
徳島県・徳島城跡──城下を抱く緑
徳島市の中心に残る徳島城跡。蜂須賀家政が築いた城は、城山と助任川・寺島川などの水を取り込み、その周囲に大きな城下町を育てた。現在の徳島中央公園に残る石垣や堀、深い緑から、城と町が一体だった阿波の記憶をたどる。
JR徳島駅のすぐ近くに、こんもりと木々に覆われた小さな山がある。現在の徳島中央公園、その中心にある城山だ。
かつてここには徳島藩主・蜂須賀氏の居城があり、山の上には本丸、麓には御殿や堀、その外側には川と中洲を利用した城下町が広がっていた。現在は城郭建物の多くを失っているが、石垣、水辺、そして市街地の中に残る深い緑を見ると、徳島城が土地の地形そのものを取り込んだ城だったことが見えてくる。
今回は、城跡だけではなくその周囲の街まで視線を広げながら、徳島に残る城と町の記憶をたどっていく。
城山と川を取り込んだ徳島城
徳島城跡は、徳島市街地の中心にある標高約61メートルの城山を中心に築かれている。
天正13年(1585)、豊臣秀吉から阿波を与えられた蜂須賀家政が本格的な築城に着手し、翌天正14年(1586)に完成した。その後、徳島城は明治に至るまで約280年間、14代にわたる蜂須賀家の居城として、阿波支配の中心となった。
城のつくりには、この土地の地形が大きく生かされていた。
城山の頂上には本丸が置かれ、東二の丸、西二の丸、西三の丸が連なった。本丸の東下には、藩政を行い藩主が暮らす表御殿も置かれている。さらに徳島城は、もともとこの地にあった城をもとに、助任川と寺島川を堀として取り込んで築かれた。
山だけを要塞にした城ではない。
山上の曲輪、その麓の御殿、周囲を流れる川を組み合わせることで、一つの城郭が形づくられていたのである。
現在、城山には木々が茂り、静かな緑の丘のように見える。
けれども石段を上った先には本丸跡があり、その麓ではかつて藩の政治が動いていた。
今の穏やかな景観の中には、阿波を治める中心だった場所の記憶が重なっている。

蜂須賀氏の城から広がった水の城下町
徳島城の周囲には、吉野川の分流によって細かく分けられた土地が広がっていた。
江戸時代の城下町は、徳島・福島・寺島・常三島・住吉島・出来島という六つの中洲と、新町、富田、助任から前川、佐古などの地域によって構成されていた。後には、これらの地域を合わせて「御山下」と呼ぶようになる。
つまり徳島城下は、城を中心に整然と同心円状の町が広がったわけではない。
新町川や助任川などが入り組む土地の形に合わせて、武家地や町人地がつくられていった。
蜂須賀家政は築城と並行して新しい城下町を整え、商人を城下へ呼び寄せる政策も進めている。城と町は、ほぼ同時に形づくられていったのである。
ここに、徳島という城下町の特徴が見えてくる。
城山だけが城を守っていたのではない。
川が城の周囲を区切り、その中洲に武士や町人の暮らす場所が生まれた。さらに河川は、城下を隔てるだけではなく、船で人や物を運ぶ道としても使われていた。
城・川・町が切り離せないまま、一つの都市を形づくっていたのである。
現在の徳島市中心部にも助任川や新町川などが流れ、水辺が街のすぐそばにある。
昔の寺島川のように姿を変えた流れもあるが、水によって区切られ、つながる都市という特徴は、現在の徳島にもどこか受け継がれている。
青石の石垣と庭園に残る藩主の城
徳島城跡で、かつての城を最も強く感じさせるものの一つが石垣である。
文化庁は、徳島城の石垣がすべて阿波の青石で築かれ、独特の景観をつくっていると説明している。徳島市も、徳島産の結晶片岩を用いた石垣と、時代によって異なる石積みを徳島城の大きな特徴として紹介している。
青みや緑を帯びた石が重なる姿は、この土地で得られる石材を城づくりに生かした痕跡でもある。
そして山麓には、もう一つ藩主の暮らしを伝える場所が残っている。
旧徳島城表御殿庭園である。
表御殿そのものは失われたが、藩主の居間や表書院に面して造られた庭園は残されている。枯山水庭と築山泉水庭からなり、武将で茶人の上田宗箇が作庭したとされ、昭和16年(1941)には国の名勝に指定された。
城というと、本丸や天守、石垣のような防御施設に目が向きやすい。
しかし徳島城では、山の上に城郭の中心があり、その下に政務と生活の場となる御殿や庭園が置かれていた。
戦いに備える城であると同時に、藩を治め、人が暮らす城でもあったのである。
現在、表御殿そのものを見ることはできない。
それでも庭園の石組みや水面を眺めると、徳島城が単なる要塞ではなく、藩主が人と会い、暮らし、政治を動かした場所だったことが少し見えやすくなる。

城が消えたあとも残った城山の緑
明治維新を迎えると、徳島城は城としての役割を終えた。
明治8年(1875)には城郭建物が撤去され、表御殿庭園や石垣、堀の一部などを残して、多くの建物が姿を消した。
その後、明治39年(1906)には城跡に公園が開設された。
現在の徳島中央公園である。平成元年(1989)には徳島市制100周年を記念して鷲の門が復元され、平成18年(2006)には徳島城跡が国の史跡に指定された。
そして、現在の城跡を特徴づけているものの一つが城山の深い緑である。
城山には今も自然度の高い樹林が残り、とくにホルトノキの群落は徳島県内で唯一とされる。城山の原生林は、徳島市指定の天然記念物にもなっている。
ここで注意したいのは、「城がなくなったから森になった」と単純に考えないことだ。
現在目にする樹林には城跡とは別に自然環境としての長い時間があり、城郭遺構と緑が同じ山に重なって残っている。
石垣の上を木々が覆い、その向こうに現代の建物が見える。
徳島城跡では、江戸時代の城と現在の公園がきれいに切り離されているわけではない。
城の遺構、城山の自然、そして周囲の現代都市が一つの風景の中に重なっている。
その重なりが、現在の徳島城跡に独特の静けさを与えているのである。
山と水が残した徳島城の輪郭
徳島城跡をたどっていくと、現在まで残ったものは天守や御殿ではなく、城山・石垣・堀・川という土地の骨格だったことが分かる。
蜂須賀家政は城山を中心に城を築き、助任川や寺島川を防御へ取り込み、その周囲の中洲へ城下町を広げた。城郭建物の多くが明治に失われても、山や川、石垣まで消えたわけではない。
さらに現在では、その城山を深い樹林が包んでいる。
徳島城に残る記憶は、一棟の古建築ではない。
山と水を使ってつくられた城の輪郭そのものが、現在の街の中に残っているのである。
緑の向こうに城下町を重ねる
現在の徳島中央公園を歩けば、そこは市街地の中にある静かな緑地として感じられる。
城山へ続く道には木陰があり、麓には堀が残る。そのすぐ外にはJR徳島駅や街の建物が並び、かつての城と現在の都市がごく近い距離で重なっている。
けれども、その歴史を知ったあとでは、緑の見え方も少し変わってくる。
山上には蜂須賀氏の本丸があり、麓には表御殿があった。その周囲には川によって分けられた武家地や町人地が広がり、それらを合わせて一つの徳島城下が形づくられていた。
現在の木々が、江戸時代の城の姿をそのまま伝えているわけではない。
それでも、緑に包まれた城山が今も市街地の中心に残り、その周囲を川が流れているからこそ、かつてこの場所を中心に城と町が広がっていたことを想像する手がかりになる。
次に徳島城跡を訪れるなら、石垣だけでなく、その背後に茂る木々、堀の水、さらに公園の外へ続く街にも目を向けてみたい。
城下を抱く緑の向こうには、蜂須賀氏がつくった城と、水の上に育った徳島の町の記憶が今も静かに重なっている。
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