メインコンテンツへスキップ
見出し画像

青色の星の花と、曖昧なあの子【短編小説】

     星が落ちているのかと思った。
     紫を溶かしたような、鮮やかな青。五つに割れた花弁には、それぞれ清潔な白い筋が通る。それが星の形に見えた。
     近づいてみると表面はやわらかく繊細な感じがして、遠くに見つけた時よりもその花が本物であることを意識させる。
     以前、誰かにこの花の名前を聞いたことがある。どんな名前だったか。誰に聞いたか。記憶の糸を手繰るけれど、目の前の花とよく似たそれはぶ厚い雲に覆われて、思い出すことができない。
     私は彼に尋ねた。
    「ねえ、この花の名前、知ってる?」
     
     その日は雨が降っていた。昇降口の開かれた扉の向こうで、雨粒が地面を跳ねた。その音を聞いて初めて気がついたみたいに、彼女は呟いた。
    「傘を忘れた」
     背負っているリュックを除けば、教室を出る時から彼女は何も手にしていなかった。そんな彼女の様子から、てっきり下駄箱に傘を置いているとばかり思っていた。
    「先に言ってくれたら、置き傘を貸してあげたのに」
     あまり嫌味っぽくならないように言ったつもりだったけれど、彼女はそうは受け取らなかったみたいだ。切りそろえられた前髪の隙間から見え隠れする眉をハの字に曲げ、「ごめん」と言って俯いた。
    「ここで待ってて。置き傘、取ってくる」
     教室のある四階まで戻るのは、正直面倒だった。けれど彼女を責めるように言ってしまった手前、強引にでも親切に振る舞うべきだと思った。うわばきに履き替えるために足を入れたばかりのローファーのかかと同士をこすり合わせる。
    「そんなの悪いよ。ほら、教室まで遠いし」
     彼女は私のブラウスの袖を引っ張った。
    「…っわ、と、と」
     思いのほか強く引っ張られたことでバランスを崩した私は、つま先に引っかけていたローファーを落として、靴下のままの無防備な左足を土足スペースに着地させてしまった。
     地面と肌を隔てる唯一の布は、瞬く間に水分を吸収し、不快感をも滲ませた。すでに何人もの生徒が下校した後の昇降口の床は、雨が降っているせいも相まって誰かの足跡を写した泥をこびりつけて、それらは清潔とは程遠い見た目をしている。
    「あ、あの、ごめん」
     どうして上手くいかないんだろう。そう思っているのは、私だけではないはずだった。
    「じゃあ、私の傘に一緒に入ろう?ね」
     私がぎこちない笑顔を浮かべると、彼女は安心したのか、緩んだ口元から、いびつな息を漏らした。
     転がっているローファーを左足の指先で弄ぶようにして、正しい向きに起こした。まるで彼女との会話の歪さを隠すみたいに、濡れたままの足をローファーの中に押し込んだ。トントン。硬いつま先を地面に打ちつける。一旦外を歩いてしまえば、雨水にさらされて汚れてしまうのだ。そうなったら内側も外側も、きっと大して変わらない。私の自意識とそれ以外のもの、それらを隔てるものとが混ざり合った時、ローファーの内側にある違和感は私の足にすっかり馴染んでいる。
     雨は大粒で、ぬるく、ずっしりと重たかった。狭い傘の中に身を寄せ合っていると、傘からはみ出した左側の肩は、容赦なく濡れた。この調子では、背負っているリュックの中身まで酷く濡れてしまっていることは安易に想像できた。教科書やノートがふにゃふにゃに波打ってしまった姿を想像すると、それだけで鉛のような重さを背負っているように思えた。
    「大丈夫?濡れてない?」
     リュックを胸の前に持って来て、両手で大事そうに抱いている彼女に尋ねる。彼女はそこに顎の先を埋めるようにして、「大丈夫」と頷いてみせた。
     コンクリートの地面を打つ雨は、だんだんと激しさを増しているようだった。彼女は何かを口ごもってもいるようでもあったけれど、雨音は彼女の声をかき消した。もともと小さな彼女の喋り声は、こんな日はほとんど聞き取ることができない。
     肩は触れてしまうほど近いのに、横並びでは、キャッチボールなんてできない。横並びでやれるものって、一体なんだろう。かけっことか?それじゃあ、彼女と私は敵同士ということになってしまう。チームプレーだったら、二人三脚とか?……それにしては、傘を持つ私の負担は、ずいぶんと大きい気がする。なんだか腑に落ちない。
    「やっぱり狭いね。着くまでに、荷物、濡れないといいね」
     私はいつもより大きく、ゆっくりと発声することを心がけた。
    「え?着くまでって。蛍子ちゃん、まさかお家まで送ってくれようとしてるの?」
     私の意図を察したのか、それとも単純に驚いているだけなのか、今度の彼女の声は、きちんと発せられていて、十分に聞き取ることができた。彼女のことだから、その理由はきっと後者であるに違いなかった。もし仮に、この場合の理由が前者であるとしたら、彼女の返答の内容は明らかにおかしかった。
    「なんで家まで。流石にそこまではしないよ」
    「あっ、ごめん。駅まで一緒に帰ろうっていうことだよね」
    「何言ってるの。今日はまだ帰らないでしょ」
    「どうして。蛍子ちゃん、どこか寄りたいところでもあるの?」
     自分に向けられた悪意に気がつかない彼女に、腹が立った。そのことを私自身が認めると、胃の底の方がふつふつと熱くなった。
    「どうしてって。今日はこれから集まりがあるでしょ?みんなで誕生日の子のお祝いをしようって。…まさかとは思うけど、みんなの寄せ書き、忘れてたりとか……してないよね?」
    「あっ」と言って、彼女は立ち止まった。
     かなり前から企画していた仲間の誕生日祝い。誕生日の今日、放課後、近くのカラオケボックスに集まる予定だった。誕生日の友達にサプライズを仕掛けようと、仲間内で役割分担をして、色々準備していた。本人に気づかれないように、会場には何人かのグループに分かれて向かおうというのも作戦だった。
     サプライズのひとつとして、手作りのフォトアルバムをプレゼントしようということになっていた。せっかくだから寄せ書きをしようということに決まって、一人ずつメッセージを書き込んでいった。一人が書き終えて、次の人に渡すのは私の役割であったから、本人に気づかれないように振る舞うのに結構苦労した。
     順番を最後にした彼女にアルバムが渡ってからというものの、アルバムはなかなか私の手元に戻って来なかった。私は彼女に早く書いてくれるよう何度も催促したけれど、とうとう当日を迎えてしまい、「絶対に今日の放課後までに書き終えるように」と念を押していた。それであるのに。
     彼女は立ち止まった。突然のことだったので、私はそのまま何歩か歩いてしまい、彼女は私の傘の下から外れてしまった。彼女は雨に打たれる。前髪で受け止め切れなかった雨粒はそのまま雫になって滴り、それが流れ落ちる横でまん丸に開かれた目は、キョロキョロと泳いだ。嫌な予感がした。
    「……本当に、忘れたの?」
     彼女は瞬きもせず、黙って私を見つめた。じりじりと下唇を突き出している。彼女はリュックに顔を埋めるように、ゆっくりと頷いた。リュックの紐をかけている肩は、わずかに震えていた。
    ……驚いた。彼女のあまりの間抜けさに。
    「……どこに」
    「たぶん、教室の……ロッカーの中」
     はああああ。大きな溜息をついたのは、彼女ではなくて私だった。先ほどから雨に打たれ続けている彼女は、環境を誤って咲いた花のように萎れ、うつむいて、私がどんな目で彼女のことを見ているのか、知ろうともしなかった。
    「ばっかじゃないの」
     吐き捨てるように言った。本当に、腹の底から何かが噴き出すような気がした。
    「あ、あの、ごめん。本当にごめんなさい」
     うろたえる彼女を追い抜いて、来た道を引き返した。傘の下に収まった肩が濡れることはなかったが、地面に留まった水をかき分けるローファーは水浸しになった。あんなに気にしていたのに、昇降口で湿らせた靴下がどちらの足であったのか、もう分からない。
     ロッカーの中に、プレゼントは入っていなかった。
    「……ないけど。本当は、どこに忘れたの?」
     ずぶ濡れの彼女が教室に到着するなり、扉の開かれた彼女のロッカーの中を指差して問い質した。
    「ごめん。もしかしたら、家に持って帰っちゃったのかもしれない」
     彼女は息も絶え絶えに言った。腰まで伸びた長い髪はプールで泳いだ後のように濡れ、乱れ、海辺に打ち上げられた海藻のように乱雑に絡まり合い、彼女は酷く醜かった。
    「はあ?かもって、何それ」
     私はすでに、彼女に対する苛立ちを隠すことをやめていた。
    「本当にごめん。今から家に取りに帰るから。蛍子ちゃんは先にみんなのところに行って?……その、本当にごめんね?」
    「……」
     「ごめんね?」とあえて疑問形で言った彼女に、また腹が立った。今の彼女には、私の機嫌をうかがう余裕などあってはならないはずだ。
     教室の出入り口に留まったまま、彼女は中に入って来ようとしなかった。私と彼女の間を沈黙が漂った。私の苛立ちを彼女に理解させるために、放課後の誰もいない教室は広すぎた。私は彼女をののしるための言葉を探したけれど、そう都合よく、ちょうどいい言葉なんて見つからなかった。
     ロッカーの扉を乱暴に閉めた。バンッという不快な音が、ただれた空気をつんざいた。そのまま教室を出ようとすると、すれ違いざまに彼女から耳を疑うセリフが返って来た。
    「そうだ、蛍子ちゃん。やっぱり傘、貸してもらってもいい?」
    「え?」
    「さっきは私のために教室まで取りに戻らせるのは悪いと思って断っちゃったけど、なんだかんだ戻って来ちゃったし。これから家に帰るのに、蛍子ちゃんの傘には入れてもらえないからさ」
    「……嫌だ」
    「え?どうして」
     どうして?聞きたいのはこっちだ。どうしてそんなことが言えるの。
     目の前にいる女の子が、不思議で仕方がなかった。ずぶ濡れの姿で、傘を貸してと懇願する女の子を拒む私は意地悪だろうか。
     今さら彼女が傘を差したところで、彼女の髪も肌も制服もとっくに水浸しだった。それに、忘れ物ばかりする彼女のことだ。私の置き傘を貸してしまったら、また忘れたと言ってなかなか返してもらえなくなるかもしれない。
     
     遅れて参加した誕生日会に、彼女はいつまでたっても現れなかった。
     隣に座っていた友達に、私は思わず「あの子、ぜんぜん来ないね」と耳打ちした。自分の性格が悪いことを自覚することで、彼女に傘を貸さなかったことを正当化したかった。
    「今日って、他にも誰か来るの?」
     友達は驚いた様子で言った。
    「だからあの子だって。みんなの寄せ書きを家に忘れて、取りに帰ってるんだけど。いい加減、いつになったら来られるんだろう」
    「青石さん、寄せ書き持ってくるの忘れたの?」
    「違うよ。忘れたのは私じゃなくてあの子なんだってば。まさかあの子、店の場所とか、今日の集まりまで忘れちゃってたりして」
    「あのさ、青石さん」
    「何?」
    「さっきから、誰の話をしてるの?」
    「え?」
    「あの子って、誰のこと?」
    「だから、あの子……あれ?あの子の名前、なんて言ったっけ」
    「え?」
    「ほら、髪が長くて、前髪がぱっつんで。通学鞄にはリュックを使っていて……」
     腰まである長い髪。眉毛が隠れるぐらいに切りそろえられた前髪。通学用のリュック。そう、さっき教室に置き去りにしたあの子。
    「それって、青石さんのことじゃない」
    「違うよ。私はあの子みたいに忘れ物ばかりしないもん」
    「だから、遅刻したのは青石さんじゃん。みんなの寄せ書きだって、青石さんが忘れたんでしょ?あんなに張り切って提案してたのに」
    「違うよ。忘れたのはあの子で、遅刻したのも、あの子が傘とプレゼントを忘れたからで……」
     私の必死の弁明に、友達は顔をしかめた。その表情は、彼女の背中の向こう側で楽しそうにしている他の友達とは、ずいぶん異なっていて、この空間には相応しくない。
     すでに誕生日会は進行していて、誕生日の友達は、《本日の主役》と書かれたたすきをかけて、隣の子と肩を組み合い、はしゃいでいた。
    「もういいよ。青石さんのせいでサプライズが台無しだって、みんな言ってたよ。てゆーか、なんでそんなに濡れてるの?傘、差して来なかったの」
    「だから、これもあの子を傘に入れてあげていたせいで……」
    「何なの。さっきから言い訳ばっかり。青石さんにくっつかれると私まで濡れるんだけど。もういいからさ、お店の人にタオルとか貸してもらえないか頼んできなよ」
     たしかに髪の毛先からはさっきからポタポタと雫が落ちてきていて、座っていたソファに染みを作っていた。
    「うん、そうする……」
     部屋を後にして廊下を歩いていると、出てきたばかりの部屋からバースデーソングが聞こえてきた。廊下の正面からは、店のロゴがプリントされたエプロンを身につけた店員が、こちらに向かって歩いてきていた。
    「あの」
     咄嗟に呼び止めたけれど、「すみません、後で伺います」と断られ、そのまますれ違ってしまった。
     店員は何本もの蠟燭が立てられたケーキの乗ったトレイを手にしていた。それが私が追い出されたばかりの部屋に入って行くのを見て、濡れた靴下を履いている足が不快であることを思い出した。……流石に靴下は、誰も貸してくれなさそうだ。
     
     翌日は快晴で、傘を持っていく必要は無かった。そのおかげで、私は身軽な状態で登校することができた。
     昇降口の床は綺麗に清掃されて、どこにも泥はこびりついていなかった。彼女が歩いて水浸しにしたはずの廊下もすっかり渇いていた。そのせいか、彼女の痕跡はどこにも見当たらなかった。
     あの後、彼女が現れることはなかった。サプライズのプレゼントも友達に渡すことができなかった。私は部屋に戻らずにカラオケボックスを後にした。それから、私は彼女の名前を思い出せずにいた。彼女は誰だったのか。学校に来て、彼女の顔を見れば思い出すかもしれなかったが、彼女らしき人も見当たらなかった。
    「みんな、昨日は本当にありがとうね!すごい嬉しかった」
     教室の前方で前日に《本日の主役》だった友達が他の友達に向かって、お礼を言っていた。友達同士で輪になって、昨日の話で盛り上がっていた。その内に私も呼ばれるだろうと思って、自分の席で様子を眺めていると、輪の中の一人と目が合った。彼女はそのまま、私のもとに向かって歩いてきた。
    「これ、忘れ物」
     昨日、カラオケボックスの部屋で私の隣に座っていた友達が私のリュックを机の上に置いた。
    「ああ、カラオケの部屋に忘れてたんだ。どうもありがとう」
    「青石さんの鞄、すんごい軽かったから別にいいんだけどさ。鞄忘れて帰るとか、ちょっと信じられないけど」
     そう言って、友達はまた顔をしかめた。
     授業の準備をしようと思い、席を立った。教室の前方で盛り上がっている友達の輪を横目に自分のロッカーまで行くと、私は目を疑った。扉が開いているのだ。
     おかしい。恐る恐る中を確認してみると、やっぱり見当たらなかった。そこに置いてあるはずの、私の折りたたみ傘。
     そして、もう一つおかしなことに気がついた。前日の放課後、私が開けたはずの彼女のロッカーの場所。その場所を私は思い出すことができない。
     
    「知らない」
     それだけ言って、スマートフォンの画面に目を落したままでいる彼の様子から私の話への興味の薄さを感じた。普段、花になんて興味もないくせに、足を止めて悪かったと思う。「ごめん、もう行こうか」と言いかけた時、彼が膝を折って、花にスマートフォンをかざした。カメラのシャッターを切る音がする。驚いていると、彼が言った。
    「ホタルカズラっていうみたい」
    「え?」
    「この花の名前。写真で検索してみたんだ。ほら」
     彼が私に向けて差し出したスマートフォンの画面には、彼の足元に咲いている花にそっくりな花が映っている。
    「へえ、写真で調べられるんだ」
     私は画面の中のホタルカズラを見て、感心する。
    「他にも似たようなので、ワスレナグサとか、ネモフィラとかもあるみたいだけど。この花はホタルカズラだろうね」
     彼はもう一度、足元のホタルカズラを見る。
    「てっきり星の花とか、そういう名前だと思った」
    「前にも見たことあるの?」
    「どうだったっけ。聞いたことがあるだけかもしれない。お星さまみたいな花があるとか、そんな話を聞いたことがある気がする」
    「ふうん」
     彼は私が思い出しても、思い出さなくてもどちらでもいいといったように、曖昧な相槌を打った。

     
     
    21歳から書き溜めた文章を整理しています。 ※タイトル横の⭐︎は新しく書いたもの 金魚の子どもは赤ではなく、黒色をしているそうです。黒色の文字が物語になった時、どんな色として読まれるのでしょうか。 色鮮やかな文章を書くことができますように。

    あなたへのおすすめ