愛媛県・石手寺──石畳に残る巡礼の足音
愛媛県松山市の石手寺は、四国八十八ヶ所第五十一番札所として知られる古寺である。寺伝では奈良時代に始まり、寺名には衛門三郎伝説が結びつく。国宝の二王門や石畳の参道から、長い巡礼の中で人々が重ねてきた祈りの時間をたどる。
道後温泉から東へ進むと、やがて石手寺の門前へたどり着く。
石畳の参道を進んだ先に立つのは、鎌倉時代から残る国宝の二王門。その門を何世代もの参詣者や遍路がくぐってきた。
石手寺は、四国八十八ヶ所の第五十一番札所として広く知られている。
けれども、その魅力は「遍路の寺」という一言だけでは言い尽くせない。
奈良時代に始まるという寺伝、寺名と結びついた衛門三郎の物語、そして鎌倉時代の建築がまとまって残る境内。
そこには、古寺として積み重ねてきた時間と、歩いて祈る人々の時間が重なっている。
伊予の古寺として受け継がれた石手寺
石手寺は、愛媛県松山市石手にある真言宗豊山派の寺院で、四国八十八ヶ所霊場の第五十一番札所である。
その始まりについては、寺伝と確認できる歴史を分けて見ておきたい。
松山市によれば、寺伝では神亀5年(728)、聖武天皇の勅宣を受けた伊予の大領・越智玉澄が伽藍を創建したとされる。
四国八十八ヶ所霊場会の由緒では、その翌年の天平元年(729)に行基が薬師如来像を刻んで本尊とし、法相宗の安養寺として開いたと伝えている。
つまり、「728年に行基が石手寺を開いた」と単純にまとめるより、古い寺伝の中に複数の創建記事が伝わっていると見る方がよい。
さらに霊場会は、境内から出土した瓦などをもとに、前身寺院が白鳳時代ごろまでさかのぼる可能性も紹介している。これも確定した創建年代ではないが、石手寺の歴史を考える材料の一つになっている。
一方、現在の境内で確実に目にできる歴史は中世へさかのぼる。
鎌倉時代には伊予の有力武士・河野氏との関係が深まり、文保2年(1318)には河野通継が現在の二王門を建立したと伝えられている。

石手寺は、奈良時代の姿がそのまま残った寺ではない。
時代ごとに伽藍を整え、人々の信仰を受け止めながら、松山の地に長い時間を積み重ねてきた寺なのである。
衛門三郎伝説が石手寺の名に残る
石手寺を語るとき、欠かせないのが衛門三郎伝説である。
伝説では、伊予に暮らしていた衛門三郎は、托鉢に訪れた弘法大師を粗末に扱ったことを悔い、大師を追って四国を巡る旅へ出た。
しかし、なかなか弘法大師には会えない。
長い巡礼の末に倒れた衛門三郎は、来世で河野家に生まれたいと願ったとされる。
その後、河野家に生まれた子どもの手には石が握られており、そこに「衛門三郎再来」と記されていた。
その石が寺へ納められ、寛平4年(892)、それまでの安養寺から石手寺へ改められたというのが、寺に伝わる由来である。
もちろん、これは歴史上の出来事として確認された話ではない。
四国八十八ヶ所霊場会も、石手寺を「遍路の元祖・衛門三郎ゆかりの寺」として紹介しているが、それはあくまで四国遍路に伝わる代表的な伝説としての位置づけである。
それでも、この物語が長く語り継がれてきたことには意味がある。
衛門三郎は、自らの過ちを悔い、弘法大師を求めて歩き続ける。
ここでは巡礼が、目的地へ到着するだけの旅ではなく、歩きながら自分自身と向き合う時間として描かれている。
現在の四国遍路にも、供養、修行、願い、癒やしなど、さまざまな思いを抱えて歩く人がいる。
衛門三郎伝説は、その「歩く祈り」を象徴する物語の一つとして、石手寺の名そのものに残っているのである。
第五十一番札所に積もった巡礼の時間
石手寺は、四国八十八ヶ所の第五十一番札所である。
現在も前の第五十番・繁多寺から石手寺へ参り、次の第五十二番・太山寺へ向かう遍路の流れの中に置かれている。
ただし、現在のような八十八ヶ所の巡礼が最初から同じ形で存在していたわけではない。
文化庁の日本遺産では、四国巡礼の源流を、平安時代に僧侶や修験者が弘法大師ゆかりの聖地を巡ったことに求めている。
やがて一般の人々も加わり、江戸時代には交通の発達と弘法大師信仰の広がりによって、四国遍路は民衆にも広く行われるようになった。
さらに貞享4年(1687)には、僧・真念が『四国遍路道指南』を刊行する。
寺番を付した八十八ヶ所が文献で確認できる初期の例であり、その後、道標や案内書も整えられていった。
そうした巡礼の歴史の中で、石手寺も多くの人を迎えてきた。
題名にある石畳も、その時間を感じさせる景色の一つである。
現在の石畳そのものを、何百年もの遍路が同じ状態で踏み続けたと考える必要はない。
それでも、参道を進み、門をくぐり、本堂へ向かうという行為は、時代を越えて繰り返されてきた。
修行者が歩く。
江戸時代の民衆が歩く。
そして現在も白衣姿の遍路や参拝者が歩く。
歩く人が絶えないことそのものが、札所の時間をつくってきたのである。

二王門と境内に残る鎌倉時代の姿
石手寺でひときわ目を引くのが、国宝の二王門である。
国指定文化財等データベースでは、現在の門は文保2年(1318)に河野通継が再建したとされる。
三間一戸の楼門で、建物全体の均整や細部の彫刻が優れ、現存する鎌倉時代の楼門を代表する建築として評価されている。
左右に立つ金剛力士像も古い。
松山市によれば、仁治元年(1240)の年紀を記した紙片が修理時に確認されており、このころの制作と考えられている。現在は国の重要文化財である。
そして二王門だけが古いわけではない。
本堂も二王門とほぼ同時期の建築とされ、鎌倉時代末期の特徴をよく残す重要文化財である。
三重塔も鎌倉時代後期の建物で、こちらも国の重要文化財に指定されている。
ほかにも鐘楼、訶梨帝母天堂、護摩堂など、境内には複数の国指定重要文化財が残されている。
ここまで中世の建物が重なると、石手寺の見え方も少し変わる。
「遍路で有名な寺」の背景に古建築があるのではない。
中世から続く大きな寺院空間の中へ、後の四国遍路の記憶も積み重なっていったのである。
二王門をくぐるという何気ない動作も、その歴史を知れば、700年ほど前から立つ門を通って境内へ入る行為になる。
石手寺では、巡礼の時間と建築の時間が同じ場所に重なっている。
古寺に重なっていった遍路の記憶
石手寺を見ていくと、古寺としての歴史と遍路札所としての歴史を、一つにまとめすぎないことが大切だと分かる。
奈良時代に始まるという寺伝があり、中世には河野氏との関係の中で現在まで残る二王門や本堂、三重塔が整えられた。
そこへ衛門三郎の物語が結びつき、やがて八十八ヶ所を歩く遍路の流れの中で、多くの人々がこの寺を訪れるようになった。
古い寺があり、そこへ巡礼の記憶が何層にも重なった。
石手寺の魅力は、どちらか一方だけではなく、その二つの時間を同時に感じられるところにある。
石畳を歩くと見えてくる四国遍路の時間
石手寺を訪れれば、まず国宝の二王門や三重塔に目を奪われるかもしれない。
けれども少し歩みをゆるめ、足元の石畳や、門を出入りする人々へ目を向けると、この寺の別の姿が見えてくる。
四国遍路は、最初から現在と同じ八十八ヶ所巡礼だったわけではない。
修行者たちの巡礼から始まり、長い時間をかけて民衆へ広がり、道標や案内書が整えられ、今も人々が四国を歩いている。
その途中に、石手寺はある。
衛門三郎伝説が語るように、遍路には「歩くことで何かを求める」という姿が重ねられてきた。
現代でも、願いを持つ人、供養のために歩く人、自分自身と向き合うために歩く人が、この門をくぐっていく。
だから石畳に残る巡礼の足音とは、昔の足跡がそのまま石に刻まれているという意味ではない。
時代が変わっても、誰かがここへ歩いてきて、手を合わせ、また次の道へ出ていく。
その繰り返しが、石手寺を第五十一番札所として現在までつないできた。
次にこの参道を歩くなら、古い建物だけでなく、自分もまたその道を歩く一人であることを少し意識してみたい。
二王門の向こうには、何世代もの祈りが通り過ぎてきた四国遍路の時間が、今も静かに続いているのである。
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