
女たちの血脈転生~その痛み、あなただけのものじゃない~It didn't start with you.
本作は、note創作大賞2026・エンタメ原作部門への応募作品です。
【あらすじ】
明治4年、澪が女児を産んだ翌日、明治政府は廃藩置県を断行。藩主は即日東京移住を命じられ、澪の前から姿を消した。男児を産めず、憎悪に我を忘れた澪を「何者か」が乗っ取り、赤子を襲う。
「何者か」は潜伏期間を経て、百年後、淑子の人生で暗躍。淑子も女児に牙を剥く。
母による娘への、誰も想像だにしなかった暴力の連鎖。
48歳の時、私はこの家の女たちを苦しめてきた「何者か」とカリフォルニアで遭遇する。それはエピジェネティクスが解き明かすDNAの呪縛。呼吸で「血の韻」を解き放つ。そして、母と娘はやっとただの母と娘になった。
It didn't start with you. ―今なら終わりにできる。
【お読みになる前に】
・世代間トラウマや言葉による暴力、性被害に関する描写があります。
・「It Didn't Start with You」は、マーク・ウォリン著『心の傷は遺伝する』(河出書房新社)の原題。世界41カ国で翻訳され、累計300万部を突破した心理ノンフィクションの世界的ベストセラーである。
プロローグ
赤子の産声が分娩室から響き渡る。
やっと無事に生まれた。
安堵で病院の廊下の空気がやわらぐ。
そうだ、お母さんに知らせなきゃ。
私は、ひとり実家に残っていた
母・淑子(としこ)の元に走った。
「お母さん、産まれたよ。男の子だよ!」
脱ぎかけの靴に足を取られながら、
奥の和室にいた母の背中にそう言った。
しばしの沈黙。
母の背中が小刻みに揺れる。
拳が畳に突きつけられる。
そして、呻き声。
地獄の底から搾り出すような絶叫が響き渡る。
「こ、この私が、
男の子を産めないのに、
なんであの子がーーー!」
畳に突っ伏し、この世の地獄。
般若の背中。阿鼻叫喚、、、
この女、やっぱり狂ってる、、、、
澪の物語――野望
明治三年、秋。
たっぷりと水を含んだ灰色の雲が空を覆い尽くしている。ちょっと気を許したら、水滴になって地表に落ちてしまう。歯を食いしばって、重力に逆らって、なんとか天にへばりつく。手で掴むことができない気体の塊なのに、氷みたいに尖っている雲。踏ん張って、踏ん張って、踏ん張って、雷神たちが息を潜め、雷鳴を堪えてる。
そんなどんよりとした秋の日。
城の裏門から、赤子を抱いた女がひっそりと出てきた。
神代の国、出雲から側室として嫁いできた澪だった。
ー 運命の朝
芸州から少し離れた出雲の国。
いつもとは違う緊張感が社家の屋敷を満たしていた。
夜明け前に、澪は目が覚めた。
そろそろ神饌(しんせん)の時間だ。なんだか、神様までが慌ただしく朝ごはんをかき込んでいるみたい…。そういえば、今日は、大切な客人があるからと、琴のお稽古は休むようにと父に言われていた。ここのところ、父の様子がおかしい。先月、反物を持って呉服屋が来た。しつけ糸をとったばかりの着物が、女中たちの手で用意されていた。とりあえず、身支度を整えておこう。
誰かが来た。籠だ…。だれ?
父や叔父たちが、慌ただしくも慎重に動く。そういえば、昨日から幼い弟たちは親族の家に預けられている。
客人を迎え入れ、家は落ち着きを取り戻す。客間には、客人、父、叔父が対峙している。
澪は、母に呼ばれた。客人に茶を出すようにと。
客人の目線は、父に向いていた。でも、澪は、その視線が、蜘蛛の糸のように自分を絡め取っていくのを感じていた。
ー 女の陰謀
芸州のある藩。
殿様は、なかなか世継ぎに恵まれなかった。やっと産まれた。そんな喜びも束の間、男児は早逝していく。お家のために、世継ぎを残さなければならない。近辺の藩の武家の家からも、年頃の娘たちが次々と側室としてお城に入っていった。
とうとう神職の家に生まれた澪にも、白羽の矢が立ったのだ。
男は、家柄や出自で、そして、自分の力で、成功を収めていくしかない。でも、女は違う。若くて器量さえよければ、身ひとつで、社会の階層を駆け上ることができる。女が人生の一時期にのみ使える男を凌駕する伝家の家宝。世継ぎを産めば、一気呵成。勢力図が塗り替わる。
お琴や和歌、神楽舞を嗜み、いつかは父のような神職のところに嫁ぐのだろう。そう思っていた。でも、澪は気づいていた。そんな平凡な結婚に、物足りなさを感じている「何者か」が自分の中に潜んでいることに…。その自分のようであり自分ではない「何者か」が怖かった。あなたは、一体、誰なの?自分の中で息を潜めている魔物。そんな「何者か」から、澪は目を背けて生きてきた。
でも、あの時、三つ指をついて、客間の障子を開けた瞬間、自分の中の魔物が、カッと目を見開いた。澪の人生が「何者か」に乗っ取られた瞬間だった。
世継ぎを産めば、藩主の母、尊き御母堂様だ。今まで感じたことにない、でも、自分の中に確かにあった権力欲…。この身体で、この若さと器量で、登り詰めてやる。澪の中で「何者か」がニヤリと笑っていた。
生まれ育った家を離れ、一族郎党の期待を背負って、澪は世継ぎを産むために城に入った。
城の裏門が、音もなく開く。女中に促され、澪は足を踏み入れた。その瞬間、遠くの櫓から太鼓の音が響いた。暮れ六つ。日が落ちる。
もう、後戻りできない…
澪は、なすすべなく、あれよあれよと流れに飲み込まれていった。
ー 残り香
お城に入ったのは、夕刻の頃だった。
澪は、女中に導かれて、これから過ごすことになる部屋に入った。
八帖ほどの部屋には、行燈と鏡台と文机。そして、澪の背丈よりも低いこぢんまりとした年季の入った桐の箪笥があった。すでに部屋に運ばれていた長持ちから着物を取り出し、箪笥にしまった。
一通り、荷物の片付けが落ち着いた頃、女中が夕餉を運んできた。澪は、たった一人で、薄暗がりの中、箸を取った。
味噌汁には牡蠣が入っていた。
母が作ってくれたシジミの味噌汁が恋しい。
今頃、弟たちはどうしているだろう?
出雲から芸州までの旅の疲れが出てきた。
食べ終わり、御膳を廊下に出した。
押入れを開ける。ガランとしていた。布団が一組だけ。
まあ、でも、着物以外の身の回りのものをしまうにはちょうどいい。
布団を敷き、寝衣に着替える。行燈の灯火を吹き消し、ぼんやりとした月明かりの中、身を横たえる。
ふーっと、ひと息ついた。
掛け布団から、別の女の匂いがした。
男児を産めずにこの部屋を去っていった女の残り香だった。
ー 初めての夜
一週間ほどしたある日の午後。
女中頭から、明晩、殿様からお呼びがかかると告げられた。
翌日、澪は、慌ただしく風呂で身を清め、早々に夕餉をとった。
陽が落ちた。
廊下には、いくつもの燭台が置かれていた。蝋燭の炎が揺れている。
澪は、祖母の膝に抱かれて、初めて見た夜神楽を思い出していた。
暗闇の中、ゆらゆらゆれる灯り…。
母上、お祖母様、澪をお守りください。
澪は足元を見ながら歩いた。
女中が襖を開ける。
澪は、白小袖に着替えさせられた。
そして、寝所へと向かった。
お香の香りがした。
薄暗いぼんやりとした部屋の中に、帳(とばり)に囲まれた一角があった。
女中頭が帳を開いた。澪は、真っ白な布団が敷かれた空間に足を踏み入れ、布団の横のわずかな隙間に正座した。
女中頭は、襖の横に座っている。
しばらくして、廊下の空気が変わった。女中頭の目配せで、澪は三つ指をついた。
殿様が入ってきた。澪は、殿様の足先を見ていた。鬢付け油の甘い匂いが帳の中に入り込んできた。
最初は、父や叔父の期待に応えよう。そんな気持ちだった。情(じょう)などない政略結婚のはずだった。
寝屋には、いつもお付きのものがいる。殿様は能面の様な表情。言葉を交わせない。何を考えているのか、読み取れない。
でも、殿様の触れる手は、なにかを澪に伝えようとしていた。
世継ぎを得るために、何人もの側室を迎え、寝所で身体を合わせる。男の子が産まれなければ、思いがあっても、その女を二度と寝所に呼ぶことはできない。我が子であっても我が子でなし。
肌を合わすまでに至る男女の気持ちの機微を飛び越えて、寝所でまぐわう。帳の向こうには、女中頭と女中が眠気と戦っている。澪は、殿様の横に身を横たえ、その息遣いを肌で感じていた。
最初は、自分の中にある「何者か」の野望に突き動かされ、そして、父や叔父、弟のために、それだけだったはずなのに、何度か寝所を共にするうちに、いつしか、澪の中に、誰よりも殿様のおそばにいたいという気持ちが芽生えてきた。そして、いつしか、澪はただの女になっていた。
ある夜、澪は、殿様の寝息を聞きながら、夢を見た。
たくさんの松明が見える。夜神楽だ。
老若男女が集っている。子どもたちの笑い声が聞こえる。一日の仕事が終わり、ワイワイガヤガヤ、騒がしい。喧嘩して母親に叱られた子どもが、祖母の懐に逃げ込む。
神楽が始まった。イザナギとイザナミの舞だ。しばらくすると、イザナギとイザナミがまぐわい始める。素朴で和やかな慈しみの空間。客席に微笑みが広がる。まぐわいが終わり、穏やかなイザナギとイザナミ。年寄りも、若夫婦も、子どもたちも、その風景に溶けている。
その時、雷鳴が轟いた。
真っ黒な冷気が、神殿に吹き込んでくる。
神楽の舞も、神殿も、老若男女も吹き飛ばされる。
風神が、ペラペラと地層をめくる。
見たこともない
土にまみれた遺物が空を舞う。
数多の剣?鍬?
鈍く光る金属の何か、釣り鐘?
でも違う…
古い家を解体するように
メリメリとさらに深く
地球の表皮が剥がされていく。
何かが、土の中から
ひょっこりと顔を出す。
ふっくらと柔らかい…
女の人形(ひとがた)
メラメラと火を噴く器
そして縄目の紋様…
全てを吸い上げたのに、
まだ足りんと
天が餓鬼のように騒ぎ出す。
巨大な火の玉が、
轟音とともに落ちてくる。
地球がガツンと身震いをする。
あっ、自軸がずれた。
空間が、捻(ねじ)れた。
捩(よじ)れて、離れて、
また交わり、渦を巻く。
途端に、澪は、
「何者か」に首根っこをつかまれて、
天高く舞い上がる。
眼下に桜の木が見える。
女と男が、一本の筆を持ち、
地面に何かを書いている。
螺旋?呼ぶ?吸う?
何かの呪文か…
目を凝らす。
そこに一陣の風。
あ~、巻き込まれていく…
夜更けに、目が覚めた。
びっしょりと汗をかいていた。
夢の余韻が身体に残っている。
殿様の寝息…。
この方は、時空を超えて
やっと再開した運命の人なのかもしれない
ーー澪はそう思った。
ー 運命の悪戯
三日三晩続いた初産の痛みが、すっと消えた。産声が産室に響き渡った。やっと産まれた。ほっとしたのも束の間、赤子は、すぐさま澪から引き離された。
障子の向こうから産声が聞こえる。ちゃぽ、ちゃぽという産湯の音…。そして静寂…。だれも、澪に話しかけない。
季節外れの桜の花びらが、どこからか産室に忍び込む。
澪の上に舞い落ちる。
あ~、女の子だったのか…。
産婆が赤子を取り上げて、股間を覗き込んだその瞬間、澪の人生と、一族の行く末は、奈落の底に落ちていった。
日本も揺れた。
澪が女児を産んだ翌日。 1871年(明治4年)7月14日。
明治政府は、廃藩置県を断行。即日、藩主は免官、東京移住を命じられた。全くの猶予はなかった。
殿様は、澪の前から消えていった…
なんの前触れもなく、別れの言葉もなしに…
先の見えない激動の時代だからこそ、男児を産みたかった。
それなのに、女の子を産んだ澪。
この子に罪はないことはわかっていた。
小さな手が、澪の指を握りしめる。
澪は、女児の母になる行く末を想像すらしていなかった。か細い声で泣く、その子を見ながら、運命を呪う気力さえ残っていなかった。
この身体に宿ったこの子が、殿様との仲を引き裂いた。
あんたのせいだ。
なんで産まれてきた。
お前さえ、いなければ…、憎い。
赤子のふとした表情に殿様が見え隠れする。殿様の息遣いを感じる。
澪は、赤子を憎しみ切ることができなかった。
ー 覚醒する魔
父や親族の落胆…。
澪を側室にするために、どれだけの金子が使われたことか。
その費え(ついえ)を、親族に負わせてしまった。
それよりも、
何よりも、こやつのせいで、
殿様が、消えてしまった。
そう、お前のせいだ!
藩がなくなり、これからの身の振り方がどうなるかもわからず、家来も、女中も、城中、混乱していた。君主不在のお城に、女児と共に取り残された澪。女児であっても、普通なら乳母がつき、赤子と澪の面倒を見てくれるだろう。
でも、誰も澪を気にする余裕などなかった。
赤子が泣く。抱き上げる。オムツが濡れていた。
赤子を床に置き、オムツを剥がす。
あるべきものがない…
澪の中の「何者か」が、発狂する。
小さいおちんちんがない、ない、ない。滑らかな丘陵のようなつるんとした性器。足をあげ、お股の間の汚物を取り除く。汚物が隙間に入っていく。あ~、やっぱり、この子は、男児じゃなかったんだ。どれだけ、世継ぎが産まれるようにと願掛けをしたか。澪の側室入りを反対していた母のお百度参りの労も泡に帰す。神は我が家を見放したのか。すべての期待が、努力が、夢が、美しい企みが、水泡に帰してしまった。
「何者か」が暴れ出す。
こやつのせいだ、こやつのせいだ、こやつが悪い。
気づいたら、澪は、赤子の股間を痛ぶっていた。赤子は泣き喚く。その赤子の口を押さえながら、股間をつねる。こする。引っ掻く。こやつのせいだ、こやつのせいだ。お前が女だったから、殿様はいなくなった。お前のせいだ。お前が、あの人をわしから奪ったのじゃ。
よ~、覚えておけよ。
許されると思うなよ。
一生かけて償いをさせてやる。
そんな般若の母の乳房を赤子は求める。
本能丸出しで、生きるためだけに、澪の乳首に容赦なくしゃぶりつく。
母の慈しみより前に、赤子が望んでいるのは、生きるための糧だった。
親子の情は、微塵もない。
母も般若。子も般若。
命をかけて、人生をかけて、産んだのに、この様か。
我が人生を奈落の底に突き落とした
得体の知れない生き物が、必死の形相で乳を求めてくる。
こやつに、我が身を削ってまで、なぜ乳を吸わせねばならんのか!
乳母はどこじゃ、乳母は。わしには乳母すらあてがわれんのか!
なんで、こやつに、乳を…。もうたくさんだ。
赤子の泣き声に乳房が反応する。
乳房が張り、石になる。
痛い…。
赤子が乳首にしゃぶりつく。
痛みがスッと消える。
赤子に乳を吸わせ、
痛みを消すしかなかった。
そんな自分が惨めで涙が頬を伝う。
澪は、息を殺し、ただただ、
赤子に乳を吸われるままでいた。
キヨの物語――断絶
その後、女児はキヨと名付けられた。女中が、殿の子に名がないとはと、澪の代わりに名付けたという。
日本に激震が走った廃藩置県の日。14日。いち、よん。いよ?きよ?しよ?ちよ?キヨでよろしゅうございますか。
キヨは、そんなふうに命名された。
ー 城を追われて…
廃藩で藩主のいない中、
城中が混乱していた。
何を必死で鳴いているのか。
うるさいほどの蝉の音を、
真紅の紅葉が、やっと黙らせた。
そんな折、澪の身の振り方が決まった。
暮れ六つを知らせる太鼓の音が聞こえる。日が落ちる。
もう、ここには戻れない。
澪は、殿様のいないお城の裏門から、キヨを抱いてひっそりと城を出た。
澪は、殿様の家臣の後妻として嫁いだ。嫁ぎ先には、先妻が産んだ男の子が三人いた。先妻は、三人目の子を産み落とし亡くなったという。
後妻に入った澪は、その後、娘を二人産んだ。「この女腹が…」という姑の言葉が、胸を抉る。
澪の元には、毎年、どこかから、米や菓子、反物などが届けられた。
その時だけは、亭主も姑も、愛想良く近づいてきた。
キヨへの反物や帯、簪も入っていた。
妹たちが言う。「ねえ、ねえ、どうして姉やだけ。」
澪が耳元で囁く。
「おぬしだけじゃよ。殿様の血を引き継いでいるのは…
あやつらなど、ふん。」
世が世なら、おぬしが男だったなら…。
おぬしの父上は、それはそれはご立派なお方。今のお父様とは、雲泥の差じゃ。ここには男の子が三人おるが、所詮、格下の血。殿様の血が入ってこそ、男というものぞ。
障子の外に誰かの気配。姑が耳を澄ましているのか。澪が声をひそめる。
キヨは、母の腕の中で眠ったふりをする。
目を閉じたまま、こう祈る。
本当の母上様、父上様、どこにいるの。
早くキヨを見つけて。迎えにきて。
キヨはいい子にしてるから…。
ー 父の足先
キヨ、七歳の時のこと。義父が澪を呼んだ。女中が茶を運ぶ。しばらくして、澪が神妙な面持ちで部屋から出てきた。でも、浮き足だった様子は隠せない。キヨと二人になると頬が緩み、いつになく優しかった。
呉服屋が反物を持ってきた。澪が嬉々としている。後妻だったからか。どうしても、男児を産めなかったからか。いつもは慎ましく過ごしている澪らしくない華やかな反物を選んでいた。あれよ、これよと自分の反物を選ぶ澪。キヨの反物は、呉服屋が選ぶに任せていた。
キヨの着物ができてしばらくした日の朝。
女中が来て、キヨの髪を結い紅を差す。
新しい着物に袖を通す。
一体何があるんだろう。
この家で起きることは、いつも唐突だ。
予測がつかない。
しばらくして澪に呼ばれた。玄関を出るとそこには迎えのもの。籠が用意されていた。母と二人、籠に乗り、ついたところはあるお屋敷だった。
こじんまりとした部屋に通された。キヨは澪と二人、座していた。
遠くから、太鼓の音が聞こえる…
誰かが部屋に近づいてくる。澪に習って、キヨは三つ指ついて平伏する。
襖が開く。誰かが入ってきた。
甘い匂いがした。
キヨの前に誰かが立った。
キヨはそのままの姿勢でじっとしていた。視野の片隅に見えるのは、真っ白な足袋の指先と袴の裾。男の足だった。その人が、じっと自分を見下ろしている。澪が言った。「キヨでございます。」そして、その人は澪ともキヨとも、言葉を交わすことなく部屋を出ていった。
後に残されたのは、澪のため息と嗚咽。
数年後、キヨは、あの人が父であることを知った。
父上はキヨを抱き上げない。
キヨがどんなおいたをしても、
父上は叱らない。
真っ白い足袋の指先…。
キヨにとっての父は、それだけだった。
ふゆの物語――安穏
ふゆは芸州生まれの母・キヨが、なぜ故郷を離れたのか知らなかった。キヨは、あまり自分のことを話さなかったからだ。
二十歳になった時、縁談がきた。見合いの相手は、新進気鋭の市議会議員だった。
なぜかはわからないけれど、ふゆは「政(まつりごと)には触れてはいけない」と思っていた。だから、この縁談には乗り気ではなかった。しかし、親が決めた縁談だ。断るわけにはいかない。
見合いは、仲人の後援会長の自宅で行われる。キヨは、桐の箪笥からたとう紙に包まれた着物と簪を取り出した。こんないいものが、なぜうちにあるのか…。キヨが言った。あんたの祖母・澪の形見だと。
見合いの朝、髪結がきた。キヨが呼んだのだ。その頃、「耳隠し」という洋髪が流行っていた。このお着物と簪に洋髪はとてもモダンで素敵ですよ。流行りに疎いふゆだったが、髪結のすすめで、耳を覆うように張り出した洋髪に整えてもらった。
初めての洋髪に、友禅の振袖。そして、お見合い。
ふゆは、緊張のあまり見合いの席で粗相をしてしまった。
数日後、後援会長から連絡があった。縁組が決まったのだ。その夜、ふゆは、母・キヨから聞かされた。祖母・澪は、ある藩主の側室であり、ふゆはその血をひいていることを。
ふゆは、子どもの頃から、この家には何か秘密があると感じていた。
祖母・澪の暮らしぶりや、母・キヨが何かをじっと耐えている雰囲気…
だから、なんとなく息をひそめて生きてきた。
物心ついた頃から、誰かが、ふゆの耳元で囁いていた。
「この家には、秘密があるんだよ」
その答えがこれだったのか?
点と点が、ふゆの中で繋がった。
淑子の物語――激震
北海道、室蘭。鉄の町。
その日は、どんよりとした雲が空を覆っていた。
29歳の淑子(としこ)が嫁ぐ日である。
昭和35年(1960年)、
25歳を過ぎた未婚の女性は、クリスマスケーキと揶揄されていた。
家を存続させるために男児を産むことが女の責務という時代は、まだ終わっていなかった。
ー 震災孤児だった父
淑子の父・清治は、東京赤羽で生まれた。両親は夫婦で教師だった。利発な清治の前には、明るい未来があるはずだった。
1923年(大正12年)9月1日、お昼時のこと。もうすぐお弁当の時間だ。清治は、母が朝、お弁当に芋の煮っ転がしを入れていたことを盗み見ていた。
先生の言葉なんて上の空。
お芋さん、お芋さん。早く食べたいな~。
その時、大地が揺れた。関東大震災。
芋が、コロコロと床を転がっていった。
天井が崩れ落ちた。街が燃えていた。清治の家は跡形もなかった。朝、見た両親の姿が、清治が見た最後の親の記憶となった。
清治は、親戚を盥回しにされ、鉄の街・室蘭に貰われることになる。歯を食いしばって学業に励み、市議会議員になった。そして、結婚しないと決めていた男が、見合いの席でふゆと出会った。
ふゆが芋の煮付けに手を伸ばす。手元が震えて、箸から芋が落ちて、清治の膝元にまで転がってきた。
ふゆは、どことなく、生き別れた母に似ていた…。
清治とふゆは祝言をあげた。程なくして、ふゆは孕った。生まれたのは女の子だった。清治は、その子を「淑子」と名付けた。
清治は、幼くして両親も親族も震災で失った。兄弟姉妹もいなかった。初めて自分の血のつながったわが子。8歳から孤独の中で生きてきた清治の心にあいた穴に、淑子がすぽっとはまった。
赤子をいだきならが、そこに、幼かった自分を重ねた。親に甘えることができずに、孤独の中を生き抜いた清治。淑子はそんな清治の心の拠り所になった。
そんな折、清治に国会議員への出馬要請があった。支援者は後押しをする。この室蘭の地から国政を動かそうと。
でも、妻・ふゆが頑として反対した。
「市議会議員で十分じゃないですか。
もうこれ以上、あなた、政治に深入りしないでください。」
ふゆは、母・キヨから聞いていた。
キヨの父、ふゆの祖父は、ある藩の藩主だったと。
しかし、キヨは、その父に会ったことがない。
父の記憶は、足袋の足先だけ…。
父を知らないキヨ。
政(まつりごと)が、母娘の運命を狂わせた。
ふゆは、そんな思いを子どもたちにはさせたくなかったのだ。
清治は国政への進出を断念。一市議会議員として、室蘭の街で生きることになる。清治は、山を削り、街を作り、鉄鋼の街室蘭の繁栄を支えた。
母・ふゆは、淑子によくこういった。
「あんたは、澪ばあちゃん、そっくりだね」と。
それは、託宣だったのかもしれない。
どこかでふゆは、母の本能で、娘・淑子が、澪の人生をなぞっていることに、気づいていたのかもしれない。
ー 結ばれない二人
淑子には思い人がいた。二人は、結婚を約束していた。函館で有数の事業家で、淑子の相手として申し分なかった。その人と結婚する。それが、自然な流れのはずだった。
淑子は、何度も、婚約者を父・清治に紹介しようとした。清治ははぐらかす。淑子も年頃だ。そろそろ嫁に出さなくては。「お隣のお嬢さんもお嫁入りよ」ふゆは、清治に遠回しに伝える。でも、清治はだんまりを決め込む。
婚約者も待っていた。とはいえ、いつまでも待つわけには行かない。家を背負っているのだから…。身を固め、跡取りを育てる。家督を継ぐ長子としての責任があった。
二十五を過ぎれば、薹(とう)が立つと言われた時代。
淑子は、彼の重荷になりたくなかった。
27歳の秋、淑子は婚約者に手紙をしたためた。桜色の和紙の便箋で…。そして、身を引いた。
数日後の夜。家の玄関を乱暴に叩く音がする。清治が様子を見に行く。あの人の声が聞こえる。婚約者が清治に直談判にきたのだ。清治は、何も言わずに部屋に戻る。扉が揺さぶられる。嘆願する声が聞こえる。
淑子は、両手で耳を塞ぐ。どれだけ強く手のひらを耳に押し当てても、あの人の声が耳に突き刺さる。飛び出したい衝動を必死で抑える。静まり返った夜の藍色に、婚約者の声と淑子の嗚咽が絡み合い、捻(ねじ)れては、消える。
清治は、娘・淑子の婚約者を門前払いにした。
すぐ目の前にあった幸せは、一瞬にして瓦解した。
二人はお互いを思いながら、別の人生を歩むことになる
ー 意に沿わぬ結婚
泣き腫らした顔の腫れが引くのを待って、失意の中、淑子は百貨店の化粧品売り場に戻った。同僚は、次々と結婚し職場を去っていく。
いつしか、淑子は29歳。職場で一番の年長者になっていた。
なんであの先生のお嬢さんが…。
嫁に行けない理由でもあるのかね。そんな噂もたっていた。
ある日、外商担当の政男が、淑子に声をかけてきた。政男は、育ちの良さが滲み出ている温和な男だった。戦後の農地改革で一夜にして没落した地主の息子だった。浪費癖のある両親のせいで貧しく、嫁の来てがなかった。
淑子は、来年30歳。もう見合い話も来なくなっていた。焦っていた。このままでは、一生、嫁に行けない。
淑子は、父にも、母にも相談せずに、政男との結婚を決めた。家を出た。室蘭の地を後にし、夫となる人のいる函館にいった。函館は、別れた婚約者のいる街だった。
函館の海は、潮風の匂いがした。鉄の匂いがする室蘭の海より優しかった。私、あの人のいる函館に嫁いできたんだ。少しだけだけど、あの人のそばで生きていける。天の采配で、突然、何かが起きて、あの人の元に行ける日が来るかもしれない…。
遠くから青函連絡船の汽笛が聞こえていた。
淑子の花嫁姿の写真は、長い間、函館山に続く十字街にある写真館のショーウインドウに飾られていた。ガラスの向こう側から、キッとコチラを見つめる文金高島田の花嫁の視線。
澪も、こんな目をしていたのかもしれない。
ー この、女腹が!
淑子の舅姑は、何もしない人たちだった。戦前は、たくさんの女中や下男を使って、二人で芝居三昧の日々だった。農地を取り上げられた後も、政男の父は働かず、母は家事をしなかった。
お腹が空くと、ちゃぶ台にちょこんと座り、涼しい顔でご飯を待っていた。上げ膳据え膳が当たり前。淑子が嫁に来る前は、ちょくちょく出前を頼んでいたらしい。食べた後、後片付けなどしない。布団の上げ下ろしも、洗濯も、掃除も、繕い物も、何もしない。
政男は、給料が入ると、両親が方々に作ったつけの支払いに走り回っていた。
淑子は、結婚早々、舅姑の世話に翻弄されることになる。やりくりしても、生活費が足りない。嫁入りの時に持ってきた貯金を切り崩し、内職もした。
しばらくして、淑子は身籠もった。大きいお腹を抱えながら、舅姑の世話をした。長男の嫁だから、男の子を産むのが自分の役目だと信じていた。生まれてくるのは、男の子だ。何の疑問もなくそう思っていた。
淑子が妊娠しても、舅姑の浪費癖は変わらなかった。経済的な余裕がなく、淑子は妊婦なのに十分に食べることができなかった。
「夜中にラーメンのチャルメラの音が聞こえた。お腹が空いて、お腹が空いて…。一口でいいから、食べたかった…。」
そんな妊娠中の無理が祟り、子どは未熟児で生まれた。女の子だった。帝王切開で、淑子の身体に、臍の下から恥骨にまで至る大きな傷跡が残った。
幼かった頃、その子は、悪気もなく、淑子にこう言ったらしい。
「どうして、お母さんは、後ろにも前にも、お尻があるの?」
それくらい当時の帝王切開は、女の身体を無惨に切り裂いた。
開腹手術のせいで腸が癒着し、生涯、淑子は腹痛と嘔吐に悩まされることになる。
そう、あんたのせいで…
好きな人と結婚できず、泣く泣く格下の家へ嫁いだ。妊娠期間中も、働き詰め。お金がなくて、十分に食べることもできず、無理が祟り、早産、帝王切開。それなのに、生まれたら女か。なぜ、どうして、、、。長男の嫁として、男の子を産み、大好きだったあの人のような立派な男に育てる。それが、淑子の生き甲斐になるはずだった。そんな思いがあったからこそ、あの舅姑に仕打ちに耐えてきたのに…。
無惨にも淑子の夢は一瞬にして砕け散った。
あの人と結婚していたら、きっと男の子が生まれたはず…
こんな辛い目に遭わなくても済んだのに…
ー 屋根裏部屋の悲劇
父のわがままで、望まぬ結婚をしなければならなかった自分。好きでもない男の両親の世話。そんな不運の中、希望を託したのは男の子。我が息子を立派な男に育て上げ賢母になることで、雪辱を果たすはずだった。
でも、またしても天は淑子を見放した。
淑子は、理不尽な自分の運命への鬱憤を
赤ん坊に向けることになる。
生まれた後、赤ん坊は、屋根裏部屋に置かれていた。
「あんたがいると、おじいちゃんとおばあちゃんのお世話ができない」
ーそんな理由からだった。
納戸代わりの屋根裏部屋は、整理整頓はされていたが、普段は使わないものや捨てるに捨てられないもので溢れていた。客用の布団、夏には使わない雪かき用のシャベル、大工道具の大箱小箱、正月用の重箱、冠婚葬祭用の着物、淑子が嫁入りの時に持ってきたお琴、モノクロ写真のアルバムなど…。
壁は無垢の木肌が露出している。窓は小さくて、十分な光が差し込まない。薄暗い。天井にあるのは小さな裸電球。板敷の床の上に、いつ捨ててもいいぺしゃんこの敷布団の上に赤ん坊。
そこには、包丁がまな板を叩く小気味よい音も、うとうとと眠りと現実の間を行き来する赤ん坊が耳にする大人の口から発せられる音も、味噌汁の香りも、通りすがりに赤ん坊の顔を覗き込む母の眼差しもなかった。
ただ、時々、遠くから、鴎の鳴き声と潮騒が聞こえるだけだった。
その子は、そんな生気のない空気が支配する細長い部屋に寝かされていた。
そこに、淑子が、時々、赤ん坊の世話をしにくる。
母と赤ん坊だけ。閉ざされた人目のない空間で二人きり。
良い嫁、良い妻を演じていた母の仮面が剥がれ落ちる。
赤ん坊が泣いている。
ずっとおむつが濡れていた。
母がオムツを開く。小さな足を持ち上げる。
そこには、あるべきものがなかった。
なめらかな、つるんとした丘陵のようなお股。
ウンチを拭う。股間のひだに便が入り込む。
あ~、忌々しい!
その瞬間、「何者か」が、淑子を乗っ取った。
なぜだ。なぜ、私だけが、
こんな仕打ちを受けなければいけないのか。
淑子が壊れる。
淑子は、赤ん坊の股間をつねった、引っ掻いた。
こいつのせいだ、こいつのせいだ。
どうしてお前は男じゃないんだ。
なぜそうやって私を苦しめる…
赤子の泣き声に
かき消される淑子の嗚咽。
百年前、
城を出た澪が、
キヨのおむつを替えた夜。
澪を乗っ取った「何者か」が
時空を超えて、淑子に襲いかかる。
赤子は泣く。
淑子が、いや、澪が、
赤子の口を押さえる。
お前さえ、生まれてこなければ…。
それでも赤子は、
生き抜くために乳を求める。
淑子は、鬼の形相で乳を含ませる。
悔し涙が、赤子の頬にポトリと赤く落ちた。
それは、澪の嗚咽でもあった。
私の人生は、そんなふうに始まった。
私の物語――再興
「あなた、この子の名前、どうしよう?」
青いおくるみに包んだ赤ん坊を抱えて、退院してきた夜。
淑子は、夫に聞いた。
赤ん坊が生まれる前、二人で考えた名前がある。
「大」とかいて「おおき」。男の子の名前だ。
女の子の名前なんて、考えていなかった。
どうしよう…
そうそう~、
今、名前に「美」ってつけるのは流行ってるし、
あなたの名前の政男の「政」に美をつければいっか~。
政美…。
私は、そんなふうに命名された。
ー 再起動
私が生まれたあと、
母・淑子は、子どもを二人産んだ。
女の子だった。
「この、女腹が」がという
姑の言葉が、胸を抉る。
子どもは、三人までと決めていた。
下に妹が二人、生まれてから、
私は長男代わりに育てられることになる。
親からの期待を背負うことのない、
のほほんとした子ども時代は、
4年で終わりを迎えた。
それから、私は、
「お前は男だ」と言われて育った。
食べるものから教育まで、特別扱いだった。
昭和一桁の生まれの母だから、
男の子にこだわっている。
そう思っていた。
でも、それだけではなかったのだ。
母は、無意識のうちに、
澪の人生をなぞって生きていた。
そして、私は、キヨの人生を…
遺伝子の螺旋は、
結んでは、離れ、また、縒(よ)り合う。
竹のようにしなり、結び目を変えながら、
世代を跨いで、韻を踏む。
澪とキヨの人生が、
ふゆを迂回して
淑子と私の人生で交差し、
再起動した。
母と私の人生の銀幕に、
澪とキヨの母娘のドラマが静かに
リバイバル上映され始めていた。
映写機で映し出される
モノクロの無声映画のように…。
幸せな母娘の形から、
母と私を引き剥がしながら…
ー この家の秘密
「この家には、秘密があるんだよ」
物心ついた頃から、
誰かが私に囁きかけていた。
目線を上に向ける。
誰もいない。
誰?あなたは、誰なの?
どこの家にも
ひとつやふたつ
秘密なんてあるでしょう。
そう言い返すと、声は消える。
でも、しばらくすると、
飽きもせずに、また私に囁きかける。
別に何か悪さをするわけでもないし、
放っておいた。
ー 乗っ取られた恋
女性なら、少しでも条件のいい男性と結婚したいと思うだろう。玉の輿に乗れたら、いいな~。白馬に乗った王子様、どこかにいないかな?そんな夢を抱いたことがあるのではないだろうか?
でも、私の中の「何者か」は、強欲だった。
相思相愛の人がいた。真面目で温厚な男性だった。中学校から一緒で、「気は優しくて力持ち」を絵に描いたような人だった。消防隊員になった彼と結婚すれば、平凡だけど、公務員の妻として、普通の幸せが手に入るはずだった。
頭では、わかっていた。「この人」って。でも、私の中の「何者か」が囁くのだ。
あんな男じゃダメだ。あんたには物足りないよ。もっといい男にしな。その「何者か」は言う。経済力とか、生活の安定だけで満足するなんて、全くもって情けない。男の価値は、お金だけじゃない。権力もあってなんぼのものさ。お前には、今しか使うことのできない武器があるだろう。その身体で、登り詰めるんだ。権力のある男に見初められれば、世界は、お前のものになる…。
ー 記憶する身体
私は、母の反対を押し切って東京の大学に進学した。そこまで逃げれば、母から自由になれる。そう思っていた。
入学式にも、卒業式にも、母が上京することはなかった。母は目の前にいない。それでもなお、私は母の支配下にあった。
電話が鳴る。
「夏休み、いつ帰ってくるの?」
「帰らない」と言えない自分がいた。
母に怯えていた。
蛇に睨まれたカエルみたいに…。
仕方なく帰省するも、
いろんな理由をつけて、
すぐに東京に戻った。
実家を出たその足で、
私は近所の寿司屋に寄る。
そして、両親に特上寿司の出前を頼む。
アルバイトで貯めたお金で…。
「そうしろ」と言われたわけじゃないけど、
そうしないといけない気がしたから…。
女の子という負い目を背負って生きている私に、
「健気だね、すまないね」と誰かが囁いている気がした。
そんな帰省中の、憂鬱なある日。
母がギョッとした様子で、
私を見据えてこう言った。
「赤ちゃんの時にしたことを、
あんたが、まさか覚えているなんて」
私は、母の言葉の意味が
わからず、きょとんとしていた。
まるで、
悪事を暴かれた
凶悪犯のようだった。
狼狽している母の姿が、
私の脳裏に刻まれた。
今なら、わかる。
母のなんらかの言動に対して、
私が、赤ちゃんの時のように
怯えた反応をしたのだ。
もしかしたら、私は、
逃げ場のない空虚な目を
していたのかもしれない。
そう、母が私の股間を痛ぶっていた時の…
無抵抗の赤子に牙を剥く。
そんな母の乳房に
むしゃぶりつきながら、
母に向けていた諦めと憎悪が
混在した視線。
私とともにいて、
ずっと影に身を潜めていた
怨恨が、姿を現した。
「お前だったのか!」
私の細胞が叫ぶ。
長い間、よう、
素知らぬ顔をしていたものだ。
逃げ切れると思うなよ。
身体は覚えているのだ。
絶対に許さない。
償いをさせてやるから、
覚悟しておけよ。
どれだけ隠し通そうとも、
もみ消そうとも、因果応報。
不正には正義を、
虚偽には真実を、
裏切りには復讐を…。
赤子の怨恨は、
意識にのぼることなく、
深層で身体に訴えかける。
身体で不均衡を正し、
元の均衡を取り戻すまで、
隠蔽された真実は、囁き続ける。
何世代もの時間を費やして…
ー 仕組まれた出会い
駅前にあるビルの2階の英会話喫茶。
母から逃げるために、東京に飛び出してきた。
もっと遠くに逃げなければ…。
私は、そんな強迫観念に駆られていた。
英語さえできれば、
いつでも海外逃亡ができる。
そう思って、時折、
この喫茶店に足を運び、
格安の英会話レッスンを受けていた。
雑居ビルに挟まれた細い駅前通り。
窓の下には、
電車から吐き出されては、
吸い込まれていく人の波。
カゴに大根を突っ込み、
園児服を着た子どもを乗せた
ママチャリが行き交う。
その日、レッスンが終わったあと、
私は、一人、店に残り本を読んでいた。
大きな窓から差し込む陽光が気持ちいい。
インベーダーゲームが流行っていた頃だった。
ゲームしたいな。
でも、節約しなきゃ。
ゲームの画面を本で隠す。
隠した本の隙間から、
インベーダーがチラチラと
顔を出したり引っ込めたり、
飽きることなく、私を誘惑してくる。
クッションのくたびれた
バネの居心地の悪さが、
バーチャル空間から、
私を現実に引き止める。
私の他に客はいない。
マスターがカウンターの向こうで、
煙草をふかし一息ついている。
時間を持て余し、客が捨てていった
新聞に手を伸ばす。
カサカサと紙が擦れる音が響く。
その時、不意に空間が揺らいだ。
誰かが、階段を登ってくる。
カランカラン…
喫茶店のドアの呼び鈴が鳴る。
私は顔をあげた。
男が入ってきた。
私の中の「何者か」が、
「あ~、いたいた。みぃ~つけた」と
小躍りしている。
二人の目が合う。
彼は、引き寄せられるように、
私の向かいに座った。
「何者か」がニヤリと笑った。
私は恋に落ちた。
彼は某国際企業の御曹司だった。
私は、サラリーマン家庭の娘。
格が違う。
そう、澪と殿様のように…。
彼は、父の仕事の関係で
世界各地を転々としながら成長した。
「自分は、根無し草だ」
傷付きやすくて、
ちょっと触ったら、儚くも崩れ落ちる
ーそんな華奢なガラス細工のような人だった。
誰にも見せない弱さを
私にだけは見せてくれた。
孤独感が磁石のように、二人を結びつけた。
他の人には見えない傷口を舐め合う。
でも、同時に、傷つけ合うことでしか、
お互いの愛情を確かめる術がなかった。
ある日のこと、
度重なる喧嘩の後、
私は、彼の気持ちを確かめたくて、
「別れる」と啖呵を切った。
彼からの連絡を待っていた。
どうせ、いつものような痴話喧嘩だ。
「ドライブにいこう」
何ごともなかったように、
そんな電話が来るはずだった。
そんな矢先、ある事件が起きた。
その時の私は、もう二度と、
彼に会えないなんて、知る由もなかった。
そう、澪のように、淑子のように。
ー 繰り返される悲劇
何かが起きた…。
私は、首根っこを
掴まれた子猫のように、
眠りの底から、
無理やり引き摺り出された。
男が私に馬乗りになっていた。
拳が、私の下腹部に打ち込まれる。
強姦魔だ。
そう悟った途端、
「何者か」が覚醒した。
その男は、私の右腕を
スニーカを履いたままの
足で踏みつけていた。
私は言った。
自分でもびっくりするくらい冷静に…。
「ねえ、ベッドの上だよ。靴脱いでよ」
虚をつかれた男は、
「あっ」と言った。
素直に玄関に戻り靴を脱ぐ。
その男の背中を見ながら、私は思った。
「何をされてもいい。
挿入だけはさせないようにしよう」
男は、私が横臥しているベッドに戻ってきた。
寝巻きがわりのTシャツを引きちぎり、
私を全裸にした。乳房を弄(もてあそ)び、
体を舐めまわした。
そんな男に私は、
静かに語り続けていた。
どうやら、この男は、
地方から上京してきたばかりの
大学生らしかった。
窓の外がじわじわと明るくなってきた。
街が眠りから目覚め始める。
名前も素性も知らない。
いきなり私の部屋に踏み込んできた男。
数時間だったけど、
ベッドの上で肌を合わせた者にしか
生まれない奇妙な親近感が生まれていた。
私は、何気なく尋ねた。
「でもね、あなたのお母さんが、
今、自分の息子がこんなことを
してるって知ったら…」
私が言い切る前に、
その男は、私の胸に突っ伏して号泣し始めた。
え~、なに、これ?
刑事ドラマでよくみるシーンじゃん。
本当にそうなんだ。
って、驚いている
自分に、驚いていた。
ひと通り泣いた後。
「ぼく、君と仲良くなりたかっただけなんだ…。」
彼はこう言い残して、こうべを垂れながら、出ていった。
あ~、助かった。
極度の緊張から解放され、
すっと、意識が遠のいていった。
ドアに鍵をかけないままで…
目が覚めた。
お昼過ぎだった。
警察に電話をした。
震える指でダイヤルを回した。
1、1、0…
夜中に男が入ってきて、襲われました。
そう告げた。
「えっ、男に襲われた!」
警察でしょ?
犯罪なんて日常茶飯事で、
事務的に対応してくれるはずじゃないの?
慌てふためく電話口の女性の声が、
起きたことの異常さを突きつける。
そこで初めて、私は崩れた。
涙がとめどなく溢れ出した。
まずは、産婦人科に行って
診断書をもらうようにとのこと。
「乱暴された?」と言う医師の問いに、
首を横に振って答えた。医師が診察する。
強姦被害なし。
殴打による外傷で全治1ヶ月。
警察による現場検証。
指紋採取の銀色の粉末で、
ドアやベッドがキラキラ輝いていた。
刑事ドラマを見ているみたいだった。
その後、警察での事情聴取。
男の刑事が、言う。
「辛いのわかるけど、本当のことを話しなさい。
若い男と夜中に二人っきりで、
裸にされて、何もないわけがない。
強姦されたんでしょ」
何度、「そんなことはない」と
説明しても刑事は納得しない。
最後は診断書を指差した。
「だって、そんなこと書いてないでしょ」
刑事は、渋々と調書を作成する。
事情聴取が終わった。
男が殴った腹が、青黒くてブス色で、可哀想だった。
身体を動かすのも辛い日々がしばらく続いた。
私は、こう思っていた。
最悪の事態にはならなかった。
やっぱり、
私は宇宙に守られている、
強力な守護霊がついていると。
そして、あの状況で
自分を守ることができた
自分を褒めていた。
でも、私が強姦されなかったのは、
何かが守ってくれたのでもなく、
自分の冷静沈着さのせいでもなかった。
ただただ、
「血の韻」のせいだったのだ。
この家系には、
いつの頃からかわからないが、
母による娘への「性器挿入のない性暴力」という
「血の韻」が組み込まれていた。
その韻は、
澪とキヨの母娘関係を狂わせ、
ぐわんとふゆを迂回して、隔世遺伝した。
百年の時を経て、
母・淑子に赤子の私の股間を痛ぶらせた。
それだけにととまらず、
大学生だった私の寝室にまで
入り込んできたのだ。
あの夜、
私は守護霊や天使に
守られていたわけではなかった。
ただ単に、
「血の韻」を踏んでいただけだったのだ。
「性器挿入のない性暴力」という
刑事も頭をひねる奇妙奇天烈なドラマを
相手役を母から強姦魔に変えて
リプレイしていただけだったのだ。
ー 恋人の死、そして、駆け落ち
連絡を心待ちにしながらも、
私は彼に連絡をすることを躊躇っていた。
「親が君のことを調べるから、
素行に注意しておくように」と、
かつて彼は言っていた。
あんな事件に遭ってしまった。
自分からは連絡なんてできない。
そうこうしてるうちに、
4年間の大学生活は
あっという間に過ぎていく。
どう生きていけばいいか
わからない私は、就職先も決めずに、
東京の街を浮遊していた。
そんな私のもとに、
ある日、一通の手紙が来た。
連絡が途絶えていた彼の母からだった。
上質な和紙で作られた封筒に、
万年筆で、女性らしい柔らかな筆跡。
彼のお母さんからだ。
一体、なんの知らせだろう。
彼の父親は頑として
私との付き合いに反対していた。
でも、お母さんは、
少し応援してくれていた。
彼にまた会えるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、封を開けた。
「あの子は、亡くなりました。」
呼吸が止まった。
死が最も遠巻きにする二十代の若者の命が断たれた。
手紙には、なぜ亡くなったのかーー
その理由については書かれていなかった。
ただ、文面から、誰も、予測していなかった
何かが起きたらしいことは、読み取れた。
そう、彼自身にとっても…
喧嘩別れした後も、
彼は私の心の支えだった。
彼を亡くした私は、
精神のバランスを崩した。
そんな時は、
不思議なもので、
自分の中の小さな子どもが
「お母さん」と泣きじゃくる。
私は母に頼ってしまった。
電話越しに、
彼が亡くなったことを聞いた母が、
ぼそっと言った。
「あんたも、お母さんと同じだ」
その言葉に惑わされ、
私は、今度こそ
母にわかってもらえると
錯覚してしまった。
私は実家に帰った。
母は、私を「傷物」にした彼を憎んでいた。
その男が亡くなったことを知り、
母は私の前で小躍りして喜んでいた。
この女には、
やっぱり血も涙もない…
高校生の時のこと。
私は、無性にお母さんに抱っこしてほしい
ーそんな衝動に駆られていた。
でも、そんなこと、母に言えるわけもなく、
満たされない「抱っこ欲」を抱えたまま、
大学進学を名目に家を出たのだ。
私が「傷物」になったのは、
間もなくのこと。
でもそれは、
性欲を満たすためじゃなかった。
ただただ「抱っこ」してほしかっただけだった。
とはいえ、18歳の若い男女が
「抱っこ」だけで終わるわけもなく、
私は「傷物」になった。
高校生の時も、
恋人を亡くした時も、
私は、ただ母に抱きしめて
ほしかっただけだった。
そんな満たされない「抱っこ欲」と
恋人を失って精神のバランスを崩している私の前に、
ある男性が現れた。
その人は、
恋人を失った私の悲しみを、
何も言わずに聞いてくれた。
ただただ、抱きしめてくれた。
私は、再び、家を出た。
その男性と一緒に。
私はその人と結婚した。
親の許しもなく、
結婚式もせずに…
激怒する母とは、
数年にわたり音信不通になるも、
いつしか実家と行き来をするようになった。
母に会う時は、
夫が盾になってくれた。
どれほどありがたかったことか。
夫という城壁に囲まれ、
私は、生まれて初めて、
家庭の暖かさを感じていた。
ー 夜の営み
夫が私を抱き寄せる。
夜の営みが始まる。
でも、私の身体は途中で固まる。
彼の動きを阻止してしまう。
なぜかわからなかった。
私は、夫を受け入れたかった。
でも、身体が拒否する。
夫は、黙って離れる。
それが何度も繰り返された。
養子として
裕福な商家で育った夫。
食べることが好きだった。
日曜日の朝は、
早起きしてホテルの朝食を食べに行く。
その日も、
夫の運転する車の助手席に乗り、
都心のホテルに向かっていた。
大学時代の恋人と散策した通りを走った。
私は、いつものように
彼の思い出を話し始めた。
いつもは何も言わずに、
耳を傾けてくれる夫が、一言、言い放った。
「もう、いい加減、その男の話はやめろ」
しばらくして、私はその人と離婚した。
ー 透明な加害者
離婚した後、私は週末、
子どものためのボランティア活動を始めた。
活動の帰り道、その団体の代表に、
結婚していた時の夜の営みについて話したことがある。
「私、いつも夫の動きを途中で止めていた…」と。
彼女は、言った。
「それ、子どもの時に性被害を
受けた女性によくあるパターンだよ。
どうしようもできないほど
辛いことって、瞬間冷凍して、
心の奥底にしまい込んじゃうんだ。
自分でも気づけないほど深い心の奥底にね。
冷凍した感情は、風化しない。
そのまま、眠りにつく。
でも、旦那さんとの営みで、
解凍される。溶け出すんだ。
冷凍保存された感情が、
ぬるりと生物(なまもの)に
戻り始める。
その状況に対応できないから、
無意識に途中で止めるんだろうね。
だって、
冷凍されたトラウマは、溶けると、
今のあなたの等身大で浮上するから。
子どもの時は
確かにどうすることもできなかった。
でも今のあなたは大人。
十分に対処できる知恵も経験もある。
でも、やっぱり怖いんだよ。
その時は、
ゆっくりと呼吸をするといい。
呼吸って、陣痛をやわらげるでしょ。
心の痛みも楽にしてくれるから…」
子どもの時の性被害?
私は、記憶を探った。
近所のおじさんだろうか?
よく遊びに来ていた従兄弟のお兄ちゃん?
子どもの頃に関わりのあった男性を、
ひとりひとり思い出していった。
でも、どれだけ記憶を弄っても、
その誰かに辿り着かない。
わたし、本当に、
小さい頃に性被害を受けたの?
否定も肯定もできない。
釈然としない気持ち。
何となくの違和感。
頭の片隅に「?」を残したまま、
私は、生きづらさを解消する方法を模索し続けた。
そして、48歳の夏、海の向こうで
私は「犯人」と遭遇することになる。
ー 忍び寄る影
最初の恋愛も、最初の結婚も
母から逃げるためだった。
トラウマを抱えた私にとって、
恋愛も結婚も、
災害時の避難所みたいなものだった。
苦しくて、苦しくて、
その場所がなければ生きていけなかったけれど、
安息の場にはなりえなかった。
だから、こう思った。
逃げるための恋愛や結婚で
これ以上、自分を、そして、相手を
傷つけるのは、もう懲り懲りだ。
今度は、ちゃんと普通に恋愛をして、
お付き合いをして、結婚式を挙げよう。
そして、子どもを産んで、
幸せな家庭を手にいれよう。
辛くて、辛くて、
誰かに縋りたくなる衝動を
必死で抑えて、「普通」に
男性とお付き合いしたかった。
でも、ことごとくうまくいかないのだ。
まるで何かに邪魔されてるみたいだった。
わたし、、、
結婚どころか、
お付き合いすら
できなかった…
だって、パニックを起こすから。
好意を抱く男性の前で、
性的なことを口走り始めるのだ。
もう一人の自分が、頭上から、
「そんなこと言っちゃダメ」と
必死で止めに入る。
でも、止まらない。
制御がきかない。
男性は、
パニックを起こしている私を
侮蔑の眼差しで見つめ、去っていく。
惨めだった。
恥ずかしくて恥ずかしくて、
そんな自分を嫌悪した。
パニックを起こした夜、
私は、布団の中で泣き明かした。
顔が腫れ、翌日は外に出ることができなかった。
普通にお付き合いをしようとすると、
自分の中の得体の知れない「何者か」が、
カッと目を見開く。
私に寄生している化け物。
パニックを起こし性的なことを
口走っているうちは、まだマシだ。
でも、自分には、抵抗する術もない。
いつかこの化け物が、
私は喰い尽くす日が来るだろう。
ただただ、
力でねじ伏せられるだけの
無力な女という肉の塊。
そのうち、あたし、夜な夜な
男を漁って歩いてるかもしれない…。
ヒタヒタと、
冷たい足音が聞こえる。
狙いを定め、あいつが私に、
飛びかかる瞬間を待っている…
私は、底知れぬ恐怖に怯えていた。
ー 門前払い
そんなある日のこと。
電話が鳴った。妹からだった。
嗚咽していた。
妹は、男の子を産んだ。
母にとっての初孫だ。
男の子を産めなかった母。
我が娘が自分の叶えられなかった夢を叶えた。
さぞや喜ぶであろう。
そんな周囲の予想は、
あっさりと裏切られた。
母は、妹を勘当した。
そうこうするうちに、
妹は二人目の子どもを妊娠した。
その子は、女の子だった。
自分の娘が男の子を産んだからと、
怒り心頭の母親なんて、こちらから願い下げだ。
そう強気にでればいいものを、
子の性(さが)なのか?
妹も、また、母を捨てきれずにいた。
あんな母親だけど、女の子なら、
許してくれるかもしれない。
妹は、生まれて
まもないの女児を抱いて、
手土産、片手に実家に行った。
呼び鈴を押す。
「はい」という母の声。
「お母さん、
二人目が生まれたよ。
女の子だよ」
インターホン越しに
赤子の声が、母に届く。
居間のドアが開く気配。
玄関でサンダルを引きずって歩く音。
ドア一枚で遮られた向こう側に
母が息を潜めている。
ドアは開かない。
低く唸るような声。
「女の子を産んだからといって、
許されると思うなよ」
叩いても、叩いても、
ドアが開くことはなかった。
秋の日の午後のこと。
妹は、母に門前払いにされた。
赤子は祖母に
抱かれることのないまま、
成長することになる。
そう、父に抱かれることなかった
キヨのように…
ー 飛べなかった天使
母とはずっとうまくいっていなかった。あの女は、変わらない。もう邪魔をしないで。私を放っておいてくれ。この人が生きている限り、私は幸せにはなれない。どうぞ、早く死んでください。そう願っていた。
だから、母の死後、すぐに動けるように、解決できる問題はすべて解決しておきたかった。特に、男性の前でパニックを起こす癖だけでも…。
カウンセリング、セラピー、自己啓発、ボディ・ワーク…。手当たり次第、なんでも試した。お寺にも、教会にも行った。スピリチャルにものめり込んだ。
ある時、世界的に著名な
透視能力者のセッションを受けた。
透視能力者は言った。
今、引っ越しをしようとしているでしょう。そのアパートの敷地内にお墓がある。竹垣に囲まれていてわからないようになっている。悪いお墓ではないけど、確かめてごらん。
内見に行った時、お墓なんてなかったけどな。とても明るいいい雰囲気の建物だった。まさか、あそこにお墓なんてないだろう。
そう思ったが、さまざまは奇跡を起こしている透視能力者だったから、念のため確かめてみることにした。
そのアパートは、地元の不動産屋が15年以上管理してきた物件だ。「敷地内に墓なんてないよ」と一笑に付す。でも、そういえば、確かに竹垣があったよなぁと。竹垣の中を見に行った。すると、そこに墓があったのだ。
世の中には不思議なことがあるものだ。
でも、霊力の高い透視能力者も、天使とつながっているチャネラーも、母と私の人生を狂わせている「何者か」の正体を見抜いたものは、誰一人としていなかった。
ー たったひとりの渡米
何を試しても、苦しみから解放されない時、人はスピリチャルに救いを求める。私もそうだった。
必ず癒しが起きるというヒーリングをしていたことがある。しかし、どうしても癒しが起きない人がいる。ヒーリングをしながら、私は、クライエントを観察していた。
共通点が見えてきた。
なんと、それは、子ども時代に
トラウマを抱えているということだった。
子ども時代のトラウマ…
私のことじゃないか…
どれだけエネルギー・ワークをしても、瞑想をしても、宇宙とつながっても、私は、男性の前でパニックを起こし続けていた。
スピリチャルでもダメなの?
私は、一度捨てた心理学に戻ってみることにした。本棚にある恋愛心理学の本を片っ端から取り出し著者に連絡をした。
私、男性の前でパニックを起こすんです。性的なことを口走る。そのせいで、お付き合いすらできません。結婚ができません。助けてください。
米国から返事が来た。
「お父さん、ごめんね。私が帰ってくるまで、死なないでね」ーそう、寝たきりの父に言い残し、48歳の時、私は渡米した。初めての海外。誰一人、知り合いなんていない。滞在するホテルまで、ロサンゼルス国際空港から乗合バスで半日かかる。スマホなんてなかった。Googleマップもなかった。
たった一人だった。すごく怖かった。
ー 胎児のように呼吸した
ある夏の日、カリフォルニアの海辺の近くにあるホテルの会場で、2週間にわたるワークショップが行われていた。
私は近くにあるモーテルに滞在していた。その日は、少し早く起きて、海岸沿いの道を散歩がてら歩いて会場に向かっていた。
カリフォルニアの陽気でカラッとした朝の空気。ジョギングをするアメリカ人に追い抜かれながら、のんびり歩く。遠くに地平線。朝の太陽が、ちょこんと浮かんでいる。
日本は、今、夜だ。同じ地球上に、全く違う時間が流れている。父は、今頃眠っているだろうか。そんなことを考えながら、歩いていた。
白亜の城のようなホテルが見えてきた。空間を贅沢に使った、でもちょっと大味で、コンパクトさなど微塵も感じられない無邪気すぎるロビー。大理石の冷たさそのままに、ドライな空気が、ほてった私の頬を撫でる。
パティオに足を踏み入れる。椰子の木が揺れていた。潮風が葉をざわざわと鳴らす。波の音。カモメの鳴き声。ワークショップが始まるまで、まだ時間がある。私は、日除の傘のある白いテーブルに座り、内容を半分も理解できていない英語のテキストをパラパラとめくっていた。
会場は、パティオの向こうにある。通りすがりに、Good, good, good mornig, Masami. と声をかけてきたサムと一緒に、会場に向かう。
呼吸の実践が行われるワークショップの会場は殺風景だ。机も椅子もない。
ただただ、昨日の残骸が床に散らばっている。
寝転がった時に身を預けるクッション。
トラウマがむき出しになった時に自分を守るブランケット。
誰れかが忘れていった、ページが開いたままの資料。
食べ残したタコスが、ちょこっと顔を出した紙袋。
ストローが刺さったままのジャンボサイズのプラスチックカップ。
ワークショップ5日目だった。
アメリカ国内だけでなく、
世界中から、ここでしか体験できない
呼吸による変容を目指して、人々が集まっていた。
メキシコ、チリ、カナダ、ロシア、オランダ、
ドイツ、ポーランド、南アフリカ…
参加者のほとんどが欧米人で、
東洋人は私一人。
そんな国籍も人種も様々で、
地球をギュッと握りつぶしたような場所。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして泣いたり、
ネイティブでも理解できない意味不明な英語を喚き散らしたり、
噴出した怒りに身をよじり、そんな未知の自分との遭遇に驚いたり、
無意識に心の奥底に閉じ込めたきた不安が、ひょっこりと顔を出した瞬間に、つい虚勢を張ったり…
家族にも話せなかったことや、自分の知らない自分の恥部を、縁もゆかりもない異国人の前で晒す非日常の空間。その時間が、ここにしかない妙な連帯感を醸し出し、これから起きる想定外の未来への恐れと期待と好奇心が、会場を満たし始めていた。
そんな空気の中で、
私は、呼吸をしていた。
すぅ~~
すぅ~~
波の音。カモメの鳴き声はナビゲーター。
地球の鼓動に合わせて、呼吸する。
すぅ~~
すぅ~~
母の胎内にいた時に、
へその緒で呼吸していたように
すぅ~~
すぅ~~
へその緒の螺旋に嵌(はま)り、
時間が逆回転し始める。
過去へと滑り落ちる。
身体の奥底から、
何かがぬるりと出てきた。
ゴゴゴゴゴゴォーと
壊れかけの全自動洗濯機に
押し込めれられたタオルが
振り回されて水分を拡散しているように
細胞がぶるぶると何かを放射し、
透明度を増していく。
ミシミシミシ…
階段の軋む音がする。
だれかが上がってくる。
障子が開いた。
母が入ってくる。
屋根裏部屋は、
隔離された空間。
誰もいない。
どうせ、助けを呼んでも届かない。
届いたとしても、どうせ誰も助けに来やしない。
天井が見える。
私が、ひどく小さくて、
身体の中に閉じ込められていた。
ただ、ただ、
敷布団の上で
横臥しているだけだった。
寝かされたまま
足が持ち上げられる。
オムツが剥がされる。
無防備な、糞尿に塗(まみ)れた性器が顕になる。
ピシピシ…
ピシピシ…
耐えきれずにピーっと、
亀裂が走る。
空気がバラバラの破片になって
私に突き刺さる。
誰かの手が、私の股間を痛ぶる。
身体が痛がる。捻(ひね)り、
捩(ねじ)れ、その手から逃れようとする。
身体の自由が効かない。
私は、何もできない
無防備な寝たきり赤ちゃん。
手が、手が、手が、私を押さえ込む。
その手の持ち主の顔が、見えた。
母だった。淑子だった。
まさか、私を痛ぶっていたのが、母だったなんて…
そして、そんな母・淑子の陰で、
淑子に揺さぶりをかけている女がいた。
澪だった。そして、キヨが泣いていた。
ー 犯人との遭遇
私は、子どもの私を痛ぶった性犯罪者を探していた。
見た目は穏やかで笑顔満面、内面は粗暴な男を…。
でも、そいつは、
性欲に駆られ、人間の皮を纏った
ギラギラした目をしたオスではなかった。
母だった。
澪だった。
性器挿入のない性暴力…。
そんなことが、ありうるのか…
あ~、小さなおちんちんがない、ない、ない。
蝶よ花よと夢見る少女時代を過ごしてきた
純粋無垢で柔らかに閉じていた女の身体に侵入し、
切り裂き、出産という死の淵に女を引き摺り出すもの。
ーーそれが、小さなおちんちんの正体だ。
女の身体がたゆたうことを許さぬ
支配と所有がデフォルトになったこの社会で
マシンガンのような狂気に満ちた男根に
綿菓子のような柔らかな身体で対抗するには、
正攻法では太刀打ちできない。
少女が女になり、
命と引き換えに子を残し、
身体を担保に親を養い、
国を守り、家を守り、
父のため、家督を継ぐ長子のためには
閨でのまぐわいまでもをも晒し、
我が身を世の公器にする。
私(し)を切り捨てた男と
死をも厭わぬ女の攻防。
男にも、女にも、
どこかで何かが捻れ、
苦界と化したこの世において
守らねばならない大切なものがあった。
カモメの鳴き声が聞こえる
函館の海辺の近くの家にある
小さな屋根裏部屋で、
血に刻まれた、
澪の怒りと絶望が、
時空を超えて、淑子を乗っ取る。
思い人と添い遂げられず、
女の最終兵器となる
男児を産むことができなかった。
そんな悲運への憤怒は
キヨだけでは収まりきれず、
新たな赤子の股間に向かう。
幾重にも重なる刃の痛みを
私も、キヨも、覚えていない。
でも、身体は忘れない。
その時の恐怖、
誰も助けてくれないという絶望、
守ってくれるべき母が自分に牙を剥くという理不尽さへの怒り…
小さな身体に刻まれた記憶は、不発弾のように沈黙している。
ー 心の地雷原
かつては、
男が恋人のために花を摘み、
子どもの邪気のない笑い声と、
我が子を見つめる父母の慈しみに満ちた草原は、
今や規制線が貼られ、偽りの花咲く地雷原へと豹変してしまった。
泥にまみれた鉄球が、地中で息を潜め、
踏まれる瞬間を野獣のように待機する。
過去の争いの遺物が、
その争いを知らない誰かの人生を
延々と破壊し続ける。
性器挿入のない性暴力という地雷。
男性が目の前に現れると、
カチッと信管が外れる音が聞こえる。
股間に刻まれた「魔」が目を覚ます。
「何者か」が暴走する。私が壊れていく…
私は、何十年も、
そんな底なし沼でもがいていたのだ。
私と母の幸せに満ちた時間を
狂わせた「血の韻」。
澪もキヨも、知らなかった。
淑子も私も、気づけなかった。
癒されることなく潜伏する血の痛みは、
股間に隠蔽され、世代を超えて、
母娘の幸せを破壊し続けていた。
そよ風吹く、花咲く草原に毒蛇が潜む。
錆びついて機能を失ったように見える。
でも、信管だけは生きている地雷がそこにある。
記憶の奥底にあって
身体に刻まれ、
累々と澪からキヨへ、
淑子へ、そして、私へと世代間連鎖。
私は、呼吸する。
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
記憶の鉄球が血流の中に溶解していく。
澪の苦しみが、
キヨの痛みが、淑子の切望が、
私の中で煌めき、桜の花びらと化し乱舞する。
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
ぶるぶるっと、
細胞が、身をよじる。
意識の地層の底で劣化した
記憶の断片がぱらぱらと剥がれ落ち、
細胞が息を吹き返す。
母からの性暴力という
この家系の女たちの身体に巣食う
「血の韻」が、じゅくじゅくと発酵し、熱を帯びる。
空間が捻(ねじ)れ、身体が天空をたゆたう。
眼下には、累々と流れる血のうねり。
色とりどりの光線が行き交い、目が眩む。
スモークがかかった空間に
何かが乱舞している。
ギョロっとした目をしてる…。宇宙人?
メラメラと燃えている土色の器?
縄目?しめ縄?臍の緒?DNA?
あらゆるものが、
結んでは、離れ、また、縒(よ)り合う。
黒電話のコードのように、伸びては縮み、
縒りを戻し、結び目を自在に変えながら、韻を踏む。
韻の結び目に、
澪が、キヨが囚われていた。
そして、淑子と私の人生も、
同じ結び目に縛り付けられていた。
あ~、そうか、
これが、この家の秘密だったんだ。
私のせいでも、
母のせいでもなかった。
諸悪の根源は、「血の韻」。
それだけだったんだ。
その時、一陣の風が吹いた。
桜の花吹雪が、私を飲み込んだ。
気づいたら、
私は会場の隅っこで
頭からすっぽりと毛布をかぶって
床に寝っ転がっていた。
毛布越しのぼんやりとした光。
誰かが、天井の角から私を見下ろしている。
「よぅ、やった。
とうとう、この家の秘密を見つけたのぅ」
それからその声は聞こえなくなった。
ー 秘密、解錠
私は、どうやら、48歳で、
この家の秘密を知ることができたらしい。
澪やキヨ、いや、
その前のご先祖様からか?
いつの時代からかはわからないが、
ずっと探し続けていたこの家の秘密。
今や、人生百年。
「血の韻」を足枷にするのではなく、
「血の韻」を結んでは、開いて、人生を再構築する。
そのための時間が、私にはまだ残されていた。
でも、その時、母は、
80歳になろうとしていた。
もう時間がない。
残りの人生を、澪の化身として、
生きる以外の選択肢は残されていなかった。
だから、私は、もう、
そんな母を責めることができなかった。
あれほど、憎み、
忌み嫌っていた母を
我が腕に抱(いだ)くことしかできなかった。
湧き上がってきたものは、
憐憫の情でも、蔑みでもなかった。
人類の多くが未体験であろう
未開の感情がそこにあった。
今、私は、
居室から食堂までの廊下を、
母の手を引いて歩いている。
母が私に身を委ねる。
母のベッドに腰掛けて、
母に甘える私がいる。
数世代の時空を超えて訪れた
母娘の穏やかなひと時に、
「血の韻」が慌てふためく。
私も、想定外の未来に
戸惑っていた。
夢か?現(うつつ)か?
頬をつねってみた。
何度も、何度も、つねってみた。
でも、そこにあるのは、
微笑む母との穏やかな時間。
妙な光景だ。
成長を見越して、
サイズの大きい制服をあてがわれ
制服に着られて、ブカブカと
歩いている中学生みたいな気分だ。
私は、まだ目の前で起きている
現実を受け入れることができないでいた。
でも、ほっぺには、
幸せな痛みが広がっていた。
ー母も私も、だれも、悪くなかった…
妹は、男の子を産んだ。
そして、母は、そんな我が娘を勘当した。
晩年、母は、何度もこう言っていた。
「お母さんは、
そんなつもりじゃなかった…」
あの気の強い人が、力なく、
「そんなつもりじゃなかった…」と、
肩を落として言うのだ。
私は、何度も、母に言った。
「お母さんは悪くない。
お母さんのせいじゃないから」と。
慰めでもない。
精神論でもない。
親孝行でもない。
母を責める気持ちなど微塵もない。
ただ確信だけはあった。
私は迷いなく、母に伝えた。
「お母さんは悪くない。
お母さんのせいじゃないから」
母はどれほど、苦しかったろう?
自分が産み育てた娘が、
すぐそばに住んでいるのに、
会うことができない。
孫を可愛がることができない。
一体、
どれほどの罪を
母が犯したというのか…
母は、「何者か」に乗っ取られ、
血脈に刻まれたパターンに、
ただ動かされていただけだったのに…
妹は妹で、
母の仕打ちを許そう、許そうとしていた。
でも許すことができずにいた。
でも、そもそも、
母を許す必要なんてなかったのだ。
母と娘の幸せな関係をぶち壊していたのは、
「血の韻」だったのだから。
なぜ、許す必要などあろうか?
なぜ、懺悔の必要があろうか?
私は、伝えた。
何度も、何度も…
「お母さんは悪くない。
お母さんのせいじゃない」
いつしか母の口から、
妹への懺悔の言葉は消えていった。
ー「何者か」が去った後
母が妹のことを口にしなくなってから、
施設の職員が、笑いながら、
私にこう言うようになった。
「淑子さん、『ありがとう』って、
何度も私に手を合わせるんですよ~」
「口開けば、
政美さんのお母さん、
『ありがとう』しか言わないのよ」
母は、私の顔を見ても、
「ありがとう」
背中をさすられても、
「ありがとう」
「お母さん、
一緒に住めなくてごめんね」と
言う私にも「ありがとう」
小さい頃から、
私は、母を観察していた。
本当にひどいことをいっぱいするのに、
でも、どうやら、母は自分のことを、
マリア様や菩薩様のように思っているのだ。
そんな母を私は、
「人格障害ってやつ?」とすら思っていた。
でも、
「何者か」が去った後の
母は感謝の人だった。
母が娘の股間を痛ぶったのも、
私が母から逃げ続けていたのも、
妹が母を許せずに苦悩していたのも、
誰のせいでもない。
それなのに、こんなことで、
家族がバラバラになっていたなんて…
悔しくて、涙があふれだす。
でも、今、私には呼吸がある。
苦しい時、辛い時、
私を支えてくれる呼吸がある。
私は、母の横で呼吸する。
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
母の肩が、ふっと落ちた。
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
目の前には、
穏やかな母の姿があった。
リジェネラティブ(循環生成)ー縄文2.0へ
2023年12月30日の朝。
母は腹痛を訴え嘔吐した。
母、午後4時過ぎ、急遽入院。
三人の娘を帝王切開で産んだ母。
身体にメスを入れたせいで、
腸が癒着し、時々、腹痛を訴える。
いつものことだ。
明日、様子を見に行こう。
しかし、母急変。
大晦日の31日未明、
「あれよあれよという間に」
母はこの世を去った。
ー もうひとつの「血の韻」
母の死の翌日、2024年1月1日。
令和6年元旦の夕刻、能登大地震。
そして、翌2日。
自衛隊機と民間機の衝突事故。
羽田空港炎上。
帰路を絶たれた私は、
母の葬儀の後も、
札幌に滞在する羽目になった。
母の死。
そして、
日本が揺れた。
澪は、男児を産めず、
出産直後に奈落の底に突き落とされた。
翌日、廃藩置県。明治の日本に激震が走った。
関東大震災で、
両親を亡くし孤児になった祖父・清治。
戦後の農地改革で没落。
極貧になった父・政男。
この家には、
激震という「血の韻」も
刻まれていたのだ。
ホテルの窓の外は、雪。
もう十分だ。
死んだ後まで、
母を、私を、これ以上、
弄ばないでくれ。
ー せめても、母へ
母は、本当に辛い人生を送った。
よく90年、生き抜いた。
DNAに刻まれた
「激震」という韻に翻弄されなければ、
もっと穏やかで幸せな人生だったろうに…。
母の戒名は、釋尼安穏。
あんのん…
澪から数えて、
数世代、百年余もかかったけれど、
あの世に召されて、母はやっと安穏になった。
その戒名を眺めながら、
私は、呼吸した。
赤ちゃんのように…
胎児のように…
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
母の痛みは、
母だけのものではなかった。
澪の痛みも、キヨの痛みも、
ずっと遠い先祖から渡ってきた、
遥か彼方の誰かの痛みだった。
It didn't start with you.
その痛み、あなたから
始まったわけじゃない。
ー 螺旋の呼吸
へその緒を辿って、
先祖の痛みにまでよじ登り、
呼吸で包み込む。
呼吸は誰でもできる。
貧富の差も、学歴も、
人種も、国籍も、
宗教の違いも関係ない。
高校の生物の授業を思い出してほしい。
こんな化学式を習ったはずだ。
C6H12O6 + 6O2
→ 6CO2 + 12H2O + エネルギー
呼吸は、エネルギーを
生み出す化学反応なのだ。
澪の怒り。
キヨの悲しみ。
母の嘆き。
先祖の痛みは、
累々と引き継がれ、
いまかいまかと首を長くして
変化(へんげ)を待っていた。
ご先祖の皆々様、
大変ながらくお待たせ申し上げました。
子孫の政美が呼吸してしんぜよう。
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
私の細胞に刻まれている
先祖の痛みが酸素と融合する。
息するたびに、
エネルギーが満ちていく。
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
ねじれて自転する地球が
ほっと、安堵のため息をつく。
ひらひら、くるくる、
桜の花びらが舞い落ちる。
イザナギとイザナミが
天空から舞い降りる。
満開の桜の木の下に座し、
桜色の墨汁を吸わせた筆を手に、
寄り添い、書をしたためる。
ーー螺旋の呼吸
桜文字が
こをろこをろと、
地球に刻印されていく。
ー 螺旋を描く生命(いのち)
神社のしめ縄、縄文の縄、
天の川、アンモナイト、蕨の穂先、
洗面台の排水溝に吸い込まれる水流。
生命は、みんな螺旋を描いている。
そして、へその緒も…
私たちは、
へその緒で母と繋がっていた。
へその緒を手繰り寄せ、
「螺旋の呼吸」で血脈を遡っていく。
淑子からふゆへ、
ふゆからキヨへ、
キヨから澪へ。
しなやかに、
たわみ揺らぎながら…、
もっと遠くへ、さらに遠くに…。
固結びになっていて、
何世代もほどけなかった
結び目を「螺旋の呼吸」で、
ゆるめよう。
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
吸うたびに、吐くたびに、
「何者か」のギュッと噛み締めた
口元が緩んでいく。
家系の血脈を詰まらせていた
「血栓」が溶け始める。
ご先祖様からあなたへと、
そして、未来の世代へと流れる
血脈が健やかさを取り戻す。
ー 縄文を、今、アップデート
縄文時代には、
争いがなかったという。
そんな時代が一万年以上続いていた。
そこに、神様はいなかった。
自然そのものが祈りの対象だった。
凍てつく冬の雪の轍(わだち)。
私たちは、縄文の終焉以来
二千年間、轍に嵌った車に
閉じ込められていただけだった
のかもしれない。
なんとか車を
引っ張り出そうとしても
徒労に終わる。
指先がかじかみ、
耳がちぎれる。
排気ガスで、頭が痛い…
もうダメかもしれない…
でも、春の来ない冬はない。
日進月歩のAI技術が、
エピジェネティクス(後成遺伝学)の
研究を後押しする。
科学が、雪を溶かす。轍を消す。
抜け出しようのないほど
深く絶望的に刻まれた溝が、
陽光で、あっけなく消えていく。
微塵も痕跡を残さずに…
踏ん張って、踏ん張って、踏ん張って
一直線に引き上げようとする
サスティナブル(持続可能)な時代の
結び目が、今、開こうとしている。
私たちは、人類史上初めて、
結んでは、開き、また、縒(よ)り合う
「螺旋の呼吸」で、縄文時代に回帰する。
ー 縄文2.0へ
今日もどこかで、血が流されている。
女や子ども、高齢者、障がいを持つ人たちが
巻き添えを喰らう。争いは終わらない。
私は、呼吸する。
今、ここから、
縄文に回帰する。
結んでは、開いて、
また、縒(よ)り合う。
DNAの胎動を感じながら、
私の中で息づいている
母や澪、キヨに思いを馳せる。
そして、眼差しを天に向ける。
結んでは、離れ、
また、縒(よ)り合って、
縄文回帰。
でも、
ただ戻るだけでは面白くない。
二千年の苦難の末に手にした
科学技術をプラスして、
人類未踏の新たな縄文を
循環生成していこう。
こをろこをろと渦を巻き
新たな生命をDNAに吹き込む、
リジェネラティブな「螺旋の呼吸」で。
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
すぅ~~
私は、今日も呼吸する。
澪のために。
キヨのために、淑子のために。
まだ見ぬ未来の誰かのために。
そして、神様なんていない
縄文2.0へのドアを開くために。
ー終わりー