
佐賀藩と反射炉の技術革新
現在の佐賀県の歴史を語るうえで欠かせない佐賀藩は、長崎警備という役割から海外の脅威と早く向き合った。鍋島直正のもと、反射炉による鉄製大砲の鋳造に挑戦し、さらに精煉方へ研究を広げた歩みから、佐賀に生まれた技術革新を見ていく。
幕末の佐賀というと、反射炉や鉄製大砲を思い浮かべる人もいるだろう。しかし、佐賀藩の技術革新は、突然現れた「先進技術」ではなかった。
その背景には、長崎を守るという役割、西洋から得た新しい知識、そして佐賀に蓄積されていた職人たちの技があった。
なぜ佐賀で反射炉が実用化され、そこから新しい技術が次々と育っていったのか。その流れをたどると、幕末の佐賀が置かれていた土地の条件まで見えてくる。
長崎警備が佐賀に突きつけた技術の課題
江戸時代、佐賀藩は福岡藩と交替で長崎港の警備を担っていた。
長崎はオランダや中国との交易窓口であると同時に、海外から日本へ船が近づいてくる最前線でもあった。長崎警備には大きな負担が伴ったが、その一方で、佐賀藩が海外情勢を比較的早く知ることのできる環境にもつながった。
19世紀に入ると、その役割はさらに重くなる。
文化5年(1808)のフェートン号事件では、イギリス軍艦が長崎港へ侵入し、当番だった佐賀藩も警備責任を問われた。そして天保11年(1840)に始まったアヘン戦争で清がイギリスに敗れると、西洋諸国の軍事力はさらに現実的な脅威として意識されるようになる。
天保元年(1830)に藩主となった鍋島直正は、藩政改革を進めながら長崎警備の強化にも力を入れた。弘化元年(1844)にはオランダ船パレンバン号に乗り込み、艦砲の操作や兵士の訓練を見学している。同じ年には火術方も設けられ、オランダ式の軍事技術の導入が進められた。
ここで必要になったのが、長崎港の防備を支える強力な大砲だった。
佐賀藩は幕府に砲台増築を求めたが受け入れられず、自ら海防強化へ動いていく。長崎港に新たな台場を築き、そこへ大量の洋式砲を備えるためには、自分たちで鉄を溶かし、大型の鉄製大砲を造る技術が必要だった。
長崎を守る必要が、佐賀藩を本格的な技術開発へ向かわせたのである。

築地反射炉──失敗から生まれた鉄製大砲
嘉永3年(1850)、佐賀藩は佐賀城下の築地で反射炉の建設に着手した。
反射炉とは、燃料を燃やした熱を炉内の壁や天井に反射させ、高温で金属を溶かす炉である。佐賀藩では嘉永5年(1852)4月までに4炉、2基の反射炉を完成させた。佐賀市は築地反射炉を「日本初の実用反射炉」と位置づけている。
ただし、海外の技術書を読めば、そのまま鉄製大砲を造れたわけではない。
反射炉を使った鋳造は失敗を繰り返した。手引きとなったオランダの鋳造技術書を読み解く蘭学者たちの知識に、刀工や鋳物師らが持っていた伝統的な加工技術を加え、改良が重ねられていく。
その結果、嘉永5年5月には良好な溶鉄を得られるようになり、佐賀藩は反射炉を使った鉄製大砲の鋳造を実用化していった。
ここに佐賀藩の技術革新の特徴が見える。
西洋の技術を、そのまま「輸入」したのではない。
書物から得た知識を読み解き、実際に炉を築き、失敗の原因を探し、すでに国内にあった職人の技と組み合わせながら、自分たちで使える技術へ変えていった。
反射炉とは一つの大きな設備だが、それを動かしたのは翻訳する人、炉を築く人、鉄を扱う人、大砲を仕上げる人など、多くの知識と技術だった。
佐賀の近代化は、一人の発明家によって生まれたものではない。異なる知識や技能を集め、それを一つの目的へ結びつけることで進んでいったのである。

反射炉から精煉方へ広がった技術研究
鉄製大砲の鋳造が実用化された嘉永5年(1852)、佐賀藩ではもう一つ重要な組織が生まれた。
精煉方である。
精煉方は同年11月に設けられた理化学研究所で、当初は大砲鋳造を支える洋書の翻訳や薬剤、煙硝などの試験を行っていた。その後、研究対象は蒸気機関や電信機などへ広がっていく。
その中心にいたのが佐野常民だった。
佐野のもとには、中村奇輔、石黒直寛、田中久重父子ら、異なる分野の知識や技術を持つ人々が集められた。新しい技術を一人に頼るのではなく、必要な人材を集め、研究と試作を行う場そのものが作られていったのである。
興味深いのは、ここでも「知識を得る」だけでは終わっていないことだ。
蒸気機関については書物をもとに雛形を作り、構造を理解しようとした。さらに長崎へ赴き、外国船の蒸気機関を調べる。安政2年(1855)には、蒸気船・蒸気車の雛形製作が進められた。
反射炉で見られた、調べ、試し、失敗し、改良するという姿勢が、大砲とは別の分野へ広がっていったようにも見える。
佐賀という土地に人と知識を集め、それを実験できる場をつくる。
反射炉そのもの以上に、この技術を育てる仕組みが、佐賀藩の近代化を支えていった。

大砲だけでは終わらなかった佐賀藩の近代化
嘉永6年(1853)にペリー艦隊が浦賀へ来航すると、佐賀藩が身につけた技術は、藩内の海防だけにとどまらなくなる。
幕府は江戸湾防備のため、佐賀藩へ鉄製大砲50門を発注した。佐賀藩は多布施に「公儀石火矢鋳立所」を新設し、幕府向けの鉄製大砲を製造する。そこで造られた大砲は、品川に築かれた砲台へ据えられていった。
技術の対象は、やがて海へも広がっていく。
佐賀藩士たちは長崎海軍伝習所で航海術や海軍技術を学んだ。安政5年(1858)には三重津に船手稽古所が設けられ、その後、蒸気船の修理や建造にも対応する海軍拠点へ発展していく。
そして慶応元年(1865)、三重津では日本初の実用蒸気船とされる「凌風丸」が完成した。
こうして振り返ると、反射炉は一つの完成地点ではなかったことが分かる。
鉄を溶かすための研究から、大砲、理化学、蒸気機関、海軍、造船へと技術の範囲が広がり、それに合わせて学ぶ人、造る人、研究する場所も増えていった。
佐賀藩が獲得していったのは、特定の兵器だけではない。
新しい技術を自分たちで理解し、試し、形にする力だったと見ることができる。
その技術の一部は、明治以降の佐賀にも残った。精煉方で薬剤や火薬の試験に使われたガラス製造の技術は、明治に入ると民間へ移り、その宙吹きの技法は現在の肥前びーどろへ受け継がれている。
長崎警備から生まれた佐賀の技術集積
佐賀藩の反射炉を「幕末の最新設備」とだけ見ると、その背景にある土地の歴史は見えにくい。
佐賀が技術革新へ進んだ大きな理由の一つには、長崎警備を担い、海外の動きや軍事力と早くから向き合う立場にあったことがある。
そこへ鍋島直正の藩政改革、人材育成、蘭学の蓄積、職人たちの技術が重なった。
その結果、反射炉だけで終わらず、精煉方、多布施反射炉、三重津へと、異なる技術を研究し実用化する場所が佐賀に集まっていった。
つまり、佐賀の近代化は「先進的な藩主がいた」という説明だけでは収まらない。
長崎との地理的・政治的なつながり、人を育てる仕組み、外から得た知識、地域に蓄積された技術。それらが結びついたことで、佐賀に技術を試し、育てる環境が形づくられていったのである。
反射炉の跡から見える「つくる力」
現在、築地反射炉そのものは残っていない。その跡は佐賀市長瀬町の日新小学校周辺にあり、多布施にも反射炉が置かれた歴史が伝えられている。三重津海軍所跡や佐賀城本丸歴史館まで視野を広げると、一見別々に見える場所が、幕末佐賀藩の技術革新という流れでつながって見えてくる。
佐賀藩が最初から西洋と同じ技術を持っていたわけではない。
書物から学び、実物を見て、職人の経験を重ね、失敗を繰り返しながら、自分たちで造れるものへ変えていった。
反射炉は、その姿勢が大きな形となって現れた場所だった。
佐賀の幕末史をたどるとき、「どんな最新技術を持っていたのか」だけでなく、なぜ佐賀でそれを造れるようになったのかを見ると、この土地の歴史はさらに立体的になる。
長崎警備から生まれた危機感が、新しい知識を求める動きを強めた。そこへ人材と職人の技が集まり、反射炉から精煉方、そして三重津へと研究と実践の場が広がっていった。
現在の佐賀に残る史跡や技術の系譜の向こうには、幕末の人々が未知の技術を自分たちの手で形にしようとしたつくる力が残っている。
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