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佐賀県・佐賀城──本丸に残る藩の奥

    じっくり歴史クラブ

    佐賀県佐賀市に残る佐賀城。幕末に再建された本丸御殿には、公式行事を行う「表」だけでなく、藩主の執務や生活に関わる中奥、さらに女性たちが暮らす奥や役所機能まで置かれていた。その空間から、佐賀藩の政治と暮らしが重なった城の内側を見ていく。

    城というと、まず天守を思い浮かべるかもしれない。だが佐賀城で目を引くのは、広々とした畳敷きの本丸御殿である。

    ここには公式な政治の場だけでなく、藩主の執務や生活に関わる空間、さらに藩政を動かす役所まで集められていた。政治と暮らしが重なった本丸を歩くと、天守だけでは見えにくい城の内側が見えてくる。

    龍造寺氏の城を受け継いだ佐賀城

    佐賀城の前身には、戦国時代に肥前で勢力を広げた龍造寺氏の居城・村中城があった。江戸時代に入ると、鍋島直茂とその子・勝茂がこれを整備・拡張し、慶長13年(1608)から佐賀城の総普請が始まる。慶長16年(1611)には城の整備が完成し、勝茂が本丸へ入った。以後、佐賀城は鍋島家の居城であるとともに、佐賀藩政の中心となっていく。

    佐賀城には天守も築かれていた。しかし江戸時代の城で、藩主が政務を行い、家臣と対面し、日常を過ごした中心は御殿だった。佐賀城を理解するときも、天守だけに目を向けると大切なものを見落としてしまう。

    城の実際の営みを支えていたのは、人が集まり、話し、決め、暮らす空間だったのである。

    現在も佐賀城の周囲には、石垣や土塁、幅約70メートルに及ぶ堀などが残る。平地に築かれた城を守る仕組みを伝えると同時に、堀を越えて本丸へ入っていく動線そのものが、かつての支配の中心へ近づく感覚を今に残している。

    二度の大火が本丸の意味を変えた

    佐賀城の歴史を大きく変えたのが、二度の火災だった。

    享保11年(1726)の大火では、天守をはじめ、本丸・二の丸・三の丸の建物が広く焼失した。天守はその後再建されず、翌年から二の丸の再建が始まる。享保13年(1728)には二の丸が藩政の中心となり、佐賀城では長く本丸が政治の中心ではない時代が続くことになった。

    ところが天保6年(1835)、今度はその二の丸が火災に見舞われる。

    10代藩主・鍋島直正は、長く主要施設が置かれていなかった本丸への御殿再建を決めた。天保8年(1837)に上棟し、翌天保9年(1838)、新たな本丸御殿が完成する。

    ここで興味深いのは、単に失われた建物を元通りにしたわけではないことだろう。再び本丸を藩政の中心とするにあたり、新しい御殿には公式行事の場、藩主の執務・生活空間、行政を担う役所などが組み込まれた。

    やがて佐賀藩は、財政改革や軍事・科学技術の導入を進め、幕末の大きな変化へ向かっていく。その時代を担った鍋島直正が政務を執った場所も、この再建された本丸だった。

    佐賀城本丸は、江戸時代初期の姿をそのまま残した空間ではない。幕末を迎える佐賀藩があらためて選んだ政治の場所でもあったのである。

    「表」と「奥」が近かった本丸御殿

    天保9年に再建された本丸御殿には、異なる役割を持つさまざまな空間が組み込まれていた。

    御玄関や御式台、外御書院、御料理間などの「表」。藩主の執務室である御座間などを含む「中奥」。長局などが置かれた奥向きの空間。さらに請役所や御懸硯方といった役所機能まで、本丸内部に置かれていたことが発掘調査や絵図から確認されている。

    ここに、佐賀城本丸御殿の面白さがある。

    「城の奥」と聞くと、政治の表舞台から切り離された私的な場所を想像しやすい。しかし佐賀城では、公式行事を行う表と、藩主の執務や生活に関わる中奥・奥、さらに藩の行政機構が一つの本丸御殿の中に集められていた。

    御座間は鍋島直正の執務室であり、御小書院では側近らとの会議や面談が行われた。外御書院は、より大きな公式行事や対面の場だった。

    本丸の中を移動するにつれて、藩主の執務、側近との政治、家臣団を含む公式な場へと、空間の性格が変わっていく。

    御殿とは、単なる住居でも役所でもない。藩主を中心として、暮らしと政治、儀礼と行政がつながった場所だった。

    佐賀城に残る「藩の奥」を見ることは、豪華な部屋を眺めることだけではない。藩という組織がどのように動いていたのかを、空間そのものから読み取ることでもある。

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    佐賀城本丸御殿

    御座間と鯱の門に残る藩の時間

    現在の佐賀城本丸には、天保期の本丸御殿の一部を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館が建つ。

    復元には発掘調査の成果をはじめ、「佐賀城御本丸差図」、古写真、文献資料、類例建物、現存する建物などが用いられた。復元された建物は約2,500平方メートルで、かつての本丸御殿全体のおよそ3分の1にあたる。

    その中でも特別なのが御座間である。

    御座間は鍋島直正が執務した部屋で、現在の復元建物とは異なり、天保期から伝わる建物である。昭和33年(1958)には水ヶ江大木公園へ移されていたが、その後本丸へ戻され、現在は天保期の瓦や柱などを使った姿を見ることができる。

    そして本丸への入口に立つ鯱の門も、天保9年(1838)の本丸再建当時から残る建物である。

    明治7年(1874)の佐賀の乱では、この周辺も戦いの舞台となった。現在も門には弾痕が残り、江戸時代の藩政の入口だった場所に、明治という新しい時代の戦いの記憶が重なっている。

    佐賀城は、幕末で時間が止まった場所ではない。

    明治以降、本丸には裁判所や学校などが置かれ、城としての役割を終えた後も、異なる形で地域の中に使われ続けた。

    さらに現在も、本丸御殿の「奥」やその周辺について調査研究が進められている。絵図や古写真だけでは分からなかった藩主たちの生活空間がどのような姿だったのかは、発掘調査などによって少しずつ明らかにされつつある。

    佐賀城の奥は、今も読み解かれている歴史なのである。

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    鯱の門 弾痕

    政治と暮らしが重なった佐賀城本丸

    佐賀城本丸を見ていくと、城の中心を天守だけで考えることができない理由が見えてくる。

    二度の大火を経て本丸へ戻った藩政の中心には、公式行事の場、藩主の執務や生活に関わる空間、そして行政を担う役所が集められていた。政治と暮らしが同じ御殿の中でつながっていたことこそ、佐賀城本丸に残る大きな記憶の一つなのだろう。

    御殿を歩くと見えてくる佐賀藩の内側

    佐賀城を訪れても、かつての天守が目の前にそびえているわけではない。享保11年(1726)の火災で失われた天守は再建されず、その姿は現在の城内にはない。

    その代わり、この城では別のものが見えてくる。

    長い畳敷きの空間を歩き、外御書院を抜け、鍋島直正が政務を執った御座間へ近づいていく。そこから見えてくるのは、城が藩主の住まいであると同時に、家臣が集まり、行政が動き、日々の暮らしが営まれた場所でもあったという姿だ。

    さらに鯱の門には、江戸から明治へ時代が移る中で刻まれた戦いの跡まで残っている。

    本丸に残る藩の奥とは、単なる秘密の空間ではない。政治と暮らし、藩主と家臣、江戸と明治が幾重にも重なった場所である。

    佐賀城では、失われた天守を見上げるのではなく御殿の中を歩くことで、佐賀藩という一つの世界の内側が静かに見えてくる。

    ひとつ上のまとめ:佐賀県

    ひとつ上のまとめ:悠久の記憶・城

    全体の入口:総合案内|シリーズ入口

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