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アンジェリ家の遺産



    第一部 相続人

     

    プロローグ

    「ロレンツォおじさんが亡くなった」

     当時、まだ婚約者であったロメオからそう告げられたのは二〇〇五年二月十八日のことだった。

    ボローニャの彼のおじさんについては何度か話を聞いたことがある。

    ボローニャの名門アンジェリ家の出身で、ボローニャ旧市街に幾つもの不動産を持つ資産家であること。

    これらの不動産はルネサンス時代の由緒ある建物にもかかわらず、長年手入れもせず放置してあるので老朽化が進み、今やほとんど廃墟のような状態であること。

    ロレンツォは貧しい人々にこの荒廃した建物をただ同然で貸していること。

    ロレンツォ自身は内気で人付き合いが苦手な変わり者で、こうした建物のひとつの最上階に独りで暮らし、猫を何匹も飼っていること。

    ロメオと母親のオクタヴィアにはささやかな愛情を示し、時々電話がかかってくること。

    難聴がひどいので電話が通じないことがしばしばあり、しかしSMSやメールなどの文明の利器とは縁遠い人なので、彼と連絡を取るには、電報を打たなければならないことなど。

    おじさんと言ってもロメオの母方祖母の従兄にあたる従大叔父である。ロメオの父親は彼が二歳の時に離婚したきり全く音信不通であったから、彼の父方の親戚と言えばその母で二年前に亡くなった、孫のロメオを息子以上に愛していた祖母以外なく、母親のオクタヴィアとその母で三年前に亡くなった祖母のレーアは共に一人娘で、ロメオ自身も一人息子だったので、ロレンツォはロメオ達母子に残された最後の親戚だった。

    「えっ――いつ?」

    私は驚いて聞き返した。ロメオの祖母が急逝した三年前から、彼の口からたびたびロレンツォの名を耳にするようになった。二年前には母オクタヴィアと共に、ロレンツォに会いにボローニャまで行っている。しかし、具合が悪いと言う話は一度も聞いたことがなかった。それどころか、この風変わりなおじに好感を寄せるロメオは、次回ボローニャに行く時は必ず君を紹介すると言っていたのだ。

    「去年の十一月九日に亡くなったんだ」

    十一月九日と言えばもう三ヶ月も前のことである。ロメオの話によれば、昨日十七日の夜、カイロリと名乗る紳士から電話があり、ロレンツォの死と、オクタヴィアが法定相続人の一人であることを告げられたのだそうだ。

    「来週中にカイロリ氏がミラノに来て詳しいことを話してくれるそうだよ」

    そう話すロメオの表情は悲しみに沈んでいた。

    「ロレンツォはまだ七十九歳だったんだよ。早すぎるよ――」

    二年前、母と共にロレンツォに会ったロメオは、その時の彼の様子を、足の踏み場もないほど散らかし放題のアートメントで荒んだ生活を送っているものの、家の修理を自らこなすほど、体力的には元気だったと言っていた。そのわずか二年後に急逝するとは、オクタヴィアもロメオも、夢にも思っていなかったに違いない。

    「昨年の夏、ロレンツォから母さんに電話があって、近いうちに僕たちに会いにミラノに来るって言っていたんだ。でもその後、全然連絡がないから、こちらから電話して僕たちがボローニャに行くって言ったら、絶対来てくれるな、私から連絡するからって頑なに拒むものだから、そのままにしておいたんだよ。まさか具合が悪かったなんて――」

    ロメオは端正な顔をゆがめた。

    これがボローニャの名門アンジェリ家の遺産を巡る、壮絶な相続争いの始まりだった。 

    この時、私はロメオのもたらした悲報を、恋人の遠縁の痛ましい訃報として受け止めただけだった。 

    しかし、このロレンツォの死によって、ミラノで、どちらかと言えば平凡な毎日を送っていた私は、壮絶な骨肉争いに巻き込まれ、イタリアの裕福層に渦巻く人間の欲と闇に飲み込まれていくのだ。 

    友人のナーディアから遺産の鑑定を行った土地測量士のファルネーゼ氏まで、この話を知る知人は皆、口を揃えてその稀有な経緯を書き残すべきだと私に勧めた。 

    「絶対に書き残すべきよ。長年、弁護士をやっているけれど、こんなケースにぶつかったのは初めてだわ」 

    特に弁護士として私達を支えてくれたナーディアは、彼女の特徴である、いささか弁論家めいた、熱烈で説得力のある口調で主張した。 

    「まるで映画が小説のような話だわ。こんなことが、あなたの身にふりかかるなんて――まだ信じられない」 

    ナーディアは善意の中に軽い羨望を込めて、「信じられない!」と何度も繰り返した。 

    確かに、わたしにはこの話をまとめる資格があると思う。なにしろ、私は様々な人々を巻き込み、ボローニャの有力者達を虜にさえした、この波乱に満ちた遺産争いの発端から始終渦中にいて、その顛末をしっかり見届けたのだから。 

     


    第一章 訃報


    カイロリ

    二〇〇五年二月二十五日、ピエトロ・カイロリがミラノのオクタヴィアを訪れた。

    ロメオの母オクタヴィアは小柄ながら往年の大女優クラウディア・カルティナーレを髣髴させる面差しの美しい女性である。中学校の数学教師であるオクタヴィアは美貌だけでなく教養と知性にも恵まれた女性であったが、内気で社交嫌いな性格から、離婚後はずっと独りであった。そのためか常に物憂げな悲しげな雰囲気が付きまとっていた。 

    オクタヴィアは大きな黒い瞳に半ば怯えたような表情を浮かべてカイロリを迎えた。

    カイロリは八十歳を軽く越えている年配の老人で、ずんぐりと太った大きな身体に満月のように丸い赤ら顔の紳士だった。

    当初、オクタヴィア、ロメオ母子は、この老紳士を裁判所から派遣されてきた人間だと信じていた。というのも、カイロリはその真の素性をなかなか明らかにせず、常に公証人である彼の妻の肩書きを実に巧妙に隠れ蓑にしていたからだ。世間知らずなオクタヴィアは公証人である妻の代理でやって来たと言う、この身なりの正しい愛想のいい老人を少しも疑わなかった。私達がこの謎の紳士の真の素性を知ったのはずっと後のことである。

    「ロレンツォ氏は昨年の秋ぐらいから突然衰弱しましてね。入院先の病院で亡くなったそうですよ」

    カイロリは丸々と太った身体をゆすりながら、オクタヴィアにそう報告した。 

    「夏の終わりにわたし達に会いに来たいと電話してきたんです。その後、全然連絡がないので電話して会いに行くと何度も言ったのに、来るな、来るな、こちらから連絡するからの一点張りで――」

    オクタヴィアは声を詰まらせた。

     

    「お気持ちはお察しします。アンジェリ氏は昨年の夏ぐらいから誰にも会いたがらず、身体も洗わず、食事も摂らずに独りきりで家に篭っていたようです。入院してからも、もはや生きる気力がなく、最後は人生に疲れ切って亡くなったようなものですよ」 

    オクタヴィアはたまらず嗚咽した。ロメオは涙こそ流さなかったが黒い瞳に深い悲しみを湛え、母の手を握った。カイロリはいかにも同情するように目を細めながら続けた。

    「アンジェリ氏とは生前何度がお会いしましたが、非常に信仰心の厚い慈悲深い人ですね。彼の所有するアパートメントのほとんどを貧しい老人や身体が不自由な人にたた同然で貸していたそうです。動物が好きで市が運営する犬の飼育所に寄付も行っていたそうです」

    「ロレンツォはお金には全く興味のない人でした。それどころか自分が生まれながら裕福であることを恥じて、罪の意識すら持っていたのです。だから人目に付かない様にひっそり隠れるように暮らしていました」
    オクタヴィアは声を震わせた。

     「アンジェリ氏にはアンジョーニと言う専属の会計士がいたのですがね。ロレンツォ・アンジェリ氏は未婚で子供や兄弟など近い親戚がいなかったので、彼の死後、遺産に関する全ての書類を裁判所に提出したんですよ。裁判所はまず遺言状がないかボローニャ中の公証人事務所に問い合わせましたが見つかりませんでした。それで家系図を遡って法定相続人を探したわけなんですよ」

    カイロリは額の汗をハンカチで拭いながら熱心な口調で言うと、革の書類鞄から家系図のコピーを取り出して広げた。

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     アンジェリ氏が亡くなった十一月九日の時点で一番近い親族は五親等の奥さん、貴女と同じく五親等のオルガ・メンギーニです」

     イロリは家系図の中のオクタヴィア・セーラの名前とロレンツォの曽祖父の孫で同じく五親等にあたるオルガ・メンギーニを示した。

     「オルガ・メンギーニはロレンツォ・アンジェリ氏が亡くなった二十日後に亡くなりましたので、オルガ・メンギーニの相続分は彼女の親族の間で分割されます。オルガの息子は既に死亡していますが、彼女の兄弟の子息、つまり姪と甥が六人います。従ってアンジェリ氏の遺産は五十パーセントが奥さんに、残りの五十パーセントがオルガの法定相続人である彼等によって相続されるわけです」

     家系図にはオルガ・メンギーニの下にジルダ・メンギーニ、レオナルド・メンギーニ、クラウディオ・メンギーニ、イザベラ・ピッコリ、ミケーレ・オルシーニ、リディア・オルシーニの名前が読み取れる。メンギーニ一族はボローニャに幾つも不動産を持つ資産家でロレンツォやロメオの祖母レーアとは異なり、欲の権化のような一族で、レーアは彼等を忌み嫌っていた。

     「オクタヴィアさん、ジルダ・メンギーニ夫人をご存知ですか?」

    ふと、カイロリが訊ねた。

     「ええ、勿論知っていますわ。会ったこともあります」

    「ふむ、それは変ですね」

    「なぜですの?」

    「いやね、私が最初に会った相続人がジルダ夫人だったんです。それでオクタヴィア・セーラさんを知っているかと訊ねたところ、会ったことはないし、確かアフリカに住んでいるはずだと答えたんですよ」

     オクタヴィアが父親の仕事の関係で少女時代をアフリカのコンゴで過ごしたのは事実である。しかし六十年代に勃発した内乱を期に、一家でイタリアに帰国している。

     「まあ、そんなはずはありませんわ」
    オクタヴィアは心から驚いたように言った。

    「ジルダとは確かに以前会ったことがあります」

     オクタヴィアは本棚から古いアルバムを引っ張り出すと、セピア色に変色した一枚の写真を見せた。そこには若かりし頃のオクタヴィアと一人の中年婦人が写っていた。

     「この人がジルダです」

    オクタヴィアは中年婦人を指した。

    「お分かりでしょう。もうだいぶ昔のことですが、ジルダはわたしを覚えているはずですわ」

     カイロリは写真を見つめると何か思案するように黙り込んだ。

    「分かりました」

    カイロリは沈黙の後、再び口を開いた。

     「この件は私にお任せ下さい。奥さんからはジルダ夫人に連絡しないようにして下さい。私に考えがありますから」

     更にカイロリは十一月にロレンツォが亡くなった際、相続人がすぐに見つからなかったので、現在、彼の財産は裁判所に指名された財産管理人が一時的に管理していることを告げた。そして次はボローニャで会いましょうと言うと慇懃に挨拶し、ボローニャに戻っていった。

     

      ◇◆◇◆◇

    オクタヴィア

     一九五〇年、三歳のオクタヴィアは両親に連れられ、当時ベルギー領だったアフリカのコンゴ(後のコンゴ民主共和国)に渡った。貴族の血を引くオクタヴィアの父アルベルトは異国の地で事業を成功させ財を築いた。

    少女時代のオクタヴィアは雄大なアフリカの自然の中でのびのびと育ったものの、生来の人見知りの激しい、極度に内気な性格は、しばしば母レーアを心配させた。 

    一九六〇年代に勃発したコンゴ動乱を期に一家はイタリアに帰国した。帰国後、間もなくアルベルトは五十五歳の若さで病死した。 

    オクタヴィアは二十歳で結婚し、翌年にロメオをもうけたが、結婚生活はわずか三年足らずで破綻し、幼いロメオを連れて母レーアのもとに舞い戻った。レーアは気丈で知性溢れる女性で、教師として働きに出ていたオクタヴィアに代わって幼いロメオを育てた。母子家庭ではあったが、アルベルトが遺した財産のおかげで当時の一家の暮らしはかなり裕福だった。ミラノの高級住宅街の贅沢なアパートメントに住み、女中を雇っていたほどだった。 

    しかしロメオが大学に進学する頃から暗雲が立ち込め始めた。物価の上昇と幾度もの投資の失敗が重なり、一家の経済状態は悪化し、レーアは危機感と不安から賭博に手を出すようになった。しかしそのことは家計の破綻に一気に拍車をかけた。気が付けば貯金を全て使い果たし、借金まで負っていた。一家は借金を返済するために住み慣れた広いアパートメントを売り払い、小さなアパートに引っ越すことを余儀なくされた。 

    その後もレーアの賭博癖は止まらず、焦燥感から今度はアルコールに溺れるようになった。

    二〇〇二年の夏、レーアは突然体調の不調を訴えた。医者にかかりたがらないレーアを説得し、無理やり病院に連れて行くと、末期の肝臓癌で、もはや手の施しようがないと診断された。

     それから十五日後、レーアは自宅で苦しみながら息を引き取った。七十五歳だった。

    レーアの突然の死はオクタヴィアとロメオ母子に大きな衝撃を与えた。一家の経済的崩壊を招いたとは言え、レーアは二人にとって重要な精神的支えであり、一家の大黒柱的存在であったことに変わりはなかった。社交的で華やかなレーアと異なり、オクタヴィアは子供の頃から内向的で繊細な性格で、友達を作らず、家に篭りがちな少女だった。そのため、強い母であったレーアに依存しているところが少なからずあった。離婚後はたびたび求婚者が現れたにもかかわらず、決して再婚せず、母の元を離れようとしなかった。

    ロメオにとって若い母に代わって彼を育て、厳しく教育した祖母はいわば父親のような存在だった。二人はレーアの死のショックと悲しみからなかなか立ち直ることが出来なかった。 

    レーアの死後、オクタヴィアを心配したロレンツォがしばしば連絡してくるようになった。二〇〇三年にはロメオ達がボローニャにいるこの遠縁の叔父を訪ね、その後も電話や手紙による通信が続いた。ロレンツォとオクタヴィアは共に人間嫌いで動物を愛し、内気で内向的という共通の性格を持ち、そのためか二人は同志のように心を通わせていった。 

    ロレンツォとの交流は母を失い、孤独感を募らせるオクタヴィアにとってささやかな慰めとなった。

     そのロレンツォが二〇〇四年の夏の終わりに突然、オクタヴィア達親子を訪ねてミラノに来たいと連絡してきた。しかしその後、連絡が途絶えたため、オクタヴィアは度々ロレンツォに電話し、ボローニャに会いに行きたいと訴えたが、ロレンツォは断固として承知しなかった。 

    「私が必ずミラノに行くから」 

    しかしついにロレンツォがミラノに来ることはなかった。ミラノに届いたのはロレンツォの訃報だった。ロレンツォの死はオクタヴィアの孤独を一層深めることになったが、同時に相続するであろう莫大な遺産によって窮迫した生活にピリオドが打てることを意味していた。   

     ◇◆◇◆◇

    親族

     カイロリの訪問の数週間後、アンジェリ家の財産を一時的に管理している裁判所の財産管理人マテオッティの案内で、アンジェリ家が所有する建物や屋敷(ヴィラ)を相続人一同で見て回ることになった。しかしながら、その日は平日で、共に教師として働くオクタヴィアとロメオは参加出来ず、何となく蚊帳の外に置かれた感じだった。 

    オクタヴィアの代理でこの「物件巡り」に参加したカイロリは、アンジェリ家の財産にはボローニャ中心街の三軒の建物の他に、ボローニャ郊外にある十六世紀の古い屋敷ヴィラや、同じく郊外にある三区画の土地と建物が含まれ、いずれも予想以上に傷んでいるものの素晴しい物件ばかりで、建物内の住居や店舗の数を合わせると百二十軒になると、嬉々として報告してきた。更に親族会や遺産分割協議については全て彼が手配するので、くれぐれもメンギーニ一族と直接連絡を取らぬようにと釘を刺した。

    しかしそんなカイロリの意向に反してメンギーニ一族が次々にオクタヴィアに連絡してきた。  

    最初に連絡してきたのは、ジルダ・メンギーニの弟のクラウディオ・メンギーニだった。クラディオはオルガ・メンギーニの遺産を巡って、既に彼等の間でもめており、おそらく訴訟になるだろうと言った後で、オルガが亡くなったことで彼等が五親等に繰り上がったのだから遺産は五十パーセントがオクタヴィア、残りの五十パーセントをメンギーニ達六人で分割するのではなく、全財産を相続人全員で七等分出来ないか弁護士に見解を訊いている所だと話した。  

    「ふざけていると思わないかい?」

    ロメオは怒りを露わにした。

    「母さんは五親等で奴等は六親等だよ。それに彼らはロレンツォと面識もなく、本来なら全く関係ないはずだったんだ」 

    実際、ロレンツォがあと二十日長く生きていれば、遺産は全てオクタヴィアが相続するはずだった。五親等のオルガ・メンギーニがロレンツォの二十日後に亡くなったためにオルガの親族達が法定相続人として滑り込んでしまったと言うわけだ。ロレンツォが七十九歳、オルガが百歳だったそうだから、なんとも皮肉な運命の悪戯である。 

    その数日後、今度はオルガの妹アンナ・マリアの孫にあたるミケーレ・オルシーニが連絡してきた。アンナ・マリアにはイザベラとアメーリアという二人の娘がいたが、アメーリアの方は既に死亡しているので、彼女の息子と娘、ミケーレとリディア兄妹が相続人に繰り上がったのだ。ミケーレは会計士で、電話の印象ではクラウディオ・メンギーニより遥かにまともだった。ミケーレはアンジェリ家所有の不動産はどれも荒廃が激しいので、全て売却して現金に換えてしまうか、あるいは少なくとも半分を売って修復費用に当てるべきであると言う彼の見解を述べ、遺産は総額一千万ユーロを下らないだろうと話した。

     三月八日、カイロリが興奮して電話をかけてきた。遺言状が発見されたと言うのだ。

    この日、カイロリと財産管理人のマテオッティはロレンツォの専属会計士アンジョーニの案内でロレンツォの住居に入り、彼が生前、重要書類を保管していた金庫の中から未開封の遺言状を発見した。いかにも信仰深かったロレンツォらしく、手書きで遺言状としたためられた封筒の中央に、十字架が描かれていたそうだ。カイロリは遺言状を開封し、内容を確認するまではまだ何も言えないと告げ、慌しく電話を切った。 

    翌日、再び電話をかけてきたカイロリは、遺言状にはオクタヴィアの名前だけが記されており、現在、公証人が検認手続きを行っていると報告した。

     しかし次の週になると彼は全く違うことを言ってきた。遺言状には確かにオクタヴィアの名前があるが、肝心の財産についての正確な記述はなく、しかも書き方が不明確で解釈不可能なため、財産分割の考察対象にはならないと言うのだ。

     ◇◆◇◆◇

    物件巡り(序)

     四月三日、私はオクタヴィア‐ロメオ母子と共にボローニャに向かった。オクタヴィアはこの日、カイロリの妻の公証人事務所で財産管理人のマテオッティ氏に会うことになっていた。私はロメオに熱心に誘われたのと、その日は土曜日だったこともあり、半分観光気分で彼等に同行したのだ。 

    ミラノ―ボローニャは距離にして約二百キロ。車だと二時間から二時間半程である。高速道路を降りて市街に向かう途中、前方の丘陵の頂に有名なサン・ルーカ聖堂が見える。空色のクーポラが朝の陽光を浴びて艶やかに輝いていた。道中、ロメオとオクタヴィアは遺言状や他の相続人についてなにやら真剣に議論していたが、私はロメオ達には悪いけれど、完全に観光気分で目を輝かしながら、窓の外の風景に見入っていた。

    ボローニャ市街に入ると赤い街並みと街の節々に残る中世時代の城壁跡が目に入った。

    かつて城郭都市であったボローニャには十二の城門があり、門を繋ぐ城壁が町を囲んでいた。現在も残るそれらの門は、街の要所で不意にその壮麗な姿を現し、ボローニャを訪れる訪問者を歓迎してくれる巨大な門番のようだった。

    城壁に沿った環状通りを走り続けるとアール・ヌーヴォー様式の屋敷《ヴィラ》が並ぶ並木通りに出た。この辺りはボローニャ屈指の高級住宅地である。その先のサン・マモロ門を通り過ぎてパンザッキ通りを左折すると、ボローニャ旧市街特有の柱廊(ポルティコ)の連なる小路がうねるように伸びている。 

    ヨーロッパで最も保存状態が良好な旧市街のひとつと言われるボローニャの中心街には、近代的な建物がほとんど見当たらない。路上に駐車された車や、ショーウィンドウを飾る今年風のファッションがなかったら、何百年昔も今もほとんど変わらないのではないかと思えてくる。

    そして、ボローニャは柱廊《ポルティコ》の街でもある。飾り気のない中世時代の柱廊《ポルティコ》、鋭角のアーチを描くゴシック期の赤煉瓦の柱廊《ポルティコ》、華麗なルネサンス時代のものや、風格あるバロック時代の柱廊《ポルティコ》等、大きさや様式が違っていても、これらの柱廊(ポルティコ)は街中の建物を繋ぎ、通りを結び、様々な様式が混じり合うボローニャの旧市街に独特の統一感を与えているのだ。

     カイロリの妻が所有する公証人事務所はアール・ヌーヴォー調の美しい建物の中にあった。

    カイロリは赤ら顔に満面の笑みを浮かべて私達を迎えると、妻で公証人のアンナ・カイロリを紹介した。カイロリ夫人は六十代の品のいい女性で、いかにも法律家らしくブロンドの髪を結い上げ、洒落たベージュのスーツを着こなしていた。

    「今からマテッオティ氏がここに来ます。相続受諾書に署名しに行くように言われると思いますが、今はまだ署名しないで下さい」

    カイロリはオクタヴィアに言った。

    「何故、署名してはいけないんですか?」

    「今はまだ、と言っているんです。と言うのは署名をすると相続税やその他の税金を支払わなければならなくなりますし、他にも色々面倒な事が出てきます。署名する時期は私が指示しますから、今は私を信じて従って下さい」

    「分かりました」

    オクタヴィアは素直に頷いた。

     胡散臭い爺さんだな――

    それが私がこの老人、カイロリに対して抱いた第一印象である。

    この時、私はこのカイロリの役回りをまだよく理解していなかった。

     ロメオは、彼の素性を公証人の夫で、この遺産問題でオクタヴィア母子に何かと親身になって力を貸してくれている人、と説明したが、そんな彼の説明も何か要領を得ていないように思われた。そして、私は本能的に彼を好きになれなかった。

    十一時になると財産管理人のカルロ・マテオッティがやって来た。マテオッティは四十代後半のがっしりとした体格をしたスポーツマンタイプの男性だった。

     「他の相続人にも説明しましたが、アンジェリ氏の不動産は荒廃がひどく、一刻も早く修復しなければならない物件ばかりです」

    マテオッティは日焼けした顔をオクタヴィアに向けた。

    「特に郊外にある屋敷《ヴィラ》は中に貴重なフレスコ画があるので文化財保護局の文化財に指定されていますが、今ではただの廃墟ですよ。私ならあんな面倒な物件は直ぐにでも売却しますね。

    現在、アンジェリ家の資産は私が一時的に管理していますが、屋根や壁の一部が崩れ落ちて通行人に怪我でもさせたら刑事責任を問われます。正直言って私には荷が重過ぎるんですよ。

    ですから私としては一刻も早く、相続人のどなたかに相続受諾書に署名して頂き、財産管理を引き継いで頂きたいと思っています。

    アンジェリ氏の銀行口座に残っているお金はわずかで、目先の修理代や経費を絞りだすのがやっとと言う状態です」

    ここでマテオッティは一息つき、話題を変えた。

    「そう言えば、先日、ライモンディと言う公証人から電話があり、彼の所にフィレツェのアンジェリと名乗る男が、ロレンツォ・アンジェリ氏と何らかの血縁関係がないか調べて欲しいと依頼してきたそうです。公証人が調べた所、ロレンツォ・アンジェリとは全く関係なかったそうですが――フィレンツェのアンジェリ氏について何か心当たりはありますか?」

    「いいえ」

    オクタヴィアは首を振った。

    「ロレンツォには兄が一人いましたが、第二次大戦時に亡くなったと聞いています。他に親戚はいないはずです」

    「そうですか。よくあることなんですよ。アンジェリ氏のような資産家が亡くなると何処からともなく、それを聞きつけて遠縁の親戚だとか、庶子だとか名乗り出て来る輩が。

    特にアンジェリ氏は息子や甥などの近い親戚がいませんからね。苗字が同じというだけで親戚だと言い出す者までいる。このあいだの、物件巡りも参加者が殺到して、バスを二台手配したほどですよ」

    「まあ――」

    オクタヴィアは大きな目を見張った。

    「あれは、親族のためだけに企画されたのだと思っていましたわ」

    「それは――」

    マテオッティは一瞬、これはまずいことを言ったという顔をした。

    「もともとは、親族だけのつもりが、どこから聞きつけたのか、ボローニャ中の事業家や有力者や建設会社が連絡してきたんですよ」

    カイロリが言い訳するように説明した。

     「皆、以前からアンジェリ家の不動産に多大な関心を持っていましたからね。ただ、ロレンツォ氏は極度の人間嫌いで、こういう連中には会おうともしませんでしたからね。彼らにしてみれば、ようやく、購入のチャンスが巡ってきたというわけですよ」

    カイロリはわざとおどけた調子でそう言って笑ったが、私には、アンジェリ家の不動産を狙うこれらの人々がロレンツォの死を待ちわびていた、という風に聞こえた。オクタヴィア達も同じように思いがしたのだろう。私達はなんとなく嫌な気分になって黙った。

     

    「あの――遺言状があると伺ったのですが」

    オクタヴィアが遠慮がちに切り出した。

    「ああ、あの遺言状は無効です」

    マテオッティは事も無げに言い放った。

    「無効?」

    「しかるべき方法で書かれていないと言う事ですよ。書き方が曖昧で解釈のしようがない。しかし、故人の最後の意思が書かれていることに変わりはないので、今、公証人に検認手続きを行ってもらっています。それが終わり次第、遺言状の写しを相続人の皆さんに郵送します。ただ遺産分割には関係ないと思って下さい」

    「そうですか――」

    オクタヴィアは小さな顔にありありと失望の色を見せた。

    マテオッティが去るとカイロリは私達を昼食に誘った。私達は事務所の下にあるトラットリアに入った。

    「アンジェリ家は元々、メディチ家とも縁の深いフィレンツェの伯爵家で、大変な名門ですのよ」

    カイロリ夫人は優雅な手つきで前菜の生ハムを切り分けながら話し始めた。

    「ボローニャにはアンジェリ家のように過去の名声や栄華を追憶しながら何もせずに暮らし続け、現代社会から取り残されてしまった貴族の末裔たくさんいます」

    カイロリ夫人は皮肉にも取れる言い方をした。

    「先祖から受け継いだ財産を守って維持するには、それなりの費用がかかりますから、財産を元手に事業を起こしたり、何か新しいことを始める必要がありますでしょう?

    でも家名だけで優雅に暮らしてこられた彼等には投資とか商売の才がないでしょうね。それで失敗して没落してしまった家もあります」

    「ロレンツォはお金には全く興味のない人でした。それどころか自分が生まれながら裕福であることを恥じて、罪の意識すら持っていたのです。だから人目に付かない様にひっそり隠れるように暮らしていました」

    オクタヴィアが抗議するように口を挟んだ。

    「確かにアンジェリ氏は非常に臆病な用心深い性格で、投資や起業の誘いを一切断っていましたから、無理な冒険をして財産を失うことはありませんでしたよ」

    カイロリが相槌を打った。

    「ロレンツォがいつか言っていましたわ。人はみんな狼だって。だからこうしてここに隠れているんだって」

    オクタヴィアが思い出すように言った。

    「アンジェリ氏は彼なりの方法で先代から受け継いだ財産を狼達から守ったのかもしれませんなあ」

    カイロリは笑った。

    ◇◆◇◆◇

    物件巡り(旧僧院)

    食事の後、私達はカイロリの案内で旧市街にあるアンジェリ家の物件を巡った。

    まず、事務所に近いサン・マモロ通りの不動産を訪れた。サン・マモロ門のすぐ外側にあるサン・マモロ通りの物件は四つの棟から成る集団住宅である。

    通りに面した一つ目の棟に開いた大きなアーチ型の通廊を通り抜けると、車が駐車された広い中庭に出た。中庭を挟んで左側に一棟、奥に二棟の二階建ての建物が並んでいる。長い間、放置されていたのは一目瞭然で、赤褐色の壁が無残に剥がれ落ちていた。

    「この物件は文化財保護局の文化財に指定ざれています。右奥の建物は十二世紀に建てられた僧院でした。今は中が小さな住居に分かれています」

    カイロリが説明した。

    「人は住んでいるんですか?」

    オクタヴィアが尋ねた。

    「勿論。アンジェリ氏が所有していた三棟には合計二十六の住居がありますが、全部人が住んでいます」

    私達は右奥の元僧院と言う建物に入った。

    入口のアーチをくぐり抜けると花壇のある小さな中庭に出た。建物は口の字型に中庭を囲み、左側の通路は柱頭に装飾が施された八角形の柱が並ぶ柱廊(ポルティコ)になっている。十世紀近く昔のものとは思われないほど鮮やかな赤煉瓦の柱の連続は、京都の伏見稲荷大社の赤鳥居を髣髴させた。

    枯寂な中庭の中央に、中世時代の煉瓦造りの古井戸が、何世紀もの間、この場所を守ってきた主のような風格で、静かに座していた。私はこの空間の持つ神聖な雰囲気に打たれ、しばらく言葉が出なかった。

    「どう?」

    ロメオの声で私は我に返った。

    「素敵ね――神秘的で、何だかタイムスリップしたみたい」

    打ったような静けさに支配された中庭の、その柱廊の影から、奥の階段から、長い修道衣に身を包んだ中世の修道士が今にもひょっこりと出てきそうだった。

    「上に行ってみようよ」

    私達は柱廊ポルティコを抜けて階段を上った。二階はいかにも僧院らしい飾り気のない広い廊下が伸び、左右に小さな扉が並んでいた。

    「ここはもともと僧院の僧庵だったのを住居にしていますから、各アパートメントにはバスルームが付いていません」

    カイロリが説明した。

    「じゃあ、皆どうしているんですか?」

    私はびっくりして尋ねた。

    「自分達で工事してバスルームを作った住民もいれば、共同のバスルームを使っている住民もいます。ここの住民はアンジェリ氏の慈悲で住まわしてもらっている年寄りや病人ばかりですから、それでも十分なんでしょう」

    カイロリは冷ややかな口調で言った。

    「アンジェリ氏が亡くなったことは、既に住民達に伝わっていますから、新しい所有者に追い出されるんじゃないかと皆脅えていますよ」

    「そんな――追い出すなんて」

    オクタヴィアは口ごもった。

    「奥さん。ここの連中は月二十ユーロ前後の普通では考えられないような安家賃でここを借りているんです。それなのにその二十ユーロすら踏み倒していた住民が何人もいました。それどころか、アンジェリ氏が家賃を催促しに訪れると鼻先でドアを閉めて門前払いを食らわしていたそうですよ。要するにアンジェリ氏の人の好さに付け込んでいたんです。そんな連中に同情することはないですよ」

    カイロリはきっぱりと言った。

     ◇◆◇◆◇

    物件巡り(ザンベッカーリ一族の館)

    私達はサン・マモロ通りの建物を出ると次の物件、バルベリア通りにあるザンベッカーリ一族の館と呼ばれる建物に向かった。

    バルベリア通りはサン・マモロ門から大聖堂のあるマッジョーレ広場に行く途中の旧市街の真ん中にあった。サン・マモロ門から先は柱廊(ポルティコ)の連なる小路が絡み合うように続いている。ここはもう旧市街なので、いかにも老舗らしい格調高いカフェや店舗が軒を並べていた。柱廊(ポルティコ)に差し込む陽光が形の異なる様々な様式のアーチの影を床面に映し、光と影の縞模様を描いている。幾何学模様にはめ込まれた大理石やモザイクで舗床されたカラフルな床面が光を映し、宝石を散りばめた絨毯のような輝きを放っていた。

     「バルベリア通りにはロレンツォが住んでいましたから、何度か行ったことがありますわ」

    オクタヴィアは懐かしそうに振り返った。

    「とても美しいアパートメントなのに、ロレンツォはいつも散らかしっぱなしにしていました」

     

    マッジョーレ広場の裏手を左に曲がるとバルベリア通りに入る。

    バルベリア通りは旧市街の高級住宅地区なので、先ほどの賑やかな通りとは打って変わって閑静な落ちついた雰囲気を湛えていた。所々に古い絵画やアンティーク家具を扱う、昔ながらの骨董品屋や画廊のショーウィンドウが見え、ここだけ時間が止まってしまっているような不思議な錯覚に陥った。

     アンジェリ家の物件は小奇麗に修復された建物に挟まれ、其処だけ取り残されように荒廃しているためにすぐにそれと分かった。

    十三世紀に建てられ、ルネサンス時代に装飾や改築が施されたと言うこの五階建ての建物は、堂々たる前ルネサンス様式の柱が並ぶ重厚な柱廊(ポルティコ)を構えていた。

    どす黒く変色した赤褐色の壁装が無残に剥がれ落ち、不規則に積み上げられた煉瓦がむき出しになっている。

    五メートルはありそうな表門の、巨大な扉の真ん中で、ドアノックのライオンが時の流れに挑みかけるようにブロンズの瞳でじっとこちらを見つめていた。

    表門をくぐると六メートルほどの通廊が伸び、その先に中庭が見えた。通廊の左側には大理石の大階段がある。

     「ルネサンス時代、この建物はボローニャの元老院議員であったザンベッカーリ家の住居でした。この建物も文化財保護局の文化財に指定されています」

    カイロリの説明を聞きながら私達は大階段を上った。

    「当時流行っていた建築様式に見られるようにこの建物も中庭を囲んだ口の字型の棟が幾つも繋がって一つの建物を構成しており、このような大階段があり、二階は主要階と言って来賓の接待やパーティーのための広間になっていました」

     踊り場の上部に聖母《マドンナ》を描いたフレスコ画がはめ込まれていた。

    二階の主要階は奥行きが五メートル程の広い廊下が伸び、突き当たりに通りに面した大きな窓が開いている。廊下の右側に高さが四メートル近くあるいかめしい扉が二つ並んでいた。

     「ここはロレンツォ氏のお父上の代までアンジェリ家の住居となっていました。この扉はもう何十年も前から使われません。向こうの棟に裏口がありますから、そこから入りましょう」

    私達は大階段を下りて通廊に戻った。

    緩やかなアーチを四方に広げた中庭の、ゴシック様式の赤煉瓦の柱が、ルネサンス色の強いこの建物の起源が、実はゴシック期に遡ることを伝えている。中庭の左側に建物に入る扉があり、カイロリがマテオッティから借りた鍵で扉を開き、私達を中に導き入れた。入口の壁は美しいレリーフで装飾され、左側に狭い階段、右側に古いエレベータがあった。

    「この建物の一階には店舗が四軒、事務所が一軒あり、店舗三軒は賃貸されています。」

    私は通り沿いにカフェとハーブショップ、それにランジェリーショップが店を開けていたのを思い出した。

    「上の階は全て住居になっています。アパートメントは全部で十二軒、いずれも百平方メートルから二百平方メートルの大きな住居ばかりです。そのうち四軒に賃借人がいて、アンジェリ氏の専属会計士だったアンジョーニ氏は四階に住んでいます」

    階段を登って二階に上がると、大きな南京錠の付いた扉があった。

     「ここが先ほどの主要階の住居に入る裏口です」

    カイロリは南京錠を外しながら説明した。入口の小部屋を通って広間に足を踏み入れた私達は、その広さと壮麗さに思わず感嘆の声をあげた。

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    床から五メートルはありそうな高い天井の一面にフレスコ画が描かれ、重そうな古いシャンデリアが吊り下がっている。広間の両側に開いた細長い扉が隣の広間へと繫がっている。宮殿の一室のように豪奢な広間の壁や天井は灰色にくすみ、古い家具が無秩序に置かれていた。テーブルや床面には書物や本が乱雑に積み上げられ、モザイク張りの床はワインの空瓶とペットボトルで埋め尽くされていた。

    私はくすっと笑った。

    「マーリンの家みたいね」

    「マーリン?」

    ロメオは聞き返した。

    「アーサー王伝説に出てくる魔王使いよ。こんな風に本に囲まれて住んでいた」

    確かにここは、魔法使いとか、伝説といった言葉が似つかわしい現実離れした空間だった。

    天使を描いたフレスコ画、ルイ王朝時代のシャンデリア、バロック様式の家具、卓上の銀の燭台と石膏の頭像、埃まみれの書物の山、細長い窓から差し込む一筋の光――

    部屋中を覆う白銀色の蜘蛛の巣のヴェールがこの場所が如何に長い間、放置されていたかを物語っていた。

    私は瓶を踏まないように注意しながら広間から広間へと進んだ。

     「アンジェリ氏はここで生まれ、両親と一緒にここで暮していました。父上のジュゼッペ・アンジェリ氏が亡くなると、建物の最上階を改装して、そこに引っ越したんです」

    向こうの方でカイロリがオクタヴィアに説明しているのが聞こえた。

     三百平方メートルはありそう――

    私は鏡板をはめ込んだ美しい格天井を見上げた。

    確かに、独りで住むにはちょっと広すぎる――

    私達は主要階の住居を出るとエレベータで最上階のロレンツォの住居に向かった。扉をあけて中に入るとツーンとした独特の臭いが鼻に付いた。 

     そう言えば猫を飼っていたんだっけ――

    私の実家にも猫がいたのでこの臭いはよく知っている。

    ロレンツォの住居は中庭に面したテラスを囲んでコの字型に展開されていた。

    ロメオやカイロリの話から、ロレンツォが大変な変り者であったことは疑う余地もなかったが、彼の住居からもそのことが遺憾なく伺い知れた。

    ガラス張りの大きな窓のある書斎の中央には大きな製図器械が置かれ、壁の黒板は一面に数式や図形が殴り書きされていた。

    壁面の書架には書類やファイルがぎっしりと押し込まれ、四方の壁には数字や文字を記したメモが隙間なく貼り付けられていた。

    扉の横には、おそらくアンジェリ家のものと思われる双頭の雄羊と冠の紋章が飾られていた。

    「ロレンツォはボローニャ工科大学の工学部を主席で卒業するほどの優秀なエンジニアだったんだ」

    ロメオが説明した。

    「でも卒業後は家に篭りっきりだったからその能力を世の中のために役立てることはなかったけどね」

    書き物机の上には本や書類に混じって石膏の手や頭像が転がっていた。

    「ロレンツォのお父さんのジュゼッペは、本業は弁護士だったんだけど、芸術家気質の人で、時間があると彫刻や絵画を手がけていたんだ。これは全部彼の作品だよ」

    「これを見てごらん」

    ロメオは壁に掛かった大きな絵画を懐かしそうに撫でた。先ほど見たサン・マモロ通りの僧院を描いた油彩画だった。

    「これもジュゼッペの作品だよ」

    壁の至る処に飾られたおびただしい数の聖人の肖像画や十字架が、ロレンツォが信仰に傾倒していたことを物語っていた。

    壁よりも窓の面積の方が広いようなロレンツォの住居は日当たりが良く明るかったが、孤独の中で死んでいったロレンツォの悲壮感が隅々に染み込んでいるようで、何とも言えない哀愁が漂っていた。

     

    ロレンツォの住居の更に階上には、広い望楼の付いた小さな屋根裏部屋があって、ここからはボローニャの街並みが一望のうちに見張らせた。

    「素晴しいわね!」

     息を呑むような美しい眺望に私は思わず溜息をついた。

    赤褐色の屋根群が赤い波のように幾重にもなって押寄せ、二本の古い斜塔が空に突き刺さるようにそそり立っていた。

    町並みの向こう側に新緑の映える美しい丘陵が広がり、空の青とボローニャの街の赤の間に鮮やかな緑のラインを引いている。その緑の傾斜の頂にサン・ルーカ聖堂のシルエットがはっきりと見えた。

     ◇◆◇◆◇

    物件巡り(ガリエラ通り)

    ロレンツォのアパートメントを後にした私達は、旧市街にある最後の物件、ガリエラ通りの建物に向かった。ガリエラ通りはボローニャ旧市街の中心、マッジョーレ広場の更に北側にある。 

     

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    マッジョーレ広場に入ると右側にサン・ペトロニオ大聖堂がその壮麗な姿を現した。高さ四十五メートル、幅六十メートル、奥行き百三十二メートルの大きさを誇るゴシック様式の大聖堂は世界で五番目に大きな教会に数えられている。巨大な屏風を髣髴させる正面《ファサード》の下半分は白とピンクの大理石で豪奢に装飾され、上半分は荒々しい土壁が剥き出しになっている。本来なら聖堂全体を大理石で覆う予定であったが、ついに実現されることのなかった、いわば未完の大聖堂である。しかしながら、華麗な大理石と飾り気のない土壁の不釣合いなコントラストが凛然とした独特の魅力を与えていた。

     マッジョーレ広場を挟んで大聖堂に対峙するように建つポデスタ宮殿はルネサンス風の甘美な柱廊(ポルティコ)の下がカフェになっていて、広場に並べたテーブルがボロニェーゼ(ボローニャっ子)や観光客で賑わっている。

    広場の左側は城砦を思わせる重厚なコムナーレ宮殿の巨大な正面(ファサード)が重々しく占拠し、宮殿の上に聳える時計塔が誇らしげに時を刻んでいた。現在、広大な宮殿の内部は市庁舎と美術館になっており、ボローニャの政治と文化の中心となっている。

    コムナーレ宮殿とポデスタ宮殿の間には海神ポセイドンの噴水が力強い姿を見せている。ボロニェーゼが親しみを込めて『巨人』と呼ぶ、この魅力的な泉は市民の憩いの場である。 

     マッジョーレ広場を通り抜けると、旧市街と新市街を繋ぐ街のメインストリート、インディペンデンツァ通りが北に向かって走っている。豪華な柱廊《ポルティコ》の下に店舗や銀行が並び、バスや車がひっきりなしに往来するこの大通りは、ボローニャで最も賑やかな通りである。 

     

    アンジェリ家の物件があるガリエラ通りは、インディペンデンツァ通りと並んで北に伸びる小路で、インティペンデンツァ通りより以前から存在したボローニャで最も古い通りのひとつなのだが、賑やかなインディペンデンツァ通りの一筋裏とは思えないほど、寂れた通りだった。

    静かという点では、先のバルベリア通りも同様だが、バルリア通りが『閑静』な表現が相応しい趣を漂わせていたのに対し、このガリエラ通りには『寂れた』という言葉が似つかわしい雰囲気がある。 

    ボローニャ最古の通りだけあって、薔薇窓と三つ葉飾りのある二連窓が特徴的なゴシック様式の建物が目を引いた。

     

    ガリエラ通りの建物はサン・マモロ通りとバルベリア通りの建物より小さく、最も老朽が激しかった。 
    十七世紀に建てられたイタリア・バロック様式の建物は、フランス・バロックのような華美な装飾はなく、簡素な造りになっていた。赤褐色の柱廊《ポルティコ》の柱は角の所々が破損し、鼠にかじられたように凸凹になっていた。 

     私達はアーチ型の木の扉を開き、中に入った。

    建物は縦長の構造で、表から想像するよりずっと広かった。入り口から長い通廊が伸び、奥に階段があった。鳩の独特の臭いが鼻につき、モザイク張りの床面は一面に鳩の糞がこびりついていた。 

    「階段の端を歩いて下さい。真ん中を歩くと崩れる恐れがありますから」

    カイロリが注意した。

    「お化け屋敷みたいね」

    用心深く階段を上りながら私はロメオに囁いた。

    「この建物は九つのアパートメントに分かれていますが、現在は完全な空き家になっています」

    カイロリが説明する。

     当然ね――

    薄暗いアーチ型の天井を見上げながら私は思った。

     幾らなんでもこれじゃあ住めないでしょう――

     

    二階は主要階に相応しくフレスコ画や暖炉で装飾された美しい住居だったが、荒廃が凄まじく、床一面にガラスが散らばっていた。折れかかった梁が剥き出しになった、深い亀裂の走った天井が今にも崩れ落ちてきそうだった。

    上の階に行くに従って鳩の糞がひどくなり、床が全く見えないほどだった。

    建物のあちこちからクークーと低い唸り声が聞こえ、

    部屋に足を踏み入れる度に鳩達が私達を目がけて威嚇するように飛んできた。

    猫屋敷ならぬ鳩屋敷ね――

    私は心のなかで呟いた。屋根の穴から入り込んで棲み付いてしまったのだろう。彼等にとって私達は侵略者である。

     

    ガリエラ通りの物件を一通り見終わるとカイロリは私達を車まで送った。

    「奥さん。私は貴方の味方です。メンギーニ一族は傲慢で狡猾な連中ですが、負けてはいけません。私は相続が奥さんに有利に運ぶように全力を尽くしますので、私を信じて、全て私に任せてください」

    カイロリはオクタヴィアの手を握ると熱心に言った。

    「ありがとうございます。わたし――独りでどうしたらいいか分からなかったので、助かります」

    オクタヴィアはカイロリを信じ切っているようだった。

    私は違和感を覚えた。

     何かが変だ――

    しかしそれが何なのか、その時はまだ分からなかった。私は車に乗り込むとぐったりと背もたれに身を沈めた。




    第二章 遺言状


    奇妙な遺言状

     


     ◆書状◆

    前略

    オクタヴィア・セーラ様

    故人ロレンツォ・アンジェリの自筆遺言状の検認調書の写しを送付致します。

    遺言状には貴女の名前が引用されていました。

    尚、裁判所が実施した戸籍調査によればアンジェリ氏が死亡した二〇〇四年十一月九日の時点で、貴女以外にもう一人、相続権のある人物(同親等)、オルガ・ジュリア・メンギーニ(二〇〇四年十一月二十八日ボローニャにて死亡)が存在したことをお知らせ致します。

     オリガ・メンギーニがロレンツォ・アンジェリの遺産相続を受諾せずに死亡した為、オルガ・メンギーニの相続権は下記の彼女の相続人に移転されます。(民法弟四七九条)

     ・   イザベラ・ピッコリ
    ・   ジルダ・メンギーニ
    ・   レオナルド・メンギーニ
    ・   クラウディオ・メンギーニ
    ・   ミケーレ・オルシーニ
    ・   リディア・オルシーニ

     

    貴女と同親等であるオルガ・メンギーニに帰属する相続分は貴女の相続分と相等しいものとします。

    従って相続受諾後、遺産は両者の間で等分に分割されなければなりません。

     

    敬具

     財産管理人カルロ・マテオッティ
    (ボローニャ裁判所)

     

      ✝ 遺言状

     私、ロレンツォ・アンジェリはその自由なる意志と完全なる良心の下、私の死に際して、以下のように取り計らわれることを希望する。

    今日まで私の財産を管理しているドメニコ・アンジョーニ氏は引き続きこの「管理」を行ない、収益から報酬として相当する金額を受け取ること。

    同氏は家賃の集金及び税金の支払いを今まで常にそうであったように紳士的な態度で執り行なうこと。

    維持費を差し引いた収益の残額のうち、五十パーセントをオクタヴィア・セーラと同氏が素性を知る或る人物の間で二等分し、残りは今後、必要となる臨時工事及び空き住居の賃貸のために積み立てること。

    可能であれば任意でキリスト教の慈善事業に寄付を行うこと。

     ロレンツォ・アンジェリ

     

    追伸

    また、私と父の世話をしてくれた女中のルイーザ・デ・サントにこれまでの奉仕の報酬として生活費(住居及び食費+ささやかな恩給)を支払うこと。この支払いはルイーザ・デ・サントが死亡するまで続けられ、必要な場合には治療費も支払うこと。 

    ロレンツォ・アンジェリ

      追伸
    私の遺体は我が愛する父の眠るアンジェリ家の墓に埋葬して欲しい。

    ボローニャ、一九七三年九月十四日
    ロレンツォ・アンジェリ

     

    ******************************

     

    遺言状を読み終わると私は溜息をついた。

    「イタリアの遺言状って初めて見るからよく分からないんだけど――」

    私は遺言状をロメオに返しながら訊ねた。

    「もう少し分かり易い書き方ってないの?」

    私達がボローニャのカイロリを訪れた数週間後、財産管理人のマテオッティから遺言状の写しと法定続人を報せる書状が送られてきたのだ。

    ロメオは苦笑した。

    「マテオッティは内容が不鮮明で法的に解釈するのは不可能だと言っている」

    「つまり無効ってこと?」

    「うん――」

    「しかも、一九七三年って――三十年近く前に書かれた遺言状じゃない。

    もっと最近のものはないの?」

    「今のところ発見されたのはこれだけなんだ。ちなみに女中のルイーザはもう十年以上も前に亡くなっているし、アンジョーニも、もう九十歳を過ぎているから財産の管理を続けるのは無理だと思う」

    「この『同氏が素性を知る或る人物』って誰のこと?これじゃあ誰のことだかさっぱりわからないわね」

    「マテオッティが言うにはイタリアの法律では遺言状で相続人を指名する場合、何処の誰かちゃんと氏名を明記しなくちゃならないそうなんだ」

    「それは当然よね。名前がないと捜しようがないもの」

    「この遺言状はその規定が守られてないので無効と見なされたらしい」

    「お義母さんの名前はちゃんとあるのに?」

    「うん。仕方ないよ――」

    ロメオは溜息をついた。 

    しかしその数日後、ロメオはやはり納得がいかないと言う顔をして家系図を広げた。

    「やっぱり母さんの方が絶対ロレンツォに近いと思うんだ。母さんは五親等で彼らは六親等以下だろう?」

    確かにジルダ、レオナルド、クラウディオのメンギーニ兄弟とイザベラ・ピッコリは六親等、ミケーレとリディアのオルシーニ兄妹は七親等である。

    カイロリによれば、ロレンツォが死亡した時点では、オクタヴィアと同等の五親等のオルガ・メンギーニがまだ生きていたので、オルガの死後、彼等が繰り上がって法定相続人になった。私達はインターネットで相続について色々と調べてみた。

    「ちょっとこれを見てよ」

    ロメオが見つけた相続に関する条項を紹介した法律のページには

    『遺言状がなく、法定相続が適用される場合、対象となる親族は五親等までである。』とあった。

    「彼等は六親等だよ。対象外なんじゃないかな」

    「そうかもしれないけど――」

    私は自信なさげに答えた。

    「やっぱり専門家の意見を訊いた方がいいと思う」

    そもそも私は法律が苦手である。しかもここはイタリアで、相続と言う未知の分野だ。分かるわけがない。

    「ねえ、ナーディアの所に行ってみない?」

    ナーディアは刑事犯専門の弁護士であり、私の大親友だ。

     恋愛で一目惚れとよく言うけれど、私は友情にも一目惚れはあると思う。ナーディアとの出逢いがまさにそれだった。その頃、私は若者ばかり数人でシェアする大きなアパートメントに住んでいて、ある日、弁護士になりたてのナーディアが新しくやってきた。

    ライオンの鬣のように豊かな蜂蜜色の髪をなびかせ、小柄ながらはちきれそうな肢体を持つナーディアは、溢れんばかりのエネルギーを全身に漲らせた、如何にも南イタリア女らしい情熱的な女性だった。実家のプーリアから出て来たばかりという彼女と、日本からやってきたばかりの私は、あっという間に意気投合し、互いに別の道を選び、離れて暮している今も私達は堅い友情で結ばれていた。

    ◇◆◇◆◇

     公証人の見解

    翌日、早速私達はナーディアが働く法律事務所を訪れた。ナーディアは相変わらず忙しそうだったが、嬉しそうに私達を迎えてくれた。姉御肌で面倒見のいい彼女は常に人を惹きつけるオーラのようなものを放っている。 

     

    私達は事のあらましを簡単に説明し、裁判所からの書状と家系図を見せた。

    ナーディアは、相続は専門ではないからと断った上で、書状と家系図を調べた。

     「つまりこう言う事ね。ロレンツォ・アンジェリが亡くなった十一月九日の時点で存在した最近親者は五親等のオクタヴィア・セーラとオルガ・メンギーニ。オルガが二十日後に亡くなってしまったので、オルガの相続人であるメンギーニ一族がオルガの相続分を相続することになった」

    「でも、彼等は六親等だよ。インターネットで法定相続人は五親等までって読んだんだけど」

    ロメオは反論した。

    ナーディアは首を振った。

    「こう言うケースを法律用語で代襲相続って言うのよ。つまり相続人の一人が相続開始前に死亡した場合、死亡した相続人の直系卑属が代わりに相続することよ。この場合、問題になってくるのはオルガ・メンギーニの五親等だから、彼等が六親等でも関係ないの」

    「じゃあ、この書状は正しいんだね」

    ロメオはありありと失望の色を見せた。

    「でも相続はあくまでも公証人の専門だから、もしこれをコピーしてもよければ、知り合いの公証人に訊いてみてあげるわよ」

    ナーディアはあからさまにがっかりしているロメオを慰めるように言った。

     翌日、ナーディアが電話をかけてきた。

    「早速、公証人の意見を訊いてみたんだけど――」

    ナーディアは大声でまくし立てた。

    「ここには遺言状があるって書いてあるじゃない。公証人はまず遺言状を見たいと言っているのよ」

    「でも無効だって言われたのよ」

    「誰がそんなこと言ったの?」

    ナーディアは怒鳴った。彼女はいつもこんな風にしゃべる。最初はびっくりしたが、別に怒っているわけではないのだ。

    「相続で最優先されるのが遺言状なのよ。遺言状がなかったり、内容が不十分だった場合に法定相続が適用されるの」

    「分かった。じゃあ遺言状を持って行けばいいのね」

    「公証人とアポを取ってあげるから一緒に行きましょう。その時に遺言状を必ず持ってきて」

    ナーディアはそれだけ言うと慌しく電話を切った。        

    その数日後、ロメオ母子はナーディアに伴われ、公証人事務所を訪れた。

    スカラ座の隣に広い事務所を構えるカルラ・アルマンディ公証人は五十歳前後の女性だった。遺言状を丹念に読み返したアルマンディ女史は驚くべき見解を述べた。

    遺言状は有効だと言うのだ。

    財産管理人マテオッティとカイロリの二人から遺言状は無効だとはっきり告げられていた二人の驚きは大変なものだった。 

     公証人いわく、遺言状はその微妙な書き方ゆえに解釈こそ困難ではあるが、確かに有効で、故人が遺言状の中で『財産』ではなく『収益』という言葉を用いていることから、ここで遺贈の対象となっているのは、不動産ではなく、故人が所有していた全ての不動産から得られる賃収入などの収入、すなわち用益権だと言うのだ。つまり、オクタヴィアには法定相続人としての五十パーセントに加えて遺言状が指定する用益権を相続する権利があると言うのがアルマンディ公証人の見解だった。更に公証人は、用益権を不動産や現金に換算することも可能なこと、正確に査定する必要があるものの、遺産全体の二十五パーセント相当になるのではないかとの見解を示し、いずれにしても大変、珍しいケースなので前例を考察し、詳しく調査する必要があると述べた。それでもこの新事実はロメオ達を大いに満足させた。

     「でも財産管理人のマテオッティはこの遺言状は無効だと頭から決め付けたのよ」

    ロメオの報告を聞いた私はこの疑問をぶつけた。

    「メンギーニに買収されていたのかもしれないわね」

    「十分あり得るよ」

    ロメオは頷いた。 

    「メンギーニ一族はボローニャでも有力な一家だから、裁判所にも知り合いぐらい居るだろうからね」

     五月になると相続人の一人、レオナルド・メンギーニが突然電話をかけてきた。相続受諾書に署名をしたと言うのだ。レオナルドは電話に出たロメオに相続人の一人である彼が相続受諾書に署名したことで、今までマテオッティが行っていた財産管理を全て引き継いだこと、遺産管理人に彼の娘の知り合いの会計士を任命したことを報告した。

     

    「アンジェリ家の不動産は実に興味深い物件ばかりで、サン・マモロ通りの物件はレジデンスやペンションにするのに理想的な造りだし、旧市街の真ん中にあるバルベリア通りの物件も何か有効に活用出来ないか今考えている所だとか、まるでもう自分のもののような言い方をするんだよ」

     

    レオナルドとの電話の後、ロメオは呆れたように言った。

    「彼が相続するのは五十パーセントの六分の一だから、せいぜいアパート二~三軒を相続するのが関の山だって言うのに」

    ロメオは笑った。

     

    レオナルド・メンギーニが相続受諾書に署名したと言う報せを受けたカイロリは上機嫌でこう言った。

    「これでこちらの思う壺ですよ。相続税は被相続人の死亡から一年以内に支払わければなりませんが、今年の十一月九日までに他の相続人が署名しなかった場合、奴が全額支払う羽目になります。いや、本当に馬鹿な男ですよ」

    しかし私はそんなにうまく事が運ぶとはとても思えなった。

    メンギーニ側の相続人は六人。レオナルド・メンギーニの相続分は八パーセント程の計算になる。八パーセントのレオナルドが相続税全額を気前良く払ってくれるなど、どう考えてもあり得ない。

     

    数日後、財産管理の任務を解かれたマテオッティから財産目録とアンジェリ家の不動産の買収を希望している法人と個人の一覧が送られてきた。

     

    ―――――――――――――――――――――――――――

    アンジェリ家財産目録

     ・ボローニャ市バルベリア通りXX番地 通称「ザンベッカーリ一族の館」五階建二棟 
    ・ボローニャ市サン・マモロ通りXX番地 旧僧院二階建三棟
    ・ボローニャ市ガリエラ通りXX番地 四階建一棟 
    ・ボローニャ市ゴベッティ通りXX番地からXX番地までの二区画 土地及び建物
    ・ボローニャ市ゴベッティ通りXX番地 通称『米の水路』土地及び建物
    ・ボローニャ市ザナルディ通りXXX番地 二階建『ヴィラ・マルヴァジア』及び土地 

    ・普通預金   C銀行ボローニャ第X支店
    ・郵便貯金   ボローニャ郵便局第X支店

     アンジェリ家所有不動産の買収を希望する法人及び個人の一覧には次の名前があった。

     

    ・公証人 ロベルト・ライモンディ ――サン・マモロ通りの物件

     

     ◇◆◇◆◇


    カイロリの正体

     五月八日、私達はカイロリのたっての希望により、アルマンディ公証人の事務所で一緒に話を聞くことになった。ロメオ親子と私に加えて公証人を紹介してくれたナーディアも同席した。

    マンゾーニ通りの歴史的建物の六階に位置するアルマンディ女史の法律事務所は、如何にも女性趣味らしく十八世紀ヴェネツィア様式の曲線を帯びた優美な調度品で飾られ、壁には印象派の明るい風景画がかかっていた。広いフランス窓からは、オペラの殿堂、スカラ座のファサードを斜め前に見晴らすことが出来る。

    アルマンディ女史は黒髪で痩せぎすの、美人ではないが上品で優雅な佇まいの女性で、丈の長い黒いウールのワンピースに、大きなトルコ石のネックレスとブレスレットと言う、おおよそ法律家らしくない装いだった。

    カイロリは丸い顔を真っ赤に上気させて慌しく登場した。

     

    全員揃ったところでアルマンディ公証人が口を開いた。

    「先日も言いましたが、この遺言状によればアンジェリ家の不動産から得られる全ての収入の五十パーセントが建物の修理や維持費に当てられ、二十五パーセントが貴女に支払われなければなりません。用益権と呼ばれるこの権利は仮に他の相続人が不動産を第三者に売却しても失われることはありません。貴女は生きている限り、不動産の所有者が誰であっても、賃収入を受け取る権利があるのです。貴女の用益権はアンジェリ氏が亡くなった時点から有効ですから、二〇〇四年十一月十日以降の賃収入の二十五パーセントが貴女に支払われなければなりません」

    オクタヴィアは目をパチクリさせながら公証人を見た。

    「去年の十一月十日からですか?」

    アルマンディは頷いた。

    「相続人の一人が既に相続受諾書に署名したといいましたね。

    署名した相続人は今までの賃収入を、責任を持って貴女に支払う義務があります。早速、法的文書でその旨をその相続人は通知するべきだと思います。これで彼も何を相続しようとしているか悟るでしょうね」

    「どういうことですか?」

    ロメオが訊ねた。

    「つまりオルガ・メンギーニの相続人達は不動産を相続しても虚有権しか有さないと言うことです。虚有権とは所有者の権能である使用権、収益権、処分権のうち処分権しかない、いわば観念的な所有権のことです。彼等は不動産の名義上の所有者になってもこれを利用することも、収益を得ることも出来ないわけです」

    「でも、売却して現金にすることは出来ますよね?」

    ロメオは訊いた。

    「勿論。でも売却するにしても彼等が売却するのは虚有権しかない物件です。買う方もそんなに馬鹿ではないですから、そう簡単に売ることは出来ないと思いますよ。現在、貴女の用益権は二十五パーセントですが、もう一人の相続人は名前も分からないわけですから、この不明な相続人の二十五パーセントの権利を貴女に移転することも可能だと思います。このことについては法律書から該当する条項を引用して公正証書を作成し、正式に貴女に五十パーセントの権利があることを証明しなければなりません」

    「用益権を不動産か現金に換算出来るかもしれないと言うことでしたが――」

    ロメオが再び質問した。

    「不可能ではないと思いますが、とても難しいですし、時間がかかります。まずアンジェリ氏の全ての財産を正確に評価しなければなりません。その上で、年間どれほどの賃収入が得られるかを推測し、計算するわけです。法律上、用益権を不動産または現金に置き換えることは大変難しいですが、他の相続人も虚有権しかない不動産を五十パーセント相続するより、彼等が相続する物件の用益権を放棄することを条件に、貴女に余分に相続させた方が都合いいはずですから、相続協議で交渉することは出来ます」

    アルマンディはここで一息つくと私達を見渡した。

    「皆さんに異存がなければ、まず十一月十日から現在までの収益の二十五パーセントを請求する法的文書を作成し、相続人のレオナルド・メンギーニ氏に送りたいと思うのですが――」

    「ちょっと待ってください」

    今まで黙って熱心に話を聞いていたカイロリは口を挟んだ。

    「公証人のおっしゃることはごもっともで、レオナルド・メンギーニに法的文書を送るのも、妙策だと思いますが、郵送される前に法的文書の草稿を私にも見せて頂けませんか?

    内容を一応確認しておきたいので」

    「失礼ですけど――」

    それまで厳しい視線でカイロリを凝視していたナーディアが口を開いた。

    「貴方はどなたですか?」

    「はあ?」

    カイロリは初めてナーディアの存在に気付いたようにジロリと彼女をにらんだ。

    「先ほど自己紹介しました通り、私はピエトロ・カイロリと言う者で――」

    「私が聞いているのはそう言うことではありません」

    ナーディアの口調は厳しかった。

    「貴方は裁判所関係の方ですか?」

    カイロリは真っ赤になった。

    「いや、私はただの不動産業者で――」

    「なるほど。では不動産業者の貴方が誰の依頼で、何の権限があって本件に関わっていらっしゃるのですか?」

    ナーディアの言葉に容赦はなかった。

    「それは――その――」

    カイロリは激しく狼狽し、しどろもどろになった。

    「私は生前のロレンツォ氏を彼の所有する土地を通じて存じ上げていました。たまたま彼が亡くなったことを知り、公証人である妻の助けを借りて相続人を捜したんです。その――例の土地を購入したいと思っていましたから――」

    カイロリは助けを求めるようにオクタヴィアを見た。

    「相続人のお一人のオクタヴィア・セーラさんが大変お困りのようでしたので、その――お力になれればと思い――相談に乗っているわけですよ」

    「つまり貴方はオクタヴィアさんの相談役と言うことですか?」

    「ええ――まあ、そんなところです」

    ナーディアは不信感を露わにして黙った。実のところ、これこそが私にずっと付きまとっていた違和感の正体だった。

     

    おおよそ、裁判所の人間らしくないこの怪紳士が何の権限があってこの相続問題をえらそうに仕切っているのか、私は最初から不思議で仕方がなかった。そして、彼の秘密のヴェールは剥ぎ取られた。不動産を扱う実業家だったのだ。どうりでこの遺産問題にこれほど熱心だったわけだ。

    ナーディアは最初からこのカイロリが気に食わなかった。後から彼女に聞いた話によれば、イタリアには、資産家や旧家の主が亡くなると、相続争いにうまく入り込んでおこぼれを預かろうと何処からともなく沸いてきて、いつの間にか相続人の相談役や代理人に納まってしまう、死肉に群がるハイエナのような連中が大勢いるのだそうだ。南部出身のナーディアは、カイロリからこの種の臭いを敏感に感じ取ったのかもしれない。

    しかし、ナーディアの忠告にも関わらず、オクタヴィアはカイロリに相変わらず頼りきりだった。

    一人娘で数年前まで母親に何もかも任せきりだったオクタヴィアは、自分ひとりで何かするということがまるでなかった女性だった。だからカイロリの親切も当然のことのように受け止めた。右も左も分からない、だからと言って他に頼る人もいないこの状況では、この際、どんなに胡散臭くてもカイロリを頼りにする以外にどうしようもなかったのだ。

    一週間後、アルマンディ女史は法的文書を作成したと報告してきた。

    しかし文書に目を通したカイロリは、内容が攻撃的すぎて宣戦布告と取られかねないので、もう少し婉曲に書き直したいと言ってきた。オクタヴィアは必要以上にメンギーニ達を刺激することを極力恐れていたので彼の申し出に同意した。

    しかしそれから二週間たっても肝心の文書は出来上がってこなかった。

    「なにをぐずぐずしているんだろう?」

    ロメオは苛立っていた。

    「彼は本当にロメオ達の味方なの?第一、元の文書はアルマンディが作成したんでしょう?

    ちょっと手を加えるだけに、こんなに時間がかかるなんて絶対変よ」

    私にはカイロリの意図が見えなかった。

    その頃、私は自分の仕事が忙しかったのと、遺産だの、不動産だのといった面倒なことに巻き込まれるのが煩わしくもあり、この相続問題になるべく関わらないようにしているところがあったのだが、ロメオはそんな私の思惑などお構いなく、その日起こった出来事を包み隠さず話してくれるのだった。

    ようやく出来上がった文書はアルマンディが作成したものより、かなり婉曲な内容になっていた。しかも差出人をアルマンディ法律事務所にして送る予定だったのを、カイロリがそれでは宣戦布告と取られて交渉がし難くなると主張したために、オクタヴィア個人の名義で送ることになった。

    このことをロメオから聞いた私は更に不信感を募らした。法律事務所名義で送ったほうが、正式文書として絶対に効力があるはずである。

    弁護士でもないカイロリが何故、そんなことまで指図するのか?私は彼に対する疑念は更に大きくなった。

    数週間後、レオナルド・メンギーニが弁護士を通じて返事の文書を送ってきた。

     

    二〇〇四年十一月九日から今日までにかかったアンジェリ氏所有の不動産の修理代及び維持費が同期間の賃収入を上回るので、オクタヴィアに支払われるべき収入はないと言う内容だった。


     ◇◆◇◆◇

    カイロリの作戦

    六月になると、ロベルト・ライモンディというボローニャでも有力な公証人がカイロリを通じてオクタヴィアに接触してきた。この公証人、ロベルト・ライモンディはサン・マモロ通りの物件の是非とも購入したいとかねがねから考えており、五十パーセントの相続人であるオクタヴィアに商談を持ちかけてきたのだ。

    当然のことながら、オクタヴィアは彼の申し出をきっぱりと拒絶した。サン・マモロ通りの建物、とくに元僧院は、ロレンツォが特に大切にしていた不動産だった。第一、遺産分割協議の行方も不透明な今、売却の話など出来ようはずもなかった。オクタヴィアの頑な態度に、ライモンディはいったん引き下がったものの、今度は公証人として彼女の力になりたいと申し出た。

     「有能な弁護士に相談なさることをお勧めしますよ」ライモンディはオクタヴィアにこうアドバイスし、自身もボローニャでも卑劣で強欲な一門として悪名高いメンギーニ一族に嫌悪の念を抱いていることを明かした。

    そして、お困りなら相談に乗ります、もし相続税など金銭面で問題がおありなら、私が力を貸してもかまいませんよ、と付け加えた。

     

    以後、ロメオの話の中にたびたびこのライモンディ公証人の名が登場するようになる。現在、サン・ペトロニオ教会の裏の高級地区に事務所を構えるライモンディは、いずれはそこをたたんで、閑静で緑の多いサン・マモロ通りに事務所を移したいと考えているようで、ロメオの話から、この相続争いの行方に並々ならぬ関心を抱いていることが伺えた。

    老獪なカイロリが奇妙な作戦に取り付かれ始めたのもちょうどこの頃だった。

    「カイロリは母さんの親等を上げる方法があるって言うんだ」

    ロメオは最初、そんな風に私に言った。

    「どうやって?」

    相続に明るくない私は、イタリアお得意の法の抜け道があるのかと、興味津々でこう聞き返した。

     

    その日、いつものように息子を伴ってカイロリの事務所を訪れたオクタヴィアをカイロリは、重大な話があると言って別室に呼んだ。帰路、オクタヴィアは深刻な表情で貝のように黙り込み、カイロリとの会話の内容を息子のロメオにさえ明かそうとしなかった。 彼女がようやくその重い口を開いたのは、翌日の朝のことだった。

     「実はロレンツォには隠し子が、正確には庶子の娘がいると言う噂がボローニャで囁かれているそうなんだ」

    ロメオは母から聞いたばかりの情報を私に伝えた。

    「ロレンツォに?まさか――」

    「それで、カイロリはもし母さんがその娘だと主張すれば、唯一の相続人になれると言っているらしいんだ。死後認知の申立をして訴訟を起こすって」

    「そんな馬鹿な。冗談でしょう?」

    私は呆れたようにロメオを見た。

    「僕も最初冗談かと思ったよ。でもカイロリは大真面目なんだ」

    ロメオは苦笑した。

    「カイロリはメンギーニというのはガレージの権利を巡って兄弟同士で二十年も訴訟で争うような、そんなクレイジーな連中だから、まともに遺産分割協議を進めたら、必ず裁判沙汰になるに違いない。そうなったら何十年かかるか分からないから、ここは母さんが一親等であることを主張して訴訟を起すのが最善策だと言うんだ。この方法なら百パーセント勝てる、メンギーニ達を確実に追い出せる最良の方法だって。

    知り合いの医師にDNA鑑定を行ってもらうって言っている――」

    さすがイタリア!

    私はその時こんな風に思った。実在するかどうかも分からない隠し子の存在を持ち出してくるなんて、すごい発想だと呆れながらも一種の感動さえ覚えたのだ。

     

    「でもDNA鑑定をして一致しなかったらどうするの?」

    「だから医者を買収して一致したと言う書類を作成してもらうんだと思う」

    ロメオは自信なさげに付け加えた。

    「――たぶん。」

     

    いやいやいや――それでは立派な詐欺ではなかろうか――

    私は頭を抱えたくなった。

     「――そんな突拍子もない話、うまく行くわけない気がするけど――」

    「でもカイロリはこの方法なら絶対に勝てると断言したらしいよ」

    「なぜ、カイロリはそこまで自信満々なの?」

     

    DNA鑑定をする医者は勿論、彼の懇意の医者に違いない――

    それで裁判長とか裁判所によっぽど強力なコネがあるのかもしれない――

     「お義母さんは何て言っているの?」

    「すっかり動揺しているよ。」

    ロメオは溜息をついた。

    「カイロリと公証人のライモンディが、よってたかってメンギーニは卑劣でどうしようもない連中で、まともに戦ったら勝ち目はないって散々脅すものだから――」

     

    目に浮かぶようだ。オクタヴィアは絶望的なほどネガティブな性格だった。

    例えば、九十九パーセント大丈夫と言われると、一パーセントの失敗する確率に全思考が集中するタイプである。しかも友達付き合いを一切せず、自宅と職場の学校しか知らない彼女は、修道院から一歩も外に出たことのない少女のように俗世から遠い世界に生きていた。そんな彼女がメンギーニ六人を相手取って戦うなど、とても無理だろうと私は思った。

    しかし、それにしてもオクタヴィアがロレンツォの庶子という話はあまりにも突飛過ぎて、この時、私は本気で取り合わなかった。

     

    七月半ば、カイロリが再びオクタヴィア、ロメオ母子に連絡してきた。カイロリはロメオに、レオナルド・メンギーニにこの遺産問題から手を引けと脅されたと話し、状況を打開する唯一の方法は、オクタヴィアがロレンツォの実子であることを申し立てる裁判しかないと主張した。

    「上手く行くわけないし、そんな話に乗らない方がいいと思うけど」

    ――ていうか詐欺だろう――

    ロメオから話を聞いた私は婉曲に反対した。私はあくまでも部外者である。

    私は最初からカイロリが気に食わなかった。

    そしてこの強引は話の進め方はどう考えてもおかしい。

     

    「でもカイロリは一年以内に全てを終わらせてみせるって自信満々なんだよ」

     

    私は何故カイロリがそこまで自信満々なのか分からなかった。どう考えても突拍子のない話である。そんな突拍子のない話が私の身近で普通に進んでいる。

    これは、ここがイタリアだからなのだろうか。私は思わず考えこんでしまった。

     

    「メンギーニは鮫のような連中だから、普通に遺産分割協議をしたら何年かかるか分からないって」

    ロメオは続けた。

    「そもそも彼等は本来なら関係ないはずだったんだ。ロレンツォがあと二十日長く生きてくれていたら、あの連中は蚊帳の外だったのに――」

    ロメオは悔しそうに唇を噛んだ。

    「でもその死後認知訴訟にはどのくらいの費用がかかるの?」

    「カイロリは訴訟にかかる費用は全て自分が払うと言っている。

    その代わり全てが無事に解決したら報酬としてメンギーニの相続分を貰いたいって言ってきた」

    「え?」

     

    私はあっけにとられて言葉を失った。カイロリの本当の狙いがようやく分かった。彼は相続争いのどさくさに紛れてアンジェリ家の財産の半分を持っていくつもりなのだ。

     

    「カイロリは僕達が希望している中心街のサン・マモロ通りとバルベリア通りの物件、それに郊外の屋敷(ヴィラ)を母さんに残し、更に現金で建物の修復代として五十万ユーロを支払うと言っている。悪い話じゃないだろうって」

    「ちょっと待って。そんな馬鹿な話はないでしょう?どうして相続人でもないカイロリがメンギーニの相続分をまるまる持っていくの?」

    「わかっているよ。僕だっておかしいと思う。でもまともに相続争いをしたら、バルベリア通りとサン・マモロ通りの物件を相続できるかどうかも怪しいんだよ」

     

    バルベリア通りとサン・マモロ通りの物件はアンジェリ家の不動産の中でも最も価値が高い物件である。そんな連中ならオクタヴィアが一番いい物件ばかりを独占するのを黙って承諾するとは思えない。

     

    「母さんはこの遺産問題ですっかり参っていて、一刻も早く終わらせたいと嘆いている。彼らと何年も法廷で争うぐらいなら相続権を放棄するとさえ言っているんだ。繊細でマイナス思考の母さんがこんな状況にいつまでも耐えられるとは思えない」

     

    ロメオは遺産よりも母オクタヴィアを心から心配していた。

    「この方法でカイロリが言うとおり一年以内で全てが解決するなら、カイロリにメンギーニの相続分を渡してもそのほうがいいと思うんだ」

     

    ロメオの気持ちは分かる。しかしこの話は怪しすぎる。第一、カイロリという人物について、私達は何も知らないのだ。あたかも裁判所の代理人のような顔をしてオクタヴィア母子の前に突然現れた。そしてナーディアの追及によって実は不動産業者であることが発覚した。

    こんな男の話に乗るべきではない――それが私の正直な見解だ。

    しかし、オクタヴィアもロメオも相続争いという、彼らにとってはあまりも非現実的な大事件に巻き込まれて感覚が麻痺しているようだった。

     

    「明日、カイロリが弁護士を連れてミラノに来るって言っている。カイロリは相当この相続問題に入れ込んでいるみたいだよ。それだけのためにわざわざミラノまで来るんだから」

    それはそうでしょう――

    何百万ユーロもの遺産が彼の懐に転がり込むかもしれないのだから――

    私は心の中で呟いた。

     

    翌日、カイロリは弁護士を伴ってミラノのオクタヴィア宅を訪れた。この時間、私もロメオも仕事だったのでオクタヴィアが一人でカイロリに会うことになっていた。

    その日の夕方、仕事を終えた私達はオクタヴィアの待つカフェで落ち合った。

     

    「それで――」

    深刻な顔で黙り込んでいるオクタヴィアにロメオが心配そうに訊ねた。

    「彼らは帰ったわ。」

    「分かってるよ。それでどうなったの?」

    「カイロリはボローニャの敏腕弁護士と言う人と一緒にやってきたわ。ものすごくこの相続問題に熱心なのね。わざわざミラノまでやって来るぐらいですもの。弁護士はニコリともしない、厳格で怖い感じの人だったわ」

    オクタヴィアはさも恐ろしそうに眉をひそめた。

    私は我慢強く彼女の話を聞いていた。オクタヴィアはいつもこうである。話の核心に到達するまでに非常に時間がかかるのだ。

    「弁護士はまず非嫡出子死後認知の申立書を作成して裁判所に提出しなければならないと言ったわ。それで訴訟が始まって、裁判官が申立を認めればDNA鑑定を行うことになるって。それで――カイロリは何も書いてない用紙を私に差し出して、書名するように言ったの」

    「何も書いてない?」

    私は驚愕してオクタヴィアを見た。

    「ええ。白紙だったわ。三十枚近くあった。申立書用の用紙で後から本文を書き込むから下のほうに書名してくれって」

    「まさか――それに署名したの?」

    ロメオは訊ねた。

    「ええ。署名したわ」

    私は呆然とオクタヴィアを見つめた。

    何をしたか分かっているのだろうか。

    オクタヴィアは続けた。

    「それでその後、一緒にカフェに行ったの。そう、このカフェよ。カイロリは上機嫌だったわ。もう大船に乗ったつもりで安心していいって」

    オクタヴィアはここで言葉を切った。

    「コーヒーを飲みながらふと母の言葉が頭を過ぎったの。『オクタヴィア、何か署名するときは何が書いてあるか必ず確認してから署名しなさい。署名してしまってからでは遅いのよ』って」

    オクタヴィアは私達を見た。

    「それで、カイロリに言ったの。やはり、こんなことは気が進まないから署名した紙を返して欲しいって」

    「それで?」

    私達は膝を乗り出した。

    「カイロリはさっと顔色を変えたわ。今まで上機嫌だったのに突然、不機嫌になって、『奥さんがそう言うのなら仕方がないですね』ってその場で用紙を破り捨てると、荒々しく席を立ってボローニャに帰って行ったわ」

    私はほっと安堵の溜息をついた。

    「これでよかったのかな?」

    とロメオ。

    「当たり前よ。白紙に署名するなんて危険すぎる」

    私は答えた。

    「今考えるとわたしは本当に恐ろしいことをしようとしていたのね。私が署名した三十枚近くの白紙に彼は何とでも好きなことを書けたんですもの。その気になれば相続権を譲渡する文面を書く事だって出来たんだわ」

    オクタヴィアはさも恐ろしそうに体を震わせた。

    オクタヴィアが去るとロメオは溜息をついた。

    「やっぱり母さん独りでこの遺産問題を乗り切るのは無理だよ。彼女は世間知らずで社会の仕組みとか全然分かってないし、相談できる友達もいない。僕達が彼女を助けないと」

    「そうね――」

    私は暗澹たる気持ちで答えた。

     

    オクタヴィアだけではない。ロメオだってずいぶん世間知らずだと思う。二人とも大学卒業後、共に教師の道を歩み、生の社会というものに触れずに生きてきたから、世紀末の没落貴族のように浮世離れしたところがある。それでもロメオは若く、活動的であったから、五里霧中の中、手探りでも前に進み、自分の手で何とか解決しようとする意欲と義務感がある。

    しかし、オクタヴィアは違っていた。母レーアの庇護の下、あまりにも守られて育ったせいか、手を差し伸べる人間あらば、これ幸いとすぐにすがりついてしまう子供のような無防備さがあった。

    だから、カイロリには最初から完全に頼りきりで、私に言わせれば、今はそれの対象がカイロリからライモンディに移行しつつあるだけで、本質的には何も変わっていないのだ。

    「僕も頑張るけど君も協力してくれる?」

    私は気分が重くなった。

    法律だの不動産だのといった事は私が最も苦手とする分野である。公証人や弁護士の話は法律用語の連続で、聞いているだけで頭が痛くなりそうだった。しかもナーディアといい、最近では頻繁に表舞台に登場するようになったライモンディといい、法律家と言うのは好戦的というか、闘争的というか、窮地に陥るほど、敵が強大であるほど、血の臭いを嗅ぎつけた獣のようにますます意気軒昂するように思われた。

    「頼むよ」

    ロメオはすがる様に私を見た。

    「分かったわよ」

    私はしぶしぶ頷いた。

     

    この一件以来、カイロリはぴたりと連絡を絶った。思惑通りに事が運ばなかったのでひとまず退散したのだろうと私は思った。

     

      ◇◆◇◆◇

    夏のひととき

     八月に入ると私達はサンレモのアパートメントでバカンスを過ごした。

    西リヴィエラの中でもフランスの国境に近いサンレモはカジノと音楽祭で有名な町である。二月に行われるサンレモ音楽祭はイタリア最大規模の音楽イベントであり、サンレモはこの音楽祭の成功によって急激に国際的脚光を浴び、一気に高級リゾート地の仲間入りを果たした。

    サンレモの顔となっているアール・ヌーヴォー様式の美しい市営カジノはタキシードやドレスをまとった紳士淑女で賑わう華麗な社交の場である。また花を主要産業とし、町全体に色とりどりの花々が咲き乱れるサンレモは南国らしい陽気さと上流社会の華やかさが交じり合う町だった。

     サンレモの家はレーアの賭博で全てを失ったロメオ達一家がなんとか売らずに保持することが出来た古いアパートメントで、海を見下ろす高台に佇むイギリス庭園の付いた二十世紀の古い建物の最上階にあった。

     

    「さっきライモンディ公証人から電話がかかってきた」

    バカンス気分にどっぷりと浸り、浜辺で寝そべっていた私はびっくりして身を起こした。

    「ライモンディ?」

     夏前から、ライモンディがオクタヴィアに頻繁に連絡してきていたのを、私はロメオから聞いて知っていた。彼は数ヶ月前から、遺言状をその筋の権威に解釈してもらい、正式な報告書を作成すべきだと彼女に助言していた。それがカイロリの持ち込んだ『オクタヴィアの親等格上げ作戦』によってしばし保留になっていたのだ。

     「うん。ライモンディはアルマンディ公証人とは司法修習生時代、同期だったんだって」

    「そう――世の中って狭いのね」

     

    ミラノのアルマンディとボローニャのライモンディが知り合いとはイタリアの法曹界も狭いものである。

     

    「この相続問題に並々ならぬ関心を持っているライモンディが是非、母さんの相談役を引き受けたいと正式に申し出てきたそうだよ。アルマンディもボローニャにいるライモンディの方が適任だと、引継ぎに同意したらしい」

    「そう――」

     

    依頼人であるオクタヴィアの知らない所で、公証人同士が勝手に引き継ぎの話を進めていることに私は違和感を覚えた。

    念願が叶い、正式にオクタヴィアの相談役となったライモンディは、夏のバカンスを返上し、精力的にこの新しい仕事に取り掛かった。

    彼は早速その筋の権威であるボローニャ大学の教授に遺言状の解釈を依頼した。遺言書に記された名前のないもう一人の相続人が持つ二十五パーセントの用益権をオクタヴィアに移転し、更にこの用益権の価値を具体的な金額に換算しようと言うのだ。

     

    九月に入ると、レオナルド・メンギーニが相続受諾の署名をするように電話で催促してきた。数ヶ月後に相続税の支払期限が迫っていたので、さすがに焦り始めたのだろう。  

     

    ロレンツォの財産管理人兼会計士だったアンジョーニが、ロレンツォの銀行口座から預金の半額を退職金として引き出して家に引き篭もってしまって、事実上連絡が全く取れない状態になってしまったのもこの頃のことである。

    この話をロメオから聞かされた時、私はいくらロレンツォ腹心の財産管理人と言っても、そんなことが許されるのかと心からびっくりした。

    話をよく聞いてみると、生前のロレンツォは自分より十歳年上のこの老会計士を盲目的に信頼し、銀行口座の名義まで共同名義にしていたらしい。

    それにしても雇い主が死亡した途端、銀行から引き出せる最高額引き出して家に閉じ篭ってしまうとは横領同然ではないかと、私は呆れ返ったが、口座が共同名義であった以上、法的には彼のした行為は不正や横領にはならないのだそうだ。

     

    「アンジョーニはロレンツォの信頼に付け込んで相当着服していたんだと思うよ。ロレンツォの口座の残高、どう考えても少なすぎるからね」

    ロメオを憤りも露わにそう付け加えた。

     

    ロレンツォの銀行口座には約三十万ユーロの預金が残されていた。彼が所有していた不動産の数と、その賃収入を考えるとあまりにも少ない金額である。

     

    「ロレンツォは経理の事から何からすっかりアンジョーニに頼りっきりだったんだ」

    ロメオはそう締めくくった。

     私はふと最初はカイロリ、今はライモンディに頼りきりとなっているオクタヴィアを思った。そして、これまでに見聞した情報やエピソードから私の頭の中で出来上がりつつあるロレンツォのイメージにオクタヴィアの姿が重なった。

    この二人は似ているかもしれない――この時、私はそう思った。

     




    第三章 メンギーニ一族

    ヴィラ・マルヴァジア

    ロメオがボローニャ郊外にある屋敷(ヴィラ)を見せてくれることになった。

    九月も中旬に差し掛かった土曜日のことである。

     

    「このヴィラはヴィラ・マルヴァジアと言って、十六世紀後半にカルロ・チェーザレ・マルヴァジア伯爵が自らの居館として建てたんだ」

    車を走らせながらロメオが説明する。

     ボローニャの市街からザナルディ通りを北上して行くと、道沿いの建物が徐々に小振りになり、建物の間隔が次第に広くなっていく。家並みが途切れてから田園の中を数百メートル進むと右側にヴィラが姿を現した。

     城壁のように厳しい煉瓦造りの壁の中央に重々しい門柱が聳え、門扉の鉄格子の間から廃墟と化したヴィラの建物が見えた。

    鉄格子には大きな錠前の付いた頑丈な鎖が巻かれ、『立入禁止。崩壊の危険あり』と書かれた札が下がっていた。

     「わあ――すごい!」

     私は鉄格子の隙間から中を覗き込んだ。鬱蒼と茂った草木が荒寥とした建物の一階をすっぽりと覆い隠し、そこだけ外界から完全に遮断されたような幽寂さに包まれていた。

    ヴィラの正面《ファサード》は簡素ながら優雅な造りだったが、飾り柱に挟まれたサーモン色の壁装は朽ち落ち、所々に深い亀裂が走っていた。

     

    数分後にレオナルド・メンギーニが娘と共に車で到着した。

    遺産相続受諾書に早々と署名したレオナルドは、マテオッティに代わってアンジェリ家の物件を管理していた。

    レオナルドは蛙のような顔立ちをした六十代の男性で、間隔の離れた明るいブルーの瞳が強烈な印象を与えた。

     「やあ、オクタヴィア。やっと会えて嬉しいよ」

    レオナルドはギョロっとした目を剥くようにして私達を睨んだ。

    「君がロメオ君だね。いい青年に成長したじゃないか」

    レオナルドはロメオの肩をたたいた。

     レオナルドの娘エリーザは不幸なことに父親にそっくりだった。

    レオナルドは鎖に付いた錠前を外して門扉を開けた。

     「ここはもう長い間、放置されているからね。勝手に中に入る連中が絶えなかったんだ。数年前まで黒ミサの集会に使われていたそうだよ。つい最近まで浮浪者が入り込んで寝泊りしていたんで、こうやって厳重に鍵を掛けたんだ」

     門の右側には数世紀の歴史を感じさせる老樫が門柱にしだれかかるように長い梢を伸ばしている。

    巨木の太い根に押し上げられ、深い亀裂が走る煉瓦の塀が木の幹に寄りかかり、かろうじて平衡を保っていた。

     「まるで眠りの森の美女の世界ね」

    私は恍惚としながらロメオに囁いた。

     

    庭の一方に聳える老木はおそらく何十年も昔に枯れてしまったのだろう。

    白く乾いた白骨のような枝がくねくねと波打ちながら太い幹に覆い被さるようにしがみついている。

    私達はジャングルのように生い茂った草木を掻き分けながら何とか建物の入口に辿り着いた。

    アーチ型の入口には侵入者を防ぐために最近取り付けられたらしい重い鉄の扉が、そこだけ異物のように冷たく光っていた。

     

    屋敷の中に足を踏み入れた私はそのあまりの美しさに息を呑んだ。

    入口の開廊の天井には簡素な外装からは想像もつかないような鮮やかで華麗なフレスコ画が一面に描かれていた。

    それは廃墟の中にあっても燦然と咲き誇る大輪の薔薇のような眩しさで私の心を一瞬のうちに虜にした。

    画像
    ヴィラ・マルヴァジア

    横長に伸びた開廊の天井は三区分され、それぞれにモチーフの異なるフレスコ画が描かれていた。三つのフレスコ画はいずれも鮮やかな紺碧の天空を背景に、プット達に囲まれた女神、昇天する女神、天使に囲まれた男神が描かれ、額縁のように各場面を囲んでいるダイナミックな短縮遠近法を用いた建築要素が、天空が遥か上方に広がっているような視覚効果を与えていた。

    すっかり色あせた赤い壁は一面に落書きがされ、モザイク張りの床には板や瓦礫が散らばっていたが、天井のフレスコ画だけが何世紀もの時を経て尚、かつての絢爛さを全く失うことなく、眩しいまでの輝きを放っていた。

    「何て素晴らしい!

    こんな美しいフレスコ画があるなんて――」

    私はただその美しさに感動し、ひたすら天井画に見とれた。

    「カルロ・チェーザレ・マルヴァジアはボローニャ派の擁護者だったから、自らの住居の建築に際して、当時を代表するボローニャ派の芸術家達を集めて天井にフレスコ画を描かせたんだ」

    ロメオは説明した。

    私はバッグからカメラを取り出して写真を撮ろうとした。

     

    「ちょっと、君」

    レオナルド・メンギーニの鋭い声が飛んだ。

    「写真は絶対にだめだよ」

    「どうしてだよ?」

    ロメオが挑むように聞き返した。

    「このヴィラは文化財保護局の保護指定建築物なんだ。もしこんなに荒廃したヴィラの写真が文化財保護局に流れでもしたら、修復工事を強制する通告が来てしまうからね。遺産分割も済んでないのに何百万ユーロする修復を強要されたらたまらない」

    「僕達は別に保護局に写真を送ったりしませんよ」

    ロメオがきっとなって言い返した。

    「どうかな。君のお母さんはまだ相続受諾に署名していないからね。もし修復工事をしなければならない事にでもなったら、相続を受諾した私が全ての費用と責任を負う羽目になる。君達が嫌がらせで写真を保護局に送らないとも限らないからな」

    「レオナルド、わたし達がそんなことをする訳ないじゃないですか」

    オクタヴィアがなかば呆れたように反論した。

    「じゃあ早く相続受諾の署名をしに行くんだな」

    レオナルドは皮肉を込めて言った。

     「何て奴だ」

    ロメオははき捨てるように言った。

    「いいよ。あとで奴の目を盗んで写真を撮ろう。あんな奴にあれこれ指図される筋合いはないよ」

    ロメオは慰めるように私に言った。

     

    ヴィラの一階は入口からTの字に展開した開廊をベースに小部屋や広間が繋がっていた。

    どの空間の天井も華美なフレスコ画で装飾されていたが、壁は落書きだらけだった。

     

    「ひどい事をするのね」

    私は一面の落書きを見ながら憤った。

    「このヴィラは芸術作品よ。こんな落書きをするなんて」

    「フレスコ画の価値が分からない無教養な連中がこんなことをするんだよ」

    ロメオは溜息をついた。

    「でもフレスコ画は全て天井に描かれていたから無傷だったんだ」

     

    画像
    天井のフレスコ画

    私達はヴィラの東側にある大広間に入った。

    かつて迎賓の間だったらしい大広間の中央には豪奢なレリーフで装飾された大暖炉があり、その上の壁面は騎士達の戦いを描いたテンペラ画で装飾されていた。

    『大暖炉の間』はモザイク床の他の部屋と違って寄木張りの床だったが、寄木の真ん中の部分が剥ぎ取られて穴だらけだった。

     

    「ここはもともとクルミ材の寄木張りだったんだけど、ここに住み着いていた浮浪者達が床の寄木を薪代わりにして暖炉にくべていたらしい」

    ロメオがぽっかり穴のあいた床を靴先でつついた。

    「そういえば、扉が一枚もないわね。きっと盗まれてしまったのね」

    「本当だ。古いヴィラの扉には骨董品としての価値があるからね」

     

    『大暖炉の間』にもアーキヴォールトで華麗に装飾された三つの入口があったが、扉はなかった。

    暖炉のテンペラ画は金箔を塗った漆喰の豪奢な枠で縁取られていて、天辺に翼の生えたドラゴンの紋章が掲げられていた。

     

    「枠の上に紋章が見えるだろう?

    あれは教皇グレゴリオ十三世の紋章だ。つまり、グレゴリオ十三世がここに客人として滞在していたことを意味しているんだよ」

    「本当に由緒のあるヴィラなのね」

    私は感心して紋章に見入った。

    「以前、ロレンツォの家に行った時に彼が話してくれたんだ。このヴィラはもともとアンジェリ家の財産ではなく、ロレンツォの母ジュリア・メンギーニがアンジェリ家に嫁ぐ際に持参金代わりに持ってきたものだったんだ。

    ロレンツォは母親の財産であるこのヴィラに対して一際強い思い入れがあったらしい。彼はものすごく信仰深かったから、その昔、教皇も訪れたこのヴィラに大変な誇りを持っていたんだ」

    「そんなに大切にしていたなら、何故もっとちゃんと手入れしなかったのかしら。この荒れ様だと、何十年も放置されていたんでしょう?」

    「そうなんだけどね」

    ロメオは苦笑した。

     

    ヴィラの西側には小部屋が三つ並んでいた。花で飾られたバルコニーと大天使が描かれた天井画のある最初の小部屋は天井の端に大きな穴が開き、崩れ落ちた天井の断片が床に散らばっていた。

    続く小部屋は壁まで紺碧に塗られた神秘的な空間だった。まるで海の底にいるような錯覚に陥るこの『青の間』の天井には伝令の神ヘルメスの姿が描かれていた。

     

    一階南側の吹き抜けになった正方形の広間を、大理石の大階段が直角に曲がりながら二階まで上がっていく。

    階段は所々崩れ、錬鉄の欄干はおそらく扉と同じように持ち去られてしまったのだろう。

    その残骸のみが僅かに残されていた。

    二階は二つの広間と幾つかの小部屋で構成されていたが、フレスコ画はなく、無地の高いヴォ―ルトと繊細なレリーフで装飾されたアーキヴォールトが特徴的だった。

    広間の天井は老朽が激しく、ヴォールトの半分以上が無残に崩れ落ちていた。

     

    「すごい穴が開いているのね」

    私達は天井を見上げた。

     

    破損したヴォールトの上に見える腐食した梁の隙間から陽光が差し込んでいる。

    広間の窓からはヴィラの背後に広がる藪と、その更に向こう側に開けた田園を見晴らすことが出来た。

     

    ヴィラには一階と二階を繋ぐ大階段の他に、地下、一階、中二階、二階、屋根裏部屋を繋ぐ狭い螺旋階段があった。

    私達は二階から更にこの螺旋階段を上った。螺旋階段の踊り場の床は丸くくり抜かれ、渦巻模様の鉄格子がはめ込まれており、最上階の窓から差し込む光が階下まで届くようになっていた。

     

    最上階の屋根裏部屋は傾斜した梁がむき出しになっていて、中央に古びたマットレスが敷かれていた。おそらく、ここで寝泊りしていた浮浪者のものだろう。

     

    私達は螺旋階段から階下に降りていった。中二階は入口の床が完全に崩壊していたので入るのを止め、更に下の地下室に下りた。

     

    「さすがにちょっと怖いわね――」

     

    私はロメオの背中にしがみつくようにして階段を下りた。

    地下に下りる階段は所々が崩れ、真っ暗な上にかなり足場が悪かった。

    私は爪先で階段を探るようにして進んだ。

    突然、暗闇の中から黒い物体が飛び出してきて、私の鼻先をかすめて行ったので、私は思わずキャッと悲鳴を上げてロメオにしがみついた。

    「何!今の?」

    「コウモリだよ」

    ロメオが笑った。

    「コウモリ?

    このヴィラにはコウモリが棲んでいるの?」

    私は笑い出した。ドラキュラの城じゃあるまいし、市街から数キロしか離れていない屋敷の地下室にコウモリがいるなんて何か滑稽だった。

     

    狭い階段を降りきり、洞窟のような通路の低いアーチを潜り抜けると地下室の空間が広がった。

    地下室は想像よりずっと広く、四方の明かり窓から差し込む薄明かりが切石積の天井アーチをぼんやりと浮かび上がらせていた。

    「わっ!何あれ?」

    私は再びぎょっとして足を止めた。

    壁に真っ赤な目玉のような怪しげな絵が描かれている。

    「ここで昔、黒ミサが行われていたらしいからね。きっとその名残だよ」

    「不気味ねえ――」

    確かに黒ミサが似合いそうな独特の雰囲気がある。

     

    私達が一階に戻るとオクタヴィアとレオナルドはもう見学し終わって私達を待っていた。

    「どうだいロメオ君。気に入ったかい?」

    レオナルドが尋ねた。

    「ええ。素晴らしいですね。ロレンツォに写真を見せてもらったことはあったけど、これ程とは――」

    「じゃあ君達はこのヴィラを希望するつもりかい?」

    「ええ、是非」

    「それはよかった。正直こんな廃墟を貰いたいなんて言う相続人は君達ぐらいだよ。私達は仮に相続しても売却するつもりだったからね」

    レオナルドは鼻で笑った。

     

    ヴィラを出ると五十代半ばの派手に着飾った女と六十代後半の小太りの女が門の前で私達を待っていた。

    「オクタヴィアね。レオナルドから貴女がミラノから来るって聞いて、私達も会いにきたのよ」

    着飾った女の方が愛想笑いを浮かべながらオクタヴィアに近付いて来た。

    褐色に日焼けした肢体を大ぶりの花柄をあしらった薄手のワンピースに包んだ女は、衣装とは対照的に目が細いインパクトのない顔立ちだった。

     「リディア・オルシーニよ。はじめまして」

    リディアは細い目を一層細め、オクタヴィアの手を握った。

     「イザベラ・ピッコリよ。貴女のお母様には何度か会ったことがあるのよ」

    小太りの女が魚のような細い出目をしばたきながら手を差し出した。

    「兄さんも貴女に会いたがっていたけど、今日は友人と郊外に行く約束があって来られなかったのよ」

    リディアが残念そうに言った。

     リディアの兄とは、以前、ロメオに電話してきたミケーレ・オルシーニのことだ。

    ミケーレとリディア兄妹はオルガ・メンギーニの妹の娘アメーリア・ピッコリの息子と娘だ。六親等のアメーリアが亡くなってしまっていたので、七親等である彼らに相続権が移転されたのだ。私は以前に見た相続人の家系図を思い出して頭の中で名前を整理した。

     それにしても、メンギーニ達は私の想像とは全く異なっていた。

    ロメオ一家はイタリアでも稀に見る美形の家系だった。オクタヴィアもロメオも吸い込まれるように大きな黒い瞳が印象的な繊細で美しい顔立ちをしていたし、ソマリア人とのハーフであるロメオの祖母レーア・メンギーニはエキゾチックな美女だった。

    だからレーアと同じメンギーニの血を引く他の相続人達も当然、美形に違いないと勝手に想像していたのだが、リディアもイザベラもお世辞にも美しいとは言えなかった。

    内面の醜さが外面ににじみ出ているようだと私は思った。

     

    「彼女は貴方の婚約者《フィアンセ》? どちらの国のお嬢さんなのかしら?」

    リディアがオクタヴィアの後ろで寄り添うように立っていた私とロメオに笑顔を向けた。

    「日本です」

    「そう――」

    リディアは物珍しそうに私を眺めた。

     「オクタヴィア――」

    レオナルドが真顔でオクタヴィアに向かい合った。

    「君は遺産の五十パーセントを相続するわけだから、希望する物件を早く教えてくれ。このヴィラが欲しいなら大いに結構。とりあえず五十パーセント分の物件で希望を出してくれれば、他の親族と話し合う。君が希望する物件に他の相続人が必ずしも同意するとは限らないからね」

    「レオナルド、貴方は忘れているようだけど、わたしには法定相続人としての五十パーセントの他に、遺言状の用益権があるのよ」

    半ば命令するようなレオナルドの威圧的な口調にオクタヴィアがムッとして言い返すと、それまで比較的友好的だったレオナルドの顔から笑いが消えた。

    「我が親愛なるオクタヴィア。君がそう言う態度ならこの遺産、我々の息子の代になっても分割されることはないだろうよ」

    レオナルドは脅すような口調になった。

    「何て言っているの?」

    私はロメオを突っついた。

    「つまり、相続争いが泥沼化して何年もかかるって言いたいんだよ」

    ロメオはレオナルドを睨みつけながら低い声で私に囁いた。

     

    「君に一言言っておく」

    レオナルドが皮肉たっぷりに言った。

    「君の言う用益権とやらは、水のない井戸のようなものだ。つまり何の価値もない。

    これ以上、事をややこしくしたくないなら、そんな権利は持ち込まないことだな」

    レオナルドははき捨てるように言った。リディアとイザベラは無言で下を向き、一同の間に気まずい空気が流れた。

     私達は重苦しい気分のまま帰途についた。

    これでレオナルド・メンギーニがカイロリの言うとおり一筋縄ではいかない曲者であることがはっきりと分かった。

    リディア・オルシーニとイザベラ・ピッコリも上辺は親切そうな笑顔を見せてはいたが、本心では何を考えているか分からない。

    私はイザベラ・ピッコリの魚のような冷たい細い目とリディア・オルシーニの取って付けたような愛想笑いを思い出して身震いした。

     終わりのない相続争いがいよいよ幕を開けようとしている――
    メンギーニ一族との遭遇は私にそんな不吉な予感を抱かせた。

     

     ◇◆◇◆◇

    カイロリ再び

     

    「九月二十七日に第一回親族会が開かれることになったよ。君も一緒に来てくれるだろう?」

    ロメオは当然私も同席するものと思っている――

    私は溜息をついた。

    「でも、私が行く意味があるのかな?」

    私は出来ればもう二度とメンギーニ達に会いたくなかった。

    「母さんはすごく不安がっているし、二人より三人のほうが心強いだろう?」

    ロメオはすがるような目で見る

    「なんかよく意味が分からないけど――」

    気が進まないが仕方がない。

    「レオナルドがまるで相続人代表のように偉そうに仕切っているよ」

    「そう言えば、例の遺言状の解釈は進んでいるの?」

    「ライモンディが大学の教授に依頼して遺言状の『法的見解』をまとめてもらっている」

    「それでうまく行けば用益権が二十五パーセントから五十パーセントになるんでしょう?」

    「それはまず間違いないらしい。問題は用益権を具体的な金額に換算出来るかどうかなんだ」

    「でもレオナルドは用益権なんて認めないって態度だったわね」

    「確かに。奴らに遺言状の有効性を認めさせるのは至難の業だよ。ああ云う連中だから自分達に不利なことは一切認めようとしないだろうしね」

    ロメオは顔を曇らせた。


    「それで、親族会で母さんが自分の相続分として希望する物件を云わなくちゃならないんだけど――」

    ここでロメオは云いにくそうに言葉を切った。

    「母さんとも相談したんだけど、五十パーセントだとバルベリア通りとサン・マモロ通りの物件がぎりぎりで入るかどうかってところなんだ。だから残念だけどヴィラ・マルヴァジアは諦めざるを得ないかもしれない」

    「そう――」

    「君があのヴィラを特に気に入っているのは知っているから、何とかヴィラも相続したいと思っているよ。でもヴィラの状態を見ただろう?あの荒廃した建物を修復するには莫大な費用がかかるし、だからと言ってあのままの状態で放置しておくわけにはいかない。万が一、侵入者が中で怪我でもしたら、所有者が刑事責任を問われることになるからね」

    「そうね。仕方ないわね――」

    私は失望を隠せなかった。

    あのヴィラの不動産的価値は私には分からない。

    でもあの廃墟化したヴィラには何か魔法のような不思議な魅力があった。あのフレスコ画に描かれた紺碧の天空と色鮮やかな神々の姿、それは不動産云々というレベルではなく、芸術作品として高い価値があると思った。

    しかし金銭を第一に重んじるメンギーニ達にはそんなことはどうでもいいことなのだろう。

    「母さんは問題に巻き込まれることを何より恐れているからね。リスクのあるヴィラより、管理し易い旧市街の建物を相続した方がいいと言う結論に達したんだ。相続人は母さんだから彼女の希望を最優先すべきだろう?」

    「メンギーニ達はヴィラの芸術的価値が全く分かってないから相続したらさっさと売ってしまうんでしょうね」

    「でも僕はまだ諦めないよ。僕達には法定相続人としての五十パーセント以外に遺言状の用益権もあるんだ。この用益権を何とか不動産に換算して君が好きなあのヴィラも手に入れたいと思っている」

    「そうね。うまく行くといいけど――」

    「あのヴィラはロレンツォがとても大切にしていたからね。価値も分からない無知なメンギーニ達なんかに渡したくないよ」

    ロメオはきっぱりと言った。

    ロメオの気持ちは嬉しかったが、あのレオナルド・メンギーニ相手にそんなに上手く事が運ぶとはとても思えなかった。

    それから数日後、突然カイロリがロメオに電話をかけてきた。

    「それで――カイロリは何て?」

    私は深刻な顔をして考え込んでいるロメオの顔を覗き込んだ。

    「カイロリはこのままだと、相続争いは間違いなく泥沼化するだろうって言うんだ。だから彼が前に言っていた解決策を再度提案してきたよ」

    「例のお義母さんを一親等にするっていう?

    それで、まさか承諾したの?」

    「いや、まだ返事はしていない。でも彼の言う通りこの方法が最善策じゃないかなって――」

    「だめよ。そんなこと」

    私はきっぱりと言った。

    「でも君も見ただろう?レオナルド・メンギーニを。長期戦になって困るのは後ろ盾や経済力のない僕達なんだ。彼等は資産家でお金に不自由していない訳だから、多少お金がかかっても自分達の満足のいく結果を得るためなら訴訟で何年でも戦うだろう」

    ロメオはすっかり弱気になっていた。まさに藁にでもすがるようにカイロリの提案に乗ろうとしているように私には思えた。「でも絶対にだめよ。

    カイロリが知り合いの医者を使って不正を働こうとしているんでしょう?

    そんなことに絶対関わるべきではないと思う」

    私のいつになく強い口調にロメオは驚いて顔を上げた。

    「第一、カイロリが本当に信用出来る人間かどうかだって分からないじゃない。私達、彼について実業家って事以外何も知らないのよ。

    不正を行ったことをネタに後から強請ってくることだって十分あり得るでしょう?

    もしかしたら彼はアンジェリ家の財産をそっくりそのまま手に入れようと目論んでいるのかもしれない」

    甘言に乗って不正に加担し、弱みを握られて一生搾り取られる――

    映画やテレビドラマでよくある展開ではないか――


    「――そうだね――君の言うとおりだ。

    僕もどうかしてたよ。」

    ロメオは沈黙の後、口を開いた。

    「そう。どんなことがあっても己の良心に恥じるようなことは絶対にすべきではないと思う。奴らがどうなに卑怯な手を使ってきても、私達は清廉さを失ってはいけないのよ」

    私は言いながら拳握りしめた。

    そして、ふと笑いがこみ上げてきた。

    「どうしたの?」

    突然笑い出した私をロメオはびっくりして見つめた。

    「だって――こんなこと、普通なら映画とか小説の世界でしょう?

    こんな会話を大真面目でしているなんて、何だか信じられないわね。

    イタリアまで来てこんなことに巻き込まれるなんて夢にも思っていなかった」

    ロメオもつられたように笑い出した。

    よかった――

    やっと笑ってくれた。


    私はロメオのようやく和んだ顔を見てホッとした。

    レオナルドとの一件以来、オクタヴィアは前にも増して悲観的になり、その影響かロメオも最近、沈みがちだった。

    第一回親族会はもう数日後に迫っていた


     ◇◆◇◆◇

    第一回親族会

     九月十七日、私達は第一回親族会に出席するために朝からボローニャに向かった。

    「親族の集まりに部外者の私がどうして行かなくちゃならないのよ」

    せっかくの土曜日だと言うのに、朝六時に起こされた私は車の中でまだブツブツ文句を言っていた。

    「僕達、もうすぐ結婚するんだから、もう家族同然だろう?」

    ロメオは調子のいいことを言う。

    「だって相続人はお義母さんでしょう?息子の彼女なんて、全然関係ないじゃない」

    「まあそう言うなよ。二人より三人のほうが何かと心強いし、親族会が終わったら美味しいものでも食べに行こうよ」

    ロメオは私をなだめるように言った。

    「それから――」

    ロメオは続けた。

    「バルベリア通りとガリエラ通りの物件、それにヴィラ・マルヴァジアを希望することにしたよ」

    私は顔を輝かせた。

    「本当?」

    ロメオは優しく頷いた。

    「うん。サン・マモロ通りの物件はバルベリア通りに次いで価値の高い物件だから――最良の物件ばかり二つ希望したら彼等は絶対同意しないだろうからね。ライモンディは反対したけどね。彼はサン・マモロの物件に興味があるから、何としても母さんに相続してもらいたがっている。でも僕個人としてはヴィラのほうが好きだし、何と行っても君が一番気に入っている物件だからね」

    「ありがとう。嬉しい!」

    「でも、あのヴィラの使い道を一緒に考えてくれよ。廃墟のまま放っておくわけにはいかないからね」

    「わかった。あのヴィラを救うためなら出来るだけのことをするわよ」

    私は張り切って答えた。

    「そう言えば親族会はどこで開かれるの?」

    「ヴィラ・メリッサと言うボローニャ市内にあるミケーレ・オルシーニの屋敷(ヴィラ)だよ」

    「ヴィラ・メリッサ?」

    「もともとこのヴィラはわたしの祖父のものだったのよ」

    オクタヴィアが口を挟んだ。

    「それを彼がまだ二十歳の青年だった時、メンギーニ達はソマリアで事業を起こせば成功出来ると唆して、彼の持ち家だったこのヴィラを二束三文で売らせたのよ。祖父はその頃、まだ若くて世間知らずだったから、うまく丸め込まれてヴィラを手放して、そのお金でソマリアに渡って事業を始めたのよ。

    アール・ヌーヴォー様式の美しいヴィラだったのに、その当時でも考えられないような安値で売却してしまったと母が昔言っていたわ」

    「これで分かっただろう。メンギーニ一族は代々卑劣で強欲な奴らだったんだよ」

    ロメオは怒りを込めてはき捨てるように言った。

    「なんだか因縁を感じるわねえ。でもロメオの曾おじいさんもメンギーニ家の一員でしょう?」

    「うん。僕の曾祖父とロレンツォの母親ジュリア・メンギーニの父親と、オルガ・メンギーニ達の父親は兄弟だったんだ。

    曾祖父の父親ライモンド・メンギーニは清廉潔白で理想化肌の人だったけど、その兄のミケーレ・メンギーニは計算高くて強欲な人間だったらしいよ。だからロレンツォや僕の祖母側のライモンド・メンギーニの子孫と、レオナルド・メンギーニ達、ミケーレ・メンギーニの子孫では同じメンギーニ家でも全く別の人種なんだ」

    「なんだかアベルとカインみたいね」

    私は感慨深げに言った。


    ボローニャ市内東北部にあるヴィラ・メリッサは美しい庭園に囲まれたアール・ヌーヴォー様式の館だった。

    ミケーレ・オルシーニは妹のリディアと同じ細い魚のような目をした五十代半ばの長身の男だった。

    「やあ、オクタヴィア。会えて嬉しいよ」

    ミケーレは落ち着きのない笑顔を浮かべて私達を迎えると、親族会の行われる庭園に面した広い客間に私達を案内した。

    先日会ったリディア・メンギーニとイザベラ・ピッコリはそれぞれ夫を伴って既に到着していた。

    リディア夫婦とソファーで談笑している白髪の男は初めて見る顔である。


    「オクタヴィアかい?」

    白髪の男が立ち上がった。

    「私はクラウディオ・メンギーニだ」

    クラウディオはレオナルド・メンギーニによく似た明るい青い目と厳しい顔立ちをした六十代の男性だった。

    「はじめまして。クラウディオ。息子とその婚約者《フィアンセ》を紹介しますわ」

    オクタヴィアは私とロメオを紹介した。

    「私も妻を紹介しよう。カミーラ」

    クラウディオは窓際でイザベラ夫婦と談笑していた女性を呼んだ。

    クラウディオの妻カミーラは神経質そうな顔をした痩せぎすの女だった。

    「君のお母さんのレーアには何度もあったことがあるよ。いや実に美しい女性(ひと)だった」

    クラウディオは思い出すように言った

    「若い頃の彼女は大変な美人で華やかな女性(ひと)だった。しかし亡くなる前の数年間は相当お金に困っていたようだね。私も何度か電話で相談されたよ」

    オクタヴィアの顔から微笑が消えた。

    クラウディオの青い目にはそんなオクタヴィアの反応を楽しむような残忍な光が宿っていた。


     何もこんな時にこんな話をしなくても――

    私達はすっかり白けた気分になってその場を離れた。

    しばらくするとレオナルド・メンギーニが娘のエリーザを伴って到着した。

    「やあ。わたしが最後のようだね。これで全員揃ったわけだ」

    「ジルダがまだじゃないの?」

    イザベラが訊ねた。

    「姉さんは欠席だ。彼女の旦那は重い心臓病を患っていて重体なんでね。それどころではないそうだよ」

    レオナルドはまるで他人事のような言い方をした。

    「それでは諸君、早速本題に入ろうじゃないか」

    相続人一同はガラスと鍛鉄で出来たアール・デコ調の優美な丸テーブルを囲むようにして椅子に腰を下ろした。

    私とロメオはオクタヴィアの後ろに椅子を置いて座った。

    「ちょっとその前に――」

    クラウディオ・メンギーニが手を挙げた。

    一同がクラウディオを見た。

    「ひとつ、はっきりさせておきたいことがあるんだが――」

    クラウディオはオクタヴィアに顔を向けた。

    「オクタヴィア、あんたには相続人としての権利が本当にあるのかね?」

    「当たり前じゃないか。何を言い出すんだ」

    ロメオは気色ばんだ。

    「いやね。あんたの母親のレーアはアントニオ・メンギーニのソマリア滞在中にソマリア人の現地妻との間に生まれた娘だろう?だがアントニオ・メンギーニは娘を連れてイタリアに帰国してからイタリア人の女性と結婚した。だから相続権はアントニオの妻の子孫に与えられるべきじゃないのかね?」

    この人は狂っている――

    本気でこんな戯言を言っているのだとしたら、正気の沙汰とは思えない。

    これがクラウディオ・メンギーニ

    私はカイロリがレオナルド・メンギーニとクラウディオ・メンギーニはメンギーニ一族の中でも煙たがられていると言っていたことを思い出した。

    そう言えば、以前遺産を相続人の間で七等分出来ないか弁護士に相談していると見当違いな事を伝えるためにロメオ達に電話してきたのも彼だ。

    「何を訳の分からないことを言っているんですか?」

    ロメオが呆れたように言った。

    「祖母の両親は確かに正式に結婚していませんが、祖母はちゃんと娘として認知されています。それにその後、曾祖父がイタリアの女性と結婚した事が何の関係があるんですか。第一、その女性との間には子供はいませんでしたし、その女性の親族も現在存在しない。そんなことは裁判所が相続人を探した際にちゃんと戸籍調査して判っていることですよ」

    クラウディオはロメオをジロリと一瞥すると更に食い下がった。

    「大体、正式に結婚もしていないソマリア女性との娘であるレーアは本当にメンギーニ家の一員と言えるのだろうか?

    実際、アントニオが娘を連れてイタリアに帰ってきた時、親戚一同がそんな混血児の娘にメンギーニの姓を与えることに大反対だったそうじゃないか」

    クラウディオの語調には蛇のように陰険な響きがあった。


    「いい加減にして下さい!」

    それまで黙っていたオクタヴィアがついに怒り出した。

    「貴方はわたしの母を侮辱するつもりですか?

    一体何の権利があって――母の出生のことまでとやかく言うんですか?

    母はちゃんと認知され、戸籍上もアントニオ・メンギーニの正式な娘です。これ以上妙なことおっしゃるなら、わたしはミラノに帰ります」

    オクタヴィアは立ち上がると華奢な体を怒りでわなわなと震わせながらクラウディオ・メンギーニを睨みつけた。

    「まあまあ。オクタヴィア。クラウディオに悪気はないんだよ」

    レオナルド・メンギーニがとりなした。

    いや悪意の塊だろう――と私は思った。


    「まあ、ここは気を静めて本題に入ろうじゃないか」

    オクタヴィアは渋々座ったが、その瞳はまだ怒りに燃えていた。

    「さて、諸君もご存知の通り、遺産の五十パーセントをオクタヴィアが相続し、残りの五十パーセントは我々六人の間で分割される。そこでどうだろう。まず遺産の半分を相続するオクタヴィアがどの物件に興味があるか聞いてみようじゃないか」


    一同の目が一斉にオクタヴィアに注がれた。

    「わたしは――」

    オクタヴィアは遠慮がちに切り出した。

    「バルベリア通りとガリエラ通りの物件、それにヴィラ・マルヴァジアを希望します」

    「あら、貴女は遺産の九十パーセントを持っていくつもり?」

    イザベラ・ピッコリが皮肉たっぷりな言い方をした。

    「あら。五十パーセントなら、これで妥当な線だと思いますわ。勿論、正式に物件を評価してみないと判りませんけど」

    オクタヴィアは反論した。

    「しかし、バルベリア通りもガリエラ通りもボローニャ旧市街の最もロケーションに恵まれた物件だ。そんな物件ばかりを君が独占するのは不公平だろう」

    今度はミケーレ・オルシーニが口を挟んできた。

    「同感だわ。バルベリア通りの物件を取るならもうひとつは郊外のゴベッティ通りの物件を選ぶべきだわ」

    とリディア・オルシーニ。

    「いや。私はオクタヴィアが最も価値のあるバルベリア通りの建物全てを独占するのは納得いかないな」

    今度はクラウディオ・メンギーニが口を挟んできた。

    「バルベリア通りの物件は中が幾つものアパートに分かれているだから、バルベリア通りの物件からは一部のアパートだけを選んで――いや、いっそうのこと全ての物件から五十パーセントずつ取ると言うのはどうかね?」

    「なに馬鹿なこと言ってるのよ――」

    イザベラ・ピッコリが反論した。

    「私達はその残りの五十パーセントを更に六等分しなくてはならないのよ。ややこし過ぎるわよ。第一、ヴィラ・マルヴァジアの五十パーセントの更に六分の一なんて貰っても困るわよ。彼らがヴィラを欲しいと言うなら、ヴィラは彼らに貰ってもらったほうがいいでしょう。私はオクタヴィアの相続分が五十パーセントきっかりならあえて文句は言わないわよ。でも彼女が一パーセントでも多く相続するのは絶対に認められないわ。ただでさえ、私達の中で一番多く相続するんだから」

    「ちょっと待ってくれ。君は六分の一と言ったが、七親等のミケーレとリディアが六親等の我々と同じ取り分と言うのはおかしいだろう」

    「あら、レオナルド。私と兄さんの相続分にケチをつけるつもり?」

    「当たり前だ。五十パーセントを五等分して、君とミケーレは五分の一を二人で分けるべきだ」

    「いいえ。それは違うでしょう。もともと五親等のオルガ伯母さんがベースになっているんだから、あなたとクラウディオ、ジルダが五十パーセント。私、ミケーレとリディアが五十パーセントを相続して、七親等とミケーレ達は二十五パーセントを半分ずつ相続するというのが正しいと思うわ」

    「なるほど、イザベラ。そうすると君の相続分が一番多くなるわけだ」

    「あら、文句があるならちゃんと弁護士に立証してもらうわよ」


    メンギーニ達は彼等の相続分を巡って言い争いを始め、収拾のつかない状態になった。

    私は突然始まった彼等の醜い争いを呆然と傍観するしかなかった。

    レオナルド、クラウディ兄弟が互いに噛みつかんばかりの罵り合いを始め、イザベラは醜い顔をさらに醜く歪めながら、小型犬のような金切り声を張り上げた。

    リディアも負けてはいない。魚のような目をぎらぎら充血させながら反論し、それぞれの配偶者がこれに加わった。

    クラウディの妻のカミーラは真剣質そうな眼を三角に尖らせて、義兄にくってかかった。

    ただ、ミケーレ・オルシーニだけが、気弱そうな顔に困惑の色を浮かべ、妹や従兄弟の争いをおたおたと見守った。

    「皆さん。これは提案ですが、相続する物件を決定する前に、まず各物件を専門家に評価してもらう必要があります。

    鑑定士には裁判所が推薦する工学士のポリーニ氏かライモンディ公証人の知り合いで土地測量技師のファルネーゼ氏のどちらかを考えています。

    それから現在、相続受諾に署名したのはレオナルドだけですが、相続税の支払期限も迫っていることですし、我々も相続を放棄する気がないなら近日中に署名に行くべきでしょう。

    ですから分割協議の時期も含めて諸々の期日を私文書で取り決めておいたほうがいいと思うんですが、どうですか?」

    メンギーニ達の中では一番理性的なミケーが混沌となった事態を収拾しようと、遠慮がちに口を挟んだ。


    「同感だな。もう九月だし、これ以上ずるずる延びるのは私もごめんだ。私文書で期限を決めて、それに基づいて事を運ぶというのはいい考えだ」

    レオナルド・メンギーニが同意した。

    「それでは、私文書を作成しますので、相続人の皆さんは私の書斎に行きましょう」

    ミケーレに促され、相続人達は奥の書斎に消えていった。

    相続人でない私とロメオはメンギーニ達の配偶者とレオナルドの娘エリーザと共に客間に残された。

    「お母さん、独りで大丈夫かな?」

    ロメオは心配そうだった。

    「さあ――でも、遺産分割に関することじゃないから大丈夫だと思うけど――」

    私は自信なさげに答えた。

    三十分後、相続人たちが客間に戻ってきた。

    「それでは、数日中に鑑定士を決定しよう」

    レオナルド・メンギーニは相続人を見回した。

    「じゃあ私は早速、ポリーニとファルネーゼの両氏に鑑定料の見積もりを出してもらいますよ」

    ミケーレ・オルシーニが快活な声で応じた。

    更に相続税はアンジェリ家の土地の一部を売却し、その売却金で全員分支払うということで話がまとまった。

    私達がヴィラ・メリッサをようやく後にしたのはお昼過ぎのことだった。

     

     ◇◆◇◆◇

    公証人ロベルト・ライモンディ

     想像を上回る修羅場を目の当たりにして、どっと疲れが出た私達は取り敢えず、何か食べようということになり、サン・マモロ門にあるカフェに入った。

    カフェの地下はボローニャ郷土料理を食べさせる小さなレストランになっていた。

    中世時代の煉瓦のアーチが地下室独特の雰囲気を醸し出していた。

     

    「母さん。署名した書類を見せてよ」

    ロメオが席に座ると待ち構えたように言った。

    「ええ。でも私達の間だけの単なる取り決めよ」

    オクタヴィアはバッグから一枚の紙を取り出すと私達に見せた。

    ロメオは真剣な顔つきで紙に目を通した。

     


     ◇私文書◇

    ロレンツォ・アンジェリの遺産相続に関して

     レオナルド・メンギーニ、クラウディオ・メンギーニ、ジルダ・メンギーニ、イザベラ・ピッコリ、リディア・オルシーニ、ミケーレ・オルシーニ、オクタヴィア・セーラは法定相続人として、ロレンツォ・アンジェリの遺産を受諾し、遺産相続に関して以下のように取り決めることとする。

    一.        レオナルド・メンギーニ、クラウディオ・メンギーニ、ジルダ・メンギーニ、イザベラ・ピッコリ、リディア・オルシーニ、ミケーレ・オルシーニ、オクタヴィア・セーラは本日から二十日以内にロレンツォ・アンジェリの遺産相続受諾の署名を行うこと。

    二.        同時に下に署名せる者は、鑑定の専門家に依頼し、相続対象となる資産に含まれる全ての不動産の評価を行うこと。鑑定評価料は一万五千ユーロを越えないこと。鑑定士候補のポリーニ氏(あるいは第二候補としてライモンディ公証人推薦の鑑定家)と連絡を取り、鑑定評価にかかる費用の見積もりを出してもらうこと。

    三.        鑑定評価が完了してから四十五日以内に、評価額に基づいて対象となる不動産の分割協議を行うこと。分割は以下の二グループの間で行われる。レオナルド・メンギーニ、クラウディオ・メンギーニ、ジルダ・メンギーニ、イザベラ・ピッコリ、リディア・オルシーニ、ミケーレ・オルシーニを一グループとする五十パーセントの相続人、そしてオクタヴィア・セーラを一グループとする五十パーセントの相続人である。

    四.        上述の期日までに、遺産分割協議が合意に達しない場合には、本書に署名せる者は不動産を二等分に分割するよう努め、等分出来ない場合にも、差額は十万ユーロ以下であること。その上で上述「三」に記述されている通り、公証人の面前で双方に配分される不動産を決定すること。
     
              二〇〇五年九月十七日 ボローニャ
                これに同意する。

                   レオナルド・メンギーニ

                   クラウディオ・メンギーニ

                   イザベラ・ピッコリ

                   リディア・オルシーニ

                   ミケーレ・オルシーニ

                   オクタヴィア・セーラ

     


    「ここには遺産は五十パーセントずつ二等分すると書いてあるけど――」

    私は指摘した。

    「遺言状の用益権を不動産に換算して相続するつもりなら、これに署名したらまずいんじゃない?」

    ロメオは青ざめた。

    「本当だ。母さん――署名する前に読まなかったの?」

    ロメオを責めるように母を見た。

    オクタヴィアは動揺して蒼白になった。

    「他の相続人は何も言わずにすぐ署名していたし――

    それにこれは私達の間だけの取り決めごとで、正式な書類じゃないと思ったのよ」

    「でも署名がある。私文書と言うのが、法的にどの程度の効力があるのかは分からないけど」

    「ああ、これで私は遺言状の用益権を失ってしまったんだわ!」

    オクタヴィアは絶望的な表情になった。

    「まさか――これはあくまでも公証人の立会いなく交わされた私文書だし、専門家の意見を聞いてみないと――」

    私はなだめるように言った。

    「ライモンディに電話して聞いてみよう」

    私文書を食い入るように見つめていたロメオが不意に口を開いた。


    幸いライモンディは事務所にいた。電話で話を聞いたライモンディは問題の書類を持ってすぐ事務所に来るように指示した。私達は慌しく食事を終えると、ライモンディの事務所に向かった。

    ライモンディの事務所はマッジョーレ広場の裏手にあるカルティエやグッチ、エルメスなどの高級ブランドのブティックが並ぶモダンなアーケードの中にあった。

    事務所のベルを鳴らすと若い美人秘書がドアを開け、私達は奥の待合室に通された。

    五分後、来客を送り出す大きな声が聞こえたかと思うと、ライモンディが颯爽と待合室に現れた。


    私がライモンディに実際に会うのはこの日が始めてだった。

    ライモンディは五十歳前後の体格のいい颯爽とした男性で、想像していたよりずっと若々しかった(私は公証人という響きからどうもは白髪の老人を想像しがちであったのである)。

    瀟洒なスーツを着こなした公証人は、彫りの深い浅黒い顔と射るような眼光が強烈な印象を与えた。


    私達はライモンディに急き立てられるようにして彼の書斎に通された。

    その部屋は贅沢の限りを尽くした豪奢な調度品で装飾され、高額そうな古典主義の絵画が壁に掛かっていた。

    ライモンディが厳しい顔つきで私文書に目を通している間、私達は固唾を飲んで彼の反応を見守った。


    ライモンディは顔を上げると、判決を待つ罪人のようにうなだれているオクタヴィアに視線を向けた。

    「奥さん、安心して下さい。貴女の用益権は無事ですよ」

    ライモンディは優しく言った。

    「――」

    私とロメオをホッとして顔を見合わせた。

    「では、わたしの権利は前と少しも変わらないんですね?」

    オクタヴィアは救われたような表情を浮かべて顔を上げた。

    「大丈夫ですよ」

    しかし、ここでライモンディの表情が厳しくなった。

    「だだし、このようなことは今後二度と起こらないようにして下さい。

    貴女の署名は大きな意味を持っています。今回はたまたま大丈夫でしたが、署名ひとつで相続権を放棄させることも出来るんです。

    ですから今後、貴女ひとりの判断でこういった書類に絶対に署名しないで下さい。

    何かに署名をしなければならない場合には、署名する前に必ず私に見せて下さい。私文書と言っても、日付と署名がある以上、法的にれっきとした効力があることを覚えておいて下さい」

    ライモンディは真剣だった。

    「分かりました」

    オクタヴィアは先生に叱られた子供のように素直に頷いた。

    「しかし、貴女はこれで、ここに書いてあるように数日中に遺産受諾に署名しなければならなくなりました。

    鑑定士はファルネーゼ氏をお勧めします。彼は私の旧知の友ですが、この分野にかけては、ボローニャでも数本の指に入る大変優秀な専門家です。彼に鑑定を依頼し、後は私に任せて頂ければ、来年の一月までにバルベリア通りとサン・マモロ通りの物件を貴女に相続させてみせますよ」

    ライモンディは自信たっぷりに言った。


    意識してそうしているのか、ライモンディのしゃべり方や立ち居振る舞いは映画によく登場する正義のヒーローを髣髴させた。


    ――スーパーマンみたい。

    私の受けたライモンディの第一印象である。


    彼が果たして本当に信頼できる味方なのかどうか、その時の私にはまだ分からなかったが、恐ろしいほどに頭が切れ、その上、自分の能力に絶大な自信があるのは明らかだった。


    「よい報せもありますよ。例の教授から連絡があり、数週間に遺言状の見解書が出来上がるそうです。これは遺産分割協議を有利に運ぶ重要な鍵になるはずです」

    ライモンディの語調は確信に満ちていた。


     ◇◆◇◆◇

    奇妙な電話

     

    その翌日、私文書のことをどこからか聞きつけたカイロリが再び電話してきた。

     「カイロリの奴、もう終わりだ。これで僕達は遺言状の用益権を失ってしまったっていきなり電話してきたんだよ」

    ロメオは不愉快そうに顔をしかめた。

    「自分の思惑通りに事が運ばなかった腹いせじゃない?

    それにしても私文書のことを一体どこで聞きつけたの?」

    私は呆れたように言った。

    「なんだかんだ言って、メンギーニとも連絡を取り合っているんだろうね」

    「彼も最初、どちらに付いたほうが得か、迷っていたんじゃない?

    でもお義母さんが五十パーセントで遺言状もあるし、しかもあの性格でしょう?

    うまく取り入ればおこぼれが貰えると思ったのかもしれないわね」

    メンギーニの相続分を丸々手に入れようと目論んでいたのだから、おこぼれどころではない。

     「私、前からどうしても引っ掛かっていることがあるんだけど――」

    不意に私は話題を変えた。

    「引っ掛かること?」

    ロメオは聞き返した。

    「遺言状よ」

    私はきっぱりと言った。

    「あの遺言状は一九七三年に書かれたものでしょう?

    遺言状に書かれているルイーザと言う人はとっくの昔に亡くなっているし。

    もっと最近のものがあるような気がしてならないのよ」

    「そのことは僕もずっと気になっていたんだ。

    実は二年前にロレンツォを訪ねた時、彼は全財産を母さんに遺すとはっきり言ったんだ」

    「それ、本当?」

    「間違いないよ。だから彼が亡くなって最初、遺言状が残っていなかったと聞かされた時、腑に落ちなかったんだ」

    「彼が二年前にそう言ったのなら、もっと新しい遺言状があるはずじゃない?」

    「僕もそう思った。でも実際に発見されたのは一九七三年に書かれた物だけだった」

    私は考え込んだ。

     「その遺言状はどこから発見されたの?」

    「カイロリはロレンツォの家の壁の奥の隠し金庫から見つかったと言っていた。会計士のアンジョーニは、ロレンツォが重要な書類をそこに保管していることを知っていたんだ。でもロレンツォが亡くなったのは十一月、マテオッティがアンジョーニと一緒に彼の家に最初に入ったのは翌年の二月だ。

    それまでの間、家に鍵はかかっていたけど、アンジョーニは合鍵を持っていたし、バルベリア通りの借家人の一人はロレンツォの猫に餌をやるために彼の家に出入りしていたそうだから、入ろうと思ったら誰でも入れたはずだ」

    「例えば、メンギーニの誰かが、借家人かアンジョーニを買収して家に侵入して、新しい遺言状を燃やしてしまったとか」

    深刻になっているロメオ達には悪いが、私はこの推理小説のような展開を楽しみつつあった。

    「まさかそんなことはないと思うけどね」

    ロメオは一笑したが、あり得ない話ではないと思った。

     実際、この相続争いには不可解なことが多すぎる。

    カイロリの存在とその突拍子もない提案だけ例にとっても、十分奇妙なのだが、ロレンツォの口座から残金の半額を引き出して姿をくらました財産管理人といい、遺言状を無視しようとした裁判所の遺産管理人といい、相続がらみの関係者は誰も彼も怪しすぎる。

    彼等の誰かが、メンギーニ達と組んで遺言状を握りつぶしたということも十分にあり得るのだ。

     オクタヴィアが奇妙な電話を受けたのもちょうどこの頃だった。
    その弁護士と名乗る電話の主はオクタヴィアにこう切り出した。

     「遺言状に書かれていたもう一人の相続人をご存知ですか?」

     もうひとりの相続人とは、すなわち『同氏が素性を知る或る人物』と記述されていた謎の人物のことである。

     見知らぬ男はさらにこう続けた。

    ――自分が知っているその人物とは、ロレンツォの父ジュゼッペ・アンジェリの庶子の娘で、大変貧しく、ボロ布を纏っていて修道院の一室を間借りしている。

    名門アンジェリ家の末裔がこのような境遇にあるのは不憫なことだ――

     ものこの話が事実なら、問題の人物はロレンツォの姪ということになる。

     「この話、君はどう思う?」というロメオの質問に、私はでまかせだと思う、と迷わず答えた。

    「マテオッティも言っていたじゃない。ロレンツォのような身寄りのいない資産家が亡くなると、必ず隠し子だの遠縁だのと言って名乗り出てくる人達がいるって。

    私はその類だと思う」

    「そうだよね――しかもロレンツォの庶子ならともかく、ジュゼッペの庶子の更にその娘だなんて、僕もでっち上げだと思う」

     それでも心配になったロメオは翌日、法律に詳しい友人にこの一件を相談した。

    その友人が知り合いの遺産相続専門の弁護士に意見を訊いてみてくれたところ、死後認知を裁判所に申立てる場合、少なくとも問題となる非嫡出子の死後数年以内に行わなければならないが、ジュゼッペの孫と名乗っている女性の母親は何十年も前に亡くなっているため、死後認知を受けるのは不可能なはずだと言う答えが返ってきた。

     「取り越し苦労だったみたいだよ」

    友人からの報告を聞いたロメオは安心したように言った。

     その後、この弁護士が電話をかけてくることは二度となかったので、私達はそれ以上深く考えることはしなかった。そして、この一件は次第に私達の記憶の片隅に埋もれていってしまったのだ。




    第四章 出生の秘密

     

    鑑定

     十月二十日、公証人ライモンディからボローニャ大学法学部の教授が作成した遺言状の見解書が郵送されてきた。


    三十ページ以上に渡る見解書を要約すると、遺言状で譲与の対象となっているのは、不動産そのものではなく、不動産から得られるすべての収益、すなわち用益権であること。遺言状に記されたもう一人の相続人『或る人物』は名前もなく、身元の割り出しが不可能なため、この人物の相続権は無効であり、その権利はオクタヴィアに移転されること。用益権はオクタヴィアが死亡するまで続くこと。用益権を遺産の一部に換算することは困難だが、各不動産から得られる収入を査定し、オクタヴィアの存命中に得られると想定される金額を計算することは可能であり、そのためにはまず、全ての不動産の評価を行う必要があると言う内容だった。

    「数日中に鑑定士を決定しなければならない」

    ロメオは言った。

    「私はフェルネーゼに評価して貰うべきだと思う。ライモンディの知り合いなら、五十パーセントにバルベリアとサン・マモロの物件が収まるように評価してくれるかも知れないでしょう?」

    「問題はヴィラだ。ヴィラまでは五十パーセントに収まりきらないだろう。僕は遺言状の用益権を盾に何とかヴィラも母さんの相続分に含めたいと思っている」

    しかしあの親族会の様子では、バルベリア通りとサン・マモロ通りの物件を両方相続するのさえ困難だろうと私は思った。

    「レオナルドに電話したところ、彼等はどちらの鑑定士でも構わないらしい。

    鑑定料が安いほうを選ぶつもりだと言っていた。僕はファルネーゼのほうが好ましいと言っておいたけどね。

    今、ポリーニとファルネーゼの二人の鑑定士に鑑定料の見積もりを出してもらっているらしい」

    しかし、鑑定料はファルネーゼのほうが高額だった。
    レオナルド・メンギーニはポリーニに鑑定を依頼すると連絡してきた。

    私達は行きつけのカフェでこのことについて話し合った。

    「鑑定料を別に払っても僕達は僕達でファルネーゼに評価を依頼すべきだよ」

    ロメオは主張した。

    「同感よ」

    私は彼に同調した。

    「不動産の評価はとても重要だと思うの。評価額によって相続分はかなり左右されるはずよ」

    しかしオクタヴィアは反対した。

    「ファルネーゼの鑑定料は一万五千ユーロもするのよ。わたし一人で払うには高額すぎるわ。それに加えてポリーニの鑑定料の七分の一も払わないといけないのよ」

    「母さんはファルネーゼに依頼するんだから、ポリーニの鑑定料を払う必要はないだろう」

    「私だけファルネーゼに依頼すると言ったら、彼等はきっと怒るに違いないわ」

    オクタヴィアは頑なだった。

    「そんなこと関係ないだろう。不動産の評価はとても重要なんだ。彼等に遠慮することはないよ」

    「とにかく、わたしはファルネーゼに依頼する気はありません。

    彼等がポリーニに決めたなら、それでいいじゃないの。

    わたしは必要以上にメンギーニ達を刺激したくないのよ」

    オクタヴィアは怒り出した。

    「母さん。別に悪いことをするわけじゃないんだよ。

    納得のいく評価を信頼のおける鑑定士に行ってもらって何が悪いんだよ」

    ロメオはなだめる様に言ったが、オクタヴィアはもう沢山と言わんばかりに彼の言葉を遮った。

    「いい加減にしなさい!

    相続人はわたしなのよ。

    彼等との関係をむやみに悪化させたら、後でどんな嫌がらせをされるか分からないわ。

    争いはもう沢山なの。

    もう二度とこの話をしないで頂戴!」

    彼女は激しい口調で言い捨てると、荒々しく席を立ってカフェから出て行ってしまった。

    私達は顔を見合わせた。オクタヴィアはこうなると手がつけられない。

    「なんだい、あの態度は?

    僕達は母さんのために助言しているのに」

    ロメオは憤慨した。

    私は溜息をついた。

    「今は何を言っても無駄よ。彼女の機嫌が直った時にもう一度説得してみたら?」

    「判るかい?僕の苦労が。

    ただでさえ大変なことに立ち向かっているのに、母さんは恐ろしくマイナス思考の上に気難しくて、機嫌が悪いと論理が全然通用しないんだ」

    「あなたのお母さんでしょう?」

    そう言いながら、私は憂鬱な気分になった。

    しかしその数日後、ライモンディの元を訪れると事態は百八十度変わった。

    ライモンディはオクタヴィアがメンギーニに合わせてポリーニに評価を依頼するつもりだと告げると、とんでもないと大反対した。

    「奥さん。いいですか。

    不動産の評価は遺産相続において最も重要な鍵になります。評価額によって貴女の相続分に何百万ユーロもの違いが出てくるんですよ。ポリーニは工学士ですが、土地のことや、アパートの賃貸状態のことなど全然判っていない。

    その点、ファルネーゼは土地測量技師で不動産評価のプロです。

    例え一万五千ユーロの鑑定料がかかったとして、それが何ですか?

    この鑑定料を出し惜しんでポリーニなどに評価させたら後できっと後悔しますよ」

    「でも、今のわたしに一万五千ユーロの鑑定料を一人で払うのは無理ですわ」

    ライモンディのあまりの剣幕に圧倒されながらもオクタヴィアは遠慮がち言った。

    「そんなことを気にしていたんですか!」

    ライモンディは噛み付くようにそう言うと、呆れたように首を振った。

    「お金のことは心配しないで下さい。鑑定料は私が立て替えておきます。ですからそんなつまらないことを心配せずに、私を信用して任せて下さい」

    「判りました。お任せします」


    オクタヴィアは数日前、あれほど頑なに拒んでいたのが嘘のように素直に同意した。

    ライモンディには相手を一瞬のうちに納得させてしまうパワーと説得力があった。

    そして、ライモンディは正しかった。

    ライモンディの依頼を受けたファルネーゼがいざ不動産の評価を開始してみると、メンギーニ側の鑑定士ポリーニの評価額とかなりの差があることが明らかになった。


    ライモンディの報告によれば、ポリーニが二百五十万万ユーロと評価したボローニャ郊外のゴベッティ通りにある土地を、ファルネーゼは建築可能地区で五百万ユーロ以上の価値があると鑑定した。しかも、メンギーニ達がわざと建築可能地区であることを伏せておくようにポリーニに指図した可能性があるらしい。

    私は不動産や土地のことはまるで分からないが、鑑定士によって評価額にこれほど差があるとは驚きだった。


    ライモンディによれば、ポリーニは確かに鑑定料が安いが、建物を外から眺めるだけで、中には入らずに評価を行なっているそうで、そのほとんどが賃貸されているサン・マモロ通りの物件に関しても、賃貸契約の条件や期限を全く調べずに鑑定しているようだった。

    しかし、賃借者のいる物件の場合、賃貸条件や契約期間が後どのくらい残っているかによって不動産評価がかなり変わってくるそうなのだ。


    「ポリーニは、賃借者のいる物件は通常の評価額から単純に三十パーセント引いて計算しているらしい。あまりにも杜撰だと思わないかい?」

    ロメオは憤った。


    しかも、途中経過を聞いてみると、ポリーニの評価額は、オクタヴィアが希望しているバルベルア通り、サン・マモロ通り、ヴィラ・マルヴァジアの評価額がやけに高く、逆にゴベッティ通りの土地など、メンギーニ側に行きそうな物件の評価額が極端に低い。

    これはどう考えても偶然とは思えなかった。


    「これではっきりしただろう。ライモンディも言っていることだけど、奴らはポリーニに自分達に都合がいいように評価させようとしている。母さんがあのまま意地を張ってファルネーゼに評価させることを拒否していたら、大損するところだったんだ」

    ロメオは続けた。

    「ライモンディはファルネーゼの鑑定が終了したら、その評価額を基に母さんの用益権が金額にすると幾らに相当するのか、計算することが出来るはずだと言っている」

    「でもメンギーニ達がそう簡単に認めると思う?」

    私はレオナルド・メンギーニの態度を思い出した。

    前途多難なのは確かである。

    「確かに、奴らのことだからそう簡単には認めないだろうね」

    ロメオは頷いた。

    「ただ、このままだと彼らが相続するのは虚有権しかない不動産で、売ることも活用することも出来ず、賃収入も全く彼等の懐には入らない。

    だからライモンディは遺言状の用益権を放棄する代わり、用益権を現金に換算した額に相当する不動産を母さんが余分に相続出来るよう交渉するつもりらしい。

    そのためにも、ファルネーゼが出す不動産の評価額はとても重要なんだよ」

    「鑑定はいつ終わる予定なの?」

    「一ヶ月半はかかるそうだから、十二月中旬になるそうだよ」

    「一刻も早く、全てが終わるといいわね」

    私は心からそう願っていた。

     ◇◆◇◆◇

    相続税

     十一月、秋の情緒が忍び寄る冬の枯寂に侵食されていく季節、灰色の空、薄寒い空気、そして霧――

     そして相続税の支払い期限が近づいてきた。オクタヴィアが支払わなければならない相続税は十五万ユーロ。一般庶民の私には莫大な額のように思えるが、実は相続する財産のほんの三パーセントに過ぎない。

    これは当時、イタリア首相であったシルヴィオ・ベルルスコーニが行なった悪政のひとつ、二〇〇一年の相続税廃止によって、相続税が大幅に削減されたためだ。

    私もロメオも決してベルルスコーニ派ではないが、ベルルスコーニ政権時代に相続出来たことは非常に幸運だったと言わねばならない。

     当初、相続税は、遺産の一部である土地の売却金で支払うと言っていたレオナルド・メンギーニは、支払期日の一週間前になって、やはり遺産の不動産は使えない、各々が自らの私財から支払うべしと遺産管理人を通じて通告してきた。

    まだ遺産を手にしていないオクタヴィアに十五万ユーロもの大金を支払うのは不可能であったが、ライモンディが保証人となり、彼の友人が頭取を務める銀行から融資を受けることで、この問題は解決した。

     ライモンディがいとも簡単にこの問題を解決してしまったので、私達はこの時、事の重大さに全く気が付いていなかった。

    しかしながら、ライモンディは後に怒りを込めて事の真相を語ってくれた。

    すなわち、遺産の一部で相続税を支払うと言ってオクタヴィアを安心させ、支払期日直前に各自の私財から支払うよう指示してきたのは、メンギーニ一族の狡猾かつ卑劣な陰謀に他ならなかったと言うのだ。

     

    ミケーレ・オルシーニが後に彼に打ち明けたところによれば、レオナルド・メンギーニはオクタヴィアの窮迫した経済状態では、十五万ユーロもの相続税を支払うことはどう考えても不可能なことを百も承知していた。そして、ぎりぎりになって遺産に手が出せないと言えば、彼女が窮地に立たされることも――

     彼等は金の工面が出来ず、オクタヴィアが泣きついてくるのを待っていたのだ。

    そして、相続税を立て替えることを条件に、彼らの提示する条件で遺産分割を執り行うと言う同意書に署名させる。

    世間知らずで味方のいない、そして何よりも追い詰められた彼女には、彼等の条件を呑む以外、選択肢はないはずだ――

    彼等はそう踏んでいたのだ。

     

    「私が遺産管理人を通じて、オクタヴィアさんが無事に相続税を支払ったと伝えた時、彼らは地団駄を踏んで悔しがったに違いありませんよ」

    ライモンディは侮蔑も露わにしてこう断言した。

    「彼等はほぼ確実に勝利した気になっていましたからね」

     

    今、こうして冷静に振り返ってみると、霧が晴れたように様々な事柄が整然と繋がって見える。様々なことが狡猾かつ周到に計算され、仕組まれていたことが――

     

    そう、オクタヴィアが最初の親族会で署名した私文書も彼等が仕組んだ罠だったのだ。オクタヴィアはこの書類に署名したことで、相続税を十一月に支払わざるを得ない状況に立たされた。彼等の目的は彼女に時間を与えないことだったのだ。

    しかし、当時は、全ての情報が人を介した又聞きで、無秩序にばらまかれ、まるで霧中にいるように全てが混沌としていた。

     

    私達が実はこの時、湿地帯の小径を無防備に歩いていたこと、一歩間違えれば底無し沼に足を捕られていたことを知ったのは、もっとずっと後になってからだ。

     

    この時期、オクタヴィア達はほとんど毎週のようにボローニャに足を運んでいたが、私は仕事が忙しかったこともあり、彼等に同行することはほとんどなかった。

    しかしロメオの話から、ライモンディが相続税の支払いを始め、右も左も分からないオクタヴィアを全面的にサポートしていること、頼るべき友人もいないオクタヴィアにとって頼もしい相談役であることが伺い知れた。


    ◆◇◇◆

    隠し子

     こうして十一月も終わりに近づいたある土曜日の夕方、ライモンディに会うためにオクタヴィアと朝からボローニャに行っていたロメオが、大変なことがわかった、急いで話したいからすぐ会いたいと慌しく電話をかけてきた。


    「いいけど――一体何事?」

    「会ってから話す」

    彼はそれだけ言うとさっさと電話を切ってしまった。

    訳の分からない私はロメオが来るのを待った。


    「大変だよ!」

    ロメオは私の顔を見るなり、興奮して大声を出した。

    「一体どうしたのよ?」

    「カイロリが言っていたことを覚えてる?

    ロレンツォに隠し子がいるって話」

    「ああ――でもあれは、お義母さんを唯一の相続人にするためにカイロリがでっちあげた話でしょう?」

    「ライモンディも同じことを言い出したんだよ。ロレンツォには娘がいる。そしてそれは母さんだと思うって」

    「ええっ!」

    「ライモンディはこのことはボローニャでは結構有名な話で、証人が何人もいると言うんだ」

    「でも、それがお義母さんだって証拠はあるの?」

    「はっきりとした証拠はない。

    でも遺言状にあったのは母さんの名前だけだ。だからライモンディは娘が本当に存在するなら、それは母さんに違いないって言うんだよ」

    「信じられない――

    だってお義母さんには、ちゃんと父親がいたじゃない?

    ロメオのお祖父さんのアルベルト・セーラが――」

    「勿論。だから僕も最初、突拍子のない話だと、ライモンディの勘違いだと思った。でもカイロリもこのことを知っていた」

    「まさか?」

    「母さんは僕に嘘をついていたんだ。

    六月にカイロリが母さんを別室に呼んで話したのは、本当はこのことだったんだ」

    「――――」

    「あの時、母さんは動揺して、相当のショックを受けたんだと思う。

    だから僕には、カイロリが噂話を利用して母さんを娘にでっち上げようとしているような言い方をして、誤魔化したんだ。

    カイロリはロレンツォが所有していた土地に興味があったから、彼の死後、色々嗅ぎ回っていたらしい。

    それでロレンツォが死ぬ直前まで入院していた病院で彼に付き添っていた看護婦から、彼が自分には娘がいると話していたことを聞き出したんだ」

    これが、事実だとしたら驚くべき話である。

    「それに、もう一人証人がいる」

    「証人?」

    「アンジョーニだよ、ロレンツォの専属会計士の。

    ライモンディはアンジョーニに話を訊きに行ったらしい」

    「でもアンジョーニは、ロレンツォの口座からお金を引き出して以来、家に閉じ篭って誰にも会わなかったんじゃないの?」

    「うん。でもライモンディはそう簡単に引き下がる男じゃないからね。

    彼のアパートのインターホンを二十分以上鳴らし続けてついに扉を開けさせることに成功したそうだよ」

    ロメオはニヤリと笑った。

    「アンジョーニは病院で亡くなったロレンツォの最期を看取った人物なんだ。

    ロレンツォは亡くなる直前に、自分には娘がいると言い残して息を引き取ったと、アンジョーニが証言したらしい。

    そして名前までは言わなかったけど、遺言状に唯一名前のあるオクタヴィア・セーラだと思うとね」

    「じゃあ、娘がいると言うのは事実なのね?」

    私は驚きを隠せなかった。

    「ああ。ライモンディは知り合いの病院に相談しに行ったらしい。

    それで、もし僕達が何らかの方法でロレンツォの髪の毛を入手出来れば、すぐにその病院で極秘にDNA鑑定を行なってもらえる手筈になっていると言った。

    ライモンディは公証人だよ。何でそこまでするんだよ?

    公証人のライモンディがわざわざ病院まで行って、DNA鑑定の相談をするなんて、おかしいだろう?」

    確かにそうだ――

    単なる噂話だったら、ライモンディもそこまではしないだろう。

    しかも数ヶ月前、カイロリも全く同じことを言っていた。


    しかし、この時はまだオクタヴィアの実の父親がロレンツォだとは信じられずにいた。

    ロメオの話によれば、ロレンツォは内気で人間嫌いな性格で、家に閉じ篭りっきりだったはずである。隠し子がいたなんてちょっと信じられないが、本人が死ぬ間際にそう言ったのなら事実に間違いないだろう。

    しかしロメオの祖母のレーアが、ロレンツォの相手の女性だったと言う話はどうしてもピンとこなかった。私は生前のレーアに何度か会ったことがあるが、美しいだけでなく、知的で何よりも誇り高い女性だった。そんな女性が夫を裏切り、他の男性の子を生んでいたなんて、とても信じられなかったのだ。

    ロメオも同じ思いだったに違いない。

    「母さんが生まれたのはミラノ県のマジェンタだよ。当時、祖母もマジェンタに住んでいたそうだからね。ボローニャから出たことのないロレンツォと接する機会なんてあったのかなあ?」

    「でもロメオのお祖母さんとロレンツォは従兄妹同士でしょう?

    親戚なら会うこともあったんじゃないの?」

    「でも――僕にはどうしても信じられないよ。祖母がロレンツォと出来てたなんて――」

    しかしライモンディの指示で、レーアの結婚証明書とオクタヴィアの戸籍謄本を取り寄せたところ、衝撃的な事実が明らかになった。

    オクタヴィアは一九四七年生まれ。

    しかし、レーアが夫のアルベルト・セーラと結婚したのは一九五〇年で、オクタヴィアが生まれてから三年も後のことだった。

    そして結婚直後、二人は当時三才だったオクタヴィアを連れてアフリカに移住していた。

    更に、オクタヴィアの戸籍謄本から、アルベルトがレーアと結婚した翌年、一九五一年の十二月に在コンゴ・イタリア領事館でオクタヴィアを娘と認める認知手続きを行なっていたことが分かった。

    しかも、オクタヴィアはアフリカに移住する二歳までボローニャの里親に預けられたこと、週末にミラノで働くレーアが彼女に会いに来ていたことを、幼い当時にしてははっきりと記憶していた。

    そしてその数日後、更に驚くべきことを聞かされることになる。


     ◆◇◇◆

    オクタヴィアの告白 

    ミラノの中心街をブラブラしていた私の携帯電話が鳴った。

    ロメオからだ。

    「大変だよ!」

    ロメオの「大変」にはもう慣れた。最近こんな電話ばかりだ。

    「母さんが重要なことをずっと隠していたんだ」

    「重要なこと?」

    「去年の十一月にジルダ・メンギーニから母さんに電話があったんだ。

    母さんがロレンツォの娘だって告げる電話がね」

    「何ですって?」

    私は人目も憚らず大声を出した。

    「母さんは、今の今までずっとこの電話のことを僕に隠していたんだ。今から何時ものカフェに来られないかな?母さんと一緒に待ってるよ」

    「分かった。今、地下鉄に乗る所だから、二十分ぐらいでそっちに行けると思う」

    そう言って私は電話を切った。


    カフェに到着した私はロメオと一緒にオクタヴィアと向かい合った。

    「ほら母さん、さっきの話をもっと詳しく話してよ」

    ロメオに促され、オクタヴィアが苦悩に満ちた表情で重い口を開いた。

    「実は、ずっとロメオにも言えずに隠していたことなんだけど――去年の十一月頃、突然ジルダから、電話がかかってきたの」

    私達はオクタヴィアの次の言葉を待った。

    「びっくりしたわ。彼女とは二十年ほど前に一度会ったきりで、全く交流はなかったし。彼女、電話でいきなりこう言ったの。

    『ロレンツォの財産は全て貴女のものよ。だって貴女は彼の娘なのだから』って。

    わたしは自分の耳を疑ったわ。悪意のある噂話を聞いて興味本位で電話してきたんじゃないかと思って嫌な気分になったわ。それで怒って言ったの。

    『何馬鹿なことを言っているの』って。

    するとジルダは言ったわ。

    『貴女、お母さんから何も聞いていないの?

    貴女の本当の父親はロレンツォなのよ。だからボローニャの彼の傍に行ってあげなさい』って。

    わたしは不機嫌になって無愛想な返事をしたわ。彼女は私が明らかに怒っているのを感じたのね。

    それでも詳しいことを私に話したいから、気持ちが落ち着いたら電話してくるように言ったわ。電話のジルダはすごく親切だった。

    でもその時、ロメオが家に帰ってきて――

    わたしは彼に聞かれたくなかったから、動揺して電話をそのまま切ってしまったのよ」

    オクタヴィアは思い出すように言った。

    「それから一週間後、ジルダが再び電話をかけてきたの。

    この間、わたしが電話を途中で切ってしまったことに腹を立てているようだった。

    『この間はわざと電話を切ったでしょう。私は真実を教えてあげようとしただけなのに。』と言ってきたわ。

    その時、傍にロメオがいたから、彼に悟られたくなくて、間違い電話のようなふりをして『えっ何を言ってるんですか?何ですか?』って聞き返すと、ジルダは『分かったわ。貴女が知りたくないのなら、もう二度と電話しません』そう言って電話を切ってしまったの。

    それっきり、もう二度と電話をかけてくることはなかったわ」

    「その時のこと、僕覚えているよ。

    その後、母さんに誰からか聞いたら、悪戯電話だったって答えたよね」

    「ええ。その時は――そんな話とても信じられなかったし、いずれにしてもそんな電話があったことをあなたに知られたくなかったの」

    「じゃあ、ジルダ・メンギーニは真実を知っていたってことね。それで、その電話があったのはロレンツォが亡くなる前?それとも後?」

    私が訊ねるとオクタヴィアは困った顔をした。

    「それが微妙なところなのよ。確か十一月頃だったと思うんだけど――」

    私は、はっとした。バラバラになっていたパズルの断片が繋ぎ合わされるように、数ヶ月前にロメオと交わした会話が鮮やかに脳裏で蘇った。


    「でも、おかしいよ。ジルダはカイロリに母さんのことを訊かれた時、会ったこともないって答えたんだろう?」

    私と同じことに気がついたロメオが先に口を開いた。

    「ええ。それどころか、わたしはアフリカに住んでいるはずだって」

    オクタヴィアは頷いた。

    「ジルダが電話をかけてきた時、彼女はまだロレンツォが亡くなったことを知らなかったのかもしれないわね」

    私は考え込みながら言った。

    でも、ロレンツォが病気で臥せっている事は知っていた。

    だからオクタヴィアに真実を告げ、実の父親の傍にいてあげるよう助言するために親切心から電話をしてきた。

    しかしその後、ロレンツォの死を知り、叔母のオルガがロレンツォの二十日後に亡くなったことで、思いがけず彼女とその兄弟も法定相続人になったことを知った。

    ジルダは出来心からオクタヴィアに真実を告げる電話をかけてしまったことを後悔したのかもしれない。


    「彼女は自分が相続人になるとは思っていなかったから、母さんに電話して真実を告げようとした。でもその後、自分達も相続人になっていることを知って、慌ててカイロリに嘘を言ったんだよ。母さんには会ったこともないって。

    自分と弟達の相続人としての立場を守るためにね。」

    ロメオは怒りを込めて言った。

    「でも、彼女は真実を教えるためにわざわざ二度も、ほとんど会ったことのないお義母さんに電話をかけてきたんでしょう?

    彼女は他のメンギーニ達と違っていい人なのかもしれない。その人にもう一度、電話して事実を確認してみたら?」

    私はジルダ・メンギーニが兄弟達とは違うような気がした。


    「でも、彼女はカイロリにわたしはアフリカにいるはずだなんて嘘を言ったのよ。本当にいい人なら、カイロリに本当の事を言ったはずだわ」

    オクタヴィアは反論した。

    「あら、でも電話を途中で切ってしまったのはお義母さんでしょう?

    本人が知りたくない事を、わざわざ第三者に報告するようなおせっかいな事は普通しないんじゃないかしら?」

    私は主張した。

    「だいたい母さんも、どうしてそんな重大な電話を途中で切ってしまったりするんだよ。

    もっとちゃんと話を聞いていたら――」

    ロメオは母を責めた。

    「だって――突然電話でそんなことを言われて、びっくりしたし、腹が立ったのよ。

    その時は信じていなかったし――」

    「だからって何も途中で電話を切らなくても――」

    「私も同じことをしたと思う」

    私はオクタヴィアを庇った。

    「同じことって――」

    「当たり前じゃない。音信不通の遠縁の親戚がいきなり電話をかけてきて、お前の本当の父親は別人だなんて言い出したら、誰だって怒るわよ。私も怒って電話を切ったと思う」

    「そうかなあ――僕なら話だけでも聞いてみると思うけど」

    「ロメオはお父さんがいないから、そう思うのよ」


    ロメオにとって離婚後、一度も自分に会いに来なかった父親はもはや他人同然の存在だ。仮に父親が別人だと告げられても、オクタヴィアが今、受けているような衝撃を受けることはないだろう。

    しかし、オクタヴィアは違う。

    彼女はずっと父親の愛情を満身に受けて育った。勿論、自分の本当の父親が別にいるとは露ほども疑わずに――

      ◇◆◇◆◇

    証人探し 

     思いがけない事実が明らかになり、オクタヴィアは明らかに動揺していた。

    ライモンディは目下、遺言状の有効性に焦点を当てた戦略を進めている。

    しかし、もしこの話が真実で、本当にオクタヴィアがロレンツォの娘なら、そして彼女に相続争いでこのことを明らかにする意思があるのなら、今後の方向性は百八十度変わってくる。

    すなわち、かつてカイロリが言っていたように、死後認知訴訟を起すと言う方向に――

     しかしオクタヴィアは迷っているようだった。

    父と信じていたアルベルト・セーラが実は本当の父親ではなかったと言う衝撃的な事実を認めたくないのだろうと私は思った。

    そして何よりも彼女がロレンツォの娘であると言う、はっきりとした証拠はなかった。

    アンジョーニはロレンツォに娘がいることは知っていたが、名前までは知らなかった。オクタヴィアは真実を聞き出そうとこの老会計士に何度も電話をかけたが、アンジョーニは決して電話に出ようとしなかった。

     

    十二月に入ると、レオナルド・メンギーニがファルネーゼの不動産評価はいつ終わるのかと、催促する電話を何度もかけてきた。メンギーニ達の鑑定士ポリーニの鑑定評価は十一月末に完了したので、遺産分割協議を早く済ませてしまいたいのだろう。

     

    「今日、母さんがジルダ・メンギーニに電話してみたよ。真実を教えてくれってね」

    ロメオがそう言ったのはオクタヴィアとカフェで会った数日後の夜のことだ。

    「それで――ジルダは何て言ったの?」

    「ひどい話だよ。『私は何も知らないし、貴女は何も聞きたくないから電話を切ったんでしょう』って冷たく答えたそうだよ」

    「そう――」

    私はがっかりして溜息をついた。

     ジルダがいい人で、真実を教えてくれるなんて、私の考えが甘かったのかもしれない。莫大な遺産が絡むと人は平気で嘘をつくのだろうか。

     「ジルダのことはもういいよ。彼女も所詮メンギーニ一族の一員ってことさ。

    兄弟達のためにも、このことは黙っていようと決めたんだろう」

    そういいながらもロメオの顔には失望の色がありありと浮かんでいた。

    「それより、母さんがボローニャの里親だった女性の名前を覚えていたんだ。

    その人を何とか探し出せないかな?」

    「そうねえ。でももう五十年以上も昔の話でしょう?」

    「里親には二人の娘がいたって母さんが言っていた。

    当時十二歳と十三歳だったはずだって。乳母の女性が仮に亡くなっていても、娘達はまだ生きていると思うよ」

     

    私達はオクタヴィアが覚えていた名前を頼りに、インターネットの電話帳ページで里親とその娘達を探し始めた。

     

    「里親だった女性の名前はイレーネ・フォンターナだと母さんが言っていた」

    私はボローニャ県内でイレーネ・フォンターナの名前で登録されている電話番号を検索してみた。

    「該当する電話番号はないわね」

    「じゃあ、娘の名前で探して見よう。

    マリア・フォンターナとアリーチェ・フォンターナだ。」

    「マリアから行ってみるわね」

     

    私はキーボードでマリア・フォンターナと打ち込んで検索ボタンを押した。

    「あった!」

     

    マリア・ルイーザ・フォンターナ
    サン・メンギーニ通り二十四番地 ボローニャ市

     マリア・ファンターナ
    アルベルギ通り十三番地 カステル・ディ・カジオ市(ボローニャ県)

    マリア・アンナ・フォンターナ
    ローマ通り三番地 モルダーノ市(ボローニャ県)

     

    「同姓同名が三人もいるわよ。マリアもフォンターナも比較的多い名前だし――これじゃあ誰か分からないわね」

    「ひとりずつ電話してみよう」

    「えっ――でも何て言うのよ?」

     しかしロメオは私が止める間もなく、最初のひとりに電話を掛け始めた。

    「もしもし――マリア・ファンターナさんですか?

    すみません。突然。お電話して――実は母の乳母をしていた女性を探しているんですが、貴女のお母さんはひょっとしてイレーネ・フォンターナさんじゃないですか?」

    ロメオはいきなり単刀直入に切り出した。

    「違いますか。それはどうも失礼しました。実は昔、母がお世話になったこの女性を探してるんです」

     

    こんな調子で三人に電話をかけてみたが、三人ともイレーネ・フォンターナとは関係のない人物だった。

    アリーチェ・フォンターナの名前でも検索してみたが、結果は同じだった。

     

    「うまく行かないものね」

    私達はがっかりして床に座り込んだ。

    「女性の場合、結婚していたら、電話はたいてい夫名義になっているだろうし、第一、今でもボローニャ県内に住んでいるとは限らないから、ボローニャだけに限定して探すのもどうかと思う」

    「そうだね。当時のことを知っている人を探すにも、もう五十年以上も昔の話だから、祖母の親戚や友人は皆亡くなってしまっているし――」

     

    それでもオクタヴィアのうろ覚えの記憶を頼りに、当時マジェンタに住んでいたレーアの友人の名前で検索してみたが、該当する人物は見つからず、私達の証人探しはすぐに行き詰った。

     

    「インターネットの電話帳サイトだけで探すのはやっぱり安易だったわね。

    プライバシーを理由に電話帳に電話番号を登録していない人も沢山いるもの」

    「ライモンディに頼んでみよう。公証人の彼なら住民票から簡単に見つけることが出来るかもしれない」

     

    私達がインターネットで証人探しをしていたちょうどその時、オクタヴィアは父アルベルトのコンゴ時代の仕事のパートナー、エンツォ・ベルナールと連絡を取っていた。そして決定的な証言を得ていたのだ。

     

    「エンツォさんは父がコンゴで起した会社の共同経営者だった人よ。父とは長い付き合いで、とても親しくしていたから、何か知っているんじゃないかと思って電話してみたのよ」

     

    翌日、私はオクタヴィア自身の口から電話の内容を聞いた。

     「エンツォさんはわたしが何も知らないことにひどく驚いていたわ。

    『なんということだ!オクタヴィア、君のお母さんは何も言わなかったのね?』って。

    そしてこう言ったの。

    『アルベルトは君を本当の娘と同じように心から愛していた。彼は君のお母さんを深く愛していたからね。でも君の本当の父親ではないんだよ』って」

     

    オクタヴィアの大きな瞳は悲しみで一杯だった。

    おそらく、エンツォ・ベルナールの話を聞くまで、何かの間違いであって欲しいと僅かな望みを抱いていたのだろう。

     

    「エンツォさんは本当の父親の名前までは知らなかったわ。ただボローニャ出身の青年だと聞いているって」

    「ボローニャの青年?じゃあロレンツォに違いないよ」

    ロメオは叫んだ。

    オクタヴィアは両手で顔を覆った。

    「母は――どうして本当のことを言ってくれなかったのかしら?

    父はわたしが十六の時に亡くなったのよ。本当のことを言う時間は幾らでもあったのに――この歳になって、いきなり父親は別の人だと告げられたわたしの気持ちはあなた達には分からないわ」

     

    私達は肩を震わせて嗚咽するオクタヴィアをただ黙って見守るしかなかった。

    そしてオクタヴィアは、遺産分割協議はこれまで通り、遺言状の有効性に焦点を当てた方向性で進め、ロレンツォの娘説に関しては、取り敢えず保留にしておくつもりだと話した。

     

    エンツォ・ベルナールの話から、オクタヴィアの実の父親がアルベルト・セーラではなかったと言う事実は確実になった。しかし、本当の父親がロレンツォであると言う確証はまだなかった。   

     

     ◇◆◇◆◇

    ロレンツォの家

     クリスマスも間近に迫った十二月二十日、ファルネーゼによるアンジェリ家資産の鑑定評価報告書が完成したと言うので、朝からボローニャのライモンディの事務所に向かった。

     

    「その後、バルベリア通りのアパートメントで遺産管理人と待ち合わせをしたよ」

    ハンドルを握りながらロメオは言った。

    「どうして?」

    「ロレンツォの住居を見せてもらう事になっているんだよ」

    「ロレンツォの住居?」

    「髪の毛を探すためにね」

    ロメオは後部座席の私を振り返って悪戯っぽく笑った。

    「ええっ!」

    「他にも、何か手掛かりになるものが残っているかもしれないからね」

    「でも遺産管理人って、レオナルド・メンギーニが雇った人でしょう?

    部屋の中をうろうろ探し回っていたら怪しまれるんじゃない?」

    「大丈夫。わたしが適当な世間話をして、彼女を入口付近に引き付けておくから、その間にあなた達が奥のロレンツォの寝室を探してちょうだい」

    オクタヴィアが言った。

    「彼女?遺産管理人って女性なの?」

    「うん。何でもレオナルドの娘エリーザの知り合いの会計士らしいよ」

    ロメオが答えた。

     

    ――まさに映画か推理小説のような展開である。

    しかし、内気で口下手なオクタヴィアに、遺産管理人を「世間話」で長時間引き止めておくと言う大役が果たして務まるのだろうか?

     

    朝から凍るような風が頬を刺す寒さだったが、パルマを過ぎた辺りから白い薄片がちらほら舞い始めた。

    ボローニャに到着すると、私達は車をサン・マモロ通りに駐車し、徒歩で旧市街中心にあるライモンディの事務所に向かった。

    雪はますます激しくなり、高速道路では黒い路面に吸い込まれるように消えていた雪が、建物の屋根や路地をうっすらと白く染め始めた。

    こんな日も柱廊(ポルティコ)のおかげで濡れずに済む。ボローニャの街を華やかに飾る柱廊(ポルティコ)は目を楽しませてくれるだけでなく、冷たい雨や夏の日差しから、行き交う人を守ってくれるのだ。

     

    ライモンディの事務所に着くと、土地測量技師のファルネーゼが既に到着していた。

    ファルネーゼは熱血漢タイプのライモンディとは対照的な四十代半ばの知的で落ち着いた感じの男性だった。

    ファルネーゼは革の鞄から鑑定評価報告書を取り出すと早速、説明を始めた。

     

    「アンジェリ家の不動産は興味深いものばかりですが、特にゴベッティ通りの三区画の土地には隠された価値があることが判明しました」

    「隠された価値?」

    ロメオが聞き返した。

    「そうです。ゴベッティ通り一帯はボローニャ市が計画している新しい都市開発事業の施行区域なんです。この一帯に緑地、市街地、公共施設、大型商業施設が建設される予定です。予定地となっている土地のほとんどが市の所有地なのですが、その中にロレンツォ・アンジェリ氏所有の私有地が含まれています。

    このことは建設業界では既に有名で、大手の建設会社や不動産業者が早くもアンジェリ家の土地に目をつけ、かなり以前から買収しようと水面下で動いているらしいですよ。

    都市開発が進めば、地価も数倍に跳ね上がりますからね」

     

    私の脳裏にカイロリの顔が浮かんだ。

    カイロリは不動産業者だから、当然この都市開発のことを知っていたに違いない。だから何とかこの土地を手に入れようと、ロレンツォの生前から画策を練っていたのだ。

     

    「勿論、今はまだ計画段階ですから、この都市開発の事を知っているのは市の開発事業部の人間や開発計画に直接関与している専門家、それに建設業界、不動産業界の人間など、ごく一部の人間に限られています」

    ここでライモンディが口を挟んだ。

    「奥さん、覚えていますか?貴女がファルネーゼ君に鑑定評価を依頼することを躊躇されていた事を。

    メンギーニ側の鑑定家のポリーニが、ゴベッティ通りの土地に付けた評価額をご存知ですか?

    三区画合わせて二百五十万ユーロです。同じ土地がファルネーゼ君の評価では五百十五万ユーロですよ。鑑定料を惜しんでポリーニなどに評価を任せていたら、貴女は大損する所だったんですよ」

    オクタヴィアは目を丸くした。

    「五百十五万ユーロ?」

    「ええ」

    ファルネーゼが相槌を打った。

    「ポリーニ氏はこの区域が建築可能地区であることも無視した評価を行なっています。市の都市計画については、一部の人間しか知らないことですから、ポリーニ氏が知らないのも無理ないですが、建築可能区域であることを見落とす訳がありません」

    「つまり、メンギーニに買収された可能性があると言うことですか?」

    ロメオが身を乗り出した。

    「そう考えるのが妥当でしょう」

    ファルネーゼは頷いた。

    「裁判所選任鑑定人も務めるポリーニ氏が、そんな鑑定ミスを犯すわけがありませんからね」

    「では、故意に低く評価したと言うんですか」

    オクタヴィアが目をみはった。

    「おそらくそうだと思います。

    それからもうひとつ。私がこの区域の都市開発のことをもっと詳しく知るために、市役所の開発事業部に話を聞きに行きました。

    すると、数週間前に同じ事を訊きに来た人間がいたと、そこの責任者が言っていました」

    「まさか、メンギーニの誰かが!」

    私とロメオは同時に叫んだ。

    「レオナルド・メンギーニは以前、旧市街の建物には興味はない。自分はゴベッティ通りの土地を希望するつもりだと言っていました。彼はゴベッティ通りの価値に気が付いていたんだ」

    ロメオは思い出したように言った。

     

    「これで分かったでしょう?メンギーニ達がいかに狡猾な人間か」

    ライモンディがはっきりと言った。

    「連中は、自分たちが少しでも多く相続するために、貴方方を何度も欺こうとしました。まず遺言状を無視しようとしました。それに失敗すると、こんどは鑑定評価額を操作して自分達の相続分が多くなるように画策しようとしているんです」

     

    ファルネーゼが去ると、ライモンディは相続争いの現在の状況などを説明した。

    「メンギーニ達の鑑定評価はもう終わっていますから、こちらの鑑定評価がいつ終わるのか、彼等は何度も催促して来ています。彼等としては、年明け早々に親族会を開いて遺産分割協議を済ませてしまいたいようです。

    こちらの出方としては、遺言状の見解書を盾にバルベリア通りとサン・マモロ通りの物件、それにもし可能ならヴィラ・マルヴァジアを希望しようと思っていますが、異存はありますか?」

    「いいえ。その三つの物件が相続出来れば私は満足ですわ。どれもロレンツォが特に大切にしていた物件ですもの」

    「しかしどの物件をひどく傷んでいて、早急な修復を必要とする物件ばかりですよ。アンジェリ氏の住居があるバルベリア通りの物件を保持したいなら、サン・マモロ通りの物件は全部売って、修復費に当てるべきです」

    「サン・マモロの物件を売るなら、二棟だけです。元僧院の建物を売る気はありません」

    オクタヴィアが珍しく強い口調で言った。

    「勿論、売る、売らないは貴女の自由ですよ。しかしヴィラ・マルヴァジアも希望する気なら、あのヴィラは早急に修復する必要があります。サン・マモロ通りの二棟の売却金だけでは、とてもヴィラの修復代まで出ませんよ」

    ライモンディは諭すように言った。

    「そうですけど――サン・マモロの古い僧院はロレンツォがとても大切にしていましたから――売りたくないんです」

    オクタヴィアがきっぱり言うと、ライモンディはそれ以上、もう何も言わなかった。

     

    「それよりも、ライモンディ公証人、貴方にお伝えしなければならないことがあります」

    オクタヴィアはジルダ・メンギーニの電話の件と、エンツォ・ベルナールとの電話の内容をライモンディに伝えた。

    ライモンディは彼女の話に真剣な面持ちで耳を傾けた後、こう訊ねた。

    「でも貴女は相続争いにこの話を持ち込むことは、躊躇されているんですよね」

    「ええ――今はまだ気持ちの整理が付きません。わたしを育ててくれた父が、実の父親ではなかったことははっきりしました。

    でもまだ、ロレンツォがわたしの父と言う確証はありません」

    オクタヴィアは辛そうにうつむいた。

    「これからロレンツォが住んでいたアパートメントに行ってみようと思っています。もしかしたら――髪の毛か何か残っているかもしれませんし――」

    ライモンディは頷いた。

    「オクタヴィアさん。前にもいいましたが、私は正義を重んじる人間です。

    もし、これが事実なら、何らかの方法で立証されるべきだと思っています」

    ライモンディはそう言うと手を差し伸べた。

    「ありがとうございます。

    わたし、貴方に助けて頂かなかったら、何も判らずどうなっていたか――」

    オクタヴィアは大きな瞳に感謝を込めてライモンディの手を握った。

     

    ライモンディの事務所を出た私達は、そのままバルベリア通りのロレンツォのアパートメントに向かった。

    「じゃあ、母さんは適当な話をして、遺産管理人を入口付近に引き止めておいてよ。

    その間に僕達が奥の寝室を調べるから」

    ロメオとオクタヴィアが打ち合わせをしている。

     

    ――本当に映画みたい。

    私は不意に可笑しさがこみ上げてきて一人で微笑んだ。

     

    遺産管理人のマリアンナ・コソットは明るいブラウンのショートヘアにメガネをかけた如何にも優等生然とした、三十代後半の小柄な女性だった。

     

    「よろしく。マリアンナ・コソットよ」

    マリアンナは溢れんばかりの人懐っこい笑顔で私の手を握り締め、身構えていた私の警戒心を一瞬にして消し去った。

    ロレンツォの住居の入口には扉にある二つの錠の他に、太い鎖と南京錠が二つ取り付けられていた。

     

    「この扉は装甲ドアではない普通の扉で、下の階の住民や専属会計士のアンジョーニも合鍵を持っています。ですからレオナルド・メンギーニさんが無用心だからと、こうやって鍵を二重に掛けたんです」

    マリアンナ・コソットは南京錠を外しながら説明した。

    「このアパートメントにはロレンツォの生前に何度か来たことがあります」

     

    オクタヴィアが早速、マリアンナ・コソットを掴まえて話し始めるのを聞きながら、私とロメオは真っ直ぐ奥の寝室に向かった。

    シャッター式雨戸の下りたロレンツォの寝室は薄暗く、数ヶ月前と全く変わっていないようだった。

    私はまず剥き出しのマットレスを注意深く点検した。

     

    ――まるで私立探偵だ。

    マットレスに顔を近づけながら念入りに調べる。

     

    「何も残っていないようよ」

    ロメオは懐中時計やレシートなどの細々とした物が乱雑に散らばった箪笥の上を調べている。

    「部屋が暗くてよく見えないよ」

    「でも雨戸を上げたら怪しまれるでしょう?

    目で見える範囲では、何もないみたいよ。箒で掃いてみたら何か出てくるかもしれないけど――」

    「でも、ロレンツォは猫を何匹も飼っていたからなあ。床を掃いてもほとんどが猫の毛なんじゃないかな。取り敢えずバスルームに行ってみよう」

    私達は突き当たりのバスルームに入った。

    私は洗面台とバスタブの排水溝を調べたが、髪の毛は引っかかっていなかった。

     

    これが映画ならここで髪の毛の一本でも見つかるのだろうが、現実はそう都合よく行かない。

     

    「そう言えば、ロレンツォは禿げていて、髪の毛はもうほとんど無かったよ。だから髪の毛が落ちているはずがないんだ――」

    悲痛な声でそう言ったロメオの情けない顔を見て、私は思わず吹き出してしまった。

     

    「ごめんごめん!

    でも私は一体何をやっているんだろうと思ったら、急に可笑しくなっちゃって」

    「本当だ。僕らは一体何をしているんだろうね」

    ロメオもつられて笑い出した。

    「髪の毛は無いみたいだ。ロレンツォは禿げていたし、プロの鑑識でもない僕らが探すのは無理みたいだね」

     

    私達は改めて周りを見渡した。寝室には聖人や聖母の絵姿が至る所に飾ってあった。

    「ロレンツォは信仰深かったからね」

    ロメオはそう言ってその中のひとつ、額縁に入った聖母マリアの肖像画に歩み寄った。

    額縁の隅にセピア色に変色した中年女性の写真が挟まっていた。

    「これはロレンツォの母ジュリア・メンギーニの写真だと思うよ」

    その写真を手に取ったロメオの手が止まった。

    「これは――」

    ジュリア・メンギーニの写真の下に、もう一枚、写真があった。

    膝に幼い少年を抱きかかえた若い女性の写真――それは紛れも無く、若き日のオクタヴィアと幼いロメオの写真だった。

     

    「僕と――母さんだよ。」

    ロメオは懐かしそうに写真を撫でた。

    その写真を見た瞬間、私は鳥肌が立つような感動を覚えた。

     

    オクタヴィアはロレンツォの娘なんだわ――

     

    私はこの時、そう確信した。

     

    結局、この写真以外、ロレンツォのアパートメントから得た収穫はなかった。

    アパートメントを出るとボローニャの街はすっかり雪化粧が施され、何処も彼処も真っ白に染まっていた。

    私達は雪の中をザクザク歩いて何とか車を停めたサン・マモロ通りに辿りついた。雪は止むどころか更に激しさを増して白い薄片を撒き散らした。私達は吹雪の中、戦々恐々としながらのろのろと帰路についた。

     

    画像
    雪のボローニャ

     ◇◆◇◆◇

    証言者たち  

     

    年が明けると、ライモンディからオクタヴィアの出生登録証明書が送られてきた。

    オクタヴィアが市役所で入手出来たのは、戸籍謄本と結婚証明書までだったが、ライモンディは公証人の権限を利用して、この貴重な書類を手に入れた。


    出生登録証明書の母親の欄にはレーア・メンギーニの名前、そして父親の欄には、「姻戚関係にない男性」とだけ記されていた。届出の際、レーアの二人の友人が証人として立ち会っていたことが判った。


    「母さんが生まれた四十年代は、今よりもかなり閉鎖的だったから、従兄妹同士の結婚はスキャンダルだったらしい。それで、父親の名前を敢えて伏せたんじゃないかな?」

    ロメオは考え深げに言った。

    「当時、カトリック教会は従兄妹同士の結婚を認めてなかったから、従兄妹の間に生まれた子供は洗礼を受ける事が出来なかったと母さんが言っていたよ」


    ちなみにオクタヴィアは洗礼を受けている。


    「従兄妹同士で子供を作るより、自分の子供を認知しないほうがよっぽど罪深いと思うけど。教会って矛盾しているのね」

    私は皮肉を込めて言った。

    「でもそんな時代に一人で私生児を産んで、育てる決心をしたロメオのお祖母さんはすごいわね。さぞ勇気のいる決断だったでしょうに」


    ロレンツォもレーアも当時、二十歳そこそこだったはずである。

    レーアはボローニャの名門メンギーニ家に生まれながら、父親の後妻と折り合いが悪く、十八才の時に家を飛び出し、ミラノで働いていたという話を以前、ロメオから聞いたことがあった。

    身寄りの無い二十歳の娘が、私生児を産んで一人で育てる決心をするには並々ならぬ覚悟が必要だったに違いない。


    「祖父母夫婦が結婚後、すぐコンゴに渡ったのは、結婚当時、既に三歳だった母さんをカムフラージュするためだったんじゃないかな?」

    ロメオは言った。


    確かに、レーアはアルベルトと結婚するまで、オクタヴィアを里親に預けて世間の目から隠していた。

    しかし、結婚した直後に三歳の娘が突然現れたら、世間は好奇な目で見ただろう。その点、アフリカと言う新境地に行ってしまえば、彼等を知る人間はいない。

    アルベルトは世間の中傷からレーアとオクタヴィアを守るために、家族を連れてアフリカに渡り、この見知らぬ土地で新しい生活を始めたのかもしれない。


    「それに母さん、ロレンツォにそっくりなんだ」

    「それ、本当?」

    「うん。性格とか、仕草とかがね。

    最初にロレンツォにあったのは僕が十六の時だったんだけど、その時ロレンツォは、『この世は恐ろしい敵で一杯だ。だから私はこうやって猫のように身を潜めているんだ』って言っていた。

    その言い方とか、様子があんまり母さんにそっくりだったから、思わず祖母に言ったんだ。『ロレンツォは母さんにそっくりだね。』って。

    母さんも『自分は猫』の例えをよく出すからね。そしたら祖母がぎょっとして『どうしてそんな風に思うの?』って。

    その時は、まさかロレンツォが母さんの実の父親だなんて夢にも思わなかったけど、祖母の反応が印象的で、よく覚えているよ」

    「ずっと育ててくれた母親に似ないで、認知もしなかった父親に似てしまったなんて、なんだか皮肉ね」

    私はしみじみと言った。オクタヴィアが気丈で活動的なレーアに似ていたら、この相続問題をもっと違う風に乗り切って行ったに違いない。


    やがてライモンディは私達が見つけられなかった里親の娘達を見つけ出した。

    里親のイレーネ・フォンターナは数年前に既に亡くなっていたが、二人の娘はボローニャ郊外に一緒に住んでおり、当時のことを良く覚えていた。


    ライモンディが二人の姉妹から得た証言によれば、一九四七年に彼女達の母イレーネが、オクタヴィアと言う名の赤ん坊を預かり、姉妹と一緒に暮らし始めたそうだ。


    毎週末、娘に会いにきていたオクタヴィアの母レーア・メンギーニがイレーネに語った話では、赤ん坊の父親はレーアの従兄でボローニャのバルベリア通りに住むロレンツォ・アンジェリで、イレーネはロレンツォの父ジュゼッペ・アンジェリから毎月、報酬を受け取っていたらしい。


    更に姉妹は、一九五〇年にレーア・メンギーニがオクタヴィアを引き取りに来た際、最近知り合った男性と結婚が決まり、その人とオクタヴィアを連れてベルギー領コンゴに移住すると話していたことを証言した。


    「やっぱり、母さんはロレンツォの娘だったんだ」

    ライモンディから報告を受けたロメオはしんみりと言った。

    「なんだか、まだ信じられないよ」

    「それじゃあ、ロレンツォはロメオのお祖父さんってことになるのね」

    「お祖父さん――そうか、そうなるね。

    でもまだ実感が湧かないよ」

    ロメオの表情は複雑だった。

    「そう言えば、二年前にロレンツォに会った時、ロレンツォは腕相撲をしようって言ってきた。彼は僕が孫だと分かっていたはずだからね。その時、自分には体力はあるけど、精神力が欠けている、なんて事を言っていたなあ」

    ロメオは懐かしそうに言った。

    「明日、母さんと里親の娘達に会いに行ってみるよ。本人達の口から本当のことを聞きたいからね」


    翌日、ボローニャ郊外に住むフォンターナ姉妹を訪ねたロメオ達は、オクタヴィアの父親がロレンツォに間違いないと言う確固たる証言を得ると共に、レーアの夫アルベルト・セーラのコンゴ行きの資金は、ロレンツォの父ジュゼッペ・アンジェリが援助していたことを聞き出した。


    「ジュゼッペにしてみれば、息子の不始末を闇に葬る絶好のチャンスだったのかもしれないわね」

    資金のことをロメオから聞いた私は顔をしかめた。

    「認知もせずにお金で解決しようなんて、一番許せないやり方ね」

    「その後、サン・マモロ通りの住宅にも行ってみた。

    あそこの住人の中には六十年以上も昔から住んでる人が何人もいるからね」


    彼らが会ったロンディーニと言う老婆の話では、ロレンツォに隠し子の娘がいる話は、サン・マモロの古い住民達の中では有名なのだそうだ。


    「そのお婆さんはこう言ったんだ。その娘はミラノで結婚して、エンジニアに孫が出来たってね。それって僕のことだよね?」

    ロメオはそう言って笑った。

    エンジニアとはロレンツォの呼び名である。

    ロレンツォの所有する建物に住む店子達は皆、彼をこう呼んでいた。


    その後、彼らはその老婆の助言で、長年ロレンツォの不動産の修理を行っていたファブリーニと言う大工も訪ねたが、こちらの方はあまり収穫がなかった。

    ファブリーニは娘がいたと言うこと以外、何も知らなかった。


    「アジョーニにも、話を聞こうと思って、彼の住居のベルを何度も鳴らしけど駄目だったよ。母さんがアパートメントの管理人に、言伝を頼んでいたけど、連絡してくるとは思えないね」

    「そうねえ。それにアンジョーニこそ、第二の遺言状を握り潰した張本人かもしれないし」

    私は遺言状がもう一通あったのではないかと言う疑念を捨てきれずにいた。

    「でも遺言状を握り潰しても、親戚でもないアンジョーニには何のメリットもないだろう?」

    「それは、そうだけど――」

    「ライモンディは母さんがロレンツォの娘だとはっきり判った以上、このことを明らかにして死後認知を求める訴訟を起こすべきだと言っている。

    それでDNA鑑定をすれば、母さんは正式にロレンツォの娘として裁判所から認められるからね」

    「そう――それでお義母さんは何て?」

    「それが――」

    ロメオは顔を曇らせた。

    「母さんは、今この件を表沙汰にするのは嫌だと言っている。取敢えずこのまま普通に遺産分割協議を進めて、遺産分割が終わってから訴訟を起こせないかって」

    「でもそれじゃあ、余計ややこしくなるんじゃない?

    分けてしまったものを後から返せって言うことでしょう?」

    「母さんは訴訟にかかる費用を心配しているんだ。だから取敢えず遺産の半分を相続して資金を確保したいと考えている。相続税を支払う為に銀行からお金を借りたけど、そっちの利子も馬鹿にならないからね」


    気持ちは判らなくはない――と私は思った。


    「でも何だか不思議ね」

    わたしはしんみりと言った。

    「不思議?」

    「私、霊とか、心霊現象とか今まで全く信じていなかったんだけど――今回の件に関しては、何かそういう力が働いているような気がするの」

    「なんだよ、それ」

    ロメオは笑った。

    「だってお義母さんは、ロレンツォの娘だという事実をあくまでも無視しようとし続けてきたでしょう?

    ジルダ・メンギーニが電話をかけてきた時、怒って電話を切ってしまったし、カイロリが同じことを言ってきた時も、知ろうとしなかった。

    でもこうやって、また同じ話が、今度はライモンディを通じて明らかになった。

    お義母さんがどんなに逃げようとしても、真実が知って貰おうと後を追いかけているような気がする。

    まるで亡くなったロレンツォがあの世でお義母さんに自分の遺産を相続させようと奔走しているように」

    私は笑った。

    「馬鹿みたい――かな?

    私、本来なら霊なんか全く信じないんだけど――」

    ロメオは真顔になって首を振った。

    「いや。僕も、そんなことがあるのかもしれない――と思う」


    何十年もの間、秘密と言う箱の奥底に封印されていた真実が、今こそ解き放たれようと重い箱の蓋を叩く音が聞こえてくるようだ。

    まるでロレンツォの意志に導かれるように

    パンドラの箱が開かれようとしている――私はそう感じていた。



    第五章 決断

     

    二人の弁護士

     オクタヴィアはこの新事実を相続争いに持ち込むことを頑なに拒んでいた。

    この頃の彼女は、前にも増して神経質になり、些細なことで癇癪を起すようになっていた。自分がロレンツォの娘だと名乗り出れば、メンギーニ一族を怒らせ、終わりのない戦いに突入するという脅迫観念に取り付かれていたオクタヴィアは、とりあえず遺産分割を済ませ、五十パーセントの相続分を確保した後で、死後認知訴訟を起すという考えを主張して譲らなかった。憂鬱の波が絶え間なく彼女を襲い、そうなると息子のロメオすら寄せつけず、自分の殻に閉じ篭った。

    オクタヴィアは後に、当時の精神状態を、衝撃的な出生の秘密を知ったことに起因するアイデンティティの崩壊であったと自己分析している。

    しかし、資産の鑑定評価も完了し、相続を焦るメンギーニ達が早く遺産分割協議の日程を決めようと催促してきていた。


    今後の方向性を決定しなければならないタイムリミットは刻一刻と迫っていた。

    私とロメオはナーディアの事務所を訪れ、彼女の意見を聞いてみることにした。

    さすがのナーディアもオクタヴィアが実はロレンツォの隠し子だったと言う急展開には、当然の事ながら、心から驚いた様子だった。

    「それ、本当なの?」

    私達は頷いた。

    「まだDNA鑑定をしてみないと百パーセントとは言い切れないけど、まず間違いないと思う」

    ロメオは言った。

    「それで、お母さんは、遺産分割を終えた後で、死後認知を求める訴訟を起こしたいと言っている訳ね?」

    「可能ならね。僕達が心配しているのは、訴訟にかかる費用と時間なんだ。アンジェリ家の不動産はどれも老朽化が進んでいて、緊急な修復を必要としている物件ばかりなんだ。特に郊外にあるヴィラ・マルヴァジアは屋根が崩壊寸前で、中に貴重なフレスコ画があるものだから、文化財保護局から修理を催促する通達が再三来ていて、もう一刻の猶予もない状態なんだ。だから何年もかかる訴訟を待っている事は出来ないんだよ」

    ロメオは説明した。

    ナーディアは考え込んだ。

    「でも認知訴訟を起こすなら、まだ遺産が分割されていない今、やるべきよ」

    「じゃあ、やっぱり不可能なんだね。遺産を分割してしまってから訴訟を起こすのは?」

    「不可能ではないけど、難しくなるわね。だって一度、与えたものをまた返してもらう訳でしょう。彼等だって、何故もっと早く言わなかったのかってことになるし」

    ロメオは黙って考え込んだ。

    「それに、もし相続人が相続後、すぐに誰かに売ってしまったら――相続する前に売買の仮契約を済ますことだって出来るのよ。問題の物件が第三者の手に渡ってしまっていたら、回収するのはますます困難になるわよ」

    私もナーディアの考えに賛成だった。

    「そうよ。訴訟を起こすなら、遺産がまだ分割されていない今しかないと思う。

    それにこのまま普通に遺産分割協議をしても、あのメンギーニ達が相手でしょう?

    そんなに簡単に決まるとは思えないし、結局、訴訟をするのと同じくらい時間がかかるんじゃないかしら?」

    「ただ、母さんは万が一、自分がロレンツォの娘じゃなかったらって恐れているんだ。勿論、今まで得た証言で、母さんがロレンツォの娘なのは間違いないように思えるよ。でも――」

    「お母さんが百パーセント、ロレンツォの娘だと言う確証はないって訳ね」

    ナーディアがロメオの言葉を受け継いだ。

    「真実を知っているのはロレンツォと祖母だけだけど、二人共もうこの世にはいないからね」

    ナーディアは頷いた。

    「こういう場合、どんなに証人がいても、確率は九十九パーセント。最後の一パーセントはDNA鑑定をしてみるまで判らないものね」

    「私は――お義母さんは間違いなくロレンツォの娘だと思う」

    私は断言した。

    「どうして、そんな風に確信を持てるの?」

    ナーディアは驚いたように私を見た。

    「だって、ロレンツォの話を聞けば聞くほど、お義母さんにそっくりだもの。ロメオのお祖母さんとは全然性格が違うでしょう?ロレンツォに似たんじゃないとしたら、一体誰からあの性格を受け継いだのよ」

    あの絶望的なほどに閉鎖的で悲観的な性格を――

    「血は争えない――か」

    ナーディアは感慨深げに言った。

    決断の時は迫っていた。貝のように頑なだったオクタヴィアにこの重大な決断をさせたのは、やはりライモンディだった。

    ライモンディは確実な勝算があること、不動産の老朽を理由に緊急時の訴訟手続きが適用され、一年以内で解決すること、ボローニャきっての敏腕弁護士が担当する事などを力説し、オクタヴィアに認知訴訟を起こすことを承諾させたのだ。

    一月十六日、私達はライモンディの事務所で、オクタヴィアを担当する弁護士に会うためにボローニャに向かった。

    「今日来るのは、ライモンディ曰く、ボローニャ一の民事弁護士と刑事弁護士だそうだ。」

    車の中でロメオが説明した。

    公証人ライモンディはどうやらボローニャでは相当名の通った権力者らしいことが最近、私にも何となく判ってきた。

    そのライモンディがボローニャ一と太鼓判を押すのだから、最高の弁護士であることにまず間違いはないだろう。ライモンディがこの相続問題にかける情熱には並々ならぬものがあった。

    ロメオによれば、オクタヴィアがロレンツォの娘であることが判明して以来、ライモンディはこの一件に一層のめりこみ、他の仕事を全て放り出してこの相続問題に懸かりきりになっているらしい。

    「でも、どうして刑事弁護士も来るの?

    遺産相続って民事でしょう?」

    「それが――僕も不思議に思ってライモンディに聞いたんだ。

    そうしたら表向き、刑事弁護士の方を僕達の担当弁護士ってことにするらしい」

    「どうして?」

    「その民事弁護士は、それこそ負け知らずのボローニャ最強の弁護士らしいんだけど、実はメンギーニ達の――勿論全員じゃないと思うけど――

    彼等の担当弁護士は彼の女友達《アミーカ》なんだ」

    「女友達《アミーカ》?」

    「ライモンディの口ぶりだと――どうやら愛人《アマンテ》なんじゃないかな」

    イタリア語のAMICA(女友達)は英語のGIRL(ガール・)FRIEND(フレンド)と同様、微妙な言葉である。

    本来の意味通り、純粋に「女友達」を指すことも勿論あるが、男性が女性を女(ア)友達(ミーカ)と呼ぶ場合、実は恋人や愛人であることがある。本命の女性でなかったり、友人などに正式に恋人として紹介したくない場合に、女友達《アミーカ》と言う言葉を使うこともあれば、既婚者が愛人を指してこう言うこともある。

    「それはびっくりね」

    司法界は狭いとは言え、驚くべき偶然である。

    「まあ、ライモンディははっきり愛人とは、言わなかったけどね」

    「でもどうしてわざわざメンギーニの弁護士と懇意の弁護士に依頼するの?」

    「まず彼がボローニャ最高の弁護士だってこと。

    それからライモンディ曰く、もしメンギーニ達が今回の相続問題をその女弁護士に依頼すれば、こちらに有利に事が運ぶって。

    そのためにも、彼が僕達らの弁護士であることをメンギーニ達には悟られないようにしなければならないんだ」

    ロメオは言いながらちょっと笑った。

    「ふーん」

    私も思わず笑ってしまった。

    こちらに有利に事が運ぶって、それではまるで愛人の弁護士が担当になったら、裏でこちらの弁護士に協力するみたいだ。

    イタリアの訴訟や裁判とはそんなものなのだろうか?

    これは私のまだ知らない、そしてこれから足を踏み入れようとしている世界だ。

    助手席に座っているオクタヴィアはずっと無言のままだった。その小さな後姿からは何か話しかけ難いオーラが漂っていた。

    ライモンディの事務所に到着すると、早速二人の弁護士を紹介された。

    民事専門のディ・マウロ弁護士、そして刑事専門のダヴェーリオ弁護士だ。

    「二人とも私の古くからの友人でね。ボローニャ最強の弁護士なんですよ」

    ライモンディが強調した。

    「ライモンディ君から、大体の話は聞きましたよ。大変興味深いケースですね」

    ディ・マウロは五十歳前後のスキンヘッドの温厚そうな弁護士だった。

    ――頭が禿げてきたから開き直って全部剃ってしまったのだろうか?

    私はそんな失礼な事を考えながら彼の艶やかな頭を観察した。

    刑事弁護士のダヴェーリオは白髪で厳つい顔をした、ディ・マウロとは対照的な容貌の持ち主だった。

    自己紹介を一通り終えると、ライモンディは本題に入った。

    「先日説明しましたが、オクタヴィアさんは現在、五親等の親族としてロレンツォ・アンジェリ氏の相続人のひとりになっています。しかし最近になって、オクタヴィアさんが実はアンジェリ氏の娘であることが判明しました。そこで我々はこれまでの方針を百八十度変え、オクタヴィアさんの死後認知を求める訴訟を起こす方向で相続争いを進めていきたいと考えています」

    ライモンディが二人の弁護士に説明した。

    「それでは、まず申立書を作成しなければなりませんね」

    ダヴェーリオが応じた。

    「証人が何人かいると言う話でしたが、その人達に一度会って正式に証言を取らなければなりませんね。訴訟になれば、いずれ法廷の証人台に立ってもらわなければならないかもしれませんからね」

    それまで堅い表情で黙り込んでいたオクタヴィアは「訴訟」と言う言葉に一瞬、ピクリと体を震わせた。

    「勿論です。里親の娘達は訴訟になれば喜んで法廷で証言すると言っていますし、病院でアンジェリ氏に付き添ったと言う看護婦の方もおそらく大丈夫でしょう。」

    ライモンディが答えた。

    「わたし、訴訟なんて絶対に困ります!」

    突然、オクタヴィアの鋭い声が飛び、一同は驚いて彼女を見た。

    「奥さん。何を言っているんですか。このことはもう何度も話し合って一緒に決定したことですよ」

    ライモンディが驚いて言った。

    「いいえ!」

    オクタヴィアは大きな目を見開き、蒼ざめた顔を怯えたように歪めた。

    「訴訟なんかになったら、泥沼化して何年かかるか判らないじゃないですか!

    わたしは今まで通り普通に遺産分割を行います。もうそう決めたんです」

    オクタヴィアは明らかに正常ではなかった。こう言う事は前にもあったが、彼女は極度の緊張でパニック状態に陥っていた。

    「母さん、落ち着いてよ。このことはもう何度も話し合ったじゃないか。それでこの方法が最善策だと言う結論に達したんじゃないか。こうして弁護士の方にも来てもらっているのに、今更何を言い出すんだよ」

    ロメオは半ば怒ったように母を諌めた。

    「いいえ!いいえ!もうこんなことは沢山です。これ以上、訴訟について話し合うなら、わたしは失礼します!」

    オクタヴィアはわなわなと震える声で、それでもきっぱりと言うと、唖然として彼女を見守る弁護士達を尻目にまっしぐらに入口に向かった。

    「奥さん。落ち着いてください」

    ライモンディも立ち上がるとオクタヴィアの前に立ち塞がった。

    「何年もかかるなんて事はありませんよ。我々に任せて頂ければ、一年以内に解決してご覧にいれます」

    ライモンディは優しい口調で励ますように言った。

    オクタヴィアは堅い表情のままライモンディを黙って見つめた。

    「そうですよ」

    ディ・マウロ弁護士も口を挟んだ。

    「遺産である不動産はどれも老朽が激しく、早急に修理が必要なことは我々も知っています。ですから緊急時の手続きが適用されますので、一年ほどで決着が付くはずです。」

    「でも――判決で負ける可能性だってありますわ」

    オクタヴィアは恐怖を拭い去れないようだった。

    「それは絶対にありません」

    ディ・マウロはきっぱりと言った。

    「これだけ材料が揃っていれば必ず勝てます。それに貴女が死後認知を求める申立をしたと言う通知を受け取れば、メンギーニ達はきっと慌てふためいて示談を申し入れてくるはずですよ。そうなれば遺産の十パーセントほどを渡して早々に終わらせることだって出来るんです」

    「そうですよ、奥さん。この件に関して我々はかなり楽観的です。一年以内にまず間違いなく解決出来ます。安心してください」

    ダヴェーリオも相槌を打った。

    「本当――でしょうか?」

    オクタヴィアの表情が少し和らいだ。

    「勿論です!」

    ライモンディが力強く言った。

    「我々は早期解決を目指して、最善を尽くします。ですから奥さんも気を強く持ってください。貴女はアンジェリ氏の実の娘なんです。訴訟を起こしてDNA鑑定でそのことが証明されれば、貴女は正式にアンジェリ氏の唯一の相続人と認められるんです。どうか自信を持ってください。ここで動揺して諦めたら、彼等の思う壺ですよ。恐らく彼等は貴女がロレンツォの娘であることを知っているはずですからね」

    「まさかそんな事――でも確かにジルダは知っていました。それでわたしに電話をかけてきたくらいですから。でも他の人達も知っていたんでしょうか?」

    オクタヴィアは目をみはった。

    「奥さん、彼等は全員知っていたんですよ。レオナルド・メンギーニが真っ先に遺産相続の受諾書に署名したのは、貴女がアンジェリ氏の娘だと主張し始める前に、正式に相続人となっておこうとしたためです」

    ライモンディはきっぱりと言った。

    「まあ――では彼等は知っていて平然と相続人になったんですか?」

    オクタヴィアは声を震わせた。

    「奥さん。彼等がどう言う人間か、貴女はもうご存知なはずだ。彼等は貴女が真実を知らないのをいい事に相続人として大きな顔をしているばかりか、資産の評価額を操作して、自分達の相続額が多くなるように目論んでいるんですよ。そんな奴等に絶対に屈してはいけません」

    ライモンディの口調は厳しかった。

    オクタヴィアはようやく理性を取り戻し、大人しく席に戻った。


    それから二人の弁護士を交え、今後の手続きについて話し合った。

    まずこれまでに見つかった証人の証言を基にオクタヴィアがロレンツォの娘で、唯一の相続人であること、故に死後認知を求めると言った内容の申立書を作成して裁判所に送付する。申立書を受理した裁判所がオクタヴィアの申立と遺産の凍結を知らせる通知を他の相続人達に送り、訴訟が始まる。裁判官がオクタヴィアの申立を認めれば裁判所から正式にDNA鑑定を許可される。結果が陽性ならオクタヴィアは晴れてロレンツォの娘と認められ、遺産の全てを相続することが出来るのだ。

    弁護士達は、申立書の提出からDNA鑑定まで一年から一年半ほどだろうと言った。

    更にダヴェーリオは申立書にオクタヴィア自身の身の上話も盛り込みたいので、彼女の生い立ちや経歴を要約したものを用意するように言った。


    「やっぱり僕の思ったとおり奴等も真実を知っていたんだ」

    ミラノに向かう車の中でロメオは憤った。

    「ロレンツォが亡くなったのは二〇〇四年の十一月、カイロリが相続人を探し出して皆に連絡してきたのが翌年の二月。でも彼等は五月にレオナルド・メンギーニが遺産受諾の署名に行くまで、誰も動こうとしなかった。あの欲の皮の張った彼等が署名しに飛んで行かないなんておかしいと思ったんだ。奴等は母さんが当然、自分はロレンツォの娘で、遺産は全て自分が相続すべきだと知っていると思った。だから母さんの出方を待った。でも何ヶ月たっても、母さんは何も言ってこないし、どうやら何も知らされていないと気が付いたんだ。そこで何食わぬ顔をして遺産を分けてしまおうと皆で示し合わせたに違いないよ」

    「そうね。彼等はずっとボローニャに住んでいたんでしょう。親戚のスキャンダルなんだし、知っていて当然よね」

    私は相槌を打った。

    「彼等は皆知っていたなんて――わたしが何も知らないのを見て、影できっと笑っていたのね」

    オクタヴィアは悔しそうに唇を噛んだ。

    「母さんが奴等を刺激するのを恐れて黙っていたら、それこそ奴等の思う壺だったんだ。もし、彼等がこの事を最初から知っていたなら、きっと心の中でほくそ笑んでいたに違いないからね。こうなったら最後まで戦うべきだよ」

    ロメオが強い口調で言った。

    「そうね。わたしも――逃げてばかりいてはダメね」

    オクタヴィアの頬に血の気が上った。

    「それで、申立書の作成にはどのくらいかかるの?」

    私はロメオに尋ねた。

    「申立書の草稿に入る前にまず弁護士達とライモンディが三人で集まって民法や判例を研究して細かい事を話し合うそうだよ。その作業に二週間ほどかかるらしい。申立書自体は一週間から十日ほどで出来上がるそうだから、裁判所に提出出来るのは二月の半ばじゃないかな」

    「メンギーニ達、どんな顔をするかしら?」

    「真っ青になるだろうね。いい気味だよ――」

    ロメオは今まで見たことのないような表情を見せた。

    「僕はね、別に遺産の取り分が増えるとか、そんなことはどうでもいいんだよ。

    ただ、もし彼等が本当に真実を知っていて、それを故意に黙っていたとしたら、絶対に許せないんだ」

    ロメオの瞳は怒りで燃えていた。

    「彼等が経済的に困っていて、お金が必要だって言うならまだ分かるよ。でも彼等は皆、ボローニャでも屈指の富豪なんだ。しかも叔母のオルガが亡くなって、その遺産を相続したばかりなんだよ。そんな裕福な彼等が、どうして何も持っていない母さんのものに手を出そうとするんだよ。僕が彼等の立場だったら、絶対に他人のものに手を出したりはしない」

    ロメオの口調は激しかった。

    ロレンツォの訃報から約一年、相続争いはいよいよ正念場を迎えようとしていた。


     ◇◆◇◆◇

    売買前提契約書

     一月も終わりに近い金曜日、オクタヴィアはライモンディに呼ばれてボローニャに行っていた。ロメオは仕事があり、私も仕事の締め切りに追われて忙しかったのでオクタヴィアに同行することが出来なかった。


    その夜、ロメオが暗い顔をしてやってきた。

    「母さんがとんでもないことをしでかしてくれたよ」

    「いったいどうしたのよ。」

    「これを見てご覧」

    ロメオは一冊の書類を見せた。

    A4サイズの紙の一番上の表題には『売買前提契約書』と書かれていた。

    「売買前提契約書?」

    私は書類に目を通した。

    「これ、サン・マモロの物件の売買仮契約書じゃない?」

    「うん。母さんは相続税を払う為に銀行から貸付を受けているんだけど、利息が馬鹿にならないんだ。それに、これから認知訴訟を起こすとなると弁護士にお金がかかるだろう?

    それで、ライモンディがサン・マモロの売買の仮契約をすれば、前金で五十万ユーロ支払うから、そうすれば借金を全額返済出来るし、弁護士の費用も出来るだろうって提案してきたんだ」

    私は冊子をパラパラとめくった。

    「売主がオクタヴィア、買主がウンベルト・ライモンディとマッダレーナ・パヴェーゼってなっているけど、ライモンディの名前は確かロベルトよね?それにマッダレーナ・パヴェーゼって誰?」

    「ウンベルト・ライモンディはライモンディのお兄さん、マッダレーナはライモンディの奥さんだよ。母さんの相談役であるライモンディが直接買主になるのはまずいらしい」

    「でもお義母さんは旧僧院の棟は売らないつもりだったんじゃないの?ここには全部って書いてあるわよ」

    「そうなんだよ」

    ロメオの顔が沈んだ。

    「母さんはよく読みもしないで、署名してしまったらしい」

    「よく読みもしないでって!
    普通こんな重要な書類にその場ですぐに署名しないでしょう?」

    「僕が指摘するまで母さんは僧院も含まれていることに気が付いていなかったぐらいだからね」

    私は呆れて言葉を失った。

    「契約書を読まなかったってこと?」

    「ライモンディのことを信じきっていたからね。それに自分達だけの取り決めで、正式な書類じゃないと思っているらしいよ」

    「だってこれ、どう見ても契約書でしょう?」

    ロメオは黙った。


    ライモンディがサン・マモロの物件を喉から手が出るほど欲しがっていたのは、始めから分かっていた。そもそも彼がオクタヴィアと知り合ったきっかけがサン・マモロの物件だったのだ。

    しかし、これから訴訟を起こそうと言うこの微妙な時期に、こんな風にどさくさに紛れて仮契約書に署名させてくるとは予想外だった。

    私はライモンディに対して正義感溢れる熱血漢と言う印象を持っていたから、この出来事はかなりショックだった。

    だがオクタヴィアはあくまでも内輪の取り決めで、この仮契約書にそれほど効力があるとは思っていないようだった。

    しかし翌日、ナーディアに前提契約書を見せたところ、オクタヴィアがサインしたこの証書は通常、不動産業者が使う仮契約書の数倍の効力があることが分かった。

    「仮契約と言うのは、違約金さえ払えは契約を破棄出来るけど、前提契約はいくら売主が違約金を払っても、買主側がそれに応じたくなければ契約の強制履行を要求出来るのよ。

    だから前提契約書には決して安易に署名するべきではないのよ」

    ナーディアは説明した。

    「でもこんな時に、こんな重要な書類に署名させるなんてちょっと許せないわねえ。

    簡単に署名しちゃう貴方のお母さんもお母さんだけど――」

    ナーディアは顔をしかめた。

    それでもロメオは楽観的だった。

    「母さんは修道院の棟を売るつもりは全くなかったんだ。

    ライモンディにきちんと説明すれば、契約書を修正してくれると思うよ」

    しかし事はそう簡単には運ばなかった。

    「前提契約書を見直して欲しいって言ったら、そんな事を言うなら弁護士と話を進める気が失せるなんて言うんだ」

    その夜、ライモンディに電話したロメオは悔しそうに唇を噛んだ。

    「母さんはあれほど信頼していたのに裏切られたってかなり怒っているよ」

    「でもよく読みもしないでサインしたのはお義母さんでしょう?」

    「でも母さんは世間知らずで、ライモンディに頼りきっていたんだよ。

    そんな母さんに署名させるなんて、赤子の手を捻るより簡単なことだ。

    ライモンディだってそのくらい分かっていたはずだよ。よりによって彼女が一人の時に署名させるなんて」

    「そうね。フェアじゃないわね」

    「母さんはライモンディをすっかり悪人扱いしているよ。騙されたってね」

    「ロメオはどう思っているの?」

    ロメオは複雑な顔をした。

    「うーん。僕は母さんが言うようにライモンディが目的のためだけに母さんに近づいて来た悪人にはどうしても思えないんだ。

    確かにライモンディが最初からサン・マモロの物件を熱望していたのは事実だし、そもそもそのために僕達に近づいてきたよ。

    でも彼がこの相続問題に注ぐ情熱は、単なる不動産への興味だけとは思えない。母さんのために最良の解決策を見つけようと本気で奮闘している。

    確かに最初の目的はサン・マモロだったかもしれないけど、今はこの相続問題に――なんと言うか取り憑かれたように夢中になっているような気がするんだ。

    ただし、このサン・マモロの件はショックだよ。こんな方法で母さんに署名させるのはフェアじゃない」

    「そうね。」

    私は頷いた。

    「このサン・マモロのやり方は私も気に入らない。
    でもライモンディの目的がただ単に不動産だけだったら、ロメオ達のためにここまでしないと思うし――だって銀行の融資の世話までしてくれたんでしょう?
    でも全くの下心なしに赤の他人を助けてくれるほど世の中は甘くないってことね」

    残念なことだが事実である。

    「同感だよ。僕もこの件は悔しいよ。でも今の僕達の命運はライモンディの手中にあると言っても過言じゃない。彼は僕らの全てを握っているからね。母さんは彼のことをものすごく怒っているけど、ここで彼を怒らせて放り出されたらって怯えてもいるんだ」

    「でもまだ正式な売買契約を済ませた訳じゃないんだし、相続問題が解決してから、改めて話し合えばいいじゃない?」

    私は慰めるように言った。


    しかしライモンディが一度署名した書類を簡単に撤回するとは思えなかった。

    そして、オクタヴィアのこの無防備さが今後、更なる災難を招くことになるのだ。       


     ◇◆◇◆◇

    弁護士の作戦

     二月十一日、私達は認知訴訟について弁護士達と話し合うためにボローニャに向かった。

     

    「この二週間の間、二人の弁護士とライモンディで母さんの死後認知訴訟について話し合ったそうだよ。今日はその結果を聞きに行くんだ」

    ハンドルを握りながらロメオは言った。

    「わたしは――もうあの男を信用しないわ」

    オクタヴィアの表情は硬かった。

    「母さんも悪いんだよ。あんな重要な書類をよく読みもせずに安易に署名するんだから」

    「わたしはライモンディを信じきっていたのよ。

    だから疑うことなく署名したのよ」

    オクタヴィアは言い返した。

    「ライモンディはサン・マモロの物件の仮契約書だと言って署名させたんでしょう?

    そしたら普通、物件全体が対象になっていると考えるべきよ」

    私は言った。

    「わたしは以前から、ライモンディにサン・マモロの物件を売ってもいいけど元僧院の棟だけは売れないって言っていたのよ。彼だってわたしが全てを売る気がないことは判っていたはずだわ。だから当然、わたしの意向を汲んで元僧院の建物が除外されていると思ったのよ」

    「だったらどうして署名する前にそのことを確認しないんだよ?

    第一、契約書をちゃんと読んでいたら元僧院も売却物件に含まれているって分かっただろう?」

    ロメオが諌めるように言った。

    「あの時は――なんだかそんなことを訊けない雰囲気だったのよ。ライモンディはわたしが書類に署名するや否や携帯電話で誰かに連絡したわ。

    そしたら三分もたたない内にライモンディのお兄さんと奥さんが事務所に現れて買主の欄に署名したのよ。おそらく彼等は事務所の下のカフェでわたしは署名するのを待っていたのよ。それでわたしが署名したらすぐに事務所に来る手はずになっていたんだわ」

    オクタヴィアの瞳は怒りに燃えていた。

     

    私は溜息をついた。

    オクタヴィアの気持ちはよく判る。しかし銀行からの融資の返済や、これからかかるであろう弁護士の費用を考えると、仮契約によってまとまった前金を得たことは正解だと思った。

    それにライモンディが元僧院の棟を除く、二棟だけの売買に応じたとは思えない。彼がサン・マモロの建物をどうしたいのか定かではないが、ひとつ確実なことは大きな中庭を駐車場にするつもりだと言うことだ。中庭全体を駐車場にするには全ての棟の所有権を握る必要がある。

     何よりも遺産分割協議はまだ終わっていない。

    メンギーニ達を相手にオクタヴィアがアンジェリ家の不動産の中で最も価値の高いバルベリア通りとサン・マモロ通りの物件をすんなり相続出来る保証はない。

    確実に購入出来るかどうか分からない物件に前金として五十万ユーロも支払ってくれる気前の良い購入者は他にいるとは思えない。

    ライモンディのこの物件に対する思い入れがそれほど強いということだろう。

     「とにかく、まだ売買契約書に署名したわけじゃないんだから、今は事を荒立てずに、相続問題を解決することを最優先にしたほうがいいよ」

    ロメオがもっともなことを言って母を慰めた。

    オクタヴィアは唇をキュッと結んで黙り込み、車の中に重苦しい沈黙が流れた。

     

    ライモンディの事務所には既に二人の弁護士、ディ・マウロとダヴェーリオが到着していた。

    「やあ、ご機嫌如何ですか?」

    ディ・マウロ弁護士は例によって穏やかな微笑を浮かべて挨拶した。

    「さあ――あまり芳しくありませんわ」

    オクタヴィアはライモンディにきつい視線を送りながら皮肉交じりに言った。

    「まあ、そんなに心配なさらずに」

    事情を知らないダヴェーリオ弁護士が励ますように声をかけたが、オクタヴィアは曖昧な微笑みを浮かべて黙り込んだ。

    「さて、では本題に入りたいと思います」

     

    一同が席に着くとディ・マウロは手元の書類を広げた。

    「我々はこの二週間の間、オクタヴィアさんの死後認知について色々調べました。死後認知訴訟と一言で言っても色々なケースがありますから、オクタヴィアさんの立場や条件を考究する必要があったのです」

    ディ・マウロはここで言葉を切って私達を見つめた。

    私達は固唾を呑んで彼の次の言葉を待った。

    「考究の結果、奥さんの場合、認知訴訟に際して、二つの重大な障害があることが明らかになりました。

    一つ目の障害は戸籍上、オクタヴィアさんがアルベルト・セーラ氏によって娘と認知されていること。イタリアの法律は父親が二人存在することを認めていません。従ってオクタヴィアさんがアンジェリ氏の娘と認知されるには、まずセーラ氏による認知の取り消しを行わなければならない訳です。

    しかし、セーラ氏は既に死亡しています。故人による認知の取り消しを行うのは、勿論不可能ではありませんが、大変難しい上、相当な時間がかかります。

    二つ目の障害は、オクタヴィアさんが認知訴訟を起こす相手がアンジェリ氏の直接の相続人ではないと言うことです。

    メンギーニ達はアンジェリ氏の相続人オルガ・メンギーニの相続人ですから、相続人の相続人と言うことになります。イタリアの法律では相続人のひとりがこのような申立を行えるのは相手が直接の相続人であった場合で、レオナルド・メンギーニ達のような代襲相続人にはこうした申立は行えません。

    勿論、現在の法律で認められていないというだけで、不可能と言うわけではありません。憲法院に法律の改正を要請し、それが認められれば、勝利することは可能です。しかし結果を得るまでに大変な時間がかかります」

    「どれぐらい時間がかかるんですか?」

    ロメオが緊張した面持ちで尋ねた。

    「運が良くて五年、長ければ十年以上かかる可能性があります」

    「十年なんて――早急に修理しなければならない不動産ばかりだと言うのに、そんなに待つことは出来ませんわ」

    オクタヴィアは絶望的になった。

    「まあ奥さん、落ち着いて下さい。まだ解決策がないとは言っていませんよ」

    ディ・マウロがなだめるように言った。

    「我々はあくまでも訴訟になった場合に発生しうる問題点を考察し、訴訟のメリットと勝算を計ったまでです。

    その結果、我々は訴訟を起こさない方が賢明だと言う結論に達しました」

    「それでは――結局、今まで通り普通に遺産分割を行うということですね――」

    オクタヴィアが失望したように呟いた。

    「いや、違います。正式に訴訟は起こさないだけで、貴女がアンジェリ氏の娘であることを主張することには変わりはありません。つまり我々の計画はこうです。

    メンギーニ達に正式な書状で貴女がアンジェリ氏の非嫡出子であり、唯一の相続人であること、死後認知訴訟を起こすつもりであること、従って相続対象の不動産や相続権の売買仮契約などを一切行ってはいけないことを通告するんです。

    彼等は慌てて弁護士に相談するでしょう。勿論、彼等にこちらが抱えている問題点を悟られてはいけません。貴女がセーラ氏に正式に認知されていることなど、彼等の知るところではないですからね。近い内に示談を申し入れてくるはずですよ」

    ディ・マウロの口調は確信に満ちていた。

    「示談と言うと、お金を要求してくると言うことですか?」

    ロメオが尋ねた。

    「現金、あるいは不動産の一部を要求してくると思います」

    今度はライモンディが答えた。

    「しかしそれでも何年もかかる訴訟を起こすことを考えれば安いものです」

    オクタヴィアの瞳が不安で揺れた。

    「でも、もし――彼等が示談に応じなかったら――」

    「そんなことはまずないですね」

    今度はダヴェーリオが口を挟んだ。

    「メンギーニ達はおそらく貴女がロレンツォの娘であることを知っています。知っていて黙っていたんです。

    ですから認知訴訟になれば、例え何年かかっても最終的に貴女が勝つことが判っているはずです。ですから高い費用を払って負ける訴訟に挑むより、ここで示談に応じた方が賢明だと考えるはずですよ」

    私達は顔を見合わせた。

    「その通知と言うのはいつ送れますか?」

    ロメオが尋ねた。

    「出来るだけ早い方がいいですね。来週か再来週中には送れると思います。書状は私が作成しますが、ダヴェーリオ弁護士の名前で送ってもらいます。私の友人がメンギーニの弁護士を務める可能性がありますので、私は表舞台に立たないほうがいいんですよ」

    ディ・マウロが意味ありげな言い方をしてニヤリと笑った。

    「まあ彼等にとっては晴天の霹靂でしょうなあ」

    ダヴェーリオは笑った。

    「奥さん。計画は少々変わりましたが、心配しないで下さい。

    春までに片がつくはずですよ」

    ライモンディが励ますように言った。

    「そう願いますわ」

    ライモンディに腹を立てているオクタヴィアは彼から目を逸らした。

    ライモンディは訝しげにオクタヴィアを見つめた。

    「先ほど言った訴訟になった場合の障害や問題点をまとめた意見書を作成しましたので、よかった目を通して下さい」

     

    ディ・マウロが『オクタヴィア・セーラ/メンギーニ一族の相続問題』と書かれた報告書を私達の前に置いた。

     

    二人の弁護士が挨拶して去り、私達はライモンディの事務所に残された。

    「オクタヴィアさん。訴訟には思ったより障害があることが判明しましたが、一年も待たずに数ヶ月以内に示談で片がつけば、かえってこの方がよかったと思いますよ」

    ライモンディは上機嫌だった。

    「そううまく行くでしょうか。彼等が訴訟を受けて立つと言い出したら――」

    ライモンディとは対照的にオクタヴィアの表情は硬かった。

    「大丈夫だよ。母さん。彼等だって負けると分かっている訴訟に挑むほど馬鹿じゃないよ」

    ロメオも快活な口調で母を励ました。

     

    私は黙ってディ・マウロが作成した意見書に目を通していた。

    そこにはディ・マウロが素人の私達に判るようになるべく簡単な言葉を選んで説明してくれた内容が、「憲法二六九条によれば~判決の破棄二〇〇四年の第一三六六五~」と言う風に、具体的な法律や判例を引用して詳しく解説されていた。

     「ここで鍵となるのは、メンギーニ側の弁護士です」

    ライモンディは続けた。

    「前にも言いましたが、メンギーニ一族のうち、ミケーレ、リディア・オルシーニ、それにジルダ・メンギーニの顧問弁護士マルタ・リッカルディはディ・マウロ弁護士の友人です。

    メンギーニ達が彼女に今回の件を依頼すれば、事が運びやすくなります。

    リッカルディ弁護士に裁判で戦っても勝ち目がないことを彼等に強調して貰い、早めに示談で手を打つ方向で進めることが出来ます。

    ただメンギーニ達は親戚同士ですが仲が悪く、お互いに疑心暗鬼になっていますから、各人がそれぞれ別の弁護士に相談に行ったりすると厄介です」

    「厄介な事と言うと――」

    ロメオが心配そうに尋ねた。

    「弁護士にしてみれば、訴訟にした方が儲かりますからね。

    特にこのように巨額な遺産を巡る訴訟ともなれば尚更です。中には欲に目が眩んで、負けると判っている訴訟に挑むことを薦める愚かな弁護士がいるかもしれません。

    しかし、私の考えではメンギーニ達は資産家ですが、大変な守銭奴です。それぞれ別々の弁護士を雇うより、六人で一人の弁護士に依頼して弁護士にかかる費用を六人で割ることを選ぶと思いますよ」

    ライモンディは安心させるように言った。

     「ライモンディ公証人――」

    先ほどからニコリともせずに黙り込んでいたオクタヴィアが意を決したように口を開いた。

    「サン・マモロの物件の件ですけど、わたしは元僧院の建物は売りたくないとお伝えしたはずです。でも貴方がわたしに署名させた契約書には全ての建物が含まれていました。少なくとも僧院の建物だけは契約書から除外して欲しいです」

    ライモンディは眉をひそめた。

    「あの物件は三棟で一つの物件なんです。二棟だけ購入するなんて意味がありませんよ」

    「わたしはあの僧院の建物がとても気に入っているんです。ロレンツォも――とても大切にしていましたわ――」

    オクタヴィアは懇願するような口調になった。

    「奥さん。貴女はバルベリア通りの建物とヴィラ・マルヴァジアを修復しなければならないんですよ。サン・マモロの二棟の売却金だけでは、とても不充分ですよ」

    ライモンディは咎める様に言った。

    「でも――」

    ライモンディはもう沢山と言う様に首を振った。

    「もうこの話はやめましょう。サン・マモロの一部だけ売却するなんてナンセンスですよ」

    そう言ってライモンディは強引に話を終わらせてしまった。

     オクタヴィアはライモンディを恨めしそうに上目遣いで見たが、それ以上何も言えずに黙り込んでしまった。

    ミラノまでの帰路の間、オクタヴィアは一言も口を利かなかった。私には彼女の心情が痛いほど判った。

    サン・マモロの僧院――それはオクタヴィアがこの困難きわまる相続争いの中で払った最初の大きな代償だった。

     

     ◇◆◇◆◇

    波紋

     二月二十七日、ライモンディからダヴェーリオ弁護士が例の書状をメンギーニ全員に書留で送ったと報告があった。

    ついに宣戦布告が発せられたのである。

     書状が発送されてから一週間が過ぎたが、メンギーニ達からは何の音沙汰もなかった。あたかも嵐の前の海が異様に静まり返るように、不気味な沈黙が続いた。

    しかしながら、石は投げられ、私達の知らぬところで、すでに波紋が広がっていた。

     ここで、この書状が投じた波紋によって思わぬ災難を蒙った人達についても話しておかねばならない。

    その最初の人物は、遺産管理人のマリアンナ・コソットである。

     その日の七時過ぎ、帰り支度をしていた彼女は、秘書からメンギーニ一族の来訪を告げられ、思わず顔を曇らせた。

    アポは入っていないはずだし、前触れもなく事務所にやってくるなんて一体どういう用件なのか?

    マリアンナは横柄で傲慢なメンギーニ一族に最初からいい印象を抱いていなかった。

     マリアンナは既に勤務時間が終わっている秘書を帰して、メンギーニ達を事務所の会議室に迎え入れた。

    後に彼女は、その時の彼等の様子をこう振り返っている。

     

    「全員が全員、ただならぬ形相でした。そして、掴み掛からんばかりの剣幕で、いきなり私に詰め寄ったのです」

     メンギーニ達はその時、ジルダも含め、六人全員集合していた。

    マリアンナはこの時点では、弁護士が送った書状のことは全く知らされていなかったので、何が起こったのか理解出来なかった。

     「彼等は、私に事情を何一つ説明せずに、私の知っていることを聞き出そうとしました。

    そして、どうやら私が彼等にとって関心のある事柄を何一つ知らないと判ると、いきなり内輪もめを始めたのです」

     マリアンナはこうも証言している。

    事情を知らない彼女は、彼等が何について言い争っているのかよく判らなかったが、レオナルドとクラウディオ・メンギーニは食いつかんばかりの勢いでジルダ・メンギーニを罵倒していたと――

     『馬鹿女め、なぜそんな余計なことを言ったんだ』

    レオナルドは姉をこう罵り続けた。

     おそらく、ジルダがオクタヴィアにかけた電話について非難を浴びせたのだろう。

    マリアンナは口汚く罵りあう彼等に何とか事務所から出て行って貰おうと、何度も無駄な努力を試みた。

    彼等は三時間以上も彼女の事務所に居座り、醜い争いを繰り広げた。

    そしてレオナルド・メンギーニは去り際に、思いがけぬ修羅場を目の当たりにして唖然としているマリアンナに対し、威圧的な口調で遺産管理する必要がなくなった、今後一切この件に関わるなと釘を刺した。

     

    翌日、混乱し、怯えきったマリアンナがオクタヴィアに電話をかけてきた。

    そして「遺産管理人の任を解いてください」と訴えた。

     「私はあんな人達と係わり合いになるのはごめんです」

    彼女は前日の、メンギーニ一族の異様な光景にすっかり恐れをなしていた。

     「この人達は尋常じゃない。精神を病んでいるに違いないと思いました」

    マリアンナはこう締めくくっている。

     オクタヴィアは彼女をなだめ、引き続き遺産管理人を務めるよう何とか説得した。

     

    火の粉はロレンツォの専属大工ファブリーニの身にも降りかかった。

    書状が発送されたちょうど一週間後、ファブリー二は訊きたいことがあるからと、レオナルド・メンギーニの屋敷に招かれた。

    この時、ファブリーニはオクタヴィアに電話し、招待を受けるべきかどうか彼女の意見を訊いている。これに対し、オクタヴィアは自分に気兼ねをせずに知っていることを話せばいいと答えた。

     「驚いたよ。レオナルド・メンギーニの屋敷には、ジルダ以外の全員が集合していたんだからね。あの仲の悪い一族がだよ」

    翌日、ファブリーニはロメオに報告した。

    「彼等にまずオクタヴィアさんがロレンツォの娘だってことを知っているか訊いてきたんだ。

    無論、知っていると答えると、どうかその事について他言しないで欲しい、しかるべき謝礼はするからと言うじゃないか。

    連中にはっきり言ってやったよ。俺は金で良心を売り渡したりはしないとね」

     彼のこの証言からも、メンギーニ達が形振り構わなくなっていることが伺えた。

    彼等はおそらくこの相続争いを相当楽観視していたのだろう。

     後にミケーレ・オルシーニがライモンディに漏らしているように、彼等にとって真の戦いはオルガの遺産を巡る骨肉争いであった。狡猾で強欲な彼等同士の騙し合いであり、皆が皆、一ユーロでも余分に相続するためなら、一歩も譲らず何年でも法廷で戦う覚悟なのだ。

     

    アンジェリ家の遺産に関しては、相手が世間知らずなオクタヴィアなだけに、彼等にとって楽勝出来るゲームのはずだった。彼等は共通の利益のために一時休戦し、アンジェリ家の遺産分割協議を少しでも有利に進めるために同盟を結んだ。

     

    遺言状の有効性はあくまでも認めない、不動産の鑑定はポリーニ氏の評価額の正当性を主張する。オクタヴィアが自分の言い分を通すには訴訟で戦わなければならない。だが資金のないオクタヴィアが長丁場の民事訴訟を闘えるはずがない。すぐにこちらの出す条件に屈服せざるを得なくなるだろう。
    そうして、少しでも余分に相続し、続くオルガの遺産争いの軍資金に当てるつもりだったのだ。

    しかし、彼等の計画はここに来て総崩れになった。これほど侮り、甘く見ていたオクタヴィアが予想外の攻撃を仕掛けてきた。

    しかも、彼女は知ってしまったのだ、彼等がひた隠しにしてきた出生の秘密を――

     

    数週間後、相続人の一人、ミケーレ・オルシーニが連絡してきた。

    ミケーレは、電話で彼自身はオクタヴィアの出生の秘密を全く知らなかったと告げ、もし真実であれば然るべき法的手続きを取り、オクタヴィアが全てを相続すべきだと本心はともかく、好意的な言い方をした。

     ダヴェーリオ弁護士の書状がメンギーニ達に激しい衝撃を与えたのは事実のようで、それまで張り切って遺産管理を仕切っていたレオナルド・メンギーニは書状を受け取るや否や全てを放棄してしまった。

     

    彼等は間違いなく弁護士に相談するだろう。そして彼等が依頼する弁護士がキーパーソンになる。

    ライモンディの目論み通りディ・マウロ弁護士の友人、マルタ・リッカルディ弁護士に依頼するかどうか――私達は緊張しながらライモンディからの報告を待った。

     

    一週間後、ロメオが興奮で頬を紅潮させながら私に言った。

    「彼等はマルタ・リッカルディ弁護士に正式に今回の件を依頼したそうだよ」

    「本当?」

    「間違いない。さっきライモンディから連絡があった」

    ロメオは嬉しそうに頬を緩ませた。

    「よかったわね。第一関門突破って所かしら?」

    「うん。でも勝負はこれからだよ」

    ロメオが顔を引き締めた。

     

    ライモンディとロメオは毎日のように連絡を取り合っていた。

    彼の話では、ライモンディとディ・マウロ弁護士の共通の友人で、メンギーニ一族の中では最も良識的なミケーレ・オルシーニが、メンギーニ達の内情をライモンディに随時、報告する役回りを買って出たらしい。

     「早い話がスパイってことね」

    このことをロメオから聞いた私は面白そうに言った。

     「勿論、見返りとしてそれなりの謝礼を要求してくるだろうけどね」

    ロメオは笑った。

    「メンギーニ達はオルガ・メンギーニの遺産相続を巡って既に訴訟を起こしたらしい。だからミケーレとしては、アンジェリ家の遺産の方は示談で早く決着をつけて、裁判の軍資金にする気なんだろう」

    「彼等は幾らぐらい要求してくるかしら?」

    ロメオの顔が曇った。

    「ライモンディの話では、とにかく欲の塊のような連中だから、きっと吹っかけてくるんじゃないかって。

    彼の予想だと遺産の三十五パーセントだそうだよ。ディ・マウロは三百万から四百万ユーロだろうと言っているそうだ」

    「三十五パーセントだなんて、それじゃあ用益権を金額に換算して相続するのと変わらないじゃない?」

    私は憤った。

    「母さんも三十五パーセントなんてとんでもないって怒っているよ」

    「当たり前よ。そんな要求絶対に呑んだらだめよ」

    私はきっぱりと言った。

    「彼等がこちらの足許を見て付け込んでくるような連中よ。だから弱みを見せたら絶対にダメ。こちらで額を決めてそれ以上は絶対に譲らないと言う断固たる態度で挑むべきよ」

    私はいつになく強い口調で言った。

     

    メンギーニ達がダヴェーリオ弁護士からの書状を受け取ってから三週間がたったが、彼等の弁護士からはまだ何の連絡もなかった。

     

     ◇◆◇◆◇

    駆け引き

    メンギーニ達の弁護士からようやく連絡があったのは三月も終わろうとしている頃のことだった。

    彼等の要求は現金で五百万ユーロ。ディ・マウロ弁護士の予想額が三百万から四百万ユーロだったから、想像を上回る金額を要求してきたことになる。

     

    ライモンディの話ではダヴェーリオ弁護士の書状からメンギーニ達が受けた衝撃は相当のものだったらしい。彼等にしてみれば、相手は不動産や法律に疎い世間知らずなオクタヴィアだから、うまくすれば相当の財産を相続出来ると踏んでいたのが、とんだ計算違いだったのだろう。そこで示談で取れるだけ取っていこうと言う算段に出たのだ。

    法外な金額を聞いたオクタヴィアは当然のことながら激しく憤り、絶対に応じられないと彼女にしては珍しく即答した。

     

    ライモンディは現金で支払うと、オクタヴィア達にとってもメンギーニ達にとっても税金の問題上、割高になるので、不動産の一部を彼等に相続させるのが、お互い一番得策であるとオクタヴィアに説明し、ガリエラ通りの建物と現金二百万ユーロでどうか、交渉してみると伝えた。

     

    弁護士達の交渉が進む中、ライモンディがオクタヴィア母子に新たな提案をしてきた。

    ゴベッティ通りの土地に関するプロジェクトだ。

    ゴベッティ通り周辺の土地は三区画に分かれており、ボローニャ市の新都市開発計画の予定地になっている。従って、いずれ市がこの土地を購入する予定になっていた。

     

    ライモンディの提案はこうである。

    ライモンディが三区画の土地のそれぞれ五十パーセントを購入し、ファルネーゼに依頼して土地の有効性を実証してもらう。その上で、ライモンディの兄で実業家のウンベルト・ライモンディのコネや人脈を使って市と交渉し、より高値で売却し、その売却金を山分けしようと言うのだ。ファルネーゼの予測によれば現在の倍額近い値段に地価を引き上げることが可能なのだそうだ。

     

    ライモンディは例によって買主が彼の妻と兄名義になっている前提契約書を用意してきた。

    さすがのオクタヴィアもサン・マモロの物件の一件で、この手の契約書には慎重になっていたので、署名する前にナーディアに相談した。

     

    サン・マモロの一件以来、ライモンディ公証人に不信感を抱いていたナーディアは彼と共同事業を進めることに反対したが、契約書の内容そのものには特に問題がないと言った。色々思案した末、ロメオ達はこの話に乗ってみることにした。

    一方、メンギーニ達がガリエラ通りの物件と現金二百万ユーロと言うこちらの提案をはねつけてきたために交渉は暗礁に乗り上げた。

     

    「奴等はこちらの足許を見ているに違いないよ」

    ロメオが頭を抱えた。

    「経済力のない僕達に長期戦は無理だと踏んでいるんだ」

    「卑劣な人達ね。でもこちらの弱みを悟らせてはダメよ。

    ロメオ達の方が正しいんだから断固とした態度で――」

    「でも、もし奴等が示談には応じない、訴訟で戦うなんて言い出したら――」

    ロメオは弱気になっていた。

    「それは絶対にないと思う」

    私は断言した。

    「だって訴訟になれば、例え何年かかっても彼等は確実に負けるのよ。それに訴訟って、負けたほうが裁判の費用とか、その間蒙った損害の賠償金なんかを全額支払うんでしょう?

    彼等だって一文の得にもならない裁判をするより、この際、示談で手堅く遺産の一部を手に入れるほうが賢いと分かっているはずよ」

    「でも、彼等は僕達が出した条件を却下してきたんだよ」

    「そこが彼等のしたたかなところよ。

    彼等はロメオ達に認知訴訟を起こす経済力がないことを見越しているのよ。だからこうやって心理的圧力をかけて、彼等の法外な要求を通そうとしているのよ」

     

    私は親族会で見たメンギーニ達の欲で醜く歪んだ面相を思い出した。

    あんな人達の思い通りにはさせない――

    私はそう思った。

     

    最初の頃、出来るだけこの相続問題に関わらないようにしていた私だが、いつの間にかどっぷりと巻き込まれてしまっていた。何よりも孤独で無防備なオクタヴィアに付け込もうとしていることが許せなかった。

     

    「彼等の中で、一番厄介なのが、レオナルドとクラウディオ・メンギーニだ」

    ロメオは考え込むように言った。

     

    「彼等はどうやらゴベッティ通りの三区画の土地に目をつけているみたいだから、いっそこの土地を渡すというのもひとつの手だと思うよ」

    「ライモンディもこの土地で儲けようとしているんでしょう?

    承知するかしら?」

    「決めるのは僕達だ。ライモンディが何と言おうと、彼等がこの土地で示談に応じるなら、これが最善策だと思うよ。はっきり言って僕は土地には興味がないしね。

    いくら潜在価値があると言われても、僕にはバルベリア通りの建物やヴィラのほうが大事だよ」

    ロメオはきっぱりと言った。

     

    そしてライモンディにゴベッティ通りの三区画の土地を提供してはどうかと提案したところ、人並みはずれた知恵者のライモンディはその一歩先を行く妙策をひねり出した。

     

    「ファルネーゼにこの土地の調査を依頼して建築可能な土地であることを証明した上で、実業家でボローニャ市に強力なコネのあるライモンディの兄さんの力を借りて、現在の評価額を遥かに上回る売値で市と商談をまとめれば、三区画のうちの二区画だけでメンギーニ達が要求している金額を十分満たすことが出来るそうなんだ」

    ロメオはライモンディの提案を私に伝えながら声を弾ませた。

    「さすがライモンディらしい発想ね。でも短期間でそう簡単に商談がまとまるものなの?」

    私はびっくりした。

    「この区画はいずれ市が買い取る予定にしている土地だよ。

    ロレンツォの土地以外、この辺りの土地は全部ボローニャ市の公有地だからね。

    数年後の都市開発計画でこの一帯は公園、金融機関、行政施設が建設される予定なんだ。そこでファルネーゼの調査と分析で土地の潜在価値を証明して、より高い値段で売却する確約を市と取り付けようという訳なのさ。

    しかもウンベルト・ライモンディは市の権力者達と懇意だから、短期間で商談をまとめることが出来るそうなんだ」

    「ふうん――」

    ――イタリアって何よりもコネと権力がものを言う国なのだ。

    私は改めて実感した。

     

    しかしこんな妙策を思いつくとは、さすがライモンディである。

    メンギーニ達がゴベッティ通りの三区画に目を付けているのは最初から判っていたが、三区画とも渡してしまうのではなく、地価を上げて二区画で手を打とうというのだ。私は彼の傑出した頭脳と柔軟な思考回路に感服せざるを得なかった。

     

    「とりあえず、ここはライモンディの手腕に賭けるしかないわね」

    ライモンディが敵でなくて良かった――私はこの時、心からそう思った。

     

    四月になるとファルネーゼによる土地の分析と調査が終了し、ライモンディの兄ウンベルト・ライモンディが市と交渉するために奔走し始めた。

     

    そして四月六日、もともと三百八十万ユーロと鑑定されていたゴベッティ通りの二区画を、市が六百万ユーロで買い取ることで商談がまとまったとライモンディが報告してきた。つまり、ライモンディ兄弟はわずか1ヶ月足らずでゴベッティ区画を二百二十万ユーロも値上げしたことになる。メンギーニの要求は五百万ユーロだから、この二区画の土地に六百万ユーロの価値があることを示せば、彼等もきっと承諾するはずだと、ライモンディも今度ばかりは自信ありげだった。

     

    「今、向こうの弁護士からの返事待ちなんだ。ライモンディは今度こそ大丈夫だろうと言っているけど、相手が相手だからね。どう出てくるか」

    ロメオは緊張した面持ちで言った。

    「ライモンディの話では、ミケーレ・オルシーニが他のメンギーニ達を説得する役を買って出たらしいよ」

    「そう――」

     

    メンギーニ達の内情も色々と複雑なのだろう。ミケーレ・オルシーニは傲慢で支離滅裂なレオナルド、クラウディオ・メンギーニに振り回されるよりも、双方の間をうまく立ち回って謝礼をせしめたほうが得と踏んだのかもしれない。

    ミケーレ・オルシーニと言えばオドオドとした挙動不審な態度が印象に残っている。

    私はイソップ童話のコウモリを連想した。

     

    「今はライモンディからの朗報を待つしかないわね」

     

    それから一週間後、ライモンディから待ちに待った朗報が届いた。

    「やったよ!ライモンディの目論見どおり、奴等は六百万ユーロと言う値段に目が眩んで示談に応じると言ってきたそうだよ」

    ロメオは喜びで大きな瞳を輝かせた。

    「よかった――これで一安心ね」

    「正式な書類に全員が署名して、遺産分割協議が完全に終了するまで、まだ油断は出来ないけど、取敢えず彼等はこちらの出した条件を呑んだわけだ」

    「そうね。それで正式な書類にはいつ署名するの?」

    「来週、相続人全員が集まって、まずディ・マウロ弁護士が作成した示談書に署名することになった。その後で公証人の前で正式な遺産分割協議書に署名する。協議書の作成には一週間ほどかかるそうだから、遺産分割協議が完全に終了するのは五月の中旬頃になるだろうとライモンディは言っている」

    「問題がなければ――でしょう?うまく事が運ぶといいわね」

    全てが順調に進んでくれたらどんなにいいだろう――私は心から思った。

    しかし、それがどれほど難しいことなのかも十分承知していた。

     

    四月十七日月曜日、オクタヴィアは示談書に署名するために朝から独りでボローニャのダヴェーリオ弁護士の事務所に向かった。

     

    しかし弁護士事務所に現れたのは、ミケーレ、リディア・オルシーニ、イザベラ・ピッコリ、ジルダ・メンギーニの代理人、そして彼らの担当弁護士マルタ・リッカルディだけで、レオナルド、クラウディオ・メンギーニは現れなかった。

     

    「母さんは怒って帰ってきたよ。わざわざミラノから出向いたのに二人もの人間が約束をすっぽかして連絡もないんだからね。人を馬鹿にするにも程があるって」

    ロメオは憤った。

    「じゃあ、遠路遙々行ったのに、示談書に署名せずに戻ってきたの?」

    「いや、母さんと出席した相続人は全員署名したよ。

    でも相続人七人全員の署名が揃わないと意味がないからね。」

    「レオナルドとクラウディオはどういうつもりなのかしら?」

    「リッカルディ弁護士は彼等全員がこちらの出した条件に同意したことには間違いないと、はっきり母さんに言ったらしいよ。彼女も依頼人が当日すっぽかすとは夢にも思っていなかったみたいで慌てていたらしいけど」

    「それで、残りの二人はいつ署名するつもりなの?」

    「リッカルディ弁護士は数日中に署名するはずだと言ったらしいけど――」

    ロメオはやや自信なさげに言った。

    「そう――」

    私は胸騒ぎを覚えた。

    「でもリッカルディ弁護士は二人ともたまたま来られなかっただけで、今週中には署名しに来るとはっきり言ったそうだよ。大丈夫、今週中には片が付くよ」

    ロメオは珍しく楽観的だった。

    「だといいけど――」

     

    私は一瞬よぎった不吉な予感を拭い去るように言った。

     

    しかし私の予感は的中した。

    クラウディオ・メンギーニは三日後の木曜日に弁護士事務所を訪れ、署名を済ませたが、レオナルド・メンギーニは次の週になっても署名に現れなかった。

     

    楽観的だったロメオも二週目も終わりに差し掛かるとさすがに苛立ちが隠せなかった。

    「レオナルド・メンギーニは誰よりもゴベッティ通りの土地に注目していたんでしょう?第一、この条件で示談に応じるとはっきり言ってきたんだし、きっと大丈夫よ」

    落ち込むロメオを今度は私が励ました。

    「そうだね。ライモンディも心配ないと言っているしね」

    ロメオは不安を振り切るように笑顔を見せた。

     そうこうしている間に四月が終わってしまった。
    レオナルド・メンギーニは相変わらず署名に現れなかった。

     



    第六章 遺産分割協議まで



    ハネムーン      

    五月九日、私とロメオはモルディブに向かう飛行機の中にいた。

    五日前の五月四日に私達はミラノ市役所で結婚手続きを済ませ、晴れて入籍したのだ。

    私もロメオも世間一般通りの形式には興味がなかったので、仰々しい式は挙げなかったが、心機一転も兼ねてハネムーンにかねてからの憧れの地、モルディブを選んだ。


    旅行会社のツアー用チャーター便のため、ミラノ・マルペンサ空港第二ターミナルからの出発だった。二十一時発の遅い便だったが、空港はツアーの参加者である若いカップルで一杯だった。

    十時間以上にも及ぶ空の旅は最悪だった。機内食はパサパサに干からびたラザニアだった。少しでも眠るために赤ワインを注文したが、酷い安物ワインで飲めた代物ではなかった。このワインのためか、干からびたラザニアが悪かったのか、食後程なくして私は激しい吐き気と腹痛に襲われた。


    「当機は間もなく、マレ国際空港に着陸致します。どなた様もお座席にお戻りになり、シートベルトをお締め下さい」

    機内アナウンスが流れた。

    どうやら一睡も出来ぬまま、モルディブの首都マレに到着したようだ。

    私は着陸態勢に入った飛行機の小窓から下を見下ろした。広大な碧い海に点々と浮かび上がる珊瑚礁の島々がまるで瑪瑙のように映え、紺碧の巨大なキャンパスに水色と白と緑が絶妙に混じり合う美しい斑模様を描いていた。

    モルディブとはサンスクリット語で『島々の花輪』と言う意味を持つと、以前に何かで読んだ事がある。珊瑚礁の島々を海に散った花輪になぞらえてこのような名前がついたのだろう。

    インド洋の真ん中に浮かぶモルディブの国土は約千二百もの島と環礁で形成されている。観光を主要産業とするこの国では、島の多くがリゾート島となっており、それぞれの島がひとつのホテルとなっていた。

    空港に到着すると、アンナ・マリアと言う現地のイタリア人ガイドが私達を迎えた。

    彼女の案内で私達は高速艇に乗り込み、宿泊先となるリゾート島に向かった。私達と共に島に向かうツアー客は三十人ほどで、いずでも若いカップルばかりだった。

    私は甲板の席に座ると海の空気を一杯に吸い込んだ。熱帯気候独特の生暖かい風が頬を撫でる。小気味よいエンジン音が響き、船が出航した。頬に当たる水しぶきと潮風が心地よかった。世界一人口密度が高いと言われている首都マレは島全体がビルや建物でひしめき合うコンクリートの塊のような島だったが、マレを出航するとすぐに、熱帯樹で覆われた緑の島が左右に現れた。

    ロメオは難しい顔をして何やら考え込んでいた。

    「大丈夫。帰る頃にはレオナルド・メンギーニもきっと署名しているわよ」

    私はロメオを慰めた。

    「そうだね。ごめん、つい気になってしまって――」

    ロメオははっと我に返ると気を取り直すように笑顔を見せた。

    この美しい楽園にいても私達の心の奥には常に拭い去れない黒点があった。それはどんなに目を背けても決して消えることのない一点の染みのような存在で、紙にたらした一滴の墨汁のように、一瞬にして全てを真っ黒に染めてしまうような負の威力を持っていた。

    ――大丈夫。今頃きっと署名しているはず。

    私は自分に言い聞かせた。

    ――考えないようにしなければ。

    「イルカだ!イルカが跳ねた!」

    甲板の反対側に座っていたカップルが歓声を上げた。

    私達は振り返って歓声の先を目で追った。

    イルカが元気よく水面から飛び出した。

    「わあ――本当!イルカよ」

    私は歓声を上げた。野生のイルカをこんなに間近で見るのは生まれて初めての体験である。

    「本当だ。すごいなあ!」

    ロメオも感嘆した。

    宝石のように美しい緑の島々に混じって、灰色の煙をもくもくと吐き出す煙突の聳える島が見えてきた。

    「あれはゴミ処理専用の島です。モルディブは首都の島、漁民の島、刑務所の島、リゾート島という風に、島ごとに役割が決まっています」

    ガイドのアンナ・マリアが説明した。

    島と環礁の間を走り抜けること三十分、ようやく正面に私達の泊まるリゾート島が見えてきた。島全体が熱帯樹でこんもりと覆われ、まるで水面に浮ぶジャングルのようだった。

    高速艇は速度を落とし、島を囲むラグーンの中に入っていった。淡い碧色の海水がアクアマリンのように煌きながらゆらゆらと揺れている。

    地上の楽園――まさにそんな言葉がぴったりだと私は思った。

    「綺麗ねえ――」

    私は水底の白い砂に今にも手が届きそうなほど透き通った水面をうっとりと見つめた。

    島に上陸した私達は椰子の木に囲まれた藁葺屋根の大きなコテージに案内された。

    ここがホテルの本館で、フロント、ロビーホール、ラウンジバー、レストランなどがあった。丈の長い麻の上衣に身を包んだインド系のホテルボーイが私達の荷物を黙々とロビーに運び込んでいた。私達はここで食事の時間や島の情報などの説明を受けた後、各自が宿泊するコテージに案内された。

    本館の周りに散在する小奇麗なコテージは砂浜に面したテラスが付いており、お互いのコテージが見えないように熱帯樹が巧い具合に植えられていた。

    「いい所ねえ」

    私はテラスにある籐細工のロッキングチェアに身を沈めながら言った。

    ここからはアクアマリンブルーに煌く海がその遥か彼方の水平線まで見渡せる。

    太陽の光を一杯に反射した真珠色の波が眩しい輝きを放っていた。


    「本当だ――今はただ全てを忘れてこのひと時を満喫したいよ」

    ロメオは眩しそうに目を細めながら言った。

    モルディブで私達はまるで夢のような時間を過ごした。

    最初の二日間はレオナルド・メンギーニの事がどうしてもチラチラと頭をかすめたが、三日もたつと私達はこの楽園でのバカンスに没頭し、相続争いのことは考えなくなった。私達は透明な海でダイビングを楽しみ、色鮮やかな珊瑚や熱帯魚の間をまるで人魚のように泳ぎ回った。

    ホテルの従業員達は寡黙だったが、サービスは充実していた。彼等は普段ほとんどしゃべらなかったが、こちらから話しかけると白い歯をニッと剥き出して人懐こい笑顔を見せた。女性スタッフが一人もいないのはここがイスラム教の国だからだろう。

    夕暮れになると球状に伸びた空が燃えるような緋色に染まり、太陽の最後の輝きが広大な海に飲み込まれた後も、深紅の余韻がいつまでも残った。

    夜は砂浜に用意されたテーブルで蝋燭の灯の下、ハイビスカスの花に囲まれながら二人だけのディナーを楽しんだ。

    「来てよかったわね」

    ディナーを終え、砂浜で夜風に当たりながら私はしみじみと言った。

    夜の海が蒼ざめた月光を浴びて銀の鱗のようにキラキラと輝いていた。

    鬱蒼と茂った熱帯樹の黒々としたシルエットがまるで生き物のように揺れ動いていた。


    「本当だ。こんなにリラックスしたのは、久しぶりだよ」

    ロメオは数日前とは別人のような穏やかな顔をしていた。


    この相続問題はまるで慢性ウィルスのように、じわじわと私達の心の奥底に入り込み、いつの間にか心の平穏を蝕んでいたのかもしれない。

    十日間のバカンスは瞬く間に過ぎ去り、私達は後ろ髪を引かれるような思いで帰途についた。

     ◇◆◇◆◇

    代価

     モルディブから戻った私達を待ち受けていたのは、レオナルド・メンギーニが未だに署名を済ませていないと言う無情な現実だった。

    「ライモンディはかなり苛立っているよ」

    ライモンディと電話で話したロメオは沈んだ声で言った。

    ライモンディはオクタヴィア母子と心中しかねないほどこの相続問題にのめり込んでおり、誰よりも彼自身がこの一件に頭を悩ませていた。

    「弁護士が何度催促の電話をしても、レオナルド・メンギーニは来週には行く、来週には行くとのらりくらりと受け答えをするだけで、一向に腰を上げる気配がないそうだよ。メンギーニ側のリッカルディ弁護士も彼の気紛れに振り回されてすっかり辟易しているらしい」

    ロメオの口調は重かった。

    モルディブでのひと時があまりにも美しく、夢のようだったので、イタリアに帰国したら示談書にすべての署名が揃っているのではないかと、夢の続きのようなことを考えていたのだが、そんな想いは無残にも打ち砕かれた。


    「レオナルド・メンギーニは何を考えているのかしら?

    今更考えが変わったって言うんじゃないんでしょう?」

    「それはないみたいだよ。レオナルドは示談の内容自体には同意していて、それに変わりはないようだよ。だったらどうしてさっさと署名に行かないのか、向こうの弁護士も再三催促しているらしいけど――」

    「そう――」

    今はただ待つしかないのだろうか。

    私にはレオナルド・メンギーニの真意が分からなかった。


    示談の内容に同意していることに変わりはないと言っているらしいが、これ程もったいぶるのは、こちらに精神的な揺さぶりをかけて、条件をもっと良くしようともくろんでいるのかもしれない。


    更に追い討ちをかけるように文化財保護局からヴィラ・マルヴァジアの屋根の修理を要請する最終通告が送られてきた。

    ロレンツォが亡くなってから、相続人達に修理を催促する通告はこれまでに何度も送られてきた。ボローニャ派絵画の原点となったフレスコ画がいくつもあるヴィラはボローニャ市にとって重要な文化財なのだ。

    今回届いた書状は、これ以上放置するようなら管理能力がないとみなされ、市が没収すると言う厳しい内容だった。ヴィラを相続するのは確実にオクタヴィアだが、正式に相続し、所有者となるまで修復工事を着工することは出来ない。

    オクタヴィアは遺産管理人のマリアンナ・コソットに相談し、文化財保護局に事情を説明し、猶予の延期を請う手紙を送った。


    更に土地測量技師ファルネーゼに彼の友人の建築家を紹介してもらい、屋根修理の設計を進めてもらうことにした。設計図を作成し、文化財保護局から許可をもらうまで、数ヶ月かかるので、遺産分割が完了次第、工事を開始出来るようにするためである。


    ファルネーゼの友人、ルーカ・ジョルジョーネは底抜けに明るい陽気な建築家で、私達はすぐに彼が気に入った。一目でヴィラ・マルヴァジアに魅せられたこの人懐こい建築家は数日中に、構造設計技師と一緒に屋根の状態を調査すると約束した。


    そうこうしている間に五月も終わってしまった。

    レオナルド・メンギーニがようやく署名したと言う報せがライモンディから届いたのは六月頭のことだった。これによって翌月、七月二十五日に相続人全員が公証人事務所に集まり、正式な遺産分割協議書に署名することが決まった。

    ホッと安堵したのもつかの間、新たな問題が私達を待ち受けていた。

    「ライモンディの相談料のことなんだけど――」

    そう言うロメオの表情は冴えなかった。

    「彼は去年の夏からずっと僕達の相談役をしてくれているだろう?今回のゴベッティ通りの土地の件も含めて彼への謝礼が幾らになるのか、電話で聞いてみたんだ」

    ロメオはここで苦々しそうに言葉を切った。

    「そうしたら、心配するな、『米の水路』で話をつけようなんて言うんだ。僕が思うに、彼は謝礼として『米の水路』をまるまる持っていくつもりなんだろうけど、そうは行かないよ」


    『米の水路』とはゴベッティ通りの三区画の中で、オクタヴィアが相続することになる残りの一区画である。昔、米の運搬に使った水路があることからこのような名前で呼ばれているのだ。

    「『米の水路』の評価額って幾らなの?」

    「ファルネーゼの鑑定では百三十五万ユーロだよ」

    「百三十五万ユーロ!」

    私は目を丸くした。

    「まさか、いくら何でも相談料が百三十五万ユーロもするわけないじゃない?」

    私はあり得ないという風に笑った。

    百三十五万ユーロを現在のレートで換算すると約二億三千万円である。

    「そうだよね――」

    ロメオは相槌を打ったがその表情は冴えなかった。

    オクタヴィアは既に二人の弁護士に十五万ユーロずつ、合わせて三十万ユーロの謝礼を支払っている。裁判にならず、示談で済んだことを考えると破格な値段である。

    ロメオの話では、こう言った相続争いにかかる弁護士の相談料は遺産総額をベースに計算されるので、途方もない額になるのだそうだ。しかし、示談を作成し、交渉に努めたのはディ・マウロ弁護士で、刑事弁護士のダヴェーリオはディ・マウロの名が表に出せないために名前を貸してもらっただけの弁護士である。十五ユーロは高すぎるのではないか?

    報酬の分け前にありつくために、友人のライモンディに頼んで、仲間に入れてもらったのではないかと勘繰りたくなる。

    結局、ライモンディが三十万ユーロのうち、十万ユーロはメンギーニ側が支払うということで、話をまとめた。

    しかも、弁護士達はオクタヴィアが支払う二十万ユーロのうち、領収書を出すのは六万ユーロだけで、残りの十四万ユーロは現金で支払うよう要求してきた。つまり、十四ユーロまるまる脱税すると言う訳だ。法律家の弁護士が堂々と法律違反とはと私はあきれたが、この国では弁護士の脱税は当たり前のことなのだ。

    弁護士だけではない。開業医、公証人などの高額所得者は勿論、電気屋や左官屋、レストラン、バールに至るまで、個人で開業する職種の多くが公然と脱税している。

    しかし、いかに理不尽であってもここで弁護士を逆らうことは出来ない。全てを握っているのは彼らなのだ。

    オクタヴィアは彼等の機嫌を損ねたら、メンギーニ側に転じるのではないかと本気で恐れていた。

    これが日本なら、そんな馬鹿な、と一笑に付すところだが、ここはイタリアである。被告と原告の弁護士が裏で繋がっていることなど、日常茶飯事なのだ。

    現に、メンギーニ側のリッカルディ弁護士はディ・マウロの愛人でこちらに有利に事が運ぶよう動いている。

    もし、これが逆だったら――そう考えると背筋が寒くなる。


    「明日、母さんが署名の揃った示談書を受け取りにボローニャに行くんだ。その時、彼の報酬が幾らか訊いてくると言っていた」

    「ロメオは一緒に行ってあげられないの?」

    「明日から期末テストが始まるから無理だよ。君は明日、暇じゃないよね」

    「仕事よ。暇なわけがないでしょう?」

    「まあ、お金の受け渡し場所は銀行だし、ライモンディが付き添うそうだから大丈夫だよ」

    ロメオは努めて明るい口調で言った。

    しかしながら、私達は彼女を一人で行かせたことを後で深く後悔する羽目になるのだ。


     ◇◆◇◆◇

    米の水路

    翌日の夜、オクタヴィアから相談料に関する報告を受けたロメオは暗い顔をして家に戻ってきた。

    「ゴベッティ通りの土地の共同事業の契約書のことを覚えてる?」

    「共同事業?」

    「ほら、ライモンディの兄さんと奥さん名義の土地の売買前提契約書だよ」

    「ああ、土地の五十パーセントを彼等が購入して、地価を上げ、売却金の儲けを二等分すると言う契約書ね?」

    「昨日、母さんがライモンディの事務所に行ってみたら、報酬に関しては兄のウンベルト・ライモンディと話して欲しいと言われて、ウンベルトの方と今回の報酬について話したそうなんだ。

    それで母さんが以前、署名した契約書によれば、ウンベルト・ライモンディがゴベッティ通りの二区画を元値の三百八十万ユーロから六百万ユーロまで地価を引き上げたから、差額二百二十万ユーロの半額の百十万ユーロが彼等の報酬だと言われたらしい。

    母さんが昼間、ライモンディの所から電話してきて――その時は電話だったし、例によって母さんの説明も支離滅裂でよく判らなかったんだけど――相談料が百十万ユーロだってことは判ったから、とりあえず十万ユーロ割引して貰うように言ったんだ。

    それで評価額が百三十五万ユーロの『米の水路』を彼等が購入して、報酬の百万ユーロを引いた差額の三十五万ユーロを僕達に支払うことになったって――」

    「ちょっと待ってよ――それじゃあ何、ライモンディへの報酬は百万ユーロってこと?」

    「勿論、僕もミラノに戻ってきた母さんからこの話を聞いた時、法外な値段だって怒ったよ。さっきライモンディにも電話して、もっと割引するように言った」

    「それで――ライモンディは何て答えたの?」

    「来週、僕と君でライモンディに会いに行くことになった。その時にせめてあと二十万ユーロ、割引して貰うように頼んでみよう」

    「行くことになったって、私も行かなくちゃならないの?」

    「ライモンディが僕達二人を昼食に招待してくれたから二人で行こう」」

    私は溜息をついた。

    「なんだか――気が進まないなあ――

    あのライモンディ相手に報酬の交渉をするなんて――」

    私は想像するだけで暗澹たる気分になった。

    「それにしても、差額の半分を要求してくるなんてちょっと横暴ね」

    私は考え込んだ。

    「ねえ――お義母さんが署名した契約書、今持ってる?」

    「いや、母さんが持っている」

    「今思ったんだけど、あの契約書って確かゴベッティ通り三区画の売買仮契約書でしょう?」

    「そうだよ。結局、三区画のうちの二区画をメンギーニが相続することになるから、この売買契約は成立しなかったけどね」

    「そこよ。あの契約書によれば、ライモンディ達がゴベッティ通り三区画の五十パーセントを購入し、地価を上げるプロジェクトを実施する。それで地価が最高値に達したところで土地を全部売却して、売却金を半分ずつに分けると言うことだったわよね?」

    「うん。確か土地の地価を上げるための調査や分析は全て彼等が行う。それに掛かる費用は二等分するという内容だった」

    「ウンベルト・ライモンディは今回、メンギーニ達を説得する為にゴベッティ通りニ区画の地価を上げることに成功し、差額の半額を報酬として要求してきているのよね?」

    「そうだよ。二百二十万ユーロの半額だから百十万ユーロだってね」

    「それはおかしいと思う」

    私はきっぱりと言った。

    「おかしい?」

    「そうよ。だって差額を山分けすると言うのは、あくまでもライモンディ達との間に土地の売買が成立した場合でしょう?

    彼等は土地の半分を購入するわけだから、地価が上がれば儲けの半分は当然彼等のものになる。でも今回、土地の二区画はメンギーニが相続するわけだから、結局この土地売買は成立しなかったわけでしょう?

    土地の所有者でもないのに、差額の半額を要求してくるなんておかしいと思う」

    「そうか。差額を半分に分けるというのは、あくまでも彼等が土地の半分を購入した場合だ。彼等は土地を買っていないわけだし、差額の半額が彼等の報酬と言うのはおかしい。報酬を払うのは当然だけど、差額の半分と言うのは高すぎるよ」

    「お義母さんが署名した契約書にそういう条項が含まれていない限りね」

    「よし。じゃあ明日、母さんに契約書を見せてもらおう」

    ロメオは少し元気付いた。

    「ライモンディが僕達のためにしてくれたことは感謝しているし、評価もしている。

    でも報酬が百万ユーロと言うのは納得がいかないよ」

    ロメオはきっぱりと言った。


    翌朝、いつものカフェで例のゴベッティ通りの売買前提契約書をオクタヴィアに見せてもらった私は注意深く目を通した。

    「やっぱり思った通りね。儲けを五十パーセントずつ山分けすると言うのは、あくまでも彼等との間にこの土地の売買が成立した場合よ。彼等は土地の半分を買うわけだから、地価が上がったら儲けの半分をもらうのは当然よね。でも彼等は土地を買わなかったのよ。それなのに値上げした差額の半額を要求するのはおかしいでしょう?」

    「あら、そう言えばそうね――」

    オクタヴィアは拍子抜けするような返事をした。

    「私、こう言ったことの報酬額についてはよく判らないけど、普通利益の十パーセントから、高くても二十五パーセントぐらいだと思うの。株売買のブローカーなんかもそうでしょう?

    報酬は歩合制だけど、五十パーセントなんて聞いたことがない」

    オクタヴィアは大きな眼を一層大きく見開いた。

    「そうね。私も高すぎると言ったんだけど」

    私とロメオは顔を見合わせた。

    「母さん、僕達は来週、ライモンディと報酬について話し合うことになっている。僕は土地の差額二百二十万ユーロの二十五パーセントでどうか頼んでみるよ」

    ロメオはきっぱりと言った。

    「そう言えば先日、ボローニャに行った時に、もうひとつ署名した契約書があるのよ。」

    オクタヴィアが思い出したように言った。

    「家においてあるから取ってくるわね」

    オクタヴィアは席をたつと、そそくさとカフェを出て行った。


    「ちょっと――」

    私はロメオの袖を掴んだ。

    「もうひとつの契約書ってどういうこと?

    この他にも署名した書類があるなんて聞いてないわよ」

    「僕も初耳だよ。

    母さん、ボローニャから戻ってきた時、『米の水路』を売却して、売値の百三十五万ユーロから報酬の百万ユーロを引いた差額の三十五万ユーロを彼等が支払うとことで話が付いたって言ったけど、何かに署名したなんて言ってなかった」


    私は呆然として黙った。
    やはりオクタヴィアを一人で行かせるべきではなかったのだ。

    オクタヴィアが書類を持って戻ってきた。

    「でもこれはわたし達だけの取り決めで重要な書類ではないのよ」

    オクタヴィアはこともなげに言った。

    私は書類の表題を見た。

    『売買前提契約書』

    ハンマーで頭をガツンと殴られた気分だった。

    「重要な書類じゃないって――これ、思いっきり正式な契約書じゃない――」

    私はナーディアの言葉を思い出した。

    ――仮契約と言うのは、違約金さえ払えは契約を破棄出来るけど、前提契約はいくら売主が違約金を払っても、買主側がそれに応じたくなければ契約の強制履行を要求出来るのよ。だから前提契約には決して安易に署名するべきではないのよ――


    ロメオが契約書に目を通した。

    「母さん、これ『米の水路』の売買前提契約書だよ。こんなものに署名したなんて一言も言わなかったじゃないか?」

    ロメオは愕然とした。

    「わたし達だけの取り決めだと思ったのよ。そんなに重要な書類なの?」

    オクタヴィアは心から驚いたような顔をした。

    「サン・マモロの物件の時に署名したのと同じ契約書だよ。ナーディアに散々言われたじゃないか。『前提契約書』は仮契約書と違って重要な法的効力のある契約書だから簡単に署名するなって。ライモンディが母さんに署名するように勧めたの?」

    「いいえ――ライモンディは挨拶しに出てきただけで、昨日遅くまで仕事で大変疲れているから兄と話してくれと言うと自分の部屋に引きこもって、それっきり出て来なかったわ。だから私は兄のウンベルト・ライモンディと話したのよ」

    当事者であるライモンディが別室に姿と消し、兄と二人きりにして契約書に署名させる。

    実に狡猾なやり方だ――

    私はライモンディの能力を評価していただけにこのだまし討ちのようなやり方に憤りを覚えた。


    「母さんの相談役はロベルト・ライモンディなのに、報酬の話を兄の方とするなんて変じゃないか?」

    「ライモンディはとても疲れているようだったわ。それに土地の売却話をまとめたのがウンベルトの方だからかしら――」

    「でも彼等が要求してきている百万ユーロにはライモンディ公証人の一年間の相談料も当然含まれているんだろう?」

    「確認はしなかったけど勿論、含まれていると思うわ」

    オクタヴィアは怒ったように言った。


    「ウンベルト・ライモンディってどんな人なの?」

    それまで黙って二人の会話を聞いていた私は口を挟んだ。

    「弟のロベルト・ライモンディとは全然違うタイプの人よ。ロベルト・ライモンディは熱血漢タイプで人間的だけど、兄の方は冷徹な感じの人だったわ。顔立ちはけっこうハンサムなのに皮膚に異常があるみたいね。顔や手が青白くて不気味な印象だったわ」

    オクタヴィアはそう言うと恐ろしそうに眉をひそめた。

    「最初、百十万ユーロと言われて、私が高すぎると言ったら、幾らならいいのかって言ったわ。それでロメオ、あなたに電話したのよ。あなたが言った通りに十万ユーロ、割引して欲しいといったら『判りました。十万ユーロ割引すればご満足ですか?』って薄笑いを浮かべながら言ったわ。落ち着いた、とても親切な口ぶりで、嫌とは言わせないような、そんな妙な説得力があった。

    わたしが頷くと、ウンベルト・ライモンディは満足そうに微笑んで弟のロベルト・ライモンディの部屋に入っていったわ。それで数分後、この契約書を手に出てきたのよ。それでわたしに署名するように言ったわ。わたしは――何と言うか――促されるままに署名をして――」

    ロメオは頭を抱えた。

    「何てことだ――」

    「あなたが十万ユーロ割引するように頼めと言うから、わたしは言われた通り割引するように頼んだわ」

    オクタヴィアは抗議するように言った。

    「書類に署名しろとは言わなかったよ。

    何で家に持って帰って考えるって言わなかったんだ。小学生じゃあるまいし、その場で簡単に署名するような書類じゃないことぐらい判るだろう?」

    ロメオは思わず声を荒げた。

    「そんな言い方はないでしょう。あんな風に一対一で、契約書によれば報酬はこうだって有無を言わさぬ口調で言われて、とても嫌だと言える雰囲気ではなかったのよ」

    オクタヴィアは怒って言い返した。

    「やっぱりあの男は最初から私を騙して、財産の土地や建物をひとつずつ手に入れるつもりだったんだわ」

    オクタヴィアは怒りに震えた。

    「とにかく、僕がライモンディに報酬について交渉したいと言ったら、来週昼食でも一緒に取りながら話そうってわりと好意的だったよ。僕は兄のウンベルトの方は知らないけど、ライモンディはそんな悪人にはどうしても思えないよ」

    ロメオは自分自身を納得させるような口調で言った。


    一年間、全力を尽くしてメンギーニ一族からオクタヴィアを守ったライモンディをロメオは兄か父親のように慕っていた。だから、彼が営利目的だけで彼等母子に近づいたとは信じたくないのだろう。


    「勝手にすればいいわ。わたしはもうライモンディは信用しないわ」

    オクタヴィアはぞっとするほど暗い一瞥を私達に投げかけると、カフェを出て行った。


    「お義母さん、相当怒っているわねえ」

    ロメオは難しい顔をしてオクタヴィアが署名した『米の水路』の売買前提契約書を睨んでいた。

    「これ、どう思う?」

    私はロメオから渡された契約書に眼を通した。

    「最悪ね」

    私は溜息をついた。

    「お義母さんはこれに署名することで、『米の水路』を三十五万ユーロでウンベルト・ライモンディに売り渡すことを約束してしまっているのよ。

    もしゴベッティ通りのあの契約書だけなら、彼等との間に売買は成立しなかったわけだし、報酬が値上げした差額の五十パーセントなんておかしいと反論できた。

    でもお義母さんがこの二番目の契約書に署名してしまった以上、彼等はこの契約書の行使を要求出来るのよ」

    「でも母さんは何も分からずに署名したんだ。ウンベルト・ライモンディは母さんが一人なのをいい事に、うまく丸め込んで署名させたんだよ」

    「分かっているわよ。でもお義母さんは立派な大人で、ピストルで脅されて署名したわけではない。自分の意志で署名したのよ。法律も裁判官も結局、そう言うところを見るのよ」

    「それはそうだけど――」

    ロメオは唇を噛んだ。

    「やっぱり母さんを一人で行かせるべきではなかったんだ。ただ弁護士の報酬を支払いに行くだけだって言うから――まさかこんな事になるなんて――」

    「いずれにしても、ゴベッティ通りの売買が成立しなかった以上、差額の半分が報酬と言うのは高すぎると思う。

    来週、ライモンディのそこのところを強調して割引してもらうよう交渉するしかないわね。ライモンディだって筋道を立ててきちんと話し合えば、話が分からない相手ではないでしょう?」

    「そう願うよ。来週、きちんと話をする。それに僕は『氷の水路』ではなく、現金で報酬を支払いたいと思っているんだ」

    「現金で?」

    「うん。『米の水路』もゴベッティ通りの一区画だ。メンギーニ達が相続する土地と同じような潜在価値を秘めた土地だよ。そんな土地を現在の評価額で売ってしまうのは惜しいと思うんだ」

    「そうねえ。でもライモンディが承知するかしら?

    彼は土地を欲しがっているんでしょう?」

    「彼の報酬をどう言う形で支払おうが僕の自由だ。それに電話で『米の水路』は売りたくないから現金で支払いたいって言ったら、それは君の自由だって言っていたし」

    私は思案した。

    「ねえ――ゴベッティ通りの二区画の土地の地価を上げることに成功したのは、ファルネーゼの分析とウンベルト・ライモンディの人脈のおかげでしょう?

    仮に『米の水路』を売らなかったとして、土地に素人で何のコネもない私達にそんな芸当は出来っこないと思う」

    「確かに――」

    「そこで今、思いついたんだけど、最初にゴベッティ通りの土地三区画で計画していた事をこの『米の水路』で実行するっていうのはどう?

    つまり土地の五十パーセントをライモンディ達に売って、地価を上げ、最高値に達したら売却して利益を半分に分ける」

    「それはいい考えだ。確かに僕らだけで『米の水路』の地価を上げるのは無理があるからね。じゃあ土地の値段が百三十五万ユーロだから、半額と言うことは六十七万五千ユーロか」

    「そう――彼等が要求している報酬は百万ユーロでしょう。だから百万ユーロから六十七万五千ユーロを引いた三十二万五千ユーロを現金で支払う訳だけど、領収書は要らないからと言って二十万ユーロ割引して貰うのよ」

    「なるほど。領収書を出さなければ税金が引かれない分、割引して貰うって訳か。」

    「そうよ。彼等にとっては決して悪い条件ではないと思う。領収書を出せば税金で四十パーセントは持っていかれるはずだもの」

    私は得意そうに言った。

    「それに『米の水路』の評価値は百三十五万ユーロだけど、もしファルネーゼの分析でゴベッティ通りの二区画と同じように地価を上げる事が出来るのなら、そのほうが絶対に得でしょう?」

    「よし。じゃあ来週、ライモンディに提案してみよう。潜在価値を秘めた『米の水路』をみすみす売ってしまうのは惜しいと思っていたんだ。ただし、僕達だけで地価を上げるのはどう考えても難しいしね」


    私達はこんな風にあれこれ議論を繰り返しながら一週間を過ごした。


    ◆◇◇◆

    交渉

     いよいよライモンディとの対決の日がやってきた。対決と言うのは大げさかもしれないが、その朝、ロメオとボローニャに向かった私はまるで戦場に赴くような気分だった。

    ライモンディはそんな緊張した面持ちの私達を上機嫌で迎えた。


    「レオナルド・メンギーニは冷や冷やさせられましたけど、ようやく署名させる事が出来ました。後は遺産分割協議書の署名を済ませるだけですよ」

    ライモンディは相続人七人全員の署名が揃った示談書の写しを私達に見せた。

    「この示談書は私自身の手で草稿を作りました。今後如何なる問題が発生しても、こちらが責任を負う事が一切ないように万の可能性を配慮した、自分で言うのもなんですが完璧な示談書ですよ」

    「問題と言うと?」

    ロメオが訊き帰した。

    「ロメオ君、貴方は知らないだろうけど、彼等が相続するゴベッティ通りの二区画には実は色々と問題があるんですよ。

    例えば、この二区画に建てられたアパートメントのほとんどに賃借人がいて、立ち退く気のない連中ばかりです。私の兄の働きでボローニャ市がこの土地を六百万ユーロで購入する話がまとまりましたが、市は二年以内にアパートメントを全て空き家にすることを条件にしています。つまり二年以内にアパートに住む住民全員を退去させることが出来なければ、この話は破談になるか、あるいは市は大幅な値下げを要求してくるでしょう。

    また売らずに彼等で土地を分けるにしても、土地の真ん中に線路が走っているので分割はかなり厄介です。

    ですから私は相続後に予想されるこうした問題に対して、こちらは一切の責任を負わないと言う条項をあえて示談書に付け加えました」


    ――さすがだ。

    私は彼の抜け目のなさに舌を巻いた。

    メンギーニ達もあの土地にこのような落とし穴があるとは想像もしていないに違いない。


    「では彼等は土地を相続したら、何とかして住民を退去させなければならないわけですね」

    ロメオはちょっと嬉しそうに言った。

    「彼等には絶対無理ですよ」

    ライモンディはこともなげに言い放った。

    「彼等は皆、一門の財産をむさぼりながらのうのうと暮らしてきました。まともに働いたこともなければ、働く必要もなかった、そんな連中ですよ。事業の手腕などかけらも持ち合わせていません」

    ライモンディは蔑むように言った。

    「でもこの示談書には母がゴベッティ通り二区画の用益権を放棄すると書いてありますね」

    示談書に目を通しながらロメオは言った。

    「仕方がありませんよ。メンギーニ達も虚有権しかない土地では納得するわけありません。その代わりこちらの弁護士の報酬のうち、十万ユーロを彼等に負担させたんです。

    これも私の考えですよ。それから遺産分割協ですが、分割ではなく、メンギーニ達がゴベッティ通り二区画と引き換えに相続人を辞退すると言う形にしました。

    こうすることで公証人に支払う手数料を七万ユーロも節約することが出来ます。これもオクタヴィアさんのためを思って私が考えてやったことです」

    今日のライモンディはいつもにも増して饒舌だった。


    しかしながら私は毎度の事ながら、これでもかと自分の功績を誇張するライモンディにいささか辟易していた。


    ロメオがようやく意を決したように本題を切り出した。

    「貴方への報酬のことですが――先日、母が――」

    ライモンディは手を挙げてロメオの言葉を遮った。

    「一時にレストランを予約してあります。ここからすぐの所にありますから、その話は食事をしながら続けましょう」

    そう言うとライモンディは私達をせき立てるようにしてせかせかと立ち上がった。

    「このトラットリア(レストランより気取らない小食堂)の味はボローニャ一ですよ。家族経営の店ですが、味に妥協がないんです」

    柱廊(ポルティコ)を足早に通り抜けながらライモンディは説明した。

    長身のライモンディが大股でずんずん歩いて行くので、私などはほとんど小走りで彼の歩調に合わせなければならなかった。私とロメオはこれから向き合わねばならない論題が気にかかり、知らずと無口になった。

    トラットリアは前の柱廊《ポルティコ》にもテーブルをぎっしりと並べ、大勢の客で賑わっていた。私達はライモンディと顔馴染みらしい店の主人に室内の席に案内された。

    それほど広くないトラットリアは、ひしめき合うワイン瓶と色鮮やかな前菜が並べられたガラスケースの間に半ば埋もれた、それでも僅かなスペースでかろうじてその役割を果たしている小さなカウンターがある狭い入口の左側に小部屋、奥に大きめの部屋が繋がり、三つの空間に仕切られていた。

    私達の席は私室のような親密感のある小部屋の方に用意されていた。

    テーブルが三つ並べられた小部屋の客はまだ私達だけだった。

    私達は前菜を省き、第一の皿のパスタ料理を注文した。ライモンディが冷えたランブルスコ(発泡性の赤ワイン)を注文した。


    ロメオは好物のランブルスコを美味そうに一口飲むと、早速本題に取り掛かった。

    「貴方の報酬のことですが――母は何も分からずに『米の水路』の売買仮契約書に署名してしまったようですが、実は僕達であれから色々考えて、『米の水路』をみすみす売ってしまうのはどうかと言う結論に達したんです。しかし、僕達だけで土地を持っていても活用のしようがない。正直言って僕達は土地には全くの素人ですからね。これは彼女のアイデアなんですが――君が話したほうかいいんじゃないかな」

    ロメオは話を切り出すだけ切り出してさっさと私に話を振る。

    私はそれはないだろうと彼を睨んだが、ロメオが期待するように目を画が焼かせて私を見つめている。

    私が小さく溜息をつくと、すぐ本題に入った。


    「以前、貴方が提案されたゴベッティ通り三区画の計画がありますね?貴方方が土地の半分を購入して時価を上げると言う計画です。結局、ゴベッティ通りの土地のうち、二区画はメンギーニ達が相続しますけど、残された『米の水路』で同じことをやれないかと思ったのです」

    ここで私は一端言葉を切った。熱心に私の言葉に耳を傾けていたライモンディは頷いた。

    「土地の有効性や利用価値を証明して、より高値で売却すると言う計画ですね?

    可能だと思いますよ」


    ライモンディは口元に不敵な微笑を浮かべ、大きな眼を爛々と輝かせながら私をひたと見据えた。私はその射るような眼光に圧倒されそうになりながらも怯まずに彼を見返し、いよいよ核心に踏み込んだ。


    「貴方はこれまでの報酬として百万ユーロを要求されているそうですが、少しまけて八十万ユーロにして頂くことは可能ですか?」

    ライモンディが何か言いたげに口の端を動かしたが私は構わず続けた。

    「『米の水路』の評価額は百三十五万ユーロですから、半額だと六十七万五千ユーロになります。もし報酬を八十万ユーロに割引して頂けるなら、報酬から土地代を引いた差額は十二万五千ユーロになります。貴方にお支払いする差額は全額現金でお支払いし、領収書は要求しません。そうすれば貴方は収入を申告せずに済む訳ですから、土地の半分と十二万五千ユーロがまるまる貴方の懐に入るのです。決して悪い話ではないと思います」

    私は一気にそこまで言い切るとニッコリ笑ってライモンディを見返した。

    「なるほど。それが貴方方の希望なんですね?」

    ライモンディは穏やかな口調で、鷹揚な微笑みすら浮かべてそう言った。

    「貴方方の言いたいことは了解しました。ただこの件は私と兄の二人の問題になりますから、今すぐここで返答することは出来ません。

    でも前向きに検討してみますから安心して下さい」


    ライモンディの口ぶりは極めて好意的で、安堵させる声色を含んでいるように思われたので、身構えてこの会見に臨んだ私達はひとまずホッとした。


    パスタ料理が運ばれてきた。ライモンディに勧められて選んだボローニャ風タリアテッレは歯ごたえのあるきし麺のような平たいパスタを濃厚なミートソースで和えたボローニャの特産料理である。

    ライモンディは報酬の話をとひとまず保留にすることで終わらせると、話題を変えた。

    「ヴィラの方は、どうなっていますか?」

    「今、建築家に屋根の状態を見てもらっています。遺産分割が済み次第、屋根の工事はすぐ始めなければなりません」

    ロメオの答えにライモンディは頷いた。

    「私は文化財保護局の総局長と懇意にしていますから、力になりますよ。

    何しろ頭の固い連中ですから、受付の職員を通して普通に手続きしたら何ヶ月も待たされた挙句の果てに、やれここにトイレを作ったらだめだ、この壁を動かしたら駄目だと難癖を付けられ、一向に話が前に進まないんですよ。

    ところで建築家は決まっていますか?」

    「まだ正式には決定していませんが、ファルネーゼさんにルーカ・ジョルジョーネと言う建築家を紹介して貰いました」

    「ジョルジョーネとは直接一緒に仕事をしたことはありませんが噂は聞いています。優秀な建築家で市の重要な仕事を幾つも手がけていますよ」

    「ただ、遺産管理人のマリアンナ・コソットが彼女の知り合いのエンジニアを是非、紹介したいと言ってきているんです」

    ライモンディは眉をひそめた。

    「コソットが?

    なんと言う人ですか?」

    「マクシミリアン・チェザリーニと言う人です。僕はまだ電話でしか話したことがないんですが」

    ロメオが答えるとライモンディはますます顔を曇らせた。

    「聞いたことがありませんね」

    そこでロメオの携帯電話が鳴った。

    「噂をすれば影ですね。コソット女史ですよ」

    ロメオは電話に出た。

    どうやらマリアンナ・コソットは今日の午後、私達にチェザリーニを引き合わせ、話を進めたいようだった。ロメオが曖昧な言い訳をしてなんとかマリアンナの申し出を退けている様子をライモンディはいよいよ不満げに眺めた。

    私はあまり把握していなかったが、最近、マリアンナ・コソットがオクタヴィアに急接近してきているらしい。

    サン・マモロの僧院の件でライモンディに腹を立てているオクタヴィアは、彼の代わりに親切でテキパキ仕事をこなすマリアンナに頼っているのかもしれない。

    マリアンナの印象は悪くないが、頼んでもいないのに知り合いのエンジニアを紹介してくるのはどうなのか?

    「ロメオ君」

    ライモンディはロメオが電話を切るなり、きっぱりとした口調で言った。

    「私は貴方が望むなら、市や文化財保護局の人間を喜んで紹介します。私が紹介するのは単なる責任者ではありません。文字通り重役クラスの大物です。彼等はまず訊いてくるでしょう。プロジェクトを担当する建築家や責任者を。

    ですから何処の馬の骨とも知れない無名の建築家やエンジニアのプロジェクトを持っていくことは出来ません。その何とかと言うエンジニア、正直言って私は名前も聞いたことがありません」

    「勿論、彼にプロジェクトを依頼すると決めたわけではありませんよ」

    ロメオは慌てて弁解した。

    「それに僕はフェルネーゼさんの友人のジョルジョーネ氏を第一印象でとても気に入っていますから、彼に頼もうと思っています。ジョルジョーネ建築家なら問題ないですか?」

    ライモンディは頷いた。

    「ジョルジョーネは有名な建築家です。彼なら問題ないでしょう」

    ライモンディは太鼓判を押した。

    「そうですか」

    ロメオがホッとしたように答えるや否や携帯電話が再び鳴り響いた。

    「今度はエンジニアのチェザリーニ氏ですよ」

    ロメオは一瞬躊躇したが、決心して電話に出た。


    どうやらヴィラの件がどうなっているか知りたくて電話してきたようだ。

    ロメオは数日中に連絡すると、相手に希望を与えるような口ぶりで返答し、電話を切ると困ったような顔をして曖昧な微笑を浮かべた。

    「コソット女史が彼をかなり強引に推薦してきていて――彼も十中八九、仕事を請け負えると思っているような口調なんですよ」

    人の好いロメオは強く頼まれるとなかなか「ノー」と言えない性格である。

    「ヴィラの工事は当分見合わせるつもりだと言って断ったほうがいいのかな――」

    「どうしてそんな嘘を言う必要があるのよ」

    黙って事の成り行きを見ていた私は思わず口を挟んだ。

    「別にまだ彼に正式に仕事を依頼した訳じゃないんでしょう?
    申し訳ないけど別の建築家にもう依頼したと正直に言えばいいじゃない。
    返事を先延ばしにして変に期待させるより、ジョルジョーネさんに決めるなら、チェザリーニさんにははっきり断ったほうがいいと思う」

    ライモンディは感嘆と賛美の色を浮かべて私を見つめた。

    「ロメオ君。貴方は大変幸運な人だ。貴方はこの私、ロベルト・ライモンディに出会ったと言う幸運に加え、この素晴らしい女性が貴方の伴侶として傍にいると言う幸運に恵まれているのだから」

    私は思わぬ賛辞に頬を赤らめた。それは自我自賛ばかりするライモンディの、おそらく私が始めて耳にした他人に向けられた最大の賛辞だった。

    ロメオは嬉しそうに私を見つめた。

    「分かっています。彼女の存在にどれだけ助けられているか分かりません」

    「ロメオ君――」

    ライモンディは真顔になった。

    「今後、貴方が学んでいくべきことは、事業家としてのノウハウと手腕、そして上に立つ人間の威厳と品格です。貴方はこれから様々な専門家、建設会社、職人を使う立場になります。上に立つといってもメンギーニ達のような高慢さではなく、真の威厳と品位を持って彼等と接していかなければなりません。

    メンギーニ達は威張っていますが、愚かで無知な傲慢に過ぎません。貴方は決してそうなってはいけない。リーダーは常に謙虚な人格者でなければならないのです」

    ライモンディは父親が息子に、師が弟子に言い聞かせるように切々と説いた。

    「貴方は若いし、まだ世間知らずだが、私はなかなか見所があると思っているんですよ。私には息子がいませんから、貴方に対して実の弟か息子に対するような情を抱いているんです。これからも私の助言や協力が必要なら、いつでも何でも相談して下さい。私は今後一生、無償で貴方方をサポートしますよ」


    今日のライモンディはいつもの爛々と燃えるような激しさが影を潜め、年長者らしい寛大さと優しさを湛えていた。ロメオは真剣な眼差しでライモンディに応え、熱心に頷いた。ライモンディのような権力者に可愛がられるのは、ロメオの純粋で素直な性格所以であろうと私は思った。


    メインディッシュの肉料理が運ばれてきた。子牛肉の薄切りにルーコラとパルメザンをのせた一品だ。柔らかい子牛肉が口蓋でとろけた。


    「署名を渋っていたレオナルド・メンギーニに最後の手段として私が何をしたかご存知ですか?」

    ライモンディは子牛肉でルーコラをくるみながら尋ねた。

    「どうしたんですか?」

    とロメオ。

    「彼の弁護士に『商談は決裂だ。私の依頼人はこれ以上、示談を進める気はないと言っている』―そう言ってやったんです。

    奴さん、翌日慌てて署名しに行きましたよ」

    「そうだったんですか。では、忙しくて署名に行く暇がないと言っていたのは嘘だったんですね」

    私は目を大きく見開いた。

    「当たり前です。レオナルド・メンギーニは狡猾な男ですから、そうやってじらして更に良い条件を提示させようと言う腹だったんです」

    「一度は示談の条件に同意しておきながら汚い男だ」

    ロメオは嫌悪の色をあらわにした。

    「彼等が何て言っていたかご存知ですか?これはミケーレ・オルシーニから訊いたんですが、レオナルド・メンギーニは不動産の評価額を巧く操作すれば七十五パーセントは相続出来るはずだと豪語していたそうですよ」

    「七十五パーセント?」

    私達は言葉を失った。

    「彼等は始めからそのつもりだったんです。

    オクタヴィアさんが出生の秘密を知らされていないと知った時、彼等はほくそ笑んだに違いありません。

    それで鑑定士のポリーニを抱き込んで彼等に有利な鑑定をさせたんです。全てがうまく行くはずだった。オクタヴィアさんは世間知らずで、しかも頼るべき親戚も友人もいませんからね。しかし、そこで予想外の事が起こった」

    ライモンディは悪戯っぽくニヤリと笑った。

    「ロベルト・ライモンディの登場ですよ」

    ライモンディの口調はいささか芝居がかっていたが、観客を引き込む効果は十分にあった。

    「私は貴方方の相談役になったことでボローニャ中に敵を作りました」

    「敵?」

    私は聞き返した。

    「ロレンツォ・アンジェリ氏の生前から、彼が所有する不動産に目を付け、狙っていた人間は大勢いました。しかし、アンジェリ氏はあのような性格で外からの訪問者を一切受けず、家に篭りきりでしたから、付け入りようがなかったのです。

    アンジェリ氏が亡くなり、遺産を巡って相続人達が揉めていること、五十パーセントの相続人がミラノの世間知らずな女性である事は、今やボローニャ中に知れ渡っています。少なくともボローニャの主だった公証人、弁護士などの専門家、建設会社、不動産業者、実業家は皆、この相続争いに注目し、貴方方の一挙一動を見守っています。

    ですから、この相続争いはアンジェリ家の不動産を狙う連中にとっては絶好のチャンスになるはずでした。

    しかし、その前に立ちはだかったのがこのロベルト・ライモンディです。私がオクタヴィアさんの相談役になったために、オクタヴィアさんに近づき、取り入ろうとしていた連中は付け入る隙を失ってしまったのです。

    そんな訳ですから、私を逆恨みしている人間は少なくないはずですよ。その筆頭に上げられるのがミケーレ・オルシーニです。私は彼の古くからの友人ですから、彼は当然私が彼に便宜を計ることを期待していました。しかし前にも言いましたが、私は正義を重んじる人間です。信念があります。私は自分が正しいと思った事をしたまでです。

    ミケーレ・オルシーニは我々とメンギーニの仲介役を務めたと主張していますが、私は報酬など与えないつもりですよ。実際、何もしなかったんですから」

    ライモンディは力強い口調で言い放った。

    食事を終え、柱廊《ポルティコ》の中をブラブラ歩きながら、ライモンディは饒舌だった。

    「私は貴方とオクタヴィアさんを助けましたが、下心があってやったわけではありません。

    私はご存知のように自分の能力に自信がありますし、確固たる実績もあります。この相続問題にのめり込んだのは勿論、サン・マモロの物件が欲しかったというのはあります。そのことは最初にオクタヴィアさんにお会いした時から、隠したことは一度もありませんでした。

    ただ、私をここまで虜にした一番の理由は、この相続問題が難解極まりなかったことです。ディ・マウロ弁護士は経験豊かなボローニャでナンバーワンの弁護士ですが、相続争いでこれほど複雑難解なケースは初めてだと言っていました。

    私は自分の能力を自負していますから、己のプライドにかけて何としてもこの手で解決したいと思ったのです。

    弁護士が介入してきたのはオクタヴィアさんがロレンツォ氏の娘だと言う事実が確実になってからですが、私はそのすっと以前からオクタヴィアさんの相談役を務めていました。

    ここまでの経緯は全て、ここに記憶されています」

    ライモンディは得意そうにそう言うと、こめかみに指を当てた。

    「私は自分の公証人としての実績と名声に誇りを持っており、これを何よりも大切にしています。そして、これこそが私のパワーの原動力となっているのです。ですから汚い裏工作を行って儲けよう等とは考えないし、そんな必要もないのです」

    ライモンディの口調は更に熱を帯びた。

    「ロメオ君、貴方は素晴らしい伴侶を選んだ。彼女は聡明なだけでなく、全く私欲を挟まずに貴方に協力しているのがわかります。下心や野心がある人間は一目で分かりますからね」

    ライモンディがロメオを道の傍らに引きとめて、このように言っているのが聞こえた。

    今日の会見で私はすっかりライモンディに気に入られたようだった。


    私はまだライモンディを完全に信用した訳ではないが、少なくともその卓越した仕事ぶりと、この相続問題に対する彼の熱意には嘘がない――そう信じたいと思った。

     

      ◇◆◇◆◇

     貧乏くじ

     

    それから数日間、ライモンディからの連絡はなかったが、ロメオは先日のライモンディの誠実な態度にすっかり安心し、これでもう話はまとまったものと楽観的に構えていた。

    私はオクタヴィアの相談役を務めたことでボローニャ中に敵を作ったと言うライモンディの言葉が耳から離れなかった。

    私はこの相続問題を内輪の出来事だと思っていた。

    しかし実際は私達が顔も名前も知らない人々がこの相続争いの一部始終を知っていて、その行方に注目している。私達は誰も知らないが「彼等」は私達を知っているのだ。

    私は大都市ミラノでは決して感じたことのない、中都市ボローニャの人間関係の狭さを今更ながらひしひしと感じた。そして、あたかも見えない敵に見張られているような、そんな言いようのない不気味さを覚えるのだった。

     

    「アンジェリ家の不動産は個人の財産だけど、同時にボローニャの財産でもあるのよ」

    私の話を聞いたナーディアはこう解説した。

     

    確かに、バルベリア通りの建物もヴィラ・マルヴァジアも個人の所有物である前にボローニャの景観の一部であり、この街の歴史の一頁である。

     

    「ボローニャの人達は自分達の街が誇るこれらの文化遺産が、よそ者のミラネーゼ(ミラノっ子)の手に渡るのがくやしいのよ。だから相続争いが起きていることも、内心ではいい気味だと思っている。そうして貴方達がどう乗り切るか冷然と見ているんだわ」

     

    なるほど、いかにもイタリア人のナーディアらしい発想である。

    イタリア人は人一倍、地元意識が強い。イタリア人である以前にミラネーゼであり、ボロニェーゼであり、ロマーノ(ローマっ子)であり、ナポレターノ(ナポリっ子)なのだ。そしてお互いに大変な対抗意識を抱いている。だからこそ、地方対抗のサッカーリーグでこれほど盛り上がるのだ。

     

    かく言うナーディアも出身を訊かれると、鬣のような髪を誇らしげにゆすって「レッチェーゼ(レッチェっ子)」と答える。そんな彼女が「ミラネーゼは――」と言う時、その唇の端に批判と対抗心がありありと込められているのだ。

     

    そう考えると、ボローニャの文化遺産がミラネーゼの相続人に渡る事を、ボロニェーゼ達が苦々しく思っていることも何となく頷けるような気がした。

    私はこれまでただ美しいとばかり思っていたボローニャの街の節々に陰湿な悪意が潜んでいる事を知った。そして街全体が私達を嘲笑っているような、そんな錯覚さえ覚えるのだった。

     

    七月の第二週目に入ると、オクタヴィアは全てを放り出し、独りサンレモに発ってしまった。

    遺産分割協議を二十五日に控えているのでさすがに私は呆れ返ったが、ロメオ曰く、習慣はオクタヴィアの全てなのだ。七、八月をサンレモの別荘で過ごすのは、幼少の時からの習慣であり、これが犯されることは彼女にとって存在そのものを否定されることであり、人権を土足で踏みにじられることであり、一種の暴力ですらあるのだ。

    そんな大げさな、と私は笑ったがロメオは真剣である。

    確かに、オクタヴィアの惰性への並々ならぬ執着は彼女の行動の端々から私も感じていた。

    毎朝定刻に同じカフェで全く同じメニューの朝食を取る。まずカップチーノとクロワッサンを注文し、クロワッサンを食べ終わってからエスプレッソコーヒーとオレンジ生ジュースを取る。今日は他に行ってみようとか、他のものを頼んでみようと言うファンタジーはないし、興味もない。

    「二十四日にミラノに戻るって言っているよ。母さんは言い出したら梃子でも動かないから」

    ロメオは溜息をついた。

     ロレンツォの死によって発生したこれらの変化は、今まで限られた小さな世界で生きていた彼女にとって、いわば革命ほどの威力があったに違いない。

    そう考えるとオクタヴィアが身も心も疲れきり、休息を取る為にサンレモに旅立ってしまった事も判ってあげなければいけないような気がした。オクタヴィアは金欲、物欲、食欲など世俗の欲を全く持ち合わせていなかった。だから今回の相続問題に関しても、莫大な遺産を相続すると言う万人の羨望を浴びるような幸運を幸運とは思わず、そのささやかな世界がかき乱された事に困惑し、ロレンツォが実は父親であったと言う天地がひっくり返るような事実を突きつけられ、怒り、動揺しているのだ。

     その数日後にライモンディから連絡があった。報酬について、兄ウンベルトを交えて話し合いたいからボローニャに来て欲しいと言うのだ。

    「ウンベルト・ライモンディが七月十三日にアメリカから帰国するので、十四日に会いたいと言ってきた。ただ僕は学校の成績会議があるからどうしても行けないんだ。ライモンディにそう言ったら、彼はこの間の食事以来、君をすっかり気に入っているから、全く問題ない。君と話をすると言っている」

    「ちょっと待って――私独りで行けって言うの?」

    私はびっくりして目を吊り上げた。

    「嫌よ、そんなの。別に十四日じゃなくてもいいでしょう?ロメオも来られる日に変えてもらえばいいじゃない」

    「それが、ウンベルト・ライモンディは十五日には仕事でまたドイツに行くそうなんだ。なにしろ仕事でほとんどイタリアにはいない人だから、この日を逃すとしばらくイタリアに帰って来ないそうなんだ」

    「私は嫌よ」

    私はきっぱりと言った。

    「どうして私がライモンディ兄弟二人を相手にたった独りで話をつけなくちゃならないの?」

    私は頭に血が上った。

    「第一、これはロメオのお母さんの問題なのよ。彼女があんな契約書に署名さえしなければ、こんな苦労することはなかったのよ。その本人がサンレモで悠々とバカンスを楽しんでいるのに、どうして私がこんな厄介なことを押し付けられなくちゃならないのよ」

    私は全身で怒りを表現して猛然と抗議した。

    「判っている。本当に申し訳ないと思っているよ」

    ロメオは本当に申し訳なさそうに言った。

    「でもこの日は僕もどうしても外せないし、他に選択の余地がないんだ。この埋め合わせは絶対にする。君には幾らお礼をしてもし尽くせない程だ。母さんはああいう性格だから、人に礼をする事に気が回らない人だけど、僕が代わって必ず君に礼をする」

    「お礼なんて――そんなことはどうでもいいのよ。別にお礼されたくて協力している訳じゃないもの――」

    ロメオの必死の表情と切々とした口調に打たれ、私は思わずそう呟いた。

    「じゃあ行ってくれるんだね?」

    ロメオのホッしたような顔を見るともう厭とは言えなくなってしまった。

     

    オクタヴィアとロメオは一人っ子である。共に甘やかされて育っており、本人達に自覚がないが、駄々をこねれば思い通りになることに慣れている。

    一方、私は弟が二人いる長女である。子供の頃から母に「年長なんだから譲ってあげなさい、やってあげなさい」と言われて育ち、出来ないとすぐに放り出して泣いたり怒ったりする弟達の分までやってあげることに慣れてしまった、いわゆる長女気質である。実に損な性格だと思う。

    昔から何でも手際よく、さっさとこなすのだけは得意だったので、よく要領がいいと言われるがそうではない。何でも人より早く終わるために、他の仕事や出来ない人の分まで体よく押し付けられるのだから、むしろ要領が悪いと言える。

    私は物事を無理だとさっさと放り出して、毎回他人にやってもらう人の方がよっぽど要領がいいと思う。

    今回も結局は私が折れ、この重い使命を心ならずも引き受けることになったのだ。

      ◇◆◇◆◇
       

    対決

    その七月十四日、朝からうだるような真夏日だった。私はミラノ中央駅九時三十五分発の高速特急に乗った。ボローニャには十時四十五分の到着予定だ。

     

    幸い列車の中は冷房が効いていた。私は背もたれに身を沈め、車窓から外の景色を眺めた。ミラノ‐ボローニャ間はずっと平野なので、景色も平坦である。これがボローニャを過ぎるとトスカーナ地方に向って丘陵が波打ち、起伏に富んだ景観に変わる。豊かな緑の丘が膨らんだかと思えば沈み、また膨らみ、その随所に険しい岩壁や絶壁が散りばめられ、時々これらの岩に今ではすっかり溶け込み、その一部になってしまっている石の住居跡や古城が現れ、窓の額縁をめまぐるしく彩る。

    しかし残念ながらミラノ‐ボローニャ間の車窓は平凡でこれと言った見所はない。パルマやモデナなどの古都を通過するが、駅は旧市街から離れているので、町の珠玉は見えない。パルマのドゥオーモの屋根が僅かに一瞬覗くぐらいだ。後は殺風景な平原がただ延々と続く。景色もつまらないし、少し眠ろうかしらと、眼を閉じてみたが、これからの重大任務を思うと、気持ちが昂ぶってとても眠れなかった。昨晩も興奮してほとんど一睡も出来なかった。

     彼等はどう出てくるのだろう?

    そう言えばオクタヴィアはライモンディの兄ウンベルトにただならぬ恐怖心を抱いていた。

    獲って食おうというんじゃないのだから、何も恐れることはない――

    私は自分に言い聞かせた。

     

    ロメオは前日、駅まで迎えをよこすようライモンディに頼んでくれたが、二人とも忙しくて迎えに来られないと言う返答だった。

    ボローニャの駅に着くとタクシー乗り場に行ってみたが、長蛇の列が出来ていたので、タクシーは諦め、歩くことにした。

    まだ午前中だと言うのに容赦なく降り注ぐ日差しが痛かった。

    幸いボローニャには柱廊《ポルティコ》がある。私は駅前広場を大急いで横断すると逃げ込むように柱廊《ポルティコ》の影に入った。

    三十分ほど歩くとライモンディの事務所に到着した。いつもの待合室に通されると先客の紳士が立ち上がった。紹介される前から私にはそれがウンベルト・ライモンディだと判った。

     

    ウンベルトは五十代の長身の紳士だった。褐色色の肌が健康的な弟のロベルトとは対照的に、その顔は蝋のように青白く、黒髪と黒い瞳がその蒼白さを一層際立たせており、冥界の人間のような印象を与えた。

     

    「はじめまして、お嬢さん《シニョリーナ》。いや奥様《シニョーラ》とお呼びするべきかな?」

    ウンベルトは青白い顔に柔和な微笑みを浮かべて握手の手を差し伸べた。

    「はじめまして――」

    私はいささか身構えながらその手を握った。

    「弟は依頼人と話し中です。もうすぐ終わると思いますが」

    「問題ありません。それに私が少し早く着いてしまったようです」

    約束の時間まで、まだ五分ある。

    「まあ、お掛け下さい。弟はいつも仕事を詰め込み過ぎるんですよ」

    ウンベルトは私に椅子を勧めると自分も再び腰を下ろした。

    「私は昨晩アメリカから帰ったばかりなんですよ」

    「はあ――。それは大変ですね」

    私はお愛想で返事をする。

    「明日にはまたドイツに発たなければならないんです。それで、どうしても今日でなければならなかったんです。弟が貴女をとても評価していて、貴女が来られるのなら、ロメオ君が来られなくても問題ないと言うものですから――貴女には迷惑だったかもしれませんが」

    「ええ。本当は独りで来るのは気が進まなかったのです。でもこうしてやって来たのですから、お手柔らかにお願いしますね」

    私の言葉にウンベルトは笑った。

    「正直な方ですね」

    私が黙っているとウンベルトは話題を変えた。

    「アメリカでは『ノブ』と言う日本食レストランによく行くんですよ。確かミラノにもありますね」

    「ええ。アルマーニのブティックの中にありますね」

    『ノブ』はミラノでもスノッブなミラネーゼが出入りする超高級日本食レストランである。

    「私は日本食が大好きで、特にお寿司が好きで色々な日本食レストランを試しましたが、『ノブ』が一番ですね。アメリカの日本食レストランは質が高いのですが、イタリアはまだまだ駄目ですね。よく中国人が経営する日本食レストランがありますが、あれは頂けない。食べられたものではありませんよ」

    「日本に行かれたことはありますか?」

    「残念ながらまだなんです。ご覧の通り私は仕事で世界中を飛びまわっているのですが、日本はまだ行った事がないんですよ。でも近いうちに必ず行ってみたいと思っています」

    「もし行かれたら是非、築地でお寿司を味わってみてください。違いが分かって頂けると思います」

    ウンベルトは最もだと言わんばかりに頷いた。

     

    それから話題は日本建築に移行した。

    様々な文化に通じ、教養と知性を備えたウンベルトは話し相手としては申し分なかった。オクタヴィアの話から鬼のような人物を想像していた私は、ウンベルトとの穏やかな会話に花を咲かせながら内心ホッとしていた。

     

    ようやく仕事を終えたロベルト・ライモンディが顔を出した。

    「お待たせして申し訳ない。やあ、もう話を始めていたんですか?」

    ライモンディは私とウンベルトが談笑しているのを見て驚いたようだ。

    「ええ。色々な話をしましたよ」

    ウンベルトは愉快そうに微笑んだ。

    「お寿司の話や日本と西洋の建築の話、着物の話。そうですね」

    「はい。おかげでちっとも退屈せずに待つ事が出来ました」

    私が軽い皮肉を込めてそう言うと、ライモンディは頭を掻いた。

    「いや。長らくお待たせして本当に申し訳ない」

     

    私達はミーティングルームに移動した。

    着席するとすぐに本題に入った。まず口火を切ったのはライモンディだ。

    「先日の貴女とロメオ君からの提案について兄と話し合いました」

    そう言うと促すように兄を見た。ウンベルトが弟の言葉を引き継いだ。

    「貴女方の最初の提案は『米の水路』を以前、ゴベッティ通りの全区画で実行しようとしていたように、五十パーセントを我々が購入し、地価を上げて高値で売り、売却金を分けると言うことですね」

    「そうです」

    「この提案には我々は賛成です」

    「本当ですか?」

    私は嬉しそうに声を弾ませた。

    「勿論です。『米の水路』はかなりの潜在価値を秘めた土地です。やりようによっては三~四十パーセントの値上げが見込めます」

    「そうですか――」

     

    私は土地のことはよく判らない。しかし彼等がこちらの提案に応じたと言うことで、私はひとまず安堵した。

    ウンベルトは手元の書類に目を通すようにうつむきながら続けた。

     

    「それから二番目の提案ですが――」

    ウンベルトの語調は一句一句搾り出すようなゆっくりとした調子に変わった。

    「弟の話によると貴女方は我々が要求している報酬百万ユーロを八十万ユーロにして欲しいと言うことでしたね?」

    「そうです」

    ウンベルトは顔を上げた。

    「それは無理な相談です」

    「――」

    その瞬間、それまで順調に回っていた歯車が、突然噛み合わせを止め、カタカタと止まった。

     

    「いいですか?私はオクタヴィアさんとお話した時、十万ユーロ負けて欲しいと言われて、十万ユーロならと割引に同意しました。断っておきますが私は本来、割引など決してしないのです。それをあえて十万ユーロ割引して差し上げた。そうしたら今度は貴女が二十万ユーロ割引しろとおっしゃる。我々は魚の叩き売りをしているのではありません。十万、二十万と値下げ出来るものではないと言う事をお分かり頂きたい」

     

    魚の叩き売りと云われて私は頭に血が上った。何と無礼な言い草だろう。

    私がどう返してやろうかと思案しながら黙っているとウンベルトは更に続けた。

     

    「オクタヴィアさんに十万ユーロ負けて差し上げましょうと言った後、私は念を押しました。これでよろしいですか、ご満足なさいましたか、と。オクタヴィアさんははっきり『はい』と返事をして契約書に署名したのです」

    「貴方はオクタヴィアが契約書に署名したと、まるで鬼の首を取ったようにおっしゃいますけど、そもそもその契約書が問題なんです。オクタヴィア一人を呼び出してあのような契約書に署名させるなんて、フェアなやり方ではありませんね」

     

    これは効果覿面だった。今まで冷然と構えていたウンベルトの顔色が変わった。

    「しかし、オクタヴィアさんは署名したんですよ」

    「判っています。でも彼女をご覧になったでしょう?

    貴方だってお分かりのはずです。オクタヴィアに署名させるのは、小学生の子供に署名させるより簡単だと言う事が」

    「それでも署名は署名です」

    「そんなことは判っています。私は良心の話をしているんです。

    貴方に本当にこの額が妥当だと思っていらっしゃるんですか?」

    「勿論です。いいですか?

    ゴベッティ通りの二区画は元々三百八十万ユーロでした」

    ウンベルトは子供をあやすようにそう言うと、前の紙に3,800,000と数字を記した。

    「私は人脈を駆使して市に六百万ユーロで売却すると言う確約を取り付けた」

    と、先ほどの数字の下に、6,000,000と書き足した。

    「差額は幾らになりますか?」

    ウンベルトは猫なで声でそう尋ねた。

    「二百二十万ユーロです」

    私は仕方なくそう答えた。

    「そうです。二百二十万ユーロです」

    ウンベルトを我が意を得たりとばかりにそう言うと、今度は契約書の一ページを私に見せた。ゴベッティ通り三区画に関する最初の契約書である。

    彼はその中の一文を指した。

    「ここに、土地売却で得られる利益は双方の間で二等分するとありますね」

    「ですから、それは貴方方が土地の五十パーセントを購入した場合でしょう?

    結局貴方方は土地を購入しなかった訳ですから、差額の半分と言う商談は成立しません」

    「しかし、第二の契約書にもそう書いてあるんですよ」

    ウンベルトは『米の水路』の契約書を指し示した。

    「ここに、経済的条件は三月二十五日付けの契約書の条項に則る事とあります」

    「それでも、これはあくまでのゴベッティ通り三区画の売買が成立した場合です。ここにはゴベッティ通りの売買なく差額の五十パーセントをお支払いしなければならないなんて何処にも書いてありません」

    私は負けずに言い返した。怒りと興奮で私の心臓は早鐘のように高鳴っていた。

    「この『米の水路』の契約書をよく御覧なさい。ここにオクタヴィア・セーラさんは我々に対して経済的付与を行うと言う行があります」

    ウンベルトは条項の一文を指し示した。

     

    ――オクタヴィア・セーラはウンベルト・ライモンディ、及びマッダレーナ・パヴェーゼに対し、土地の有効化プロジェクト、或いはゴベッティ通りの土地購入辞退に際し、必要経費の払い戻し、及び経済的付与を行うことに同意する――

    と言う一文が目に入った。

     

    「これが百十万ユーロお支払いすると言う事だと?」

    「その通りです」

    「でも正確な金額はどこにも書かれていませんよね?」

    「でもそう言うことなんです。つまりゴベッティ通り三区画の契約で同意した報酬と言う意味です」

    「そんな馬鹿な――」

    私は唇を噛んだ。

     

    確かにこの契約書を通り一遍に読む限り、具体的な報酬を示す文章は何処にも見当たらない。しかし、このような曖昧な語句や文章が随所に散りばめられ、それらにこのような意味があろうとは、法律に詳しくない私達にどうして予測出来ただろう。

    これではオクタヴィアの法的無知に付け込んだ詐欺ではないかと、私は愕然とした。

     

    「私は弟に頼まれ、この土地の話を引き受けて以来、一ヶ月間これだけのために奔走しました」

    「百万ユーロは大金です。普通の人なら一生身を粉にして働いてもこのような大金、見ることさえも叶わないでしょう。貴方が私達のために大変骨を折ってくださったことは感謝しています。その成果も勿論評価します。でも一ヶ月の働きで百万ユーロとは、法外な金額だと思いませんか?」

    「いいえ。私は妥当だと思いますよ。それに百万ユーロといいますが弟と二人で百万ユーロですから私の取り分は五十万ユーロですよ」

    「貴方方の間でどう分けようとそんな事はこちらの問題ではありません。それに五十万ユーロだって大金です。市内に大きな豪邸が一軒買える金額です」

    「貴方はご存知ないかもしれませんが、商談は難航しました。市はアンジェリ氏の生前から再三、この土地について交渉したいと言う通知を送っていましたが、アンジェリ氏はそれを悉く無視していました。だから、市の方では低価格で強制収用する決断を下していたんです。

    ですから私がこの商談を持ち込んだ時、何を今更と彼等の反応は冷淡でした。しかし私は人脈を駆使し、何とかこちらに有利な、それも飛び切り有利な条件で話をまとめることに成功しました。私が長年築き上げてきた人脈をなくして、今回の成功はあり得ませんでした。しかも、わたしが一銭も使わずに、これだけの話をこれほど短期間でまとめたと思いますか?

    物事を通常より早く進めるにはどうしてもお金がかかるのです」

    「賄賂を――支払ったということですか?」

    「賄賂とは、厭な言葉ですね。いや、手数料と言っておきましょう。

    しかし、他の人では幾らこの『手数料』を支払ったところで、とてもこうは行かなかったでしょう。これは私だからこそ成し遂げられたことなのです」

    「貴方のお力は、勿論よく判りました。それでも百万ユーロは高すぎます」

    「それでは、この商談を中止にしますか?」

    ウンベルトは声色を変えた。

    「なんですって?」

    「私にはこの話は破談にすることも出来るんですよ」

    私は愕然としてウンベルトの目の奥底に潜む妖しい光を見つめた。

    何と言う変わりようだろう。先ほど待合室で談笑した教養溢れる柔和な紳士はもう何処にも居ない。私の前にいるのは欲にとりつかれた冷徹な実業家だった。

    私は恐ろしい物を見るように黙ってウンベルトを見つめた。

     

    「私の一言で、この話を全く無かったことにすることも出来るんですよ。そうなったら貴女はどうするおつもりですか?

    お一人で市と話し合って、もう一度商談をまとめますか?」

    ウンベルトの口調は不気味なほど優しかった。

    私は猫が鼠をいたぶるようだと思った。私は、私一人をこの場に送り込んだロメオを恨んだ。

     

    「では、九十万ユーロで如何ですか?」

    私は身を削る思いで妥協策を提案した。

    「いいえ、駄目です」

    ウンベルト・ライモンディは冷たく突っぱねた。

    「私は何もただで負けて欲しいと言っているのではありません。割引して頂く代わり、領収書を頂かないと言っているんです。税金を考えれば貴方に入る金額は変わりません。いえ、むしろ純利が多くなるのではないですか?」

    「お嬢さん。私は会社を持っていますから、税金の心配はいらないんですよ」

    「では百万ユーロお支払いしたら、百万ユーロの領収書を出して頂けるんですね?」

    ウンベルトは言葉に詰まった。

    「それは――全額は無理ですが、一部領収書をお出しします」

    私は笑った。

    「それでは話が違います。百万ユーロお支払いするなら、百万ユーロの領収書を出して頂かなくては」

    「兄さん。もういいじゃないか、九十万ユーロで手を打ちましょう」

    それまで黙っていたライモンディが見かねたように口を挟んだ。

    「いいや、ロベルト、私は自分の取り分が一万ユーロだって減るのは我慢できない」

    ウンベルトはまるで駄々子のようだった。
    異様な光を帯びた眼球は私をぞっとさせた。

    「それなら、僕は四十万ユーロで構わない。そうすれば兄さんの取り分は変わらないでしょう?」

    ライモンディはもううんざりと言わんばかりにそう言った。

    「いや。それはいけない。お前が犠牲になることはない」

    「いいんですよ。この話はそう言うことで終わりにしましょう」

    ウンベルトは納得のいかぬ様子だったが、ライモンディが断固たる態度なのを見て溜息をついた。

    「判りました。ロベルトがそう言うのなら仕方がない。では土地の報酬の件は九十万ユーロで手を打ちましょう。ところでオクタヴィアさんはロベルトの一年間の相談料を幾ら支払って下さるつもりでしょうか?」

    私は言葉を失った。

    「相談料?」

    「勿論です。まさか九十万ユーロに含まれていると思ったんですか?」

    「当然です。九十万ユーロは全て込みのお値段だと思っていました。途方もない金額です」

    ウンベルトは笑った。

    「そう。我々は途方もない金額について議論しています。でもこの九十万ユーロはあくまでも土地の商談をまとめた報酬です。相談料は関係ありません。

    ロベルトはこの一年間、オクタヴィアさんのために心身を砕き、最高の結果をもたらしました。私が考えている金額を教えましょうか?」

    ウンベルトは紙に三十万と数字を書いた。

    「土地の報酬が九十万ユーロですから――」

    ウンベルトはその下に九十万と書き足してアンダーラインを引いた。

    「合計は――」

    ラインの下に百二十万と書き記した。

    「こうなります」

    私は声が出なかった。

    百万を八十万に負けてもらう目的であったはずが、これでは振り出しに戻ってしまったどころか、前より増えてしまった。

    私が言葉もなく呆然としていると、ウンベルトは更に続けた。

     

    「私はこれでも安いくらいだと思っているんですよ。示談書を作った弁護士の報酬は幾らでしたか?三十万ユーロです。彼等がほんの二ヶ月ほどしか仕事をしていない。それで三十万ユーロです。それなら一年間オクタヴィアさんのために奔走したロベルトに見合う報酬は幾らでしょうか?

    貴女は聡明な方だからお分かりになると思いますが」

    「私はてっきり相談料も含まれていると思っていました――」

    「それはあり得ない」

    今度はライモンディが口を挟んだ。

    「私はこの一年間、寝る間も惜しんでオクタヴィアさんのために働きました。

    弁護士達が担当したのはほんの一部です。ここに漕ぎ着けるまで長い道程の全てを知っているのは私だけです。

    私はまず遺言書を分析し、資産の鑑定を行い、そしてオクタヴィアさんが実はロレンツォ氏の娘だと言う事実を掴んだのです。しかもオクタヴィアさんは最初、このことを公にすることを頑なに拒んでいました。

    貴女だってご存知でしょう、オクタヴィアさんの性格を?

    彼女を説得し、なだめすかして一大決心をさせるのは並大抵のことではありませんでした。私はこの一年足らずの間に実に千本以上の電話をかけ、市役所や法律事務所や裁判所を奔走し、ようやくこの結果を手に入れたのです。

    私は最初、これほど深入りするつもりはありませんでした。サン・マモロの物件を売って頂くために、遺言書の解釈を手助け出来ればと申し出たのが始まりです。

    しかし、色々調査するうちに、思いがけない事実が次々に明らかになりました。石炭を掘っていたら、埋もれた古代遺跡を発掘してしまったようなものです。

    しかも、掘り下げれば掘り下げるほど新しい発見があった。それで私はすっかりこの相続争いの虜になってしまったのです」

    「これでお分かりでしょう?弟の功績が。

    然るべき報酬に値すると思いませんか?

    まさか貴女方は弟の報酬を払いたくないと言うつもりですか?

    弁護士は三ヶ月で三十万ユーロ受け取ったんですよ」

    ウンベルトが得意げに言った。

    それなら一ヶ月で九十万ユーロも請求するウンベルトはどうだろう。そもそもウンベルトの報酬が法外に高いために真の功労者であるロベルト・ライモンディの報酬が減るのだろうと私は言いたかった。

     

    「私は九十万ユーロには公証人の相談料も当然含まれていると思いました。オクタヴィアだってそうです。だからこの金額にしぶしぶ同意したんです」

    「納得頂けないなら、弁護士に電話して、オクタヴィアさんの決心が付くまで分割協議を延期してもらうまでです」

    ウンベルトは脅すような口調になった。

    「脅迫なさるんですか?よくもそんな事が――」

    私は立ち上がってウンベルトを睨みつけた。

     

    私には判った。諸悪の根源が。

    ロベルト・ライモンディは清廉潔白とまでは行かないにしても、公明正大な人物で、自分の仕事に信念と誇りを持っていることは間違いないだろう。

    しかし兄ウンベルトは違う。この男は誇りも信念も微塵ほども持ち合わせていない。

    徹底した金儲け至上主義で手段を選ばない非情な男。

    おそらくライモンディからオクタヴィアの話を聞かされたウンベルトは弟の依頼人がまたとない金脈だと知った。そうして横から割り込み、便乗して大金をせしめようとしているのだ。

    以前、ロメオからライモンディ兄弟は早くから両親を失くした孤児で、ずっと兄弟二人で手を取り合いながら生きてきたと言う話を聞いたことがある。

    だからこそ、ライモンディは兄にも便宜を図ろうとしたのかもしれない。完璧なライモンディに唯一のミスがあったとしたら、この一件に兄を巻き込んだことだろう。

     

    「やめてください、兄さん」

    ライモンディが兄を遮った。

    「遺産協議はもう二十五日に決まっています。せっかくここまで漕ぎ着けたのに、保留するなんてとんでもないことです」

    「しかしロベルト――」

    ライモンディは顔を上げて私を見た。

    「私の相談料については、オクタヴィアさんの判断にお任せします。オクタヴィアさんが支払いたい額だけ支払えばいい。彼女がもし相談料は支払えないと言うなら、仕方がありません。私はオクタヴィアさんとの間に相談役の契約書を一切取り交わしていませんから、彼女が払いたくないと言うならそれまでです」

    ライモンディは投げやりな調子でそう言った。

    「それでは、いつオクタヴィアさんの返事を頂けますか?」

    ウンベルトが割って入ってきた。

    「さあ――彼女は相談料も全て込みで百万ユーロだと信じていましたから、そうではないと説明しなければなりません」

    「すぐに説明して頂き、返事をお聞かせ頂ければ嬉しいです」

    ウンベルトは口元に薄笑いを浮かべた。

    「ただし、電話はいけません」

    私はびっくりした。

    「どうしてですか?」

    「最近、財務警察の取り締まりが厳しく、電話を盗聴していることがあるんです。

    ですから金額などを絶対電話で伝えてはいけません。勿論メールなど、書簡に残すなどもっての他です」

    ウンベルトは真剣だった。

    呆れてものが言えない。

    つまり盗聴されたら困るようなことをやっているということではないか?

    会社だから領収書を出すのは問題ないなどと言って、やはり脱税するつもりではないか?

    それどころかこのような法外な報酬を請求すること自体が違法なのではないかと思った。しかし、彼には商談を破談にすると言う切り札がある。

     

    「オクタヴィアは今、サンレモに行っています。二十四日まで戻らないと言っています。

    電話が駄目なら伝言のしようがないじゃありませんか?」

    「オクタヴィアさんに一度、ミラノに戻ってきてもらえばいいでしょう?」

    「さあ。オクタヴィアは一度サンレモに行ってしまったからには梃子でも動かないと思いますけど――訊くだけ訊いてみます」

    私はつっけんどんにそれだけ言うと出口に向かって突進した。

    息が詰まりそうだった。これ以上、一秒たりともウンベルト・ライモンディと同じ空間にいることが耐えられなかった。

     

    「わかりました。では朗報をお待ちしていますよ」

    ウンベルトは尚も薄笑いを浮かべて私の手を握った。ライモンディは憔悴しきった様子で弱々しく微笑み、私を戸口まで送り出した。

    高鳴る胸を押さえながら私は建物の外に飛び出した。

     

    むせるような熱気が一気に襲い掛かってきた。三十五度を超える、おそらくこの夏一番の猛暑だろう。私はふらふらと歩き出したが、緊張の糸が切れたせいか、一気に噴出した疲労と殺人的な暑さで目眩がした。

    この猛暑の中、遠路遥々ミラノからやってきた私に、水一杯勧めようとしなかった。

    なんと心の無い、礼節を欠いた連中だろう。

    思い返せば思い返すほど体の奥からムラムラと怒りがこみ上げてきた。

    私は憤怒と暑さで噴火寸前だった。駅に向ってひたすら歩いたが、どこをどう歩いたか憶えていない。気が付けば高速特急の座席に力尽きたように座っていた。

     

    ミラノ中央駅に着くと待ちかねたような顔をしたロメオの姿がプラットホームに見えた。

    「どうだった?」

    ロメオは心配そうに尋ねた。

    その一言でそれまで私の体内に渦巻いていたマグマが出口を見つけて一気に噴火した。   

     

    私が興奮と怒りで全身を震わせながら事の次第を説明するのを黙って聞いていたロメオは次第に蒼ざめていった。ロメオは昨日まで楽観的に考えていたので、私の持ち帰った結果は、予想外だったに違いない。

     

    「それじゃあ、彼等の要求は相談料と合わせて百二十万ユーロだと言うのかい?」

    ロメオは声を震わせた。

    「そうよ。ライモンディの兄ウンベルト・ライモンディ、あの男は金の亡者よ。

    弟がいい依頼人を見つけたものだから、便乗して一儲けしようと企んでいるのよ。私、あの人は大嫌い!」

    私は嫌悪感をあらわに吐き捨てるように言った。

     

    しかしウンベルトは私達をそっとしておいてはくれなかった。

    翌日、私の携帯電話の着信音が鳴った。

    「ウンベルト・ライモンディです」

    見覚えのない番号を着信した私の耳に発せられたウンベルト・ライモンディの威圧的な声は、悪魔の声のように私の鼓膜に響いた。

    「オクタヴィアさんに話して頂けましたか?」

    「いいえ。電話で伝えてはいけないのでしょう?

    オクタヴィアはサンレモにいるんですよ」

    私は怒りを抑えながら答えた。

    「それは困りましたね。二十五日の遺産分割協議の前に何としてもお返事を頂かなくては。

    貴女がサンレモまで行って、オクタヴィアさんに我々の要求を伝え、その後で彼女の返事を伝えにボローニャまで来て頂く訳にはいきませんか?」

    私はあまりにも厚かましい申し出に呆れ返った。

    「私は仕事をしているんですよ。そんな暇がある訳ないじゃないですか?」

    私は出来るだけつっけんどんに答えた。

    「それは困りましたね――」

    沈黙が流れた。彼がどんなに困ろうと私の知ったことではない。

    「私達にとって一番大切なのは遺産相続を終わらせることです。貴方方への報酬はその後でゆっくり話し合えばいいでしょう?私達は別に逃げも隠れもしません」

     

    商談を破談にするという切り札を握っている内にこちらの商談もまとめてしまおうと言うウンベルト・ライモンディの意図がありありと感じ取れた。

    ウンベルトの攻撃はそれだけで終わらなかった。その後、連日のようにメールを送りつけてきた。しかも遺産分割協議の前日二十四日に私達がボローニャにホテルを取り、報酬について話し合ってはどうかと言う呆れた内容だった。報酬の話は当日、遺産分割協議の後にゆっくり話し合えばよいことだ。わざわざホテル代を払ってまで協議の前に話し合いをしなければならない理由はない。

     

    「私達が彼等の要求する報酬額に応じなければゴベッティ通りの商談を破談にすると脅すつもりなのよ。だから切り札を握っている間に決着をつけてしまいたいのよ」

    私はロメオに言った。

     

    遺産分割が終わってしまったら、彼の切り札は効力を失う。

    私達がこれらのメールを無視し続けると、なりふりを構わない金の亡者と化したウンベルトはメールを印刷したものを、オクタヴィア宛に書留で送り付けてきた。

    その間、ロベルト・ライモンディは沈黙を守り続けていた。

    ロメオから事情を聞いたオクタヴィアは、サンレモからロベルト・ライモンディに電話し、二十五日の朝十時に彼の事務所に行くと告げた。

    サンレモのオクタヴィアは――ロメオは、電話は使うなと言うウンベルト・ライモンディの戒めなどお構いなしに、事の一部始終を電話で洗いざらい母に伝えていた――珍しく落ち着いていた。サンレモの温暖な南国の空気が彼女を和ませたのかもしれない。

    こうして、全ての決着が付く日、七月二十五日を待つばかりとなった。

    私とロメオはミラノで、オクタヴィアはサンレモで、そしてライモンディ兄弟はボローニャで、まるで最後の審判の日を待つかのように、この七月二十五日を待った。


     ◇◆◇◆◇

    オクタヴィアの怒り

     七月二十五日、ついにこの日が、遺産分割協議の日がやって来た。

    私達は七時にカフェで朝食を取り、ボローニャに出発することになっていた。

     

    サンレモで穏やかな日々を送っていたオクタヴィアはミラノの湿度の高い不快な空気に触れた途端、鬱になった。

    考えようによってはメンギーニ一族からようやく解放されるおめでたい日でもあるというのに、いつもにも増して不機嫌な様子で黙りこんでいるオクタヴィアは暗色のどんよりとした負のオーラに包まれていた。

     

    「わたしは今日、思っていることを全部、ライモンディに言ってやるつもりよ。

    あの男はわたしからサン・マモロの僧院を奪ったのよ」

    オクタヴィアは決心を固めたように激しい口調で言った。

     オクタヴィアはひたすらサン・マモロの旧僧院にこだわっていた。彼女にとって、報酬や『米の水路』の契約書の心配より、サン・マモロの旧僧院を奪われた悔しさの方が遥かに上回っているのだと、私は改めて感じた。

     「ロベルト・ライモンディはそんな悪い人ではないよ。彼は何だかんだ言って、右も左も分からない母さんを助けてくれたんだから。悪いのは兄のウンベルトだ」

     ロメオはライモンディ兄弟をもはや悪の権化のように罵倒する母をたしなめた。

    私はライモンディ兄弟に独りで会いに行ったあの日までは、ライモンディを悪様に言うことは決してなかったが、あの日を境に考えが変わっていた。

    あの日の猛暑、駅までの道のり、ウンベルト・ライモンディの不気味な薄笑いを思い出すと、怒りがこみ上げてくる。

    ロベルト・ライモンディは頭脳明晰な相談役で、おそらく、十中八九は己の信念に従ってオクタヴィアを助けたに違いない。しかし、あの兄を引き入れるべきではなかった。

    彼の出した成果に対する報酬は、ライモンディ自身が堂々と請求すべきだったのだ。

    報酬の件で兄を巻き込み、『米の水路』の契約書に署名させたのは、彼の最大のミスであり、唯一の汚点だったのではないか、私はこの相続争いの一部始終を思い返すたびに、今でもそう思うのだ。

     

    とにかく、土地の報酬とライモンディの一年間の相談料を合わせて百万ユーロにして貰うと言うことで、私達の意見はまとまっていた。

     

    ライモンディの事務所に到着した私達が真っ先に知ったのは、レオナルドとクラウディオ・メンギーニの兄弟が今日の遺産分割協議に出席しないと言い出したという予想外のハプニングだった。

    ライモンディはひどく疲れた様子で顔色もあまりよくなかった。

     「ここまで来て出席しないと言い出すなんて、何て連中だ」

    ライモンディは手負いの獅子のように室内を歩き回っていた。

     どうやら二人の弁護士は裁判所に出掛けていて捕まらない ようだった。

    今日のライモンディはいつもの自信満々な様子が影を潜め、苛立ちと動揺で弱々しく見えた。

     「お前がそんなに動揺してどうする。弁護士が捕まらないなら、事務所の秘書に緊急事態だから折り返し直ぐ電話するよう伝言を頼みなさい」

    ウンベルト・ライモンディは動揺している弟を叱咤し、冷静な指示を出した。

    ライモンディは大人しく兄の言葉に従い、奥の部屋に消えていった。

     

    ああ、確かにウンベルトは厭な男だが、ライモンディはこの兄を頼りにしているのだと、私は思った。

     

    遺産分割協議については、もはやあまり心配していなかった私とロメオは、この思いがけない事態に動揺し、不安を募らせた。オクタヴィアだけが、協議が中止になるかもしれないと言う目先の現実に対する不安より、ライモンディへの怒りのほうが優っていると見え、大きな目をぎらぎら光らせて、ライモンディが消えた扉を睨みつけていた。

     

    やがて電話を終えたライモンディが私達のいるミーティングルームに戻って来るとオクタヴィアはついに攻撃を開始した。

     

    「ライモンディ公証人、どうかお掛け下さい。

    わたしはあなたにお話しすることがあります」

    オクタヴィアは低い声で半ば命令するような口調で言った。

    ライモンディは言われるままにオクタヴィアの前に座った。報酬の話であることは勿論、分かっているはずである。

    ウンベルトが弟を補佐するように、隣の席に座った。

     

    「わたしは――二月のあの日のことは決して忘れません。

    わたしはあの日――身も凍るような寒い日でした――独りでこの事務所にやって来ました。いつもは息子を同伴するのに――ああ、あの日に限ってわたしは独りでした」

     

    オクタヴィアの声は興奮のためか、ビブラートがかかったように小刻みに震えていた。

    当然、報酬の話か『米の水路』の話が切り出されることを予想していたウンベルト・ライモンディは、この女性は一体全体何が言いたいのだろうと、いぶかしげにオクタヴィアの顔を見つめた。

     

    「事務所を訪れたわたしをあなたは食事に誘いましたね。

    それで二人でレストランに行きました。あなたがこの一年間でたった一度だけ、わたしにご馳走して下さったのが、この日でした。ですから珍しいこともあるものだと、不思議に思ったのをよく覚えています」

     

    わたしは頭を抱えたくなった。話がどうどん本筋からずれて行ってしまう。

    オクタヴィアはいつもこうなのだ。友人を持たず、人と対峙することに慣れていないオクタヴィアの口から発せられる言葉は、時には無秩序な、時には見当違いな表現となって迸り、ほとんどの場合、肝心な本質は理解されない。

    背景描写に懲りすぎて肝心の主人公がちっとも登場しない、そんなオクタヴィアの話を聞く時、連想ゲームのように、何時、何処で、誰が、何をしたのか、と言う骨組みを探し当てなければならない。

    ライモンディ兄弟も同じ思いだったのだろう。ポカンとして彼女の話を聞く彼等は、一時停止された映像の一コマのようだった。

     

    「あなたはこの日、とても親切でした。本当にとても――」

    オクタヴィアは思い出すようにそう呟くと、口をつぐんだ。彼女なりに頭の中で言いたいことを整理しているようだった。

    「そして食事の後、この事務所であの契約書に署名するように言いました。

    でも、わたしは以前、あなたにはっきり言ったはずです。サン・マモロの物件をお売りしてもいいけれど、元僧院の棟は別だと。

    それなのに――あなたがわたしに署名させた契約書には全ての棟が含まれていた――」

     

    オクタヴィアはこれまで胸中に押し殺してきた、サン・マモロの旧僧院を奪われた恨みを一気に吐き出そうとしていた。その姿は、あたかもアンジェリ家の財産を決して売ろうとせず、その外装がたとえ崩壊しようとも所有権だけは生涯、守り抜いたロレンツォの怨念が乗り移ったかの様だった。

     

    オクタヴィアの言葉にライモンディはみるみる蒼ざめていった。

    「奥さん、サン・マモロは三棟でひとつの物件です。二つの棟だけ売買するのは、ナンセンスです。私は貴女にきちんと説明したはずですよ」

    「いいえ。あなたは公証人として、契約書の全条項を私の前で読み上げる義務があったはずです。それが公証人の義務のはずです。

    それなのにあなたは署名する欄だけをわたしに指し示しました。

    あなたに対する信頼からわたしは全文を読まず、云われた所に署名しました。

    わたしが署名すると、あなたは直ぐに携帯でそこにいる――」

    オクタヴィアは傍らのウンベルトをまるで蝮を見るように一瞥した。

    「あなたのお兄さんと、奥さんを呼びました。彼等はものの数秒でやってきましたわね?まるで待ち構えていたように――

    全ては巧妙に仕組まれたことでした。

    あなたは――ロレンツォがあれほど大切にしていたサン・マモロの僧院を卑劣な手段でわたしから奪ったのです」

    ここでオクタヴィアは大きく息を吸い込み、最後のとどめを刺した。

     

    「あなたはわたしを騙したのです!」

     

    わたしはオクタヴィアがこれほどストレートにものを云うのを初めて聞いた。

    やれば出来るではないか――私は心の中で拍手を送った。

     

    ライモンディの顔はもはや蒼白を通り越して土色になっていた。

    「奥さん、貴女は本当にそう思っているのですか?

    私が貴女を騙したと――そう本気で思っているのですか?」

    ライモンディは大きな目を見開き、震える声で尋ねた。

    オクタヴィアは最後の声を振り絞るようにして叫んだ。

    「ええ――あなたはわたしの大切なものを無情にもわたしからもぎ取ったのです。

    あなたは最初からそれが目的でわたしに近づいたのでしょう?

    わたしを見つけてさぞ満足だったでしょう」

     

    それは、オクタヴィアの声を借りたロレンツォの叫びのように聞こえた。

    私は一瞬、オクタヴィアは小さな身体からメラメラと燃え上がる炎を見たような気がした。

     

    「奥さん、私が貴女の為にした事は、これまで誰にも――私の妻にさえ、してあげたことのない事です。

    この一年間、私は全ての時間とエネルギーを貴女に――このアンジェリ家の相続問題につぎ込みました。この相続争いは、私が今まで扱ったケースの中で、最も複雑で、最も難解なケースでした。

    この相続問題はもはや、私の身体の一部、いわば人生そのものになりました。

    そうまでして貴女を助けたこの私を、このロベルト・ライモンディを――貴方はただサン・マモロの物件の為だけに近づいたと、そう本気で信じているのですか?」

    ライモンディは今にも泣き出しそうに見えた。常に力強く、自信にみなぎるライモンディのこんな姿を見るのは初めてだった。

     

    まるで恋に破れた少年のようだ――と私は思った。

    私はライモンディがあまりにもオクタヴィアの相続問題に熱心なので、よもや彼女に恋しているのではないかと、冗談交じりにロメオに言ったことがあったが、なまじ的はずれな憶測ではなかったのかもしれない。

     

    「わたしはあなたがサン・マモロの僧院を奪ったことを決して忘れません」

    オクタヴィアはきっぱりと言い放った。

    サン・マモロの一件は、この数ヶ月の間に深い恨みとなってオクタヴィアの中で膨れ上がっていたのだ。

    オクタヴィアは肝心な報酬にも、『米の水路』にも一言も触れなかった。サン・マモロが彼女の怨恨の全てであり、サン・マモロで彼女の復讐の炎は燃え尽きた。

     

    「貴女が私を信頼できないとおっしゃるなら、私はもう貴女と話すことはありません」

    ライモンディは立ち上がると夢遊病者のようにフラフラしながら扉に向った。

    「ロベルト。肝心な報酬の話がまだじゃないか」

    ウンベルトが弟を引きとめた。

    ライモンディはドアノブに手をかけながら弱々しく振り返った。その顔は真っ青だった。瞳はいつもの輝きを失い、死んだように無表情だった。

    「兄さんに任せるよ。僕はもう――何を言ったらいいか分からない」

    そう言ってライモンディは立ち去った。

    あまりにも鮮烈な成り行きに私はただ呆然として閉まった扉を見つめた。

     

    「では、例の報酬の件ですが――」

    ウンベルトが仕切り直すように言いかけると、今度はオクタヴィアが立ち上がった。

    「後はあなた方で決めて下さい。わたしは下のカフェで待っています」

    オクタヴィアはロメオにそう言い残すと出て行ってしまった。

     

    主役の二人が退場し、脇役であるはずの私とロメオとウンベルトがこの重大な課題と共に残された。

    ロメオは今朝決めた通り、土地の報酬と相談料を合わせて百万ユーロでどうかと切り出した。先ほどの衝撃的な結末の余韻からか、ウンベルトは毒気を抜かれたように穏やかだった。彼は先日の会見の時とは別人のようなしおらしさで私達の提案を受け入れた。

     

    「言っておきますが、私はこの提案に心から賛同しているわけではありません。私は弟の意志を尊重して、あえて貴方方の要求に応じることにしたのです」

    ウンベルトは最後にこう付け加えた。

    更に自分も弟と同様、今後、私達が立ち向かうであろう様々な問題、建物の修復や文化財保護局の許可、諸々の手続きに力を貸すつもりだと言い添えた。

     

    報酬の話がまとまると、私達はオクタヴィアが待つ事務所の下にあるカフェに行った。オクタヴィアは言いたい事を全て吐き出してすっきりしたのか、憑き物が落ちたように和やかになっていた。

    報酬の問題がとりあえず片付くと、今度は遺産分割協議の問題が急浮上した。

    レオナルド、クラウディオ・メンギーニが今日の協議に出席しないとごね出したそうだが、彼等が本気で欠席するつもりなら大問題である。予定なら協議は二時に公証人事務所で行われるはずなのだ。

     

    そこにウンベルト・ライモンディがやって来た。

    「ディ・マウロ弁護士と連絡が取れました。メンギーニ側も、レオナルド・メンギーニとクラウディオ・メンギーニ以外は全員来るそうですから、我々も二時に公証人事務所に行きましょう。

    今、メンギーニの弁護士が必死に二人を説得しているそうですよ。

    なに、心配しなくても、何とかなると思いますよ」

    ウンベルトは楽観的だった。

    「それから――」

    ウンベルトはテーブルの上に置かれたオクタヴィアの手にそっと自分の手を重ねた。

    「奥さん、どうか弟にさっきは言いすぎたと、本気ではなかったと言ってあげて下さい。弟はひどいショックを受けています。

    『オクタヴィアさんはもう僕を信用してくれない。どうしたらいいか分からない――』と。

    あんな弟を見るのは初めてです。貴女はご存知ないかもしれませんが、弟のこの相続問題への入れ込み方は尋常ではなかった。特に貴女がアンジェリ氏の娘かもしれないという情報を得てからは、病院や、看護婦、貴女の里親の家族の聞き込みに奔走し、土日を返上し、夜寝る間も惜しんで働きました。昼も夜も、食事中も貴女のことばかり話していました。

    貴女の先ほどの言葉で、弟はこの一年間を全て否定されたように感じています。

    どうか弟と和解して下さい」

    ウンベルトはそう言うと頭を下げた。

    オクタヴィアはしばらく黙っていたが、やがて決心したように立ち上がった。

    「分かりました。先ほどはわたしも興奮していました。

    サン・マモロの件はともかくとして、ライモンディ公証人のお力なくしては、とてもここまで漕ぎ着けることなど出来なかったことはよく判っています」

    そう言うと、一人で公証人事務所に戻っていった。

     

    再び私達二人と残されたウンベルト・ライモンディは傍の椅子に腰掛けた。

    「私とロベルトは幼い頃、両親を亡くしましてね。両親は人間的には素晴らしい人達でしたが、金銭的なものは何も残してくれませんでした。

    ですから私達は、自分たちの境遇を変えるためにがむしゃらに勉強して、必死に努力しました。やがて私は事業家、ロベルトは法律家と言うそれぞれ別々の道を歩みましたが、私達兄弟はいつも同じ志を持ち、助け合ってきたのです。私は長い間、弟を見てきましたが、弟がこれほどひとつのケースにのめりこんだのは始めてですよ」

    ウンベルトは私達に語りかけるというより、自分自身に言い聞かせるようにしゃべっていた。

    ――そんなに悪い人ではないのかもしれない――

    私は少しだけそんな風に思った。

     

    今日、私の前にいるのは、あれ程恐ろしく感じられた冷酷で鬼のような事業家ではなく、弟想いの、しっかり者の兄だった。

     

    私達はカフェで簡単な昼食を取ると連れ立って事務所に戻った。ライモンディが電話で怒鳴っている声が奥の方から聞こえた。どうやら弁護士と話しているようだった。

    オクタヴィアはミーティングルームの片隅にちょこんと座っていたが、私達を見ると、意味ありげに頷いた。どうやらライモンディとは一応和解したようだ。

    こうしてオクタヴィアの反乱によって勃発した内乱はひとまず和平が成立した。後は、外敵メンギーニ達との戦いを終結させなければならない。

     

     ◆◇◇◆

    遺産分割協議

     私達は予定通り、二時に遺産分割協議を行うジェンティーレ公証人事務所に向った。

    ジェンティーレ公証人事務所は並木通り沿いの豊かな緑に囲まれた閑静な地区にあった。

    公証人事務所には、既にイザベラ・ピッコリとミケーレ、リディア・オルシーニ兄妹が到着していた。

    頭に派手なターバンのような布を巻き、アラブの民俗衣装のようなふわふわしたワンピースをゆるく着こなした金髪の女性がミケーレときびきび話していた。

    「マルタ・リッカルディ弁護士ですよ」

    ロベルト・ライモンディは私達に耳打ちすると、彼等の間に割って入っていった。

     

    どうやらクラウディオは遅れてやって来ることになったが、レオナルド・メンギーニは相変わらず頑なに出席しないと頑張っているらしい。ジルダ・メンギーニは今回も代理人をよこして署名だけさせるようだ。私はついに七人目の相続人ジルダ・メンギーニに会うことはなかった。

     

    やがて、クラウディオが一時間程遅れて到着すると、悪びれる様子もなくエントランスホールのソファーに悠々と腰を下ろした。

    待たされてイライラしていたイザベラは怒りの矛先をクラウディオに向けた。

     

    「貴方達兄弟はいったいどうなっているの?

    人を平気で待たせて、礼儀知らずにも程があります。

    貴方がレオナルドに電話しなさい。貴方が!」

     

    クラウディオは従妹にせき立てられるようにしてレオナルドに電話をかけ始めた。

    しばらくブツブツ話していたが、彼の煮え切らない態度に業を煮やしたイザベラが、クラウディオの手から携帯電話を奪い取ると金切り声を張り上げ始めた。

     

    「貴方はどう言うつもりなの!

    私はもう一時間近くも待っているのよ――来たくないって?――貴方は馬鹿ですか!

    気に入らない事があるなら、ここに来てはっきり言えばいいでしょう?

    とにかく貴方が来ないことには埒が明かないから、今すぐ来なさい。今すぐ!」

    最後の言葉をイザベルは絶叫した。

    電話を切るとイザベラはその細い魚の目を満足そうに更に細めた。

    「今から来るそうですよ。全く人騒がせな」

    そう言ってクラウディオの隣に腰を下ろした。

     

    メンギーニ達と同じ空間を共有することに耐え切れず、私とロメオは事務所の外に出た。道にかぶさる様に生茂った銀杏の葉が風に揺られ、さらさらと音を立てていた。その一枚がハラリと私の頬をかすめ、足許に落ちた。

    私達は蔦に覆われた煉瓦の壁にもたれ、ぼんやりと銀杏の木を見上げた。

     

    「大丈夫だよね?」

    ロメオが私に聞いた。

    「うん――」

    私は他に言うべきことが思い浮かばす、言葉少なに答えた。

    それから私達は並木通りを当てもなくただブラブラと歩いた。別に何処に行くつもりでもないので、しばらく歩いた後、そろそろ戻ろうか、とUターンし、今度は公証人事務所に向って再び歩いた。

    事務所に着くと、その前に停まった車から白髪の男が降りてきた。

     

    「やあ、久しぶりだね。」

    見覚えのあるレオナルド・メンギーニの明るい青い目が私達をギョロリと睨んだ。

    レオナルドは二時間も遅刻したことを一言も詫びることなく、娘のエリーザを従え、ふんぞり返らんばかりの態度で事務所に入っていった。

     

    「やあ、待たせたね」

    事務所に入ったレオナルドは王様のように尊大な態度で待ちくたびれた相続人達に挨拶した。

    「私達がどれだけ待ったか、分かっているの?

    二時の約束がもう四時過ぎよ。全く貴方ときたら――」

    小型犬のようにキャンキャン吼え始めたイザベラを手で制し、顎でミケーレを促した。

    「じゃあ始めようか」

     

    ミケーレが慌てて公証人を呼びに行き、任務を終えたマルタ・リッカルディ弁護士はホッとしたように、仕事が残っているからと、メンギーニ達に挨拶して去って行った。

     

    ジェンティーレ公証人はその雪のような白髪と同じく真っ白なふさふさと長い眉毛から一見、もの凄い老人に見えたが、顔の色艶を見ると、どうやら六十にもなっていないようだ。

    公証人に導かれ、相続人達は隣室の会議室に入っていった。

     

    部外者である私とロメオ、エリーザ、ライモンディ兄弟がにわかに静かになったエントランスホールに残された。

    ウンベルトまでついて来たのは、この遺産分割協議書の署名が終わった後、サン・マモロの物件の売買契約公正証書の署名もこの場で済ませてしまうつもりなのだ。

     

    隣室では早速もめているようだった。

    偵察のため部屋に滑り込んだライモンディによると、公証人が協議書を一行読み上げるごとに、レオナルドが返答に困るような的外れな質問を執拗に繰り返し、ちっとも先に進まないのだそうだ。協議書の朗読はレオナルドの迷惑極まりない妨害のせいで通常の何倍もかけてのろのろと進行した。

    二時間近くかかって協議書の全文がようやく読み上げられると、レオナルドが今度は自分の取り分について、難癖を付け始め、協議はまたもや停滞してしまった。協議の様子を何度も覗きに行ったライモンディによれば、レオナルドはこの分割協議の後の、メンギーニ一族の間の六分割についてとやかく言っているらしい。彼等の間で行われる分割はまた別の遺産分割協議になるので、今日の、この協議書には全く関係ないはずである。

     

    「彼はこの後のメンギーニ間の分割を有利にするために、今から無茶な条件を他のメンギーニ達に突きつけているんですよ。彼等がそれに応じなければ、今日のこの協議書に署名しないと脅してね。

    全く、横暴と言うか、滅茶苦茶な男ですよ」

    ライモンディは呆れたように首を振った。

     

    時計は既に六時半を回っていた。時折、耐えられなくなった相続人が次々に部屋から飛び出してきては、また中に戻っていった。扉が開け閉めされる度にレオナルドの高圧的な声が一段と大きく外まで聞こえてきた。

    イザベラとミケーレが一緒に出てくると、窓際のソファーに腰を下ろしてコソコソと何やら相談し始めた。

    イザベラは醜い顔をますます醜くゆがめてミケーレに何か言っている。

    「――とにかく、私は一ユーロでも多く相続出来れば、それで満足よ――」

    そんな会話の一部が聞こえてきて、私は思わず顔をしかめた。

     

    彼等が隣室に戻っていくと、入れ違いにライモンディがすっかり憔悴しきった様子で出てきた。扉の隙間から、蜂の巣をつついた様に騒然となった室内の様子が一瞬見えた。

     

    「奴等は狂っている!

    まともじゃありませんよ。あれは明らかに精神を病んでいる」

    ライモンディはすっかり辟易したようにこう呟いた。

    「オクタヴィアさんがアンジェリ氏の娘でよかった――本当によかった!

    もしもこの事実に我々が気付かなかったら――この相続争いは永久に終わりませんでしたよ――永久にね」

     

    確かに遺言状の用益権を盾に戦うと言う最初の作戦は、無謀と言うか、不可能であったに違いない。この連中は最初から遺言状の有効性など全く認めようともしていなかった。

    隣の部屋ではまだ分割協議が続いていた。

    私達はひたすら待った。その時間は、永遠に近いほど長く感じられた。

    やがてロベルト・ライモンディの妻が到着した。この後に行われるサン・マモロの売買契約のためだろう。

    ライモンディの妻は派手なワンピースと踵の高い煌びやかなサンダルで着飾っていたが、容姿はイタリア人にしたら随分地味な方だろう。

     

    協議書に全員が署名し、相続人達がぞろぞろと出て来た時には、時計の針は既に八時を回っていた。

    オクタヴィアによれば、最後の最後までレオナルドが署名を渋っていたが、公証人と他の相続人達になだめすかされ、ようやく渋々と署名したそうだ。

    オクタヴィアはさすがに疲れ切った様子だった。

    メンギーニ達は、疲れているのか、あるいは互いに仲が悪いせいか、ほとんどしゃべらず、潮が引くように退場していった。

    この後、私達にはサン・マモロの物件の売買契約が待っていた。

     

    「母さんが嫌なら、無理に署名することはないんだよ」

    ロメオが母にそっと耳打ちした。しかしオクタヴィアは首を振った。

    「もういいのよ――」

     

    売却金の前金は既に相続税や弁護士への報酬で使ってしまっていた。

    これから先、建物の修復に莫大な費用が掛かる。いずれにせよ、何かを売らざるを得ない状況なのだ。オクタヴィアはサン・マモロの物件を売ることにした。

     

    売買契約公正証書の署名は何の問題もなく、しめやかに執り行われた。

    八時四十五分、私達はようやく全てを終え、公証人事務所を後にした。

    湿度を含んだ生暖かい風が妙に心地よく感じられる。長い悪夢から、ようやく解き放たれたように晴れやかな気分だった。

     

    全てが終わった。輝かしい未来ばかりが私達を待っている――私もロメオもこの時、そう確信していた。




    第二部 カロリーナ・オルランディ


     

    第一章 もう一人の庶子

               

    訴状

    分割協議後の数ヶ月は、まさに矢のごとく、あっという間に過ぎ去って行った。

    オクタヴィアは相続した建物を一切売却せず、サン・マモロの物件の売却金で修復することを決意した。彼女なりに、アンジェリ家の末裔として残りの資産を守り抜くことに使命を感じたようだ。

     

    とは言っても、オクタヴィアはただ決意しただけで、何をするでもなかったので、実際に奔走しなければならなかったのは、私とロメオだった。

    実際、私達の生活は激変した。

    今まで思春期の少年達相手に数学の授業をしていたロメオは、そしてコンピュータに向って翻訳やホームページ制作をしていた私は、建築家や建設会社との打ち合わせに追われ、荒廃した建物の中を彼等と共に歩き回った。何もかもが新しい事だらけで新発見の連続だった。

     

    遺産分割協議の一部始終と、そしてオクタヴィアが実はロレンツォの娘であったことをロメオから聞いた財産管理人のマリアンナ・コソットは、目を丸くして、同時に全て納得がいったと言う顔をした。

     

    「ああ――これでようやく分かりました。

    メンギーニさん達が以前、私の事務所に押しかけてきた事は前に話したでしょう?

    彼等が喧嘩を始めた時、一人だけそれに加わらず、無関心を装っていたジルダ・メンギーニさんが、突然こう言ったんです。

    『やめなさい、みっともない!

    貴方達は判っているはずよ。本当はこの遺産を相続する権利が全くないことが――判っているでしょう。本当はこの遺産が誰の物なのか』

    ――すると、争っていた彼等が皆、沈黙したんです。

    私はその時は、何のことだか判らなかったんですけど――そうですか、オクタヴィアさんがアンジェリ氏の実の娘だったんですねえ」

     

    マリアンナは感慨深げだった。

    これを聞いたロメオはメンギーニ一族への怒りを再燃させたが、私はジルダ・メンギーニが親族会や遺産分割協議に決して姿を見せなかったのは、良心の呵責からオクタヴィアと顔を合わせるのが忍びなかったのではないかと解釈した。

    もう、過ぎたことでしょう――

    私はロメオに言った。

    そう、メンギーニ一族は私達にとっては過去の存在。忘れた方がいいにきまっている。そして未来に目を向けなければ――何と言っても、やらなければならない事は山ほどあるのだから――

     

    遺産分割協議後、ライモンディとは何となく疎遠になった。

    サン・マモロの売買契約後、オクタヴィアの心の奥で何となく燻っていたライモンディに対する怒りをマリアンナ・コソットが煽ったのがその一番の要因だった。

    元々、ライモンディを快く思っていなかったマリアンナは事あるごとにオクタヴィアにライモンディの悪口を吹き込んだ。

    サン・マモロを売却した事を完全に納得していなかったオクタヴィアは、愚痴や不満を聞いてもらえる嬉しさも手伝って、ますますライモンディから離れ、マリアンナに傾倒していった。

    ロメオは、ウンベルト・ライモンディはともかく、ロベルト・ライモンディは誠意と情熱をもって彼女を助けたのだと母に言い聞かせたが、オクタヴィアはもはやライモンディに対する信頼を完全に失っていた。それどころか、マリアンナの影響もあり、いよいよ狡猾な策士だと本気で信じるようになってしまった。

     

    やがてファルネーゼの分析と土地証明のおかげで『米の水路』の土地に高値が付き、売却してかねてからの取り決め通り、売却金をライモンディ兄弟と二等分してしまうと、オクタヴィアとライモンディを繋ぐ最後の絆も失われてしまった。

    こうしてマリアンナはライモンディのポジションを瞬く間に乗っ取ってしまったのだ。

     

    私はこれらの出来事をマリアンナが計画的に仕組んだとは思わない。

    この頃、ボローニャ中の実業家を出し抜いてサン・マモロの物件を購入したライモンディに対する嫉妬と羨望はすさまじく、公証人を中傷する噂がボローニャ中で悪性のインフルエンザのように蔓延していた。

    生真面目なマリアンナは、それらの中傷を真に受けてライモンディを危険な策士と思い込んでしまったのかもしれない。

     

    しかしながら、オクタヴィアが今やボローニャ中が注目する金脈であることも事実だった。

    マリアンナはそう意識してかしないでか、ライバルをうまく追っ払い、たまたま自分の懐に転がり込んできた金の実の生る木を独占することに成功した。

    邪魔なライモンディがいなくなると、マリアンナはいよいよ采配を発揮し始めた。彼女はまず、オクタヴィアに口座をライモンディが紹介した銀行から、彼女の友人が働く銀行に移すよう説得した。

     

    更に、ガリエラ通りとバルベリア通りの建物の修復プロジェクトの担当者に彼女の知人であるエンジニアのチェザリーニ氏を強引に推薦した。

    これには、私は強く反対した。気さくなジョルジョーネ建築家とは対照的な慇懃でキザったらしいチェザリーニは第一印象から本能的に好きになれなかったし、ここまで執拗にチェザリーニにこだわるマリアンナの態度も気に食わなかった。

    オクタヴィア自身もジョルジョーネの方に好感を持っていたのだが、マリアンナに頼み込まれ、根負けする形でついにバルベリア通り、ガリエラ通りの建物の修復プロジェクトをチャザリーニに依頼する契約書に署名してしまった。

    私は不満だったが、この時はチェザリーニに恋するマリアンナが――彼女のチェザリーニに対する態度を見れば、この生真面目な会計士が気障なエンジニアに好意を抱いていることは火を見るよりも明らかだった――熱心に彼を推薦し、その熱意にオクタヴィアが折れてしまった、そんなピンク色の想像をしたぐらいだった。

     

    この頃の私は、チェザリーニの件は別として、地味で真面目なマリアンナに全く警戒心を抱いていなかった。それどころか聡明で人懐っこい彼女に好感を持っており、友達になれたらとさえ思っていたくらいだ。

    だから、この小柄な財産管理人が、着々と自分の思う方向にオクタヴィアを誘導していることに、この時はまだ気が付かなかったのだ。

     

    そんな風にして夏が過ぎ、秋がやってきて、その秋も終わろうとする頃のこと、ロメオが大きな封筒を握り締め、蒼ざめた顔をして帰宅した。

     

    「どうしたの?」

    ロメオの表情から、ただ事ではない事が判った。

    「これを見てご覧。今日、母さんに届いたんだ」

    ロメオは封筒から冊子のように綴じられた書類を取り出して私に見せた。

    真っ先に『ボローニャ裁判所』と言う文字が目に飛び込んだ。

     

    「訴状―遺産分割協議無効の申立?」

    私は表題を見てびっくりしたようにロメオを見た。

    「去年、弁護士だという男から妙な電話が掛かってきたって言ったのを覚えてる?」

    私は記憶の頁を巻き戻した。

    「ああ――確かちょうど一年ぐらい前の事よね?

    ロレンツォの父親ジュゼッペの庶子の娘がいるという話だったわね?」

     

    あの時は、どうせ作り話に違いないと、一笑に付したのだった。そしてその後、その弁護士から電話が掛かってくることは二度となかったので、私達はこの出来事を記憶の引き出しの奥のほうに仕舞い込み、すっかり忘れてしまっていたのである。

     

    「あの弁護士が遺産分割協議の無効を求めて提訴してきたんだよ」

    私は訴状に目を通した。提訴者はカロリーナ・オルランディとなっていた。

     

    訴状には―(一)カロリーナ・オルランディはロレンツォ・アンジェリの父ジュゼッペ(死亡)とビアンカ・オルランディ(死亡)の間に生まれた庶子マリア(死亡)の娘である。(二)このため、マリアはロレンツォ・アンジェリの異母妹に当たり、その娘カロリーナ・オルランディは故人の姪である。(三)従って、カロリーナ・オルランディは故人の三親等に当たり、先だって遺産を相続した五親等のオクタヴィア・セーラとオルガ・メンギーニの相続人達を親等の上で上回っており、彼女こそがロレンツォ・アンジェリ氏の唯一の法定相続人として認められなければならない―と言う申立に始まり、ビアンカ、マリア、カロリーナの女三代の物語がつらつらと書き綴られていた。

     

    すなわち――アンジェリ家の女中だったビアンカは、一九三八年にジュゼッペの庶子マリアを生むと、赤ん坊と一緒に彼が所有するサン・マモロ通りの建物の一室に移り住んだ。

    ジュゼッペは生涯、マリアの養育費を払い続けたが、決して認知することはなかった。

    ジュゼッペの妻ジュリアは当時から病気がちだったが、夫に愛人がいることを知ると絶対にビアンカと再婚してくれるなと、夫に懇願しながらこの世を去った。

     ジュゼッペは妻の遺言を守り、生涯再婚はしなかった。そして、自らの死後、相続争いが起こるのを防ぐ為に、アンジェリ家の全財産を息子ロレンツォに生前譲与した。

    ビアンカの子マリアは先天的な情緒不安定で生涯、精神病院の入退院を繰り返し、三十七歳でやはり私生児のカロリーナを産み落とし、四十三歳の時、病院で狂死した。

    僅か六歳で母を失くしたカロリーナは母についての記憶はなく、生まれた時から天涯孤独だった。このような不幸な境涯に加え、カロリーナ自身も左足の奇形という不具に生まれついた。

     現在、この薄幸の娘は名門アンジェリの血筋にもかかわらず修道院の一室を間借りし、細々と生活している――

     

    要約するとこんなところである。最後の頁には十人の証人の名前が書き連ねられていた。

     

    「へえ――もし本当ならドラマチックな話ねえ――」

    あまりにも小説めいたドラマチックな内容に、私は思わず溜息をついた。

    「感心している場合じゃないよ!」

    ロメオは真顔で怒った。

    「ごめんごめん。だってあんまり凄い話だから――」

    私は笑って謝った。

    「それで――どう思う?」

    「偽者だと思う」

    私は迷わず言った。

    「やっぱり?」

     「ここに書いてある事の半分は本当のことだと思う。カロリーナって人の母親の話とかね。

    でもジュゼッペがマリアの父親と言うのは嘘だと思う」

    私は断言した。

    オクタヴィアの事だけでも、十分おとぎ話のような話なのだ。もう一人、庶子の娘が登場するなんて、出来過ぎている。

     

    「それに――」

    私は言葉を続けた。

    「この弁護士がロメオに電話してきたのは、確か去年の秋頃よね?」

    「うん。親族会のすぐ後だったから、九月の終わりだったはずだよ」

    「つまり、この弁護士は一年も前から、このカロリーナに相続権がある事が判っていたわけでしょう?

    だったら何故、遺産分割協議を、指をくわえて見ていたのよ?
    本当に自分の依頼人が正当な相続人なら、遺産が分割される前に名乗りをあげるべきじゃない?」

    「そうなんだよ。何故、カロリーナとこの弁護士は今になって、動き出したのか?」

    「本当にジュゼッペの孫なら、遺産分割の前に自分こそが正当な相続人だと言う申立をしたはずよ。今になって、こんなものを送ってきたのは相続人一同に揺さぶりをかけて、示談でお金を要求するつもりなんじゃない?」

    私は考え込みながら言った。

    「つまり、本気で裁判にする気は始めからないってことかい?」

    「そうだと思う。もし本当に裁判になってDNA鑑定をしたら、偽者だと言うのがばれてしまうでしょう?

    彼等が欲しいのはお金よ。不安に駆られたお義母さんやメンギーニ達からうまくお金を引き出す気なんじゃないかな?」

    私は最初からこのカロリーナを偽者と決め付けていた。

    「それに、仮にこのカロリーナが本当にジュゼッペの孫だったとしてもロメオ達は何も恐れる事はないわ。だってお義母さんはロレンツォの娘よ。一親等なのよ」

    「正式に証明されてないけどね」

    ロメオは笑った。

    「それは、このカロリーナって人も同じよ」

    ロメオは頷いた。

    「そうだね。彼女の場合、証明するのはもっと難しいよ。だってジュゼッペとマリアのDNAを鑑定しなければならないんだからね。二人とも、何十年も前に亡くなっているし――」

    「つまり死体を二体も掘り返さなければならないわけね」

    私は少し不謹慎な事を言った。

    「でも、DNA鑑定なんて事態には絶対にならないと思う。この人はきっと偽者に違いないもの」

    私は自信を持ってそう締めくくった。

     翌日、難しい顔をして訴状を睨んでいたロメオが、はっとして顔を上げた。

    「今、気が付いたんだけど、この証人になっている人達、ほとんどがサン・マモロ通りのロレンツォの建物に住んでいる人達だよ」

    ロメオは訴状に名を連ねる証人の住所を指し示した。

    十人いる証人のうち、六人がサン・マモロ通りの集団住宅の住民である。

    「本当ね。気が付かなかった」

    ロメオは食い入るようにして訴状を見つめた。

    「こうは考えられないかな?」

    ロメオは推理するようにゆっくりと言った。

    「サン・マモロの物件を購入したライモンディはまず何をしただろう?

    当然、ただ同然で住んでいる住民達の一掃だ。彼の事だから売買契約を済ませて、サン・マモロの建物が法律上、自分のものになるや否や、住民全員に退去命令の通告を送ったに違いない」

    「そうね。それを受け取った住民達は絶望してこう考えた。

    もし、カロリーナが――彼女も子供の頃、サン・マモロに住んでいたそうだから、サン・マモロの住民は彼女の事を知っているはずよね――ロレンツォの姪として遺産分割の無効を求める訴訟を起こし、相続争いが振り出しに戻れば彼等も追い出されず済むと、そう考えたわけね」

    「そうだよ。実際にはそんなことはないんだけど。サン・マモロはもうライモンディに売却されてしまった訳だし、仮にカロリーナが訴訟を起こしても、彼等が立ち退かなければならないことに、何ら変わりはない。でも、サン・マモロの貧しいお年寄りや病人が法律に明るいわけないし、そんな事とは知らずに、藁をも掴む思いで、今回の事を仕組んだのかもしれない」

     

    ロメオの推理は当たっていた。

    数日後、ヴィラの工事の打ち合わせの為にやってきた大工のファブリーニが、ロメオの考えが正しかったことを裏づけした。

     

    住居の修理で頻繁にサン・マモロに出入りしていたファブリーニによれば、この一件の黒幕は、サン・マモロ通りの集団住宅に四十年以上も住み着いている主のような烈女で――ファブリーニ曰く、メロンのような乳房をしならせた大女なのだそうだ――退去命令の通告に激怒し、他の住民を扇動し、消極的なカロリーナを説き伏せて、今回の訴状を提出させたそうだ。

     

    カロリーナ自身は、小さな修道院の一室を借りてひっそりと生活する大人しい娘で、そのような大それた野望など抱いていなかった。

    カロリーナの母マリアがはたして本当にジュゼッペの娘なのかどうかと言う質問に、ファブリーニは分からないと首を振った。

    サン・マモロの住民の間では、昔からアンジェリ家にまつわる様々な噂話がまことしやかに囁かれてきた。オクタヴィアの話もそうである。サン・マモロの住民は、カロリーナの母マリアがジュゼッペの隠し子だと心から信じているが、真実は誰にも分からない。当事者達は何十年も昔に死んでしまっているのだから――

     

    私は、年の頃も自分とそう変わらないこのカロリーナにふと同情の念を抱いた。

    彼女はその因果な出生故に、本人も望まざる宿命を背負っているのではないか?

    そして今回、本人の意思に反してサン・マモロのジャンヌ・ダルクとして担ぎ出されたのではないかと思うと何だか不憫だった。

    七月二十五日に全てが終わったと思っていたオクタヴィア母子にとって、カロリーナの出現は晴天の霹靂だった。

     

    しかし、もっと慌てふためいたのはメンギーニ一族である。

    オクタヴィアは仮にこのカロリーナが本気で相続権を主張してきても、彼女はロレンツォの娘なのだから、正々堂々と彼女自身の出生を明らかにすればいい。

    しかし、メンギーニ達は違う。元々、運命の悪戯で間違って相続人に滑り込んだのである。

    運よく遺産の一部をせしめたが、ロレンツォの姪などと名乗る娘に出てこられたら、何の切り札もない。

    しかも、彼等はオルガ・メンギーニの遺産とアンジェリ家のゴベッティ二区画を巡っていよいよ骨肉の争いを始めたそうだから、突然出現したカロリーナと言う新たな脅威にパニック状態になっていた。

    メンギーニ達はいきなり親切を装い、仇敵オクタヴィアに連絡してきた。

     

    「彼等にとって母さんは希望の光なのさ」

    ロメオは鼻で笑った。

    「もしカロリーナが本気なら、母さんがロレンツォの娘で一親等だって証明するしか道はないからね。いきなりご機嫌取りの電話だよ。全く勝手な連中だ」

    「メンギーニ達は、この訴状に書かれていることが事実だと思っているの?」

    「さあ――元々、不正に手に入れた遺産だから、臆病風に吹かれてビクビクしてるんじゃないかな?」

    ロメオは手厳しかった。

     

    オクタヴィアがライモンディには相談しにくいと言うので私達はナーディアの所に訴状を持っていった。

    メンギーニとの相続争いでは、あまり出番がなく燻っていたナーディアはこの新展開に目を輝かせ、武者震いした。

     

    訴状を貪る様に読んだナーディアは、開口一番こう言った。

    「裁判よ!こちらもオクタヴィアさんがロレンツォ氏の娘だと申立てる返答書を提出して迎え撃つのよ」

    ナーディアが言うと、ただでさえ物騒な響きを持つ『裁判』と言う言葉がより一層血生臭く感じられる。ナーディアの言葉は開戦を告げるファンファーレのようだった。

     

    「でも、私達はこのカロリーナが、偽者じゃないかって思っているのよ」

    私は出来れば裁判などにしたくなかった。遺産相続の訴訟は早くて五年、運が悪ければ十年以上続くと言うディ・マウロ弁護士の言葉が脳裏に蘇った。

     

    「そうねえ。お金目当てで揺さぶりをかけて来ているのかもしれないわね」

    ナーディアは頷いた。

    「とにかく、全てはボローニャで始まったことよ。まずそのディ・マウロという弁護士に相談した方がいいわね」

     

    こうして私達は数日後、ナーディアと共にディ・マウロ弁護士の法律事務所を訪れることになったのだ。

     ◇◆◇◆◇

     ディ・マウロ弁護士の見解

     十一月十日、ロメオはオクタヴィアと私、それにナーディアを乗せ、薄い霧の漂う高速道路をボローニャに向って愛車を走らせていた。

     「まだこの車に乗っているの?」

    ナーディアが呆れたように言った。

    「大丈夫?途中で停まったりしないでしょうね?」

    不安げに尋ねる。

     

    せっかくなので、ここでロメオの愛車について紹介しておこう。九十二年のフォード・フィエスタと言うから筋金入りのオンボロ車である。

    ロメオは車で通勤する上、一年に少なくとも五~六回はサンレモまでの四百キロの道のりを往復し、スキーヤーなので冬になれば何度も険しい山道を走らせる。

    だから走行距離はただでさえ多いのに、この一年間、ほとんど毎週のようにミラノ―ボローニャを往復し、ついに二十万キロの殿堂入りとなった。

    晴れた日曜日のドライブで、車が道の真ん中で煙を噴いて停まってしまうと言う憂き目に私は何度も遭っている。ドアが開かなかったり、窓が閉まらなかったり、暖房が機能しなかったり、ロメオの愛車はいつも何処かしら故障していた。

    毎回、この車でボローニャに行かねばならない私とオクタヴィアは、もう戦々恐々で、口をすっぱくして新しい車を買うようにことあるごとに懇願しているのだが、ロメオが頑としてゆずらない。

    彼と青春時代を共にした愛車をどうしても手放そうとしないのだ。

    ロメオのフォード・フィエスタは今日も、他車の三倍近くの煙をもくもくと撒き散らしながら高速道路を驀進した。

     

    この日は朝からディ・マウロ弁護士の事務所でカロリーナ・オルランディ問題について相談し、午後からはサン・マモロに六十年以上も住んでいると言うロンディーニ婆さんを訪ねてオクタヴィアの出生について詳しい話を聞く予定だった。

     

    ディ・マウロ法律事務所は袋小路状の小さな広場の奥にあった。

    鮮やかな黄色に紅葉した銀杏の葉が黄金色の天蓋のように広場を縁取り、赤いボローニャの街角に突如として金色の空間を作り出していた。朝の陽光を浴びて金色に輝く葉がはらはらと舞う様は、まるでオペラの舞台のような鮮烈な印象を与えた。

     

    ディ・マウロ弁護士の事務所は、モダンなライモンディのオフィスと違って、十八世紀の建物の造りをそのまま残した古典趣味の内装だった。曲がりくねった細い廊下を滑りぬけ、天井までぎっしりと本が詰まった作り付けの書棚にクルリと囲まれた円筒のような小部屋を通り、更に幾つかの部屋を横切ってようやく奥の会議室にたどり着いた。

     

    縦長の会議室は両端から迫る書架のおかげで更に細長くなっており、同じく縦長のテーブルと本棚の間はようやく人一人がすり抜けられる位だった。

     

    ディ・マウロ弁護士は席に着くと、どっしりと落ち着いた、それでいてコミカルな調子で口火を切った。

     

    「私も、貴方方が来られる前に、訴状の事を聞き――ミケーレ・オルシーニは私の友人ですからね――私なりに色々調べてみました」

    私は身体中を耳にして、ディ・マウロ弁護士の次の言葉を待った。

    「さて、ここにおられるオクタヴィア・セーラさんはロレンツォ・アンジェリ氏の娘です。

    ありがたいことに噂や憶測ではなく、本当にアンジェリ氏の実子であることが分かりました。そして、このカロリーナ・オルランディ嬢もまた、どうやら本当にジュゼッペ・アンジェリ氏の孫らしいのです」

    私達は顔を見合わせた。

    私などはカロリーヌ・オルランディがよもや本当にジュゼッペの孫などと露ほども信じていなかったので、ディ・マウロの言葉に息を呑んだ。

     

    「まず、裁判は絶対にお勧め出来ません」

    ディ・マウロはきっぱり言い切った。先日のナーディアの口調から、いよいよ裁判に突入するのかと恐れていた私は内心ほっとした。

    ナーディアは何か言いたげな様子である。

    「裁判にかかる年月、費用を考慮すると裁判で戦うのは絶対に避けた方がいいというのが私の結論です」

    ディ・マウロは繰り返した。

    「しかし、裁判になって、こちらが勝てば――絶対に勝てますよね。母はロレンツォの娘で一親等なのだから――裁判の費用やその間の損害賠償を相手に請求出来るんじゃないんですか?」

    ロメオが口を挟んだ。

    「どうやって請求するんですか?
    彼女は無資産なんですよ」

    ディ・マウロの言葉にロメオは詰まった。

    「彼女には無償弁護が適用されています。しかもカロリーナ・オルランディの弁護士は訴状提出の際、議論の対象となるアンジェリ家の資産の差押えを裁判所に要求しました」

    オクタヴィアは蒼ざめた。

    「では、わたし達はどうなるんでしょうか?」

    「何も起こりませんよ」

    ディ・マウロが安心させるように言った。

    「資産の差押さえが直接影響するのは不動産の売買だけです。

    差し押さえられている訳ですから当然、売却は出来なくなります。しかし、貴方はサン・マモロの物件の売買契約を既に済ませています。目下、お持ちの不動産を売る必要がないならあまり問題はありません。建物の修復や賃貸は今まで通り続けられますし、家賃収入にも影響はありません。
    ただメンギーニ一族は真っ青ですよ。
    彼等はゴベッティ通りの土地をさっさと売って現金を分けるつもりでしたからね。
    これで彼等は動きがとれなくなってしまったんです。

    資産の差押えを要求した場合、差押えられた不動産や株が、訴訟中に暴落でもしたら大変の損失が生まれます。当然、提訴者が訴訟に負ければ、全ての損害を賠償しなければなりませんので、訴訟に勝てるという絶対の自信がなければ、資産差押えの手続きに踏み切るような事は普通しないのです。

    しかし、このカロリーナ・オルランディは無資産者です。裁判がどれだけ長引こうと弁護士にも裁判にも全くお金がかからないばかりか、仮に裁判で負けても失うものは何もないんです。

    彼女の一番恐ろしい所は何も失うものがないと言う事です」

    私はゴクリと唾を飲んだ。

    「なんだか、不公平ですね。こっちは裁判になれば莫大なお金がかかるのに」

    ロメオは納得がいかないという顔をした。ディ・マウロ弁護士は続けた。

    「この訴状を提出したアドリアーニと言う弁護士ですが、私は知りませんでしたし、知り合いの弁護士達に聞いても皆、名前も聞いた事がないと言うのです。

    そこでボローニャ弁護士会に問い合わせたところ、数年前にマルケ州から出てきたばかりの三十そこそこの若い弁護士だと分かりました。まあ田舎の新米弁護士と言ったところでしょう」

    ディ・マウロの容赦のない言い方にレッチェ出身のナーディアはムッとして顔を曇らせた。

    「これはポジティブなことですよ。私はこの一件の裏に大物の黒幕がいるのではないかと懸念したのですが、これでそうではない事が判りました。おそらく、この訴状は彼が、今までの弁護士人生で手がけた最も重大で大きな仕事でしょう。確かにこの訴状からは熱意だけは感じられますが、弁護士の手腕という点ではまだまだですよ」

     

    ディ・マウロは若き弁護士の渾身の作品をこともなげに酷評すると、訴状のコピーを卓上にポイと放り投げた。

     

    「そして昨日の敵は今日の味方。
    今回はメンギーニ達と手を携えて戦わなければならなくなりました。

    ちなみに彼等の頼みの綱は奥さん、貴女です。

    彼等はこの訴状に怯えていますからね。しかし、味方になったとは言え、厄介な連中に変わりありません。

    私は一度だけ彼等に会いましたがね。友人のミケーレ・オルシーニは別として、二度と会いたくありませんね。彼等のうち少なくとも二人は、私に言わせてもらえば精神異常者です」

    きっとレオナルドとクラウディオ・メンギーニの事だろう――

    本当に身勝手ではた迷惑な人達だった。
    私は遺産分割協議での彼等の傍若無人な振る舞いを思い出した。

     

    「さて、前置きはこのくらいにして、このカロリーナ・オルランディにどう対処するべきか?」

    ディ・マウロはそう言って私達の顔を見回した。

    「カロリーナ・オルランディは非常に貧しい女性です。それこそ想像を絶するほど貧しい女性です」

    ディ・マウロは強調した。

    「彼女にとって十万ユーロは大金です。おそらく彼女がどんなに働いても、一生手にする事が出来ない金額です」

    「つまり、また示談にしようと言うのですか?」

    ロメオが尋ねた。

    「これが、一番安上がりで早い方法です」

    ディ・マウロは言った。

    「わたしは嫌です。絶対に支払いません!」

    オクタヴィアが強い口調で言った。

    「わたしはロレンツォの娘です。本当ならわたしが全てを相続するはずだったんです。

    それが、本来何の関係もないような人達が割り込んできて、遺産の二十五パーセントも持っていきました。この上、またこのカロリーナと言う人にお支払いするのですか?

    何のために?

    メンギーニ達を助けるためですか?

    彼等は示談でさっさと終わらしたいでしょう。

    でもわたしは参加しません。示談にしたければ、メンギーニ達が支払えばいいんです」

    「そう言う訳には行きませんよ」

    「何故ですか?」

    今度はロメオが口を挟んだ。

    「カロリーナ・オルランディの出現で一番困っているのは、メンギーニ達です。

    元々、相続すべきでないものを、運よく相続したんです。示談は彼等が払うべきです」

    「いや、示談になれば、相続人全員が参加しなればなりません。本来なら、示談金もオクタヴィアさんが七十五パーセント、メンギーニ達が二十五パーセントなのですが、メンギーニ達の都合で示談にするのだから、オクタヴィアさんの割合を減らすことは可能です」

    オクタヴィアは不満そうだった。

    ディ・マウロはオクタヴィアを励ますように言った。

    「まあ、聞いてください、奥さん。我々の作戦はこうです。

    私は今回の件に関して、表舞台には登場せず、舞台裏で傍観します。何故なら、オクタヴィアさん、貴女はアンジェリ氏の娘で、一親等ですから、余裕で構えている所を見せなければなりません。

    表立って動くのはメンギーニ一族の弁護士、マルタ・リッカルディ弁護士です。

    彼女は私の幼馴染で、気心の知れた信頼出来る弁護士です。

    彼女にまず、このアドリアーニ弁護士にさりげなく接近してもらうのです。我々、弁護士は毎朝、裁判所に出頭します。貴方方教師が、毎朝学校に行くのと同じですよ。そこで他の弁護士との交流があるのですが、リッカルディ弁護士にうまくこの弁護士に接触してもらいます。

    こういう事は女性のほうが得意ですからね」

    ディ・マウロはニヤリと笑った。

    「それで、彼がどう言う意図なのか――最初から示談目当てなのか、それとも本気で訴訟で戦う気なのかを探って貰います。

    それから、我々の出方を決めましょう。もし、本気で彼等が裁判にするつもりなら、我々もすぐにオクタヴィアさんの死後認知申立の準備をしなければなりません」

    そこでナーディアが口を挟んだ。

    「我々はこれからサン・マモロ通りに行って、我々に好意的な住民からオクタヴィアさんの出生についての証言を取るつもりです」

    ディ・マウロは満足そうに頷いた。

    「それはいい考えです。出来れば証言書に署名して貰って下さい」

     

    私達は重い足取りで事務所を出た。

    いずれにしてもまたお金がかかるのだ。

    ディ・マウロは示談を勧めた。裁判にすると更に高くつくと言う。ナーディア曰く、遺産相続を巡る弁護士へ相談料や裁判の報酬は、遺産の総額をベースにパーセンテージで計算されるので、このような莫大な遺産が絡む場合、弁護士や裁判にかかる費用もかなり高額になるのだそうだ。だから、裁判で勝っても損害賠償が請求出来ない以上、出来るだけ早く片付けてしまうのが得策だと言う。


     ◇◆◇◆◇

    ロンディーニ婆さんの話

     ロンディーニ婆さんとの約束まで、まだ時間があったので、オクタヴィアの考えで、バルベリア通りのアパートメントに行ってみることにした。

    オクタヴィアはロレンツォの専属会計士アンジョーニに何とか話を聞きたいと思っていた。

     

    アンジョーニ会計士の住居の入口は三階と四階の間の踊り場にあった。

    すりガラス張りの扉を通して陽光が燦々と階段に降り注いでいる。

     

    オクタヴィアは入口のベルを押した。

    返事はない。

    オクタヴィアはもう一度、今度は少し長めにベルを押した。

    相変わらず返答はない。

    「いないのかな?」

    私は不安げに言った。

    「そんなはずないよ」

     

    今度はロメオが、かなり長くベルを押した。ブブブーという機械的な音が廊下中に響き渡った。

     

    「あんた達、何してるんだい?」

    三階のアパートメントの扉が開いて、小柄な老婆が出てきた。

    「誰だい?あんた達は」」

    老女は胡散臭そうに私達の顔を眺めた。

    七十前後に見える老婆はドングリの様にずんぐりむっくりしていて、すぐに染髪と分かる漆黒のショートヘアが頭に貼りついていた。

     

    「僕達はロレンツォ・アンジェリの親戚です。アンジョーニさんにお会いしたいのですが」

    ロメオが丁寧な口調で言った。

    「教授は誰にも会いませんよ」

    ロレンツォの親戚と聞いて老婆の言葉遣いが丁寧になった。

    『教授』と言うのはアンジョーニの呼び名らしい。

    「でも、中にいらっしゃるんですよね?」

    オクタヴィアが尋ねた。

    「いますけど、誰にも会いませんよ。

    そんなにベルを鳴らしても無駄ですよ」

    老婆はそう言ってじっとオクタヴィアを見つめていたが、やがて、ずるそうな笑いを口元に浮かべた。

    「分かりましたよ。貴女が誰か。

    はあ、それじゃあ貴女が私達の新しい大家さんになりなさるんだねえ」

    オクタヴィアはどう返答すべきか戸惑って黙った。

    「ロレンツォをよくご存知だったんですか?」

    ロメオが尋ねた。

    「知ってるも何も、あんないい人はいませんでしたよ。

    ここの住民は皆、あの人が大好きでした。少々変わり者で、家の中で動物をいっぱい飼って、不衛生なところはありましたけどねえ。

    それでも、あの人から受けた恩恵を考えれば文句なんか言えませんよう。

    最後の方は、鬱がひどくてねえ。お風呂にも入らず、食事も取らないで閉じ篭っていたんですよ。それで私が毎日、食事を上の住居に届けてたんですよ」

    老婆は恩着せがましくニヤニヤしながらそう言うと、家の中を振り返って

    「あんた、ちょっと来てごらんよ。エンジニアの娘さんがいらしたよ。本当によく似てなさる」

    と夫を呼んだ。エンジニアとはロレンツォの呼び名である。

    老婆と同じようにずんぐりむっくりの、気難しそうな老人が出てきて、ニコリともせずに挨拶した。

     

    「私達夫婦はここにもう四十年以上も住んでるんですよ。

    だから、このままここに骨を埋めたいと思ってるんですよ。ねえ、ずっとここにおいて貰えますよねえ?」

    老婆は卑屈な笑いを浮かべて上目遣いで舐めるようにオクタヴィアを見た。

    「アパートメントの事は全て財産管理人に任せてあります」

    返答に困ったオクタヴィアはこう言うと、粘着剤のようにべったりと縋ってきそうなこの老婆を振り切るように短い別れの挨拶を告げ、逃げるようにして建物を出た。

     

    それから私達はカフェで簡単な昼食を取り、サン・マモロ通りの集団住宅に向った。

    ロンディーニ婆さんはサン・マモロの旧僧院の、二階の長い廊下の突き当たりにある部屋に住んでいた。

     

    付添婦らしい中年女がいかにも僧庵らしい小さな木の扉を開け、私達を部屋の中に招き入れた。

    猫の額ほどの小さなキッチンが付いた居間は小さかったが古井戸のある中庭に面し、大層日当たりが良かった。

    三方の壁に置かれた箪笥や棚には、手紙の束やら写真、それに小物類がこぼれ落ちそうなほど詰め込まれ、部屋の隅に置かれた古い石油ストーブの上で鉄のやかんがシューシュー音を立てていた。

     

    ロンディーニ婆さんは窓を背に椅子に縮こまるように座っていた。髪も顔も雪のように真っ白で、歯のない口元が窄まった姿は九十歳を超えているように見えたが、灰色がかった青い目の怜悧な輝きが、頭はしっかりしている事を物語っていた。

     

    「すみません。皆でおしかけて」

    ロメオが謝った。

    「いいんだよ。エンジニアの縁(ゆかり)の人と話ができるのは嬉しい事だよ」

    ロンディーニ婆さんはしっかりした口調で言った。

    「貴女の所にも立ち退き命令の通達が届いたんですよね?」

    オクタヴィアが心配そうに尋ねた。

    「そうだよ。十月に届いた。でもねえ、私のような病気の年寄りは国の公団住宅に入れてもらえるそうだよ」

    「万が一、公団住宅が駄目になったら、わたしに言ってくださいね。バルベリア通りの小さな住居をご提供します」

    オクタヴィアは優しく言った。

    ロンディーニ婆さんは眩しそうにオクタヴィアを仰ぎ見た。

    「私を置いて下さると言いなさるんかねえ。

    それは嬉しいことだねえ。公団住宅が駄目になったら奥様を頼ってもいいのかえ?」

    「勿論です。遠慮なく言って下さい。それで、ここにはいつまで居られるんですか?」

    「そりゃあ、あと一年はおれるそうだよ」

    「そうですか――」

    オクタヴィアはホッとしたように言った。

     

    「ここの住民が証人になって、カロリーナ・オルランディと言う人が遺産分割協議無効の申立をしている事はご存知ですか?」

    ナーディアが弁護士らしく鞄から手帳を取り出すと、早速きびきびと質問を始めた。

    「ああ。知ってるよ。エライ騒ぎになってるねえ。ここにも署名してくれと来たけれどきっぱり断ってやったよ。私は揉め事が嫌いだからねえ」

    「では今日、わたし達が貴女に会いに来た事は、他の住民には黙っていて頂けますね?」

    オクタヴィアが言った。

    「そりゃあ、言いやしないよ。私はあの連中は嫌いだ」

    ロンディーニ婆さんは青い瞳をキラキラさせながら怒ったように言った。

    「貴女は何時からこのサン・マモロに住んでおられるんですか?」

    ナーディアが質問を続けた。

    「さてねえ。私がここに来たのはまだ二十歳の娘の頃だったんだよ」

    ロンディーニ婆さんは歯のない口でクックッと笑った。

    「だから、もう七十年近くになるんだねえ」

    ロンディーニ婆さんは感慨深げだった。

    「それでは、ジュゼッペ・アンジェリ氏と女中のビアンカの間にマリアと言う私生児が生まれた時のことを覚えていますか?」

    「勿論、知ってるよ。ここの古い住民は皆知ってる」

    「では、マリアは本当にジュゼッペ・アンジェリの娘なんですね?」

    ロメオが口を挟んだ。

    「そうだよ」

    「貴女はこのことを誰からお聞きになったんですか?」

    ナーディアは質問しながらさらさらとペンを走らせた。

    「ルイーザだよ」

    「ルイーザ?」

    「バルベリア通りのアンジェリのお屋敷で女中をしてたルイーザだよ」

    「ルイーザ・デ・サントさんですか?」

    私は遺言状に出てきた女中がそんな名前だったことを思い出して、こう尋ねてみた。

    「そうそう、ルイーザ・デ・サントだよ。

    彼女はアンジェリ家の全ての内情に通じてたからねえ。大変なお喋り好きで毎日、ここサン・マモロにやって来てはそんな話をぺちゃくちゃ喋りまくっていたよ」

     

    なるほど、どうやらこの女中のルイーザがかわら版のような役割を果たしていた訳だ。

     

    「ジュゼッペ・アンジェリはどんな人だったんですか?」

    今度はロメオが尋ねた。

    「烈火のような人だった。独裁的で頑固な人でねえ、弁護士だったけどねえ。

    エンジニアはジュゼッペさんの言いなりで、いつも父親の後ろにいつも隠れるようにしてついて来てたよ。

    ジュゼッペさんが息子のすべてを支配していたからねえ。エンジニアは虫も殺さんような大人しい人だったけれど、ジュゼッペさんは何でも思い通りにならないとすぐに癇癪を起こしたと、ルイーザは言ってたよ。

    息子も奥様もジュゼッペさんには反抗出来なかったようだねえ。それに、女癖がえらく悪くてあっちにもこっちにも愛人がいたそうだよ」

    私達は呆れて言葉を失った。

    「ピアンカだけじゃなかったんですか?」

    ロメオが訊く。

    「いやいや、他にも何人もいたそうだよ。奥様はいつも泣いてたそうだ。早死にしたのも、そんな苦労が祟ったんじゃないのかねえ。

    当時のアンジェリ家はボローニャ中に土地や建物をたくさん持っていて、ジュゼッペさんは大変な資産家だったからねえ。

    このサン・マモロでも、家賃が払えない貧しい店子には、お金の代わりに身体で払わせていたって噂もあるぐらいだよ」

    「本当にそんな破廉恥な事をしてたんですか?」

    ロメオは嫌悪感を露わに尋ねた。

    「二十年代は世界恐慌とファシズムの台頭、三十年代は第二次大戦の勃発と暗い時代が続いていたから、貧困に喘ぐ人々は生きていく為にそうやって金持ちの情にすがるしかなかったのよ」

    ナーディアがしみじみと言った。

    「それで、マリア・オルランディの事を教えて下さい。貴女は彼女をご存知だったんですね?」

    ナーディアが質問を再開した。

    「勿論だよ。ここに住んでいたからねえ。

    マリアは狂女で、何度も病院送りになっていたよ。身持ちの悪い女で、ゴロツキのような男達との間に娘が二人生まれたんだよ」

    「二人?」

    「そうだよ。父親は違うがねえ。それも何処の誰かも分からんような男だよ。

    最初の娘は生まれて直ぐ養女に出されたそうだよ」

    「では、カロリーナ・オルランディは妹の方ですね?」

    「そうだよ。カロリーナはしばらくここに住んでいたかねえ」

    「カロリーナの姉はどうなったかご存知ですか?」

    「さてねえ。養女に出たきりその後の消息は誰も知らないよ。母親があんな女じゃあ、すっかり縁を切ってしまったほうがよかったんだろうねえ」

     

    ナーディアはマリア・オルランディとカロリーナに関する情報を一通り訊き終わると、話題を変えた。

    「ここにいるオクタヴィアさんがロレンツォ・アンジェリ氏の娘だという事はご存知ですね?」

    「知ってるよ。オクタヴィアさんは間違いなくエンジニアの娘さんだ」

    「それは、ロレンツォ氏から直接お聞きになったんですか?」

    「いいや。私はエンジニアと直接口をきいた事はないよ。

    みんな女中のルイーザから聞いたんだよ。エンジニアに娘が出来たって。

    ルイーザはこうも言っていたよ。娘の母親はミラノにいて、週末、里親に預けられた赤ん坊に会いに来るとね」

    「そのルイーザと言う人はロレンツォの娘の母親はムラッタ(白人と黒人の混血女)だと言っていませんでしたか?」

    不意にオクタヴィアが尋ねた。

    「はてね。そんな事を言っていたような気もするねえ」

    「ムラッタはわたしの母です。母はイタリア人とソマリア人のハーフだったんです」

    「今話してくれたことを、証人として署名してくれますね」

    ナーディアが訊いた。

    「勿論だよ。私はオクタヴィアさんの力になるよ。

    何と言ってもあのエンジニアの娘さんなんだかねえ。私達は随分、あのエンジニアの世話になったからねえ」

     

    ナーディアは鞄からA4サイズのコピー用紙を取り出した。

    「では、時間を節約するためにこうしましょう。

    この紙のこの下の方に署名して貰えますか?今は白紙ですけど、後で私が、貴女が今日証言してくれた内容をパソコンで打って印刷します」

    「いいよ。ここに署名すればいいのかえ?」

     

    ロンディーニ婆さんはよろよろと震える手で、それでもしっかりした筆跡で紙の下の方に署名した。

    ナーディアとオクタヴィアがロンディーニ婆さんにあれこれ質問している間、ロメオは部屋の中を興味深げに見回っていた。

     

    「ちょっと、これを見てご覧」

    ロメオが手招きした。

    壁にセピア色の変色した古い写真が何枚かピンで留めてあった。

    ロメオはその内の一枚を指差した。

    「ロレンツォだよ」

    「――」

    私は雷に打たれたような衝撃を受けて写真に見入った。

    これまでの様々な証言や状況からオクタヴィアは間違いなくロレンツォの娘だと確信していた。しかしこの写真はそれらのどんな証言にも優る絶対的な証拠だった。

     

    百聞は一見にしかず――か

     

    私は思わず微笑んだ。

    いかにも内気そうな老人が寂しげな瞳でじっとこちらを見つめている。

    小さな顔の輪郭、儚げな口元、物憂げな大きな瞳――

    その面差しはオクタヴィアに瓜二つだった。

     

    「ジュゼッペさんが赤ん坊の認知に猛反対したんだよ――物凄い剣幕だったとルイーザは言ってたよ。

    エンジニアは父親を死ぬほど恐れていたからねえ――父の言いつけに従って認知を諦めたんだよ。エンジニアは本当に情け深い、いい人だったけど、勇気とか根性が全く欠けている人だったからねえ――」

     

    ロンディーニ婆さんのそんな言葉を聞きながら、私はこの人の一生は一体何だったんだろうと思った。

    ボローニャ中に土地や建物を所有する名門と言う恵まれすぎた境涯に育ち、大学も主席で卒業した。

    しかしその後、彼は一体何をしただろう?

    全てを放棄して引き篭もり、父親から受け継いだアンジェリ家の財産が荒廃の一途を辿るのをただ傍観していた。

    そして、たった一人の実の娘に対してさえ何もしなかった。

    ただ一言、有効な遺言を書き残しさえすればよかったのに、それすらもしなかった。

    そのためにオクタヴィアは当然、彼女が相続すべき遺産を巡って強欲なメンギーニとの凄惨な相続争いに巻き込まれ、今また、ロレンツォの姪と名乗るカロリーナ・オルランディと言う新たな脅威に脅かされている。

     

    しかも彼が残した荒れ果てた不動産はどれも大掛かりな修復や工事が必要で、家賃収入どころか今後、膨大な修理費がかさむばかりだろう。

    これらは全てロレンツォが残した膨大なツケなのだ。この重すぎるツケがオクタヴィアの、絶望的なほどロレンツォにそっくりなオクタヴィアのか細い肩に圧し掛かろうとしていた。

    私はそんな事を考えながら、ロレンツォの悲しげな顔を見つめた。

     

    孤独の中で寂しく死んでいったこの哀れな老人に、もはや同情する気持ちは起きなかった。

    同情すべきはオクタヴィアであり、カロリーナ・オルランディだ。

    おそらく、彼が一九七三年に作成した遺言状にある『同氏も知る或る人物』とは、カロリーナの母マリアだろう。

    マリアはロレンツォの異母妹だった。

     

    メンギーニ一族が相続した分は本当ならカロリーナが相続すべきだったのだ。

    何も持たない孤児のカロリーナが――

     

     ◆◇◇◆

    ディ・マウロ弁護士の結論

     

    カロリーナ・オルランディの訴状問題はひとまずマルタ・リッカルディ弁護士にゆだねられ、私達は連絡待ちの状態だったが、そんな事を心配している暇もない程、忙しかった。

    ロメオと私は週に二~三度、ボローニャ―ミラノを往復して一週間を過ごしていたが、いよいよボローニャに移住する計画が具体的に決まろうとしていた。

    住み慣れたミラノを離れる――私達の人生に大きな転機が訪れようとしていた。

     ロメオはロレンツォの住居を改装して住もうと提案したが、私は頑なに反対した。あの住居は何かのしかかるような陰気な空気に満ちていて、今でもロレンツォの幻影が棲み続けているような気がしてならなかった。

    最上階のロレンツォのアパートメントは東西南北に窓が開き、ボローニャの丘陵とサン・ルーカ聖堂のクーポラを見晴らす素晴らしい眺望に恵まれていた。

    少し手入れをすれば住み心地の良い住居になることは間違いなかったが、それでも私はどうしてもこの家に住む気にはなれなかった。

     

    バルベリア通りの建物にはアパートメントこそ沢山あるが、すぐに人が住める家はひとつもなかった。それも、少々の修理や手入れが必要という程度ではなく、水道管、ガス管、電気工事を含む、本格的な大工事が必要な住居ばかりだった。中には屋根に大きな穴が開いていたり、床が陥没しているアパートメントまであった。

     

    建物全体の大掛かりな修復工事はいずれ行うとして、取りあえず、私達が住める場所を探さなければならなかった。私達は色々考えあぐねた末、来年の夏に賃貸契約が切れて空く予定になっている二階のアパートメントに住む事にした。これで私達の引越しは来年の九月と決まった。

     

    一方、ゴベッティ通り二区画を差押えられたメンギーニ達の焦燥は最高潮に達していた。

    特にクラウディオ・メンギーニの妻カミーラは執拗なまでにオクタヴィアに電話をかけてきた。今や、オクタヴィアがロレンツォの娘であると言う事実こそが、彼等の希望の灯だった。

    強迫観念に駆られたカミーラはオクタヴィアにしきりにDNA鑑定を勧め、あげくの果てはオクタヴィアの父親は実は、ジュゼッペではないかと言い出した。

    カミーラの無神経な電話に辛抱強く対応していたオクタヴィアの堪忍袋の緒がこれでプツリと切れた。

     

    「母さんが生まれた時、ジュゼッペは七十近い老人だったんだよ。馬鹿げているのにも程があるよ。さすが、あのクラウディオの奥さんだね」

    ロメオは呆れ果てた様にこう言った。

     

    そんな時、マリアンナが極秘でDNA鑑定をしてくれると言う知人の医者を紹介してくれることになった――ただし、正式なDNA鑑定は裁判所の許可を得て、故人の遺体から採取したDNAで行われなければならないので、これはあくまでも非公式かつ非合法な検査のため、訴訟時に証拠として提出することは出来ない。

     

    まず、その道のプロがロレンツォの住居に赴いて故人の毛髪など、DNAを含む遺品が残っていないか徹底的に家捜し、ロレンツォのフケが付着した上着と、汗の結晶が残る靴下を収集した。検査の結果、オクタヴィアの血液に含まれるDNAと、ロレンツォのアパートメントで発見されたフケと汗から採取されたDNAは完全に一致した。

    これでオクタヴィアがロレンツォの娘であることが科学的に実証されたのである。

     

    その間、私達がディ・マウロ弁護士から受けた連絡と言えば、リッカルディ弁護士が未だにアドリアーニ弁護士と連絡が取れずにいると言う事ぐらいだった。

    アドリアーニ弁護士は裁判所にも現れず、事務所に電話しても留守番電話になっていると言う。

     

    「田舎に帰っているのかしら?」

    私は首をかしげた。

     

    そうこうしている間にも、ヴィラ・マルヴァジアの修復プロジェクトは着々と進んでいた。

    ジョルジョーネ建築家が屋根の設計プロジェクトを完成させて文化財保護局に提出し、大工のファブリーニがフレスコ画のある天井に支柱を何本も立て、穴の開いた屋根にビニールシートを張って、建物を雨と崩壊の危機から守った。また修復士がやってきてフレスコ画を特殊な保護紙で覆う作業を行った。

     十二月三十一日、まさに二〇〇六年最後の日に、ジョルジョーネ建築家から屋根の設計プロジェクトが文化財保護局に許可されたと言う連絡があった。こうして波乱に満ちた二〇〇六年は終わりを告げ、慌しく年が明けた。

     

    カロリーナ・オルランディ問題は相変わらず何の進展もなかった。

    さてはカロリーナの後ろに強大な黒幕がいるのではないかと、例によってオクタヴィアが不吉な妄想を膨らまし始めた頃、ディ・マウロ弁護士から呼び出しがかかった。

     

    一月八日、私達はナーディアを連れ、再びディ・マウロ法律事務所を訪れた。

    オクタヴィアは不穏な知らせをもたらされるのではないかと怯えたようにディ・マウロを見上げていた。

    「今日はいい知らせですよ。奥さん」

    ディ・マウロは優しく言った。

    オクタヴィアは疑わしそうだった。

    「我々は――正確に言えばリッカルディ弁護士は、この数ヶ月、アドリアーニ弁護士を捕まえようと奔走しましたが、どうにも連絡が取れませんでした。どうやら郷里に帰っていたようです。

    しかし、この事が結果的に吉と出ました。リッカルディ弁護士がアドリアーニ弁護士を探し回っていたその間、私はこの訴状を考究し、様々な法例や法典を調べました。

    その結果、この申立そのものが無効であることが判ったのです」

    「無効?」

    私達は驚いてディ・マウロを見た。

    「そうです。カロリーナ・オルランディの相続権を証明するには、母のマリアとジュゼッペ・アンジェリのDNA鑑定を行い、マリアがジュゼッペ・アンジェリ氏の娘であることを証明しなければなりません。

    しかし、民法二七〇条によれば、故人の死後認知は、非嫡出子、つまりマリアの死後二年以内に行わなければならないのです。マリアは一九八二年に亡くなっていますから、カロリーヌ・オルランディの提訴そのものが無効なのです」

    オクタヴィアは嬉しそうに両手を握りしめた。

    「それでは、訴訟にはならないんですね」

    ディ・マウロは頷いた。

    「そうですよ、奥さん。第一の大きな勝因がこの民法二七〇条の時効です。

    更に民法二七六条によれば、遺産分割協議無効の申立は直接相続人に対してのみ行えます。つまり、オルガ・メンギーニの法定相続人であるメンギーニ達に対してはこの申立は行えないのです。アンジェリ氏の非嫡出子である奥さんにも、同様の障害がありました。覚えていますか?」

    「ええ。更に私には、養父に認知されているという問題がありました」

    「そうです。

    でもこの二七六条は障害であって、不可能ではありません。

    しかし二七〇条の時効は、申立そのものを無効とするものですから、訴訟を起こす事自体が不可能ということになります。

    ですから、早まって示談など申し入れなくて本当に良かったです。訴状が無効と判ればビタ一文支払う必要はありませんからね」

    「では、解決するんですね」

    ロメオが嬉しそうに言った。

    「イタリアの民事手続きは時間が掛かりますからね。

    まず我々はこの訴状の無効を申立てる返答書を裁判所に送ります。それから一ヵ月後に口頭弁論が行われますが、間違いなく提訴は却下されますよ」

    「それで完全に終わるのは何時ですか?」

    オクタヴィアが心配そうに尋ねた。

    「口頭弁論後、裁判官が提訴を却下すれば、事実上我々の勝ちです。ただ正式な却下判決が出るのは一年後になります」

    「一年後――」

    オクタヴィアの顔が曇った。

    「手続きにかかる必要最低限の時間です。

    しかし口頭弁論で全てが決まりますよ。奥さん、何も心配することはありません。提訴は却下されますよ」

    ディ・マウロが力強い口調で言った。

     

    思わぬ朗報に私達は浮き足立った。裁判所への返答書にはカロリーナの申立の無効だけでなく、オクタヴィアがロレンツォの実子であると言う事実も盛り込むことになった。

    こうして、メンギーニ一族を震撼させたカロリーナ・オルランディ問題は一気に解決に向おうとしていた。



    第二章 新しい生活

    ファブリーニ

     一月中旬、ヴィラ・マルヴァジアの屋根がいよいよ着工し、建物の周りに足場が組まれた。

    工事はアンジェリ氏のお抱え大工だったファブリーニの建設会社が請け負う事になった。

    建設会社と言っても、共同経営者であるファブリーニと相棒のグイドの他に数人の専門職人を抱える小規模な会社であったが、仕事の腕は確かだった。仕事こそ決して速いとは言えなかったが、ファブリーニとグイドは昔堅気の優れた職人で、決して妥協せず、自分達の仕事にきちんと信念を持っているのが好ましかった。

     

    ロレンツォとは二十五年の付き合いだというファブリーニは工事現場に訪れる私達にロレンツォのエピソードをコミカルに、愛情を込めて語ってくれた。

    崩壊寸前のヴィラの屋根はもう完全にやり直す以外、どうしようもない状態だった。

    ジョルジョーネ建築家と構造設計技師の指示で、老朽した屋根はみるみる内に取り壊された。屋根を失くしたヴィラはまるで爆撃にあった廃墟のような惨めな姿になった。

     

    一方、マリアンナの紹介でバルベリア通りとガリエラ通りの建物を担当する事になったチャザリーニは、ガリエラ通りの修復プロジェクトに着手した。

    バルベリア通りの建物は二〇一一年まで店舗の賃貸契約が残っているので、空き家であるガリエラ通りの建物から始めることにしたのだ。

     

    とは言っても実際に設計を行うのはチェザリーニではなく、彼が連れてきた建築家のグリエルモだった。グリエルモ建築事務所はボローニャ一大きな建築事務所で、創立者の大グリエルモは、七十年代にボローニャ新地区にある住宅街のほとんどを築き上げたと言われている程だった。ただしガリエラ通りを担当したのは大グリエルモの息子の小グリエルモの方だった。

     

    チェザリーニは対抗心剥き出しで、時々ヴィラ・マルヴァジアに偵察に行っては、ジョルジョーネの仕事ぶりにあれこれケチをつけた。

    また、ジョルジョーネが鬱陶しくてたまたらないらしいマリアンナも、何かにつけてこの陽気な建築家を攻撃したが、私もロメオも、そしてオクタヴィアも、マリアンナは好きだったが、こうした中傷には耳を貸さなかった。

     

    マリアンナは私達にとても親切だったし、財産管理人としてはとても有能で、こま鼠のようによく働いた。しかしながら、時折見せるこうした一面に、私は彼女の心の奥底に秘められた炎のような激しい何かを垣間見るような気がするのだった。

    ディ・マウロ弁護士は裁判所に提出する返答書を一月二十日に完成させ、口頭弁論が三月二十日に決まった。

     

    二月に入るとヴィラ・マルヴァジアの屋根の取り壊し作業が終わり、いよいよ屋根の木材が運びこまれた。土台となる壁の補強工事が終わると、先ず一辺が四十センチはありそうな太い梁が渡され、その上に鯨の背骨のような骨格が組まれた。更にファブリーニ達大工職人が木の桁で背骨の隙間をうめていった。

     

    閑寂とした冬の空を春の接吻が少しずつ溶かし始めていく頃、ヴィラの屋根も背骨を伸ばし、小骨を張り、徐々に形を成していった。

    私とロメオは足しげくヴィラ・マルヴァジアの様子を見に行った。

     

    「机に向って設計図と睨めっこしてたって何も分かりゃあしないよ。

    実際に現場に行かなきゃあ駄目だ。俺は物理とか工学とか、難しいことはよく分からないが、この梁がどのぐらいの重さまで耐えられるか、折れた梁や陥没した床をどう言う状態でどう修理するか、体で覚えてるのさ」

     

    この頃では、すっかり打ち解けて仲良くなったファブリーニは、私達をヴィラの屋根に案内しながら、よくこんな話をした。屋根の上の足場から下を見下ろすと目眩がしそうだが、視線を前方に向けると雑木林とその遥か彼方に広がる田園ののどかな風景が目に入った。

    十六の時からこの道一筋という、たたき上げ職人のファブリーニは理論的な建築家とはまた違う、独自の信念と哲学を持っていた。

     

    「人任せはいけねえ。ちゃんと自分の目で確認するんだ。建設会社なんてのは発注人が監督しなきゃあ喜んで手を抜くもんなんだ。勿論、俺とグイドは別だよ。だからあんたもガリエラ通りの工事が始まったら現場に毎日、足を運ばなくちゃあ駄目だ」

    ファブリーニは若いロメオにそうアドバイスした。

     

    ファブリーニはロレンツェの昔話をよく聞かせてくれた。

    「ユニークな人だったよ。なんで建物を放ったらかしにしてたって?

    いや、彼なりに何かしようと何度も試みたんだよ。エンジニアはバルベリア通りの屋根だのテラスだのの設計図を何枚も自分で作ったんだ。

    彼は工学士としては優秀だったから。でもいつも途中でやめてしまうのさ。

    いざ本当に実行するとなると怖くなったんだろうなあ――

    よく変化が怖いと言っていた」

    私はふとオクタヴィアを思い出した。

    「だから色んな設計図を作っても、全部立ち消えになってしまうのさ。

    だけどたった一度だけ、彼が文化財保護局に建物の改築プロジェクトをちゃんと提出して許可をもらったことがあったよ。

    バルベリア通り一階の、今空き室になっている事務所があるだろう?

    エンジニアは事務所の通りに面した窓をショーウィンドウに変えて店舗に改装しようと考えたんだ。

    プロジェクトは許可されたが、エンジニアは結局着工しなかった。

    許可の期限は三年だから、結局何もしないままこのプロジェクトは期限切れになってしまったのさ。なんともエンジニアらしいエピソードじゃないか」

    ファブリーニはそう言ってさも愉快そうに笑った。

     

    私達はこんな風に廃墟と化したヴィラの中で、屋根の上で、ロレンツォの様々なエピソードを聞かされた。

    何だかんだ言ってもロレンツォを好いていたファブリーニはアンジョーニの話になると口汚くこの専属会計士を罵った。

     

    「奴はエンジニアの信頼に付け込んで彼のお金を着服してたのさ。

    エンジニアにはバルベリア通り、ガリエラ通り、サン・マモロ通り、ゴベッティ通りにあわせて百軒以上のアパートや店舗を持ってたんだよ。幾ら安い家賃で貸してたとは言え、店舗や倉庫もあったんだ。もっとお金が貯まっていたはずだ。

    それが彼が亡くなった時、銀行口座には僅かな預金しか残ってなかったそうじゃないか。

    俺が思うにアンジョーニがこっそり横領してたんだ。いや、きっとそうに違いねえ」

    「でも、ロレンツォはどうしてアンジョーニをそこまで信頼して、全て任せてたのかなあ?

    銀行口座も共同名義にしてたんだよ」

    ロメオが言うとファブリーニは驚愕した。

    「銀行口座を?何て悪党だ!」

     

    ロメオはアンジョーニがロレンツォの死後、口座の残金の半分を引き出し、姿を眩ませたいきさつ――実際には、バルベリア通りの四階に住んでいるはずだが、誰も連絡を取れないので姿を消したのも同然である――を話すと、ファブリーニは顔を真っ赤にして怒った。

    「なってこった。狡賢い爺さんだよ。

    知ってるかい?アンジョーニはもう九十になるんだよ。つまりエンジニアより十歳以上も年上なのさ。それなのにロレンツォは亡くなって、アンジョーニはまだピンピンしてるんだからなあ――」

    ファブリーニは溜息をついた。

    「エンジニアはずっと強い父親だったジュゼッペの庇護のもとで生きていたからなあ。

    父親が死んで、庇護を失ったエンジニアはアンジョーニを父親の代役のように考えたのかもしれないよ。アンジョーニはジュゼッペと同じで強くて頑固者だったからね。それですっかり頼りっきりになってしまったのさ」

    ファブリーニは彼なりにこんな見解を示した。

     

    ファブリーニは更にこんな驚くべき話をした。

    「エンジニアが亡くなった後、彼の自宅が引っ掻き回されていたのは知ってるかい?」

    これは初耳だった。

    「一昨年の二月頃だったかなあ。裁判所の財産管理人がアンジョーニと一緒にエンジニアのアパートに入るって言うんで俺も呼ばれたんだよ。

    何でも金庫をこじ開けるって言うんでね。それで、財産管理人とアンジョーニと、何とかって言う胡散臭い爺さんと一緒にロレンツォの住居に入ったんだ。

    そうしたらどうだい。家中の引出やら戸棚やらが開けっ放しになって、どこもかしこも荒らされていて足の踏み場もない状態じゃないか。

    俺は、アンジョーニの仕業と睨んだね」

    ファブリーニはこう断言した。

    「アンジョーニが?何のために?」

    ロメオは尋ねた。

    「そりゃあ決まってるだろう。奴の横領の証拠書類を処分するためだよ」

    ファブリーニは自信満々だった。

    「じゃなかったら、三階の婆さんだ。ロレンツォの家の鍵を持ってたのはアンジョーニと婆さんの二人だけだ。婆さんはロレンツォが死んだ後も、エンジニアの飼い猫に餌をやりにアパートに出入りしてたからなあ。アンジョーニでないとするとあのがめつい婆さんが怪しい。

    何か金目のものがないか、物色したに違いねえ」

     

    私は上目遣いで卑屈な笑いを浮かべていたバルベリア通りの老婆を思い出した。

    ひょっとしたらメンギーニ一族の誰かが侵入して遺言状を探したのではないかと言う疑念が、ふと私の脳裏をよぎった。しかし、今となっては確かめる術はない。

    結局、この侵入者が誰だったのか、今も謎のままである。

     ◇◆◇◆◇

    勝利 

    三月二十日の口頭弁論には、マルタ・リッカルディ弁護士、ナーディア、そしてディ・マウロ法律事務所の若い女弁護士が出席した。

    若き田舎弁護士アドリアーニと、三人の女弁護士の対決は女弁護士団の圧勝で終わった。

    三人の敏腕弁護士を前に、若いアドリアーニ弁護士はたじたじだったらしい。

    結果、裁判官は申立の却下を言い渡した。つまり事実上、我々が勝ったのだ。

     

    「今日は輝かしい勝利の日だったわ!」

    電話で結果を報告していたナーディアは興奮で声を弾ませ、勝利に酔いしれていた。

    「私ともう一人の弁護士も頑張ったけど、凄かったのがマルタ・リッカルディ弁護士よ。

    もう相手に口を挟む隙を与えないというか、哀れなアドリアーニ弁護士が何か反論しようものなら、その三倍でやり返すと言う風で、とにかくこの可哀想な新米弁護士を完膚なきまで叩きのめしていたわ。

    凄かった――私もかなり攻撃的だと言われるけど、彼女には脱帽よ。

    本当、いい勉強になったわ」

     

    ナーディアが凄いというのだから、本当に凄かったのだろう。

    烈女三人に囲まれて小さくなっているアドリアーニ弁護士の姿を思い浮かべると何だか気の毒だった。

     

    「じゃあ、私達は勝ったのね?」

    私は念を押した。

    「そうよ。正式な判決文が発表されるのは、来年の一月頃になるけれど、もう終わったのも同然よ。裁判官は彼等の訴えを却下したの。彼等は訴訟を起こす事も出来ない。つまり門前払いされたと言うことね」

    私はホーと長い溜息をついた。

    ナーディアがもたらした朗報によって、私達は相続争いの長い呪縛からようやく解放されたのだ。

     

    五月になると若草色の霞のように頼りなげだった新緑が、豊潤な緑の衣となった樹木の幹をすっかり覆い隠し、同じように、ヴィラの屋根も木の野地ですっぽりと覆われた。

     

    一方、チェザリーニと小グリエルモのチームもガリエラ通りのプロジェクトを黙々と進めていた。

    ヴィラを担当するジョルジョーネ達とチャザリーニ/小グリエルモ・チームは対照的だった。

    ジョルジョーネの仕事ぶりは――しばしばマリアンナが不満をこぼすように――決して早いとは言えず、時間に少々ルーズな所があったが、彼のこのヴィラに対する思い入れには、並々ならぬものがあり、決して妥協を許さなかった。そのために仕事が予定より遅れる事がしばしばあった。しかしながら、ジョルジョーネは工事の手順からコストに至るまで、工程ごとに私達に詳細を報告し、私達の予算や希望を尊重して仕事を進めた。

     

    温かな季節になるとファブリーニのアイデアで、ヴィラの庭でバーベキューをした。参加するのは私達、ジョルジョーネと構造設計技師、ファブリーニ建設会社の職人達、それに時折、マリアンナも顔を出した。

    開廊に大きなテーブルを設置し、家が農場と言うグイドが自ら作った野菜の酢漬やサラミ、チーズを並べ、ファブリーニが自家製ワインをふるまった。

    見習いの若い大工達が庭で肉やソーセージを焼き、食べきれないほど、どんどん運んできた。

    ヴィラでの昼食会は夏が終わっても続けられ、やがて寒い季節がやって来ると、ヴィラの一室で取り壊した屋根の梁を薪代わりにして古いストーブを焚き、グイドがパスタ料理を作った。グイドは熟練した職人であると同時に素晴らしいコックだった。

    こんな風にして、私達はヴィラとその仲間とアットホームな温かい人間関係を育んでいった。

     

    一方、チェザリーニ/小グリエルモ・チームはと言えば、大きな建築事務所をバックに持つだけあって、仕事はさすがに速かったが、脇目を振らずに突っ走る冷たい超特急のようで、今どう言う状態でプロジェクトのどの辺りなのか、私達に知らせて来る事などなく、ましてや発注者である私達に意見や相談を求める事など全くなかった。

    時折、予算や間取りについて私達の希望を伝えると、チェザリーニも小グリエルモも慇懃な作り笑いを浮かべて頷いたが、実際にそれが反映されているのか疑問だった。

    秘密主義に包まれた巨大な要塞、私はそんな印象をこのチームに抱いた。仕事こそ速くて正確だったが、私は彼等をどうしても好きになれなかった。

     
    ◆◇◇◆

    引っ越し

     七月、ファブリーニ達は炎天下の中、屋根の瓦を敷き終わり、最後の仕上げに入った。

    同じ頃、チェザリーニ/小グリエルモもガリエラ通りの修復プロジェクトを完成させ、市に提出した。ガリエラ通りの建物は、オクタヴィアが相続した物件の中で、唯一、文化財保護局の保護対象文化財に指定されていないので、起工までの手続きはシンプルだった。小グリエルモは十月中に必要な許可が全て下り、年内には着工出来るだろうと言った。

     

    九月八日、ロメオと私はついにボローニャへの引越しを決行した。

    私達は小型トラックを借りると、荷物や家電製品を積み込めるだけ積み込んで出発した。ベッド以外の家具は主要階のアパートメントとロレンツォの住居にごろごろ転がっている古い家具を手入れして使うつもりだった。助太刀に駆けつけてくれたファブリーニとグイドが家具や冷蔵庫を家に運び込むのを手伝ってくれた。

    私達の新居は、以前に見たフレスコ画のある住居と同じ主要階《ピアノ・ノービレ》(二階)にあり、床から五メートル以上もある高い天井の所々にフレスコ画が残っていた。

    広さ百八十平米もあるこの住居は小部屋や廊下が四方に繋がっていて、慣れるまで廊下を通り抜けて寝室に行くつもりが、行き止まりの小部屋に迷い込んでしまう事がしばしばあった。

    中庭に面したテラスのある広い廊下を進むと、奥が広い広間になっている。

    モザイク張りの床が見事な広間は、前の住人が保温のために張ったらしい発泡スチレンの天井で覆われていた。

    ロメオが梯子に登ってモップの柄で発泡スチレンを突いて穴を開けると、中から見事なフレスコ画が現れた。私達は一日かかって発泡スチレンを取り除いた。

    広間に繋がる小部屋は、おそらく化粧部屋だったのだろう。レリーフで装飾された水色のヴォールトの中央には菩提樹のある回廊で寛ぐ二人の貴婦人を描いた如何にも女性らしく繊細な六角形の小さなフレスコ画がはめ込まれていた。

    私はロメオの祖母レーアが昔、骨董品で見つけたと言う大きな古いシャンデリアを広間に吊るし、テラスのある廊下に枝付き燭台型の壁灯を取り付けた。

     

    画像

    かつてはさぞ美しかったであろうこの住居の厚い壁はくすみ、あちらこちらが凸凹していた。ただ黒ずんだ華やかなフレスコ画が煌びやかだった時代の面影をわずかに留めていた。

    何十年も前に、電気もガス設備もないこのだだっ広い住居をロレンツォからただ同然で借り受けた先住者は、出来るだけお金をかけずに取敢えず住めるようにしたらしい。

    交差ヴォールトの高い天井から無造作に垂れる裸電球や、レリーフの下を走るむき出しのガス管がアンバランスな不思議な雰囲気をかもし出していた。

     

    夜、風が強い日など、縦長の大きな窓ガラスがカタカタと小刻み震え、裸電球の光に浮き上がったレリーフの影がユラユラと揺れる様は、幻想的と言うと聞こえがいいけれど、ちょっとした幽霊屋敷のようだった。かくして私達は忘れられた古城のようなこの新居で新しい生活を始めたのだ。

     

    他の住民達は静かだった。アンジョーニは家から出てくることは決してなかったが、確かにそこに住んでいた。

    毎朝、八時に付き添いの看護婦が来るらしく、玄関のベルが鳴った。おそらく、合図なのだろう、ベルは必ず短く三回鳴った。時々、電話が鳴ったが、アンジョーニは電話には出ないらしい。いつも鳴りっ放しだった。

    私達が寝室にした広間の上が彼の寝室らしく、真夜中になると、杖をつきながら歩き回る音がコツ、コツ、コツ、と高い天井の上で響いた。その音は毎晩、なぜが夜中の二時頃に聞こえてくるのだった。

     

    三階の老夫婦には建物の入口や中庭でよく出くわした。

    老婆は私やロメオの姿を見つけるとするすると擦り寄ってきて廊下の電気が暗いだの、入口の扉の滑りが悪いだの不平を並べ立てるので、私などは彼女に出くわさないように逃げ回っていた。

    四階にもう一組、初老の夫婦が住んでいるようだが、彼等の姿を見かける事はなかった。

     

    ボローニャに引っ越してから、私達はマリアンナとますます親密になった。私達は仕事の打ち合わせ以外にも、よく一緒に食事に出かけた。誰一人知り合いのないボローニャに乗り込んできた私達にとって、マリアンナの存在は心強かった。

    ちょうど、ガリエラ通りの建物の着工準備が着々と進んでいる頃の事である。

     十月に市から正式な建設許可が下りると、後は建設会社を決めなければならない。

    マリアンナの提案で建設工事請負の指名競争入札を実施することにした。

    指名競争入札とは、一定の条件に従って予めこちらで選出した建設会社に工事の見積り書などの入札書を提出してもらい、入札金額が一番低い会社と工事請負契約を結ぶシステムである。

     

    競争入札にしたのは勿論、工事費を出来るだけ低くするためである。

    競争入札で建築家が建設会社を推薦してくるのは通常のことだが、この場合、建設会社と建築家の間に必ずコミッションが発生するので、工事費がどうしても高くなる。だから私達は自分達で建設会社を見つけるつもりだった。

    私達はボローニャ市でも業績のある会社を幾つが選び、更にファルネーゼから二社、紹介してもらった。

     

    この頃、ファルネーゼは工事や競争入札の事で色々と相談に乗ってくれていた。

    ボローニャ土地測量士会の会長も務めるファルネーゼは教育熱心な教職者のような心の広さと面倒見の良さを持ち合わせており、この分野の全くの素人で、分からない事だらけの私達に、見積書の見方や、悪徳設計会社を見抜く術など、建設界のノウハウを教えてくれた。

     

    競争入札は財産管理人であるマリアンナが仕切った。

    入札の準備が始まると、マリアンナはこれらの建設会社と連絡を取り、指定通知や要綱を送付するなど忙しく奔走していたが、私は彼女が入札から私達を遠ざけたがっているような印象を受けた。

    マリアンナは、指定競争入札というのは発注者が直接連絡するのではなく、財産管理人から正式通知を送るものだと説明したが、会社との面談の日取りを何度尋ねても、はぐらかしたりと、彼女の行動には不透明なところがあった。

     

    しかしながら、この新しい友情に密かに期待していた私は、責任感の強いマリアンナの事だから、ひとりで完璧にやり遂げたいのだろうと、好意的に解釈していた。



    第三章 陰謀

               

     示談

    十一月一日、イタリアは万聖節で祝日である。

    イタリア中が聖人と殉教者の霊魂を弔うこの日、私達は久々にディ・マウロ弁護士から呼び出された。

    オクタヴィアはナーディアを伴ってミラノから来る事になっていたので、私達はディ・マウロ法律事務所で落ち合うことにした。

     死者の祝日のせいか、普段賑やかな旧市街はひっそりと静まり返っていた。

    ナーディアとオクタヴィアが遅れて到着すると、ディ・マウロは早速、本題に入った。

     「実は先日、カロリーナ・オルランディの弁護士がリッカルディ弁護士に連絡してきました」

     三月の口頭弁論以来、カロリーナ・オルランディは私の中ですっかり過去の人となっていた。そのカロリーナの弁護士が今更何の用だろう?

    私達はディ・マウロの次の言葉を待った。

     「単刀直入に言いますと、アドリアーニ弁護士は示談を申し込んできたのです」

    「示談?」

     私達は驚いた。

    カロリーナ・オルランディの申立はとっくに却下され、後は正式な判決を待つばかりである。ここで何故示談が出てくるのか、私には判らなかった。

     「彼等の要求額は二十万ユーロです。ボローニャで小さなアパートが買える金額です。

    カロリーナ・オルランディは自分の家が持ちたいと言っているそうです。応じなければ控訴すると言ってきました」

    「控訴?」

    オクタヴィアの顔が暗くなった。

    「勿論、彼等の目的は訴訟に勝つことではありません。彼等も奥さんがアンジェリ氏の娘であることは百も承知していますから、控訴しても勝てる見込みがないことは判っています。

    しかし、前にも言いましたが、カロリーナ・オルランディには失うものが何もありません。無償弁護が適用されますから、訴訟がどんなに長引こうと、彼女の経済的負担はゼロです。

    しかも無資産者ですから、損害賠償を請求される心配もありません。つまり何も怖いものはないのです。

    彼等が控訴すれば――勿論、ほぼ確実に、第一審と同じように却下されるのが関の山ですが――もう二年、判決まで待たねばなりません。

    それで却下されたら、上告するつもりだと言っています。そうすると更に数年、待たねばならなくなるのです。

    その間、不動産は勿論、差押えになったままです。不動産を売却する必要がないなら、直接的な被害はありませんが、例えば、銀行からの貸付が受けられなくなります。

    また控訴、上告のたびに六万ユーロの手数料がかかります。それに我々、弁護士への報酬を合わせると二十万ユーロ近い費用がかかることになります。しかも、解決するのは何年も先になります。

    今、ここで示談に応じれば、相続人全員で二十万ユーロです。本来なら、遺産の七十五パーセントを相続した貴女が十五万ユーロ、メンギーニ達六人が五万ユーロを支払うはずですが、貴女はアンジェリ氏の娘で、メンギーニ達はむしろ貴女に助けられるようなものですから、もし、貴女が示談に応じるなら、私はリッカルディ弁護士にこちらの負担額を八万ユーロに引き下げるよう、交渉するつもりです」

    ディ・マウロの説明にオクタヴィアは怒りを露にした。

    「私は嫌です。示談にするならメンギーニ達が全額負担すればいいんです。

    私はこの話には参加しません!」

    「奥さん、相続人の誰か一人でも反対なら、この示談は成立しません。

    貴女のお気持ちは分かりますが、一人だけ参加しないと言う訳にはいかないのです。

    しかし、私は貴女の意志を尊重します。貴女が示談は嫌だとおっしゃるなら、無理にとは言いません。

    リッカルディ弁護士にオクタヴィアさんは示談に応じる意思が無いと伝えます。ただ、先ほど説明したように、時間的にも、金銭的にも示談にした方が、被害が少ないのです」

    オクタヴィアは納得が行かないと言う顔をして黙った。

    「どうせ示談になるなら、口頭弁論などせずに最初から示談を申し出ていればもっと早く解決していたんじゃないですか?」

    同じく、納得の行かないロメオが非難がましく言った。

    「いいえ。口頭弁論を行って、彼等の訴状が裁判官に問答無用で却下されたからこそ、彼等の要求は二十万ユーロなのです。口頭弁論の前は、示談なら遺産の五十パーセントを要求するとリッカルディ弁護士に言ったそうですよ。

    それが、我々の提出した返答書で彼等の申立が全く無効であることが明らかになり、どうやっても勝ち目はないと、悉く思い知ったのでしょう。

    二十万ユーロと言うと大金のようですが、実は遺産の一パーセントにも満たない額なんですよ」

    ディ・マウロの口調は穏やかだった。

    「でも、わたしはロレンツォの娘です。それなのに関係のないメンギーニ達に遺産の二十五パーセントを譲る羽目になりました。そして今、またこの女性にお金を支払うなんて、あまりにも理不尽です。

    私は一親等です。三親等と主張する人に示談金を支払う必要などないはずです」

     

    オクタヴィアは譲らなかった。今日のオクタヴィアはメンギーニ達との時とはまるで別人のように強気だった。

    極秘にDNA鑑定を行ったオクタヴィアには、今や自分は正真正銘ロレンツォの娘であると言う絶対的な確信があった。その確信が彼女をここまで強くするのだろうと私は思った。

     

    「――貴女のお気持ちは判りました。リッカルディ弁護士にそのように伝えます」

    ディ・マウロはやむを得ないと言う顔をしてそう言った。

    「こちらが示談を拒否するとどうなるんですか?」

    今度はロメオが心配そうに尋ねた。

    「七十五パーセントの相続人であるオクタヴィアさんが同意しなければ、当然示談は成立しません。彼等は第一審の判決で正式に訴えを却下されたら控訴するでしょう」

    「控訴しても、彼等に勝てる見込みはないんですよね?」

    ロメオは念を押した。

    「彼等の申立が通る可能性は極めて低いです。ただし可能性はゼロじゃない。

    これは、全ての訴訟に言えることですが、百パーセントと言う言葉は存在しないのです。

    法律は人が作ったものですし、裁判官もまた人間です。絶対、と言うことはあり得ません。

    勿論、彼等は、何十年も昔に時効になっている事を申立てている訳ですから、勝てる可能性は限りなくゼロに近いですがね。

    ただ、彼等が控訴すれば、先程も言いましたがオクタヴィアさんには六万ユーロの手続きの費用がかかります。しかも正式な判決が出るのは一~二年先になります」

    ロメオは考え込んだ。

    「では、僕達は示談に参加する代わりに、こちらの負担額は五万ユーロと言うことでどうですか?」

    「そうですね。あのがめついメンギーニ達が承知するかどうかが問題です」

    ディ・マウロはうなった。

    「承知せざるを得ないんじゃないでしょうか?

    今の彼等は崖縁にいるも同然です」

    ロメオが勝ち誇ったように言った。

    「昨年、彼等は一年以内に全ての住民を退去させて引き渡すことを条件にボローニャ市とゴベッティ通り二区画の売買同意書に署名しています。

    このまま、この問題が長引けば、土地は当初の確約のほぼ半額で市に強制収用されてしまう可能性があるそうです。彼等が示談を急ぐのにはこう言う裏事情があるんですよ」

    ディ・マウロはびっくりした。

    「それは初耳です。本当ですか?」

    「本当です」

    ロメオは勢い付いて断言した。

    「先日、土地測量技師のファルネーゼ氏に聞いたので間違いありません。

    市は、すでにこの土地の都市開発プロジェクトを完成させていますから、メンギーニ達に何度も催促してきているそうです。ファルネーゼ氏はそのことでミケーレ・オルシーニから相談を受けたと言っていました」

     

    数週間前、競争入札に指定する会社を紹介してもらうためにファルネーゼの事務所を訪れた際、たまたまゴベッティ通りの話が出たのだ。

     

    「そうですか。それはいい事を聞きました。そう言う事情なら、こちらが頑として五万ユーロ以上は出せないと頑張れば、どうしてもこの示談をまとめてしまいたい彼等は残額を負担せざるを得なくなりますね」

    ディ・マウロの顔は明るくなった。

    「母さん、控訴や上告になれば、もっと費用がかかるし、時間もかかるんだよ。だったら、ここで五万ユーロ払ってすっきりさせてしまった方がいいんじゃないかな?」

    ロメオが難しい顔をして黙っている母を説得した。

    「わたしは――悔しいです。わたしはロレンツォの娘なのに――」

    オクタヴィアはさも悔しそうに唇を噛んだ。

    「お気持ちはお察ししますよ、奥さん。しかし、ロメオ君の言う通りです。

    ここはどう考えても示談に応じるのが賢い選択だと思います」

    「――分かりました」

    オクタヴィアは渋々承諾した。

    「でも、これが最後になることを望みます。もう二度とこの問題で煩わさせられる事がないことを――」

    「勿論です。示談書は私が作成します。示談がまとまればカロリーナ・オルランディは、もう二度と貴女を悩ますことはないでしょう」

    ディ・マウロ弁護士はオクタヴィアを励ました。

     

    法律事務所を出た後も、オクタヴィアは不満げにむっつりと黙り込んでいた。

    数ヶ月前、ほぼ完全勝利だと言われ、解決したのも同然と思っていたのが、今になって控訴だの示談だのと言われれば、怒りたくなるのは当然だろう。

     

    「死者を悪く言いたくはないけれど――」

    ナーディアが重苦しい沈黙を破った。

    「ロレンツォさんがちゃんとした遺言状を残してさえいればこんな事にはならなかったのに――カロリーナ・オルランディはメンギーニ達の相続分を相続すべきだったのよ」

     

    ナーディアの言う事はもっともだ。

    遺産は娘のオクタヴィアに、そして一部がカロリーナ・オルランディに行くべきだった。

    しかし、有効な遺言状がなかった為に、六親等の裕福なメンギーニ一族が遺産の二十五パーセントを不当に相続し、ロレンツォの姪である貧しいカロリーナはわずか一パーセントに甘んじる羽目になったのだ。

    私にはオクタヴィアよりむしろカロリーナの方が不憫だった。

     

    最近、ただでさえ憂鬱の虫に取り憑かれがちだったオクタヴィアは、この日を境にますます塞ぎ込むようになってしまった。


     ◇◆◇◆◇

    談合

    数週間後、ディ・マウロ弁護士からメンギーニ達がこちらの要求通り彼等の二十万ユーロのうち、十五万ユーロを負担することに同意したと言う連絡が入った。

    強欲な彼等がこうも簡単に、こちらの条件を呑んだのは、よほど切羽詰っているのだろう。

    彼等としては、一刻も早く、この一件を片付け、ゴベッティ通りの土地を売ってしまいたいに違いない。

     

    ガリエラ通りの入札書提出期限は十二月二十二日に決まった。

    オクタヴィアは十二月に入るとすぐにサンレモに行ってしまったので、開札は年明け早々にマリアンナの事務所で行うことになった。

     

    私とロメオはクリスマスとお正月を日本で過ごした。せめてクリスマス休暇くらいボローニャやカロリーナ・オルランディの事を忘れてゆっくり過したかった。

    カウントダウン、シャンパン、そして洪水のような花火というイタリアの騒がしい新年にいささか辟易していた私にとって、年越し蕎麦を啜りながら家族と迎える日本の新年は新鮮で懐かしかった。

     

    一月三日にイタリアに戻ってくると、新年の宴の余韻に浸る間もなく、新たな試練が私達に襲いかかった。

    その発起人となったのはファルネーゼが紹介してくれた建設会社の一つ、トーニ建設会社の社長、ルドヴィコ・トーニである。

     

    トーニは入札書の開札前に是非、話しておきたい事があると新年早々、ロメオに電話をかけてきた。

    バルベリア通りのアパートメントまで私達を迎えに来たルドヴィコ・トーニは長身に黒のロングコートを粋に着込んだ伊達男風の五十代の男性で――ファブリーニやグイドのような日に焼けた野生の熊のような職人風の男を想像していた私は見事に期待を裏切られた――息子でエンジニアの卵と言う二十ぐらいの青年を連れていた。

     

    トーニはたいそう饒舌で、息子に経験を積ませるために是非、この工事を請け負いたいと思っていること、そのために、会社の利益をぎりぎりまで削った破格の見積額を提出した事を説明し、彼の会社の仕事ぶりを見せるために、彼が現在請け負っている工事現場に私達を案内した。

    トーニはその後、私達を昼食に誘ったが、息を吸う間もなく喋り続けるトーニに少々辟易していた私は、翻訳の仕事が残っている事を理由に先に家に戻った。

     

    ロメオがようやく帰宅したのは六時過ぎのことだった。
    ああ昼食などに行かなかったのは大正解だったと、私は密かに胸をなでおろしたが、ふとロメオがただならぬ表情をしている事に気が付いた。

     「何かあったの?」

    私はびっくりして尋ねた。

    ロメオは殺人現場でも見てきたような顔をしていた。

    「大変な事が判ったんだよ」

    「大変な事?」

    「この競争入札の裏でとんでもない陰謀が仕組まれていたんだ」

    「陰謀?」

    私は訳が判らなかった。

    「そうだよ。僕もまだ信じられないけど――小グリエルモが推薦した建設会社に落札させるために、マリアンナと建築家と入札に参加した建設会社がグルになって、入札額を操作してるって――」

    私は自分の耳を疑った。

    「何言ってるのよ。マリアンナが――マリアンナがグルだなんて、そんな馬鹿な事があるわけないじゃない?

    トーニさんはきっと勘違いしてるのよ」

     私は笑った。こんな降って沸いたような話を信じられるわけがなかった。

    しかし、ロメオは真剣だった。この日の午後、ロメオを自宅に招いたトーニは驚くべきことを言い出した。

    トーニは入札書提出期限日の十二月二十二日に入札書を入れた封筒を密封してマリアンナの事務所に届けた。

    ところがその翌日、彼の息子がエレベータの卸売業者にガリエラ通りの建物に取り付けるエレベータの仕様について詳しく聞くために電話したところ、この卸売業者は「あんたの会社が出した見積額は他の参加会社より百万ユーロも低いようだけど、本当に大丈夫なのかい?」とうっかり口を滑らしたのだ。

    息子から話を聞いたトーニがすぐにこの卸売業者に電話をかけ直して詰問したところ、卸売業者はトーニが入札書に記した見積もり額を正確に知っていると白状した。

    トーニは彼の話が事実であることを示す為に、ロメオの目の前でこの卸売業者にオンフックモードで電話をかけた。そして卸売業者はよもや発注者のロメオが聞いているとは知らずに、驚くべき事を喋り出したのだ。

     ロメオはトーニが録音した卸売業者との会話を私に聞かせた。

    会話を要約するとだいたい次の様な内容である――入札書提出期限日の翌日、一月二十三日に入札書は密かに開封され、その内容はトーニ以外の参加業者とグリエルモ建築家に知らされた。

    トーニ建設会社以外の参加業者は裏で談合行為を行っており、小グリエルモが推薦する建設会社に落札させるために示し合わせて見積もり書を作成した。見積もり額は大幅に水増しされており、その差額はチェザリーニ/小グリエルモ、そして他の参加業者の間で山分けする予定だった。

    だから入札書を盗み見た彼等はトーニ建設会社の見積額が予想外に低い事を知って焦った。このままでは、トーニ建設会社が落札してしまう。

    そして卸売業者のところに一通のメールが届いた。

    トーニ建設会社が信用できない悪徳会社だと言う内容の文面に署名して欲しいと依頼するメールだった。揉め事に巻き込まれる事を嫌がった卸売業者は、署名を拒否した。卸売業者はメールの差出人が誰か、なかなか口を割らなかったが、トーニが執拗に問いただすと、ついにグリエルモ建築事務所だと白状した――

     

    あまりにも衝撃的な内容に私は体中から血の気が引いていくのを感じた。

    様々な想念が頭の中で入り乱れ、混乱した。

     

    談合――この言葉は、日本のニュースで何度か耳にしたことがある。

    何処何処のダムの建設を巡って、結構有名な企業が談合を行ったとか、公開入札で何処何処が談合行為を行ったと新聞やニュースで騒がれ、問題の企業のお偉いさんが報道陣の前で頭を下げる姿がニュースの映像で流れるのを見たことがある。

    何億円という金額が取り沙汰され、ああ、お金のあるところにはあるんだなあ――と他人事のように聞き流していたものだ。

     

    でも、それは、新聞やニュースでしか目にしない、私のような一般人には縁のない遠い世界の出来事だと思っていた。

    まさか、その談合が、自分のこんなに身近で、いや、まさに自分達に対して行われる日が来ようとは、どうして想像出来ただろう。

    確かに競争入札前のマリアンナの行動には不審な点が多かった。

    しかし、私達の知らないところでこのような恐ろしい陰謀が仕組まれていようとは、どうして想像出来ただろう?

    私はまだ自分の耳が信じられなかった。

     

    「信じられない――マリアンナがそんな――あの親切なマリアンナが――」

    私は呆然としていた。

    「僕もだよ。でも彼は――トーニは僕の目の前でこの卸売業者に電話をかけたんだよ」

    「この卸売業者が言った入札参加業者の中に私達が選んだ建設会社は含まれていなかった。ファルネーゼに紹介してもらったもうひとつの会社も無かった。彼等はどこに行ってしまったの?」

    「トーニが入札の指名通知書と要綱を受け取ったのは十二月十日だったそうだよ。

    提出期限は二十二日なのにだよ?

    トーニは締め切りに間に合わないようにマリアンナがわざと通知を遅らしたに違いないって怒っていた。

    でも彼は土日も徹夜して、何とか二十二日の締め切りに間に合わせたんだ。

    おそらく、僕達が選んだ他の建設会社も十日に通知を受け取ったんじゃないかな?

    それで、きっと間に合わなくて辞退したんだよ」

    ロメオはそう断言した。

    「――私は信じない。マリアンナがそんな恐ろしい陰謀に関わっているなんて――

    そんな事、信じられない――」

     

    私は混乱していた。

    マリアンナはジョルジョーネやファルネーゼを中傷して追い出そうとしたりと、時として好き嫌いが極端過ぎるところはあったが、この分野の素人である私達を献身的に支えてくれていた。

     

    「でも、君も録音を聴いただろう?

    入札書の内容が明らかに漏れているんだよ。入札書を管理しているのはマリアンナだ。

    彼女以外、入札書を開封出来る人間はいないんだよ」

    「トーニは封筒をどんな風に封印したの?

    開封されたかどうか見れば分かるのかしら?」

    「トーニは封筒を封蝋で封印して印璽まで押したと言っていた。

    だから、もし一度開封してもう一度封をしたのであれば、すぐに判るはずだって」

    「私は――封筒をこの目で確認するまでは、こんな話は信じられない」

    私はきっぱりと言った。

    「この録音を聴いてもかい?」

    「この卸売業者だって本人だとは限らないでしょう?

    もしかしたら、トーニが、自分が確実に落札するために、知り合いに一芝居打たせたのかもしれない」

    私は言い張った。

    この陰謀説を一瞬にして信じるには、私はあまりにも絶大な信頼をマリアンナに寄せていた。

     

    翌日、私とロメオはこの卸売業者が本物かどうか確かめることにした。

    入札心得書にあったエレベータのメーカー名をインターネットで検索すると、このメーカーのイタリア国内の卸売業者は一人しかいなかったのですぐに判った。

     

    「フォン・ブルナー、この男に間違いないよ。オランダ人だと言っていた。パドヴァに事務所があるんだ」

    責任者の名前を見つけたロメオは叫んだ。

    「声を聞いたら、昨日の人と同一人物か分かる?」

    「うん。外国訛りの特徴のあるしわがれ声だったから、聞けばすぐ判るよ」

     

    ロメオはエレベータの問い合わせをするふりをして、このフォン・ブルナーに電話した。

    秘書らしい女性が応対し、フォン・ブルナーに取り次いだ。

    ロメオは何食わぬ様子でエレベータについてニ、三質問すると礼を言って電話を切った。

     

    「間違いない。昨日の電話の声と同一人物だよ」

    ロメオは断言した。

     

    マリアンナの裏切りがほぼ確実となり、私はショックを隠せなかった。

    ロメオから一部始終を聞いたオクタヴィアの衝撃と怒りは大変なものだった。

    そして、彼女の口車に乗せられて、ライモンディ公証人との友好関係を絶ってしまったことを今更ながら深く悔やんだ。

    オクタヴィアの中で昔の恩人に対する感謝の念が泉のように湧き上った。サン・マモロの僧院を奪われたことであれ程怒り、恨んだことをすっかり忘れて、「わたしは彼のおかげで遺産を二十五パーセントも余分に相続する事が出来たわ。彼の功績を考えれば、サン・マモロも、百万ユーロの報酬もきっと妥当だったんだわ」――私は今でも報酬百万ユーロはどう考えても高すぎると思っているが――とまで言い出した。 

     

    そしてある日、ついに意を決し、ほぼ一年半ぶりにライモンディに電話をかけたオクタヴィアは、今まで誤解していたことを謝罪し、彼の尽力を今更ながら理解し、心から感謝していること、また、以前のような友好関係を復活したいと願っていることを口下手な彼女なりに精一杯伝えた。

     

    オクタヴィアからの電話を受けたライモンディの喜びはひとしおで、翌日、ディ・マウロ弁護士が「ライモンディ公証人はオクタヴィアさんから電話を貰って有頂天になっていましたよ。感激して、私にわざわざ電話してきました」とロメオに報告してきたほどだった。

     

    数日後、今度はライモンディがオクタヴィアに連絡してきた。

    ロレンツォの生前からサン・マモロの物件を狙っていた建設会社がライモンディに横取りされた事を逆恨みして、彼に対して訴訟を起こしたので、オクタヴィアの相談役になった経緯を証言して欲しいと頼んできたのだ。

    オクタヴィアは大切の恩人との関係を修復するまたとないチャンスと、喜んで承諾した。

     

    こうして、私達はディ・マウロ法律事務所でライモンディと久々の再会を果たした。

    ライモンディは少しやつれたように見えたが、そのエネルギッシュな存在感は健在だった。

    ディ・マウロがオクタヴィアの証言を取っている間、ライモンディがロメオに尋ねた。

     

    「ガリエラ通りの工事ですが、もう請負契約書に署名しましたか?」

    「いいえ――」

    思いがけない質問にロメオは身構えた。

    「それは良かった。ロメオ君、工事を始めてはいけない。これは私の心からの忠告です」

    「どうしてそう思うのですか?」

    「きな臭い噂があります」

    ライモンディはそう言うと意味ありげな微笑みを浮かべた。

    ライモンディは何もかも知っている。私は改めてボローニャの狭さを知った。

     

    「ロメオ君、以前、私は君達が望むなら出来る限り力を貸すし、相談に乗ると言いましたね?

    今でも、その気持ちは変わっていません。必要ならいつでも私に連絡しなさい。君はこの分野ではまだまだ素人だ。これから沢山の事を学んで行かなければならない。

    私とディ・マウロ弁護士はいわば君の父親です。喜んで君を支えるつもりですよ」

    ロメオを見つめるライモンディの目は温かかった。

     

    私はふと、レンブラントの名画『放蕩息子の帰還』の場面を思い起こした。

    家族を捨てて飛び出していった放埓な息子がやがて落ちぶれて父親の元に戻ってくる。父親は息子を責めることなく温かく迎えるのだ。

    レンブラントはこの慈悲と希望の瞬間を、暖色系の柔らかな筆致で感動的に表現している。

    ロメオは放蕩息子ではないが、この時のライモンディはあたかも失った息子を再び見出して、喜びと感動に包まれている慈悲深い父親のように見えた。

     

     ◇◆◇◆◇

    入札書

     いよいよ入札書の開札日、一月十日がやってきた。

    私とロメオ、オクタヴィアは緊張した面持ちでマリアンナの事務所を訪れた。

    マリアンナはいつになくハイテンションで、ナーバスな感じがした。

    ミーティングルームに通され、各自が席に着くと、マリアンナは開口一番こう言った。

     

    「この指名競争入札では、残念ながら不正が行われたようです」

    「どう言う事ですか?」

    ロメオがさも驚いたような顔をして聞き返した。

    「私は競争入札の参加者の中に不正を働いた者がいると小耳に挟みました。

    それは――トーニ建設会社です」

    この言葉で私の最後の希望は無残に打ち砕かれた。

    やはりマリアンナもグルだったのだ。

    私の心境など知らないマリアンナは得意そうに続けた。

    「彼は、落札するために極端に低い見積書を提出した可能性があります」

    「入札書はまだ開封されていないのに、何故そんなことが分かるんですか?」

    ロメオが間髪いれずに突っ込むと、マリアンナは一瞬言葉に詰まった。

    「それは――前にもそう言う事があったと、知り合いに聞いたからです。

    ですから、今回も落札するために同じ手を使ったのではないかと」

    「その知り合いは誰ですか?」

    「エレベータの卸売業者です。彼は以前、市の事業でトーニ建設会社と一緒に仕事をした事があると言っていました。トーニ建設会社は財政難に陥り、工事を途中で放棄してしまったそうです。ですから、幾ら見積もりが安いからと言ってトーニ建設会社のような小さな会社に工事を依頼したら、後でとんでもない事になります」

    マリアンナはいつになく激しい口調で捲くし立てるように言った。

     

    私の中で失望が怒りに変わり、それはやがて冷静な嫌悪となった。

    マリアンナが喋れば喋るほど、彼女がクロであると言う事実は確固たるものになっていった。私はいつか無言のまま、冷ややかな目でマリアンナを凝視していた。

     

    「それで、肝心な入札書は、開封せずに保管してあるんですよね」

    ロメオが念を押すように尋ねた。

    「勿論です。提出されたままの状態で保管してあります。

    今、持ってきますね」

     

    マリアンナが出て行くと私達は顔を見合わせた。マリアンナが陰謀に加担している事はもはや疑う余地がなかった。

    マリアンナが分厚い封筒を幾つも抱えて戻ってきた。

     

    「これで、全部です。時期がクリスマス前だったこともあって残念ながら提出期限に間に合わず辞退した会社が幾つかありました」

    マリアンナは涼しい顔をして言ってのけた。

     

    私はすぐにトーニ建設会社の封筒に注目した。

    蓋に沿って封蝋の中央を走る亀裂が生々しく私の瞼に焼きついた。封筒が一度開封されたのは、誰の目にも明らかだった。

     

    「入札書はこれだけですか?

    それでは僕達はこれから家に帰ってこれを開封します。請負業者が決まったら連絡します」

     

    ロメオはそう言うと机の上に積み上げられた封筒を紙袋に詰め込んだ。

    当然、この場で開封すると思っていたマリアンナは予想外の展開に面食らったようだった。

    私達は豆鉄砲を食らった鳩の様な顔をしているマリアンナを尻目に慌しく事務所を出た。

     

    バルベリア通りの家に戻った私達はこの問題をどうするか話し合った。

    「カロリーナ・オルランディとの示談もまだ終わっていないのに、こんな事が起こるなんて――」

     

    オクタヴィアはしばらくの間、中世時代の悲劇のヒロインのように打ちひしがれていたが、やがて悲しみは激しい怒りに変わった。

    私は一刻も早く、チェザリーニ/小グリエルモを首にするべきだと主張した。私達はディ・マウロ弁護士に相談し、チェザリーニと小グリエルモに契約解除の通知を送った。

     

    本性を表したチェザリーニ/小グリエルモはオクタヴィアが署名した契約書を盾に法外な違約金を請求してきた。オクタヴィアが署名した契約書にはガリエラ通り、バルベリア通りの設計及び建設工事指揮まで彼等に依頼するとあり、本文中に違約金に関する記述は一切ないものの、建築家協会の定める規則によれば、契約が途中で解除された場合、建築家は違約金を請求することが出来るのだそうだ。

    契約書を見たファルネーゼとジョルジョーネはこんな不透明な契約書は初めて見たと口を揃えた。

     

    「これは詐欺よ」

    私は憤った。

    「何て奴らだ。最初から僕を騙すつもりだったんだ。まさか、本当に違約金を払わなくちゃいけないかな?」

    ロメオはいささか弱気になっていた。

    「馬鹿な事言わないで!そんな訳ないでしょう?

    不正を働いたのは彼等の方なのよ。契約を解除されたって文句は言えないはずよ」

    私はきっぱり言い切った。

    「ああ――わたしがいけないんだわ――わたしが軽はずみに署名したりするから――ああ、『米の水路』であれ程煮え湯を飲まされたのに、またわたしの署名が原因でこんなトラブルに巻き込まれるなんて――」

    オクタヴィアは署名の呪縛から逃れられない運命にあるようだ。

    またもや自らの署名が巻き起こした禍を呪った。

     

    私の頭にある考えが浮かんだ。

    「パドヴァに行きましょう」

    「パドヴァ?そうか、あの卸売業者に会い行くんだね?」

    ロメオは納得した。

    「そうよ。あのフォン・ブルナーとか言う卸売業者は小グリエルモにトーニ建設会社を中傷する文書を送って欲しいとメールで頼まれたんだったわね?

    そのメールを手に入れるのよ。彼等の不正を証明する何よりの証拠になるはずよ」

    「彼等の不正を証明出来れば違約金を払わずに契約を解除出来るわけだね?」

    「そう。メールを手に入れて――それを建築家協会に提出したらどうなるかしら?

    彼等の不正はボローニャ中に知れ渡って大変なスキャンダルになるはずよ。

    グリエルモ建築事務所ってボローニャでも有名な建築事務所でしょう?
    スキャンダルにされたら事務所の信頼が地に落ちる。

    きっと違約金の請求を取り下げてくると思う」

     

      ◇◆◇◆◇

    フォン・ブルナー

     

    二日後、私達はパドヴァのフォン・ブルナーの事務所に向った。高速道路を降りてパドヴァ郊外の田園の中をしばらく走ると道路の右側に運河が現れ、その対岸でヴェネツィア貴族の別荘《ヴィラ》が、まるで競い合うように壮麗な正面《ファサード》と趣向を凝らした庭園を披露し始めた。

    私は車道の両側に並ぶヴィラの華麗な小塔や柱廊《ポルティコ》が張り出した豪奢な玄関をぼんやりと眺めながら、ヴェネツィア―パドヴァ間を繋ぐ運河はヴェネツィア貴族のヴィラが散在することで有名で、ヴィラを巡る運河下りツアーもあると、昔何かで読んだ事をふと思い出した。

    こんな密命がなければ、さぞ楽しいドライブになったことだろう――そう思って私は溜息をついた。

    残念ながら今の私達には車を停め、これらの美しいヴィラを愛でる時間はない。

     

    予め電話でガリエラ通りの着工前にエレベータを見ておきたいとフォン・ブルナーに伝えると、卸売業者は大喜びで私達の訪問を歓迎した。私達の作戦では、まず私達がエレベータを買う気満々であるように見せかけてフォン・ブルナーのご機嫌を取ったところで、メールを渡して貰うように頼むつもりだった。

     

    何としても問題のメールを手に入れなければならない。

    トーニとの通話の録音からこの卸売業者が一筋縄ではいかぬ曲者であることは明らかだったので、私はバッグにレコーダーを忍ばせるほどの用意周到ぶりだった。

     

    カーナビに導かれて静かな住宅街に車を進めた私達は、庭付き一軒家が並ぶだだっ広い通りに車を停めた。

    フォン・ブルナーのオフィスのある建物は、オフィスと言うよりごく普通の民家だった。

    門のベルを鳴らすと、栗色のダックスフンドが広い庭に面した出窓に飛び出してきてキャンキャンと吼え始めた。

     

    事務員らしい太った中年女性が扉を開けて私達を招きいれた。

    民家の一部を事務所に使っているらしく、如何にも郊外の邸宅らしい造りの玄関ホールの壁に様々なモデルのエレベータの写真や設計図が飾られていた。

     

    フォン・ブルナーは熱心な腕時計の収集家と見えて、何百と言う腕時計の入ったガラスケースが壁際に置かれていた。

    フォン・ブルナーは奥で電話中のようだ。中年女性が満面の笑みを浮かべて私達にカップチーノをふるまった。やがて、卸売業者の電話が終わり、私達は奥の書斎に案内された。

     

    フォン・ブルナーの書斎は何処も彼処も書類で溢れかえっていた。

    壁際の書棚にはぎっしりとファイルが押し込まれ、三台ある書き物机は一寸の隙もない程、書類が山積みされていた。出窓を背にした安楽椅子に先ほどの犬が、長い耳を左右にだらしなく広げて寝そべり、大儀そうにこちらを見ていた。

     

    フォン・ブルナーは八十を軽く越えていそうな老人だった。

    卸売業者は上機嫌で私達を歓迎し、エレベータの設計図を見せながら製品の説明を始めた。彼の秘書も兼ねているらしい建築家の卵と言う生真面目な若い女の子が、老人が一言喋る度に口を挟み、彼の説明を建築学的観点から補足した。

    私達は事前に示し合わせた通り、如何にも関心がある風を装い、熱心に聞き入った。

     

    ようやくエレベータの長い説明が終わり、どうでもいい世間話をした後でロメオがいよいよ本題に入った。

    「実は、今日貴方を訪問したのには、もうひとつ訳があるんです」

    そう言ってロメオは私を見た。私は先を促すように黙って頷いた。

    ロメオは意を決し、核心に踏み込んだ。

    「実は、我々はガリエラ通りの建物の工事請負競争入札で不正が行われた事を知りました。貴方は入札書提出期限の翌日、昨年に十二月二十三日には、入札書の内容を詳しく知っていたそうですね?」

    フォン・ブルナーはようやく自分の置かれた立場を理解したようだった。

    それまでの満面の笑みがすっと引き、罠にかかったイタチのような顔つきになった。

    「ああ、トーニですね。彼から聞いたんですね?

    最初から気に食わなかったんだ。よりによって貴方方に喋るなんて。

    貴方方は彼に工事を請け負わせるつもりですか?」

    「それは、まだ決めていません。」

    ロメオは用心深く答えた。

    「貴方が十二月の時点でトーニ建設会社の見積額を知っていたのは事実なんですね?」

    「トーニって誰ですか?一体何の話をしているんですか?」

    それまでしたり顔でいちいち口を挟んでいた建築家の女の子は話の急展開に混乱していた。

     

    「確かに私は十二月二十三日に入札に参加した全ての会社の見積額を知りました」

    フォン・ブルナーは意味ありげな笑みを浮かべて肯定した。

    「誰から聞いたんですか?グリエルモ建築家ですか?」

    「そうです――いや、正確には彼の友人から聞きました」

    「友人とは誰ですか?」

    「それは、残念ながら言えません。私に言える事は、入札書は二十二日に開封され、翌日には皆が入札書の内容を知っていたと言う事だけです」

    「皆とは、誰ですか?」

    今度は私が訪ねた。

    「建築家と建設会社と、それから何とかと言う女会計士ですよ」

    「マリアンナ・コソットですか?」

    「さて、そういう名前なんですか?私は彼女と直接話したことはないので、名前は知りません。でもその女もグルだと言うのは聞いています」

    「これは明らかに詐欺です。そうは思いませんか?」

    ロメオは厳しい口調で言った。

    「勿論、疑う余地もなくこれは詐欺です。

    しかし、私は貴方方が何故私にこだわるのか判らない。

    私はこの一件には関係ないし、面倒に巻き込まれるのもごめんです。

    私にとって重要なのは、エレベータを一台でも多く売る事だけです。今日、貴方のために時間を割いたのは、エレベータが売れると思ったからですよ。

    いやはや、すっかりしてやられました」

    フォン・ブルナーは恨めしそうにロメオを睨んだ。

    「でも、貴方はメールを受け取りましたね?

    トーニ建設会社を中傷する文書に署名して欲しいという――」

    フォン・ブルナーはますます抜け目のない顔になった。

    「さて、そんな内容のメールを受け取ったかもしれないし、受け取らなかったかもしれない。

    何しろ、私は毎日百通以上のメールを受け取るんです。いちいちメールの内容を覚えていませんよ」

    フォン・ブルナーはやんわりとした調子でとぼけると、ずるそうな笑みを浮かべた。

    「メールって何ですか?一体何の話をしているんですか?メールって何の事ですか?」

    すっかり置いていかれてしまった若い建築家がイライラして質問を繰り返したが、誰一人、彼女の言葉に耳を貸す者はなかった。

    私達は、お互いに一歩も引かずに睨み合い、緊迫した空気が流れた。

     

    フォン・ブルナーは明らかに動揺していたが、それでも鷹揚な微笑みを絶やさなかった。

    ――想像以上の狸親爺だ。

    私は心の中でそう思った。

     

    「でも、貴方はトーニさんにメールの差出人はグリエルモ建築事務所だと、はっきり言いましたよね?」

    「あのお喋り男が!」

    フォン・ブルナーが悪態をついた。

    「やはり、グリエルモ建築家が差出人なんですね?」

    「――そうだったかも知れません。何しろ年末で忙しい時期でしたから、よく覚えていないのです」

    「では、そう言うメールを受け取ったことは認めるんですね?」

    私は鋭く突っ込んだ。

    「ああ、そうでした。そんなメールがありました。でも私はその話に乗らなかった。署名はきっぱり断りました。前にも言ったように、私の目的はエレベータを売る事です。そんな厄介事に関わるのは嫌ですし、私はこうした不正には反対ですからね」

    フォン・ブルナーは相変わらず柔和な、偽善的にさえ見える微笑を浮かべながら言った。

    「貴方がグリエルモ建築家からメールを受け取ったことを我々の弁護士に証言して頂けますか?」

    弁護士と聞いてフォン・ブルナーの表情は硬くなった。

    「まさか、建築家を訴えるつもりじゃないでしょうね?」

    「いえ、そんなつもりはありません。ただ建築家との契約は解消するつもりです。グリエルモ建築家は法外な違約金を請求してきていますので、彼等が契約を破棄されても当然な不正を働いたという証拠が必要なのです」

    「私は、不正には反対ですから、必要なら事実を証言します。ただし、それは法廷で裁判官に尋問された場合に限ります。裁判所から証人として正式に召喚されるまで、私は誰の前でも証言しませんし、勿論、証言書に署名するつもりもありません」

    老人は頑として譲らなかった。

    「私はごたごたに巻き込まれるのは嫌なんですよ。今回の件は確かに卑劣な陰謀です。

    しかし、グリエルモ建築事務所は私の大切な顧客なんですよ。私の立場も分かって頂きたい。もし法廷の証人台に立たねばならなくなったら、宣誓する以上、私は真実を述べます。

    トーニ氏の軽率さのために、貴方方に押しかけられた私の身にもなって下さい。

    私は何も悪い事はしてないんですよ。グリエルモ建築事務所の申し出をきっぱり断ったんですから」

    ロメオは戦法を変えた。

    「良く判りました。貴方にとって顧客との人間関係が大切なのは判りますから無理に証言してくれとは言いません。ただしひとつ重大なお願いがあるのです。例のメールのコピーを是非、頂きたいのです」

    フォン・ブルナーはニヤニヤ笑った。

    「それは無理ですよ」

     

    それから又押し問答が続いた。フォン・ブルナーはやはり一筋縄ではいかない老獪な狸親爺だった。しかし、私達もここまで来て手ぶらでは帰るわけには行かなかった。私達はまるまる一日かけて粘りに粘った。そして、ロメオがガリエラ通りの他にバルベリア通りにもアパートメントを持っており、いずれ大掛かりな修復工事をするつもりであることを示唆すると老人の態度が変わった。

    抜け目のないフォン・ブルナーは、ロメオの機嫌を取れば、エレベータが二台売れると見込んだのだろう。ぶつぶつ言いながらも、最終的には問題のメールを探し出して印刷してくれた。

     

    私達はこの戦利品を手に意気揚々とボローニャに戻った。

    そして、この貴重なメールによって私達の形勢は逆転した。メールの存在をチラつかせると、小グリエルモは違約金請求を取り下げる代わりに、全てを内密にして欲しいと、違約金を請求してきた時の剣幕が嘘のようなしおらしさで和解を求めてきた。

     

    父親が一代で築き上げたグリエルモ建築事務所の威光と名声をこんなことで傷つける訳にはいかないと判断したのだろう。チェザリーニは悔しがったが、建築家の小グリエルモが降りると言うのでは仕方がない。渋々、契約解除に応じた。

     

    こうして、マリアンナ、チェザリーニ/小グリエルモ、建設会社を巻き込んだ競争入札を巡る詐欺は失敗に終わった。

    オクタヴィアの回りに張り巡らされた陰謀の網は、彼女に触れることなく消滅したのだ。


     ◇◆◇◆◇

    解決

     二月十二日、ついにカロリーナ・オルランディとの示談が執り行われた。示談には双方の弁護士だけが出席した。私達は結局、このカロリーナ・オルランディに会う事はなかった。

    こうして私達を一年半近く悩ませたカロリーナ・オルランディ問題はようやく解決した。

     「結局、カロリーナ・オルランディに会う事はなかったなあ――」

    「残念?」

    私はからかう様に尋ねた。

    「どうかな――彼女には随分苦しめられたからね」

    ロメオは笑った。

    「カロリーナはお義母さんの従妹になる訳ね。なんだか不思議ね。ロレンツォがロメオのお祖父さん、カロリーナはロメオの従叔母、みんなロメオの親戚なのね」

    私は歌うように言った。

    「そうだね。でもやっぱり実感が沸かないよ。ロレンツォは祖父かもしれないけど、祖父らしい事は何もしてくれなかったからなあ。

    祖母や母さんに対するような愛情は持てないよ」

    ロメオの表情は複雑だった。

    「母さんは裁判所に正式にDNA鑑定を申し込みたいと言っているよ。

    前にマリアンナの知り合いの医者が行ったDNA鑑定はあくまでも非合法な鑑定だからね。ディ・マウロ弁護士は遺産や金銭が絡んでいなければ、裁判所は割りと簡単に鑑定を許可してくれると言っている」

    「そう――鑑定が許可されれば、正式にロレンツォの娘として認められるのね」

    「母さんは迷ったみたいだよ。ロレンツォの娘として死後認知されると言う事は、つまり養父だったアルベルト・セーラの認知を取り消す事を意味しているからね。

    母さんは、自分にとっての父親はアルベルトだけだと言っている。

    だけど、第二、第三のカロリーナ・オルランディが現れないとも限らない。

    ボローニャにはアンジェリ家の財産を狙っている人間がまだまだ沢山いるから、またロレンツォやジュセッペの親族を名乗る者を担ぎ出してくる連中がいるかもしれない。

    だからディ・マウロ弁護士もちゃんとしたDNA鑑定を受けておくべきだと言っている。

    母さんは自分の身を守るためにDNA鑑定をするんだ」

    「そうね――」

    私は頷いた。

     

    カロリーナ・オルランディとの示談が終わると、オクタヴィアは憑き物が落ちたように晴れやかになった。ようやく自分がロレンツォの娘だと言う事実と向き合えるようになったのかもしれないと私は思った。

    チェザリーニ/小グリエルモが担当していたバルベリア通り、ガリエラ通りの修復プロジェクトはジョルジョーネが引きついだ。陰謀に加担したマリアンナは間もなく私達の元を去ることになるだろう。

     

    私は二月の寒々とした空を見上げた。気のせいか今日の空は一段と青く、一点の曇りもないほど澄んで見えた。

    「ヴィラ・マルヴァジアに行ってみようか?」

    突然、ロメオが言った。

    ヴィラでは今、小塔を工事している。

     

    ふとカロリーナ・オルランディには姉がいたというロンディーニ婆さんの言葉が私の脳裏に蘇った。そして一瞬、精神病院で孤独に死んでいった狂女マリア・オルランディの嘲るような笑い声を聞いたような気がした。

     

    「いいわね!ファブリーニ達にも、全てが解決したことを報告しなくちゃね!」

     

    私は過去の亡霊を追い払うように元気良く返事をすると、ニッコリと微笑んだ。


    終






     

     
     
     
    イタリア在住。義母がボローニャの資産家の法定相続人のひとりとなり、壮絶な遺産相続争いに巻き込まれる。当時、心配する親に出来るだけ分かりやすく状況を説明するために、事の成り行きを小説仕立てで書いておいたものを公開することにしました。

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