
三重県・金剛證寺──伊勢の奥で守られる静けさ
伊勢神宮への参拝を終えた人々が、さらに朝熊山へ向かった時代があった。山上の金剛證寺は神宮の鬼門を守る寺とされ、奥之院には死者を供養する岳参りの信仰も残る。伊勢参宮のさらに奥で、山に積み重なった祈りと静けさをたどる。
伊勢を訪れると、外宮や内宮へ向かう人の流れに目が向きやすい。けれども、かつてのお伊勢参りには、その先にさらに朝熊山へ向かう流れがあった。
伊勢市朝熊町、朝熊山の山頂近くに建つ金剛證寺である。
「朝熊かけねば片参り」と唄われたように、神宮参拝のあとにこの寺へ参ることが習わしとされた時代があった。そして山のさらに奥では、亡くなった人を供養する岳参りも受け継がれてきた。
今回は、伊勢のにぎわいから少し離れ、神への参拝と仏への祈り、そして死者への思いまで受け止めてきた山の時間を見ていく。
朝熊山に根づいた祈りの寺
金剛證寺は、三重県伊勢市朝熊町、朝熊山の山頂近くにある寺院で、現在は臨済宗南禅寺派につながる禅寺として知られている。
その始まりについては、歴史と寺伝を分けて見ておきたい。
寺伝では、欽明天皇の時代に暁台上人が山を開いたとされる。また伊勢市は、天長2年(825)に空海が朝熊山で真言密教の道場を開いたと紹介している。これらは金剛證寺の長い由緒を伝える一方、創建の経緯をそのまま確定できる記録ではない。
一方、この山で平安時代末には仏教信仰が営まれていたことを示す確かな痕跡が残っている。
金剛證寺背後の経ヶ峯では多数の経塚が発見され、承安3年(1173)の銘を持つ経筒などが出土している。その銘文からは、平安時代末にはすでに勝峯山金剛證寺の寺名が確認できる。
さらに興味深いのは、1173年の経筒に伊勢大神宮の神官の名が記されていることである。
朝熊山の埋経信仰には、仏教者だけではなく神宮に関わる人々も加わっていた。神と仏を現在のようにはっきり分けない信仰の姿が、この山には早くから残されている。
その後、寺は中世に東岳文昱によって禅寺として再興され、現在の臨済宗寺院へとつながっていく。時代によって宗派や伽藍の姿を変えながらも、祈りの場所としての朝熊山は受け継がれてきた。

「片参り」と呼ばれた伊勢参宮のその先
金剛證寺を特徴づけるのが、伊勢神宮との深い結びつきである。
金剛證寺は古くから伊勢神宮の鬼門を守る寺とされ、「神宮の奥之院」とも呼ばれてきた。
そして、
「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」
と唄われたように、神宮へ参拝した人々が、そのあと朝熊山の金剛證寺へ向かうことが習わしとされた。
江戸時代のお伊勢参りの一つの典型としては、二見浦で身を清め、外宮、内宮へ参拝し、最後に朝熊岳へ向かう道筋も紹介されている。すべての参詣者が同じ順路を歩いたわけではないが、朝熊山が伊勢参宮の延長に位置づけられていたことは分かる。
神社である伊勢神宮と、仏教寺院である金剛證寺。
現在の感覚では別の信仰施設に見える。
しかし、朝熊山の経塚から神宮神官の名を記した経筒が見つかっていることを考えても、伊勢では神への信仰と仏教的な祈りが長く交わっていた。
神宮で神に手を合わせ、そのあと山へ登って虚空蔵菩薩へ祈る。
神への参拝と山上の仏への祈りが、一続きの旅として受け止められることがあったのである。
ここまで進むと、「伊勢の奥」という言葉も少し違って見えてくる。
単に神宮から遠いという意味ではない。
参宮を終えたあと、さらに山へ入り、その先の祈りへ進んでいく。金剛證寺は、そんな伊勢参りの奥行きを今に伝える場所でもある。
摩尼殿が守ってきた山上の時間
金剛證寺の中心に立つのが、本堂摩尼殿である。
現在の本堂は、慶長13年(1608)の火災後に再建されたもので、棟札から慶長14年(1609)の建築と確認されている。
池田輝政によって再建・寄進されたとされ、形式や装飾には建築当初の姿がよく残る。桃山時代の寺院建築として国の重要文化財に指定されている。
本尊は福威智満虚空蔵大菩薩。
日本三大虚空蔵菩薩の一つとして信仰される秘仏で、伊勢神宮の式年遷宮の翌年にあたる20年に一度、開帳される。
本堂の周囲には木々が迫り、境内には連間の池と赤い橋がある。初夏から夏にかけては睡蓮が水面を覆い、朱塗りの堂宇と深い緑が山上らしい景色をつくる。

けれども、この静かな境内が何も変わらず残ってきたわけではない。
本堂は1608年に焼失し、翌年に再建された。その後も元禄、安永、昭和、平成と修理が重ねられて現在へ受け継がれている。
静けさが守られてきたというのは、時間が止まっていたということではない。
焼失し、建て直し、修理しながら、それでも同じ山へ人が参り続けた。
現在の摩尼殿に感じる静けさは、その長い積み重ねの上に残っている。
卒塔婆の道が続く奥之院
本堂からさらに奥へ進むと、金剛證寺のもう一つの顔が現れる。
極楽門を越えた奥之院への参道には、大きな卒塔婆が両側に並ぶ。
その高さは2メートルほどのものから8メートルに及ぶものまであり、巨大な木の塔が道の両側へ続く独特の景観をつくっている。
これは、観光のために並べられたものではない。
伊勢志摩地方では、亡くなった人の魂は朝熊山へ昇ると考えられてきた。
そのため葬儀のあと、宗派を問わず奥之院へ参り、卒塔婆を建てて故人を供養する習わしがあり、これを岳参りと呼ぶ。卒塔婆群の先には、延命子安地蔵菩薩を本尊とする奥之院がある。

伊勢神宮への参宮には、生きる人々の願いや感謝が託されてきた。
その一方、朝熊山のさらに奥には、亡くなった人を思い、魂を供養する祈りも集まった。
山道の両側に並ぶ卒塔婆は、その一本一本が誰かの供養と結びついている。
そう考えると、奥之院の静けさも違って感じられる。
単に人里から離れているから静かなのではない。
亡くなった人を忘れず、山へ祈りを届けてきた静けさが、この道には積み重なっている。
神宮参拝の奥に重なった二つの祈り
金剛證寺をたどると、朝熊山には異なる祈りが長い時間をかけて重なってきたことが分かる。
一つは、伊勢神宮への参宮を終えた人々がさらに山へ登り、虚空蔵菩薩へ手を合わせた参詣の記憶。
もう一つは、亡くなった人の魂が朝熊山へ昇ると考え、奥之院へ卒塔婆を建てた岳参りの記憶である。
さらに平安時代末の経塚を見ると、その仏教信仰には伊勢神宮の神官も関わっていた。
神と仏、生きる人と亡くなった人。
それぞれをきれいに分けるのではなく、一つの山が異なる祈りを受け止めてきた。
伊勢という信仰の土地の奥行きが、朝熊山には残っているのである。
朝熊山まで歩くと見えてくる伊勢
伊勢を訪れれば、まず神宮へ向かう。
けれども、かつて参宮を終えた人々が、そこからさらに朝熊山へ向かったことを知ると、伊勢という土地の見え方は少し広がる。
神宮で神に祈る。
さらに山へ登り、金剛證寺で仏に手を合わせる。
そして奥之院では、亡くなった人を思って卒塔婆を建てる。
伊勢の信仰は、神宮の社殿だけで閉じたものではなかった。江戸時代の参宮路にも朝熊山が組み込まれ、山ではそれ以前から神宮神官も仏教的な埋経信仰に関わっていた。
現在は、車やバスで金剛證寺へ向かうこともできる。
それでも境内へ入れば、木々に囲まれた摩尼殿があり、その先には巨大な卒塔婆の道が続いている。
伊勢の奥で守られる静けさとは、ただにぎわいから離れた場所の静けさではない。
神と仏、生者と死者。
異なる祈りを朝熊山が長く受け止めてきた、その時間の静けさなのだろう。
次に伊勢を訪れるなら、神宮のその先に朝熊山があることも思い出してみたい。
そこまで視線を伸ばしたとき、伊勢は一つの社だけではなく、山や寺、亡くなった人への祈りまで含んだ広い信仰の土地として見えてくるのである。
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