
宮崎県・飫肥杉──藩の山林経営が育てた林業
宮崎県日南地域に広がる飫肥杉の森は、自然条件だけで生まれた産地ではない。飫肥藩は財政を支えるため造林を奨励し、領民と収益を分ける仕組みも育てた。杉が弁甲材となり、川と運河を通って海へ出るまで、林業が地域を結んだ歴史をたどる。
飫肥と聞けば、石垣や武家屋敷が残る城下町を思い浮かべるかもしれない。
けれども、その町を取り囲む山々にも、飫肥藩の歴史は深く刻まれている。
江戸時代、飫肥藩は財政を支える産物として杉の造林を進めた。そこで育てられた杉は、やがて造船用材として各地へ送り出され、日南の山々は独特の林業地へ成長していく。
木を植え、何十年も育てる。
山から伐り出し、加工する。
川を流し、運河を通して港へ送り、さらに船で遠くへ運ぶ。
その流れをたどると、山の経営が地域全体を結んでいた姿が見えてくる。
山の多い飫肥で育てられた杉
現在の日南市周辺は、温暖で雨が多く、広渡川などの河川が山地から日向灘へ流れ出している。
こうした自然条件は杉の生育に適していた。
しかし、現在まで続く飫肥杉の林業地が、気候だけによって自然に生まれたわけではない。
大きなきっかけとなったのが飫肥藩による造林の奨励だった。
林野庁の資料では、宮崎県南部の飫肥地域では江戸時代初期の1600年代から挿し木による杉造林が行われた記録があり、藩が植林を奨励した背景には、窮乏していた財政を立て直し、木材を領外へ販売する狙いがあったとされている。
そこで育てられた飫肥杉は、造船材に適した性質を持っていた。
飫肥杉は成長が早く、年輪幅が広い。軽くて浮力に富み、弾力があり、衝撃への抵抗力も大きい。また樹脂分が多いという特徴もある。こうした材質が、木造船の船板などに向いていた。
そして造船用材を得るため、飫肥では独特の育て方も発達した。
木を密に植えるのではなく、植える間隔を広く取る疎植で一本一本を大きく成長させる。
林野庁の資料には、1ヘクタールあたり750本という植栽例も記されている。伐採までの期間は60~80年ほどとされ、枝打ちや間伐をほとんど行わず、大きく育てた木から造船用材を取った。

つまり飫肥の山には、ただ杉が生えていたのではない。
どのような材をつくり、どこへ売るのかを考えながら、人の手によって長い時間をかけて育てられた森が広がっていったのである。
藩と領民が山を育てた「部分林」
飫肥林業を特徴づけるものの一つが、部分林と呼ばれる仕組みである。
藩が所有する山などへ下級武士や農民が杉を植え、成長した木を伐採したとき、その収益を藩と植林した側で分ける。
現在でいう分収造林につながる仕組みであり、飫肥では江戸時代からこうした方法を使って造林が進められた。
取り分は時代や契約によって一様ではなかった。
その中で多く見られたとされるのが、藩が3分の1、領民側が3分の2を受け取る三部一山である。植林後の数年間、林地で農作物を育てることを認める例などもあり、山を利用する条件にはさまざまな形があった。
ここで重要なのは、杉が短期間で収穫できる作物ではないことである。
造船用の弁甲材を取る木は、60~80年ほどかけて育てられた。
木を植えた人が、その木の伐採まで見届けられるとは限らない。
だから林業を続けるには、個人の努力だけではなく、何十年先まで山を使い続けられる仕組みが必要になる。
飫肥では、その一つが部分林制度だった。
さらに造林方法にも特徴がある。
飫肥杉では、苗畑で育てた苗木だけでなく、杉から取った穂木を直接林地へ挿す直挿し造林も行われた。
現在残る三ツ岩の古い飫肥杉林も、明治11年(1878)に付近の造林地から穂を取り、林地へ直接挿して育てたものとされている。
藩が山を用意する。
領民が植え、育てる。
そして将来の収益を分ける。
飫肥林業は、山林を長期的な生産の場として社会の中へ組み込む仕組みによって育てられていったのである。
弁甲材は山から油津港へ運ばれた
杉は、山で大きく育てるだけでは商品にならない。
伐採し、加工し、買い手のいる土地まで運ぶ必要がある。
飫肥林業を成長させたもう一つの力が、その運ぶ仕組みだった。
飫肥杉からつくられた代表的な商品が、木造船の材料となる弁甲材である。
大きく育てた杉を6~15メートルほどの長材とし、丸太の両面を「はつり」と呼ばれる方法で削る。
この加工によって材質を確認しやすくなり、山からの運搬や船積みもしやすく、船板へ加工するのにも適した形になった。
山から出された弁甲材は、広渡川を利用して下流へ送られた。
そして木材輸送をさらに支えたのが堀川運河である。
堀川運河は、広渡川と油津港を結ぶために開削され、貞享3年(1686)に完成した。林野庁の資料では、飫肥藩主・伊東祐実の命によって造られ、飫肥林業の発展に大きく寄与したとされている。

弁甲材は広渡川を流され、堀川運河を通り、運河沿いの貯木場や加工場へ集められた。
そこで加工された材は油津港から船へ積まれ、各地へ送り出される。
藩政期には大阪、瀬戸内海、北九州方面へ販売され、海運の発達とともに需要を広げていった。
つまり飫肥杉は、
山林→川→運河→油津港→海運
という一続きの物流があって、初めて遠くへ売ることのできる商品になったのである。
林業が山村・城下・港町をつないだ
飫肥杉が地域を支えたというと、「木を売って藩が利益を得た」という話だけに見えやすい。
しかし、一本の杉が港へ着くまでには、多くの人の仕事が重なっていた。
山で杉を植える人がいる。
長い年月をかけて育てる人がいる。
木を伐り出し、弁甲材へ加工する人がいる。
川を流し、運河で材を動かし、貯木場で管理し、船へ積み込む人がいる。
林業が大きくなるほど、その仕事は山の中だけでは終わらなくなった。
明治以降になると、油津の堀川運河周辺には大規模な山林所有者による貯木場や製材所が集まり、飫肥杉の一大集散地へ発展した。日南市の資料でも、明治から大正・昭和初期にかけ、運河両岸が弁甲材の貯木場となり、木材業者によって護岸や物揚げ用の斜路が整えられたことが確認できる。
販路もさらに広がる。
林野庁の資料では、明治・大正期には朝鮮半島、台湾、中国方面へも弁甲材が出荷され、戦後にも韓国や瀬戸内海、沖縄方面へ送られていたとされている。
そして弁甲材の生産は、昭和40年代前半にピークを迎えた。
ところが1960年代以降、木造船そのものが減り、木材に代わる造船材料も普及していく。
それに伴って弁甲材の需要は急速に縮小し、飫肥杉の生産も建築用材を中心とする方向へ変化していった。
それでも、江戸時代から蓄積された造林や山林管理の技術まで消えたわけではない。
2014年度には、古い疎植林、堀川運河、はつり道具、山林台帳や契約書類などを一体として、「飫肥林業を代表する弁甲材生産の歴史」が日本森林学会の林業遺産に選定された。
残されたものは、一本の有名な杉ではない。
植えるところから、育て、加工し、運び、売るところまで。
地域全体で続けられた林業の仕組みそのものなのである。
山を管理する仕組みが林業地をつくった
飫肥杉の歴史をたどると、日南が大きな林業地になった理由は、杉が育ちやすい自然条件だけではなかったことが分かる。
飫肥藩は山林を財源として見つめ、造林を奨励した。
領民も参加できる部分林制度を使い、長い年月を必要とする杉づくりを地域の中へ広げていった。
さらに造船材に向いた杉を疎植で育て、弁甲材へ加工し、広渡川と堀川運河を通して油津港へ送り出した。
育てる仕組みと運ぶ仕組み。
その両方が結びついたことで、山の杉は遠くへ売ることのできる商品となり、林業は山村だけではなく港町の仕事や商いにもつながっていった。
飫肥杉の森は、自然だけがつくった森ではない。
何世代にもわたって山を使い続ける方法を考えてきた、人々の仕事の積み重ねでもある。
飫肥杉の森から見えてくる日南の歴史
現在の日南を歩けば、飫肥の城下町、山間部の杉林、そして油津の港は、それぞれ違う風景に見える。
けれども飫肥杉の歴史を知ると、その三つは一本の流れでつながってくる。
城下を中心とする藩の政策によって造林が進められ、その周囲の山では人々が何十年もかけて杉を育てた。
伐り出された木は広渡川を下り、堀川運河を抜け、油津港から大阪や瀬戸内海、さらに時代が下れば海外へも送り出された。
山・城下・港は、木材を動かす一つの地域経済の中にあったのである。
飫肥杉を見るとき、まっすぐ伸びた木だけに目を向けると、この歴史は見えにくい。
誰が植えたのか。
どのように何十年も山を管理したのか。
どうやって重い材木を海まで運んだのか。
そこまで視線を広げると、林業は一つの特産品づくりではなく、土地の使い方、働き方、港の発展まで結びつけた地域の仕組みだったことが見えてくる。
次に日南の杉山を眺めるなら、その木々の向こうに飫肥の城下と油津の港も重ねてみたい。
現在の緑深い山並みには、江戸時代から人々が「植え、育て、伐り、また植える」ことを繰り返してきた時間が、今も日南の風景として残っているのである。
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