
栃木県・日光山輪王寺──山の奥で守られた祈り
日光東照宮の隣にありながら、輪王寺の歴史は徳川家よりはるかに古い。勝道上人が開いた日光山では、山と神と仏を重ねる信仰が育ち、三仏堂へ受け継がれた。神仏分離という大きな変化も越え、山の奥で守られてきた祈りをたどる。
日光を訪れると、華やかな東照宮へ目が向きやすい。
けれども、その周囲には徳川家が日光へ来るよりはるか以前から続く、もう一つの時間がある。
その中心の一つが日光山輪王寺である。
輪王寺とは三仏堂だけを指すのではなく、大猷院や開山堂、四本龍寺、さらに奥日光の別院など、日光山に広がる寺院のまとまりでもある。
そこに残っているのは、山へ入り、その峰に神と仏を重ねながら祈ってきた人々の記憶だ。
今回は、山岳信仰の霊場としての日光から輪王寺を見ていく。
勝道上人が山へ開いた祈りの道
日光山の歴史は、天平神護2年(766)、勝道上人がこの地へ入り、四本龍寺を開いたことに始まると伝えられている。
勝道上人は下野国に生まれ、遠くに見える男体山への登頂を志した修行者だった。
日光市の歴史年表では、766年に大谷川を渡って四本龍寺を創建し、その後、何度か男体山への登攀を試みた末、延暦元年(782)に山頂へ到達したとされている。
ここで大切なのは、最初から現在のような大寺院を築くことが目的だったわけではないことである。
勝道上人が向かったのは、建物の整った境内ではなく山そのものだった。
険しい峰へ入り、森や湖に触れ、その中で修行する。
そこから日光山の信仰は少しずつ広がっていった。
勝道上人の後にも修行者が集まり、平安時代には空海や円仁の来山伝説が伝えられる。中世には天台・真言両宗を学ぶ僧たちが集う場となり、源頼朝からの寄進なども受け、関東を代表する霊場へ発展していった。
日光山という名が示すように、ここでは寺の建物だけが聖地なのではない。
男体山、女峰山、太郎山。
その間に広がる森や湖、山道まで含めて、山へ入ることそのものが祈りにつながる場所となっていったのである。

三仏堂──三つの山を仏として拝む
輪王寺の総本堂が三仏堂である。
堂内には千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音という三体の大きな仏が祀られている。
この三仏は、それぞれ男体山・女峰山・太郎山に重ねられた本地仏である。
男体山には千手観音。
女峰山には阿弥陀如来。
太郎山には馬頭観音。
山を神聖なものとして仰ぐ信仰と、仏教の世界が重なり、日光三所権現の信仰が形づくられていった。
これは、神と仏を必ずしも分けずに捉えてきた神仏習合の世界をよく表している。
現在では神社と寺院を別の場所として見ることが多い。
しかし近代以前の日光では、山、その山に宿る神、そして本来の姿とされた仏が一つの信仰の中で結びついていた。
現在の三仏堂は、正保2年(1645)に三代将軍徳川家光によって再建された建物で、国の重要文化財となっている。
輪王寺では、東日本最大級の木造仏堂として位置づけられている。
だが、三仏堂の大きさだけを見ても、その意味のすべては見えてこない。
三体の仏の向こうには、三つの山がある。
仏を拝むことと、日光の山を拝むことが重なっていた時代を意識すると、三仏堂は巨大な建築というだけでなく、日光という土地の信仰そのものを堂内へ映した場所として見えてくる。
徳川家が重ねた新しい日光山の
輪王寺を含む日光山の歴史に、大きな変化を加えたのが徳川家だった。
江戸時代には天海が日光山と深く関わり、元和3年(1617)には徳川家康が東照大権現として日光へ祀られる。
さらに三代将軍家光の時代には東照宮の大造替が行われ、三仏堂も正保2年(1645)に再建された。
古くから続く山岳霊場へ、徳川将軍家の信仰と権威が新しく重ねられていったのである。
その家光自身も、死後は日光へ葬られた。
慶安4年(1651)に家光が亡くなると、その遺命を受けて霊廟の造営が進められ、承応2年(1653)に大猷院が完成した。
現在も輪王寺を代表する建築群の一つで、本殿・相の間・拝殿は国宝に指定されている。

ただし、ここで輪王寺を「徳川家の寺」だけとして見ると、それ以前の長い時間が見えにくくなる。
家康や家光が日光に祀られるより前から、人々は山へ入り、神と仏へ祈ってきた。
徳川家の時代は、その古い霊場を消したのではない。
それまでの信仰の上へ、新しい祈りと建築を重ねた時代だったと見る方が、日光山の歴史には合っている。
現在、輪王寺・東照宮・二荒山神社と日光山内は「日光の社寺」として世界文化遺産を構成している。
そこでは個々の建築だけでなく、古くからの山岳信仰と山林を含む宗教空間が一体となって残されていることも重要なのである。
神仏分離を越えて残された寺院群
長く「日光山」という一つの霊場の中で重なってきた神と仏は、明治時代に大きな転換を迎える。
明治政府による神仏分離で、それまで密接に結びついていた寺院と神社を分けることが求められた。
日光も例外ではなかった。
現在の輪王寺・東照宮・二荒山神社という区分が生まれ、三仏堂にも大きな変化が及んだ。
三仏堂はそれまで、現在の二荒山神社にあたる新宮の境内地に建っていた。
神仏分離にともなって一時解体され、明治14年(1881)、輪王寺門跡・彦坂諶厚らの尽力によって現在地へ移築された。
建物をそのまま元の場所へ残すことはできなかった。
それでも、堂そのものと内部の信仰は次の場所へ受け継がれたのである。
ここには、守られるということは、何も変わらないことではないという輪王寺の歴史がよく表れている。
日光山の信仰は、千年以上ずっと同じ形だったわけではない。
山と神と仏を重ねた時代があり、徳川家によって新しい建築が加えられた時代があり、近代には神と仏を分けなければならない時代もあった。
それでも三仏堂の仏は残った。
家光を祀る大猷院も残った。
山内各地の堂宇や奥日光の別院も、現在まで輪王寺の信仰をつないでいる。
山の奥で守られた祈りとは、変わらなかった祈りではない。
変化のたびに形を整え直しながら、次の時代へ渡されてきた祈りなのである。
山全体に広がっていた輪王寺の祈り
輪王寺をたどると、一つの大きな寺だけを見ているのではないことが分かる。
始まりには、勝道上人が目指した男体山がある。
やがて男体山・女峰山・太郎山と、それぞれの本地仏を重ねる信仰が育った。
そこへ徳川家の霊廟が加わり、明治の神仏分離を経ても、寺院としての信仰は形を変えながら受け継がれた。
輪王寺とは、一つの建物ではなく、日光山に広がる祈りのまとまりなのである。
三仏堂、大猷院、開山堂、四本龍寺、さらに奥日光の中禅寺や温泉寺。
それぞれを別の名所として見るだけではなく、長い時間の中で広がってきた日光山という宗教空間の一部として見ると、輪王寺の姿はよりはっきりしてくる。
杉木立の向こうに古い日光を見る
現在の日光山内を歩けば、多くの人の目は華やかな東照宮へ向かうだろう。
その近くに建つ三仏堂は、極彩色に覆われた東照宮と比べれば、落ち着いた印象を受けるかもしれない。
けれども日光の時間をさかのぼれば、その静けさの向こうに徳川家より古い山の信仰が見えてくる。
勝道上人が男体山を目指した。
後に続く人々が峰へ入り、山に神を感じ、その姿を仏へ重ねた。
江戸時代には徳川家の祈りが加わり、明治には神と仏を分ける大きな変化を経験した。
そのたびに形は変わっている。
それでも、山へ祈りを向ける場所そのものは失われなかった。
次に輪王寺を訪れるなら、三仏堂の正面だけではなく、その背後に続く日光の山にも目を向けてみたい。
杉木立の向こうには、千年以上にわたり人々が入り、修行し、祈ってきた山がある。
その山まで含めて眺めたとき、輪王寺は一つの寺院ではなく、長い時間をかけて守り直されてきた日光の祈りとして見えてくるのである。
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