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「俺、3人と付き合ってる」と言う同僚と、出身高校を隠した私。アドラー13年実践の作業療法士が解く、劣等感・劣等コンプレックス・優越コンプレックスの正体

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    事務所で、ある会話が始まった瞬間、私は「あ、またこれか」と思った。

    お局的な存在の職員が、もう一人のフキハラ職員に向かって、こう言ったのだ。

    「あんた、どこの高校出たんやった?」

    明らかに、マウントを取るための質問だった。出身校で、相手の格を測ろうとしている。この手の会話は、これまでにも何度かあった。だから私は、内心うんざりしながら、聞き流そうとしていた。

    ところが、フキハラ職員のほうが、急にこちらに話を振ってきた。

    「kirinoha君は、どこやった?」

    ——困った。

    正直に言えば、私は事務所の中で、いちばん偏差値の高い高校を出ていた。だから、ここで馬鹿正直に校名を言えば、その場の空気が、確実に変わる。

    それでも、嘘をつくのも違う。私は、自分の出身校を答えた。

    すると、案の定、少し気まずい空気が流れた。マウントを取ろうとしていた側の表情が、わずかに固まった。私は、自分が望んでもいないのに、間接的に「優越コンプレックスの応酬」に加担させられたような、嫌な後味を覚えた。

    私は作業療法士16年目、特養勤務のHSP・ISFJだ。アドラー心理学を13年実践してきて、100人近くの方の最期に立ち会ってきた。

    このアドラーシリーズも、今日で10回目になる。これまで「課題の分離」「目的論」「勇気づけ」「共同体感覚」などを書いてきた。今日のテーマは、アドラー心理学を理解する上で、避けては通れない、とても大事な3つの概念だ。

    劣等感。劣等コンプレックス。優越コンプレックス。

    この3つは、言葉が似ているせいで、ものすごく混同されている。でも、まったく別物だ。そして、この区別がわかると、職場の困った人も、過去の恥ずかしい自分も、落ち込む娘も、ぜんぶ同じ地図の上で見えるようになる。

    今日は、きれいごとを抜きで書く。私自身の、思い出すと少し恥ずかしい過去も含めて、正直に書いていく。

    第1章——劣等感は、悪いものではない。むしろ「健全」だ

    まず、いちばん大事な誤解を解いておきたい。

    「劣等感」は、悪いものではない。

    私たちは普段、「劣等感が強い」「劣等感の塊」というふうに、劣等感をネガティブな言葉として使う。劣等感は、ないほうがいい。そう思い込んでいる。

    でも、アドラーは違うことを言った。

    劣等感は、人間が成長するための、健全なエンジンだ。

    アドラーによれば、人間は誰しも「今より良くなりたい」という、向上の欲求を持っている。これをアドラーは「優越性の追求」と呼んだ。難しい言葉だが、要するに「もっとできるようになりたい」「もっと成長したい」という、ごく自然な願いのことだ。

    そして、この「もっと良くなりたい」という願いがあるからこそ、人は「今の自分は、まだ理想に届いていない」と感じる。

    この、理想とのギャップを感じる感覚こそが、劣等感だ。

    つまり、劣等感は「理想に向かおうとしている証拠」なのだ。

    考えてみてほしい。赤ん坊は、立ちたいと願うから、まだ立てない自分にもどかしさを感じて、何度も転びながら立ち上がろうとする。学生は、もっと上手くなりたいと願うから、今の自分の実力に満足できず、練習する。

    劣等感がまったくない人間は、向上もしない。「今のままで完璧だ」と思っている人は、一歩も前に進まない。

    だから、アドラーはこう言った。劣等感そのものは、健康で正常な努力と成長への刺激である、と。

    ここを、まず押さえてほしい。

    劣等感を感じている自分を、責めなくていい。それは、あなたが「もっと良くなりたい」と願っている、健全な証拠なのだ。

    問題は、劣等感そのものではない。劣等感を、どう扱うか。ここから、話が分かれていく。

    第2章——劣等感を「努力」に変えるか、「言い訳」に変えるか

    劣等感を感じたとき、人間が取れる道は、大きく2つある。

    ひとつは、劣等感をエネルギーにして、努力する道。

    「自分はまだできない。だから、できるようになろう」と、現実的な努力に向かう。劣等感が、前に進む燃料になる。アドラーは、これを「補償」と呼んだ。足りない部分を、努力で補おうとする、健全な働きだ。

    もうひとつが、今日の主役のひとつ、「劣等コンプレックス」だ。

    劣等コンプレックスとは、劣等感を「言い訳」に使ってしまう状態のことだ。

    「自分はできない。だから、やらない」「自分はこうだから、無理に決まっている」と、劣等感を、行動しないことの理由にしてしまう。

    ここが、決定的な分かれ道だ。

    劣等感を「だから、やろう」に使うのが、健全な補償。劣等感を「だから、やらない」に使うのが、劣等コンプレックス。

    同じ劣等感から出発しているのに、行き先がまるで逆になる。

    そして、私には、思い出すと胸が苦しくなる、強烈な劣等コンプレックスの経験がある。

    第3章——106kgの私は「太ってるから」を、全部の言い訳にしていた

    高校1年生のとき、好きな子がいた。

    でも、私は告白できなかった。理由は、はっきりしていた。

    自分が、太っていたからだ。

    当時の私は、「こんな太った自分が告白しても、迷惑なだけだ」「どうせ振られる」「太っているやつに、恋愛する資格なんてない」と、本気で思い込んでいた。

    これが、劣等コンプレックスだ。

    「太っている」という事実から生まれた劣等感を、私は「だから、痩せよう」という努力には使わなかった。「だから、告白しない」「だから、恋愛できない」という、行動しないことの言い訳に使ったのだ。

    そして、ここがコンプレックスの厄介なところなのだが、言い訳として使っている間は、ある意味、すごく楽なのだ。

    告白しなければ、振られることもない。傷つくこともない。「太っているせいで、できない」と思っている限り、私は「本当の自分は、痩せさえすればモテるはずだ」という、甘い可能性を、永遠に温存できる。

    挑戦して、それでもダメだったときの絶望を、味わわずに済む。

    「太っているから」は、最高の隠れ蓑だった。恋愛だけじゃない。運動も、おしゃれも、人前に出ることも、ぜんぶ「太っているから」で説明がついた。私は、その言い訳の中に、長い間うずくまっていた。

    これが、第2弾の目的論の回でも書いた「変わらないことのメリット」と、まったく同じ構造だ。劣等コンプレックスは、変わらないでいるための、都合のいい仕組みなのだ。

    ただ、ここで少しだけ、救いのある話も書いておきたい。

    大学に入ってから、私は太ったままだったけれど、仲のいい女の子ができた。1回目の告白は、振られた。でも、私は今度は逃げなかった。2回目に告白して、付き合うことができた。

    結果的に、相手が留年と休学をしたこともあって、その恋は途中で終わった。彼女は、その後ちゃんと作業療法士になったはずだ。

    でも、私にとって、この経験は大きかった。

    「太っているから恋愛できない」は、嘘だったと、自分の身体で証明できたからだ。太っていても、振られても、もう一度立ち上がれば、人とつながれる。あの劣等コンプレックスは、ただの言い訳だったと、はっきりわかった。

    劣等感そのものは、消えなかった。私は太っていた。それは事実だ。でも、その劣等感を「言い訳」に使うのをやめた瞬間、世界は少しだけ動き出した。

    第4章——そして、もっと厄介な「優越コンプレックス」

    ここから、3つめの概念に入る。いちばん厄介で、いちばん日常にあふれているやつだ。

    優越コンプレックス。

    これは、劣等コンプレックスの、いわば裏返しだ。

    劣等コンプレックスが「できない自分」を言い訳にして、うずくまる方向だとすれば、優越コンプレックスは、強い劣等感を抱えた人が、それを隠すために、自分を実際より大きく見せようとする方向だ。

    アドラーは、こう見抜いた。

    過剰に自分を大きく見せようとする人ほど、その内側には、強い劣等感が隠れている。

    自慢する。マウントを取る。肩書きや経歴をやたらと持ち出す。他人を見下す。不機嫌で周りを支配する。

    これらは、一見すると「自信のある人」の振る舞いに見える。でも、アドラーに言わせれば、逆だ。

    本当に自分に価値を感じている人は、わざわざ自分を大きく見せる必要がない。誰かを下げて、自分を上げる必要もない。

    自分を大きく見せなければ不安でたまらないのは、心の奥に「本当の自分は、たいしたことない」という、強い劣等感があるからだ。

    その劣等感を直視するのが怖いから、努力で埋めるのではなく、「見せかけの優越」で、フタをしようとする。これが優越コンプレックスだ。

    冒頭の事務所の話に、戻ろう。

    「あんた、どこの高校出たんやった?」と、出身校でマウントを取ろうとしたお局。

    これは、典型的な優越コンプレックスだ。彼女は、出身校という「過去の肩書き」を持ち出すことで、今の自分の価値を確かめようとしていた。

    なぜ、そんなことをするのか。アドラー的に見れば、彼女の中に、今の自分に対する、満たされない劣等感があるからだ。共同体感覚の回でも書いたが、彼女は人の悪口をよく口にし、不機嫌をまき散らしていた。不機嫌で人を支配しようとするのも、優越コンプレックスの、ひとつの形だ。

    満たされている人は、わざわざ他人の高校を聞いて、マウントを取らない。

    第5章——「俺、3人と付き合ってる」と言う同僚

    もうひとり、職場に、わかりやすい例がいる。

    ある男性職員だ。彼は、ほかの職員に向かって、こんなことをよく口にする。

    「俺、3人と付き合ってる」「2日に1回はデートしてる」「1回離婚したから、もう結婚とかしたくないんよな」

    正直に書くと、それが本当かどうかは、誰にもわからない。本人がそう言っているだけだ。そして、まわりの職員から見て、そういう魅力を強く感じるかというと——これは失礼な言い方になってしまうが——必ずしもそうではない。だからこそ、「本当かな?」という噂が、いつも流れる。

    これも、優越コンプレックスの観点で見ると、すごくわかりやすい。

    恋愛経験の多さや、モテること。それを、わざわざ職場で、頼まれてもいないのに語る。「離婚したから、もう結婚したくない」というのも、「自分は選べる側の人間だ」というアピールに聞こえる。

    本当に恋愛が充実している人は、職場でわざわざ吹聴しない。

    ここで、私は彼を笑いたいわけではない。むしろ、アドラーを13年やってきて、こう思うようになった。

    優越コンプレックスが強い人ほど、その奥に、痛々しいほどの劣等感を抱えている。

    彼が「3人と付き合ってる」と言わずにいられないのは、たぶん、何も言わない素のままの自分では、自分の価値を感じられないからだ。誰かに「すごい」と思われていないと、不安でたまらないのだ。

    これは、責める話ではない。痛みの話だ。

    そして——ここが、今日いちばん書きたいところなのだが——他人事ではない。私自身、まったく同じことを、やっていた時期がある。

    第6章——テストの点数でマウントを取っていた、中学生の私

    中学時代、私は成績が良いほうだった。

    友達と、テストの点数を競っていた時期がある。そして、思い出すと少し恥ずかしいのだが、私はこんなことをしていた。

    自分の点数が良かったときは、わざわざ友達のところに行って、「どうやった?」と点数を聞きに行く。

    これは、本当に相手の点数が気になっていたわけではない。自分の良い点数を、それとなく見せつけて、マウントを取りたかったのだ。

    逆に、自分の点数がいまいちだったときは、あえて誰にも話しかけなかった。比べられたくないから、その話題から逃げた。

    今、アドラーの目で見ると、これは完全に優越コンプレックスだ。

    私は、テストの点数という「わかりやすい優越」を使って、自分の価値を確かめようとしていた。点数が良いときだけ、その土俵に乗り、点数が悪いときは、土俵から降りる。

    なぜ、そんなことをしていたのか。

    たぶん、当時の私は、勉強の成績くらいしか、自分の価値を感じられるものがなかったからだ。太っていて、運動もそれほどできず、恋愛にも自信がない。そんな私にとって、テストの点数は、数少ない「人より上に立てる場所」だった。

    だから、しがみついた。点数で人を見下すことで、自分の劣等感に、フタをしていた。

    恥ずかしい話だ。でも、これを書くのは、優越コンプレックスが「特別な嫌な人」だけのものではなく、誰の中にもある、ということを伝えたいからだ。

    マウントを取りたくなったとき。誰かを見下したくなったとき。自分を大きく見せたくなったとき。

    その奥には、たいてい、隠したい劣等感がある。

    私が中学時代に点数でマウントを取っていたのも、お局が出身校を聞くのも、同僚が恋愛を吹聴するのも、根っこは同じだ。「素の自分では、価値がない気がする」という、痛みだ。

    第7章——だから、出身高校マウントに、私は乗れなかった

    ここで、冒頭の話に、もう一度戻る。

    「kirinoha君は、どこの高校やった?」と振られて、私は自分の出身校を答えた。事務所でいちばん偏差値の高い高校だった。場が、気まずくなった。

    あのとき、私の中に、複雑な感情があった。

    正直に言えば、ほんの一瞬、優越感のようなものが、よぎらなかったとは言えない。「自分がいちばん良い高校を出ている」という事実は、確かにそこにあった。

    でも、すぐに、嫌な気持ちになった。

    なぜなら、私はもう知っているからだ。出身校で人の格を測るという、この土俵そのものが、優越コンプレックスの産物だということを。

    中学時代、点数でマウントを取っていた私は、まさにこの土俵の上にいた。そして、その土俵が、いかに虚しいものか、もうわかっている。20歳前後の高校の偏差値で、30代~40代の人間の価値が決まるわけがない。

    だから、私は、間接的にこの優越ゲームに加担させられたことが、嫌だったのだ。

    私は、自分の出身校を「武器」にしたくなかった。それを誇って、誰かにマウントを取り返したら、私は中学時代の、あの恥ずかしい自分に逆戻りしてしまう。

    だから、出身校のことは、それ以来、自分からは口にしていない。隠している、というより、その土俵に乗らない、という選択だ。

    アドラーが言う「横の関係」とは、こういうことだと思う。

    人を、上か下かで測らない。出身校でも、肩書きでも、恋愛経験でも、テストの点数でも、人の価値を縦に並べない。みんな、違うけれど、対等だ。

    優越コンプレックスは、人を縦に並べたがる。「自分が上だ」と確認したくてたまらない。でも、それは、自分が劣等感という縦の物差しに、まだ縛られている証拠なのだ。

    本当に劣等感を乗り越えた人は、そもそも縦に並べることをやめる。

    第8章——足が遅いと、ぽつんとこぼした娘へ

    最後に、娘の話を書きたい。

    劣等感は、子どもにも、当たり前に芽生える。

    先日、娘が学校から帰ってきて、ぽつんと、こうこぼした。

    「足、遅かった」

    スポーツテストの結果だったようだ。周りの子と比べて、自分は足が遅い。それが、悔しくて、悲しかったのだと思う。

    これは、まさに劣等感だ。「もっと速く走れる子がいる。それに比べて、自分は遅い」という、理想とのギャップ。

    ここで、親としての関わり方が、分かれ道になる。

    「そんなの気にしなくていいよ」と言うのは、簡単だ。でも、それは、娘の感じている劣等感を、否定することになる。劣等感は、健全なものだ。否定する必要はない。

    かといって、「じゃあ、毎朝走り込みなさい」と、いきなり努力を押し付けるのも違う。それは、劣等感を、親の都合で「努力」に変換させようとしているだけだ。

    私が大事にしたいのは、その劣等感を、本人が「悔しいけど、やってみよう」という前向きなエネルギーに変えられるかどうか、だ。

    ここで、もうひとつ、娘のスイミングの話が重なる。

    前回の共同体感覚の記事でも書いたが、娘は選手育成クラスで、いちばん年下で、いちばん泳ぎが遅かった。タイムは伸びているのに、周りも伸びるから、なかなか追い越せない。

    以前、罵倒するコーチが担当していた頃、娘はこの「自分は遅い」という劣等感を、完全に劣等コンプレックスにしていた。「どうせ自分は遅いから」「もう辞めたい」と。劣等感を、逃げる言い訳に変えていたのだ。

    でも、コーチが変わって、環境が整った今、娘は変わった。

    今でも、娘は遅いほうだ。劣等感そのものは、消えていない。でも、その劣等感を、「悔しいから、もっと頑張りたい」「だから、スイミングを増やしたい」という、前向きなエネルギーに変えられている。

    同じ「遅い」という劣等感が、コンプレックスにもなり、成長のエンジンにもなる。

    その分かれ目は、本人の根性ではなかった。安心して挑戦できる環境があるかどうか、だった。

    これは、大人にも、まったく同じことが言える。

    劣等感を、努力に変えられるか、言い訳に変えてしまうか。それは、本人の意志の強さだけの問題ではない。安心して、不完全な自分のままで挑戦できる場所があるかどうか、にかかっている。

    だから、娘が「足が遅かった」とこぼしたとき、私は、こう返した。

    「そっか、悔しかったんやな」

    まず、その劣等感を、否定せずに受け止める。気にするな、とも、頑張れ、とも言わない。ただ、悔しかった気持ちを、横に座って、一緒に感じる。

    その上で、本人が「ちょっと走る練習してみようかな」と思える日が来たら、そのときは、全力で隣を走ろうと思っている。

    劣等感は、敵ではない。

    それを言い訳にすれば、劣等コンプレックスになる。それを隠そうとすれば、優越コンプレックスになる。でも、それを認めて、前を向けば、人を成長させる、いちばん健全なエンジンになる。

    エピローグ——縦の物差しを、そっと置く

    劣等感、劣等コンプレックス、優越コンプレックス。

    似ているようで、まったく違う、この3つ。

    劣等感は、健全だ。「もっと良くなりたい」という願いの裏返しだから。

    劣等コンプレックスは、その劣等感を「だから、やらない」という言い訳に使う状態。106kgの私が、「太ってるから恋愛できない」と、うずくまっていたように。

    優越コンプレックスは、その劣等感を隠すために、自分を大きく見せる状態。中学時代の私が、点数でマウントを取っていたように。お局が出身校を聞くように。同僚が恋愛を吹聴するように。

    この3つを分ける、たったひとつの問いがある。

    私は今、劣等感を、努力に変えているか。それとも、言い訳か、見栄に変えているか。

    マウントを取りたくなったとき。誰かを見下したくなったとき。「どうせ自分なんて」とうずくまりたくなったとき。

    その奥には、いつも、劣等感がある。そして、その劣等感自体は、責めなくていい。あなたが、まだ前を向きたいと願っている、証拠なのだから。

    ただ、それを、言い訳や見栄に使うのは、もったいない。

    人を縦に並べる物差しを、そっと置く。出身校も、肩書きも、恋愛経験も、点数も、わきに置く。

    そして、自分が、自分のペースで、少しだけ前に進む。

    それが、13年アドラーを実践してきて、テストでマウントを取った過去を持ち、106kgでうずくまった過去を持つ私が、たどり着いた、劣等感との、いちばん正直な付き合い方だ。

    明日も、私は事務所のドアを開ける。

    きっとまた、誰かが、誰かにマウントを取る場面に出くわすだろう。

    でも、私は、その縦の土俵には、もう乗らない。

    横に並んで、ただ「おはようございます」と言う。たぶん、それがいちばん、強い。

    あなたは今、自分の劣等感を、何に変えていますか。

    努力ですか。言い訳ですか。それとも、見栄ですか。


    プロフィール

    作業療法士16年目|特養・ユニットケア勤務|元認知症ケア指導管理士|HSP・ISFJ|中学からテニス継続|7歳娘の父|アドラー心理学13年実践|106kgから77kgへ減量|うつ・対人恐怖を経て、薬なしで生きられるようになった現場ベースの発信を続けています。


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    #アドラー心理学 #劣等感 #劣等コンプレックス #優越コンプレックス #嫌われる勇気 #作業療法士 #HSP #自己肯定感


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