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大阪府・四天王寺──都の始まりを見守る伽藍

大阪市の上町台地に立つ四天王寺。聖徳太子の創建と伝えられる寺は、難波に本格的な宮が築かれるより早く、この土地に大伽藍を構えた。四天王寺式伽藍配置と度重なる再建から、大阪の都市の古層に残る祈りをたどる。

現在の四天王寺の周囲には、道路や住宅、高層の建物が広がっている。それでも中門を抜ければ、五重塔、金堂、講堂が南北に並ぶ古代寺院の骨格が目の前に現れる。

四天王寺の創建は推古天皇元年(593)と伝えられ、645年の難波遷都より半世紀ほど早い。大阪が後世の大都市へ成長するはるか以前、この場所にはすでに人々が祈るための大きな伽藍が置かれていた。今回は、都の始まりを見守る伽藍という視点から、四天王寺に積み重なった時間を見ていく。

難波の荒陵に立った仏教の拠点

四天王寺は大阪市天王寺区、南北に延びる上町台地の一角にある。

寺の公式由緒と『日本書紀』では、推古天皇元年(593)、聖徳太子によって難波の荒陵に建立されたと伝えられる。物部守屋との戦いの際、四天王に勝利を祈り、願いがかなえば寺院を建立すると誓ったことが創建の由来として語られてきた。

ここで大切なのは、創建伝承だけではない。

四天王寺が置かれた難波は、古くから大陸や朝鮮半島との往来に関わる土地だった。大阪市史でも、大化以前の難波について、外交や難波津、仏教伝来との関係が大きなテーマとして扱われている。新しい文化や知識が行き交う地域に、飛鳥時代を代表する大規模寺院が姿を現したのである。

さらに『四天王寺縁起』では、聖徳太子が敬田院・施薬院・療病院・悲田院からなる「四箇院」を設けたとも伝えられている。敬田院は寺院、施薬院・療病院は医療に関わる施設、悲田院は身寄りのない人々などを救う施設として説明されている。これは後世にまとめられた縁起に基づく伝承として見る必要があるが、四天王寺が礼拝だけでなく、学びや救済まで含む場所として記憶されてきたことは興味深い。

寺を中心に人が集まり、祈り、助けを求める。

四天王寺には、後世の大阪とは異なる姿をしていた時代から、人と場所を結びつけてきた祈りの記憶が残っている。

一直線の伽藍が伝える飛鳥の設計

四天王寺を象徴するものの一つが、四天王寺式伽藍配置である。

南から中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、その周囲を回廊で囲む。中国や朝鮮半島にも源流を持つとされる6〜7世紀の様式で、日本の古代寺院を考えるうえでも重要な配置となっている。

現在立っている五重塔や金堂が、飛鳥時代そのままの建物というわけではない。

それでも大阪市は、発掘調査の成果から主要な堂塔の位置が創建以来ほとんど変わっていないと説明している。つまり四天王寺では、建物そのものが何度失われても、伽藍の骨格が繰り返し同じ場所へ戻されてきたのである。

南から門を入り、塔を見上げ、その奥の金堂、さらに講堂へと進む。

現在の中心伽藍を歩くことで、古代の人々が意識した寺院空間の軸を、現代の大阪の街中でもたどることができる。

四天王寺では、建物一棟の「古さ」以上に、場所と配置が受け継がれてきたことが長い歴史を伝えているのである。

五重塔

難波宮へ続く都市の古層

四天王寺の創建と伝えられる593年から、およそ半世紀後の645年、孝徳天皇は都を難波へ移した。

現在の大阪市中央区法円坂周辺では前期難波宮の遺構が確認されており、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮にあたると考えられている。大阪市は、この宮を後の大極殿にあたる内裏前殿や広大な朝堂院を備えた、日本で最初の本格的な宮殿と説明している。

四天王寺と難波宮は同じ施設ではなく、当然ながら役割も異なる。

それでも、ともに上町台地とその周辺に展開した古代の大規模施設だった。

北には政治を担う宮があり、その南には仏教の大伽藍がある。さらに難波は古くから対外交流とも結びついていた。後世の大坂城下や商人の町よりはるか以前、この一帯にはすでに政治・信仰・交流が重なる歴史の層が形づくられていたのである。

やがて難波宮は役割を終え、政治の中心も別の土地へ移っていく。

しかし四天王寺は同じ場所に残り続けた。

平安・鎌倉時代には、西門から海へ沈む夕日を見ることが浄土信仰と結びつき、多くの人々が四天王寺を訪れた。渡辺津から四天王寺、住吉大社を経て熊野へ向かう道にも参詣者が行き交い、寺は古代国家の寺だけでなく、人々の信仰や旅とも深く結びついていった。

「都の始まりを見守った」という言葉は、一時期だけ宮のそばにあったという意味ではない。

政治の中心が移ったあともこの場所に残り、人々を集め続けたからこそ、四天王寺には大阪という土地の変化を長く見つめてきた時間が重なっている。

焼けても同じ場所へ戻された伽藍

四天王寺の歴史は、古い建物がそのまま守られ続けた歴史ではない。

むしろ、何度失われても同じ場所へ伽藍を戻してきた歴史だった。

長い年月の中で、寺は戦火や災害による被害を繰り返した。近代だけを見ても、昭和9年(1934)の室戸台風では五重塔が倒壊し、金堂や中門にも大きな被害が出た。昭和15年(1940)に五重塔は再建されたものの、昭和20年(1945)の大阪大空襲では、六時堂や五智光院、本坊方丈など一部を残して境内のほぼ全域が焼失した。

それでも復興は進められ、現在の中心伽藍は昭和38年(1963)に再建された。

現在の五重塔や金堂は鉄筋コンクリート造だが、創建時の伽藍様式を再現する形で復興されている。

一方、すべてが新しくなったわけではない。

西門の石造鳥居は永仁2年(1294)の建立で、六時堂や五智光院、本坊方丈などには元和9年(1623)に再建された建物が残っている。境内には中世、近世、昭和の復興と、異なる時代の建物が重なっているのである。

そして何より重要なのは、中心伽藍が失われるたびに放棄されなかったことだろう。

塔を置き、金堂を置き、講堂を置く。

その基本的な形を、再び同じ場所へ戻していく。

そこには、四天王寺という寺を建物だけではなく、場所と形を含めて受け継ごうとした記憶を感じることができる。

石鳥居

都市の変化を受け止めてきた寺

四天王寺をたどると、古い寺院とは「創建当時の建物が残っている場所」だけを指すのではないことが分かる。

現在の中心伽藍は戦後の復興によるものだ。それでも主要な堂塔は古代から続く配置を踏まえて並び、その周囲には中世の浄土信仰、近世の堂宇、近代の災害と戦災、そして戦後の再建まで、異なる時代の記憶が積み重なっている。

四天王寺が建てられたと伝えられるのは難波遷都より早く、その後、宮が築かれ、政治の中心が去ってからも寺は残り続けた。

大阪の姿が変わっても、同じ場所へ祈りの場を戻してきたことこそ、この寺に残る大きな記憶の一つなのである。

五重塔の向こうに古代の大阪を見る

現在の四天王寺を歩けば、境内の外には現代の大阪が広がっている。

天王寺区は今では交通や商業、文化施設が集まる大阪市内の都市空間の一つであり、四天王寺の周囲にも現代の街並みが続いている。

けれども中心伽藍に入ると、その街の下にさらに古い時間があることを感じられる。

五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ風景は、飛鳥時代の建物そのものではない。それでも、その場所へ伽藍を戻し続けてきた人々によって、古代の伽藍の記憶は現在までつながっている。

四天王寺を見るときは、聖徳太子ゆかりの寺としてだけでなく、その周囲で古代の難波が発展し、やがて本格的な宮が築かれ、その後も大阪という土地が姿を変え続けてきたことに目を向けてみたい。

次に五重塔を見上げるとき、その向こうにあるのは現代の空だけではない。

創建伝承、古代の伽藍配置、難波宮、中世の浄土信仰、戦火と再建。その長い時間を重ねて見ることで、現在の街の奥に大阪の都市の古層が静かに浮かび上がってくる。

四天王寺は、昔の建物をそのまま残した寺ではない。

それでも同じ場所に祈りの形を戻し続けてきたからこそ、大阪が大きく姿を変える時間を見守ってきた寺として、今もこの上町台地に立っているのである。

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