
境界線(バウンダリー)の曖昧さは、「感謝」への依存
「あなたは何をそんなに張り切っているの」
そう母に言われたのは、いつだったか。台所で、醤油差しの中身を、一滴残らず空っぽになるまで洗っていたときか。それとも、使い古しの雑巾を、絞りすぎて千切れてしまいそうになるまで固く絞っていたときか。記憶は曖昧だけれど、その言葉の響きだけは、今も耳の奥に残っている。
私は昔から、頼られると必要以上に張り切ってしまう癖があった。いや、張り切るというより、むしろ、そこに自分の存在理由を見出していた、と言ったほうが正しいかもしれない。例えば、学校で誰も手をつけないような面倒な係の仕事。それを「私がやります」と、つい、任されてしまう。先生は驚き、クラスの皆は安堵した顔をしていた。しかし、その瞬間、私は得体の知れない高揚感に包まれた。役に立っている、必要とされている、という、ひどく甘美な錯覚。それはまるで、枯れた花に水をやったときに、再び息を吹き返すような、そんな錯覚だった。
父も母も、私の幼少期を褒めることはなかった。褒められるどころか、何かにつけて「お前は出来が悪い」「どうしてこんなこともできないんだ」と、ため息交じりに言われた。だからだろうか。私はいつしか、誰かに「ありがとう」と言われること、誰かの役に立つことでしか、自分の価値を測れなくなってしまった。それはまるで、秤に乗って、自分の体重を毎日確認するように、誰かに必要とされているか、愛されているかを、確かめる作業だった。
そんな私は、大人になってからも、その癖が抜けない。友人関係、職場、果ては通りすがりの人とのちょっとしたやりとりでも、つい、余計な一言を付け足したり、頼まれもしないことを引き受けてしまう。
「この資料、英語から日本語に訳してくれない?」 「あ、いいですよ。今、手が空いてますから」
本当は、全然手なんて空いてない。締め切り間近の仕事もある。とっとと仕事を終えて、洗濯物もしなければならない。でも、口から勝手に出てしまうのだ。「いいですよ」という言葉が。そして、その後に続く「ありがとう、助かったよ」という言葉が、まるで麻薬のように、私の心を浮き立たせる。
相手は決して悪気があるわけではない。むしろ、「手伝ってくれてありがとう」と、心から感謝してくれている。問題は、私の方にある。私は、相手の親切心を、自分の存在理由として、無意識のうちに利用しているのかもしれない。相手の感謝の言葉を、自分の栄養源にしているのかもしれない。それはまるで、他人の畑の野菜を、勝手に引っこ抜いて食べているような、そんなひどい行為ではないか。
この歳になって、ようやく気付いたことがある。私は、自分の中に、他者との間に引くべき「境界線(バウンダリー)」というものが、ひどく曖昧なのだ。いや、曖昧どころか、ほとんどないと言ってもいい。まるで、家の扉に鍵をかけず、誰でもいつでも入り放題にしているようなもの。だから、心ない言葉や、不必要な感情、面倒な頼み事まで、何の抵抗もなく受け入れてしまう。受け取った後で、「ああ、これは要らないものだったのに」と後悔する。でも、その時にはもう遅い。一度受け取ってしまったものは、簡単には突き返すことができない。それは、心の中に、いらないガラクタを溜め込んでいるようなものだ。
先日、知り合いにこんなことを言われた。
「あなたって、いい人ね。誰のことも悪く言わないし、文句も言わないし。見ていて、本当に気持ちがいいわ」
その言葉を聞いて、私は思わず苦笑いしてしまった。
違うんです、おばさん。私は、いい人なんかじゃないんです。ただ、文句を言うこと、誰かを悪く言うことに、慣れていないだけなんです。そして、それがどうしようもなく面倒なことだと知っているから、つい、波風を立てないように、相手の言うことを、まるっと飲み込んでしまうだけなんです。
自分の居場所を、他人の評価に委ねて生きてきた。それが、私の人生だった。
しかし、そんな生き方には、必ず無理がくる。ある日突然、張り詰めていた糸がプツンと切れてしまう。そして、気づけば、心はズタボロになり、どうしていいかわからなくなる。
そろそろ、自分の家にも、鍵をかけるべき時なのかもしれない。必要のないものは、遠慮なく「要りません」と言える勇気を持つべきなのかもしれない。それは、誰かにとっては、ひどく冷たい行為に見えるかもしれない。でも、自分の心を守るためには、必要なことなのだろう。
私は、もう、誰かのためにだけ生きるのを、やめようと思う。