
第19話『砥ぐ』
戀塚(こいづか)
屋敷へ戻った盛遠は、誰もいない座敷に座っていた。
風が戸を鳴らしている。
小太刀を抜いた。
鴨居。
柱。
目の高さ。
一太刀で届く距離を測る。
びゅっ。
びゅっ。
刃が闇を裂いた。
灯火へかざす。
刃には錆が浮いていた。
盛遠は棚から細長い砥石を取り出した。
刃先へ静かに当てる。
しゃり……。
しゃり……。
研ぎ澄まされる音だけが夜に響いた。
指先で刃を確かめる。
まだ甘い。
再び砥石を走らせる。
やがて刃は白く冴えた光を帯びた。
荏胡麻油を薄く塗る。
布で拭う。
刃先が灯火を映した。
ぴゅっ。
盛遠は小さく息を吐いた。
筆と硯を取り出した。
しばらく目を閉じる。
墨を磨る音だけが続いた。
やがて筆を執る。
一字。
また一字。
迷いなく書き進めた。
書き終えると文を箱へ納める。
盛遠は下男の忠吉を呼んだ。
「旦那様、こんな夜更けにどうなさいました」
「悪いが、この箱を・・・まで届けてくれ」
忠吉は不思議そうな顔をした。
「向こうへ着いたら、この文を渡せ。用件はすべて書いてある」
「へい。承知しました」
忠吉は提灯を手に出て行った。
戸が閉まる音がする。
盛遠は、その背へ向かって静かに頭を下げた。
盛遠は母の部屋へ向かった。
「母上。お休みでしょうか」
しばらくして衣擦れの音がした。
「どうしたのです。こんな夜更けに」
懐かしい声だった。
祇園社が焼けた夜。
頬を叩かれた時と同じ声。
盛遠は思わず目を伏せた。
「お身体の具合はいかがです」
「大したことはありません」
綾はかすかに笑った。
「明日は父上と出かけねばなりませんから」
盛遠は唇を噛んだ。
「母上。父上はもう……」
そこから先が続かなかった。
綾は静かに身体を起こした。
盛遠はその傍らに座る。
言葉はない。
風の音だけが聞こえる。
長い沈黙の後、
綾は目を閉じた。
そして手を合わせた。
まるで全てを悟ったかのように。
盛遠は床の間を見た。
父の形見の太刀が掛けられている。
ゆっくり立ち上がる。
太刀を手に取る。
鞘から抜く。
白刃が灯火を映した。
「母上」
綾は目を開かなかった。
盛遠は震える息を吐く。
白刃が、静かに宙を薙いだ。
盛遠は太刀を鞘へ納めた。
音もなく。