神の覚声
あらすじ
本当の自分を出せずにいる高校生・今井 日和は、ある夜、路地裏のジャズ喫茶「コルトレーン」で1人の女性ドラマー獅子堂 遥に出会う。剥き出しの感情で世界と向き合うその姿に、日和は強烈に引き寄せられた。
やがて遥はメジャーデビューを果たすが、突然の炎上により歌手活動を停止する。日和は遥の楽曲を手がけていた作曲家・氷室凛と出会い、バンド「イツコノ」を結成。穏田 真衣、陽葵 結愛が加わり、四人は「遥の歌を届けたい」という一心で動き出す。
しかし彼女たちの前に、音楽業界に君臨する大手プロデューサー・硝子ノ 透子の影が立ちはだかる。
自分の気持ちで一度も叫んだことがなかった少女が、初めて本当の気持ちを叫ぶまでの物語。
消しゴムのカスが、ノートの端に積もっていた。今井 日和は、鉛筆を走らせながら、また一行消して、また書き直した。
きっかけは、たいしたことではなかった。朝、教室に入った時に先生が「日和、最近どう?」と声をかけてきた。日和は「楽しいです」と答えた。嘘ではない。でも本当でもない。ただ、そう答えるのが一番波風が立たないと知っていた。
お昼の時間、隣の席の子が好きなアイドルの話をしていた。日和も笑って頷いた。知らないアイドルだったけれど、知らないとは言わなかった。
帰り道、友達グループの輪の中で、日和はずっと半歩だけ外側にいた。笑うタイミングも、相槌を打つタイミングも、全部計算していることに、ふと気がついた。
家に帰って鞄を投げ出した瞬間、急に息ができるようになった気がした。
その夜、日和は鉛筆を手に取った。書いているのは脚本だった。台詞が、また台詞が、ページを埋めていく。また一行消して、また書き直した。
自分の中に、二人いる。ずっとそう思っていた。みんなに合わせて笑っている自分と、それを遠くから眺めている自分。どちらが本当の自分なのか、もうよくわからなかった。それを、言葉にしてみたかった。脚本という形にすれば、整理できる気がした。
その夜、日和は一気に書き上げた。
書き終えた瞬間、世界が自分を中心に回っているような錯覚に陥った。この言葉があれば、私は何者にでもなれる。そんな根拠のない全能感が、翌朝の彼女の背中を押していた。
通学電車。
日和の頭の中には、昨夜書き上げた台詞が熱を持って流れていた。
*
少し混んだ車内。隣に立っていた女の子ふたりが、声を潜めながら話していた。
「昨日のドラマ見た?」「見た見た。あの告白シーン、やばかったよね」
その瞬間、日和は反応していた。
「……あ、そのドラマ……二人も見てたんだ」「あ、うん……まあ」「人気だしね」「だよね。あれさ、私も出たらどう映るかな。なんか、向いてる気がするんだよね」
ふたりの間に、一瞬の間が落ちた。
「……出るって、出演のほう?」「うん。理由はわかんないんだけど、"あ、いけるな"って思っちゃって」「レッスンとかしてるの?」「じゅ、準備は……でも、私そういう流れを掴むの、得意だから——」
「……そっか」
それだけだった。女の子はスマートフォンに目を戻した。「そっか」の二文字が、どんな長い説教よりも重く、日和の胸に沈んでいった。
日和は吊り革を握ったまま、窓の外を見た。また、やってしまった。昨夜書いた台詞と同じだ。何かになろうとして、うまく言えなくて、黙る。
その日の帰り道。
いつもと違う道を歩いていたのは、特に理由はなかった。ただ、まっすぐ帰る気になれなかった。
ふと、腹の底に響くような振動が伝わってきた。音に引かれて路地を曲がると、古びた真鍮の看板が目に入った。「コルトレーン」。重い木の扉の隙間から、熱気が漏れ出している。日和は吸い込まれるように扉を押し開けた。
琥珀色の照明に照らされた小さなステージの中央に、一人の女性がいた。年配のジャズマンたちに混じって、ドラムを叩いている。
日和は、入り口から一番近い席に座って彼女を見た。お店の人が「いらっしゃい、なにか飲む?」と聞いてきて、咄嗟に一番安いエスプレッソを頼んだ。
一曲が終わり、静寂が戻る。彼女が小さく息をつきながら、乱れた髪を無造作にかき上げた。その鋭い眼差しと、やり遂げた後のわずかな微笑み。
かっこいい、と思った。
しばらくして、お店の人がさっき頼んだエスプレッソを持ってきた。
綾香「はいエスプレッソになります。」
日和「あ、あの彼女はいつもここにいるんでしょうか?」
綾香「遥ちゃんのこと? うん、よく来てるよ。常連さんみたいなもんかな。あなたは、初めて見る顔だけど?」
日和「私は、日和っていいます。」
綾香「私は綾香、よろしくね。」
綾香が去った後、日和はエスプレッソに口をつけた。
日和「……っ」
苦い。思っていた何倍も苦かった。でも、なんとなく頼んだ手前、顔をしかめながらも少しずつ飲んだ。
その日から、日和は獅子堂 遥のファンになった。
時間を見つけてはコルトレーンに足を運んだ。遥がドラムを叩いている姿を見るためだけに、掲示板のライブ情報は欠かさずチェックした。
数日たったころ、掲示板にチラシが貼られていた。「定期演奏 出演:田沢龍之介・獅子堂 遥・穏田 真衣」。
日和(心の声)(……穏田? 誰だろう)
彼女が次に何を表現するのか、その熱の正体を知りたい。その一心で、またコルトレーンに向かった。
*
その夜のコルトレーンは、いつもと少し違う空気があった。
先日は常連のジャズマンたちと地元の客だけで賑わっていたこの店が、この夜はスーツ姿の人間が何人か混じっていた。
日和は入り口近くの席に座り、カフェオレを頼んだ。
一番手のジャズバンドが演奏を終える。
拍手が静かに広がる中、田沢がギターを持ってステージに上がった。
田沢「……田沢 龍之介といいます。ここでアルバイトしながら、歌わせてもらってます。とにかく練習できる場所を探してたんですけど、働きながら演奏できるということで、ここのマスターが拾ってくれて。コーヒーの淹れ方もまだ怪しいんですが……まあ、そのあたりは綾香さんに任せてます」
店内から小さな笑いが起きる。カウンターの中で綾香が照れたように顔を赤らめる。
田沢「聴いてください」
演奏が終わり、再び拍手が起きる。田沢の演奏が終わった後、田沢が遥に笑いかけた。遥もニッと笑い返す。仲が良いんだな、と日和は思った。
田沢「ありがとうございました。それでは次は、いつもここでドラムを叩いてる遥さんです。今日はなんとギターで歌うそうで。盛大な拍手を」
コルトレーンの小さなステージで、獅子堂 遥と穏田 真衣の二人が並んで立った。
遥「本日は来ていただきありがとうございます。いつもドラムを叩いてるんですが、今日は初めてギターを演奏します。相棒の真衣が、ギターを教えてくれました。卒業前に、ここで一回やりたくて曲を書いてきました。聞いてください『Grace of Love』」
日和は思わず身を乗り出した。
日和(心の声)(……え、ギター?)
真衣が優しくリズムを刻み始める。
遥の声が、静かな店内に広がった。
ドラムを叩いていた時とは違う、切実で真っ直ぐな歌声。不器用なギターの音が、逆にその歌声の必死さを際立たせていた。
演奏が終わり、二人が笑い合いながらステージを降りる。
日和は、溢れそうになる鼓動を抑えきれず、思わず声をかけていた。
「あ、あの……!」
二人が足を止め、不思議そうに振り返る。
「……今の曲、すごく、素敵でした。この前、ドラムを叩いてるのを見て……それで、今日また来たんです。でも、今日の歌は……もっと、その……」
言葉がうまく続かない。顔が熱くなる。
遥は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに白い歯を見せて笑った。
「見ててくれたんだ。ありがと。……こっちは真衣。私の最高の相棒」
真衣も柔らかく微笑み、日和の目を見つめた。
「ありがとう」
そのとき、一人の男性が遥に近づいてきた。
鳳「素敵な曲だ。君が作ったのかい?」
遥は目を丸くした。
鳳「知り合いの連れで今日初めて来たんだけど。普段はドラムを叩いてるんだって?驚いたな。歌詞も、君が書いたのか。いいセンスをしているね。隣で弾いてた子も」
真衣「……ありがとうございます」
鳳「おっと、失礼。名前もまだ言ってなかったな。私は鳳といいます。ちょっと話を聞いてほしい、フェニックスレコードの者です。もしよかったらなんだけど、この曲本格的にCDにしてみないかな?」
名刺を差し出す。
遥は名刺を受け取り、鳳の顔を見た。
遥「ぜひ、お願いします」
口角が、少し上がっていた。日和は、その一部始終を息を呑んで見つめていた。
日和(心の声)(……遥さんが、本物になっていく。私は……)
胸の奥で、何かが静かに燃え始めた気がした。
*
鳳が遥に話しかけに行く様子を、硝子ノは遠くから静かに眺めていた。
硝子ノ(心の声)(……邪魔な子)
硝子ノはグラスを置き、静かに立ち上がった。一緒にいた人に軽く会釈をして、店を出る。
路地裏に停めた黒塗りの車に乗り込み、扉が閉まると同時に表情が変わった。
硝子ノは車窓に目を向けたまま、小さく息をついた。
硝子ノ「……あの子は放っておいていい。折れない人間に用はない。それより、田沢ね」
*
放課後の教室。日和は一人残り、自作動画の撮影を始めた。
椅子を引きずって窓際に向け、机の上にスマートフォンを立てかける。カメラが自分に向いているのを確認してから、書き上げた脚本をそっと広げた。ひとつ深呼吸をする。
日和A「……誰? そこにいるのは?」
声のトーンを落として、今度は少し遠くを見るように。
日和B「忘れたの? 本当の私だよ」
日和A「本当の、私……? 笑わせないで。あなたの居場所なんて、もうどこにもないわ。学校でも、家でも、みんなが求めているのは私。ニコニコ笑って、空気を読んで、波風立てずにやり過ごす……この完璧な『いい子』だけ」
日和B「それはただの着ぐるみじゃない。重くないの? 苦しくないの? 毎日、誰かの書いた台本通りに喋って、心にもないセリフを吐き出して……。ねえ、鏡を見てよ。あなたの目は、もう死んでる。」
日和A「何もないからいいんじゃない! こうしていれば、誰も私を傷つけない。誰も私を嫌わない。何者でもなければ何にでもなれる。それが俳優になるってことでしょ?」
日和B「……嘘つき。あなたは、何者かになりたいんじゃない。ただ、本当の自分のままでいることが怖いだけ。でも、どこまで逃げても、この鏡の中からは出られない。あなたは、自分の気持ちで一度も叫んだことがないんだから」
日和A「叫ぶ必要なんてない! 感情なんて、邪魔なだけよ! そんなものを出したら、私は壊れてしまう。……私は、偽物でいい。偽物のまま、誰かになりきって、この人生を演じきってやるわ」
日和B「……いいよ。演じればいい。でも、これだけは忘れないで。あなたがどれだけ完璧に化けても、夜中にふと目が覚めた時、胸の奥で震えているこの『寒さ』だけは、絶対に隠し通せない。……だって、私はあなたなんだから」
日和はスマートフォンの画面へ、そっと指先を伸ばした。指先が震えている。ふっと表情が消え、元の「日和」に戻る。
日和「……私の、本当の気持ちなんて……どこにも、ないのに」
しばらく、動けなかった。
それから日和はスマートフォンを手に取り、再生ボタンを押した。画面の中の自分を、黙って最後まで見た。うまいかどうかはわからない。でも、これは自分が書いた言葉だった。自分の中にあったものを、初めて外に出せた気がした。
投稿ボタンを押す前に、少し迷った。でも、押した。
日和「ふぅ……こんなもんかな」
誰かに見てほしかった。それだけじゃない、吐き出さずにはいられなかった。その両方が、日和の中に確かにあった。
*
アイドルの撮影中。
スタッフに髪をセットされている。陽葵 結愛は鏡の中の自分を、ぼんやりと見つめていた。
スタッフ「はい、準備オッケーです。」
監督「本番入りまーす」
カメラが回り始めた瞬間、結愛の表情が切り替わった。
結愛はカメラに向かって、満面の笑みとともに指でハートを作った。
監督「はいカット、本日もよかったです。お疲れ様でした。明日は朝8時に楽屋入りでCM撮影があります。スタイリストも早めに来てもらうよう手配してますので」
スタッフ「結愛さん、お疲れ様です。お水どうぞ」
結愛「ありがとう」
楽屋に戻る道すがら、すれ違った後輩のアイドルが、誰かと電話で「私なんてどうせ」と笑いながら話しているのが聞こえた。何気ない一言だったはずなのに、結愛の足が一瞬止まる。
——あなたが売れないのは、隣に結愛がいるからよ。
忘れたはずの声が、耳の奥でふっと蘇る。
心の声(私の“特別”は、誰かを踏み台にした上に立ってるだけなのかな……)
*
「は……」
夜中2時に目が覚める。
「……眠れない」
ラジオを付けると、遥の曲が流れる。
ラジオパーソナリティ「今夜の楽曲は、獅子堂 遥で『Grace of Love』。実はこの曲、彼女がドラム一筋だったところから、親友にギターの手ほどきを受けて、初めて自分で作った曲なんだそうです。不器用ながらも、新しい自分に挑戦してみた曲が、こうして多くの人に届いている。なんだか、勇気をもらえる話ですよね」
心の声(……新しい自分に、挑戦してみた一曲)
「素敵な曲。私も……なにかしなくっちゃ」
彼女はクローゼットから、キャリーバッグを引きずり出した。
最低限の身の回り品を、隙間なく詰め込んでいく。バッグのジッパーを閉める際、鈍い金属音が静かな部屋に響いた。
彼女はキャスターの音を忍ばせながら、住み慣れた部屋を後にした。
*
コルトレーンの定期演奏から数週間後、硝子ノ 透子は田沢を高級車の後部座席に呼び出した。
硝子ノ「田沢くん、君はこのまま、あの古臭い喫茶店で一生を終えるつもり?」
硝子ノは窓の外を見つめたまま問いかける。
田沢「……いえ。でも、あそこには僕を必要としてくれる人がいます」
硝子ノ「『必要』? そんな安っぽい言葉で自分を納得させないで。君に必要なのは、愛でも居場所でもない。世界を震わせるための『絶望』よ」
彼女は一枚の契約書を差し出した。そこには、名だたるスポンサーの名と、法外な契約金が記されていた。
硝子ノ「あの娘……綾香だったかしら。彼女を捨てなさい。そうすれば、この力はすべて君のもの。人はね、最も大切なものを失った時にこそ、最高の悲鳴を上げるの。そしてその悲鳴こそが、大衆を熱狂させる至高の音楽になるのよ」
田沢の指が、震えながら契約書に触れる。
田沢「……それが、僕が売れるための条件なんですか」
硝子ノ「そうよ。残酷な実験だと思ってくれて構わないわ」
硝子ノは冷たく微笑み、手元のタブレットに、コルトレーンの借用書と、CPEへの譲渡通知書を表示させた。
田沢は、画面を見つめたまま、言葉を失った。
硝子ノ「断ってもいいのよ? その代わり、明日にはあの店も、綾香という娘の居場所も、すべて私の指先一つで消えてなくなるけれど。……法に訴える? やってみなさい。私のコンツェルンが抱える弁護士団を相手に、君が何年戦えるかしらね」
*
夕方の公園。
まっすぐ帰る気になれない日は、なんとなくここに足が向いた。
日和「進路どうしよっかな……あ、そういえば私、俳優向いてる気がするとか言ってたんだよね。準備も練習も何もしてないのに。……うわあ、恥ずかし」
ため息をついて、ふと公園の中央にある大きな遊具へ目をやった。
丸みを帯びた大きな遊具の中、暗がりの奥に、白いワンピースの裾がわずかに見えた。風にそっと揺れている。
日和「えっ……誰かいる?」
目を凝らすと、遊具の陰に人が横たわっているのがわかった。髪がさらりと地面に広がっている。
日和「だ、大丈夫ですか?」
女の子はゆっくり目を開ける。ぼんやりした目。
結愛「……ただ、寝ていただけ」
日和「あ、そうなんだ……倒れてるのかと思って心配しちゃった。ここ、ベッドにもなるんだね……」
結愛は少しだけ笑う。
結愛「そうね。私も知らなかったけど……結構ひんやりしてて、気持ちがいいのよね」
日和はしばらく、結愛を見つめていた。
日和(心の声)(……なんでこの人、ここで寝てるんだろう。理由があるのかな。同じようにしてみたら、わかるかも)
日和「……ちょっと、私もやってみていいですか」
結愛は薄目を開ける。
結愛「……好きにすれば」
日和はおそるおそる、結愛の隣に寝転んでみた。冷たい地面が背中に触れる。夕空が、思ったより広く見えた。
日和「……あ、ほんとだ。ひんやりする」
結愛は何も言わない。
日和「……なんか、いいな、これ」
しばらく、二人とも黙ったまま、同じ夕空を見上げていた。
日和「……なんか、今日疲れたな。学校ってさ、なんか疲れるよね」
結愛は目を閉じたまま。
結愛「……わかるわ。」
日和「なんか、ずっと笑ってなきゃいけない感じがして」
結愛「……ただ座ってるだけで、周りがざわざわする」
日和「……それはそれで疲れそう」
結愛「ええ。気を使ってるつもりがないのに、使わせてしまってる。それが、一番しんどいわ」
日和(心の声)(……この人も疲れてるんだ。なんか、おんなじだな)
また沈黙。夜風が通り過ぎる。
日和(心の声)(……なんか、安心する)
日和「……zzz」
結愛「……ねぇ、もう真っ暗よ。いつまで寝てるの」
日和ははっと目を覚ます。
日和「うわっ、もうこんな時間……! って、あなたは帰らなくていいんですか?」
結愛は夜空を見上げる。街灯の光がワンピースに反射して、少しだけ寂しげに見える。
結愛「そうね…… 見ず知らずのあなたに言ってもしょうがないとは思うけど…… まぁ、実は……家出してきてしまったのよ」
日和は目を丸くする。
日和「えー…… お母さんやお父さん、心配してるかも……」
結愛は肩をすくめる。
結愛「そうね。……まあ、少し息抜きがしたくなっただけよ。私のことは、気にしなくていいわ」
日和「あ、そういえば、まだ名前聞いてなかったね。私、日和」
結愛「……結愛よ」
日和は少し考えてから、そっと言う。
日和「……あのさ。 よかったら……うち、来る?」
結愛は日和をじっと見た。
結愛(心の声)(ホテルならいくらでも泊まれる。でも……なんだろう、この子)
結愛「……あなた、変わってるわね」
日和「んー…、否定できないかも……」
結愛は小さく笑う。
結愛「……じゃあ、少しだけ。 泊めてもらおうかしら、あなたのご両親は許してくれるのかしら」
日和「うん、うちの親離婚してて母親も仕事であんまり帰ってこないんだ。」
少し間があった。
結愛「……そう。ごめんなさい、聞いてしまって」
日和「ううん、気にしないで。慣れてるから」
二人は並んで歩き出す。
*
結愛「お邪魔します。」
二人は日和の部屋のある二階へいく。部屋の扉を開ける。
日和「ちょっと散らかってるかもだけど…気にしないでね」
結愛「そうね。これは…CDとポスター。」
日和「それは、この前店頭ポスターもらってきたんだ。それから、それは、初回盤のアルバム。タワータイムレコードで、すぐ予約して、初回盤買ったんだよね。」
遥の表紙を飾った雑誌、ライブ写真。
結愛「……本当に好きなのね。遥さんのこと。」
日和「うん。ずっと追いかけてる。 憧れの人なの。 ああいうふうに歌えたらいいなって」
結愛はCDを一枚手に取り、ジャケットの遥をじっと見つめる。
日和「それ、『Grace of Love』。はるちゃんのデビューシングル。私が初めて彼女を見たのは路地裏のジャズ喫茶で、ドラムを叩いてた時だったんだ。あの時の熱量が、この曲には詰まってる気がする」
結愛「……この曲、私もラジオで聴いたわ。なんだか、勇気をもらった気がした」
日和「えっ、結愛さんも? やっぱり、この曲には不思議な力があるんだね….はるちゃんは、私の目の前で、スカウトされたんだよ。芸能界ってすごいよね。私にも才能があれば、あんな風にスカウトされちゃうのかな…憧れちゃうなー。」
日和は上をむいて遥を思い浮かべた。
結愛「…そうかな?誰かを踏み台にして立ってるだけじゃない。」
日和「えっ……そうかな?」
結愛は少し考えてから、静かに話し始める。
結愛「……綺麗な籠の中よ。外からは宝石みたいに見えるけど、中は狭くて、呼吸の仕方も、羽の広げ方も、全部決められているの。たとえ幸せであってもその幸せは誰かに用意された『正解』でしかない……。あらごめんなさい、テレビの見過ぎの様ね。」
日和は息を呑む。
日和「そっか……大変なんだね」
結愛「……でも、夢中になってる時だけは、全部忘れられるじゃない?それは、嘘じゃないのかも」
日和はその言葉に胸を打たれる。
日和「……わたしも、音楽だけは嘘じゃないって思う」
言ってから、日和は少し驚いた。俳優になりたいと思っていたはずなのに、気づいたら音楽の話をしていた。
日和(心の声)(……あれ、私いつからそう思ってたんだろう)
結愛は微笑む。
しばらく沈黙が流れた。結愛は部屋を見回しながら、CDを一枚手に取った。
結愛「……あなた、歌うの?」
日和「うん。でも……弾きながら歌えなくて」
結愛は部屋の隅に置かれたキーボードに目を向ける。
結愛「これ……触ってもいい?」
日和「えっ、うん。どうぞ」
結愛は椅子に座り、鍵盤にそっと指を置く。
一音、また一音。静かな夜に、柔らかいピアノが広がる。
日和「……すごい…… 結愛さん、ピアノ弾けるんだ……」
結愛「ええ。小さい頃からずっと」
日和は息を吸う。
日和「ねぇ……もしよかったら……わたしの歌に、ピアノつけてくれない?」
結愛がピアノを弾き始める。日和はそっと歌い出す。
二人の音が重なる瞬間、部屋の空気が変わる。
結愛「……あなたの声、ピアノと相性がいいわね」
日和「ほんと? 結愛ちゃんのピアノもすごかった」
結愛「そう?ありがとう」
日和はふと、机の上のスマートフォンに目をやる。
日和「ねぇ……これ、動画に上げてもいいかな。前からずっと、歌ってみた動画上げてみたかったんだよね」
結愛「……いいけど。誰が見るのよ、こんなの」
日和「わかんないけど……こんなチャンスないなって思って」
結愛は小さく肩をすくめるが、まんざらでもなさそうに鍵盤に向き直る。
結愛「じゃあ、弾くから」
日和はスマートフォンのカメラを起動し、机の上に立てかける。
結愛が静かに前奏を弾き始める。日和は目を閉じて、そっと歌い出す。
その夜から、結愛は日和の家に泊まることになった。動画はその晩のうちにアップされ、そのまま土日を過ごした。
翌朝、日和は結愛を置いて学校へ向かった。
日和「それじゃ行ってくるね。あ、連絡先交換しとく?」
結愛「……いいわ。またどこかで」
日和「……そっか。じゃあ行ってくるね」
結愛「うん、行ってらっしゃい」
結愛は部屋に残り、一人でピアノを弾いていた。
インターホンが鳴った。
低い男の声。
男の声「結愛さん。 ここにいるのはわかっています。 開けてください」
結愛は、ポスターのある部屋を眺めて呟いた。
結愛「ごめんね。時間が来てしまったみたい」
日和は授業中、机の下でこっそりスマートフォンを開く。YouTuneの通知が、いつもよりずっと多い。
日和(心の声)(……あれ、なんか増えてる)
気になって開いてみると、誰かが動画のリンクをつぶやきサイトに貼っていて、それが知らない人たちの間で広がっているようだった。
特に理由はわからない。でも、なぜか結愛に会いたくなった。
胸の奥が、そわそわして落ち着かなかった。
急いで帰ると、部屋は静かだった。
キーボードの上に、結愛のメモと一枚の名刺が置かれていた。
「泊めてくれてありがとう。あなたの歌、好きだったわ。またどこかで」
日和はメモをじっと見つめたまま、しばらく動けなかった。それからゆっくりと名刺を手に取った。
帝国レコード所属 陽葵 結愛
日和「……陽葵 結愛?」
しばらく眺めてから、スマートフォンで検索してみた。
日和「……え、アイドル? あの子が?」
*
「……ここが、今日から君の職場兼、家だ」
再開発から取り残された路地裏。ジャズ喫茶「コルトレーン」の重い扉を開けると、使い込まれたネルドリップの香りと、古いスピーカーから流れるサックスの音色が田沢を迎えた。
店主である綾香の父は、ぶっきらぼうに二階へ続く階段を指差した。
店主「音楽業界の知り合いから話は聞いています。腕はいいけど、なかなか大変なんだって? うちで働けば、三食と寝床、それに練習する場所くらいは提供できる。うちも助かるよ」
田沢は深々と頭を下げた。
田沢「……ありがとうございます。精一杯、やらせていただきます」
その時、カウンターの奥から一人の女性が顔を出した。看板娘の綾香だった。
綾香「大変だと思うけど、これからよろしくね。コーヒーの入れ方から味まで、覚えることは結構あるんだけど、一緒に頑張っていきましょう。ジャズ好きのお客さんはたくさんいて、気さくに話しかけてくるかも」
彼女はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。その屈託のない笑顔に、都会の荒波に疲れていた田沢の心は、一瞬で解きほぐされた。
それから数週間。田沢の日常は一変した。昼間は慣れない手つきでジャズ愛好家のおじさんたちにコーヒーを運び、夜は店が落ち着いた後、一人ギターを爪弾く日々。
ある夜、田沢がステージの端で、自作の未完成な曲を静かに弾き語っていた。ただただ穏やかで、どこか寂しい旋律だった。
掃除の手を止めて聴き入っていた綾香が、ポツリと呟いた。
綾香「……ねえ、龍之介くん。その曲、なんていうの?」
田沢は照れくさそうに手を止めた。
田沢「あ、いや……まだタイトルなんてなくて。ただ、この店で感じる空気とか、綾香さんが淹れてくれるコーヒーの匂いとか……そういうのを音にできたらいいな、と思って」
綾香「私のコーヒー?」
綾香は驚いたように目を丸くした後、ふふっと笑った。
綾香「変な人。でも、今の音……すごく好き。テレビで流れてる派手な曲より、ずっと胸に響くわ」
彼女は田沢の隣に座り、少しだけ身を寄せた。
綾香「私ね、ここでずっと父さんのジャズを聴いて育ったけど、あなたのギターは特別。なんだか、凍えてた心がじわーって温かくなるみたい」
田沢「綾香さん……」
綾香「……決めた。私、龍之介くんの一番のファンになる。だから、いつかこの曲が完成したら、真っ先に私に聴かせてね?」
月明かりが差し込む店内で、真っ直ぐに自分を見つめる綾香の瞳。
その瞬間、田沢の指先が震えた。
「この人のために歌いたい」という生まれて初めての純粋な感情が彼の胸を熱く満たしていった。
それからの日々は、田沢にとって魔法のような時間だった。
朝、開店前の静かな店内。田沢と綾香は並んでテーブルを拭きながら、昨夜聴いたレコードの話や、将来の夢を語り合う。そんな何気ない時間が、田沢の作る旋律に柔らかな色彩を与えていった。
ある日の放課後、店のドアが勢いよく開き、一人の少女が飛び込んできた。
遥「マスター! 今日ドラム使っていい?」
ドラムスティックのケースを背負った遥だった。彼女はカウンターに座るなり、新入りの田沢をジロジロと眺めた。
綾香「今日からここで働いてる田沢 龍之介くんだよ。遥ちゃん、あんまり怖がらせないで」
綾香が笑いながらコーヒーを差し出すと、遥はニカッと笑った。
遥「へぇ、田沢 龍之介っていうんだ。一曲聴かせてよ」
促されるまま、田沢はギターを手に取った。綾香が見守る中、彼は最近書き上げたばかりの、温かなミドルテンポの曲を奏でた。
演奏が終わると、店内は一瞬の静寂に包まれた。
遥「……ふーん。いい曲だね田沢さん、いい腕してるじゃん」
遥はそう言うと、おもむろに奥のドラムセットへ向かった。
遥「私が少し色をつけてやるよ」
彼女が手にしたのは、スティックではなくワイヤーを束ねたブラシだった。ドラムの表面をシュッ、シュッと撫でるような繊細な音が、田沢のギターに寄り添うように重なる。遥は、田沢の奏でるメロディを壊さないよう、呼吸を合わせるように優しくリズムを刻み始めた。
ギターとブラシの音が消え、二人のセッションが終わる。
綾香「とってもよかったよ!」
遥「そういえば、田沢さんもでるんだよね。今度の定期演奏」
田沢「そうだよ、2番手。」
遥「ふーん」
その余韻の中で、遥はふと店主の方を見た。
遥「あ、マスター次の定期演奏さ、あのチラシの3番手に入れてもらえない?真衣とギターで一曲やりたくて。卒業前に、ここで一回やっておきたいんだ。」
店主「ほー、いいよ、とうとうやるんだね。私も楽しみだよ」
遥「ありがとう!」
田沢はその様子を見ながら、温かい気持ちになっていた。
*
ある夜、見慣れない客が店に入ってきた。
スーツ姿の女性だった。年齢はよくわからない。ただ、店に入った瞬間から、空気が少し変わった気がした。
綾香「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
女性「ええ」
値踏みするような目で店内をゆっくりと見回してから、奥の席に腰を下ろした。
綾香「ご注文はお決まりですか?」
女性「……コーヒーを。ブラックで」
綾香はカウンターに戻った。
綾香(心の声)(……なんか、感じの悪い人だな)
しばらくして、田沢がその席に近づいていった。
綾香「……?」
田沢は女性の前に立つと、小さく頭を下げた。
田沢「……硝子ノさん、どうも」
硝子ノ「ふふ、元気そうね、龍之介くん。……今度の定期演奏、準備はできてるかしら?」
田沢「……はい、大丈夫です」
硝子ノ「そう。楽しみにしているわ」
田沢「見てもらえるとわかるんですが、結構楽しくやってます。マスターも優しいし……あ、あそこでドラム叩いてるの、遥っていうんです。」
硝子ノ「……そう」
田沢が他の客のもとへ戻った後も、硝子ノはカップを傾けながら、無心にドラムを叩く遥を、値踏みするような目でじっと見つめ続けていた。
硝子ノ(心の声)(……こんな子もいるのね)
帰り際、硝子ノは店を出て、路地裏に停めた黒塗りの車に乗り込んだ。後部座席の窓をわずかに下げ、店内に流れる温かなセッションを、もう一度だけ振り返って見つめる。
硝子ノ「……甘いな。あんな安らぎの中にいたら、彼の才能は腐っていく。龍之介、君のギターに必要なのは、そんな陽だまりのような優しさではない」
硝子ノは、手元の写真に映る綾香と田沢の姿を、細長い指でなぞった。
硝子ノ「……逃げ場をなくしてから、彼に『選択』を迫るわ」
車が静かに走り出すと、排気ガスの煙が路地裏の入り口を覆い隠した。
*
閉店後。
綾香「ねえ、龍之介くん。さっきの人誰?なんか親しそうに話してたよね。」
田沢「……音楽関係の知り合いです。ここのことを紹介してくれた人で」
綾香「ここを?なんか、感じ悪くない?」
田沢「……そんなことないですよ。ちょっと気難しい人なだけで」
田沢は目を逸らした。
綾香「……そっか。まあいいか」
*
数日後
「コルトレーン」の閉店後、カウンターで片付けをする綾香の隣で、遥は手持ち無沙汰に、ドラムスティックを指先で弄んでいた。
綾香「……ねえ、遥ちゃん。私、龍之介くんのこと、好きなんだと思う」
遥「知ってるよ。見てりゃわかるって。田沢さんも綾香さんのこと、特別に思ってるはずだよ」
綾香「……なんか、うまく言えないんだけど。あの人が頑張ってるとこ、ちゃんと見ていたいんだよね」
遥はニッと笑って彼女の肩を叩いた。
電話が鳴る。鳳の文字。
遥「あ、鳳さんどうも。卒業も間近で、そろそろですね。……はい、はい。わかりました」
電話を切って、遥はニッと笑った。
遥「……じゃ、またね」
綾香「うん、遥ちゃんも頑張ってね」
遥は高校を卒業し、「Grace of Love」でメジャーデビューを果たした。コルトレーンに来る回数も、少しずつ減っていった。
*
ある夜、遥がレコーディングの帰り道、いつものルートを歩いていると、前方に見覚えのある顔が見えた。田沢だった。その隣に、コルトレーンで何度か見かけたことのある女が立っていた。
綾香の声が、耳の奥に残っていた。
——あの人が頑張ってるとこ、ちゃんと見ていたいんだよね
そう言って、少し照れくさそうに笑っていた綾香の顔が、目の前の光景と重なった瞬間、遥の中で何かが弾けた。
遥「……おい、田沢。そこで何してんだよ」
田沢が振り返った。その隣の女も、ゆっくりとこちらを見た。勝ち誇ったような薄笑いを浮かべながら、わざとらしく田沢の腕を自身の体に引き寄せ、その頬を愛おしそうに撫でた。
遥「ちょっと、訳を話しなよ田沢! 綾香さんがどんな思いで……!」
遥が詰め寄るが、田沢は何も言い返せなかった。ただ地面を見つめることしかできない。
遥「田沢……綾香を裏切って、そんな女に魂売ったのかよ!」
気づいた時には、拳が出ていた。
事件は瞬く間に「メジャーアーティスト獅子堂 遥による、無名で純朴な新人アーティスト・田沢 龍之介への暴行」として、歪められた真実とともに世間に拡散されていった。
*
日和はアルバイトをしながら、時間があればCDを聴いてライブがあれば足を運んだ。日和はずっと追いかけていた。
日和(心の声)(……はるちゃんみたいになりたいな)
そんなある日。
日和はアルバイトから帰り、コンビニ弁当を温めながらテレビをつける。
画面には緊急テロップ。「人気アーティスト・獅子堂 遥 デビュー直後の暴行疑惑」
画面いっぱいに、遥が田沢を殴る瞬間の写真が映し出された。
あの『Grace of Love』が、皮肉にもスキャンダルのBGMとしてテレビから流れてくる。
日和は手に持っていた箸を落とした。
日和「……え……? なんで……?」
テレビではコメンテーターが叩いている。「自由を歌いながら、裏では同業者を力でねじ伏せていたのか」「デビュー前の田沢という人物を、嫉妬心から一方的に殴ったという証言が出ています」
日和「そんなわけない……なんで、なんではるちゃんが……」
画面が切り替わり、特番のスタジオが映し出された。
司会「クリエイティブ・プロダクション・エンタテインメント代表プロデューサー、硝子ノ 透子さんです」
日和「……あ」
どこかで見た顔だった。あのライブの夜、コルトレーンの隅に座っていた女性。
司会「今回の件、プロデューサーとして驚かれたんじゃないですか?」
硝子ノ「それはもう、驚きましたわ。田沢くんがあんな目に遭うなんて。私、責任を感じてしまって」
司会「田沢さんはどこで見つけてきたんですか?」
硝子ノ「コルトレーンというJazz喫茶で、アルバイトしながら歌っていたの。彼の歌を聴いた瞬間、これは本物だと思って。すぐに声をかけたわ」
日和(心の声)(……あの人が、田沢さんのプロデューサーだったのか)
日和はスマートフォンを手に取り、コルトレーンの番号を押した。
綾香「……もしもし」
日和「綾香さん、はるちゃんの炎上、見ましたか。何か聞いてますか?」
綾香「……私もわからないの。田沢さんとも連絡が取れなくて。遥ちゃんにも電話したんだけど、出なくて……炎上後じゃ仕方ないよね」
日和「硝子ノさんって、店に来たことありましたよね?」
綾香「……うん。以前来たことがあって、田沢さんと話してたんだけど……その時は、ただの感じの悪いお客さんだと思ってた」
日和「硝子ノさんが、田沢さんをスカウトしたんですね」
綾香「……うん、テレビではそう言ってるよね」
電話を切った後、日和はもう一度テレビを見つめた。
日和(心の声)(はるちゃんが、田沢さんを殴った?でも、あの二人は仲が良かったはずなのに……何かが、おかしい)
*
コルトレーンに一通の書類が届いた。店の借用書がCPEに買い取られたという通知だった。綾香は、その紙切れ一枚が持つ意味の重さを、じっと考えていた。
*
フェニックス・レコード、鳳のオフィス。
深夜、鳳は一人、デスクに突っ伏していた。
机の上には、遥との契約書と、CPEから送りつけられてきた書類が並んでいる。スポンサー各社からの契約解除通告。主要メディアへの出演停止要請。
鳳のスマートフォンが震えた。画面には「硝子ノ」の名前。
鳳「……」
出ない。でも、また鳴る。
鳳「……もしもし」
硝子ノ(電話越し)「鳳さん、賢い方だと思っていたけれど。今夜中に返事をいただかないと、明日の朝には動きますわよ」
鳳「……遥は、何もしていない。あなたが仕組んだことくらいわかっている」
硝子ノ(電話越し)「証拠は? 世論はすでに彼女を裁いています。あなたが守ろうとすればするほど、フェニックスの他のアーティストや社員が道連れになる。……賢い選択をなさい」
鳳は、しばらく沈黙した。
鳳「……遥に、俺から話す」
電話を切り、鳳は拳を握りしめた。
鳳「……すまない」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
*
ステンドグラスから差し込む月光が、冷たい床に歪な模様を描いていた。
遥は、誰もいない教会の告解室に一人、座り込んでいた。
遥「……神様、やっぱり私には、右の頬を差し出すなんて無理みたいです」
震える声は、悔恨というよりは、自分の血の気の多さに対する自嘲に近いものだった。
暗い木箱のような空間の中で、彼女はこれまで一度も解いたことのなかった祈りの指を、ゆっくりとほどいた。そして、田沢を殴った拳の痛みを確かめるように、強く握り直した。
遥「これが、あなたが私の中に作った本当の鼓動です。静かな祈りの中にあなたはいない。この拳の熱さの中にしか、私はあなたを感じられない。……だから私は、この汚れを背負ったまま、私の音を鳴らします。許さなくていい。ただ、見ていてください」
光が、ゆっくりと色を変えていく。遥はしばらく、その光を眺めていた。
*
しばらくして、日和は偶然SNSで見つけた。東京の隅にある小さなライブ会場で、遥がジャズドラムを叩くという告知だった。日和の心が、久しぶりに弾んだ。演奏が終わった後、日和は勇気をふりしぼり彼女の楽屋へ足を運んだ。
日和「私またはるちゃんが音楽をやってるのうれしいです。またはるちゃんに歌ってほしいです。」
遥「んー。私はもうみんなのためには歌わないんだ。ありがとう」
日和「え?」
日和の思考が止まった。
目の前にいる憧れの人は、スティックをケースにしまいながら、どこか遠くを見るような目をしている。テレビで叩かれていた時よりも、ずっと静かで、ずっと深い絶望の中にいるように見えた。
日和「……なんで、ですか? あんなに素敵な歌なのに。みんな、待ってるのに」
遥「みんなって、誰?」
遥の声は、低く、乾いていた。
遥「面白おかしく噂を流す人達? んー勝手に期待して、勝手に失望する人達? ……私は、ただのドラム叩きに戻るだけ。」
日和は、何かを言い返そうとして、喉の奥が熱くなった。
自分の背中を押してくれたあの歌が、あの言葉が、当の本人の口から否定されていく。
日和「……そんなの、悲しいです」
絞り出した声は、遥に届いたのかもわからない。彼女は一度もこちらを振り返ることなく、重い扉の向こうへと消えていった。
一人残された廊下。
日和の胸の中にあった「熱」が、ゆっくりと冷えていくのがわかった。
憧れていた。あんな風に、剥き出しの自分で世界と戦える人になりたいと。でも、その本人が戦うことをやめてしまった。
日和(心の声)(私の信じていたものは、なんだったんだろう……)
手に持っていたライブのチラシが、指先から滑り落ちた。
世界が、また色を失っていく気がした。
日和はふらふらとライブハウスを後にした。夜の空気は、いつになく冷たかった。
*
それから数日が経った。東京の噴水広場で、ギターを弾いている男性を見かけた。テレビで見た顔だった。日和は思わず近づいていた。
日和「……あの、もしかして凛さんですか? 遥さんと一緒にステージに上がってた。私、はるちゃんのことが好きで応援していたんです。……すごいギターも歌も上手で、驚きました」
凛「へぇ。……俺、あいつの曲書いてたんだよ。『Grace of Love』以外」
日和「え……そうなんですか!?」
凛「家が近いんだ。それに、歌を歌うことに理由は必要かい?」
日和「それはそうですけど……いや、驚いちゃって」
凛「ふ……」
ギターをぽろぽろ弾く。
日和「……私、弾きながら歌えなくて。でも、遥さんの曲が大好きで……あの歌に、背中を押してもらったんです。だから、一緒にバンド組んでいただけませんか?」
凛「んー……てか、はぁ……? いや無理。なんていうか……君のこと、なんにもわかんないし。」
日和「そうですよね。...すみません。急に…。歌とってもよかったです。これでジュースでも買ってください」
100円を置いて帰ろうとする日和。
凛「お、おう...あれ?君ってさ、もしかして...この前動画で見た気がするな...?」
日和「はい私、はるちゃんの歌ってみたを上げたことがあります。」
*
凛「(ジュースを飲みながら)なんで遥が好きなの?」
日和「昔、喫茶店でドラムを弾いてたんです。すごいかっこよかった。私はそれから彼女を追いかけてたんです。メジャーデビューでギターを弾いて歌ってるのには驚きました。ドラムもギターも歌も。私の憧れです。」
凛「ふーん。(スマートフォンを見ながら)この隣の子ってアイドルの陽葵 結愛?なんでいるの?」
日和「んー…あんまり深く話せないんですけど、弾いてくれたんです。」
凛「そうなんだ。そういえば結愛の楽曲も仕事でお願いされたことがあるな。…アイドルは嫌いじゃない感じだったけど、なんか疲れてる目してたな。」
日和「ほんとうですか?結愛ちゃん元気かな…。じつは結愛ちゃんは、家出したって言ってました。私どんくさいんだって言ったら、弾いてくれたんです。」
凛「それで結愛がいるわけか……ったく。結愛が家出したり遥が炎上したり、どうなってんだこの世の中は(空き缶の中をのぞく。しばらく日和を見つめてから、空き缶をゴミ箱に放り込む)…んじゃやってみるか。バンド」
日和「本当ですか!?」
凛「勘違いすんなよ。君の歌が完璧だからじゃない。その『必死さ』、遥の曲を歌いたいっていう熱意を信じてみたくなっただけ」
日和「ありがとうございます! あ、じゃあバンド名、決めてもいいですか」
凛「今決めんの?」
日和「決めたいです。……この日のためにずっと考えてました。『いつかこの声が届くまで』にしたいです」
凛「長いな、なんでそれにしたいの?」
日和「はるちゃんに届くまで、って意味もあるし、はるちゃんの歌を届けたい、って意味もあります」
凛「まぁそれこそお前の気持ちがいつまで続くか、俺にはまだわからない。でかいことに動く前に、まずお前が本当にやり続けられるか確かめたい」
日和「……やり続けます」
凛「今はそう思ってるんだろうけどな」
日和「やり続けます!」
凛「……まあ、いいか。略してイツコノな」
日和「イツコノ! なんかかわいい」
凛「かわいくしたつもりはないけど」
そう言いながら、凛は目の前で目を輝かせている日和をじっと見つめた。
凛(心の声)(……似てるんだよ、あいつに)
根拠のない自信と、危ういほどの純粋さ。かつて、まだ何者でもなかった遥が自分に声をかけてきた時の熱量が、今の日和と重なって見えた。
*
雨上がりのアスファルトの匂いが漂う路地裏で、まだあどけなさが残る少女が、初対面の凛に向かってこう言い放った。
遥「あんたのギター、聴いたよ。……魂が震えた」
遥「鳳さんから話は聞いてた。でも、実際に聴いて確信した。私の歌と、あんたの音で、世界を歩きたい。……ねえ、私と一緒にやってみない?」
その時の遥の瞳は、今の日和と同じように、真っ直ぐに燃えていた。
凛(心の声)(……あんなに綺麗だったものが、あんな風に壊れるなんて、思ってもみなかったな)
凛は小さく息を吐き、目の前の日和を見た。
*
後日、スタジオにて。
凛「……で、なんでスタジオ借りたの」
日和「バンド組んだんだから、スタジオでライブするじゃないですか」
凛「……お客さん、どこから来んの」
日和「……」
凛「告知もしてないし、そもそもここ、一般の人入れないから」
日和「……知らなかったです」
凛「昨日決まったばかりなのに、もうスタジオ取ったのか」
日和「なんか、夜興奮して眠れなくて……朝一で予約しちゃいました」
凛「……お金、かかっただろ」
日和「……はい」
凛「……わかった。せっかく借りたんだから、練習も兼ねて動画撮ろう。宣伝になるし」
日和「ありがとうございます……!」
*
日和「凛さんありがとうございました」
凛「ネットに動画を上げよう。お前、結愛と撮った動画以来、何も上げてないだろ。」
日和「……はい」
凛「今回撮ったお前のボーカルと俺のギター、それだけで十分宣伝になる。チラシよりネットの方が今は効果あるし、拡散されれば一気に広まる」
日和「ポケットティッシュとかどうですか。イツコノって印刷して配ろうかと思って」
凛「……まあ、その発想は嫌いじゃないけど、今じゃない」
日和「そっか…」
スタジオを出ると、建物の入り口付近で言い争う声が聞こえた。
日和「ん?」
男「……なぁ、ちょっと待てよ。今日くらい、ちゃんと話そうって言ったよな?」
真衣「話すことなんてないよ。もう……無理だって言ったでしょ」
日和は足を止める。街灯の下、男に腕を掴まれている女性の顔を見て、息を呑んだ。
日和(心の声)(……あ! あの時の、はるちゃんの隣にいた……!)
男「無理って……なんだよそれ。俺たち、2年だぞ?"気持ちが冷めた"で終わりにできる関係じゃないだろ」
真衣は腕を引くが、男は離さない。
真衣「痛いってば。離してよ」
男「離したら逃げるだろ。なんでだよ。俺、何かしたか?」
真衣は言葉に詰まる。
真衣「……そういう"重さ"がしんどいの」
男の声が少し荒くなる。
男「重さ? 2年付き合ってて"重い"ってなんだよ。誰かできたのか?」
真衣が小さく震える。
真衣「ほんとに痛いって……やめてよ」
凛「……やめとけよ」
男が驚いて振り返る。
男「は? 誰だよお前」
凛は真衣の腕をそっと引き寄せ、男との距離を作る。
凛「通りすがりだけどさ。"痛い"って言ってんの聞こえなかった?」
日和「私、スタジオの人呼んでくる!」
男「うるせぇな!(凛の首を掴もうとする)」
凛はそれをいなし、真衣を背中に隠す。
数分後、日和がスタジオスタッフを連れて戻ってくる。
スタッフ「すみません、何かありましたか」
日和「こっちです!」
男「ちょ、待って……スタッフって……」
スタッフ「落ち着いてください。状況を確認させてもらえますか」
男「いや、違うんです。俺たち付き合ってたんです。ただ話したくて……」
スタッフ「まずは離れてください」
凛「日和」
日和「うん?」
凛「ここ、任せた」
日和「え?任せるって……」
凛「巻き込まれる前に行くよ」
真衣「え、でも……」
凛「大丈夫。日和が説明する」
凛、真衣の手を握って歩き出す。
スタッフ「あ、そこの二人!」
日和「大丈夫です!二人は関係ない人です!」
スタッフ「ほ、ほんと……?」
日和「はい!私が説明します!」
男「……なんで俺だけ残されてんだよ……」
スタッフ「まずあなたから事情を聞きます。落ち着いて話してください」
男「……はい……すみません……」
日和「はじめに、私はここをなにげなく通り過ぎたときに、二人は口論していました」
日和は妙に堂々と説明を始める。
*
真衣「あーもう大丈夫。ふー疲れちゃった。」
凛「ここまでくれば大丈夫かな。あーなんかごめん。急に走り出したりして。あの展開は長くなるし。……あ、俺、氷室 凛。」
真衣「穏田 真衣。ありがとね、助かった。」
真衣「あーあこれじゃーバンドも解散かなー」
凛「へーそういやそれ(指をさして)はギターですか?」
真衣「これはベースだよ。いやー、重かったぁ……」
真衣「ありがとね。助かった。」
体重を預けた拍子に、凛の首筋から微かに甘い香りが漂った。少年のように振る舞ってはいるが、間近で見る肌の質感や、服の隙間から覗く鎖骨の細さ。
真衣(心の声)(……なるほど。そういうこと)
真衣はすべてを察したように口角を上げると、凛の耳元で「面白い子」と小さく囁いた。
凛「……っ、あ、ベース重いよねーそれ持とうか?」
真衣「ありがとね。……あれ、そういえば」
凛「?」
真衣「近くに行きつけの喫茶店があるの。よかったら寄っていかない? ちょっと話したいことがあって」
凛「はい?」
真衣「私奢るわ、これはお礼ってことで」
凛「はー。」
*
コルトレーンに入る。
綾香「あら真衣ちゃんいらっしゃい。今日は?」
真衣「……なんか、疲れちゃって。コーヒーよろしくねー2つ」
綾香「あら、お連れさんも。ちょっと待っててね」
凛「へーJAZZ喫茶じゃないっすか」
凛のスマホが鳴る。スマホに日和の文字。
凛「あ、もしもし。あーごめんねー、うん、うんうん、そうなんだ、了解、うん、いまねコルトレーンって喫茶店にいるから。グングルマップ使って来て、はいじゃぁまたー」
電話を切る。
真衣「あー...さっきの子?悪かったねー...」
凛「仕方ないっしょ、ちょっと遅れるみたい」
綾香「はいお待たせね」
コーヒーを二つ置く。
真衣「ありがとう。ここのコーヒーすっごい美味しいの」
凛「ふーん。...おいしい。」
真衣「でしょ。」
凛「で、なんか話があるんじゃなかったでしたっけ」
真衣「んーと遥元気かなーと思って」
凛「どっかで出会いましたっけ?」
真衣「遥とは高校の時に一緒だったからバンドを組んでいたの、ここで初めて『Grace of Love』を一緒に歌ったのよ。だからその遥が殴ってしまった話を聞きたいなーと思って」
凛「ん~?」
真衣「あなたは...テレビで見たことがあるわ。遥の隣でギターを弾いてた。」
凛「なるほど。よく見てますね」
真衣「うん、遥のことずっと応援してたから。あの日以来連絡つかなくって。」
綾香「わたしも気になります。すみません割り込んじゃって。」
真衣「そうね。綾香さんも聴きましょう。」
綾香「テレビでは、遥ちゃんが、田沢さんの才能が憎くてとみました。」
凛「んーテレビではそう言ってるよね。どうやら、遥はカッとなって殴ってしまったみたいで、理由として、田沢龍之介がほかの女性と歩いていたのを見たからだそうです。」
綾香「そ、それは本当ですか?」
真衣「じつは、綾香は田沢さんとお付き合いしていたのよ」
凛「??」
真衣「炎上前までは、田沢さんはここで演奏しながらアルバイトをしていたの。」
凛「そうなんだ…とんでもないところにきてしまったな…」
綾香「あれ以来、田沢さんは悲劇のヒロインのような感じで…連絡がずっとなくって…。遥ちゃんとも連絡がつかなかったんです。もうなにがなんだか。」
凛「そうか…わからないけど、話せない理由があるのかもしれないな」
凛「遥から聞いたんだけど、一緒に歩いていた女が硝子ノ透子っていうCPEの代表プロデューサーだったらしいね」
綾香「……硝子ノさんと、歩いてた?」
綾香の持つコーヒーカップが、微かに震えた。
綾香(心の声)(どうしてあの場所に硝子ノさんがいたんだろ?)
綾香はカウンター裏に入っていく。
綾香(心の声)(龍之介くん……あなたは今、どこで、どんな顔をして歌っているの?)
綾香は、カウンターの裏で自分の指を強く握りしめた。
凛「あの人、大丈夫でしたかね?」
真衣「うーん」
凛「ややこしいことになってんなー….あ、今ですね、女の子とバンドを組んでいるんですよ。遥の歌に背中を押してもらったから世に広めたいんだとか。バカ正直でねー、なんかほっとけなくなっちゃって」
真衣「なにそれ…面白いじゃない。」
日和が喫茶店に到着。
日和「すみません、男の子と女の子みませんでした?あー!いたいた!ようやくついた!なに2人してコーヒー飲んで!もうここ来るまで大変だったんだから…」
凛「わりぃねーいやもうあの状況じゃどうしようもないっしょ?」
真衣「あ、この子がさっき言ってた……って、あれ? あなた、あの時の!」
日和「えっ……あ! やっぱり、遥さんの隣にいた真衣さん!?」
凛「え、知り合い?」
日和「はい、昔ここで遥さんに声をかけた時に……。わぁ、またお会いできるなんて!」
真衣「ふふ、奇遇ね。あの時の熱心なファンの子が、まさかあなたと一緒にいるなんて」
日和「日和っていいます。今は凛さんと一緒に……あ、ふつつかものですが、よろしくお願いします! またコルトレーンで再会できるなんて」
真衣「私たちって不思議な縁があるのかしら。……ねえ、二人の音楽、聴かせてくれない?」
凛と日和は顔を見合わせる。
二人はステージに立ち、『Grace of Love』を奏で始めた。凛のギターが静かに鳴り始める。そこに日和の声が重なった瞬間、喫茶店「コルトレーン」の空気が一変した。
真衣は、目を細めた。
*
穏田 真衣は大学一年生だ。教員採用試験に向けて勉強に励む日々を送っている。いつか教壇に立ちたいと思っている。ただ、自分の気持ちに、まだうまく名前をつけられずにいる。
彼女が、自分の中にある感情の輪郭をぼんやりと悟ったのは、高校時代のことだった。
きっかけは文化祭。一人でギターを抱え、体育館の隅で歌った弾き語りだった。その演奏を、射抜くような瞳で見つめていた少女がいた。同級生の遥だ。「一緒にここで演奏しよう」強引に連れて行かれたのは、路地裏の喫茶店「コルトレーン」だった。店主と仲が良い遥は、定休日に店を借りて練習していた。
二人の練習の日々が始まった。定休日のコルトレーンで、遥にギターの基礎を叩き込んだ。ギターのコードが鳴らなくて悔しがる彼女に、真衣は指の押さえ方を優しく教えた。
真衣「こうだよ。力を入れすぎないで」
遥「教え方うまいね。さすが将来の先生だね」
遥が照れくさそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間、真衣の胸の奥が静かに締め付けられた。
コルトレーンの空気も、隣にいる遥の体温も、すべてが愛おしかった。
真衣の隣には、高校時代から付き合っている恋人がいた。二人は趣味でバンドを組み、週末には小さなライブハウスで演奏を楽しんでいた。
けれど、彼と音を合わせるたび、何かが決定的に違っていることを痛感してしまう。遥と過ごした、あの息が止まるような熱量。その記憶が、今の平穏な日常をどこか色褪せたものに見せていた。
ある定休日、遥はギターを抱えてステージに立った。
遥「ちょっと曲書いてみたんだ。今日は真衣に聞いてほしくて」
真衣「え、もう曲書いたの?」
遥はそれには答えず、静かにギターを鳴らし始めた。
それが、「Grace of Love」だった。
*
日和、凛、真衣の3人で夜の道を歩く。
真衣「……ねえ、私も入れてもらえない?あなたたちのバンド」
日和「え?」
真衣「ベースならできるし。それに、遥のこと、このままにしておけなくて」
凛「……まあ、いいか。バンドと言えばベースだよね」
日和「やったー! よろしくお願いします、真衣さん!」
真衣「こちらこそ。よろしくね」
しばらく三人で歩いたところで、道が分かれた。
日和「私はここで、またね!」
凛「あ、そうだ。日和」
日和「なに?」
凛はポケットをごそごそ漁って、鍵を一本取り出した。
凛「これ、渡しとく」
日和「……なにこれ」
凛「俺の部屋の鍵。フェニックスが制作用に貸してくれてる部屋なんだけど、防音もしっかりしてるし、キーボードもギターも置いてある。練習したいときとか、俺がいなくても好きに使っていいから」
日和「え、いいの?そんな気軽に渡して」
凛「まあ別に。どうせ俺一人じゃ持て余してるし」
真衣がその様子を見ていて、軽く手を挙げる。
真衣「私は?」
凛「……なんで真衣にも渡さなきゃいけないんですか」
真衣「だってもう仲間でしょ」
凛は少し間を置いてから、ため息をついた。
凛「……日和、あとで合鍵作って渡してやって」
日和「わかった!」
真衣「ありがとう、凛くん」
凛「くんはやめてください」
日和は別の道を進んでいく。凛と真衣の二人。
しばらく歩いたところで、凛のスマホが鳴った。
画面には「鳳」の文字。
凛「あ、もしもし」
鳳(電話越し)「凛、今どうしてる。最近、遥の件でいろいろあって、フェニックスもしばらく厳しい状況が続く。お前の制作活動に影響が出るかもしれない」
凛「……わかりました」
鳳(電話越し)「……何かあれば言えよ」
電話を切って、凛は空を見上げた。
凛(心の声)(……「何かあれば言えよ」か)
真衣「……誰?」
凛「フェニックスレコードの人」
真衣「凛は、フェニックスレコードと契約してるんだね。遥は今どうしてるの?」
凛「……Jazzドラム叩いてる。フェニックス所属のままだけど、歌手活動は止まってる」
真衣「……そっか」
二人はしばらく、黙って歩いた。
凛「なんかきょういろいろあったな…。あー、聞き忘れてた。なんであの人と別れたの?2年つきあったんでしょ?」
真衣「んー、そうね…彼は情熱的で、真っ直ぐで…」
凛「うんうん」
真衣「一緒にいれば守られているような安心感があったかな。でもね」
真衣は夜風に髪をなびかせながら、耳元でこう囁いた。
真衣「……気持ちよくないのよ」
凛「……え」
驚く凛を置いて、真衣はいたずらっぽく微笑む。
真衣「音楽も恋も、響かないものは続けられないでしょ?」
*
数日後、凛のスタジオで三人がだらだらしていた。
日和はソファに寝転がりながら天井を見ている。真衣はベースを膝に乗せたまま、チューニングをいじっている。凛だけがテーブルで何かを考えていた。
日和「わたし、炎上した後にはるちゃんのJazzドラム見に行ったんだ。」
真衣「そうなんだ!どうだったの?」
日和「また歌ってほしいって言ったんだけど、はるちゃんはもう歌わないって言ってた」
凛「まぁあれだけ叩かれれば誰だって嫌になるよ。」
日和「……ねえ、はるちゃんの曲をテレビで歌うって、どうしたらできるんだろう。有名になったら、はるちゃんと一緒に舞台に上がりたい」
真衣「きっかけがないとね。私たちだけじゃ、まだ力が足りない。」
凛「……そうなんだよな」
しばらく沈黙。
そのとき、凛のスマホが鳴った。
凛「あ、ちょっと待って。……もしもし」
桐島「帝国レコードの桐島です。凛さん。以前楽曲を書いてくれたのは君だったよね。君に、また陽葵 結愛の新曲を書いてほしいんだ」
凛「……陽葵の新曲、ですか。わかりました。お引き受けします」
電話を切った後、しばらく画面を見つめてから、独り言のようにつぶやいた。
凛「しっかしすごいタイミングだな」
日和「どうしたの?」
凛「結愛の新曲、書いてほしいって依頼が来た」
日和は跳ね起きた。
日和「結愛ちゃんの新曲……!? 凛、私も一緒に行きたい。お願い」
凛「言うと思ったよ、あとで連絡してみるか」
真衣「日和、でもこれは仕事の打ち合わせよ」
日和「わかってる。でもどうしても会いたい。今の私たちの音楽を見てほしいんだよ」
凛は日和の真剣な眼差しをしばらく見てから、ため息をついて頷いた。
凛「わかった。せっかくだし真衣も一緒に行こう。なにか面白いことが起きそうだし」
真衣「ふふ、いいわね。アイドルの現場なんて初めて。」
*
スタジオの重い扉を開けると、そこには以前よりもどこか影を帯びた、けれど芯の通った立ち姿の結愛がいた。
日和「結愛ちゃん!久しぶり!」
結愛「日和さん……!また会えるなんて」
結愛の顔に、自然と笑顔がこぼれた。壁際で見ていた桐島が、少し驚いたように目を細めた。
結愛「それに、凛さんも」
凛「久しぶり」
凛はギターケースを置きながら、静かに告げた。
凛「結愛、君の新曲を書くことになった。……今日は、俺の仲間も連れてきた」
結愛「演奏……動画で見たわ。すごくかっこよかった」
真衣「はじめまして。日和ちゃんから話は聞いてたわ」
結愛「三人に会えて、嬉しいです」
桐島が手元の端末を操作しながら歩み寄った。
桐島「……なるほど。凛さん、この三人のYouTune動画、これは君がプロデュースを? 非常に数字がいい。それから以前の日和さんと結愛のデュエット動画、これも今でも再生数が伸び続けているね。こちらでも結構話題の動画だったんだ」
桐島は結愛と三人を交互に見つめた。
桐島「結愛、君は今の仕事を完璧にこなしている。だが今の君には、新しい刺激が必要なのかもしれない。……どうだろう、この三人のバンドに、君が『ピアノ』として参加するというのは。単なる楽曲提供ではなく、ユニットとしての新プロジェクトだ。これなら上も納得するだろう」
結愛は驚いたように日和たちを見た。
結愛「私が、ピアノで……?」
真衣「いいね。結愛ちゃんのピアノ、一度聴いてみたかったんだよね」
日和が結愛の手を握る。
日和「結愛ちゃん、また一緒に音楽をやろう?」
結愛「……やりたいです。よろしくお願いします」
しばらくして、結愛は日和に向かって静かに言った。
結愛「わたし心配してたの……遥さんのこと、テレビで見たわ。炎上してたでしょ。日和さん、大丈夫だった?」
日和「はるちゃんがそんなことするって、何か理由があると思うんだよね。はるちゃんの歌は嘘じゃないから。はるちゃんの歌を届けたくて…それがバンドを組んだ理由なんだ」
結愛「……そう。じゃあ、一緒にがんばりましょう」
*
硝子ノが用意した、都心の夜景を一望できる最高級マンションの一室。田沢はソファの端に座っていた。硝子ノは、窓の外に広がる光の海を背に、冷たい琥珀色の液体が入ったグラスを揺らしている。
硝子ノ「……龍之介くん、顔色が悪いわね。もっと喜びなさい。君のデビュー曲は、チャートを独占しているわ」
田沢は、俯いたまま震える声で答えた。
田沢「……硝子ノさん。もう、耐えられない。テレビをつければ、僕が被害者として同情されている。遥さんは、あんなに叩かれて……。本当は、僕が綾香を裏切ったからなのに…」
硝子ノは音もなく田沢に近づき、その青白い頬を、まるで壊れやすい陶器を扱うように優しく撫でた。
硝子ノ「いい? 龍之介くん。大衆が求めているのは『真実』じゃない。『物語』なの。不遇な天才が、暴力という逆境を乗り越えて歌う。これほど美しく、金になる物語が他にあるかしら?」
田沢「でも、これは嘘だ! 僕は、綾香を……彼女を傷つけたんだ!」
田沢が叫び、その手を振り払おうとした瞬間、硝子ノの瞳から温度が消えた。
硝子ノ「……綾香、だったかしら。あの喫茶店の娘のこと? ……ふふ、面白いわね。君が今さら『真実』を話して、誰が幸せになるというの? 君は『精神を病んだ嘘つき』として業界を追放され、彼女の店はその『嘘つきの溜まり場だった店』として、好奇の目に晒される。彼女の人生を、君のちっぽけな良心のために道連れにするつもり?」
田沢「っ……」
田沢は、言葉を失った。
硝子ノは、蛇が獲物を追い詰めるような甘い声で囁き続ける。
硝子ノ「君にできる唯一の償いは、黙って歌い続けることよ。愛を捨て、罪悪感に苛まれ、その泥の中からしか生まれない『本物の絶望』を私に聴かせなさい。私への、唯一の支払いよ」
硝子ノは、田沢の首筋に腕を回し、耳元で断じるように言った。
硝子ノ「……大丈夫。君は孤独な天才として、私が永遠に輝かせてあげる。だから、もう二度と、あの路地裏のことを思い出したりしないで」
田沢は、窓に映る自分の影を見つめた。
田沢「……僕は、音楽を愛していた…はずなのに」
硝子ノ「ええ、そうね。だから歌い続けなさい。絶望という名の旋律を」
硝子ノは満足げに微笑み、グラスを傾けた。部屋は、死んだように静かだった。
*
マンションを出た田沢の前に、綾香が立っていた。
田沢「……綾香さん、なんで」
綾香「……龍之介くん、ずっと連絡がつかなくて。心配してた」
田沢は、堰を切ったように話し始めた。硝子ノに借用書で脅されていたこと。断れなかったこと。綾香を守ろうとして、かえって傷つけてしまったこと。
綾香は黙って聞いていた。
綾香「……話してくれて、ありがとう」
*
数日後
硝子ノ 透子はゆっくりと店内を見回した。カウンターの傷、古びたスピーカー、壁に貼られたセットリスト。何もかもを値踏みするように眺めてから、静かに口を開いた。
硝子ノ「……相変わらずね、この店」
綾香「……硝子ノさん」
硝子ノ「もっと、彼を狂わせるような毒のある女かと思っていたけれど、こうして見ると、ただの、どこにでもいるお嬢さんなのね」
綾香「……何のご用ですか」
硝子ノ「単刀直入に言うわね。この店、今月いっぱいで畳んでもらうわ」
綾香「……どうして。」
硝子ノ「あら、龍之介くんから聞いていない?彼はあなたを捨てる代わりに、この店を守るという約束をしていたの。でも彼、あなたに全部話してしまったでしょ。約束を破ったんだから、店を畳んでもらうわ」
綾香の喉が、ヒュッと小さく鳴った。
硝子ノは冷たく微笑む。
硝子ノ「ねえ、綾香さん。もし本当に彼を愛しているなら、あなたから彼を突き放してあげなさい。あなたがそこにいる限り、彼は『偽物の救い』を求めて、いつまでも本物の悲鳴を上げられない。……彼を完成させるのは、私の支配ではなく、あなたの『拒絶』なのよ。わたしからなにか伝えてあげようかしら?」
綾香「…結構です。私は彼を信じてますから」
硝子ノ「あら、そう…まぁいいわ。どっちにしたって、彼はもうどうすることもできないと思うけど。」
硝子ノは踵を返した。
硝子ノ「それではよろしくね」
店の扉が、静かに閉まった。
*
結愛が合流し、ついに4人となった彼女たちは、都内のライブハウスで初ライブを敢行した。結愛の加入は瞬く間に話題となり、会場の外には入りきれないほどのファンが列をなした。
ステージの幕が上がると、そこには強固な「個」の集合体があった。結愛の透明感あふれるピアノが加わったことで、日和の切実な叫びはより深い叙情性を帯び、凛と真衣のコーラスがそれを天高く押し上げる。演奏が終わった瞬間、会場を包んだのは割れんばかりの喝采だった。
その日、会場の後方に硝子ノの姿があった。
硝子ノは、その音を遠くから聞いていた。視線が、自然に結愛へ向いた。結愛の隣に、かつて詩がいた頃の記憶が重なる。
その時、日和がマイクを握り直した。
日和「……次は、私が大好きな曲を歌います」
流れ出したのは、Grace of Loveだった。
ただ好きだという気持ちだけで、日和は歌っていた。会場がその声に揺れている。
踵を返しかけた硝子ノの足が、止まった。
しばらくして、硝子ノは小さく呟いた。
硝子ノ「……くだらない」
静かに会場を後にした。
*
ライブの後、四人は凛のスタジオに戻ってきていた。打ち上げというほど大げさなものではなく、コンビニで買ってきたお菓子とジュースを並べて、ただ床に座り込んでいる。
日和「今日のお客さん、すごい数だったね……」
結愛「びっくりした。あんなに人が来るなんて」
真衣「アイドルの力ってすごいわね。ほんと驚いちゃった」
凛「お疲れ。……んー?」
凛がテレビをつける。何気なく流していたチャンネルに、夜のニュースが映っている。
ニュースキャスター「炎上から数ヶ月、新人アーティスト田沢 龍之介さんが、来週の音楽特番で生放送ライブに挑むことが発表されました」
凛「……田沢って硝子ノのなんなんだろうなー」
結愛「……ねえ、少し聞いてもらえる?私の話。硝子ノって人、私も知ってるの」
しばらく間があった。
結愛「以前、CPEと帝国が組んだ企画があって、そこで詩っていう子とユニットを組んだの。ユニット活動の傍ら、それぞれソロでもCDを出していたんだけど、ある日その現場の廊下で、硝子ノの声が聞こえてきたの」
結愛「『あなたが売れないのは、隣に結愛がいるからよ。あの子と比べられる限り、あなたは一生日陰のまま』って。それから、『でも安心して。あなたが本当に苦しんで歌えば、その悲しみごと商品にしてあげる。可哀想な脇役は、いつだって需要があるもの』って」
誰も、何も言えなかった。
結愛「私、廊下で立ち尽くしたまま、動けなかった。しばらくして事務所のドアが開いて、詩が出てきた。……泣きそうな顔をしてた。私は……なにも言えなかったわ。怖かったの。次は私の番だって思って。……だから、逃げたの。ユニットは終わった。公式には『方向性の違い』で片付けられた。……詩は、解雇されたわ」
結愛は俯いた。
結愛「……あの人は、そういう人よ」
その時、真衣のスマホが鳴った。画面には「綾香」の文字。
真衣「……もしもし」
しばらく聞いていた真衣の表情が変わった。
真衣「……わかった。話してくれてありがとう」
電話を切って、真衣は全員を見渡した。
真衣「綾香さんから。田沢さん、硝子ノに脅されてたって。店の借用書をCPEに買い取られて、それを人質に動けなかったって。綾香さんのこと守るために黙ってたんだって。」
日和「……え」
凛「……借用書を人質に」
真衣「綾香さんも、どうすることもできなくて、ずっと一人で抱えてたみたい」
しばらく沈黙が流れた。
日和「脅しているなんて、おかしいよ」
結愛「……帝国レコードなら話を聞いてくれるかもしれないわ。桐島さんに相談してみましょう」
*
数日後、結愛の仲介で桐島と会うことになった。
桐島「話は結愛から聞いた。……なるほど、田沢が硝子ノに脅されていたということか」
日和「はい。でも、田沢さんが証言しない限り、何も変わらないんです。生放送で本当のことを話せる場があれば……」
桐島「……わかった。乗ろう」
*
帝国レコードの一室。
桐島が電話を片手に、窓の外を見ながら話している。
桐島「硝子ノさん、先日はお世話になりました。実はうちの結愛が、バンドを組みまして。ええ、あの動画の日和という子です。遥のファンだったようで……今回田沢さんが生放送に出るということで、どうでしょう、対バンを組むというのは。遥を追いかけていた少女と、田沢さんの対バン、なかなか絵になると思いまして。先日のライブも上手くいきましたし。……はい、はい。ではよろしくお願いいたします」
電話を切る。
桐島「…よし行けそうだな。もしかしたら世界がひっくり返るかもしれないな」
*
硝子ノは一人で部屋にいた。デスクの引き出しを開けると、一枚のCDが出てきた。詩と結愛、二人が並んで笑っている。硝子ノはそのCDをそっと手に取り、しばらく眺めた。
硝子ノ(心の声)(……私はもう、一番よ。なつかしいわね)
静かに引き出しへ戻した。
*
日和が、教会の扉をそっと開ける。小さなステージの上、ステンドグラスから差し込む光の中で、遥がマイクの前に立っている。客席には数人の姿があった。パイプオルガンの音色に乗せて、アメージンググレースを歌っている。
日和は、音をたてないように席に座った。
歌い終わった後、遥が振り返って日和に気づく。
遥「……また来たんだね。」
日和「……はるちゃんの歌が、やっぱり好きだから。」
遥「前にも言ったけど、みんなにはもう歌わない。私の性に合わないの。」
日和「実は、話があってきました。」
遥は少しの間黙って、それから小さくため息をつく。
遥「…聞いてあげる、なに?」
日和「田沢さんのことなんだ。あの炎上、仕組まれたものだったんだよ」
遥「……どういうこと」
日和「田沢さんは硝子ノに脅されてた。コルトレーンの借用書を盾に、綾香さんを守るために動けなかったんだ」
遥はしばらく黙っていた。
遥「……それ、本当のことなの?」
日和「うん。田沢さんも、本当のことを話す気でいる。でも、遥さんの証言がないと、誰も信じてくれないと思う」
遥「……私に、あいつのために証言しろってこと?」
日和「遥さんのためでもあると思う。あの夜、何があったのか。本当のことを、世間に知ってほしい」
遥はステンドグラスの光を見上げた。しばらく沈黙が流れた。
遥「……わかった。行く」
*
日和の話を聞いた遥が、帝国レコードの一室に現れた。
久しぶりの再会。遥は扉を開けた瞬間、部屋の中を見渡して、一言。
遥「……来たよ」
真衣「遥……。やっと、会えた」
日和「はるちゃん、来てくれてありがとう」
遥「うん」
真衣「田沢くん、今夜ここに来るの。本当のことを、みんなの前で話すって」
遥「……わかった。待つよ」
しばらくして、田沢が部屋に入ってきた。扉が開いた瞬間、部屋の中にいる全員の視線が田沢に集まる。
遥「……座りなよ」
田沢「……本当のことを、話していいですか」
しばらくして、田沢はゆっくりと口を開いた。綾香に話したことを、今度は全員の前でさらけ出した。
田沢「来週の生放送、日和さんたちと対バンするって、聞きました。……でも、僕はそこで、また嘘の続きを歌うことしかできない」
日和「田沢さん、一緒にやってくれませんか?」
日和はテーブルの上に、一枚のライブのタイムテーブルを置いた。そこには、田沢と五人のバンドの名が並んでいる。
田沢「そんなことをしても、硝子ノさんが黙っていない……!」
日和「……うん。でも」
遥が田沢の肩を強く掴んだ。
遥「私も、あんたも、あの女に利用された。……ケリをつけるのはあんただ。あとのことは、私たちが一緒に引き受ける」
田沢「……わかりました。僕のすべてを、あなたたちに預けます」
*
帝国レコードの廊下。桐島と鳳が二人で立っていた。
鳳「……本当にやるんですか」
桐島「ええ。あとは当日次第だ」
鳳「……わかりました。フェニックスとして、動きます」
*
生放送当日。会場となった大型ライブホールには、一般客に交じってテレビ局のカメラが入っていた。会場とは別に設けられた関係者ラウンジには大型スクリーンが設置されており、CPE、帝国レコード、そして今後のスポンサー契約を見据えた各企業の関係者たちが集まっている。硝子ノと桐島も、その一角にいた。
予定されていた新曲のイントロが流れる中、田沢はギターを弾く手を止めた。静まり返る会場。彼はマイクを握り、カメラを真っ直ぐに見据えた。
田沢「……皆さんに、告白しなければならないことがあります。遥さんは、俺を不当に殴ったわけじゃない。俺が彼女の親友を裏切り、自ら仕組んだことなんです。当時私の隣にいたのは硝子ノプロデューサーでした。俺は、硝子ノプロデューサーに脅されていました」
会場は悲鳴に近い騒然とした空気に包まれた。
硝子ノはインカムに向かって、命じた。
硝子ノ「……音を切れ」
指示通りマイクの音は途絶える。警備員が田沢の腕を掴み、ステージの裏へと強引に連れ去っていく。しばらくして、照明が落ちた。
桐島「……今の、聞きましたか? 硝子ノさんがいらっしゃったと……硝子ノさん、本当ですか?」
硝子ノ「……」
桐島「とぼけないでください。これだけの騒ぎになった以上、彼らの証言を最後まで聞くべきだ」
硝子ノ「……証拠はあるのかしら」
桐島「証拠はもう、全国に流れましたよ。彼が今、自分の口で話したことが」
硝子ノ「あの子は、最近情緒不安定だったの。プレッシャーで、おかしなことを口走っているだけよ」
誰も、何も言わなかった。ただ、視線だけが硝子ノに集まっていた。
舞台裏。
警備員に羽交い締めにされたまま引きずられてきた田沢の前に、鳳が立ちはだかった。
鳳「……触るな」
警備員「邪魔だ、どけ!」
鳳「この子は、フェニックスの正式な対バン出演者だ。契約書はそっちにも渡してある。今この場で手を出したら、それは契約違反だ。……訴えられたいのか」
警備員が一瞬、ひるむ。
日和たちが、ステージへと進み出た。
闇に包まれたはずのステージに、突如として五人のシルエットが浮かび上がった。
硝子ノ(心の声)(……遥? 聞いていない。台本にない人間が、なぜここに)
会場がどよめく中、遥が一歩、前に出る。
遥「田沢さんが言っていたことは、本当です」
会場が、一瞬で静まり返った。
遥「私は当時、田沢さんが付き合っている人を裏切ったんだと思い込んで、とっさに殴ってしまいました。あの夜、田沢さんの隣にいたのは、硝子ノさんです」
会場が再びざわめく。
関係者ラウンジでも、誰かが小さく息を呑む音がした。
遥「今思えば、冷静になればよかった。こんな騒ぎを起こしてしまって、申し訳ありませんでした」
遥は、深々と頭を下げた。
しばらくして顔を上げると、振り返り、日和にマイクを差し出す。
遥「日和、ボーカルはあんただよ」
日和は、震える手をぎゅっと握りしめてからマイクを受け取った。会場を見渡してから、言葉を切る。カメラの奥にいる、たった一人に向けるように。
日和「私、ずっとはるちゃんの歌が好きでした」
会場が、しん、と静まり返る。
日和「あなたが今感じていることは、本当にあなたの気持ちですか?私は、はるちゃんの歌が好きだ! これは、本当の気持ちだよ!」
会場が一瞬、息を呑む。日和は息を整え、さっきまでとは違う、静かな声で続けた。
日和「…本当の自分を忘れないでね」
硝子ノは、誰もいない廊下に一人で出た。
硝子ノは、その場に立ち尽くした。
硝子ノ「……本当の…自分……? あは……あはははは!」
ステージでは、遥が力強くスティックを打ち鳴らす。
遥「じゃいくよ! ワン、ツー、スリー!」
五人の音が重なった。それだけで、会場の空気が変わった。
*
凛の部屋
凛「あ、これ見ろよ」
テレビには、経済ニュースのテロップ。
「CPE、株価大幅下落」「広告主の契約解除相次ぐ」
真衣「うわ、すごいね」
結愛「……そう」
日和「なんか、実感ないね。私たち、ただ歌っただけなのに」
凛「ただ歌っただけで世界が変わるんだから、音楽ってのは怖いもんだな」
軽い笑いが起きる。
画面が切り替わり、次のニュースが始まる。
ニュースキャスター「続いてのニュースです。先日の生放送での田沢 龍之介さんの証言を受け、かねてから暴行疑惑が報じられていたアーティスト・獅子堂 遥さんについて、所属事務所が正式に疑惑の撤回を発表しました。当時の経緯が明らかになったことを受け、SNSでは応援の声が相次いでいます」
画面には、街中のビジョンに映る遥の姿と、それを見上げる人々の様子が映し出される。
日和「……はるちゃん!」
日和が思わず立ち上がる。
真衣「よかった、本当によかった……!」
結愛「ずっと、ずっとこうなってほしかった」
凛も口元を緩めながら、画面を見つめている。
凛「……まあ、当然の結果だろ」
日和「会いに行きたいな。ちゃんとお祝い言いたい」
四人の声が、久しぶりに弾んでいた。
*
コルトレーン
綾香「……ねえ、龍之介くん、見て」
田沢、無言でテレビを見つめる。複雑な表情。
店主「……ま、世の中ってのは、案外あっさり変わるもんだ」
綾香「コーヒー、淹れ直すね」
田沢「……ありがとう」
綾香「あ、またあの歌、歌ってね」
綾香はほほえんで、カウンターの奥へ向かう。湯気の立つコーヒーの匂いが、店内にゆっくりと広がっていった。
*
ステンドグラスから差し込む光の中、遥は一人、礼拝堂の長椅子に座っていた。
手の中には、スマートフォン。ニュースアプリの通知が、いくつも積み重なっている。「獅子堂、疑惑完全撤回」「再評価の声相次ぐ」「真の被害者は彼女だった」
遥はそれを一通り眺めてから、画面を伏せた。
遥「……はーばっかみたい」
誰に言うでもなく、つぶやく。
少し前までは「気の強い、嫉妬深い女」と書かれていた同じ世間が、今度は「真実を貫いた誠実なアーティスト」と書いている。どちらも、自分が知っている自分とは、少し違う気がした。
遥「……別に、誰かのために殴ったわけでも、誰かのために黙ってたわけでもないんだけどな」
光が、ゆっくりと色を変えていく。遥はしばらく、その光を眺めていた。
*
どこかの街角。
スーツではなく、目立たない色のコートを羽織った女が、人混みの中を歩いていた。誰も振り返らない。誰も気づかない。
女は足を止めた。
近くのカフェの窓から、音楽が漏れ聞こえてきた。
聴いたことのある旋律だった。
——本当の自分を忘れないでね
女は少しの間、その場に立ち尽くした。通行人が脇を通り過ぎていく。誰も、彼女がかつて何者だったかを知らない。
やがて女は、また歩き出した。