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上野三碑──東国に文字文化が根づいた理由

群馬県高崎市に残る山上碑・多胡碑・金井沢碑。7〜8世紀の古代上野国では、都から遠く離れながら漢字を使い、仏教を受け入れる社会が育っていた。三つの上野三碑から、渡来人、地方豪族、行政、寺院が結びつき、文字文化が東国へ広がった背景を読み解く。

飛鳥・奈良時代の文字文化というと、都の役人や僧侶が使うものという印象があるかもしれない。ところが、都から遠く離れた現在の群馬県には、681年から726年の間に建てられた三つの古代石碑が残っている。

山上碑、多胡碑、金井沢碑を合わせた上野三碑である。日本に現存する7〜11世紀の古代石碑は18例とされ、その中でも上野三碑は最古の石碑群に位置づけられている。

三碑を読むと、漢字文化や仏教、律令国家の制度が、中央から地方へ一方的に届いただけではなかったことが見えてくる。渡来した人々との交流や地域の豪族、寺院などを通して、新しい文化は上野国の社会に受け入れられていった。

なぜ東国の上野国で、これほど早く文字と仏教文化が広がったのか。その背景を土地の歴史から見ていく。

東国にもすでに文化を受け入れる土台があった

現在の群馬県にあたる地域では、古墳時代から有力な豪族が活動していた。

東日本最大級の前方後円墳をはじめ、大型古墳が数多く築かれていることからも、この地域に大きな政治力や経済力を持つ勢力がいたことが分かる。群馬県立歴史博物館は、上毛野の豪族たちがヤマト王権と関係を結びながら、東アジアから伝わった文化や技術を取り入れていたと説明している。

つまり、7世紀になって突然、新しい文化が何もない土地へ流れ込んできたわけではない。

すでに古墳時代から、人や技術を受け入れる力を持つ地域社会が形成されていた。

7世紀以降に律令国家の仕組みが整うと、この地域は上野国となり、都から近江、美濃、信濃を経て上野へ続く東山道によって中央と結ばれた。大宝令が成立した701年には上野国に13郡が置かれ、711年には新たに多胡郡が設けられて14郡となる。

しかし、文字文化が広がった背景を行政制度だけに求めることもできない。

上野三碑には、朝鮮半島から移り住んだ人々との交流も強く映っている。高崎市は、三碑のような記録の形式自体について、上野国に定住した渡来人によってもたらされた文化との関係を指摘している。

多胡郡周辺では、ヤマト政権の直轄地とされる屯倉が置かれた地域と重なる場所で、渡来系の技術を背景に窯業や布生産などの手工業も盛んだったと考えられている。

古代の群馬は、都から遠いだけの土地ではなかった。

有力豪族、中央との交通、渡来人との交流、手工業。その複数の流れが重なり、新しい知識を受け入れる土台がすでにつくられていたのである。

上野三碑

山上碑──文字で家族の記憶を残した僧

三碑の中で最も古い山上碑は、天武天皇10年にあたる681年に建てられた。

完全な形で現存する石碑としては日本最古とされ、高崎市山名町の山上古墳のそばに立っている。

碑を建てたのは、放光寺の僧・長利だった。

碑文には、亡くなった母・黒売刀自を供養するために長利が碑を建てたこと、そして母方と父方の系譜が刻まれている。碑文に登場する放光寺は、「放光寺」と記された瓦が発見されている前橋市の山王廃寺にあたると有力視されている。山王廃寺は7世紀後半に成立した古代寺院である。

注目したいのは、長利が文字を使って家族の記憶を残したことである。

山上碑には53文字の漢字が刻まれている。その文章は中国語の語順そのままではなく、日本語の語順に従って漢字を並べた表現を含み、日本語の語順で漢字を用いた最古級の資料とされている。

中国から伝わった漢字が、東国の土地で、日本語を表しながら家族の系譜や供養を記すために使われていた。

ここには、文字の役割が中央政府の命令や記録だけではなく、地域に生きる人の記憶へ広がっていた姿が見える。

そして碑を建てた長利は僧だった。

寺院は祈りの場であると同時に、経典を読み、文字や新しい思想に触れる場所でもある。山上碑を見ると、この土地では仏教と文字が同じ人々の活動の中で結びついていたことが分かる。

多胡碑──行政の変化を石に刻んだ新しい郡

山上碑から30年後の711年、新たな郡の成立を記したのが多胡碑である。

碑文には、上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡から300戸を分け、新しく多胡郡を設けるという朝廷の命令が刻まれている。碑文の後半には、穂積親王、石上麻呂、藤原不比等ら当時の中央政府首脳の名も記されている。

そして碑文には、「羊」という人物が登場する。

高崎市は、この羊を渡来人と思われる人物とし、多胡郡の成立に大きな役割を果たして、初代の郡長官になった可能性を示している。碑そのものも羊が建てたと考えられている。

多胡郡が置かれた一帯は、かつて緑野屯倉や佐野屯倉が置かれた領域とも重なっていた。そこでは渡来系の技術が導入され、窯業や布生産、石材・木材に関わる手工業が盛んな地域が形成されていたと考えられている。

ここでは、山上碑とは違う文字の役割が見える。

山上碑が母の供養と家族の系譜を残したのに対し、多胡碑が記したのは行政によって地域の区分が変わったことだった。

どの郡から戸を分け、新しい郡を何と呼び、誰にその支配を任せるのか。

中央政府が決めた地方行政の変化が、東国の土地で石に刻まれたのである。

文字は、祈りや家族の記憶だけではない。国家の制度によって地域社会が変わったことを、後世へ伝えるための記録にもなっていた。

多胡碑

金井沢碑──仏教と文字が地域社会へ入っていく

三碑の中で最も新しい金井沢碑は、神亀3年(726)に建てられた。

碑を建てたのは、三家氏を名乗る地方豪族である。碑文には三家氏を中心とする9人が登場し、祖先や父母を供養し、一族の繁栄を祈って、仏教の教えによる結びつきを誓ったことが記されている。三家氏は、山上碑にも関係する佐野三家を管理した豪族の子孫と考えられている。

ここで目を引くのは、碑文に一族のさまざまな人々が現れることである。

9人の中には複数の女性が含まれ、結婚した女性も子どもたちとともに実家側の祖先祭祀に加わっていた様子が読み取れる。また「鍛師」と記された礒部君身麻呂という人物も、この仏教による結びつきに参加していた。

山上碑では僧が母を供養した。

それから45年後の金井沢碑では、地方豪族の家族や周囲の人々が、仏教を通じた信仰集団として石碑の中に現れる。

ここからは、仏教が地域社会の中へより深く入っていた様子を知ることができる。高崎市も、金井沢碑を古代東国における仏教の広がりを示す資料として位置づけている。

さらに碑文の冒頭には、「上野国群馬郡下賛郷高田里」という行政地名が刻まれている。

ここに使われる「群馬」の文字は、県内で確認されている最古の用例である。また、この地名表記からは、大宝律令以後に整えられた国・郡・郷・里という行政制度が、上野国でも施行されていたことが分かる。

金井沢碑が建てられたのは726年。

その15年後の741年には、聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺を造るよう命じ、上野国でも現在の高崎市と前橋市の境付近に国分寺が造営されていく。

しかし金井沢碑を見ると、それより前の段階ですでに、地方豪族やその家族の間に仏教が受け入れられていたことが分かる。

三つの碑を年代順に並べることで、文字、仏教、行政制度が、上野国の社会へ入り込んでいく様子が少しずつ見えてくるのである。

人と文化が重なって生まれた文字の広がり

上野三碑から見えてくるのは、「都から文字が伝わった」という一つの流れだけではない。

古墳時代から力を持っていた地方豪族がいた。ヤマト王権や都へつながる政治と交通の仕組みがあった。朝鮮半島から移り住んだ人々が新しい文化や技術を運び、寺院では僧たちが漢字や仏教を扱っていた。

そうした複数の流れが重なった場所が、古代の上野国だった。

だからこそ文字は、役人だけのものにとどまらない。

母を供養して家族の系譜を残す。新しい郡の成立を記す。祖先を供養し、一族の繁栄を仏に祈る。

わずか45年間に建てられた三つの石碑には、文字が地域社会のさまざまな場面で使われていたことが刻まれている。

人が移動し、知識が伝わり、それを受け入れる社会があったこと。

そこに、東国の上野国で文字文化が早く広がった背景が見えてくる。

三つの石から見えてくる古代群馬の姿

現在の感覚では、群馬県は海から離れた内陸県であり、古代の国際的な文化交流とは距離があるように感じるかもしれない。

しかし上野三碑をたどると、まったく違う土地の姿が現れる。

上野国は東山道によって都へつながり、渡来した人々との交流を通して東アジアの文化を受け入れ、地方豪族や寺院がその知識を地域の中へ定着させていた。上野三碑は、政治制度、漢字文化、仏教が、多くの人の移動と交流を通じて東国へ伝わり、地域社会に受け入れられたことを示す史料として評価されている。

山上碑、多胡碑、金井沢碑に刻まれた文字は、それぞれ53字、80字、112字にすぎない。

それでも、その文字の向こうには、僧、地方豪族、女性、職人、渡来系の人々、そして行政を動かした人々の姿が見える。

三碑は2017年10月31日、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。1300年近く同じ地域で守り伝えられてきたことも、その価値の一つである。

上野三碑を見るときは、「古い文字が残る石碑」としてだけでなく、地方の人々が新しい文化を自分たちの社会へ取り込んでいった証しとして眺めてみたい。

そうすると古代の群馬は、都から遠いだけの土地ではなくなる。

人が移動し、文化が交わり、受け取った知識を地域の中で使いながら、東国独自の社会を形づくっていった場所として見えてくるのである。

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