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愛知県・名古屋城──金鯱が見守る大城

    じっくり歴史クラブ

    名古屋の中心に立つ名古屋城。徳川家康が築かせた尾張徳川家の城には、巨大な天守と金鯱、豪華な本丸御殿、堅固な石垣がそろっていた。戦災による喪失と復元を経た現在の姿から、名古屋という都市の原型と四百年の記憶をたどる。

    名古屋城を思い浮かべると、まず金色に輝く金鯱が頭に浮かぶ人も多いだろう。

    巨大な天守の屋根を飾る一対の鯱は、長い時間をかけて名古屋という街を象徴する存在になった。

    けれども、この城の大きさは天守だけでは分からない。

    石垣と堀、本丸御殿、二之丸、そして築城とともにつくられた城下町まで視線を広げると、名古屋城が新しい都市を形づくる中心として生まれたことが見えてくる。名古屋城公式サイトも、清須越によって形成された城下町を現在の名古屋のまちづくりの原型と位置づけている。

    徳川家康が名古屋の台地に築いた大城

    名古屋城の築城が本格的に始まったのは、慶長15年(1610)のことだった。

    当時、尾張の中心は清須にあった。しかし清須には水害などの危険があり、徳川家康は慶長14年(1609)、名古屋台地に新しい城を築くことを決めた。

    翌年から始まった築城には、加藤清正や福島正則ら西国・北国の大名20家が動員された。

    公儀普請である。

    各大名には石垣の担当箇所が割り当てられ、天守台は加藤清正が築いた。慶長17年(1612)には大小天守が完成している。

    名古屋城には、東海道方面の防衛を固めるとともに、諸大名への抑止力を示す役割もあった。

    築城された1610年は近世城郭の技術が成熟していた時期でもあり、高い石垣、深い堀、巨大な天守、櫓、巧みな縄張には当時の最新技術が注ぎ込まれた。名古屋城公式サイトが「近世城郭の完成形」と表現する背景には、この規模と技術がある。

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    名古屋城

    そして築城と同時に進んだのが清須越だった。

    武士だけではなく、町人や職人、寺社なども清須から移され、新しい城下町が整えられていく。

    つまり名古屋城は、すでにある町の中へ城を置いたのではない。

    城を築くことと、新しい名古屋の町をつくることが一体となった大事業だったのである。

    金鯱が示した尾張徳川家の威信

    慶長17年(1612)、完成した大天守の大棟に金鯱が掲げられた。

    鯱は、水を呼ぶと考えられたことから、城郭では火除けのまじないとして屋根に置かれてきた想像上の生き物である。

    名古屋城では、その鯱が黄金に輝いた。

    名古屋城公式サイトは、金鯱について、家康の支配力と尾張徳川家の権威を示すために載せられたと説明している。

    初代藩主・徳川義直は家康の九男で、その後、名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として約260年間使われた。

    そして天守そのものも巨大だった。

    名古屋城の大天守は、完成当時、史上最大級の規模を持つ天守だったとされる。

    しかし、この城の威容は天守だけでつくられていたわけではない。

    大きな隅櫓、広大な二之丸庭園、高い石垣、深い堀。

    それらが一体となって、尾張徳川家の政治的な位置と城の防御力を目に見える形にしていた。

    金鯱は、その巨大な城の頂点に輝く象徴だったのである。

    本丸御殿に残された武家文化の華やかさ

    名古屋城の「大きさ」を知るうえで、天守と並んで欠かせないのが本丸御殿である。

    本丸御殿は慶長17年(1612)に着工し、慶長20年(1615)に完成した。

    当初は徳川義直の住まいであり、尾張藩の政庁でもあった。しかし1620年、義直が二之丸御殿へ移ると、本丸御殿は将軍が上洛する際などに宿泊する御成御殿として使われるようになる。

    さらに三代将軍・徳川家光の上洛を前に増築が行われ、寛永11年(1634)には上洛殿や湯殿書院などが完成した。

    内部には狩野派による障壁画、彫刻欄間、豪華な飾金具が施される。

    部屋によって天井や装飾の格式も異なり、建物そのものが武家社会の身分秩序を表す空間だった。

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    本丸御殿

    ただし、現在見る本丸御殿は江戸時代から残った建物ではない。

    昭和20年(1945)の空襲で焼失した。

    一方、障壁画や天井板絵の多くは事前に取り外されていたため難を逃れ、現存する1,049面のうち1,047面が重要文化財となっている。

    さらに戦前の実測図や700枚を超えるガラス乾板写真なども残された。

    それら第一級の資料をもとに2009年から木造復元が進められ、2018年に現在の本丸御殿が完成した。

    戦災を越えて受け継がれた城の記憶

    名古屋城の歴史には、大きな断絶がある。

    昭和20年(1945)5月14日の空襲によって、大天守・小天守、本丸御殿など多くの建物が焼失した。

    戦前の名古屋城では、天守や本丸御殿を含む24棟が旧国宝に指定されていた。

    しかし、城のすべてが戦災で失われたわけではない。

    東南隅櫓、西南隅櫓、西北隅櫓は現在も残り、いずれも重要文化財である。本丸表二之門などの門も現存し、石垣や堀、縄張も城郭の骨格を伝えている。

    昭和27年(1952)には城跡が国の特別史跡に指定された。

    そして昭和34年(1959)、失われた大小天守は鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された。現在、金鯱を頂いている天守は、この戦後再建の建物である。

    ここを知っておくと、現在の名古屋城の見え方が変わる。

    江戸時代から残る櫓や門がある。

    戦災を生き延びた障壁画がある。

    1959年に再建された天守があり、2018年に史料をもとに木造復元された本丸御殿がある。

    現存・再建・復元が同じ城内に重なっていること自体が、名古屋城の近現代史なのである。

    天守だけでは見えない名古屋城の大きさ

    名古屋城の大きさは、天守の高さだけでは測れない。

    家康が諸大名を動員して築いた石垣と堀。

    尾張徳川家を象徴した金鯱。

    藩主と将軍のためにつくられた本丸御殿。

    そして、築城と同時に清須から人々が移されて形づくられた城下町。

    城郭・政治・文化・都市が一つにつながったところに、名古屋城の本当の規模がある。

    1945年の戦災によって多くを失っても、城郭の骨格と豊富な記録は残された。

    名古屋城が「大城」であり続ける理由は、巨大な天守だけではない。

    現在の名古屋へ続く都市の形まで、この城の周囲から始まったことにある。

    金鯱の下に重なる四百年の名古屋

    現在の名古屋城を訪れれば、まず金鯱を頂く天守に目を奪われるだろう。

    けれども、そこから少し視線を下げてみたい。

    築城当時から残る石垣があり、江戸時代から現存する櫓や門がある。

    その内側には、失われた資料をもとに復元された本丸御殿がある。

    さらに城の外へ目を向ければ、清須越によってつくられた城下町の骨格が、現在の名古屋の中心部へつながっている。

    金鯱は四百年前から同じ姿のまま空を見続けてきたわけではない。

    城もまた、焼失し、再建され、復元されながら姿を変えてきた。

    それでも、名古屋の中心に城があるという記憶は受け継がれてきた。

    次に名古屋城を訪れるなら、金鯱を見上げたあと、その足元に残る石垣や櫓、御殿、そして城の外へ続く街にも目を向けてみたい。

    金鯱が見守る大城の本当の大きさは、四百年の城の記憶と、そこから広がった名古屋の街を一緒に見たときに浮かび上がってくるのである。

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