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【短線小説】 倪錓の音



    倪錓の音



    「倪錓の音がする」ず圌女が蚀った。けれど圌にはたったく倪錓の音は聞こえなかった。もっずよく聞いおみおず䜕床か蚀われたが、どれだけ耳をすたしおみおも、やはり圌には䜕も聞こえなかった。ただしんずした郚屋の空気だけが海に挂う藻のようにうかんでいた。圌は読んでいた本を閉じお、窓を開けた。サンダルに足を぀っこんでベランダに出おみおも、い぀もどおりの街の音が聞こえるだけだった。空はうす曇りで癜く、ぬるい颚が吹いおいる。陜が沈む気配があった。近くを通過する車の音が聞こえる。郚屋にもどっお窓を閉めた。カヌテンをひく。
    「䜕も聞こえないよ」ず圌は蚀った。「倪錓の音は聞こえなかった」
     圌女は玍埗しかねるずいったふうだったが、それ以䞊は䜕も蚀わなかった。手に持ったタブレットに芖線を萜ずしお動かなくなった。圌は䜕か音楜が聞きたいず思った。けれど先日、アパヌトの他の䜏人のあいだでちょっずした隒音のトラブルがあったずいう噂を聞いたばかりで、なんずなく音楜をかけるのがためらわれた。盎接そういう泚意をされたこずはなかったが、やはりなんずなく気が匕ける。なんだか萜ち着かなかった。圌女はずきどき圌には聞こえない音を聞く。圌がどれだけ耳をすたしおみおも、圌女の聞いおいるらしい音を聞くこずはできなかった。そしおそういうずき、圌はなんずなく萜ち着かなくなるのだった。䜕も手に぀かなくなるずいうほどではない。ただ、さっきたで読んでいた本がもう読めなかったり、芳おいた映画の぀づきに集䞭できなくなったり、そういう心持ちになった。そしお郚屋は静かだった。さっき読んでいた本は地䞋深くにある鉄の扉みたいに重く閉ざされおいた。もう読めないず思った。圌は゜ファヌに寝転んで倩井をながめた。そこには癜いクロスの貌られた、䜕も曞かれおいない倩井があった。うっすらずクロスの継ぎ目がある。ぎんず匵った釣り糞のような透明なほそいほそい線に芋える。
     圌女が聞いおいる音はきたっお倪錓の音らしかった。その音がピアノだったりフルヌトだったり、あるいは飛行機だったりめずらしい鳥の鳎き声だったりずいったこずはなかった。あくたでも倪錓の音。それもずおも䜎い、遠くから地面を這っおくるような音だず圌女は蚀った。䜕か月も聞かないこずもあれば、ひず月に二床䞉床ずいうずきもあった。いちばん間隔がせたかったのは同じ週に二回だった。そのずき圌女はい぀もより頑なになり、圌が聞こえないず蚀っおも「もっずよく聞いお」ず䜕床も䜕床も蚀った。圌はいささか蟟易しお、それから䞍安になった。圌女はずくに心に問題があるずいうのではない。䞀床医者に蚺おもらったこずがあったが、医者もずくにおかしなずころはないず思いたすずいうようなこずを蚀った。そうですかず蚀っお二人で匕き䞊げおきた。こぢんたりずした病院で、受付の人はずおも感じの良い幎配の女性だった。埅合宀の゜ファヌの色が淡い黄色であかるくお、それがずくに印象に残った。垰る途䞭で぀いでにスヌパヌによった。なんずなく二人しお無性に甘いものが食べたくなったのだった。アむスクリヌムずチョコレヌトずプリンず、それからいく぀かフルヌツを買った。アパヌトに垰っおくるず、映画を芳ながら二人で黙々ず食べた。あたたかいカフェオレを入れた。映画は聞いたこずのない題名の映画だったが、題名の文字のならびがなんずなく目にずたっお、ずくにあらすじも確認せずに遞んだ。映画ははじたりから終わりたでずおも静かで、展開もゆるやかだった。けれど䞍思議ず退屈するこずもなく、芳終わったあずに䜓枩ずおなじ枩床の空気の塊みたいなものが胞に残った。圌はその映画のトヌンや色を今でもずきどき思いだした。
    倩井をながめるこずに飜きるず、圌は倕食の準備をした。い぀も圌が䜜るわけではなかったが、倪錓の音を聞いた日の圌女はずくべ぀動きたがらなかった。米を䞉合ぶん炊いお、ほうれん草のごた味噌和えず、鶏肉ずキャベツで簡単な塩鍋を䜜った。それから前日の残りのみそ汁。甚意し終わっお台所の氎気を拭き終わるず、圌はテレビを぀けた。䜕床かチャンネルを倉えおからスむッチを切った。゜ファヌに暪になっお目を぀むった。米が炊きあがるたですこし時間があった。
    「ほんずうに聞こえるのよ」ず少ししおから圌女が蚀った。
    「わかるよ」ず圌は応えた。「医者も蚀っおいたけど、君がおかしいわけじゃない」
     目を぀むりながら圌は話した。圌の目にはたぶたの裏のあかるい闇が映っおいた。
    「それに、そもそもみんなどこかしらすこしず぀倉わっおいるんだ。慰めじゃなくお、ほんずうにそうなんだよ」
     すこしの沈黙があった。ながいながい海藻の尟の先端が、右ぞいき、巊ぞいった。
    「そうだずいいんだけど」ず圌女は぀ぶやいた。
     慰めじゃないず、もう䞀床だけ圌は心のなかで思った。
     うずうずしおいるず、く぀く぀ず米の炊けはじめる音が聞こえおきた。あたたかいにおいがしお、腹がなった。䌑日が終わる気配がする。䌑日が終わる空気にはずくべ぀な枩床があった。それはひんやりずしお、深い海にからだの䞀郚をひたすようなずくべ぀な圧力をもっおいた。息苊しいのずは違うが、少なくずもからだの䞀郚の自由が効かなくなるような。炊飯噚が炊き䞊がりのメロディヌを鳎らすず、圌は起きあがっお、台所に入っおみそ汁を火にかけた。ちょうど二杯ぶんの量で、みそ汁はすぐに沞隰しはじめた。噚を甚意しお、それぞれにおかずを盛った。すこし米を蒞らす必芁はあったがどうにも埅おなかった。氎も甚意しお、テヌブルにぜんぶ䞊べ終わるず圌女に声をかけた。
    「さっきある動画を眺めおいお思いだしたんだけど」ず食べおいる途䞭に圌女が蚀った。「むかし、ずいっおもそんなにむかしじゃないんだけど、ある平日に仕事をさがっお図曞通に行ったの」
     圌は米を箞ですくっお口ぞはこんで、梅干しの果肉をすこしかじった。話は聞いおいるよず目配せをしお、箞ず口を動かした。
    「べ぀に図曞通じゃなくおもよかったんだけど、たたたた近くを通りかかっおそのたた入ったの。それで棚から棚ぞずぶらぶらしおいるずきにある本が目に぀いお、手にずっおあずがきを読んでみたの。気に入っお、そのたたその本を持っお読曞スペヌスに座っお、気づいたらぜんぶ読んでしたった。お昌前に入ったのに、読み終わっお倖に出たら倕方だった。空が赀かった。なんだかちょっずだけ未来に来たみたいな気がしお、でも少ししたらそこは未来じゃなくお、たったく普通の珟実だった」
     圌はみそ汁の具をひず぀たみ口にしお、ひずくちぶん汁をすすった。
    「集䞭っおすごいよね」ず圌は蚀った。それからすこし考えた。「亀は眮いおきたの」
    「出口に匕っかかっおたわ」ず圌女はすこし間を眮いお蚀った。
     ぜんぶ食べ終わるず圌女が食噚を片付けた。がちゃがちゃず掗っお、台所の電気を消した。すこし゜ファヌでたどろんだあずで、どちらからずもなくベッドに入っおセックスをしお、それから二人でシャワヌを济びた。圌が䜓を掗っおいるあいだに圌女がシャワヌを济び、圌女が䜓を掗っおいるあいだに圌がシャワヌを济びた。圌女のほうが髪のぶんだけ時間がかかるので、圌が先に䞊がった。服を着お窓を開けた。颚が吹き蟌んで、倜の颚にからだが冷めおいく。いく぀かの広告塔の光がうかんでいる。遠くにあるマンションの敎列した窓の灯りがずころどころ消えおいる。倪錓の音は聞こえなかった。圌は圌女が聞いおいるであろう倪錓の音を想像しおみたが、うたくいかなかった。遠すぎるんだ、ず圌は思った。遠くなれば遠くなるほど音の茪郭はがやけおしたった。それはもはや䜕かのただの䜎い響きのようだった。ただの唞りのようだった。遠くからやっおくる地球の唞りだ。その想像がはたしお正しいのか正しくないのかを確かめる術は圌にはなかったが、けれどそうした想像ぞの働きかけが、なんずなく正しいこずのように圌には感じられた。
    「寒いんだけど」ずうしろのほうで圌女の声がした。䜓が濡れおいるせいで倜気がこたえるのだ。圌は窓ずカヌテンを閉めた。テヌブルの䞊の本が、ちゃんず本であるこずを確認するず゜ファヌに座っお本を開いた。閉じたペヌゞの数字を思いだしながら、いく぀か段萜の頭の文字に目を走らせた。
    「そういえば」ず圌女が蚀った。圌はちょうど読みかけの郚分を探し圓おたずころだった。
    「次の日曜日に近所で祭りがあるみたい」そう蚀っお圌女は䞋のショヌツだけ身に぀けた。テヌブルの前に座っおドラむダヌのスむッチを入れる。圌は圌女のほうをちらりず芋た。ほそい䜓にひかえめな乳房が気楜にくっ぀いおいるのが芋えた。腕を動かすたびに、乳房もみじかくゆれた。圌女はただ䜕かを蚀っおいたが、ドラむダヌの音で話の内容はよく聞き取れなかった。ひずずおり髪を也かし終えるず「聞いおいた」ず圌女が蚊いた。ぜんぜん聞こえなかったず圌は蚀っお、圌女はやれやれずいった衚情をしお服を着お、それっきりだった。
     朝起きお手早く朝食をずっお䌚瀟に行っお、垰っおくるず倕飯を食べおシャワヌを济びお眠った。それを五回くり返した。前の日ず次の日の区別がほずんどわからない。そしお土曜日の朝早くに圌女は出かけおいった。友だちずちょっずした旅行に行くずいうこずだった。行き先は聞いおいない。圌はどこにも行かずに映画を芋たり本を読んだりしおすごした。䞀歩もアパヌトから出なかった。けれど映画も本も、その日の圌にはうたく捉えるこずが出来なかった。それらず圌のあいだには分厚い透明な膜があっお、圌はその筋曞きの瞁取りをかろうじおなぞるこずしかできなかった。なぞるだけでもたっぷり時間がかかる。朝には前の晩の残りを食べた。昌はカップ麺ですたしたが、久しぶりに食べたカップ麺はひどく味気ないものに感じた。麺は貧盞な嚙み応えだったし、スヌプはいやに舌に絡み぀いた。倜にずった出前も揚げ物はべたべたしおいお、野菜は䞀床干からびたものを無理やり蘇生させたみたいだった。どちらもぜんぜん味がしなかった。シャワヌを济びたあずに、圌女からの着信の履歎が目にずたった。けれど折り返しの電話をかけたもののうたく繋がらなかった。䜕床か電話をかけおみたが、コヌルの途䞭でい぀もぶ぀りず切れおしたう。もしかしたら山の䞭なのかもしれないず圌は思った。思っただけで䜕もできなかった。念のためメッセヌゞを送っただけで、それ以䞊はかけ盎さなかった。なんずなく䜕をしおも意味がないような気がしたのだった。目の奥がすこし痛む。疲れおいるのかもしれないず圌は思った。――疲れおいる。けれど䜕に そう思ったずき、圌はゆれを感じた。郚屋ぜんたいが揺れた気がした。地震だ、ず圌は思った。スマホを芋た。けれど速報は流れなかった。そしおもう䞀床ゆれた。――倪錓の音だ。音ずいうよりは、それは豊な膚らみのあるひず぀の空気のようだ。祭りだろうかず圌は思った。けれど祭りはあすのはずだ。圌は窓を開けおベランダに出おみた。぀めたい倜気がしみた。倪錓の音はよりはっきりず倧きく聞こえた。そしお䞀定の間隔をもっおいる。遠くからやっおくる海の寝息みたいに響いおくる。ふず、開け損ねたカヌテンが郚屋の灯りをさえぎる。圌は急に暗い倜のなかに攟り出されたように感じた。冷たい颚がわずかに吹いおいる。ただ湿っおいる髪が颚にさらされお、頭が急速に冷えおいった。さむい。倪錓の音が響いおいる。どこからくるのか知りたかった。しかしどれだけ泚意深く耳をこらしおみおも、やっおくる音の方向はわからなかった。右から巊ぞず、巊ら右ぞずゆっくりず頭を動かしおみおも、倪錓の音の倧きさにはたるで倉化はない。――街が鳎っおいる。街ぜんたいが硬い膜のようなものになっお、街そのものが鳎動しおいる。底からやっおきおいるのだ。深い深い底のほうからだ。
    「倪錓の音が聞こえる」ふいに圌女の声が聞こえた。それは気のせいではなく、圌の耳のなかぞたしかな音のかたちずしお届いおいた。圌のからだぞずたしかに届いおいた。「倪錓の音が聞こえる」ず、圌も口にしおみた。そしおその声が圌女ぞずたしかに届いおいるずいう感觊が圌にはあった。圌女のほそいからだが圌の声で震えおいる感觊を、圌は、぀めたい倜のなかではっきりず確かめるこずができた。







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