
町のパソコン先生は、今日もだいたい予想外。 第10話 この画面、押していいですか?
パソコンの相談で、意外と多い言葉がある。
「これ、どうしたらいいですか?」
「これは消していいですか?」
「この画面、何ですか?」
そして、かなり上位に入るのがこれだ。
「この画面、押していいですか?」
この言葉は、なかなか深い。
押せないわけではない。
マウスの使い方がわからないわけでもない。
ただ、押した先で何が起きるかわからない。
だから、止まる。
私はそれを、悪いことだとは思わない。
むしろ、何でもかんでも押してしまうより、ずっといい。
Outlookの送信済みアイテムが、英語の部屋に迷い込んでいた件を終えて、私は車に戻った。
今日はもう、さすがに終わりでいい。
送信済みアイテム。
警告画面。
パスワード。
プリンター。
回線。
Excel。
画像探し。
遅いパソコン。
そしてまたメール。
ここまで来ると、もう少しでスタンプカードが一冊埋まりそうである。
もちろん、そんなカードはない。
あったらたぶん、私はすぐ満点になる。
エンジンをかけようとしたところで、スマホが震えた。
画面を見る。
先生、この画面、押していいですか?
私はしばらく画面を見つめた。
そして、小さくつぶやいた。
「……それを聞いてくれるだけ、かなり助かります」
送られてきた写真を見ると、パソコン画面に何かの通知が出ていた。
大きなボタン。
少し堅い文章。
そして、いかにも「今すぐ押してください」と言いたげな雰囲気。
私は電話をかけた。
「はい、みずやんです」
「あ、先生すみません。画面に何か出てきまして……」
「写真見ました。今は押してないですよね?」
「はい。怖くてそのままです」
「正解です」
「正解なんですか?」
「はい。わからない画面で止まれるのは、かなり大事です」
相手は少し安心したようだった。
「これ、押したほうがいいんですか?」
「まず、内容を見ましょう」
「はい」
「急いで押さなくて大丈夫です」
「こういうの、急かしてくる感じがして……」
「わかります。画面って、たまに圧が強いんですよ」
「圧」
「はい。人間なら少し距離を置きたいタイプです」
少し笑いが起きた。
私は写真を拡大して、表示内容を確認した。
よく見ると、それは正規のソフト更新の案内だった。
危険な画面ではない。
ただし、初めて見る人には十分に怖い。
「これは、危ない警告ではなさそうです」
「そうなんですか」
「はい。ソフトの更新案内ですね」
「じゃあ、押していいんですか?」
「押しても大丈夫そうですが、今すぐでなくてもいいです」
「今すぐじゃなくても?」
「はい。作業中なら、あとで実行でもいいです」
「それがわからないんです」
「そこですよね」
私は少しうなずいた。
パソコンの画面は、ときどき不親切だ。
「更新しますか」
「許可しますか」
「続行しますか」
「サインインしてください」
「今すぐ再起動してください」
どれも、それっぽい。
そして、どれも少し怖い。
特に「許可」という言葉は強い。
何を許可するのか。
誰に許可するのか。
押したら何が起きるのか。
知らない人にとっては、画面の向こうに小さな落とし穴があるように見える。
「先生、こういうとき、どう見たらいいんですか?」
「まず、三つ見ます」
「三つ?」
「誰が出している画面か。何をしようとしているのか。急いで押す必要があるのか」
「なるほど……」
「この三つです」
私は続けた。
「たとえば、正規のソフト名が出ていて、内容が更新なら、必要なことも多いです」
「はい」
「でも、電話番号が出てきたり、今すぐ修復しろとか、お金を払えとか、危険ですと大きく出るものは慎重に見たほうがいいです」
「前の警告画面みたいなやつですね」
「そうです。あれは画面の声が大きすぎるタイプです」
「声が大きい」
「はい。声が大きい画面は、少し疑っていいです」
相手は少し笑った。
「じゃあ、これは大丈夫そうですか」
「はい。ただ、今作業中なら閉じて、あとで更新でもいいです」
「閉じてもいいんですか?」
「閉じても大丈夫です。あとでまた出ることが多いです」
「そうなんですね」
「画面によっては、今すぐ決めなくていいものもあります」
「それ、助かります」
私はその言葉に、少しだけ引っかかった。
助かる。
そうなのだ。
パソコンが苦手な人にとって、困るのは操作だけではない。
「今、決めないといけないのか」
「押していいのか」
「閉じてもいいのか」
「あとで困らないのか」
その判断が、一番重いことがある。
「先生、押すのが怖いんですよね」
「それは普通です」
「普通ですか」
「はい。むしろ、何でも押さないほうがいいです」
「そうなんですか」
「そうです。わからない画面を止まって確認するのは、遅いんじゃなくて慎重なんです」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
「それ、ちょっと安心します」
「よかったです」
私は思った。
この仕事は、パソコンの使い方を教える仕事だと思われることが多い。
もちろん、それは間違っていない。
でも実際には、もう少し違うこともしている。
押していいもの。
押さないほうがいいもの。
今やること。
あとでいいこと。
自分で進めていいこと。
一度相談したほうがいいこと。
その境目を、一緒に見ている。
「今回は、いったん閉じてもらって大丈夫です」
「わかりました」
「時間があるときに更新しましょう」
「はい」
「あと、同じような画面が出たら、また写真送ってください」
「いいんですか?」
「もちろんです。押す前なら、だいたい何とかなります」
「押す前ですね」
「はい。押す前が一番平和です」
少し笑いが起きた。
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを見ていた。
たった一枚の画面写真。
たった一つのボタン。
でも、その前で止まれるかどうかで、結果はかなり変わる。
パソコンのトラブルは、派手なものばかりではない。
変な警告が出ることもあれば、送信済みが迷子になることもある。
パスワードが惜しく違うこともある。
プリンターが本来の力を出せていないこともある。
Wi-Fiがつながっているのに、インターネットへ出られないこともある。
そして、何も起きていないように見える画面の前で、ただ一人、迷っている人もいる。
「押していいですか?」
その一言には、不安が詰まっている。
同時に、ちゃんと確認しようとする慎重さもある。
私はその慎重さを、できれば大事にしたいと思っている。
何でも自分で判断できるようになるのが理想かもしれない。
でも、最初から全部わかる人はいない。
最初は、誰かに聞いていい。
写真を送っていい。
止まっていい。
止まることは、失敗ではない。
外に出ると、空は相変わらずのどかだった。
春は穏やかだが、パソコンの画面はときどき押しが強い。
車に乗り込み、エンジンをかける。
今日はこれで終わりだろう。
さすがに、ここまで来れば。
そう思った、そのときである。
スマホが震えた。
画面を見る。
先生、昨日から変な音がします
私はしばらく無言で空を見た。
そして、小さくつぶやいた。
「……今度は音か」