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壬申の乱──大友皇子は何を背負って敗れたのか

    大友皇子を敗れた若い皇子として見るだけでは、壬申の乱の重さは見えにくい。彼の視点から読むと、天智天皇の後を継ぐ体制と、強められた王権の秩序を背負っていたことが見えてくる。

    壬申の乱は、大海人皇子が挙兵し、大友皇子の側を破った内乱として語られる。

    そのため、大友皇子はどうしても敗者として見られやすい。若くして敗れた皇子、近江朝廷の側に立った人物、勝者である大海人皇子の前に退いた人物として処理されがちである。

    だが、その見方だけでは、大友皇子が何を背負っていたのかは見えにくい。

    大友皇子は、ただ敗れた人物ではない。天智天皇の後を継ぐ体制の中核に立ち、白村江後に強められた王権の秩序を受け継ぐ側にいた人物である。

    だから大友皇子の視点から読むと、壬申の乱は勝者の物語だけではなくなる。

    強められた国家体制を、どのように受け継ぐのか。その問いの中で、近江朝廷の側が何を守ろうとしたのかが見えてくる。

    大友皇子はどんな体制の中にいたのか

    大友皇子が立っていたのは、白村江の敗戦後に王権が強められていく時代だった。

    倭は唐や新羅の来襲を意識し、防衛と国内統治の引き締めを急いでいた。国を守るには、地方へ命令を届け、人々を動かし、兵を集める仕組みが必要だった。

    この流れの中で、天智天皇のもとで国家体制の強化が進んでいく。

    王権を中心に国をまとめる力は、以前よりも重くなっていた。その王権の近くにいたのが、大友皇子である。

    大友皇子は、突然現れた後継者ではない。

    天智天皇の政治の流れの中で、次の体制を支える側に立っていた人物だった。彼が背負っていたのは、個人の野心だけではなく、近江朝廷の秩序そのものだった。

    この視点を持つと、大友皇子の姿は変わって見える。

    彼は単なる敗者ではなく、天智朝で強められた政治の形を受け継ぐ側にいた人物だった。だからこそ、大海人皇子との対立は避けがたいものになっていく。

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    日本史を、人物の決断から物語として読み直す「じっくり歴史クラブ」です。 固定の自己紹介記事に、時代別の人物史/都道府県の歴史/仕事人図鑑/日本神話のリンクをまとめています。そこから気になる記事へどうぞ。

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