
琵琶湖水運──湖の港町は何を運んだのか
琵琶湖は、かつて滋賀の中央に広がる「水の道」だった。北陸・若狭方面から届いた米や塩などの物資は湖北・湖西の港から船へ載せられ、大津を経て京都へ向かった。街道と結びついた湖上交通から、港町が人と物をつないだ滋賀の歴史をたどる。
現在の琵琶湖を見れば、広い水面は滋賀県を東西に分ける大きな存在にも見える。
けれども、鉄道や自動車がなかった時代、人々にとって湖は地域を隔てるものではなく、重い荷物を船で運べる大きな交通路でもあった。
北陸や若狭方面から山を越えてきた物資は、湖北や湖西の港で船へ載せ替えられ、湖上を南へ進む。その先の大津では再び陸路へ移され、京都へ運ばれていった。
今回は近江商人ではなく、「何を、どこから、どこへ運んだのか」という視点から、琵琶湖を中心につくられた交通の歴史を見ていく。
琵琶湖は滋賀を分ける湖ではなく「道」だった
琵琶湖と船の関係は非常に古い。
湖周辺の遺跡からは縄文時代の丸木舟が数多く見つかっており、人々が早くから湖面を移動に利用していたことが分かっている。時代が下ると、琵琶湖は北陸方面と京都を結ぶ重要な湖上交通路として大きな役割を持つようになった。
近江国には東海道・東山道・北陸道などの陸路も通っていた。
つまり近江は、街道だけの交通拠点ではない。
陸路と湖上交通を組み合わせることができる土地だったのである。
この水運が力を発揮した理由の一つが、大量の荷をまとめて運べることだった。
近世になると、その主役となったのが琵琶湖独特の木造船丸子船である。
丸子船は遅くとも近世初めには発達し、30石から500石ほどを積む船があり、物資輸送を中心に使われた。17~18世紀には琵琶湖全体で千艘を超える丸子船が活動していたとされる。

ただし、琵琶湖の船がそのまま京都や北陸まで走ったわけではない。
北では、北陸や若狭方面から陸路で港へ運ぶ。
そこで船に積み替えて湖を進む。
南では大津などで再び陸へ上げ、京都方面へ送る。
水の道と陸の道を途中でつなぎ替えることこそ、琵琶湖水運の大きな特徴だったのである。
塩津と海津──北陸の荷を湖へ載せ替えた港
その交通網で重要な位置を占めたのが、琵琶湖北部の港だった。
なかでも塩津は、琵琶湖の北端に位置する代表的な港である。
滋賀県は、塩津について、京都と北陸方面を結ぶ物流を琵琶湖水運へ載せる港として、古代から鉄道が開通する近代まで千年以上にわたって栄えたと説明している。
発掘調査が進められた塩津港遺跡からは、平安時代末から中世の港の姿を示す遺構や遺物が見つかっている。
船板の出土からは、12世紀にはすでに板を組み合わせた大型の構造船が使われていたことも分かってきた。こうした船は、後世の丸子船へつながる特徴を持っていたと考えられている。
そして湖西側で重要だったのが海津である。
海津・西浜・知内は、西近江路と琵琶湖水運が接続する交通の要衝として栄えた。滋賀県関係資料では、日本海方面からの物資を大津へ送り出す主要な港町として位置づけられている。
海津では、北陸から京都方面へ運ばれる塩や米などを扱ったことも伝えられている。
港で行われたのは、船を停めることだけではない。
陸路で届いた荷を保管し、船へ積む。
湖から来た荷を降ろし、再び街道へ送り出す。
その周囲には回船問屋や倉庫など、水運に関わる仕事も生まれた。
港町とは、陸を進んできた荷物を、水の道へ渡す場所だったのである。

大津──湖上の荷物を京都へ渡す玄関口
北から湖上を進んだ人や物の大きな集散地となったのが大津だった。
大津は平安京遷都以降、都の東側に位置する外港として発展した。
越前や若狭方面から峠を越えてきた人や物は、塩津・大浦・海津・今津などから琵琶湖水運へ入り、大津や坂本を経て京都へ運ばれた。
大津の水運がさらに発展するのは、戦国時代末である。
天正13年(1585)、豊臣秀吉が現在の浜大津に大津城を築き、湖上交通の統制を進めた。その中で、後に大津百艘船と呼ばれる船仲間が大きな力を持つようになる。
江戸時代になると、大津は港町であると同時に東海道の宿場町としても栄えた。
町には米問屋や米仲、百艘と呼ばれる船関係者、船大工など、水運と物流に関係する多くの仕事が存在していた。
しかし、船で大津へ着いても、京都まではまだ陸路が残る。
その道には逢坂山や日ノ岡峠といった難所があった。
そこで、牛車が重い荷を運びやすくするために使われたのが車石である。道路に石を敷き、車輪がぬかるみに沈むことを防いだ。大津から山科を経て京都へ向かう物資輸送を支える仕組みだった。
船から牛車へ。
湖から街道へ。
大津が栄えたのは、琵琶湖の終着点だったからではない。
水の道から陸の道へ荷を渡す結節点だったからなのである。

丸子船から汽船と鉄道へ変わった湖上交通
近世まで湖上物流を支えた船の世界は、明治時代に大きく変わる。
明治2年(1869)、琵琶湖で初めての蒸気船一番丸が就航した。
加賀国大聖寺藩によって建造された船で、帆や櫂だけに頼らない新しい湖上交通の時代が始まった。
さらに鉄道が琵琶湖へ近づく。
1880年には京都―大津間の鉄道が開通し、1882年には長浜港が大津―長浜間の連絡船のために整備された。翌1883年には鉄道連絡用の第一太湖丸・第二太湖丸が運航し、1884年には長浜―敦賀間の鉄道が全通する。
この時期には、
鉄道で敦賀から長浜へ。
長浜から大津までは船で。
そして大津から再び鉄道で京都方面へ。
という鉄道と琵琶湖水運を組み合わせた交通が使われた。
船は鉄道に置き換えられる前に、むしろ鉄道の途切れた区間を埋める役割を担ったのである。
しかし1889年、東海道線が全通すると、大津―長浜間を船で結ぶ鉄道連絡船の役割は終わった。
だからといって、湖上輸送がその瞬間に消えたわけではない。
丸子船もその後長く使われ、滋賀県の資料では昭和30年頃まで琵琶湖の船として活動していたとされる。
船から鉄道へ一度に交代したのではなく、重なりながら役割を変えていった。
そこに近代の琵琶湖交通の姿がある。
港と街道がつながって生まれた滋賀の地域性
琵琶湖水運から滋賀を見ると、この土地は「大きな湖がある場所」というだけではない。
北の塩津や海津では、北陸・若狭方面と湖上交通をつないだ。
湖では丸子船が物資を運んだ。
南の大津では、湖から上がった荷が東海道などへ渡され、京都へ向かった。
港と街道がつながることで、琵琶湖は大きな交通路になったのである。
その交通は町の姿にも影響した。
大津には米や船を扱う商人や職人が集まり、塩津は千年以上にわたる港として使われ、海津には港町・宿場町としての景観が残った。
滋賀の地域性の一部は、湖の恵みを受けて暮らしたことだけから生まれたのではない。
湖を使って外の地域とつながり続けたことからも形づくられてきたのである。
湖岸の町を見ると「水の道」が見えてくる
現在、滋賀県を移動するときの中心は鉄道や道路である。
湖岸の港にも、かつてのように米や塩を積んだ丸子船が並んでいるわけではない。
けれども、少し昔の交通を重ねてみると、琵琶湖の見え方は大きく変わる。
塩津には北陸方面から人や荷が入り、海津では街道と湖上交通がつながった。
そして大津は、湖を進んできた物資を京都へ送り出す玄関口となった。
琵琶湖は、滋賀県の真ん中にある巨大な空白ではない。
かつてはむしろ人と物が集まり、各地へ分かれていく中心の道だったのである。
次に塩津や海津、大津など湖岸の町を歩くなら、一度岸辺から水面を眺めてみたい。
今は静かな湖の上を、丸子船や汽船が行き交い、その船へ向かって街道から人や荷物が集まっていた。
そう考えると、琵琶湖は滋賀を囲む美しい風景だけではなく、京都・北陸・東国へこの土地を開いてきた水の道として見えてくるのである。
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