違和感は少しは払拭できるかもしれない…名簿はもう少し…向こうのほうに。
    僕はこの新聞記事の切り抜きのようなページを開いたまま別の本棚を探しだす。
    …ここに目当ての内容が書いてあるだろうか…そう頭の中で呟き、ヒナの顔を思い浮かべる。
    本当に彼女を信用していいのだろうか…どうしても払拭しきれない彼女への不信感は、あの時の経験が、起因しているのだろう。

    そもそも、僕がこの病院について調査を行うことになったのは、妻であるフィオナがここでみた、大量の死体が原因だ。
    この病院で勤務していた彼女は休憩時間でふらりと立ち寄った裏庭に死体があったと、警察官である僕に相談してくれた。
    礼状のないまま調査するのは本来違法だが、実際にあるのなら調べないわけにはいかないだろう。
    それに、妻が働いている病院にプライベートで会いに行き、たまたま死体を見つけたのであればこれは成立する。
    そこで彼女と死体を確認しに向かい現場にあったのは人間のものとは思えない、数多くの内臓や眼球などの部位の遺棄された現場だった。
    医療については正直門外漢と言って差し支えなく、よく理解をしていなかった僕はもしかすると単に臓器のドナーや移植品などが遺棄されてまとめられているだけの可能性もあるだろうと考え、現場のサンプルをいくつか採取し、同期で入社した鑑識の友人に詳しいことは伏せてDNA検証を行ってもらうことにした。
    そこで判明したのは、恐るべき事実だった。
    これら全てのサンプルからは同一のDNAが検出されたのだ。
    何がおかしいのか、といえば当然であり、心臓や眼球、肝臓など、限られた数しかないはずの内蔵が複数個、同じDNAを持った状態で発見されたのだ。
    何らかの違法実験が行われると見てまず間違い無いだろう。
    僕は決定的な証拠を掴むために再度病院へと乗り込むことにした。
    しかし、その時だった、僕と妻は後ろから何者かに殴られ気絶、気づけばこの三階層と呼ばれる場所で軟禁状態となった。
    軟禁状態となってから数日、僕は突如として姿を失わせた僕を探しに警察が動くはずだと考えていた。しかし、現実は如何ともしがたく、この実験の背後にはとんでもなく大きな組織が関わっていることをここにきて初めて気づいた。
    僕は緊急措置入院ということで対応を受け、警察内部には手回しをされていて、ありもしない事件をでっち上げられている、という旨を当時はまだここの職員として働いていた鬼灯ヒナから聞いた。
    それからどれくらいの時間が経ったかわからないが、鬼灯ヒナに連れ出され、この三階層よりも下の階層へと連れて行かれる機会があった。
    腕にはキツく縄が巻かれ、とてもでは無いが抵抗ができる状態ではなかったが、目隠しなどはされず、地下階層への行き方だけは覚えることができた。
    その後鬼灯ヒナは日向ヒスイと思われる人物と何かを話し、僕に何かの薬剤を注射した。
    そこで意識を失い、目を覚ますと隣の牢にいたはずの僕の妻は失踪し、なぜかここの職員であったはずの鬼灯ヒナが軟禁されていたのである。
    …と、考えを巡らせていると表紙にレミニス総合病院職員名簿と書かれたファイルを見つけた。随分前にここに放置されたもののようですっかり埃を被っているようだ。
    鬼灯ヒナ…鬼灯エスメラルダ…
    そこには幸せそうに笑う二人の少女の姿があった。
    エスメラルダ…確かこの病院の院長だったエルロード・リ・レミニスというイギリスの貴族の出だったな…なぜかは詳しく知らないが、この家は日本にゆかりがあり、当代の名を冠した病院が日本に建てられているほどだ…
    何らかの事情があり、妹であるヒナと二人養子に出され鬼灯という家で厄介になっていた…というのは事件当時僕も捜査班にいた為知っているが…
    今になって、この資料を見ることに何の意味があるのだろうか…
    そんなことを考えながら自分の知っている断片的な記憶や、先ほど見つけた事件記録と齟齬がないかを一つ一つ確認していく、幸い、時間だけはたくさんある為、ゆっくりとこの作業に没頭することができた。
    「…ん?妙だな。」
    口に出したことについては特に意味がないが、ただ記憶とうまく合致しない表記がある。
    彼女たちの病名が載っていない…
    プライバシー保護のためだと言われればそれまでだが、少なくとも姉の方には統合失調症が早いうちから見られていたと記憶している…しかしそもそも障害者雇用ではない扱いとなっているのはおかしい…別に雇用形態自体は申請しなければ障害者雇用にする必要はないが…記憶している限りは障害者雇用で雇われていたはずだ、病院からの申請書は確認したし、当時同じ症状を患っていながら姉だけが障害者雇用として雇われていたことに疑問を抱き、調査を行ったのだからこれが記憶違いということはないだろう。当時はまだ統合失調症の症状が見られていなかったか?
    …やはり…
    一つの疑問を見つければ、次の疑問が浮かぶ、見て見ぬ振りを続けようと思ったところで何かが怪しいのではないかと一度思ってしまった気持ちは覆らない。
    記事と名簿に載っている人員の合計が死傷者数と吊り合わない…
    そして事件の首謀者であるエスメラルダという女性の燃えた後の死体…火元に彼女がいたとはいえ、死体の状態が綺麗すぎる…これは事故後すぐの物ではない…僕はあの火災が起きた時現場にいた。
    その時に見たあの死体と、この新聞に載ってある事故現場にある死体は全くの別物だ。
    そして資料庫に保管してある実際の写真…これも…焼かれてすぐの物ではない…
    あの規模の火災で燃えたとして…彼女の肉が焦げ落ちたとして、ここまでの被害にはならないはず。
    …では、意図的に誰かが資料をいじっている?だとしても何故わざわざ病院関係者の数名しかアクセスができない資料庫の資料まで徹底して隠蔽する必要が?
    なにかがおかしい…エスメラルダの死体を持ち出した誰かが存在する?
    そもそも何のために?…では代わりに置かれたこの死体は誰のものだ?
    多くの資料を広げ、推理に夢中になっていた僕は、エメロードが、この部屋に入ってくるのにも気づかなかった。
    「…すごいね、日本の警察官は…。」
    「!?…いつからそこに…」
    咄嗟に跳ね上がり距離を取ったものの、何かできるわけではない、ただ顔を突き合わせお互い顔を合わせただけだが、エメロードもエメロードで何かをしようとしていたわけではなく、完全に通りがかっただけ、というような様子で何らかに使う荷物などを手に持ち少し居心地が悪そうにしている。
    「僕はずっとここにいたよ、君がぶつぶつ呟いて夢中になっている間ずっとね。」
    「声をかけてくれればよかったのに、ヒナには小言を言うわりにお前もマナーがなっていないんじゃないか?」
    「おぉ…これは失礼、日本では自分よりも立場が下のものにも礼儀を尽くした方がいいんだったね、流石八百万の神を持つ人種なだけある、ご忠告ありがとう。」
    ニヤニヤしたツラのまま頭を下げる、あなたを馬鹿にしていますと顔に書いてあるような腹の立つ顔だ。
    「…お前は上に行かなくていいのか?」
    「上?なんのために?」
    「新しい患者が来たとかでヒスイのやつは上階へ上がって行ったぞ。」
    鎌かけのつもりはなかったが、そう聞くと知らなかったかのようにエメロードは少し考え込み始めた。
    「…知らなかったのか?」
    そう聞くと、何もなかったように、僕を一瞥して歩き出した。
    「いいことを聞いたと思ったんだ、君は君の首を絞めているが、一ついいことを教えてあげるよ。」
    そう言うと上階へ上がるエレベーターに自身のIDカードをかざし、エレベーターが降りてくるまでの間こちらを振り向いて少し微笑んだ。
    「君の妻は本当に二階層にいるよ、ヒナの推測通りね、ヒスイは彼女に会いにいったんだろう。」
    「…!?フィオナが!?…しかし…何故…?」
    「君たちの飲み水にさ、薬品を混ぜてあるんだ、コロラドアイトっていう僕が作った薬品なんだけれどね。」
    エレベーターが開く。
    「怖い顔しないでよクリス!命に関わるものじゃない、だけど君の奥さんはね、この薬がうまく効いていないみたいなんだ、だからそのケース記録としてね、少しだけ治験に協力してもらっているんだ…だからね、無理に逃げなくていい、時期に君も同じ場所に行くはずだから。」
    「どういうことだ!わかるように説明しろ!…」
    そう僕が質問している間に、エメロードはエレベーターへ吸い込まれて行った。

    …それにしても…そうか、ひとまずは生きている…いや!彼の言葉を鵜呑みにするわけにはいかない……とはいえ、心持ちの問題は変わる、確率的に二階層で生きているとそう信じることができると言うことで、僕の途方もない調べ物が意味のあるものだと思えることは精神的な支えになる。
    …コロラドアイト…確か脳機能障害を起こす危険性のある鉱物の名前だったか…少し調べてみよう。
    …エスメラルダ…火災…コロラドアイト…ヒスイ。
    ファイルの隠蔽、元職員…フィオナ。
    わからないことばかりだな…コロラドアイトについて調べてから、もう一度ヒナに接触を図ってみるか。


    詭弁

    「寂しくないかい?」
    その声は少ししゃがれた、大人の男性の声。
    「どうして?」
    そう僕が聞くと、彼は少し悲しそうに植物園の花に目をやった。
    「君は家族がいない、孤児のお友達も、引取り手が見つかって、今やこの病院にいる孤児も、君一人になってしまった。」
    「なーんだ!そんなことなら、全然寂しくないよ!ミェーチェ先生もヒナちゃん先生も院長先生も!僕の家族はこの病院のみんなだもん!…そりゃお友達がみんないなくなっちゃったのは寂しいけどさ、またどっかできっと会えるし!…ね。」
    僕がそう話していると、車椅子を押していた院長先生はひまわりの花が咲く花壇の前で足を止めた。
    「家族に会いたいと思ったことはないかい?」
    「う〜ん、分かんない、産まれた時からずっといなかったから、僕にはこれが普通だし、今更家族が出来たら…なんて考えられないよ。」
    「…そうだよね、ごめんね、言いにくい話を聞いてしまって。」
    「ううん、全然、僕お話しするの好きだから、院長先生がいつもよりたくさん話してくれて嬉しいよ!」
    「…?私は普段…そんなに話していないかい?」
    「え!?うん、いつもボーっとしてて、話しかけづらいもん!」
    「えぇ…っと…それは…そうか…他の職員たちにもそう思われているのかもしれないね、もう少し、明るく話せるようになれるといいんだけど…」
    「ふふっ…でもいいんじゃない?先生はそう言うキャラだよ、急にお喋りになっても怖いし。」
    僕が笑っていると院長先生も笑った、だけど、それは面白いって感じじゃなくて、僕が笑うのが嬉しいって感じの微笑みだった、そのあと先生に仕事が入って…それで…

    「どうしたの?」
    耳に入る女性の声でハッとする。
    「ううん、ちょっとボーっとしてた。」
    「珍しいね、たんぽぽくんがぼーっとしてるのなんて、いつも元気いっぱい!って感じなのに。」
    「えー?僕も本当だったらもう小学校に上がる歳なんだよ!すこしくらい落ち着くよ!」
    必死に弁明をする僕を見て可笑しいと言うふうにマーガレットさんは微笑んだ。
    「…院長先生がね、好きだったんだ、このお花。」
    「フランスギク?…確か花言葉は寛容…とか寛大…とか…だったような…素敵な花よね、綺麗な白色で…」
    「…全然知らなかった…すごいね…記憶喪失なのに…」
    「確かに…なんで覚えてるんだろうね…」
    そういうとまた顔を見合わせて二人で笑った。
    「どうして急にそんなこと思ったの?」
    「そんなことって?」
    「院長先生が好きだった花…だなんて。」
    「あぁ〜…昔はね、僕、よくここに院長先生に連れて行ってもらってたんだ。」
    そう話すとマーガレットさんは近くのベンチに腰掛け、僕に隣に座るよう促した。
    「火災で両親が亡くなった僕を孤児として受け入れて育ててくれたのは院長先生だったから…だから…その…最近…あんまり会いに来てくれなくなっちゃって…ね…うん…」
    感情的になると涙が出る、怒っていても悲しくなくても、本当に伝えていことがあるのに、涙でそれを伝えられなくなるから、こんな体に嫌気がさす。
    「とても…優しそうな先生だったよね、私も何回かお会いしたわ、無愛想だったけど、とても暖かい人…だった…。」
    話をしながら少しだけマーガレットさんの声がうわずんだ。
    どうしたのだろう、と、顔をみやると、突然僕の背中を摩っていたはずのマーガレットさんが苦悶の表情を浮かべて呼吸を荒くし始めた。
    「どうしたの!?」
    僕が急いで立ち上がると
    「…頭…が…痛い…車椅子に…」
    そこまで言うと手を振るわせながら車椅子の方を指差す。
    「車椅子!?ええ〜と…ナースコールボタン…これか…!すぐに押すね、待ってて!」
    ミェーチェ先生は別件で用事があるからと少し植物園を離れていた、今の状態では誰も植物園に…
    「大丈夫?」
    白衣を着て駆けつけてきてくれたのはエメロードさんだった。
    「あの!マーガレットさんが!」
    「あぁ…うーん…あー…」
    そう言ってエメロードさんはマーガレットさんの首元や腕なんかを触り脈拍なんかを確認し始めた。
    「うぅん…特に異常はないな…記憶障害に付随した…えぇっと…わかりやすく言うと、思い出すための頭痛…かな…」
    「それって…えっと…大丈夫…なんですか?」
    「うん…まぁ鎮痛剤を飲むだけで緩和すると思うけど…それに頭痛が起きたこと自体ははいいことだ、思い出してきてるってことでもあるからね。」
    そう言って、マーガレットさんに鎮痛剤と水を手渡しのむように促すと、「とはいえ、安静にしなきゃいけないから僕が部屋まで連れて帰るよ、たんぽぽくんは…ミェーチェ先生が植物園の鍵を持ってるはずだから、先生が帰ってくるまではここで待ってて、できる?」
    車椅子に何とかマーガレットさんを乗せ、僕の方をチラリと見やる。
    「…できます!」
    「うん、いい子だ、じゃあ少し手伝って。」
    そういうと僕に軽く頭を支えるように言い、ほとんど一人の力でマーガレットさんを車椅子に乗せ、足早にエメロードさんは居なくなってしまった。

    「大丈夫かなぁ…」
    そう呟きながら、やることもないので、一人で植物園を散策することにした。
    特に目的もなくウロウロしていたが、ふと昔、他の孤児の子達と秘密基地を作ったことを思い出した。大した規模ではなかったけれど、すぐにそれが先生たちに見つかって怒られて撤去されてしまった、…あれは今一体どうなってるだろうか。
    思い出してしまったのだから、見に行かなければ落ち着かない、僕はライラックやアリウムの花の道を抜けてガラス張りのテラスの少し奥、あの時の秘密基地を、ありはしないと分かっていながら探し始めた。
    ただ小枝を集めて四角く刺したりしただけだけれど、僕らにとってはそれが秘密基地だった。
    …とはいえ、やっぱりかつての秘密基地の場所には何もなかった、あろうことか、僕らが秘密基地としていたそこは、もうほとんど管理されておらず、雑草が生い茂っていて、もう昔の名残などなくなっていた。
    これなら秘密基地を作っていた方がまだ綺麗だったのではないだろうか、そんな気持ちがよぎるのは、少なくとも秘密基地を作った何人かはその基地の敷地内の雑草抜きはしていたからだ、まぁ、それも僕はみていただけだけれど。
    そんなことを考えながらかつての秘密基地の面影を探していると草むらの中に一枚の白い布のようなものがあるのが見えた。
    気になって近づいてみると、どうやらそれがメモ用紙だとわかった。
    植物園の周りには時間ごとにスプリンクラーで水が撒かれるはずなのだが、このメモ用紙はびしゃびしゃにならずに残っている…ということは、少なくとも直近でこのあたりにいた人のものだろう、誰かの落とし物かもしれない、そう思った僕は悪いとは思いながらメモ帳をのぞいた。
    まだ小学校中学年程度の学びしか得てないため漢字に振り仮名が振られていないと読めないので、せめて名前か、職員さんのものかどうかくらいが分かればよかったんだけど…
    「秘密通路…?」
    気になる文言を見つけ、どうにか読もうとしていると。
    「たんぽぽくん!」
    メモを読もうとしている、その時だった、僕の背後にもう秋だというのに、かなりの量の汗をかいているミェーチェ先生が立っていた。
    「先生!!すいません奥の方まで入っちゃって…」
    なぜかわからないけれど、僕はこのメモ用紙を背中側のズボンのポケットに入れた、落とし物なら今渡すだけでいいだろうに。
    「全然…植物園の敷地から出てなければ大丈夫だよ…はぁ…」
    「ど…どうしたんですか…?そんなに疲れて。」
    「え?あぁ…ちょっと急ぎで仕事をね…終わらせてきたんだ…ふぅ…子供一人を置いて行くなんてエメロードさんは何を考えてるんだ…いや…こんな話をたんぽぽくんにしてもしょうがないんだけど…」
    ぶつぶつ呟きながら、こちらに手を差し出してきたので、その手を握る、手はなんだかボールペンの跡がついていて汚かったけれど、ミーチェ先生の手はいつもこんな感じなので気にならない。
    「そんなに焦らなくてもいいのに…僕そんなに心配?」
    「心配だよ、まだ子供なんだからね、色々できるようになって、たんぽぽくんだって成長しただろうけど、君はまだ子供なんだ、何かあってからじゃ遅いからね。」
    「はぁい。」
    子供扱いされるのは嫌いだけれど、ミェーチェ先生のそれは、嫌いではない。
    二人で手を繋いで歩きながららしくもないことを考えてみたりした。
    どこからが大人になるんだろう、なんて、そんなことを気にしながら、僕はミェーチェ先生と自室に帰った。
    後ろポケットに入れたメモは、また後で返せばいいよね。




    「もしもし〜?」
    「はーい!ようやくですよ〜!って…急ぎなんでしたっけ?僕忘れっぽくて…あはは!」
    「はい、はい、まぁなんとかなるんじゃないですか〜?」
    「いえいえ、僕はお金もらえたらなんでもいいですから!」
    「あー!はーい!それじゃあ、そろそろあの子にも思い出してもらわないと…」
    「了解です!じゃあ決行は一週間後に!」


    水槽

    「お〜い、リラさーん?」
    ぼやけた眼で天井を見つめる、冷たい天井だ、汚れも目立つ。
    「リラちゃ〜ん?」
    少し背中が痛い、少し体を寝返らせるとベットの金具が軋む音が聞こえる。
    「李蘭さん!!いつまで寝てるんですか!」
    「…おはようございます…」
    微睡の中、牢屋のような格子の外に赤髪の女が立っていた。

    「まったく!いつまで寝ぼけているんですか!今日は院長面談の日ですからね、検尿もあります、この紙コップに入れて、スポイトで回収してください!朝の準備ができたら、紙コップ以外を茶封筒にいれて診察室まで来てください!…大丈夫ですか?」
    「…ん。」
    「ふふっ、リラちゃん、朝弱いんだね…かわいい。」
    そういうと当たり前のように私の病室にいるヤグルマさんは私のほっぺを軽く突き、櫛で私の髪を溶きはじめた。
    「ヤグルマさんも髪長いですよね…」
    「うん、可愛いでしょ?」
    「はい、よくお似合いです、ふわふわで…」
    「ふふ、少し癖毛なんだよね〜」
    そう言いながら耳の横にかかっている髪を左手の人差し指で軽く摘んでくるくると回しはじめた。
    病室のベットの上にある小さな空間に置いていたヘアゴムを手に取り軽く縛るとゆっくりと伸びをして目を覚ます、昨日は何があったんだったか…
    「じゃあ私は先に出てるから、検尿、忘れちゃダメだよ。」
    そう言って袋を指さすと、その指を軽く開いてこちらに手を振りヤグルマさんはドアから出て行った。
    昼間はドアの開け閉めが自由なのか…
    ぼんやりとそんなことを考えながら昨日のことを思い出す。
    昨日…そうだ、たしか、ヤグルマさんについて行って…

    「遅い!」
    診察室のドアを開けるなり赤髪の女が大声で怒鳴ってきた。
    「すいません…。」
    軽く目をこすりながら小さな声で謝ると赤髪の女は少し焦ったような顔でこちらに目をやった。
    「あぁ…!すいません、リラさんに言ったわけじゃないんですよ、院長先生が来ないから…」
    「あら、まだ来てないんですね…」
    そう言いながら手を伸ばされたので茶封筒を受け渡す、白衣の下になっていて見えなかったネームプレートをその隙に覗き見た。
    フェール…そういえばそんな名前だった。
    「フェールさんは何の専門医さんなんですか?」
    どうでもいい雑談、院長が来ていないと言うのなら少しここで時間を潰す必要があるだろう、それに職員と仲良くなっておくに越したことはない、ヒナの奪還の為に、少しでも成功確率は上げておきたい…
    「整形外科です、一様…でもここ精神病院ですからね、あんまり生かすことないですよ、僕外部医ですし。」
    「外部医…フリーランスなんですか?」
    「そうですよ〜、タイミーさんです、だから特別診察とかもせず看護師みたいなことしてるわけですよ、勤務時間もあんまり融通効かないので夜ばっかりで、とにかく寝不足です。」
    そういうと大きく口を開け欠伸をした。
    外部医が必要…というとやはり職員が失踪していることと何か関係があるのだろう、人手不足を理由にもしなければ、こんな赤髪の不衛生な職員を私立の医療現場に雇い入れると思えない、私が知るこの病院の院長はこういう輩をあまり好んではいなかったはずだ。
    そんなことを考えていると扉からノックの音が聞こえた。
    「日向ヒスイだ、入るぞ。」
    そういうとフェールさんの返事を聞く間もなく、窶れた男が少し足を引き摺りながら入ってきた。
    「遅いですよ〜、私ヤグルマさんの面倒見るだけで限界なんですからね〜!」
    その言葉を聞き、そういえばと部屋の周りを探してみると、なぜか机の下でヤグルマさんが体育座りをして眠っていた。
    「ふむ、ちょうどいい、鬼灯さん、カウンセリングルームに移ろう、体に不調はないかい?」
    私が頷くと、満足そうに少し微笑み、「ヤグルマさんも、この後に面談を行うから、もう少しここで面倒を見ていなさい。」と声を掛け、私に外に出るように促した。
    「目…悪いんですか?」
    移動までの少しの時間、沈黙を続けてもよかったが、院長と話す機会というのもそう多くないだろうし、情報を引き出す意味でも、少しでも会話をしておこうと思った。
    「ん?少しね、近眼なんだ…というより、そうだな…。」
    と、院長は何かを言い淀むようにして少し足をとめた。
    「火災のことはフェールから聞いているかい?」
    「あぁ…はい、昔この病院で大規模な火災があった…とか。」
    「うん、その時にね、灰が目に入ったんだ、それで網膜が少し傷ついてね、左目がほとんど見えないんだ、院長とはいうがこんな身体でクライエントの命を握るオペをするわけにはいかないからね、今はほとんどオペもしていない。」
    そう言いながら彼がかろうじて白衣から出した手は極度に震えていて、まるで老人のような手だった。
    「私は大学在学中に心理や福祉系の講義も受講していてね、その縁もあってここを精神病院に建て替えたんだ。」
    「ふむ…だけど、どうしてまた、病院を運営しようと思われたんですか?」
    単純な疑問でしかなかったが、もしかしたらデリケートな話だったかもしれないと心の中で少し反省をする。
    「…そうだね、あまりこういうことを言うと胡散臭いかもしれないが、私は昔から多くの人を救いたいと思って医者を志したんだ、人に感謝される仕事ならなんでもよかったんだがね、幸い両親は私を少し聡明に産んでくれたし、人を多く救える仕事なら医者が一番…と思って、馬鹿正直に医者を志したんだ。」
    「その気持ちは…多くの心無い言葉を受けた今でも、変わりないのですか?」
    失敗だった、この質問は明らかに失礼だ、先程からどうしてか、話さなくても良いことばかりが口から溢れる、普段ならこんな話をしないのに、これもカウンセラーとしての実力、なのだろうか。
    少しの沈黙を受けたのち、気まずさを振り払おうと別の話題を口にしようとした瞬間だった。
    「…私は…決して強い人間ではないんだ、誰かを恨むし、私より才能のある人間を前にすれば嫉妬をする、うまくいかなければイライラもするし、余裕がなければ誰かにぶつけてしまう。」
    彼の話を聞いているとカウンセリングルームについており、彼は一旦話を終えて、部屋に入るよう促した。
    席に着くと、まず私の席に紙コップに入った温かいお茶を置き、面談のためのいくつかの質問用紙などを準備しながら、話を続けた。
    「多くの嫉妬や憎しみの向けられ、憎悪や恐怖は、偶像を見つけてそこに注ぎ込まれはじめた、初めに声をあげたのは、おかしな一人だったのかもしれない、だがその数が増えれば自分の恐怖もそこに受け止めてもらえるんじゃないかと思い始める。」
    棚から書類を見つけ出し、チェックリストのようなもので確認した後、私の席の前について、また語りはじめた、やはり目はほとんど見えていないのか目線はあまり合わない。
    「子供の失踪事件で親が不審であれば、きっと親が殺したんじゃないかとネットで騒ぎ立てる、それが事実であれ、確定してない段階で推察すれば無実だった時に親が傷つくかもしれない…そんなことは初等教育で道徳を受けていれば分かるはずだ、だが、どうせ見てないと、私だけじゃないと、軽んじ、口々に意見を飛ばす…また、それが事実であれば、やっぱり間違ってなかった、この親は極悪人だ!と、不特定多数の顔の見えない誰かは叩くだろう。」
    自身の前に置かれたコップのお茶を飲むと、少し咳をして今度は私に質問を投げかける。
    「話したくなければ話さなくてもいいが、君は何かを信仰しているかい?」
    口で話される"しんこう"と言うと多くの同音異義語が浮かび、頭を一瞬悩ませたが、すぐに宗教の話であると理解した。
    「個人的には、なにも…実家はクリスチャンですけど…」
    「宗教は偶像崇拝を嫌う、共通認識としての自身の内側にある神との対話が外的要因によって分裂することを防ぎたいからだ…」
    「…少し難しいです…」
    「…そうだね…簡単にいえば、弱い部分も受け入れようと言うことだ、善なるものは吾これを善とし、不善なるものも吾またこれを善とす。」
    「孔子…ですか?」
    「どんな人にも立場がある、自分だけが不幸で、私を責める全てが悪人だと思えば、幸せなのかもしれないが、私はきっと生きてはいけないだろう、人を救いたいと言う気持ちは変わらない、少し我儘に生きてみようと思ったことも…」
    そういうと花瓶に生けてある花に目をやり深呼吸をした。
    「無駄話をしてしまったね…」
    そういうと少し笑って、また、少し咳をした。
    「さて、面談を始めるよ、鬼灯さん、フェールにまた小言を言われてしまうからね。」
    何かを誤魔化したような深呼吸に少し眉を顰めながら、私は面談を受け始めた。


    刻印

    忘却薬にはコロラドアイトという名前をつけて開発を行っている。
    基データからコロラドアイト自体は完成にこぎつけた、しかし、人体に無害かどうかはまだ分かっていない。

    「こんなところで何してるんですか〜?」
    声をかけてきたのは鬼灯ヒナだった。
    「なにって…妻の容態を確認しにきただけだよ、何か急ぎの仕事があったかい?」
    私が立ちあがろうとすると、そのままでいいというようなジェスチャーをして彼女も妻のベットの横に椅子を持ってきて座った。
    「いいえ、私の知る限りでは、今のところはないです…それより、息子さんには会われないんですか?」
    ヒナはいつもしきりに息子のことを確認してくる、あまり触れられたいものでもないものだからない腹を探られているような、難しい感情が私の中にある。
    「…あまり痛い部分をついてくれるな、会ってはいるよ、勿論ね。」
    「自分を親だとは教えないまま…ですか?」
    「…君は私を残酷だと思うかい?」
    「いいえ〜、私の親も褒められた親でもありませんでしたしね、ちゃんとした親…なんてのは私にとってはツチノコとかネッシーとかと同じですよ〜。」
    「…私はツチノコになりたかったんだけれどね…やはり見たことないものになろうとするのは奢りなのかな?」
    そう聞くと少し困ったような顔をして、彼女は私の妻の体を拭く準備をし始めた。
    「夢って…そういうものじゃないですか?なれないから、憧れるから、そこに夢の形を見るんです、…恥ずかしいですけど、私も…幸せな家庭が欲しい…って、思ってたこと、ありますよ…もちろん、姉二人との…ですけど。」
    彼女はそう言い、すこしはにかんでこちらを見ると、「そろそろ出ていってください、奥さんも火傷痕の残った体なんて、あなたに見られたくないでしょうから。」などと言って私を病室から追い出した。
    …どうせ執刀するのは私なのに…などと、彼女の配慮を無碍にするような無粋な考えが頭をよぎったが、幸い、その言葉が口から漏れ出ることはなかった。
    それから数分後のことだった、妻の病室から私の院長室まではかなり距離があり、特殊な作りでできている病院だから私が院長室までたどり着くのが遅れていたことが原因だとも言えるが、そんなことはともかく、部屋に入るなり無人の院長室からは電話の音が鳴り続けていた。
    何か嫌な予感がした私はすぐに受話器を取るとそこから聞こえて来た声は先ほど話した鬼灯ヒナの声だった。
    「先生!菊乃さんが!!」

    その声を聞いた後、私がなんと返事したのかはあまり覚えていない、ただ、午後からの全ての予定をキャンセルし、患者に不義理を働いたことだけは覚えている。

    菊乃は皮膚の感染症に罹っていた。
    大したことはない、普通の人間であれば経過観察と服薬により、ほとんど自己免疫だけで解決できるような小さな病気だった。
    しかしこれは普通の人間であれば、だ。
    植物状態となっている彼女の免疫は著しく低下している、生命維持装置から体を外せば生命活動が止まってしまうほどの風前の灯…そんな彼女が皮膚感染にかかったとなれば…
    「無理ですよ、助かりません。」
    オペ室でそう口を開いたのはエメロードだった。
    「感染している皮膚を全て培養皮膚に移植して移し変える。」
    「無理ですよ、培養皮膚も同じDNAですから、移植したところで転移して再発するだけです。」
    「延命はできるだろう!!」
    怒鳴り声を上げる私に周りの人間は臆し、距離を取る、私の眼前は呆れた顔でエメロード立ち尽くしていた。
    「そうですね、できます、延命ならね、延命してどうするんですか?菊乃さんが目覚めるまで移植手術をし続けるんですか?無理ですよ、再発した時に今回みたいにヒナが兆候を確認できなければ?そもそも、何度も移植手術を続けること自体現実的ではありません、うまくいかない可能性だって五分五分ですよ、それに…」
    「もういいよエメロード兄様…」
    口を挟んだのはヒナだった。
    「現実的な可能性の話をしているんですよ、僕は、それにそんな不安定な状態でコロラドアイトの投与などすれば貴方が奥さんを殺すことになる。」
    「そんなことはどうでもいいんだ…妻が…菊乃生きてくれれば…」
    私は正常な思考能力をすでに失っていた。
    「呆れた、するとして、誰が手術をするんですか?貴方が?そんなボロボロの体で?」
    「兄様!」
    「はぁ…喧しいな…僕は知りませんからね、好きにしてください。」
    そういうとエメロードは会議室を後にした。

    ずっと…考えていたことがある。
    私はこの生活を繰り返して何がしたいのだろうか、と。
    地獄へ行くとしたら、私1人でいい。
    私の人生など、価値のあるものではないのだから。
    だがただ、自身のエゴのためだけに、未来あるものの生き方まで変えてしまったことは責任を取らねばならないことだと思う。
    ハッピーエンドを目指すには何が必要だと思う?
    尊い犠牲も悪辣な


    地獄へ行くとしたら、私1人でいい。
    私の人生など、価値のあるものではないのだから。
    だがただ、自身のエゴのためだけに、未来あるものの生き方まで変えてしまったことは。

    菊乃は皮膚の感染症に罹っていた。
    大したことはない、普通の人間であれば経過観察と服薬により、ほとんど自己免疫だけで解決できるような小さな病気だった。
    しかしこれは普通の人間であれば、だ。
    植物状態となっている彼女の免疫は著しく低下している、生命維持装置から体を外せば生命活動が止まってしまうほどの風前の灯…そんな彼女が皮膚感染にかかったとなれば…
    「無理ですよ、助かりません。」
    オペ室でそう口を開いたのはエメロードだった。
    「感染している皮膚を全て培養皮膚に移植して移し変える。」
    「無理ですよ、培養皮膚も同じDNAですから、移植したところで転移して再発するだけです。」
    「延命はできるだろう!!」
    怒鳴り声を上げる私に周りの人間は臆し、距離を取る、私の眼前は呆れた顔でエメロード立ち尽くしていた。
    「そうですね、できます、延命ならね、延命してどうするんですか?菊乃さんが目覚めるまで移植手術をし続けるんですか?無理ですよ、再発した時に今回みたいにヒナが兆候を確認できなければ?そもそも、何度も移植手術を続けること自体現実的ではありません、うまくいかない可能性だって五分五分ですよ、それに…」
    「もういいよエメロード兄様…」
    口を挟んだのはヒナだった。
    「現実的な可能性の話をしているんですよ、僕は、それにそんな不安定な状態でコロラドアイトの投与などすれば貴方が奥さんを殺すことになる。」
    「そんなことはどうでもいいんだ…妻が…菊乃生きてくれれば…」
    私は正常な思考能力をすでに失っていた。
    「呆れた、するとして、誰が手術をするんですか?貴方が?そんなボロボロの体で?」
    「兄様!」
    「はぁ…喧しいな…僕は知りませんからね、好きにしてください。」
    そういうとエメロードは会議室を後にした。
    ずっと…考えていたことがある。
    この道のりの先に私は何を得ようとしていたのだろう。
    無駄に足掻いて、周りを巻き込んで、あの時大人しく、妻を看取っていればそれで良かったのかもしれない、厚かましく悲劇のヒロインになろうとしなければ、自分以外の人生まで巻き込んでしまうことはなかったんじゃないだろうか。
    いくら迷ったとしても、結局歩みを進めてしまったのは自分なのだから、誰も慰めてはくれないし、慰められるような人間でもない。
    私の人生など、価値のあるものではないのだから。
    だがただ、自身のエゴのためだけに、未来あるものの生き方まで変えてしまったことは責任を取らなければならない。
    地獄に行くのは私だけでいい。
    もう、残された時間はない。



    日向菊乃
    親族による皮膚移植を行い、感染皮膚を除去。
    移植基のドナーとなった息子は死亡。
    遺体はイギリスにある安置所へ送られた。


    太陽

    秘密通路…かろうじて読める漢字と病院の一階にある図書室で漢字を調べ読めた範囲でこのメモを解読することにした。
    分かったことは二つ。
    これがミェーチェ先生が頭を悩ませていた、最近よく問い合わせに来る記者を名乗る男が書いたメモ帳なのではないかということ。
    二つ目は建造段階の資料?というものがあり、この病室の設計図には下にさらに空間があるはずで、そこに何かが隠されているんじゃないか…ということだった。
    とはいえ…何年もここで暮らしているはずなのに、そんなものを見たことはない。
    そもそもマーガレットさんの病室より下の階は、難病患者さん?がいるとのことで立ち入り禁止になっているはずだ…
    そもそも…
    「たんぽぽく〜ん?」
    「はーい!」
    自身の部屋で考え事をしていると、ドアの外から僕を呼ぶ声が聞こえ、メモを隠した。
    声の主はミェーチェ先生だ。
    「どうしたの〜?」
    僕がドアを開けると白衣を土まみれにしたミェーチェ先生がそこに立っていた。
    「ど…どうしたんですか?」
    「あはは…ちょっと植物園の花の手入れをね…少し手伝って欲しいなと思って呼びに来たんだけど、取り込み中だったかな…?」
    「ううん、絵本読んでただけだから、大丈夫だよ〜。」
    「はは…ありがとうたんぽぽくん、うちの事務局の人間は僕をなんでもやってくれる便利屋だと思ってるからね…一様そこでぽちぽちパソコン打ってる事務局の人間と違って、ちゃんと大学で国家資格取ってここに来たんだけどなぁ…何考えてるんだか…」
    恨み言を吐くミェーチェ先生は拳に力を入れすぎて持っていた鉄製のスコップがなんだか曲がっているように見えたので、僕はぎょっとして準備を整えて一緒に植物園に向かうことにした。

    「ミェーチェ先生はなんでこの仕事辞めないの?」
    2人で雑草を抜きながら、関係のない疑問を投げかけた。
    「本当にね…いつも辞めてやろうと思ってるよ…」
    相変わらず清潔である証明のための白衣を茶ばませながらミェーチェ先生は話を続けた。
    「総合病院が燃えた時、僕まだ新卒でさ、…新卒って言ってもわかんないか?」
    「新人さんだったってこと?」
    「そうそう、大学を卒業して、まだ社会も何も知らないまま、地元で1番大きい病院だった総合病院に精神科があったから、そのまま流れで入ってさ…でも僕、要領悪くて…クライエント…患者さんにも迷惑かけてばっかりで…」
    僕が根の深い雑草が抜けず必死に頑張っていると、ミェーチェ先生が少し微笑みながら一緒に抜いてくれた。
    「僕…元々自分に自信もなくてさ、まぁ…今でもないんだけど…病院…辞めようと思ってた日に院長先生に会ったんだ。」
    「院長先生って今の?」
    「うん、ヒスイ先生…当時は院長先生じゃなかったんだけどね、彼は病院内でもかなり有名で…僕と3.4才くらいしか変わらないはずなのに、多くの患者さんから、評判も良くて、研究の分野でも天才的で…」
    「そんなすごい人だったんだ…」
    「ふふ…まだたんぽぽくんが産まれる前だもんね、当時はすごい人気だったんだよ、テレビとかにも出ててね…だから…それが羨ましくて、妬ましくて…」
    話していた先生の手が止まったので、僕も手を止めて先生の話を聞く。
    「初めて顔を合わせたんだ、本当にいたんだ…なんて思いながら。」

    「…おぉ、ミェーチェ先生…だったかな?」
    「僕のこと…知ってるんですか?」
    「同じ職場で働く人間のことくらい覚えているよ…新卒で入った子ならなおさら…挨拶で話していたろう、私のことを尊敬してくれてると言ってくれていたね。」
    「すごいんですね…ヒスイ先生って…僕なんかより…ずっと忙しいはずなのに…」
    「ふふ、今は、そうかもしれないね。」
    「慰めですか?」
    「…何か慰めるようなことがあったかな?」
    「…いや…すいません…なんでもないです。」
    「私の患者さんにもね、複合症…合併症という方が君には伝わりやすいかな…そういうクライエントさんがいる。」
    「まぁ…専門が脳科学…ですもんね、脳は繊細ですから、生活習慣やメンタルなんかも確かに必要そうです。」
    「君のことを聞いたんだ、患者さんからね。」
    「僕のこと…ですか。」
    「新人さんだった、あたふたしていて、自信がなさそうで…」
    これ以上、聞きたくないと思った、せっかく尊敬している人に会えたのに、そんなふうに思われていたことも、そう覚えられたことも恥ずかしくて、…今すぐここから消え去りたいと思った。
    「だけど他のご年配のお医者さんより、偉ぶってなくて、同じ立場で同じだけ悩んでくれたって。」
    「…」
    「深く悩んでしまうことは、確かに自分の心を守ることには向いていないかもしれないけれど…君のその思慮深さと優しさは、きちんと患者さんに届いているよ、助けになってやることはできないけれど、君みたいな人が辞めてしまおうというのは、私は悲しい。」
    ヒスイ先生はそう言って、僕の持っていたファイルに目線を送った。
    「ヒスイ先生の方からは、退職届が入っていることなんか見えていなかったはずなのに。」
    「今考えれば、お偉いさん方で辞めそう…とか共有されていただけなのかもしれないけれど、僕はあの時、エスパーなんじゃないか…なんて真剣に考えて…それから、少し、心が軽くなったんだ。」
    僕がおぉ…っと感嘆で言葉を出せないでいると、少し微笑みながら雑草抜きに戻った。
    「結局辞めちゃったんだけどね。」
    「えぇ!?辞めない流れじゃなかったの!?」
    「そこから少しは続けたけどやっぱりパワハラがひどくてさ、転職するなら早い方がいいかって冷静になって辞めたんだ。」
    「えぇ…じゃあなんで戻ってこようと思ったの?」
    「ふふ、大丈夫?面白いかな?僕の話なんか聞いて。」
    「面白いよ!僕、院長先生のこと…何にも知らないから…」
    そういうと、ミェーチェ先生は少し悲しそうな顔をした。
    「僕が辞めてから数ヶ月してね、病院で火災が起きたんだ、僕が辞めた代わりに入った新人さんが火をつけたって…なんだか、自分のせいな気がして、その後も結局転職先を探す元気もなくて、どこにも就職しないまま、フラフラとアルバイトだけを続けて生きてた。」
    「ニュースではヒスイ先生が助手と浮気してたとか、研究成果を盗んだ…とか、誰が言い始めたかわからないようなデマばっかり流されるようになって、お前らに先生の何がわかるんだって…怒ってみたりするけど、そこにいるのは無職の変な男で。」
    「そんな生活を続けている時に、エメロードさんから連絡が来てね、ヒスイ先生と病院を建て直すから、力を貸してくれないかって。」
    「天啓だと思ったよ、憧れの人から必要とされたっていうことも嬉しかったし…」
    そうして雑草抜きを中断し、集めていた袋をまとめ始める。
    「だから、恩…かな、辞められないのは、まぁ…ヒスイ先生がいなくなったら…」
    その言葉を言い終わる前に何かハッと考えたような顔をして、言うのをやめたようだった。
    「手伝ってくれてありがとう、あとはこれを焼却場に持っていくだけだから…シャワー室、開けてるから、入ってから部屋に戻るといいよ。」
    そういうとかなりの重さがあるはずの袋を軽々持ち上げて植物園を後にした。
    シャワー室…確か下の階に…
    なんだか悪い考えが浮かぶ僕だった。


    飛翔

    はろーはろー!
    目まぐるしく視点も時間軸も変わるから文章が読みにくいですよね〜!困ったものです。
    いつの時間軸?とか考えるのが楽しいって人はいいですけど、文字読んでるだけじゃ誰かわからないからねっ!だから世の創作者様は変な一人称のキャラをいっぱい出すんですかね〜?じゃあ私も拙者!とか某!とか言ってる方がいいんでしょうか!?あ!申し遅れました。わたくし…
    「…はぁ。」
    狂人のフリをするというのは存外体力を使うもので、本心で話していないというだけでこんなにも疲れるというのは、初めは考慮に入れていなかった。
    姉様を侮辱する心づもりは無いとはいえ、生前を侮辱するような気分がして気分も良く無い。
    それもこれも全てはエメロードのせいだ、姉様の死まであんな奴に奪わせてなるものか。
    とはいえ、完全な隔離空間、無数の監視カメラと隠す気すらない盗聴器、ここから出た後の私が統合失調症になってしまったらどう責任をとってくれるのだろうか。
    ここから出すことは一切ない…ということだろう。
    私は背中側に回した手でベットの下にあるアルカリ性錠剤の瓶に手をかける、ここにいない間に漁られていてはたまったものではない、中に錠剤が入っていることを感覚で判断し背中をかくフリを辞めた。
    ここから脱出するためには二階層にいる人間がここのセキュリティを解除するか、隣の部屋にいるクリスさんが、セキュリティサーバールームに入ってここの電源を落とすしか方法はない…けれど…クリスさんには取り付く島はない…か。
    うーん!詰んでますね!これ!笑
    当然だろう、私は目の前で彼の奥さんであるフィオナさんを誘拐し、その前にも彼を実験台にし薬剤投与を勧めていた。
    私自身にここを出る気もあまりないけれど、死ぬ前にはせめて意味のある人生にしなければ、私のために生きてくれたエスメラルダお姉様に顔向けできない。
    …姉様は、ここで起きた火災の首謀者とされている…けれど、あの事件はどうにもおかしいことばかりだ、出火基の病室には姉様の他に菊乃さんがいたはずだ、姉様だけの遺体が都合よく全焼し、菊乃さんだけが植物状態程度で済むはずがない、それに姉様の遺体とされた焼死体はDNA鑑定すらされていない、現場の状況のみで断定され、詳しい捜査を望んだ私の届出は即棄却された。
    …実家のこと…なのだろう、お義父様にお話をお伺いした際もはぐらかされてしまった。
    レミニス…忌々しい私の父。
    居心地がいいとはとてもいえないベットの上でもう数え終わったと言えるくらいの天井のシミをまた見つめながら、李蘭ちゃんが来てくれたかどうかなんて考えていたとき、ちょうどクリスさんが部屋に戻ってくる音がした。
    「クリスさん、長い棒とかありませんでした?その鉄格子からここの鍵を開けるのにちょうど良さそうな…」
    「あぁ…あったかもな。」
    ?…なにか普段と様子が違うような気がして、普段だったら適当にはぐらかすだけで終わる会話をもう少し話してみようと思った。
    「クリスさん…」
    私が質問をしたところだった、声を被せるように珍しくクリスさんが私に声をかけた。
    「なぁここの監視カメラは、そこの花の裏にある分しかないんだよな?」
    …なんの質問だろうと、疑問に思っていると、「話せないなら一回壁を軽く叩いてくれ、僕は耳がいいから小さな音でいいよ。」
    私の知る限りでは、この部屋には一台しか監視カメラがない、証拠隠滅の時間を減らすためか、クリスさんを泳がせるためか、はたまた私からアムネシアの夢のレシピを聞き出すために隠しているのかはわからないけれど、とりあえず彼の信頼を稼いでおきたいので、軽く壁を一回叩いてみることにした。
    「ははっ…考えてみたんだよ、僕がなんでここにいるのか。」
    「今日はやけにご機嫌ですね、クリスさん。」
    「いいことを聞いたんだ、色々とね。」
    「それで、何がわかったんですか?」
    そういい、彼の部屋が見える鉄格子を覗こうと少し背伸びをして、彼の部屋を覗くと。
    《ゴシャーン》
    「えっ!?えっ!?何してるんですか!?」
    彼がどこから拾ってきたかわからないアルミ製のパイプを振り回しカメラを叩き割った。
    「盗聴器もそこから投げてこい、壊してやるから。」
    「ばっ…!?あなた警察でしょ!?器物破損ですよ!?」
    「話を聞きたいんだよ、段々と僕も真相が気になってきた。」
    「はは…」
    めちゃくちゃな人だと思った、フィオナさんの旦那さんと言われれば納得だけど。
    私は盗聴器を投げ入れた。
    「それで…何が聞きたいんですか?」
    彼は楽しそうに盗聴器を破壊し私に問いかける。「知ってることを、全部だ。」


    湾曲

    「さて、面談を始めるよ、鬼灯さん、フェールにまた小言を言われてしまうからね。」
    そういうと彼は先ほど確認していたチェックリストのようなものに目を落とす。
    「ヒナを…助けに来たんだろう。」
    寝耳に水…というか目から鱗…というか、ええと…拙い語彙で今の気持ちを表す術を持ち合わせていないのだけれど。
    その一言にただ、驚き、ゲームを隠されていたのにこっそりやっていた子供が、ゲームをやっていることがバレた時のように、私はしどろもどろになった。
    何処でバレた!?そう考えたのも束の間、何もいえずにいる私を揶揄うように笑った。
    「なに…取って食ったりしないよ、そのつもりならこんな回りくどいことをしないではじめから捕まえているさ。」
    「…ええっと…」
    頭が空っぽだった、さっきまでポーカーフェイスを貫いて、この人の信頼を勝ち取って情報を抜き取ろうなどと考えていたのに、こんなにもあっさりだったから、緊張の糸が切れてしまった、キャパシティオーバーだ、何をどうしたらいいのか1から考えるには、私は場数が足りなさすぎる。
    「…順序を考えるべきだったかな…すまないね、あまり人と話していなかったから。」
    私を気遣うように言葉を紡ぐ彼に流石に申し訳なくなり、何か言葉を捻り出そうと「ヒナは…どこなんですか?」と子供みたいな質問を投げかけてしまった。
    「下の階にいるはずだよ、あまり目立った動きをれても困るけれどね、危害は加えていないし、もう時期君のもとに帰ってくるはずだったんだ。」
    「…だった…?」
    そういうと少し悩みながら順序立てて話そうと頑張っている様子だった。
    「そもそも君に当院への入院許可を出したのは私なんだ。」
    「それは…勿論…院長ですから…」
    「あぁ…いや、君は書類を偽造していたろ、本当は許可取り下げが行われていたんだ。」
    話の容態がつかめない、ほぼ話したことのない人間から都合のいい甘言ばかりを聞かされても、どんどん警戒心が増していくだけだ、彼を信じる根拠は私にはない、ヒナが生きていることすら、本来なら疑うべきだろう。
    「容量を…得ないことを言うのは辞めてください、簡潔に…何か言いたいことがあるなら言って欲しいです…」
    やけくそというよりはこれ以外で私にアドバンテージを得る方法がないと考えた。もし世間の噂が言うようにここに監禁施設なんかがあるのなら、私はここへの潜入がバレた時点で終わっている、それも院長にだ、これを隠蔽することは不可能だろうし、何か目的があるにしても信用ならない。
    「う〜ん、簡潔に言うと、君にヒナを連れて帰って欲しいんだ。」
    …?
    「さて、じゃあ順序立てて話すよ、鬼灯さん。」
    「…はい。」
    「君は私に会ったことがあるんだけれど…覚えているかい?」
    「…記憶には…ありません…」
    「火災の時にね、焼け跡から君が妻を助けてくれたんだよ。」
    「あぁ!あの時の…申し訳ないです…私がもっと早く駆けつけられていれば…奥様は…」
    レミニス総合病院の火災、あの時、私は救護班として、現場にいた。人の波に流されるなかで上司と逸れてしまった私はせめて今自分にできることをと、火元へと走り、そこで妊娠中で意識を失っている日向菊乃さんを見つけた。
    「いいんだ、死んだわけじゃないし、最近ね…妻に回復の兆しが見えてきたんだ…それもヒナのおかげでね。」
    先程からあまり声色の変わらなかった彼だけれど、奥さんの話をするときだけは声が少し高くなったような気がする。
    「ヒナは…いつからここで働いていたんですか?」
    「出来てすぐ…と言うより、ここの復興計画の立ち上げメンバーだったよ。」
    「…知りませんでした…私、あの火災からヒナとは連絡が取れなくなっていて…、それに…姉のことも!」
    「エスメラルダさんのことは…残念だったね、私も何もしてあげられなくて、…こんなことを言う権利が私にあるのかは分からないが…後悔している。」
    「それは…」
    こちらのセリフだろう、私の姉のせいで家族を失ったも同然、彼には恨み言を吐く権利こそあれど、こうして好意的に私たちと話す理由はない。
    「あぁ、いや、恨んでなどいないんだ、彼女達を病院に雇い入れたのは私だ、統合失調症を患っていた…と言うことは知っていたし、リスクがあったこともわかっているよ、だから、残念なんだ、私は彼女を救ってあげることができなかった…と。」
    私は、ほとんど会ったことがないこの男性に、なぜかなんでも許されているような感覚がすると、さきほど感じ、失言を繰り返した、今もこうして自身の危機的状況であるにも関わらず、なぜかリラックスしてこの男と会話している。
    ずっとなぜか分からなかった違和感は、今こうして話していることで分かった。
    人間にある悪意や恣意的欲望を、彼からは一切感じない、…感じるのはただ、底なしの優しさと。
    …絶望感…なんだか、死ぬ前の親戚を思い出す、全てを諦めたような、安らかな…
    「看過されたかな…君もヒナに似て聡明だから、私をみて感じただろう。」
    「…」
    「私はもう、長くないんだ、医者の不養生と言うと自罰的で笑えるが、私は罪を重ね過ぎてしまったらしい。」
    「…何故、貴方は監禁や違法実験などを行っているのですか?」
    「違法実験?はは…どこで聞いたか分からないが、違法性のあることなどしていないよ、私はできる限り、皆んなに自由な生き方を与えてあげたいと思っている…」
    「でも実際…!!」
    ヒナは…閉じ込められていると…
    「…うん、だから、ヒナを連れて、ここから出て欲しいんだ。」
    そう言うと彼はファイルに挟んであったであろう院内の地図を私に差し出した。
    「こんなことをするつもりじゃなかった…なんて言うと言い訳に聞こえるだろうが、本当にただ、妻を助けたかっただけなんだ。」
    その瞳に嘘の色は見えなかった。
    「君も鬼灯なら、レミニスのやり方を知っているだろう?…私も分かっていながら、ハメられたんだよ…だけど。」
    「…」
    「妻だけは、幸せに生きて欲しいんだ…私のせいでくだらない世襲などに巻き込まれて…それも他責思考なのかもしれないけれど、彼女は…幸せにならなきゃいけない。」
    「ヒスイ先生、もしかして… 」
    「…それ以上は、言わないでくれるかい?」
    「…はい。」
    それから少し話をして、多くの手がかりと、ここに至る経緯を少し聞いた。
    「本当にいいんですか?」
    そういうと彼は肩をすかし。
    「まぁ、君に任せるよ。」と言って、カウンセリングルームを後にした。


    アムネシアの夢計画 1

    アムネシアの夢という名前は記憶喪失を模した薔薇の花言葉にちなんだ名前だ、この薬品のベータ版となった薬剤は日本語にして神の涙、などという大層な名前をつけられていたが、そのまま名称として使用するのは権利などの関係からよくないと判断し私が命名した。
    簡単に言えばアムネシアの夢は記憶再生を行う薬剤、コロラドアイトは記憶忘却を行う薬だ。
    菊乃はあの火災事故以降、植物状態となってしまってはいるものの、身体は皮膚の火傷や裂傷以外は概ね健康と言える状態まで回復した。
    彼女の意識は子供を産んで以降から失われたと記録に残っている、私の古い旧友の伝手で、医師の友人や、遺伝子の専門家など、多くの人間に調査を頼んだが、有力な情報はほとんど得られなかった。
    そんななか、レミニス精神病院として建て直す前、ミェーチェが私の家を訪ねたことがあった、菊乃を取り囲むようにして、2人で話していると、もしかしたらトラウマやショックなことが大きすぎて受け入れられず、意識を遮断してしまっているのかもしれない、そのトラウマを改善することができたのなら、あるいは…という旨の話をされた、その後エメロードから病院の再建を依頼され、私は精神科病院として、再建することとした、…最初から、私のすべては菊乃のためだった。
    コロラドアイトは脳機能を麻痺させ、特定の記憶を忘却させる効果を期待し作成を行なった。
    理論上は完成まで漕ぎ着けたものの、アヘンアルカロイドやクロロホルムなど、マウス実験で成功したとして、人間に投与するには猛毒と言わざるを得ない薬品となり、人体への影響は一切考慮できないものが完成した、こんなものを菊乃へ投与するわけにはいかない。
    また、コロラドアイトには欠点があり、必要な記憶さえ失わせてしまう可能性があるということだった。空想や絵空事の様に思う通りなどにはならず、忘れたい記憶をピンポイントで忘れさせることなど不可能だと分かった。
    そこで開発を行ったのがアムネシアの夢だ、アムネシアの夢はほとんどすでに完成されていた。
    というのも、エメロードが理論体系の殆どを完成させており、理論上は、作成可能な段階まで来ていた。
    …が、安定した結果を出すことはできず、アムネシアの夢の調剤には、何年単位の時間が必要であることが分かった。
    菊乃に安定化したコロラドアイトを投与し、事故の記憶を失わせ、その分別の記憶をアムネシアの夢で再生する、それが私の目指したアムネシアの夢計画だった。
    計画がまだ、十分に進んだとは言えなかった段階のとき、ヒナから菊乃の火傷痕からウイルス性皮膚炎の兆候を確認したと報告があった。
    ウイルス性皮膚炎自体は軽微なものだが、経鼻チューブとPEGによる栄養補給のみで生命活動を行っている菊乃にとっては深刻な問題だった。
    患者の同意がない状態では皮膚移植などの治療は違法とされているが、緊急事態と判断し、私は彼女の皮膚を他のドナーから移植するに至った。
    とはいえ、彼女の皮膚に定着する皮膚を移植するためには同遺伝子系列を持つ皮膚の培養が必要だが、彼女の両親はすでに他界しており、彼女の親族といえば、生まれたばかりの私と菊乃の子供だけ、であった。
    私は、他の職員には黙って自分の息子の皮膚から彼女のための培養皮膚を作成し移植した。
    当然、一歳になるかならないかくらいの息子はその後体調不良となり、そのまま亡くなった。
    息子の供養をした一週間後、私は突如として意識を失った。


    アムネシアの夢計画 2

    意識を失ったのは鉛などが体に蓄積した結果だった、コロラドアイトやアムネシアの夢の作成で多くの化学薬品を使用していた私は、自身の身体がすでに朽ちかけていることに気づかなかったのだ。
    私はコロラドアイトの安定化をエメロードへ、アムネシアの夢の製造をヒナへ託し、アルマという大学自体の友人の家を訪ねることにした。
    彼は大学時代の私と菊乃の友人であり、遺伝子研究を専門にしている研究者で、私の過去の研究にも大きく関わり支えてくれた私の唯一の親友と言える人間だった。
    彼にだけは、全てを話そうと、これまでの経緯を語り、息子のクローンを作ろうとしていると相談した。
    初めは本気で怒られ、止められたが、私のわがままについに折れ、彼も協力してくれることになった。
    それからは殆ど病院のことはエメロードに任せて、私はクローン研究を行い始めた。
    菊乃の遺伝子から複製したクローンはやはり同型のウイルス性の皮膚炎にかかる傾向が強く出た。また、彼女へ薬を投与する為の予行演習として、このクローンをコロラドアイトの安全性の確認などにも活用することとした。
    最終的に、アルカリ性溶剤を規定量混入させることで中和し、人体への影響が限りなく少ない段階まで、たどり着くことに成功した。
    それからは私は病院へ戻り完成した息子のクローンの教育とアムネシアの夢の完成への研究を並行して行い始めた。
    …しかし。

    「もって…あと一年…かと。」
    苦虫を噛み潰したような顔、と、言われてパッとしない比喩表現もないだろうと思っていたが、実際にこんな顔なのだろうと思うくらい、顔を顰め、ヒナは私に余命を告げた。
    「そうか…」
    3ヶ月、その猶予で完成できなければ、諦めよう。
    そう考えた。
    それからは殆どが意地だった、手の震えは止まらず、まともに診療などできない、目も霞み、たった一人の最愛の妻の顔すら、私はもうほとんど見ることができなかった。
    せめて、もう一度だけで良かった、自分の心だけが満たされることになったとしてもいい、ただ一言、謝りたかった。
    ただ、感謝と、愛を伝えたかった。
    私の人生で最も色づく華やかな君へ。
    何も見えなくなってしまっても、君のことだけは忘れらそうになかった。

    一週間がすぎた。
    クローンの実験で失敗し、死亡してしまったクローン体を遺棄する場面を矢車さんに見られてしまった、すぐに旦那のクリスさんに話が行くだろう。
    そうすれば、私はもうここで活動できないかもしれない。
    少しの間だけ、我慢してもらおう、彼女たちならきっと分かってくれるだろう。
    ヒナも足掻いてくれている。

    残り二週間。
    私はもう、アムネシアの夢の完成を諦めることにした。
    コロラドアイトの投与だけでいい、事故のショックで目覚めないのなら、私との思い出ごとかき消して仕舞えば良い、私のことなど思い出さなければ、こんな事故のことなど忘れて幸せに生きていけるはずだったんだ。
    諦めよう。

    彼女の幸せのために。
    私を、私に関する全ての記憶を…
    クローン体の完成後、皮膚の移植を完璧に行い、コロラドアイトを投与した。
    眼球の複製のみ間に合わなかったがために、すこしの弱視が残ってしまったものの、概ね成功と言える結果だった。
    彼女の記憶に蓋をし、フラッシュバックを少しでも軽減するために、マーガレット。と仮名で呼ぶこととした。

    これで、私と君はお別れだ。
    苦労をかけてしまった、辛い思いをさせてしまった。
    私の愚かな行いを、どうか全て、忘れ去ってほしい。


    マーガレット

    「何をジロジロと見ている?」
    そういうと、彼はオフィスからゆっくり立ち上がる。
    別に仕事を中断してまで、話すほどの話でもないのに、わざわざコーヒーを淹れながら、私に続きを話すことを促すように目を向ける。
    「やれやれ…それは空想上の話だろう。」
    少し枯れていて、鼻声で、決していい声ではないけれど、耳に馴染む優しい声色。
    「私は花など興味がないよ、…大体科学者が花言葉など信じるはずがないだろう。」
    少し歳上で、私より背が高くて。
    「なに?花と同じ名前?…はは…ならカズラじゃなくて蘭だろう普通。」
    コーヒーとインクの匂い。
    「蘭だと華やかな恋?…だから私は気にしないと…」
    大好きな、あの笑い声。
    「何を怒ってるんだい?…そもそも私の名前は宝石から来ているんだよ…中国では貴重で長寿や安定など…あぁ…もう…花くらい私が買ってやる、機嫌を損ねるな。」
    困ったように笑う貴方の顔が好きで、いつも貴方をわざと困らせていた。
    ねぇ、こっちを向いて?
    お願い、ほら、悲しい顔をしないで?
    私から離れていく彼はどこかひとりぼっちで、、

    「菊乃!!」

    ずっと彼が呼ぶその名前に、私は何かを思い出す。
    誰なのかも分からない、ただ、その声が少しずつ力のないものへと変わっていく。
    「目を…覚ましてくれ…お願い…だから…」
    彼は私の手を握って、ベットに倒れ込む。
    どうして…泣いているんだろう…返事をしてあげたいのに喉から声が出てこない。
    「あぁ…君は本当に目覚めるのかい?いっそ…いや…すまない、…今日は…もう、かえるよ。」
    分からない…会ったこともないはずなのに…彼が悲しいと…私の胸も締め付けられる。

    寂しいよ、帰らないで、お願い、そばにいて。
    離れていく、思い出せない、誰かの声が。

    「君は…馬鹿にするかもしれんが…」
    瞬きをしたと思ったら、今度はさっきと同じ部屋に着いた、これが夢なんだと嫌でもすぐわかる。
    だけどどうして、私はこんなに、この夢のことが忘れられないんだろう。
    「その…なんだ…受け取って欲しいものがあるんだ…」
    そう言って彼は大きな花束を私に差し出した。
    「…な…泣くほど嫌だったかい?…す…すまない…やはり歳の離れた君に…こんなことをするのは気持ちが悪かっただろうか…気の利く人間ではなくて…」
    よく分からないけれど、不思議と胸がいっぱいになるような心地がする。
    「え…?違う?…嬉しくて?」
    「は…はは…実は…すごく考えたんだ…君が…好きな花は…わかるんだが…喜ぶものがわからなくて…」
    口…が、…動く…
    「ねぇ、ヒスイ…花言葉なんて気にしないんじゃなかったの?」
    「いや…そうだな…ふふ、変えられたんだよ、君に。」
    彼の朗らかな声に胸が満たされていくのを感じる。
    自分の口から聞こえた言葉、間違いなくそれは私の声だった。
    「ねぇ、ヒスイ…、愛してるわ。」
    ヒスイ…そう、私の大切な、たった一人の家族。
    なんで、忘れていたんだろう…
    菊乃…私の…本当の名前…。

    そうか…ヒスイは…ひとりぼっちだったんだ。

    目を覚ますと、目からは涙が溢れていた。
    萎れたヒスイの花の奥にあるカレンダー見れば自分が丸2日寝ていたことがわかる。
    花瓶にいけられた花はきっと、あの人なりの意地だったんだ…
    私はどうして記憶を失っていたのだろう…
    どうして、みんなから示し合わせる様にマーガレット…と呼ばれていたのだろう。
    あれから私は…ううん…頭に靄がかかった様にそれからのことを思い出せない。
    ただ…一つだけ、分からないことがある…
    たんぽぽ君…あの子は…誰?


    「ねぇたんぽぽくん、それで…僕に用ってなにかな?」
    「マーガレットさんのこと…エメロードさんが病室に運んでからもう丸2日寝たきりだよね?何かあったのかなって。」
    「なんだ、そんなこと…もうすぐ目が覚めると思うよ、僕何もしてないしね。」
    「え!?お医者さんなのに何もしなかったの!?」
    「言い方の問題だよ、処置はしたさ、でも彼女が倒れたのはもっと他の原因があったんだよ。」
    「他の原因って?」
    「患者さんの個人情報だから君には教えられない。」
    「えー!なんでよ!いつも色々教えてくれるじゃん!」
    「君のために言ってるんだよ…まぁ別に君がどうなろうと僕はどうでもいいけど…ミェーチェ先生に聞いてみたらいいんじゃない?」
    「僕も聞けるならそうしたけどさ〜、ミェーチェ先生最近院長先生の頼まれごとがあるからとか言ってずっと職員棟から出てこないんだよ!」
    「…頼まれごと?…聞いてないな…」
    「エメロードさんじゃ役不足なんじゃない?」
    「僕がミェーチェより劣ってる訳があるか、…というか誤用だよそれ。」
    「ご用?」
    「えっとねぇ…」
    深くため息をつく、何かやらなければいけないことが残っていると言った感じで、ずっとソワソワしている。
    「なにか隠してるの?」
    そう聞いても彼は飄々とした態度ではぐらかし、仕事があるからと去っていった。
    …マーガレットさんのことは結局分からずじまいだったけれど…もう一つの目的だった疑問を解決することができた。
    エメロード先生は、自分のオフィスに戻っていない…
    …明日オフィスの中を調べてみようか…


    願いが一つだけ叶うとしたら。

    朝日が昇る、…と言ってもこの窓からじゃ外は見えないけれど、道化のフリをして、外をぶらついてみても、私の探し物はどこにも見つからない。
    大学生の時、真面目とはいえない学生だったから、単位が取れたかどうかもわからず、ただいつか来るであろうタイムリミットがいつ来るかわからないまま迫っているという感覚だけがあることが嫌で、せっかくの休みなのに毎朝大学のポータルサイトからお知らせが来ていないか確認してしまう、その時間がたまらなく嫌いだったことを思い出す。
    探し物は見つからないのに、確実に一日、一日、いつ来るかわからないタイムリミットは確実に眼前へと迫り来ている。
    日に日に何を考えていたのかさえ忘れていく。
    毎日大切な誰かからもらったあの小瓶に入った薬を飲んで、少しずつ記憶を呼び戻す。
    「ヤグルマさん。」
    「なんでしょー?」
    「いつまでそうしてるんですか?」
    「えぇ…?面談があるから待っててって言われたから待ってるんだよぉ?」
    「…いつまでそのふざけた演技を続けるんですか?って、言ってるんですよ。」
    「さぁ?…君たちの悪事が裁かれるまでじゃないかなぁ?」
    「そうやって、いつも被害者ヅラなんですね、貴方って。」
    「…いつもって…昔の私を貴方は知ってるの?」
    「…もうそんなことも忘れちゃったんだ…何も覚えてないって、そうやっていつもいつも!!」
    彼女が鬼気迫る顔でこちらに詰め寄る、私より少し背の低い彼女はヒールを履いて私よりも少し背が高く見える。
    「…もういいです…こうして貴方に会えただけでも、僕には価値のあるものでしたから…」
    「フェールさんは私に会いに来たの?」
    「えぇそうですよ、こんな腑抜けに遭うために危険を犯してきただなんて存外笑える話ですけどね。」
    「そう?あんまり面白くないよ。」
    「自嘲してるんですよ!貴方に笑われたくて…」
    そこまで話したところで、空を見上げてため息を吐いた。
    「無駄ですよね…貴方には何を言っても届かない、貴方はそういう人でした…昔から。」
    「おかしなこと言うね、貴方が記憶を奪ったのに。」
    「どこまで覚えているんですか?フィオナさん。」
    「何にも覚えてないよ、私は友達のヒナちゃんが私の助けを求めてるってことしかしらない。」
    「友達…か。」
    そういうと軽くまとめていた髪を解いて、私の方へと近づく。
    「私もちゃんと思い出せないんですよ、あなたのこと、お家のこと、クリスさんのこと。」
    「クリス…が、あなたと関係しているの?」
    「私とじゃありません、貴方とですほほえみの郷の、あなたの実家のことですよ、菊原フィオナさん。」
    彼女のその言葉を聞くや否や私の頭の黒いモヤが脳を締め付けるような痛みで埋め尽くされた。
    …息が苦しい、呼吸の仕方がわからない、足が痛い、目の前にあの日とかわらない炎が空へと伸びている。


    「残念…いらないことを思い出させちゃったね。」
    私がそういうと、フェールは少し悲しそうな顔をした。
    2階から降りてくる足音がして、すぐにいつもの飄々とした表情を取り戻し、「早く逃げないとタイムリミットになるよ。」と言い残し、彼女は李蘭ちゃんとヒスイ先生のもとに走って行った。


    この狭い空を見上げて叫ぶ言葉。

    「レミニスのことについて聞きたい。」
    僕がそう告げるとヒナは少し嬉しそうに鼻歌を歌いながら鉄格子からこちらをのぞいた。
    「レミニスはイギリスの公爵家の位を持つ貴族院の一族です、私の父はその当主でこの病院の理事長でした。」
    「…君が…?鬼灯という苗字はどこから生まれた?」
    そう僕が聞くと嫌そうな顔をして
    「順序立てて話すのでゆっくり聞いてください…」
    と苦言を呈した。
    「とはいえ、僕が盗聴器やカメラを壊してからそう時間はないだろう、いつエメロードが帰ってくるのかすらわからないのに…」
    「いいんですよ、もう大丈夫なはずですから、とりあえず話を聞いてください…」
    そう言いながら彼女は私に一つの薬剤瓶を投げた。
    「それは私が作った試作品のアムネシアの夢です、貴方に投与したものと同じ薬が入っています。」
    「これを…何故僕に投げた?」
    「貴方が私を信頼したからですよ、フィオナさんの話もしますからとりあえず聞いてもらえますか?」
    「あぁ…心して聞こう。」
    そう聞くと安心したように笑って自分の部屋のベットの方に映ったようだった、こちら側から女性側の部屋が見えないので声しか聞こえないが布が擦れる音がしたのでおそらくベットに横になったのだろう。
    「私とお姉様はレミニスの正統な血族ではありません…父が家からお忍びで抜け出し、同爵位ですらなく、本妻ではない婦人とお手つきになった際に孕んだ子供…まぁ妾の子…というわけです。」
    「エメロードはきちんとした第一婦人の息子です、まぁそもそも女である私たちが後継になることはありませんが、まぁ腹違いの兄妹というわけですね、我々は。」
    そう話すヒナはどこか自罰的だというか軽蔑的だった、男女関係に何かあったのだろうか。
    「妾の子であった私たちへ家族はいい顔をしませんでした、お姉様は私を守るために妹をほぼ表に出さず、貴族の集まりではお姉様が進んで出席していました。」
    「お姉様はとても美人でしたから、社交界でもそれ程のやっかみは受けずに済みましたが、お母様は顔がいいだけの貧乏娘、社交マナーなどもわからず、周りからの目は冷たいものでした。」
    「…まぁ、こんな話をされても困るとは思いますが…第一婦人とはお母様の存在が不快だったようで…まぁ、なんというか、虐めをしていたそうです…金持ちのいじめは酷いもので最終的にお母様の化粧品に硫酸を混入させ、母は死にました。」
    「そこからはとんとん拍子に話が進み、私たちは男を誑かして、女を貶める穢れた血だとか言われて家を追い出されることになりました。」
    「第三王子だったダイマ・ラ・レミニス様はそれを気の毒に思い、私たちを拾い、分家であった鬼灯の家に養子として育ててもらえるようにと取り計らってくれました。」
    「それが私が鬼灯という名前になった経緯です。」
    「レミニスは金融と奴隷、宗教で名を馳せた一族です、奴隷制度はもうなくなりましたが、いまだに金融や医療の分野で国内外問わず活動しています。」
    「姉が放火を起こすまでの話もします。」
    「エスメラルダ姉様は社交界でのいじめや風当たりの冷たさ、目の前でお母様が殺されたこと、そして…」
    はぁ、とため息をつく。言いたくなければ言わなくていいとも言おうとしたが、彼女の覚悟を踏み躙る行為だと考え言葉を飲み込んだ。
    「父様から性的虐待も受けていた…そうです……それを調べたのもエメロードでした。」
    「以降姉様は心を壊してしまいました。鬼灯家ではほとんど言葉を話さず、たまにくるほほえみの郷の信者さんと何かお話をしていたくらいです。私はその時まだ学生だったので、詳しいことは…あんまり覚えていないんですけど…」
    「鬼灯の家にいつまでも迷惑をかけられないので、私は卒業後すぐに働き始めました。姉様はもはや中身の抜けた抜け殻のようになっていましたが、大好きなお姉様なので、お姉さまの分も二人で暮らしていくことにしました。」
    「そんなとき、助けてくれたのがここの院長と、菊乃さんでした。」
    「姉様の認知治療をしながら、私の才能を発見し、二人分の働き口として、ヒスイ先生は私たちを助手として雇い入れてくれました。」
    「姉様には姉様なりにできる仕事と、私には研究助手としての仕事の傍ら、医療の知識について、毎日教えてくださいました。」


    雛鳥

    「あぁしていると、病気などないのではないかと思えてしまうな。」
    ヒスイ先生はデスク作業をやめ、窓から姉様と菊乃さんの様子を見ていた。
    「…何故、先生は私たちを雇い入れてくださったんですか?」
    そう聞くとふふッと笑ってコーヒーを持ち上げた。
    「ヒナは…勿体無いと思ったんだ、君の才能がここで枯れ果てるのは…エスメラルダは…菊乃が言ったんだ…ただ、二人が無理なく働ける場所を提供してあげたいと思って…その場所が自分のそばしか思いつかなかっただけだよ。」
    最初はこの人は嘘をついていると思った、ただ優しいだけの人間なんているはずが無いと思っていたから。

    「エスメラルダさんには、機材のお掃除をしてもらおうかな。」

    「ヒナ、カルテの整理をお願いできるかい?」

    「注射器を割った!!?怪我はしていないかい?」

    「あ〜…菊乃のことなんだが…」

    「子供が!???」
    「あまり大声で言わないでくれ…私も知らなかったんだ。」
    「お…おめでとうございます…」
    「ヒナももう、自分一人である程度はできるだろう、…といっても、基本はお姉さんの補助を変わってもらうだけだが…」
    「研究はいいのですか?」
    「ん?ふふ…まぁ趣味みたいなものだしね、古い友人に手伝ってもらいながらぼちぼち進めているよ、それになにより…妻の容態より優先することなどないよ。」
    「そりゃあまぁ…そうでしょうけど…」

    姉様を雇い入れなければ、無駄な苦労をせずに補助スタッフをつけられるだろうし、障害者雇用枠として初めから雇えば、彼の給与にもボーナスがつくだろうに、なぜ彼はそれをしないのかが不思議だった。

    それから数ヶ月後に、あの火災が起こりました。
    エスメラルダ姉様が実行犯として。
    事件の全貌…というか分かっているのはクリスさんと何ら変わりありません、ただ、火災現場から姉様の死体は見つかりませんでした。
    警察側からは火が強すぎてほとんどが焼き切れてしまったのだと言われましたが、そもそも、あの規模の火災をあの時の姉様が一人で実行できたとは思えません、行えたとしても、長い準備期間が必要でしょう?私は数時間前にお姉様に会っていましたから…おかしい、と思いました。
    結局…ほとんどの足取りをつかめないまま、私はお姉様を守ることもできずに、恩人であったヒスイ先生、菊乃さんの人生まで奪って、ただ自分だけは、何の被害もなく、健康に生きていました。
    あの日からもう、私はなにも動けなくなりました。


    獅子の子

    「ごめんね、心配かけて…」
    マーガレットさんは、僕の顔をいつもより執拗に見つめながら、話を続ける。
    「少し気になることがあって…お話ししても良いかな?」
    「」

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