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小説「猿渡雪次郎とサブスク彼女」

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門


       あらすじ
    いきなりですが、小説書きました。
    あらすじを紹介します。

    歌舞伎役者のような名まえの猿渡雪次郎がなにを思ったか、最新兵器を使って若い女性とオトモダチになった。
    最新兵器とは「サブスク」
    独身七十三歳のおじさんがどこまで意味を理解しているのか不明だが、ちょっと知ったかぶりして背伸びしてアプローチしたら、思いのほかうまくいってしまったのだ。
    もとより題名にあるような「カノジョ」狙いではない。
    ごく平凡な人生後半を送る黄昏れオヤジが、枯れた生活にしばしの潤いときらめきを求めただけのことだった。
    そのはずだった。
    しかし物語は、雪次郎本人の思惑とは別の方向に転がっていく。
    筆者の思惑は「おもろうてやがてかなしき」ですが、さてどう転がっていったのか。
    短編なので気軽に読んでください。



    猿渡雪次郎が思いがけない機会にめぐり合ったのは、新型コロナによるいろんな行動制限が緩やかになったころの春先のことだった。

    「大崎さん、下の名まえ何ていうんですか?」
    「え? 真由子...ですけど」
    それがなにか、と言わんばかりの硬い表情をして大崎真由子は答えた。
    猿渡が勤める会社が開催した早めの新年度交歓会のかえり、招待客の彼女を送り届けるクルマの中での会話だ。
    そういえば何年かまえ交換した名刺に、そんな名まえが印刷してあったっけ。

    「このごろの若い人はネットでツイッターとかSNSっていうんですか、ああいうの熱心にやってますよね」
    「あ、もう今はツイッターじゃなくてエックスですね」
    「そうそう、エックス。 SNSとかやってるんですか、大崎さんも」
    「エックスは見るだけですね。 インスタはしてますけど...」
    「動画なんかもいろいろ大流行りですよね。よく分からない世界ですけどね」
    「そうですねぇ...」

    真由子自身はこの年代にしてはあまりネットの流行りに親しんでいる方ではない。
    休みの日は気がつくと半日スマホを開いてない日もあるくらいだ。

    「サブスクって、あるじゃないですか」
    「ええ、知ってますけど」
    「あれって、めちゃくちゃ便利ですよね。 だれが考えたんですかね、あんなこと」
    「はぁ...」

    猿渡がしゃべると車内に気のせいかというくらいの淡いタバコのにおいがしてくる。
    真由子は運転している猿渡の斜めうしろのシートに座っていて、少しだけウィンドを下ろした。

    「いま、ふと考えたんですけど」
    「はい」
    「私とサブスクしませんか?」
    「はぁ?」
    「私と大崎さんがサブスクで繋がるんですよ」

    突然の話題に真由子は明らかに不快な表情になって、ルームミラーに映った運転席の雪次郎の顔を一瞬盗み見た。

    「サブスクで繋がるって意味、ご存知なんですか?猿渡さん」
    「はい。それくらいは分かりますよ。サブスク」
    「なに言ってるか、分かってます? 猿渡さん...」
    「だって、ほら。定額制のサービスってことでしょ、サブスクっていうのは。月980円とかで」
    「はぁ? 私、月980円なんですか?」
    「いやいや、ちがいますよ。例えばです、例えば」
    「それより、なんで私と猿渡さんがそんな...いきなりサブスクで繋がるなんてことになるんですか?」
    「980円が安すぎるのは分かってます。月一万円ならどうですか?」
    「いきなり何ですか、冗談じゃありません。バカにしないでください。もう降ります、停めてください」
    「高速で降りるんですか?」
    クルマは都市高速三号線に乘ったばかりだった。

    「最低...」
    「いや、コトバが足りませんでした。スミマセン」

    真由子は不穏な空気を感じ、にわかにちゃんと自宅まで送ってもらえるのか不安になってきた。

    「こうです。昔あった二号さんとか妾とかって意味じゃないんですよ、ぜんぜん」
    もうすでに真由子には返すコトバがない。

    「オトコとオンナということじゃなく、定期的に会って食事とか呑みとかだけで...」

    当りまえである。 猿渡はどうみても七十代、真由子は自慢ではないがまだピカピカの三十代だ。
    いや、ピカピカではないかもだけど。
    さすがに肌ツヤは新入社員の女の子たちにはかなわないが、女性として現役バリバリ。
    たかだか月一万円で転がせるオンナではないくらいの自負はある。

    「セクハラですよ、それ。猿渡さん」
    真由子はやっと絞り出すようにそう言った。

    「まじめなハナシです。誓いますよ、オトコとかオンナとかそんなつもりはいっさいない」
    「彼氏がいます。 そんなこと彼氏に言ったら猿渡さん呼び出されてどつかれますよ」
    「ちがうんだけどなぁ...」

    そうこうするうち、クルマは高速を降り幹線国道に合流した。

    「もう降りますか? スミマセン」
    「こんなところで降ろされても、帰れません。 ちゃんと送ってください」
    「彼氏とは長いんですか?」
    「猿渡さんにはカンケイないです」

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    猿渡雪次郎(さるわたりゆきじろう)七十三歳。
    六十五歳で形ばかりの定年退職になったあと、継続雇用で長々会社にのこっている。
    といっても工業部品を扱う零細企業でなかなか社員の新規採用もかなわないので、猿渡本人と会社はあいまいに持ちつ持たれつの関係だ。

    ずっと独身でここまできた。 これまで何人か結婚するつもりになった相手もいたがうまくまとまることはなかった。
    三十代のはじめころに付きあっていた女性は、いま思ってもとてもいい相手だったと思い出に残っている。
    二年ほど同棲もしたが結婚にまでは至らなかった。
    名まえもちゃんと憶えている。 手塚ひとみ。 二歳年下で銀行のOLだった。

    その女性に大崎真由子は似ていた。
    姉妹といってもまちがいではないほど目元の涼やかさがそっくりだと思ったが、もちろん年齢を考えればそれはありえない。
    そんなこともあり最初顔を合わせたときから、取引先の営業担当大崎真由子は猿渡のお気に入りになった。

    「だけど、猿渡さん。 そんなことして奥さんはどう思いますか?」
    「大丈夫ですよ、ちゃきちゃきの独身ですから」
    「よく言いますね、ちゃきちゃきだなんて」

    独身でこんなサブスク云々などという話を持ちかけるというのは、余計にいかがわしい下心みたいなものを感じる真由子だった。

    「こんなことあちこちで持ちかけてるんでしょ」
    「ちがいますよ、初めてですよ。ホントに」
    「ウソばっかり。あんがい若いころからそうやっていろんな女の人、誘ってきたんでしょ」
    「真由子さんは、僕の推しですから。 あるでしょ、推し活って」
    「真由子って言わないでもらえますか? 気色悪いので」
    「ひどいなぁ、そんなんじゃないのに...」

    クルマは真由子が指定したコンビニに着いた。
    さすがに自宅マンションまで送らせるのはどうかと思ったのだ。
    クルマを降りた真由子に猿渡は車内から身を乗り出してさいごにもう一声かけた。

    「おやすみなさい。考えといてくださいね、真由子さん」

    応えずに真由子は踵を返し、自宅への道を歩きながら思った。
    あれだけちゃんと拒絶したのに猿渡は案外平気な表情でいる。慣れてるカンジがする。
    きっとこれまで長い人生のなかで、こんな軽いノリでいろんな女性と遊んできたんだ。
    そもそもあの年代で、サブスクだの推し活だのそんな単語を使うのに無理がある。
    いっしょうけんめい若者の世界にすり寄ろうとしている。
    ちゃんと送り届けてはくれたものの、よく考えてみたらとても危ないケースだったのではないだろうか。
    真由子は自分の部屋に帰りつき、あらためて大きく深呼吸をした。


    街は桜の季節を迎えていた。
    花が咲きそろった市内の公園で、真由子は友人と落ち合って毎年恒例のお花見をしていた。
    友人は高校のときからの親友で中川貴子。 お互いをタカちゃん、マユちゃんと呼び合っている。
    花見に絶好の晴天。 満開の桜の下で敷いたシートにそれぞれが持ち寄ったつまみとクーラーバッグで担いできた缶ビールは最高だ。
    当然のように先日真由子が遭遇した「あのハナシ」も格好の肴になった。

    「え~、イヤだぁ。そんなおじさん」
    「彼氏に言いつけますよって言っても、動じないんだこれが」
    「なによ。マユちゃん、いないじゃん彼氏」
    「いいの。コワい彼氏がいることにしたの」
    「いいよ。タツヨシ出動させよっか?」
    タツヨシというのはもうすぐ結婚するタカちゃんの彼氏だ。

    「ふふ。だいじょうぶよ」
    「へぇ、その会社の上の人に言いつけたらいいんじゃない?」
    「ん~、まだいいかな。またしつこく言ってきたら...」
    「ね、ね、ね、そのおじさん、家庭があるんでしょ? 不倫したがってるの?」
    「それが独身らしいの。バツがついてるのか、生粋なのかは知らないけど」
    「でもさ、もうちょっと吹っかけてみたらどう言うだろうね」
    「え?」
    「だからさ、月五万とか十万とか」
    「あたしって、そんなもん?」
    「冗談、冗談」

    タカちゃんはそう言って、高らかに笑いとばした。
    朝早くから仕込んできた食べ物と冷えたビールでお腹も酔いも気分も満ち足りて、ふたりは並んで寝っ転がって空を見上げた。
    春らしいちょっと寝ぼけた色あいの青空に、ときどき桜の花びらが風に舞っている。

    猿渡のことをもちろん一ミリも興味がないし百パーセント誘いに乗るつもりがない真由子だったが、案外毒も害もなさそうな人柄なことは取引先として接していても感じられていたので、このつぎ顔を合わせたら彼がどんな態度でいるのかちょっと面白いことかもと思っていた。

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    その機会はすぐにやって来た。
    花見をした週明け早々に猿渡のいる会社と営業打ち合わせのスケジュールがあり、真由子は彼のもとを午後いちに訪れた。
    いつもの小さな会議室でそそくさと仕事の打ち合わせを終わらせて、猿渡はこそっと声のトーンを落とした。

    「どう? このまえのハナシ」
    「仕事中ですけど」
    「大丈夫。前年より五パーセント増しで発注決定だからもういいでしょ」
    「じゃあ、きょうはこれで失礼いたします。来週は課長がまいりますので」
    そう切り上げて、真由子は席を立とうとした。
    「あ、私もちょうど外出するのでいっしょに出ましょう」
    猿渡はそう応え、机の上をさっさと片づけてあっというまに外へ出る準備をした。

    「私もイロイロ考えたんですよ」
    会社を出ると並んで歩きながら、猿渡の口調はいきなりなれなれしい。

    「なにを考えたんですか。あんな話はあれでおしまいですから」
    「ちがうんですって。ほら、あるでしょ。サブスクのお試し期間ってのが」
    「はぁ? なんで私の方がお試しされるんですか。 ふつうサブスクを試すんだったら猿渡さんのほうですよね」
    とそう言いかえして、真由子はうまく彼に誘導され理屈がよく分からないことになっているのに気づいてちょっとあわてた。

    「そう、お試ししましょう! お試しだけど、ちゃんとサブスク代金はお支払いしますから」

    真由子はいよいよあきれはてて、つっけんどんに言ってやった。
    「いくらですか?」
    「え? 食事代プラス...う~ん、一万で!」
    「...」
    「え?...二万?」
    「いいですよ、一万で。 だけど、一時間だけです」
    「二時間!」
    そう言って、猿渡は真由子の方を向いて手を合わせた。

    なんだコレは、思いがけないことになったぞ。そんなはずじゃなかったのに...と真由子は自分で信じられない気持ちになっていた。
    この何とも知れない怪しい取引のような会話は何なのだ...
    まんまと猿渡の術中に取り込まれてしまったのか。

    しかし真由子はもうすでに半分あきらめたようになって、じゃあその一万円で何買おうかなんて考え始めていた。
    その真由子のようすを敏感に感じたのか、猿渡はさっそく次の手にすすんできた。

    「じゃ、真由子さん。ライン交換しましょう!」
    「あの、猿渡さん。そんな間がらじゃないですから」
    「じゃ、どうやって連絡とり合うんですか?」
    「会社携帯に着信入れてもらったら、あらためてこちらからデンワしますから」
    と、ぴしゃっと言い切ったつもりだったが、猿渡はいまいち了解しないような表情だった。
    「なんだか、まどろっこしいなぁ...まぁ、いいや。じゃ、第一回めだけはもうこの場で約束してもいいですか?」
    「お店は私のほうが決めます」

    怪しい取引に取り込まれたわけでもないのに、自分でも後ろめたいふうに感じている真由子だった。
    恋愛関係でなく食事代プラス一万円などとわずかでも金銭がからむ「契約」のようなことになって、あまり人には言えるものじゃないなぁと思った。

    猿渡の方はといえば、急ごしらえで思いついたサブスク作戦が案外スムーズに運んだなぁと満足していた。
    本当にサブスクなんて誰が考え出したんだろう。 
    こんなに外づらのいいカタチもないもんだ。 われながらよく思いついたものだ。

    しかし一方でこれはサブスクの名を借りたやましい計画などではないんだと、自分にいいきかせもしていた。
    そもそももう今さら、女性とどうにかなりたいなどという下心は枯れ果てているのだからと。
    ただ男友達と呑みに行ったりする現場と別次元の時間や空間が欲しかっただけだ。
    とりとめのない他愛もない会話でも全然かまわない。 相手の話しをふんふん聞くだけでもいい。
    男友達との病気や年金や家族のグチのようなむさくるしい無味乾燥な会話ばかりだと、どんどん細胞の水分が抜けていく。
    そんななかで何とか取り付けた一回めの真由子との約束は、猿渡の気分をキラキラときめかせた。

    ゴールデンウィーク明けの緑がまぶしくなった気持いい天気の土曜日午後に、とうとう猿渡雪次郎と大崎真由子の第一回サブスクデートが実現した。 デートではないが...

    場所は真由子が市内の西のはずれを流れる新田川べりの洋食レストランをえらんだ。
    一年でいちばん好きな季節のそれも暑くもなく寒くもない絶好の天気の休日午後に、七十代のおじさんと会うのかと思うと真由子はちょっとくやしい気もしたが、ま、いいか。 一万円もらえるしなと割り切ることにした。

    猿渡は先に店に来ていて窓際のテーブル席にちょこんと座っていた。
    店に入ってきた真由子を見ると、彼は満面の笑みで少しだけ腰を浮かして頭をぺこりと下げた。

    「やぁ、ありがとう。ちゃんと、来てくれたね。ヨカッタ」
    「約束ですから...」

    真由子が席に着くと猿渡はあらためて彼女の来店をよろこんで言った。
    「さっすが、真由子さん。私服の真由子さんはいつもと印象がぜんぜんちがう」

    ファストファッションのTシャツとジーンズにスニーカー姿で、化粧もとくにおめかししていると思われないように厚くは塗ってこなかったのに...

    「早くから来てました?」
    「いやいや、私もいま来たばっかり」
    うそだ。 テーブルのお冷のコップはもう十分に結露の大汗をかいていた。
    「ささ、どうぞ。先にちょっとメニュー見ましたけど、お好きなものをどうぞ。時間は充分ありますから」
    猿渡はそう言って分厚いメニューのバインダーを真由子に差しだした。

    そんなこと言われなくてもこの店は自分が決めたのだ。 メニューなんてよく知ってる。
    だけど正直、あまりおなかは減っていない。
    それなりに緊張していることもあるんだろうか。

    それぞれちがうランチコースをえらんで、そのあいだ当たり障りのない会話をしてアフターコーヒーまで進んでもまだ一時間もたっていなかった。

    「どうします? きょうはお試しなのでもうこれくらいで切り上げましょうか」
    本音半分、いじわる半分で真由子はきいた。

    すると猿渡はいかにもおじさん風のセカンドバッグから封筒を取り出して真由子のまえにすっと進めた。
    それがおそらく約束の一万円の現金が入ったものであることはまちがいなかったが、真由子はしばらく手を出せずじっとその封筒をみつめていた。
    いざその段になって、そんなお金を自分が受け取ることが急にやましい気分になったのだ。

    「真由子さん、どうぞ。しまってください」
    猿渡にそう進められても、しばらく真由子は受け取ることをちゅうちょした。
    たかだか一万円だ、何をまじめに考えてるんだというこころの声をきいたが、真由子はその封筒をそのまま猿渡の方へもどした。

    「きょうは、いいです。 お試しなんで...」
    「え?だめだよ、約束だから。受け取ってもらわないと、次のこともあるし...」
    「次は...ありません。きょうはごちそうさまでした」
    そう言うと真由子は席を立って、あっというまに店の外に出てしまった。

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    「どうしたんですか? 真由子さん」
    店を出た真由子を追ってうしろから猿渡が慌てて声をかけてくる。
    「やめてくださいって。真由子って呼ばないでください」
    「なんか気に障ること言いましたっけ、私」
    そう言いすがる猿渡に向き直って真由子は毅然とした口調でかえした。
    「試用期間、おわりです。お試しの判定はバツでした!」
    「そんなぁ、真由子さん。いや、大崎さん...」

    歩きながらしばらくふたりのあいだに無言の時間が流れたあと真由子がつぶやいた。すこし声のトーンが先ほどよりは落ちついている。
    「ごちそうになるのはいいですけど、やっぱりサブスクなんて、ふざけてやしませんか」
    「じゃ、どんなふうにすればまた会ってもらえますか」
    「いいですよ、ときどき食事するくらいなら。それだけです。お金なんかいりません、やっぱり」
    「いいアイデアだったんだけどなぁ、サブスクデート...」
    「だから、ちがいますって。デートなんかじゃありませんから」

    いつしかふたりのやりとりは「目くそ鼻くそを笑う」的なものになっていた。
    「わかりました、今日のところはおしまいにしましょう。また、連絡してもいいですか?」

    そのあと、真由子が口を開いてひと言ふた言返事をしたようだったが、店のすぐ北側にかかる鉄橋を走る電車の騒音にかき消されて何も聞きとれなかった。

    「それで、なんだよ。また会ってくれるってなったの?」
    ほろ酔いの眼差しでそういうのは、猿渡雪次郎の大学時代からの友人ミチオだ。
    居酒屋で半年ぶりに向き合って真由子とのやり取りを洗いざらいしゃべると、聞き役のミチオは野次馬根性丸出しでさらに根掘り葉掘り訊こうとした。

    「だけど、本音でどうなんだよ、ユキジ」
    「本音って?」
    「本当に純にお話し相手だけのオトモダチが欲しいってわけかっていうの」
    「そうさ。当りまえだろ、おまえなんかとはちがうよ」
    「ふん。お花畑かよ」
    「なんかね、ちがうチャンネルが欲しかったんだよ。おまえたちとバカ話してるのはいつまでたっても楽しいけどさ、ちがう世界も見たかったんだ」
    「大げさだね。そんなもんかね。うらやましいもんだ」

    「それとな。 そのコさ、似てるんだ。そっくりなんだ」
    「え、だれに?」
    「ほら、いただろう。手塚ひとみ...」
    「へぇ、ひとみちゃんか。懐かしいねえ」
    「最初彼女に会ったとき、ひとみちゃんの姉妹?って思ったくらいさ」
    「それで火がついちゃったんだな」
    「そんなんじゃないけど、ちっとはあるかもな」
    そんなやり取りをしながら猿渡はあの頃のことを夢みる眼差しになって思い出していた。

    雪次郎にとっては初めての同棲生活だった。
    三十代はじめのわずか二年ほどのものだったが、それまでのちゃらちゃらしたとても恋愛とは呼べない代物の女性との関係に比べると、とても生活感のある落ち着いた日々だった。
    しかしどうしても結婚という枠に収まる決断をできなかったのは、雪次郎のほうだった。
    そのことは四十年くらいたった今でも、優柔不断だった自分に後悔の気持が消えることがない。

    手塚ひとみがそんな雪次郎との生活に見切りをつけ、出て行った日のことはよく憶えている。
    彼女はアパートのドアから出がけに「また、いつかどこかで会えるかもね」とだけ言って、案外さっぱりしたふっきれた表情で去って行った。
    ところが一分もしないうちに戻ってきて、靴を脱いで洗面所のほうへ入ったと思ったらまたすぐに出てきた。

    「忘れもの、忘れもの...」
    独りごとみたいにそう言ったひとみの手には、彼女が使っていたピンク色の歯ブラシが握られていた。
    もういちどドアのところでこちらに向きなおって「じゃね」と言ったひとみの眼にはさっきとはちがって涙があふれていた。

    あの日から、いちどもひとみには会ってない。 いまどこで何をしているのかも知らない。


    あのサブスクお試しからひと月ほどたった雨の週末、雪次郎と真由子の姿が前とおなじレストランにあった。

    「ここもいいですけど、つぎは私に店をえらばせてください」
    「でも、私好き嫌いが多いしお酒もそんなに吞めないですから」
    「え?お子ちゃまですか」

    真由子が過剰に防ごうとするような下心を猿渡はどうやら持っていないらしい。
    だが食事をごちそうになるのはいいとして、やっぱりサブスクというプランには抵抗があった。

    「サブスクリプションって、やっぱりちょっとキモチわるいですよね...」
    「え?サブ... なんですか?」
    「だから、サブスクリプション...」
    「...」
    「え?猿渡さん、サブスクのフルネームですよ。知らないんですか、サブスクリプション。フルネームっていうか...」
    「ははは、そうなんだ。そんなことになってたんですね」

    やはり倍ほどの年齢の差は大きい。 そう感じることはいくらもあった。
    いちばん思うのはやはり、ネットとかそっちの世界のことだった。
    こんなにもAIやなんかが当たり前になっているのに、雪次郎は本当にそこらへんのことはまったく苦手のようだった。
    まぁ、べつに付き合っているわけでもないからどうでもいいのだけれど。

    「猿渡さんって変わった名まえですよね。どこですか出身は」
    「九州ですよ。熊本」
    「へぇ、そうなんですね。 それに雪次郎って...どなたが考えたんですかその名まえ」
    「まぁね、それは知らないけど、よくもつけてくれたよね。ユキジロウだなんて」
    「なんだか、時代劇みたいですよね。 それか歌舞伎か。 ふふ、ゴメンなさい...」
    「おかげで、人からよく憶えてもらえるから得は得だけど」
    そんなあまり意味のない会話をしてそうやって少しずつ少しずつ、とくに真由子の方のぎこちなさはこなれていった。

    「真由子さんの名まえは最初、繭かと思いましたよ。あのカイコの繭の繭」
    「そんな、それって変でしょ。そんな名まえあります?」
    「だれが付けたの?真由子って」
    「母だと思います」
    「思います?」
    「そんなことちゃんと訊くまえに亡くなってしまったので。母は」
    「そうなんだ。早くに?」
    「ええ、私が中学三年のときでした」
    「いい名まえだね、まゆちゃんか」
    「やめてください、気色悪いですから」
    そんなふうに言っても最初のころのような刺々しさは緩やかなものになっているのを、真由子自身も気付いていた。

    「じゃあ、お母さん亡くなったあとお父さんと暮らしたんだ」
    「ひとりっ子なので父と二人っきりでした」
    「思春期のムスメがお父さんと二人っきりか...」
    「いま思っても、しんどかったですね。だいたい、父のことあまり好きじゃなかったし」

    まぁ、よくあるケースではある。
    だけど目のまえの女性が実際に通ってきた生活なのだ。

    「高校時代からガンガンバイトしてお金貯めて、あまり父の世話にならず大学に進んで就職してやっと家を出ることができました」
    「まぁ、私の立場からするとお父さんをもっと頼ってあげてもよかったんじゃないって思うけど」
    「独身のクセに?」
    「きびしいね、大崎さん」
    いまだ彼女のことを大崎さんと言ったり、真由子さんと呼んだりまちまちな猿渡雪次郎だ。

    「で、入ったのが今の会社なんだ」
    「いえ、新卒で銀行に行ったんです。母とおなじ道です」
    それをきいて、雪次郎はちょっとどきっとした。

    「でも、銀行は長続きしませんでした」
    「せっかくお母さんとおんなじ...」
    「入って早々からひどいいじめに合っちゃったんです」
    「そんな目にあうタイプには思えないけどね」
    「いま思えばたいして仕事できる人でもなかったのに、えらそうに当たられて。毎日」
    「真由子さん、ちゃんとできそうだからやっかみだったのかな」
    「いま思い出してもくやしくて... クソばばぁって毎日、口のなかでつぶやいてました」
    真由子の口からいきなりこぼれ出た「クソばばぁ」という品のないコトバがおかしくて、雪次郎は笑いを嚙みつぶした。

    「でも、べつにそんなに志しがあったわけでもなかったので、一年もたたずに辞めちゃったんです」
    「そうか、若いからいくらでも道はあるよね」
    「ごめんなさい、訊かれてもないのにこんなにしゃべって。 聞きたくもないですよね」
    「あ、いや。真由子さんのことは何でも聞きたいですよ」
    明らかな作り笑いをして、雪次郎はそうかえした。

    それより雪次郎は先ほど耳にした真由子の経歴が大きく頭のなかでひびいていた。
    母とおなじ銀行員の道を歩んだ...

    「猿渡さんはなんで、結婚しなかったんですか?」
    「あー、その質問はこれまでかれこれ百回くらいあちこちで訊かれましたね」
    「ふふ、ちがいますよ。ぜんぜん普通ですから。 理由なんかないんですよね」

    それでも雪次郎がいまいち語りたくないようなようすをしているので、真由子ははっとなるフリをした。
    「猿渡さん、え?」
    「いやいや、ちがうよ。ずっと七十三年、女性大好き」
    と、わざとらしく朗らかに言って、彼は右手の小指を立てた。

    窓の外の雨模様がはげしくなって、新田川の流れもいつもより広くなっている。 水の色もおどろしく濁っているようだ。

    話題がすこし途絶えたあと真由子はちょっと沈んだ調子でつぶやきはじめた。

    「この川の水害で亡くなったんです。 母は...」
    「え、そうなの?」
    「二十三年まえのこの時期に川があふれたでしょう?」
    「あぁ、大雨が二日三日つづいてとうとう街に洪水が流れ出たっていう」
    「あのとき、家から逃げおくれて溺れちゃったんです」
    「そう...」
    「平日だけどたまたま有休をとって家にいたんです」
    表の大雨のようすを眺めやりながら、真由子はきのうのことみたいに語った。
    「私は学校で、父は会社にいて無事でした。母もいつもどおり勤めに出ていれば...」

    それまでもこの新田川は大雨のたびに少なからず水害を起こしたが、その年にとうとう十二人もの犠牲者を出してそれがきっかけでやっと大がかりな河川改修にいたったのだった。

    「ときどき、ここにきて母に会うんです」
    「...」
    「つらくもあるんですけど、ここにきて川の流れを眺めていると母を思い出すんです」
    母の命を奪った川なのに...

    「いいよ、つぎもこの店で」
    「え?まだつづくんですか、サブスクリプションまがい」
    これまであまり見せなかったような自然な面立ちになって、少しいじわるそうに笑って真由子はそう言った。

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    けっきょく恐るおそるではあったが、雪次郎と真由子のサブスク繋がりはつづくことになった。
    それにあたっては、二人のあいだでいろいろルールをきめておいた。

     会う店は原則真由子が決める
     会うのは昼のみで、夜に会う場合は真由子の同意が必要
     会食以外の場合は真由子の同意が必要
     おたがいに送迎はしない
     そして結局、飲食などの実費以外の金銭を真由子は受け取らない

    ということになった。

    待ち合わせにはいつも雪次郎が先に来ていた。
    真由子がちょっと早めに行ったときも、もう彼はちょこんとテーブルにいた。
    そうした待ち時間も彼は無為にスマホをいじったりしていることはなく、所在なげに窓の外をながめていることが多かった。

    あるとき雪次郎がお手洗いで席を外したタイミングに、たまたまお冷を交換にきたスタッフに訊いてみたことがある。
    「この人、私よりどれくらい先に来てたんですか?」
    すると、おどろくことに一時間ほど前から入店していたというではないか。
    いつもそうなんだろうか...


    何度めかのとき、映画を観にいった。

    「こんどは映画、行きませんか?」
    「映画ですか... 何の?」
    「いえ、真由子さんがいいのがあれば」
    「べつに、いま観たいのがないかなぁ... ホラーとかじゃなかったら、いいですよ。なんでも」
    「えー、そういう言い方、張り合いがないなぁ」
    「だって...」
    というようなやりとりがあって観ることになったのは、主人公が不治の病におかされた女性を支えつづけ、死期が迫りながらも愛をつらぬいたというふうなよくある若者の恋愛ものだった。

    とちゅうストーリーに中だるみがある付近では、となりからすやすやとかすかに寝息が聞こえてきた。
    ラストシーンでできすぎたイケメンの主人公が、亡くなってしまう彼女を抱きしめてぼろぼろ涙を流す場面では客席のあちこちですすり泣きの声がきこえてきたが、まいったのはすぐとなりで声を殺して嗚咽する雪次郎のことだった。
    とちゅう寝ていたくせに、最後だけでそんなに感動できるものなんだろうか。

    エンドロールが始まるといたたまれなくなり、真由子はひとりでさっさと席を立ってしまった。
    しばらく間をおいて追って出てきた雪次郎は、外のソファに腰かけてスマホをながめている真由子のまえに立った。
    涙を流した跡もない真由子は、心なしか少々不機嫌そうだ。

    「どうしました? エンドロールはいらない派ですか?」
    「だって... そんなに泣きます?」
    「わかってるけど、よくできた映画でしたよ」

    うそだ。 とちゅう寝てたくせに。
    「そうだけど... 離れて観ればよかった」
    恋愛映画を観て感動して泣いているおじさんと連れに見られたくなかったんだなと雪次郎はすぐに納得した。


    そんなふうにしばらくつづいた七十三歳のおじさんと三十八歳のサブスク彼女の間がらが、いきなり大きく崩れたのは秋が深まったころのことだった。

    その日あの川沿いのレストランとはちがう店をえらんで、はじめてアルコールが入ったディナーでふたりはテーブルをはさんでいた。
    とちゅうまでいつものように他愛ない日常の話題を交わしていたが、すこしほろ酔い加減になった表情の雪次郎が発したひと言に、真由子のワイングラスを持つ手がぴたりと止まった。

    「このあいだのことは僕が悪かったと思ってるよ。ひとみ...」
    雪次郎は真由子を真正面に見てそう言ったが、視線はまるで彼女の存在がないようにずっと奥の方に焦点が合っているみたいだった。
    問い返そうと思ったが、真由子はとっさにはコトバが継げない。

    「ひとみのことを何も考えずに自分の気持を押し通そうとした僕の大失策だ、ゴメン」

    「猿渡さん...酔ってます?」
    真由子に問われて、雪次郎はきょとんとしてしばらくだまった。

    「ん?だいじょうぶだよ。私なんて言ったかな、今」
    「...母の、名まえを知ってるんですか?」
    「え?お母さん? 真由子さんの?」
    「今、ひとみって...」
    雪次郎の表情が一瞬にして凍ったのがわかった。
    「え?ひとみって、ひとみさんって... お母さんなの?やっぱり」
    「どういうことですか? なぜ、急に母のこと」
    「ちょ、ちょっと待って...」
    そう言って猿渡はうつ向いて頭を両手のひらで抱えこんだ。

    「知ってたんですか? 私がひとみ、手塚ひとみの娘だってこと」
    「ちょっと、待ってください。 何が何だかよく分からないんだ」

    頭を抱えた雪次郎の両手は小刻みにふるえている。
    演技などではなく雪次郎は明らかに狼狽し、混乱しているようだ。
    しばらくそうしておなじ姿勢でいて、ようやく顔をあげながら雪次郎が声を絞り出した。
    「じつはこのごろ仕事でミスが多くなって。忘れ事とか大事なところで...
    それで医者に診てもらったんだ」
    「...」
    「まだ、検査結果待ちなんだけど、医者の見立てはおそらくただの健忘じゃないだろうって」
    「えっ...」
    「それだけじゃなくときどき、なんていうかものごとの前後が分からなくなってしまうことがあるんだ。時間の感覚っていうか」
    「でも...」
    「お母さんのことだよね。 じつは最初のころから、もしかしたらと思っていたんだ」
    「そんな...」
    「で、このまえ真由子さんからお母さんとおなじように銀行に就職したっていう話を聞いて、やっぱりと思った」
    「なぜ、訊かなかったんですか、そのとき」
    「そのころから、自分でもときどき混乱するってことが増えたんだ。まだ母さんと付き合ってると勘違いすることもあった」
    「きょうも母と、手塚ひとみとデートしてるって...」
    「いや、ちがうんだ。はっきり自分でも分からないけど、ちゃんと真由子さんだと思ってた。たぶん...」

    正直、真由子もいったい何がどうなっているのか分からなくなった。
    「最初真由子さんに会ったときから、こんなに似てる人がいるんだと思ってた」
    「母から聞いたことはありました... 父のまえに付きあっていた人のこと。すこしだけ」
    「こんなことが、あるんだ。 それにあのときの水害でひとみが、ひとみさんが亡くなっていたなんて」

    「もうやめましょう、こんなこと」
    真由子はそうつぶやくのがやっとのことだった。

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    その夜雪次郎と別れて真由子はひとり新田川にかかる橋の上でただずんで、あれやこれやと思い返していた。
    あのレストランがある場所からだいぶ海の方に下って、川幅は倍くらいになっている。

    はじめてクルマのなかでサブスク繋がりを持ちかけられたこと、お互いの名を語り合い雪次郎という名まえが時代劇みたいと笑ったこと、まゆちゃんと言われ正直キモチ悪かったこと、映画館で雪次郎がヒックヒックととなりの席で泣いていたこと、そして彼が母の名をいきなり口にしたこと、そしてたったいまもうやめようと言って逃げるように店を出たこと。

    家族でもない、友人でもない、ましてや恋人なんかじゃ金輪際ない。
    どういう不思議な間がらだったんだろう...
    真由子はいつしか過去形でそんな思いを反芻していた。

    真由子が逃げ出すように店を出ていき、取り残された雪次郎はまだ動けずに同じテーブルに座ったままだった。
    もう自分のことが加速度的に自信を持てなくなっていた。仕事も日常生活も真由子とのことも。
    たった今の真由子とのやりとりがとても現実のものとは思えない。
    空いた向かいの席に、手塚ひとみがあの頃の姿のままで現れるのではないかと錯覚さえした。

    もうこうなってしまったら、真由子に言われるまでもなくこの関係をこれ以上つづけていくことはできないだろう。
    本当に誓って下心など何もなく最初彼女を誘ったが、もしかしたら自分で気づかない心の奥底に真由子に重なって手塚ひとみの姿を見ていたのかもしれない。
    そう思う端からたった今自分の目の前であったことが、霞みがかったように白く紗がかかったように消え去っていく感覚になった。


    そういう別れ方をしたからか、雪次郎からはしばらく連絡がなかった。
    それどころか彼の会社に一週おきに訪れて商談をしていた席にも雪次郎が出てくることはなくなった。
    何度めかの商談のかえりに、同行していた上司にそれとなく訊いてみると。

    「え?知らなかったの。 猿渡さん辞めたそうだよ」
    「聞いてなかったですね。 なぜ急に...」
    「さて、それは教えてくれなかったね。 個人情報がナントカってね」
    「そうなんですか」

    「それより、大崎さん...」
    「はい」
    「あなた、猿渡さんとどういう間がらだったの?」
    「え?」
    「うちの社員で、誰って言えないけどあなたと猿渡さんが映画館でいっしょにいるのを見たと言ってたから」
    課長からのいきなりの問いかけだった。

    「社外でのことは個人の自由だろうけど、なにせ仕事で取引のある相手のしかもあなたと彼はその窓口だったからね」
    「スミマセン、でもちがいます。取引に影響があるなんて、そんな...」
    「まぁ、彼が辞めたことも知らないくらいだったんだから信じるよ。 でも、もう彼のことは詮索しない方がいい。それだけ」

    住んでいるところも知らないし、行きつけの飲食店も知らない、かかっていた病院も知らない。個人の携帯番号すら知らないのだ。
    真由子はただ自分の社用携帯への着信を待つだけしか連絡の取りようがなかった。
    就業時以外は持ち出しが禁止されているので出社したら自分のデスクの充電器にのせているそのスマホを立ち上げ、雪次郎からの着信が入っていないかを毎朝チェックしていた。
    それでも日々のあわただしさで真由子のなかで雪次郎とのことはしだいに淡い記憶になり、しばらくたつともう毎朝の着信チェックもしないことが多くなった。

    ある日の夜テレビでその年の日本映画の賞を発表する番組をやっていて、それを何気なく見ていると以前雪次郎と観た恋愛映画のイケメン俳優が主演男優賞を受賞しているところが生中継されていた。
    雪次郎さん、みっともないくらいぼろぼろに泣いていたっけなぁ...

    それから最後に会ったときの雪次郎のようすが思い出された。
    根拠のない想像だが、もうあの人はこちらの世界に戻ってこないのではないか。
    母と、手塚ひとみと同棲生活をしている世界からもう戻ってこられないんじゃないか。
    でも、あの人にはそれが幸せなんじゃないか。 そうなら、それでいっか...


    思いがけず雪次郎の消息をきいたのは、それから半年くらい後のことだった。
    それは彼の学生時代からの同級生の高田道雄という男性から入った、雪次郎本人からの伝言といえるものだった。
    若年性の認知症を進行させた雪次郎はまだすべての記憶が失われたわけではないが、日によってばらつきがあるにせよ症状は確実に進んでいるという。
    雪次郎は自分の意思をはっきり伝えられるうちに、どこかのタイミングで真由子に知らせてほしいとその男性に頼んだようだった。

    そういう病気があるのを真由子は知っていたが、まさか身近で見ることになるとは思いもしなかった。
    レストランで待ち合わせたとき例外なく雪次郎が先にきており、しかもいつもではないにしろ一時間もまえから入店していたという。
    あるとき彼がこんなことを言うのを、気の利かないオヤジジョークくらいに受け流していた。
    「いやぁ、まいった。一時でした? 十二時って言ったかなと思って来てました。 だからラインにしましょうよ。カタチに残こさないと...」

    顔を合わせたときのどこかぼんやりしている彼のようすや、会話の端々で感じるかみ合わない違和感。
    ちょっと天然めいた性格や何といっても倍ほどの年齢差のせいと思いそんなには気にしていなかったが、そこには静かに進行する病が潜んでいたのだろうか。

    高田道雄からは雪次郎の連絡先をきくことはできなかった。
    雪次郎本人は真由子との接点をもうなかったことにしたいらしかった。

    なによ、あなたの方からサブスクでどうですか?なんて言ってきたクセに。
    母の、手塚ひとみの話をもっと訊きたかったんじゃなかったの。
    自分で火をつけておいてその火、自分で消そうとして。
    独り相撲っていうんじゃないの、それ。


    また桜の季節がめぐってきた。
    真由子は親友の中川貴子と、いつもの年と同じようにいつもの公園で二人だけの花見を楽しんだ。
    今年は夜桜花見酒。
    去年とはちがって桜は満開をすぎて、ネットの桜情報には「落花盛ん」のアイコンがついていた。
    以前は桜花見といえば満開狙いがあたりまえだったが、このごろはピークをちょっと外れた花吹雪に季節の情緒を感じる真由子だった。

    もうすぐ結婚することになったタカちゃんの、式や披露宴の段取りや真由子が受けた友人代表のスピーチの中味のことを肴に、二人は夜風に舞う桜花びらを手のひらに乗せて口のなかに運んでは、はたちの娘のように笑い合った。

    「で、もう連絡ないの?雪おじさん」
    「雪おじさんかぁ。そうね、ぷっつりね」
    「でもあらためて考えたら、めちゃドラマチックな一年だったよね」
    「ドラマチックかぁ。ぜんぜんロマンチックじゃないけどね」
    「でもさ、考えかたによっちゃあマユちゃんのお父さんになるかも知れなかった人なワケじゃん」
    「え?どういうコト? そんな理屈、ある?」
    「畑はおんなしで蒔いた種がたまたまちがってただけだからさ」
    「それ、どういう理屈よ」
    桜吹雪に似つかわしくない下ネタにころがっていったが、真由子は貴子が言った彼女らしい「へ理屈」をちょっとだけ嚙みくだこうとした。

    「だけど、惜しかったわね。もうちょっとおじさん、がんばってくれたらもっとドラマチックになったろうにね」
    「なに言ってんのよ。だからそんなドラマチック、いらないって」
    「でも、あれね。 お母さんがマユちゃんと雪おじさんを近づけたのかもね」
    「ちっとも、近づいてないけど...」
    そんな会話をしているなかで、真由子に急に降りてきた古い記憶があった。

    ある夜なんのきっかけか扉がすこしだけ開いた母の部屋をのぞくと、母は真由子の気配を背中に感じて「あらっ」と我に返ったような表情になった。
    ベッドの上にいくつかのクッキーの空き缶やアルバムとともに、写真がいっぱい散らばっていた。

    「写真?」
    「ちょっと、思いついて整理してるの」

    思い出したのは、そのなかでちょっと母が手をとめて真由子に見せてくれた一枚の写真のことだった。
    どこか居酒屋のような店で、三組ほどのカップルがそれぞれ仲よさそうにくっつきあって写っていた。
    そのなかで若き母が父ではない男の人と仲良さそうに並んで、二人ともお決まりのピースサインをしている。

    ショートカットの髪形やほとんど化粧っ気のない表情、真由子が見たことのない黄色のワンピースを身につけた明らかにほがらかで若々しい母。
    となりに写った男性は今となっては姿かたちの記憶がおぼろげだけど、母のほうにすこし首を傾げた笑顔が印象的だった。
    自分が知らないころの母と、知らない男の人。

    「お父さんじゃないよね」
    「そうね。 若いときのか・れ・し」
    いつになくかわいらしくふふっと微笑んで、母はなつかしそうな表情になった。

    「ごめんね、こんな写真イヤだった?」
    「ぜんぜん。お父さんよりカッコイイから許したげる」
    もし、母がこの男の人と結婚していたら自分はこの世にいなかったんだと思ったことだけは憶えている。

    そうか。もしかしたらあの男の人が雪次郎さんだったのかもしれない。
    なにも確かなことではないけれど、そう考えると何ともいえず不思議なめぐり合わせを感じた。

    だけどあの若き日の母が屈託ない笑顔で「か・れ・し」と寄りそった写真も、あの水害で母の命とともにいずこかへ流れて行ってしまって二度と見ることはできないんだ。
    真由子はそんな気持ちをさらっと思い出語りをするように花見酒の肴にした。

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    それからしばらくした六月最後の週末土曜日。
    いつもは週休二日だが月末の業務が積みあがって、それを翌月に繰り越せない真由子は休日出勤した。
    その朝ほかには誰もいないオフィスで、いつものように自分のデスクに腰かけるとすぐに仕事にとりかかった。
    こういう出勤はフレックスなので、自分で見切りをつけたところで帰ればいい。
    さっさと片づけてしまおう。

    もうすぐ切りのいいところにたどりつけそうという頃になって、初めて社用携帯の通知シグナルがピコピコ点滅しているのに気づいた。
    余計な仕事がふえたらイヤだと思ってその通知は見なかったことにしようとしばらくそのままにしていたが、思い直してその通知を確認するために充電器から外して画面ロックを解除した。
    そこに表示されていたのは登録のない電話番号だけ。

    真由子は、あれっと思った。
    胸の奥がひやっとする。
    たしかな根拠はないがもしかしたら...

    しばらくちゅうちょし土曜日なのでフロアには他に誰もいないのは分かっているのに、真由子はひとしきり辺りを見回してから表示されている番号をコールした。
    何回めかの呼び出し音のあと聞えてきたのは、もしかしての通りやっぱり雪次郎の声だった。

    「もしもし...」
    「猿渡さん? え、どうしてました?」
    「あ、ごめんね。 どうしようかって迷ったんだけど...」
    しばらく不自然な沈黙があった。

    「お元気、ですか?」
    「うん。真由子さんも...」
    「タカダさん?から、すこしだけ聞きました。大丈夫ですか?」
    「はい、何も知らせないのはあんまりだと思って...」
    「いえ、いいんです。そんな気にしなくて」
    「はい...」

    会話はぜんぜんうまく繋がらないまま、雪次郎は言いにくそうにしながらようやくこう口をひらいた。
    「今さらですけど、もう一回だけ会ってもらえますか?」
    「...」
    「すみません、あの店でいいので。 もう一回...」
    「分かりました。いいですよ」
    真由子はちょっとためらったが次の週末に会う約束をした。

    チャラいふりをしているけど、じつは生まじめで破綻の起こり得ないような雪次郎の性格はこれまで会ってきたなかで分かってきたつもりだったが、そこに蝕みはじめている彼の病のことはまだ未知のものだっただけに、真由子は電話を切ったあともういちど会っていいものか反芻した。


    その年は梅雨に入っても雨らしい雨は長つづきせず、新田川の流れもこの時期にしては頼りないゆるやかなものだった。
    川の両方の河川敷はきちんと整備され、簡易的なゴルフ施設があったりきれいに刈り込まれた野っぱらが広がったりしていて、それはこの街で真由子がいちばん好きな風景だった。

    右岸の原っぱにシンボルツリーのような大きな樹があり、こどものころ一家三人でピクニックをしたことがある。
    そのころは知り合いの誰からも言われるくらいのパパっ子で、サンドイッチのランチをしたあと夕暮れ近くになるまで二人でたわむれあっていた。
    なぜかそのときの母の記憶はうすい。
    しかし歳をかさねて思春期の闇に入りこむとしだいに父を避けるようになり、そのピークのころにはこの家庭になんで異性が住んでいるんだとさえ感じるようになった。

    母が亡くなった年の水害はこのおだやかな川がまるで違う川のように茶色い濁流が渦巻き荒れ狂い、やがて流れ込む支流の内水氾濫を引き起こして西側の街並みを洪水がおそったのだった。
    下校時間をすぎても避難のため学校内にとどまって幾度もかけつづける携帯電話に、母の声はついに聞えなかったことをきのうのように憶えている。

    最寄りの駅から河岸道路に出て、真由子はそんな自分の半生を振りかえりながら約束のあの店に向かった。
    たぶん雪次郎と会うのはこれが最後になるだろう。
    最後くらいは自分の方が先に店に入って彼を待とうと思い、約束の一時間ちかくもまえに訪れた。
    先にテーブルに着いている真由子を見て、あれ?え?という反応をする雪次郎の表情がうかぶ。

    しかし。
    やっぱり雪次郎は先にきていた。
    店のいちばん奥のテーブルに座って、やってきた真由子を見るとぎこちない作り笑いをして、やぁというふうに右手をひらひらした。

    「久しぶり。元気そうですね。ぜんぜん変わらない」
    「当りまえですよ。半年ちょっとくらいでしょ。 前の、ときから」
    だけど雪次郎のほうは少し会わなかったうちにずいぶんやつれたように見えた。

    この日の本題を切り出すように雪次郎の声の調子がちょっと沈んだ。
    「せっかく真由子さんとサブスク繋がりできたのに、こんなふうになって申しわけない」
    「調子、よくないんですか?」
    「波があってね。 いいときは以前とかわらない生活なんだけど、ちょっと、なんていうか歯車が外れたら自分でも持て余すっていうか...」
    雪次郎はつとめて平らかにしゃべろうとしているが、そのつぶやきには覇気がない。

    「いい調子のときのうちにと思って、思いきって電話しました」
    「心配はしてましたよ、一応」
    「よかった、もう会ってもらえないかと思いました」

    雪次郎はちらっと外の景色に視線を送って、胸のポケットからなにかを取りだした。
    うすい半透明の袋にはいった一枚の写真だった。

    「ちゃんとお話しできるうちに、これ。 渡しておこうと思って」
    彼はそう言って、写真を真由子の目のまえに差しだした。
    「いいですか、見ても」
    「はい」

    真由子の視線が袋から取りだしたその写真に注がれ、しばらく瞬きもできなかった。

    あの写真だ。
    真由子が知らないころの若々しい母と、知らない男性が笑顔で寄りそって写る写真。
    すこしまえ親友のタカちゃんと花見をしていたとき、話の成り行きで記憶の底からうかんできたあの写真。

    ただ、目のまえの一枚は他のカップルといっしょに並んだ集合写真ではなく、二人だけをアップしたものだった。
    だけど記憶に焼き付いている二人の朗らかな表情やポーズは、たぶんおなじ写真のものだ。

    「真由子さんが生まれる五年くらいまえのお母さん、ひとみさん。 それと私...」
    「この写真をどうして」
    「話の糸が変なふうにこんがらがっちゃったんで、自分の口からちゃんと伝えておこうと思って」
    「...」
    「そして、これが何ていうか... 証拠写真」

    真由子はこの写真をいま初めて見たということにした。
    もう、雪次郎の話を聞くだけにしようと思った。

    「もう、あしたの自分に自信がないので、今のうちに見てもらっておこうと思って」
    「...」
    「ひとみさんが亡くなっていて私がどんどんこんなふうになっていったら、この写真のこともう誰も知らないことになってしまいますからね」
    「...」
    「いらなかったら、あとでどうにかしちゃってください。あとでね...」
    「...」
    「いやぁ、たのしかった。真由子さんとのサブスク... いや、私だけですよね、たのしかったの」
    「...」
    「でも、よかった。こんな病気になるまえに真由子さんとこんな関係になれて」
    「やめてくださいって、カンケイだなんて...」
    「はは、ごめんごめん。でも、ホントに、ありがとう」
    雪次郎の表情がやっと以前のように和んだ。

    「で、どうするんですか。これから」
    「かえりに、病院に寄ります。どっさりの薬もらいに」
    「...じゃなくて。サブスク...」

    「え?うれしいなぁ。まだつづけたいですか。私との関係」
    「最低...」

    そしてもう氷も解けて薄くなったアイスコーヒーを一口飲んだ後、思いきるようにして雪次郎は真由子のほうに向きなおってはっきり言った。
    「きょうが、最後です。そのつもりで来てもらいましたから。写真も渡せたし」

    自分で提案して始めて、自分で終わりにするんだ。
    「つぎの約束しても、もう憶えてる自信がないので...」
    雪次郎は自分のこめかみ辺りを人差し指でさしながらそう言った。

    それからまたしばらくとりとめなくこの一年あまりのでこぼこなことや、少ないけれどお互いがボタンをかけあえる母の思い出話を語り合って、サブスク繋がりを終えることにした。

    ま、仕方ないか... ぜんぜんサブスクになってなかったけれど。
    雪次郎さん、ぜんぜんサブスクになってなかったじゃん。 なによ、知ったかぶりしちゃって...

    「じゃ。これで。病院の時間なんで...」
    雪次郎が席を立つときテーブルで真由子も腰を浮かして彼を見送った。
    送り送られがさかさまのパターンは初めてだな、と真由子は気がついた。
    そうしてあっけないほど何も引きずらず、この次もまた会う約束をしたかのように雪次郎は店を出て行った。

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    「でも、マユちゃんにしては大胆な決断だったわよね」
    タカちゃんといっしょに真由子の部屋にあそびにきたいずみちゃんが、スカートのくせに大あぐらをかいてえらそうに言った。

    いずみちゃんはタカちゃんと同じく高校のときからの親友だ。
    何ヶ月かに一回くらいのペースで、お互いの家を行き来して集まって食べたり吞んだりしている。

    その日はタカちゃんがもうすぐ結婚して、これからは今までどおりのペースで集まれなくなることを見越して二人の親友は泊りがけでやって来ていた。

    「まぁ、私もちょっとビックリしたわね。いくらたまたま彼氏がいないときだったっていってもね」
    タカちゃんもニヤニヤしながら同調する。

    「だけど結果、そんなふうにドラマチックなことになるんだからマユちゃん、持ってるよね」
    「やめてよ、ちゃかさないでって」
    「ゴメン、そうよね。 で、おじさんから渡された写真って?」
    「え、見たい、見たい。 マユちゃんママの若いときの写真」
    二人からそうせがまれてすこしちゅうちょもしたが、真由子はバッグのなかにしまってある半透明の袋にはいった写真を取りだした。

    袋から抜いて二人に渡そうとしたとき、真由子の指が止まり思わず写真を見つめた。
    えっ?

    「どうしたの?」
    「もったいぶらないで、見せてよ」

    最後に雪次郎に会った日から何度かその写真を見返していたが、きょうは何とも言えない不思議な思いがした。
    こんな、色調だったっけ。

    「へぇ、若いマユちゃんママだ! 面影、めっちゃある」
    「さっすが、キレイよねぇ」
    「で、となりの人が... サブスクおじさんってことね」
    「いいねぇ、このセピア色が歴史感じるわ」
    「そっか、もしかしたらこの人がマユちゃんのお父さんになったかもしれないんだ」
    またタカちゃんがありもしない理屈を繰り出してきたので、真由子はさえぎって写真を取り返してからそしてもういちど見た。
    こんな、色調だったっけ...

    それからも毎日のようにことあるごとに取りだしては写真をながめた。
    毎日見ているといきなりな変化は感じなかったが、確かに写真は日がたつにつれ色味がどんどん淡くなっているのは明らかだった。

    考えすぎかもしれないが、写真の画像が色あせていくのと同じように雪次郎の記憶も失われていってるのではないか。
    そんなふうにも思えるのだった。
    真由子はこのままではどうしようもできないと思い、セピアがかってきた写真をスマホカメラに収めておいた。


    ある週末の朝、おそく起き出した真由子は熱いコーヒーを入れて窓際のソファに座ってだらだらとスマホのSNSをチェックしていた。
    流れで写真アプリを開いてスクロールしつつ何気なく眺めていると、ある一枚の写真のところで頭から血の気がすうっと引いていくのが分かった。

    あの写真だった。
    雪次郎から渡された若きころの母と彼が写った写真をスマホで撮ったもの。
    しかしだいぶ画像が淡くなっていたものの寄りそって写っていたはずの二人の姿が、もうそこには残っていなかった。
    あのとき何枚か写しておいたが、どの写真にも母と雪次郎の笑顔は残っていなかった。
    しばらく何が起こったのか理解ができず、真由子はあわててバッグを取りに行ってなかのポケットからあの写真を取りだした。

    半透明の袋から抜き出した写真を見て、真由子は目を疑った。
    そんな...
    小刻みにふるえる指に一面クリーム色の紙がゆれた。
    色あせるも何ももう画像の痕跡らしきものはいっさいなく、写真をプリントする前の印画紙と同じようものが目のまえにあった。

    にわかに信じがたいことがおきて、これは現実のことなのか真由子の頭は混乱するよりも何も考えられなくなっていた。
    しばらくそうしていて、無駄と知りつつその白い紙を裏返したり光に透かしたりしてみたがもちろん何の意味もなかった。

    そもそも貴子といずみが泊まりに来たあのとき、すでに写真の異変はもう始まっていたのだ。
    プリントの化学変化か何かはまったく分からないが、それにしたってスマホで撮ったものまで画像が消えてしまうなんてわけがわからない。
    そんなこと、あるわけがない。

    雪次郎さんマジックじゃん...
    どうしたんですか?
    私が目を白黒させているのがそんなにおもしろいですか?
    はじめっからそうでしたよね。
    雪次郎さんから見ればこんな小娘をサブスクどうのこうのっておちょくって、うまく網に引っかかっておもしろかったですか?
    最後は認知症がどうのって煙にまいて、あげくの果てビックリするような写真まで見せてどういうつもりですか?
    そりゃあ、ビックリしましたよ。母からも同じ写真見せてもらってましたからね。ビックリですよ。
    たった一年あまりの短いあいだでしたけど、あなたの予想どおりめちゃドラマチックになりましたよ。
    どこかからこんな私を見てて、いたずらっぽくニヤニヤ笑ってるんですよね。
    最低...


    雪次郎はとうとうそうした人たちの世話をする施設に入るしか選択肢はなかった。
    父母はもちろんすでに亡く、兄弟といえば五十代のころからしだいに疎遠になった弟が首都圏にいるだけだ。
    他に近しく付き合いのある親族もいない。
    かかりつけ医の紹介から何とかこの居場所を見つけたかっこうだ。

    ここでは利用者たちが日中広間に集って、思い思いの時間をすごしている。
    雪次郎も窓際の席に座ってとりとめのない思いに浸っている。
    しかし浮かんでは消える記憶に、もう紐づけできる脈絡はない。
    思い出すできごと思い出せないことがらは、日によって時間帯によってもまちまちだ。

    きょうはいつだったか若い女性といっしょに観た映画のことを思い出していた。
    ストーリーなんて憶えていない。 ただ主人公の男女二人のいろんなシーンが断片的に現れては消える。
    その女性とは映画のほかにも何度か会ったことはある。
    いや、たぶんだ。 いや、ちがう女性かもしれない。

    きょうは気分がいい。 細かいところまでは思い出せないが楽しかった気分だけが味わえている。
    しかし夕闇が迫ってきてしだいに気分は悲しげなものに変わってくる。
    これはいつもそうだ。
    朝から昼間、天気のいい日は楽しげな気分だけど夕方から夜、雨の日などは気分が滅入る。
    具体的な思い出の場面がそんなに浮かんでくるわけでもないのに。

    館内の放送で夕食の準備がそろったので、食堂に集まってくださいと言っている。
    それを聞いて雪次郎がゆっくり席を立とうとしたとき、急に鮮やかな記憶の映像が降って湧いてきた。
    え? 

    女性が部屋を出て行こうとしている。
    「忘れもの、忘れもの...」そう言ってまた戻ってきた彼女の手には、ピンク色の歯ブラシが握られている。
    そしてドアから出ようとしてもういちど彼女はこちらを振り返る。
    ショートカットの髪形が似合った彼女のくちびるはへの字にまがり、眼には涙があふれていた。
    そして「じゃね」とだけ言って彼女は出て行った。

    おぼろたそがれる雪次郎の胸に、そんな映像とともにせつない思いとどうしようもない後悔の思いが、生きいきとよみがえってくるだけだった。

                              (おわり)

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