
平城京遷都──律令国家はなぜ新しい都を必要としたのか
平城京遷都は、藤原京が使えなくなったための単純な移転ではない。朝廷は藤原京での都づくりを受け継ぎながら、新たな知識や立地条件も踏まえて708年に遷都を決め、710年に平城京へ移った。都を造り直した理由から律令国家の変化を見る。
701年に大宝律令が成立したころ、朝廷にはすでに藤原京という本格的な都があった。
それにもかかわらず、707年には遷都についての議論が行われ、708年には平城への遷都が正式に決まる。そして710年、元明天皇は新しい都へ移った。
なぜ、造られて間もない藤原京を離れたのか。
平城京遷都を考えるとき、大切なのは「藤原京が失敗したから」と一つの理由で片づけないことである。
そこには、藤原京で積み重ねた都づくりの経験と、新たに得られた大陸の知識、そして都を置く土地そのものへの考え方が重なっていた。
律令国家にはすでに藤原京があった
前回の「律令国家の成立」では、壬申の乱後の王権が、法や戸籍、官人制度によって継続して国を動かす仕組みへ変わっていく流れを見た。
その政治を支えた都の一つが藤原京である。
持統8年(694)、持統天皇は藤原宮へ移った。
藤原京は、宮殿の周囲に人が集まっただけの町ではない。
宮を中心に条坊道路をめぐらせ、官人の宅地や寺院などを配置した、日本で最初の本格的な中国式都城だった。
しかも、近年の発掘調査では、従来考えられていた範囲の外側にも道路や宅地が確認され、藤原京が平城京をしのぐほど広大だった可能性も見えてきている。
だから、平城京遷都を「藤原京が狭くなったから」と説明することはできない。
701年には、この藤原京で大宝律令が完成した。
つまり律令国家は、すでに藤原京という計画都市の中で動き始めていたのである。
律令国家の都が平城京から突然始まったわけではない。
藤原京こそ、その大きな出発点だった。
だからこそ問いが残る。
本格的な都がすでにあり、国家の制度も整い始めていた。
それでも朝廷は、なぜ新しい都を造ろうとしたのだろうか。
なぜ、それでも平城京へ移ったのか
遷都の動きは、元明天皇の即位後に突然始まったわけではない。
慶雲4年(707)には、五位以上の諸王・諸臣に遷都について議論させたことが『続日本紀』に記されている。
そして和銅元年(708)、平城への遷都を命じる詔が出された。
その詔では、平城の土地について、四方の地勢や山々が都を置くのにふさわしいとする考えが示されている。
ただし、これだけで遷都の理由すべてが分かるわけではない。
現在の研究では、いくつかの要因が考えられている。
その一つが、遣唐使を通じてもたらされた唐の都城に関する新しい知識である。
藤原京では宮が都の中央付近に置かれていた。
それに対して平城京では、宮を都の北側へ置き、そこから南へ朱雀大路を延ばす構成が採られた。
唐の長安など、大陸の都城を意識した配置である。
また、藤原京では南側が高く、宮のある中央部が低いという地形上の問題も指摘されている。
平城京は奈良盆地北端の地形を利用し、北側の高い位置へ宮を置くことができた。
新しく得た都城の知識と藤原京で経験した現実的な課題。
そうしたものが重なった結果として、平城への遷都を考えることができる。

しかし、平城京は藤原京を否定して造られた都ではなかった。
発掘調査では、平城宮や平城京から飛鳥・藤原地域に由来する瓦や土器も見つかっている。
新しい都を造りながら、それまでの都づくりを受け継ぐ。
そこに平城遷都の大きな特徴がある。
新しい都で律令国家はどう動いたのか
和銅3年(710)、元明天皇は平城京へ移った。
ただし、その日に新しい都のすべてが完成していたわけではない。
遷都前から造営は進められていたが、平城京の建設は人々の宅地や耕地にも大きな影響を与えていた。
709年には、元明天皇自身が新京を巡り、移転や造営によって負担を受けた人々を慰撫したことも記録されている。
都を造りながら、そこで政治を始める。
それが710年の平城京だった。
都の北側には平城宮が置かれる。
そこには天皇の生活空間である内裏だけではなく、大極殿や朝堂院をはじめ、国家的な儀式や政務を行う空間が整えられていった。
そして宮から南へは、幅約74メートルにもなる朱雀大路が延びていた。
官人が集まる。
文書が作られる。
朝廷の命令が地方へ伝えられる。
地方からは人や物、情報が都へ集まってくる。
都は、天皇の住まいだけではない。
中央と地方を結び、律令国家を日々動かす政治の中心でもあった。

さらに平城京には寺院や市場が置かれ、多くの人々が暮らした。
遣唐使などを通じて、新しい文化や知識も入ってくる。
平城京は、政治だけではなく、経済や文化までが集まる奈良時代の大きな中心へ育っていったのである。
平城京は一度で安定した都になったのか
平城京は奈良時代を代表する都となった。
しかし、「710年に平城京へ移り、そのまま784年まで同じ都で政治が続いた」と考えると、実際の歴史とは少し違う。
聖武天皇の時代には、都そのものが大きく動く。
天平12年(740)、藤原広嗣の乱をきっかけとして恭仁京へ遷都する。
その後も紫香楽宮の造営が進み、744年には難波宮が都とされ、745年には再び紫香楽へ政治の中心が移った。
そして同じ745年、朝廷は平城京へ戻る。
つまり平城京は、奈良時代を通して一度も揺らがなかった都ではない。
国家の政治状況に応じて、都そのものが動く可能性は残され続けていた。
それでも平城京へ戻ったあと、784年に長岡京へ移るまで、この都は再び朝廷政治の中心として使われた。
その間には、皇族や貴族、官人、寺院など、さまざまな人や組織が都に集まっていく。
長く政治の中心として使われれば、人脈や利害関係も積み重なる。
ただし、それをそのまま「だから桓武天皇は平城京を捨てた」と結びつけることはできない。
長岡京遷都には、政治状況、交通、地理、旧来の勢力との関係など、複数の要因が考えられている。
ここで見ておきたいのは、平城京を造ったことで、都づくりが終わったわけではなかったということである。
藤原京を捨てるのではなく、その先へ進んだ遷都
平城京遷都は、藤原京が失敗したための単純なやり直しではない。
藤原京ではすでに、本格的な都城の中で律令国家を動かす試みが始まっていた。
そして、その経験が平城京へ受け継がれた。
一方で、遣唐使がもたらした新しい都城の情報や、藤原京で見えてきた立地上の課題もあった。
朝廷は、それらを踏まえて新しい政治の中心を造った。
藤原京で始めた都城国家を、別の場所で組み直す。
そこに平城京遷都の意味が見えてくる。
これは、律令国家が制度だけを整えて終わるのではなく、その制度を動かす空間まで何度も考え直していたことを示す遷都だった。
国家の中心となった都が、次の課題を生む
藤原京で始まった都城国家の経験は、平城京へ受け継がれた。
そして平城京では、政治、儀式、官人、物資、文化が集まり、奈良時代の国家を支える大きな中心がつくられていく。
平城京は、律令国家を目に見える都市として表した場所でもあった。
しかし、都は一度完成すれば永遠に使われるものではなかった。
聖武天皇の時代には何度も政治の中心が移り、やがて平城京へ戻る。
そして784年、桓武天皇は再び大きな決断をする。
今度は平城京を離れ、長岡京へ都を移すのである。
平城京が失敗したからではない。
むしろ長く国家の中心として使われてきた都を離れるからこそ、その決断には新しい問いが生まれる。
なぜ桓武天皇は、奈良時代を支えてきた平城京を離れたのか。
律令国家と都の関係は、ここで終わらない。
歴史は次の長岡京遷都へ進んでいく。
平城京遷都──元明天皇はなぜ国家の中心を作り直したのか
平城京遷都──藤原不比等はどう国家運営を支えたのか
前回:律令国家の成立──勝ち取った王権はどう制度になったのか
次回:長岡京遷都──桓武天皇はなぜ平城京を離れたのか
ひとつ上のまとめ:日本史が動く瞬間