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Photo bycinemakicks

相槌屋

    あらすじ
    【相槌屋】
    話したい人の話を聞き、心地よく話せるように相槌を打つ仕事。
    営業時間 正午〜午後十時
         (金、土のみ午後十二時まで)
    基本料金 三十分 七百円
         一時間 千三百円
        (スタッフ指名料別途)
     高い? 安い? さぁ、どうだろう。話す人にも、相槌を打つ人にもよる。なんにせよ、相槌屋があるから、客は入る。店に入れば、メインは相槌屋ではなく客の方。
     常連のタルト(仮名)は、いつも通り相槌屋のポロ(ニックネーム)を指名する。
    「誰かに、話を聞いて欲しくて」


    五月二十二日 午後七時

     部屋があるとする。広さはなんでもいい。自分が一番過ごしやすい広さ、狭さで。人によっては広すぎる部屋では落ち着かないという事もある。でも、両手を広げたら壁に当たってしまうような部屋は嫌だよね。お仕置き部屋みたい。とりあえず、過ごしやすい部屋を想像してみて。難しかったら、置いておきたい家具を先に考えると良い。ベッド、机、本棚、服はクローゼット派? それとも箪笥派? 窓はどれくらいの大きさ? 擦りガラスか、透明か。カーテンはどんな柄? 無地でもいい。素材は、重たい感じか、それともレースのように軽いか。そんな家具や、パーツを過ごしやすい距離感で配置する。ベッドの近くに本棚があると、寝る前に読書がしやすいよ。冬場とか、あんまり離れたところまで服を取りに行くの嫌じゃない?そうやって、好きに配置したら、それに沿って壁を作ってみて。それが、自分の一番過ごしやすい部屋の広さだから。案外狭かった? 広かった? まぁ、どっちでもいいけど。
     それなら、次はそこに帰ってきた時を想像してみて。部屋に入って、まずリュックを置く。どこに? それは明日も使う物だよ。僕はドアの横に置く。明日、部屋を出ながら背負えるように。上着も脱ぐ。どこに置く? それともしまう? 明日も着るそれを。僕は机の横に置く。机の上に鍵も置く。それと、読み途中の本。ユリって知ってる? 理由の由に利益の利って書くんだけど、僕、その人の小説結構好きなんだよね。あとは、自炊とかしないからご飯は外食が買ってきたものか、だから机の上にその日の夕飯を置く。話変わるけど、休日とかは何してる? 僕は本を読むか出かけてる。だから、机の上には休みの日につけるアクセサリーとかも置いてある。あとジェルネイルとランプも。床にはティッシュと、お気に入りの由利の本と、冬場は上着、夏場はキャップ、買い物用のトートバッグとかが置いてある。出しっぱなしじゃない。置いてあるんだ。それが、僕の中の部屋の位置なんだよ。その証拠に、生活してる時に邪魔だって思った事ないし、邪魔だと思った物は捨てるか片付けるかしてる。ちゃんとね。
     これ、昔からでさぁ、子供の時はランドセルとか学生鞄とか、片付ける場所はあったんだ。勉強机の下に。でも、学校に行く時にいちいち椅子を引いてカバンを出してって、無駄な動きじゃない? だから、一番簡単に持っていける場所に置いてあった。体操着も、給食袋も、宿題も、鉛筆も。全部、そこに置いてある方が楽なんだ。生活に合わせた位置関係だったんだよ、本当に。なのに、毎度親に怒られた。片付けなさいって。僕の中では片付いているのに。これが、僕の部屋なのに。親は汚い汚いって、勝手に使いづらいところに追いやって、僕の部屋を荒らしたんだ。何度言っても理解されなかった。姉に訴えたら、一緒に暮らしていく以上、妥協はし合わないといけないって言われた。でも、僕一人部屋だったんだ。リビングとか、他の家族との共有スペースは別に家族に合わせていたんだよ。片付けて、最初っから出しておけばいいのに座布団をいちいち運んで、位置を決めればいいのに、毎回リモコンがどっかにいく。探すのは僕。僕はもうすでに妥協してたんだ。家族に合わせてたのに。家族は僕の部屋に頼んでもないのに入ってきて、勝手に汚いと言って怒る。人を招く部屋じゃないって言われた。いや、招かないよ。友達を家に呼ばない奴なんていくらでもいるだろう?僕の同級生にも何人かいたよ。それって、個人の自由でしょ? なのに、家族は友達が来たらどうするのって、まるで僕を辱めないようにするため、みたいに言うんだ。親戚が家に来た時は、毎回僕の部屋を見せて、ほら、散らかってるでしょう? 片付けもできないのよこの子って。それこそ辱めるみたいに言う。なにがしたかったんだろう。ねぇ、なにがしたかったんだと思う?
     僕、間違ってないよね、相槌屋さん。



     ただ、人の話を聞き、相槌をうつ。ただそれだけの店。『相槌屋』 オーナーが潰れたカラオケのスペースを借りて、少々改装をして作り上げた。三階建ての小ビルは一階が花屋でありビルの持ち主が経営している。二階に受付と元はカラオケの一室として使っていた小部屋が五部屋。三階に大人数用の部屋が二部屋と二階と同じ広さの部屋が一部屋。従業員用の休憩室等を抜いたら、『相槌部屋』は五部屋。だから、従業員も五人。オーナーを含めたら六人だけれど、彼女はカウンセラーの資格を持っているため、相槌というよりかは真面目な人生相談等を受ける事がほとんど。
     私はと言えば、ただのアルバイトであり、人の話を聞くだけでお金がもらえるなんて最高だと思って面接を受けた。しかし、働いてみればわかる。この仕事、結構難易度の高い接客業だ。
     だって、そうでしょう? 人と会話している時を思い出してみて。そりゃ相槌を打たれるでしょうよ。でも、ただの『うん』や『へぇ』でも、なんとなく相手の気持ちって分かるじゃない? あー、この人全然興味ないんだなぁ、とか、自分の話に持っていくのを虎視眈々と狙ってるなぁ、とか。自分が気持ちよく話すって、思った以上に聞いている相手のおかげなのだ。だから、聞いてる側に回るとなれば、それが仕事ともなれば、お客さんを気持ちよくさせるために聞き方、相槌の仕方を研究しなければならない。面倒くさいのが、『これを覚えれば完璧』というマニュアルがない事。同じような会話でも、感じ方は人それぞれ。笑い方一つでバカにされたと感じる人もいるし、呼吸でもため息だと思われる事もある。そう考えると、オーナーは天性の聞き上手だ。気がついたら長々と話をしてしまい、心が軽くなる。この感覚を商品に、相槌屋は『会話』を売っている。

     では、ここで改めて、『相槌屋』の基本システムを。営業時間は正午十二時から午後十時までの十時間が基本。ただ、金曜日と土曜日は夜中の十二時まで伸びる。定休日は月曜と火曜。午後営業な理由は、言わなくても何となく察せるよ、ね? いや、夜って無駄な事考えるじゃない?
     そして、従業員は皆顔を隠しているし、お客さんにも顔半分を隠す仮面を貸し出している。そもそも、部屋の中は半分に区切られていて、カーテンがついた面会室みたいな感じ。何も見られたくない人はカーテンを閉めるし、身振り手振りも含めて聞いてほしい人はカーテンを開く。仮面も、つける人とつけない人がいる。時折、従業員にも仮面を外してほしいと言ってくる人がいるけれど、それは店のルールで厳しく禁止されている。従業員の安全のためだ。
     料金は三十分で七百円、一時間になると千三百円。それにプラスして、飲み物や簡単な軽食が別途料金で頼める。従業員の指名もできて、それには二百円の指名料がかかる。従業員は皆ニックネームがあり、お客さんも名乗る時や予約時はニックネームがほとんど。時々本名っぽいものを名乗る人もいるけれど。ちなみに、私のニックネームはポロ。

     話す内容はなんでもいい。他愛もない世間話だったり、仕事の愚痴、悩み、懺悔室として利用している人もいる。後、意外だと思ったが意外と多いのが、何かの発表の練習場所として使う人。自社製品の売り込みだったり、大学のレポート発表だったり、新プロジェクトのプレゼンだったり、面白かったのは、アナウンサー志望の早口言葉と発声の練習。ただ、やっぱり嫌なお客さんもいて、愚痴を聞かせられるのはまだマシ。人によってはこちらを罵倒してきたり、人格否定にまで及ぶ事もある。あとは過去の武勇伝という名の犯罪行為。いじめだの、誰々を陥れただの。当然、度が過ぎる人は出禁になったり、語られる内容によっては警察に通報もあり得る。一応、語られる事は他言無用が店としてのルールではあるため、基本的には出禁が上限。するとは言っているけれど、実際に通報した件は一度もない。本当の犯罪者も、『相槌屋』に罪の告白をするほどバカじゃないだろう。
     と、以上長ったらしくはなったが、ここで働いて二年経った私としては、色々あるが結構好きな職場である。大学もちょうど心理学部を専攻しているし、カウンセラーの資格を取って就職するのもいいかもしれない。同僚も、先輩も、オーナーだって良い人ばかり。お客さんも慣れてしまえば多種多様の人間観察ができて面白いし、私を指名してくれる常連さんも数人できた。

     その中でも、今相手にしている仮名タルトさんは個性的な人だ。どこが気に入ったのか私を指名して、仕事上の愚痴や人間関係のあれこれを面白おかしく語ってくれる。カーテンは開けて、顔は隠すタイプで、多分二十代後半の社会人。ただだいぶ個性的で、服装はパンクというかゴシック系というか、偶に女性物かな、と思うくらいに可愛らしい花柄のシャツを羽織ってくる時もあって、自分の世界観で生きている人って感じ。顔を隠すマスクも、店で貸し出しているものではなく、私物らしい物を持ってきている。本革で作った結構本格的なもので、職場の近くにこういったタイプの店があるらしい。どんな街だよ、と思うけれど、会話の端々から察すれば、だいぶアングラでディープな店が集まる場所らしい。
     それもそのはず、タルトさんの職業はタトゥーイストだ。つまりは彫り師。袖や襟元から、ちらちらとタトゥーがのぞいている。口と耳にもピアスが空いていて、指の爪には黒いジェルネイル。今回はマグネットネイルなのか、動かすたびにキラキラと紫や青が怪しげに光る。だというのに、一人称は『僕』だし口調は柔らかめだし、いつも楽しそうに笑っている。そこがまたガチでヤバそうな人に思えて、私としては店以外では会いたくはない。会話自体は面白くて話し上手だから、このまま常連のままでいて欲しくはあるけどね。

     そんなタルトさんが、今回珍しく自分の事を話し始めた。部屋を想像しろと言われた時は何かの心理テストかと思ったけれど、聞いていくうちに初めて彼の心に触れた気がした。というのも、彼は今まで職場の愚痴や同僚について語った事はあれど、自分の過去や物事に関する明確な考え方などは一切言わなかった。敢えてなのかもしれないし、無意識なのかも。どちらにせよ、私はタルトさんの中でワンランク上がったようだ。
     それにしても、部屋、ね。

    「人にはそれぞれ過ごし方があるからねぇ」

     タルトさんは敬語じゃない方が良いお客さん。そう当たり障りのない事を言えば、タルトさんは不満気なのか微妙なため息を吐いて、机に頬杖をついた。いつものアイスコーヒーを一口飲んで、「それは分かってるよ」と言い始めた。

    「僕が言いたいのは、僕のそれぞれは尊重されなかったって事。まぁ、だから今は家を出て一人暮らししてるんだけどさ。ただ、他の人間が皆、僕の部屋が汚くて嫌だと言うなら、僕は一生人と暮らせないなぁ」
    「タルトさんを尊重してくれる人はいると思うよ」

     そもそも人と一緒に暮らしたいという願望あったのか、と思ったけれど、もちろん口にはしない。当たり障りのない返答をすれば、彼はこくこくと頷いた。

    「うん。その人と、僕付き合いたいな。僕を尊重して、僕の部屋を邪魔しない人。僕もその人を尊重する。その人の部屋がどうなってても構わない。……でも、最高なのはさ」
    「うん?」
    「一緒の部屋でも、生活の位置関係が同じな人」
    「えっと?」
    「だから、僕が僕の物を、生活しやすいように部屋に置いて、その人がその人の物を、同じ部屋に生活しやすいように置く。それが、どちらの生活の邪魔をしない。そういう、パズルのピースみたいな人」
    「なるほどね。それは素敵な事だと思う」

     この人はきっと、自分自身で思っている以上に頑なで、我儘で、理想家な、言ってしまえば生意気な子供みたいな人だ。部屋は住人の内面が一番出る場所。基本的にクローズドな場所であり、自分の好きにして良い領域だから。その中で、タルトさんはあちこちに物を置いていたい。手の届く範囲で、全てを終わらせたいのだろう。逆に几帳面だ。自分の生活を全て把握していたい。コントロールしているような気分なんだろうか。まぁ、そこまで生活で考えた事はないけれど。自分の部屋を他人がどう受け止めるかは人それぞれだ、分かっているみたいに言っていても、内心では絶対に分かってない。自分は間違ってない、僕の部屋を荒らす周りが悪い。そう思っている。というかそもそも、自分の部屋なんて真面目に考えた事ないな。まぁ綺麗めが良いんじゃないって程度。それをここまで考えるという事は、本当に頑なだ。今言った事も、つまりは自分に百パーセント合わせてくれる人が良いって事だ。
     そんな勝手な事を考えていれば、タルトさんがニコリと笑った。心底嬉しそうに、並びの良い歯がずらりと見える。

    「実はさ、いるんだよね。その人。最近、その人の部屋によく行くようになったんだけど、僕の部屋と似てる。もしかしてって思って数日勝手に泊まってたんだけど、びっくりするくらい生活しやすかった」
    「おや、ちょっと気になる箇所あったけど、良かったじゃん」
    「うん。二十歳上のおじさん」
    「え」

     思わず素で驚いてしまった。すると、タルトさんは悪戯が成功したように笑い、実は、と切り出す。

    「僕、ゲイなんだよねぇ。女の子興味ないの。だからポロちゃん指名してるんだ。あ、オネエ混じってる訳じゃないよ。僕、タチ役……えっと、男同士でも男側って事ね。歳上も好きだし。でも、僕が歳上に求めてるのは格好良さっていうか、頼り甲斐がある所なんだよなぁ。あの人マジで冴えないおっさんだから、お腹ぷよってるし、格好良い所ないっていうか、そもそも顔ブスだし、でも、なんかしっくり来るんだ。あれ、ポロちゃん驚かないね。そっか、相槌屋さんだもん。色んな人が来るか」

     勝手に納得しているが、普通に驚いている。不意打ちは普通に驚く。何と言おうかと迷っていれば、タルトさんは更に熱が入った様子で身を乗り出した。

    「気になる? 僕とおじさんの事。というか、気になるって言って。僕ずっと話したかったんだ。仕事仲間とかにはもう話してるんだけど、あいつ口煩くてさ、色々文句つけてくんの。ヤバい奴ぶってるのに、本当に根っこがまともで良い子ちゃんなんだよなぁ」

     タルトさんが言っているのは、職場の話でよく登場する同僚の事だろう。話すたびに『同僚』『仕事仲間』『あいつ』『甘ちゃん』と呼び方は変わるけれど、多分全員同じ人だ。タルトさんと同じ彫り師で、いじめられっ子タイプの根暗、と聞いている。タルトさんはこの人の事をそこそこ気に入っているようで、半ば無理やり連れ回してはしなくても良い経験をさせて笑っている。
     その人が苦言を呈すという事は、結構ヤバい事してそうだな、タルトさん。



     僕がおじさんと会ったのは、近くで花火大会があった日。その日は新しいタトゥーの図案を考えるのと、新しく導入する事になった新しいデザインのネイルの練習とで店に残ってたんだよね。あ、僕、ネイリストでもあるの。で、その日、花火の音はなんとなく聞こえてて、だんだん集中切れた事もあって、一旦店から出たんだ。花火見れるかなって。でも、あまりにも空が狭くて、なんか明るくなってる空があるなぁ、くらい。あとは音。遠くから、水の中でなにかが弾けたみたいな音がして、なんか炭酸が飲みたくなったんだ。
     だから、近くの自販機に買いに行った。そこの自販機だと炭酸飲料はコーラしかないし、そもそも結構高いからいつもは買わないんだけど、なんかその日は行ったの。僕、炭酸は炭酸水で飲みたいタイプだから。美味しいよね、あれ。あんま冷えてないのも面白いよ。何回も飲みたい訳じゃないけど、一回経験しとくのもアリ。で、その日は特に好きでもないコーラを地味に高い値段で買って、機械が馬鹿になってたのかそんなに冷えてない感じのそれを飲んだ。泡とかも吹き出して最悪だった。最悪って言った気もする。

    『ふざけんなよっ、最悪。あー、手ぇベタベタ』

     全部上手くいかなくて、イライラして、もう帰ろうかなって思った。そしたら、自販機横の路地裏からえずく音が聞こえたの。しかも割とガチめの。地域柄、酔っ払いが吐いてるとかはよくあったから、今回もそうかなって。だとしたらどこまでも僕を不快にさせるんだなって。

    『死ねよ、クソ酔っ払い』

     逆上されるかもなとは思いつつ、そう言ってみた。そしたらしんと静まり返ってさ、なんだヘタレかって、がっかりしつつコーラの蓋を閉めて、あ、今気づいたけど、がっかりしたって事は、僕おじさんに逆上されたかったって事だよね。無意識に期待しちゃってたんだ。この時の僕は会ってもいないのに。
     まぁそれでね、店に戻ろうとしたら、路地裏から手が出てきて、ひょいひょいって手招きされたんだ。その手が酷いのなんのって。肌は血色悪くてガサガサ、ささくれを向いてるのか爪の周りは赤くて瘡蓋がいっぱいあって、爪も噛んでいるのかぼろぼろ、所々割れてたり深爪過ぎて肉が覗いてる指もあってさ、御伽話に出てくる悪い魔法使いの手みたいで、僕ぎょっとしちゃった。で、その手が言うの。

    『ちょっとこっちおいで、坊や』

     本当に悪い魔法使いじゃん? もしくは悪魔とか、鬼とか、逆に気になって、路地裏の中覗いたら、そこにおじさんがいたんだ。きったない路地裏に。しかも、そこはさっき言ったように酔っ払いがしょっちゅう吐いてて、掃除されては吐いてを繰り返されてる場所なんだ。その上、掃除してるやつも真面目じゃないから、適当で、乾いたゲロが残ったりしてる所。そこに直に座って、足を投げ出して、服とかよれよれ。髪もぼさぼさで、白髪混じり。唇荒れてて血が滲んでて、後は、そうだね、目の下の隈かなぁ。泣きそうな目で、なのに薄ら笑い浮かべてて、煙草は吸ってないはずだけど、歯は黄味がかってた。いかにも酔っ払いみたいな風体だったけど、酒の臭いはしてなかった。だから不思議でさ。

    『おじさん、どうしたの?

     柄の悪い奴らに絡まれて、やっつけられちゃったのかなって思ったんだ。一応は、心配して声をかけたんだよ。
     そうしたら、

    『上、上』

     て、言って、上というか、斜め上? を指差した。自分の隣をぽんぽんって叩いて、また上を指差して、……笑った。その弾みで空気が揺れて、僕にぶつかった。でも、それは寄り添ってくれるみたいに柔らかくて、もう手から流れ落ちたはずのコーラの炭酸が弾けて、手がじんと熱くなる。気がした。同時に、花火がまた弾けた。
     気がついたら、僕はおじさんの隣に座ってた。

    『上、あそこ。建物の窓見てみな』

     囁くように言われて、素直に上を見た。

    『あ』

     って思った。多分、口にも出てたと思う。おじさんが嬉しそうに笑って

    『これも乙なもんだろ』

     とか言ったから。
     そう、隣の建物は、手前の建物よりも背が高い。だから、窓の隅っこの所に、ほんの少しだけ花火の光が反射していたんだ。水面が瞬きみたいに揺れて、陽の光が煌めくみたいに、キラキラ光ってた。赤とか、オレンジとか、青とか、緑とか。ほんの少しだけだった。でも、なんか、自分だけが知っている、知らなかった一面を見たみたいで、細やかだけど綺麗だ。

    『街の汚い所を一つ、一つ、集めて丸める。やがて、大きくなったそれは角が少し欠けて、その向こうに光が見えた。強くはなく、細やかなもの。笑えるくらいに軽薄に色を変える。姿を変える。遠のいていく。けれど、確かに光はあるのだ。汚いもの越しに見ても、光の本質は変わらない。街が変わらないのと同じように』

     驚くでしょ? 僕も驚いた。いきなり、おじさんが呟き始めたから。でも、そこで気づいたんだけど、おじさんの声はとても気持ちが良い。僕はどちらかと言えば、甘めの声というか低くて滑らかな声が好きだったんだ。そのはずなのに、おじさんの声はしゃがれてて、ノイズみたいにざらざらしてて、だからその分囁く声に息が混じってた。思わず聞き惚れてたみたいで、我に帰った時にはおじさんが困った顔で僕を見てた。

    『無反応は、またちょっとキツいんだけど』

     そう言われて、僕は馬鹿みたいに取り繕って鼻で笑った。

    『おじさんがポエミーさんなのに驚いてたんです』

     多分、笑われるとかを期待してたんだと思うね。すれば、おじさんはおでこに手をやって猫みたいに喉を鳴らして笑い出した。

    『そ。ポエミーおじさんなの、俺。今の言葉、覚えてくれたら良い事あるかもね』

     意味分かんないじゃん。正直にそう言ったら、おじさんは肩を竦めて、『興味なさそうだもんね』なんてぶつぶつ呟いてた。
     そうこうしているうちに花火は終わってて、おじさんはおじさんらしい掛け声と一緒に立ち上がった。腰とか膝とかがバキバキ鳴ってて、この人大丈夫かなって、素直に心配になったのが、今思えばきっかけだね。

    『店、来ます?』

     って、まるで飲み屋のキャッチみたいに声をかけてて、おじさんは首を傾げた。

    『飲み屋の兄ちゃんなの? 指輪とかマニキュアとかアリなんだ』
    『まさか。タトゥースタジオです。まぁ、フェイクタトゥーとかネイルとかもやってますけど』

     僕も立ち上がって、腕に彫ってるのを見せた。これだよ。何の絵か分かる? そう、サソリ。僕さそり座だから。でも、尻尾のトゲがハートっぽくなってて可愛いでしょ? 反対の腕にはヘビがいるよ。巳年だからね。おじさんにもこの二つを見せて、どんな反応するかなって思ってた。そしたら、おじさんまた困った顔で笑って、

    『それで言うと、俺は女の子と牛のタトゥー入れる事になんのね』

     って。僕笑っちゃったよ。それって、乙女座で丑年って事でしょ。なんか面白いタトゥーになりそうだなって。

     まぁ、そんなこんなで、なんとなくのノリで店まで連行する事に成功してさ。え、だってさっき言った通り、おじさんの手がボロボロだったんだもん。一応仕事として人の爪弄ってる身としては、見過ごせないっていうか。あははっ。うん。嘘。僕、面白そうな事は逃したくなくてさ、おじさんが何者なのか気になっちゃって。まぁ、おじさんにはその爪の手入れしてあげるって話で釣ったけど。煮詰まってたし、息抜きもあったかもね。
     それで、店に連れて行ってから、爪の手入れというか手の保湿とか、マッサージまでおまけしてあげて、その間で色々話してた。中身なんてなかったけど、会話のテンポとか、やっぱり声が気持ちよくて、気がついたら意味もなくおじさんの手を握ってた。

    『……おじさん、何してる人なんですか?』

     こんな質問をしたのは、僕としては結構思い切ったつもりだった。それまでの話で、星座と干支以外でおじさんの情報が全くなかったから。敢えて話題を避けていたのかもしれない。会社員っていう雰囲気じゃないし、裕福そうでもない。でも動く時に鍵の音がしたから、家はある。どんな人なんだろうって、気になってた。
     だけど、おじさんははぐらかすみたいに首を傾げて、

    『ん? ポエミーな人かね』

     って。わざわざさっき僕が言った言葉を持ち出して。

    『え、本当に詩人さん?』
    『さぁ?』

     聞いても答えてくれる雰囲気じゃなかった。本当に詩人なのだとしたら、どんな詩を書いてるのか、有名な人なのか。読んでみたいなって気持ちはあった。僕、由利以外の本読まないし、読んでも雑誌くらい。僕が文章を読みたいなんて思うのは本当に珍しい。それなのに、おじさんははぐらかすだけ。だんだんイラついてきてさ、つい、

    『詩人なら、僕の事詩にしてみてくださいよ』

     とか言っちゃった。すれば案の定おじさんは顔をしかめた。

    『そういうノリいけない。うざがられるよ』
    『良いじゃないですか。なんでもいいんで。悪口を詩にするのでもいいですよ。怒りますけど』

     怒られるかな、とか半分思ってた。ほら、おじさんって、若者からおちょくられるのに慣れてない人多いじゃない? プライドがあるのか、年功序列なのかよく分かんないけど、イジられると本気で怒る人。ああいう人つまんないよね。でも本気で怒ってる人を見るのは面白いから、わざと言ってみた。そうしたら、

    『やだなぁ、もう。……じゃあ』

     って、おじさんがいきなり僕を真っ直ぐに見て、眠そうな目がほんの少し開いたんだ。それで、首を傾げて、一言。

    『傷をちょうだい?』

     ……僕、気がついたら真顔になっちゃっててさ、迷ったんだ。おじさんが僕に『傷をくれ』って言ってるのか、僕が『傷をくれ』って言ってるみたいなのか、どっちだろう。まぁ、結局いまだに答えは出てないんだけど、でも、僕、なんか。図星を突かれたみたいな気分になって、そんな事思ってないのに。
     ……傷って何の傷だろう。タトゥーの事かな、それともピアス? 知り合いに舌が二つに別れてる奴がいるんだ。一回やったら一生戻せない。あの一瞬の内で色々考えたつもりなんだけど、分からなかったから、なんかつまんない事を言っちゃった。

    『おじさんも、タトゥー彫りたいって事ですか?』

     って、そうしたらおじさん吹き出して、くすくす笑われた。

    『知らねぇよ。なんとなく思っただけだし』

     なんとなくって、そんな言葉で納得できるわけないじゃん?

    『僕はそう解釈しちゃいますよ。詩とか小説ってそういうもんでしょ』
    『お前、テストの「作者の気持ちを答えなさい」って問題にキレるタイプ?』
    『あれは問題作成側の意図を汲み取れって意味ですよ。だから大人が喜びそうな答えを買いとけば正解です』

     これ本当。僕、そこそこ勉強できて、成績も良かったんだよね。なのに、おじさんは鼻で笑って、

    『擦れてんね。もっといろんな解釈を考えなさいよ』

     だって。今思ったけど、おじさんずっとくすくす笑ってるな。人を馬鹿にして。腹たってきた。おじさんって誰でもこうだよね。そりゃ長く生きてきた分だけ経験してきた事も多いだろうさ。でも、それ僕ら若者には関係なくない? それなのに余裕ぶって、上から目線で講釈垂れ流して、試す? ような事言われるのが一番腹立つ。年上だったらもっと大人で、若者を可愛がって、あーもう、なんというか、もっと上手くやってくれてもよくない? それが大人の余裕って奴でしょ。僕がおじさんの歳になっても、絶対にあんな態度しない。
     だから、なんとかしておじさんの顔を歪ませたくて、ね。あはは、まだ半分以上残ってた、ぬるいコーラのペットボトルでおじさんの事殴ったんだ。体幹なかったのか、おじさんあっけなく椅子から転げ落ちて床に倒れてさ、なんか呻き声とか上げてんの。笑える。あんなに調子に乗ってたのに。

    『じゃあ、こういう解釈もアリですよね』

     面白くなっちゃってそう言ったら、呻き声で返事された。多分、『違う』とか言いたかったのかな? 僕にとっては違くないから気にしないけど。でも全然起きてこないから立ち上がって、テーブルの向こうに消えたおじさんの方に近寄ってあげた。そうしたらさ、

    『あれ、おじさん? どうしたの?』

     って、気になっちゃうくらいに、ぼんやりしてた。脳震盪起こしたかなって思って突いたけど変わらなくて、揺さぶってみたらようやく起き上がったんだ。え? 脳震盪中に揺らすのよくないの? へぇ。でも、起き上がったから平気だったよ。出会ってから二ヶ月くらい経ってるけど、様子変わらないし。でね、起き上がったおじさんになんて言われるかなって楽しみにしてたら、おじさんがまた笑い始めたんだ。流石にびっくりした。この人頭おかしいのかもなぁって。
     結局は、まさか殴られるとは思ってなかったから笑っちゃっただけで、特に大した意味もなかったらしいんだけど。

     以上が、おじさんと僕が出会った時の事。それから色々あって、いや、色々っていうとなんか出来事沢山あったみたいだよね。全然。めっちゃ普通の日々。ちょいちょい会って、喋って、ご飯とか行ったくらい。友達とならよくある事だよ。で、最近になってさっき言った通り、ちょっと相性いいかもなぁって事になるんだけど。ふふっ、結構楽しいよ。あと、僕の勘だけと、おじさんもゲイか、少なくともバイだとは思うんだよねぇ。どうやって付き合おうかなぁ。はっきり付き合ってきたのって今まで同世代ばっかりだから、年上との本格的な恋愛の仕方分かんないなぁ。ポロちゃん知ってる? 
     ん? なぁに? 話端折ったって? まぁね。だって、おじさんの部屋とか、おじさんと飲み屋行った話とか、なんで僕以外に知られないといけないの? 細やかな日常は、僕とおじさんだけが知ってればいいじゃん。僕はポロちゃんが人間だって分かってるからさぁ。全部を言うつもりはないよ。今までの話だって、全部は話してないし。
     あ、時間だー。じゃ、僕もう帰るね。これからおじさんとレイトショー観に行くんだ。つまんなさそうな映画。でも、今日の話は今までで一番楽しかったよ。小言がないだけあいつよりもマシだしね。また、おじさんとの話聞いてね。じゃあね。


    六月十四日 午後七時

     ねぇねぇ、聞いて聞いて。え? ポロちゃんから話すとか珍しいね。というか初めてじゃね? 相槌屋のルール的に大丈夫そ? まぁ、クレームつけたりとかはしないけど。うん。
     え? マジで? 読んでくれたの? 由利の小説。そうそう! あの人のペンネーム、由利だけなの。苗字あるかもって考えて、あ行から探すと時間かかるんだよ。だってや行だから。で、何読んだ? 面白かったでしょ。そう。変な話ばっかりだよね。多分、シチュエーションだけ面白いの考えて、話を展開させるの下手なんだよ。だから、空から魚介類が降ってくる世界で、ただただ魚の掃除する清掃員の日常になっちゃうの。でも、あの話好きなんだよね。特に、夜にホタルイカの雨が降ってきて、空がキラキラ光る場面。他にも、よく分かんない世界線とか、いかにもサスペンスが始まりそうな設定なのに、なんか日常過ごしちゃうんだよ。由利の小説は全部そう。ここまで来ると変態の域だよね。とことん狂った世界でも、人間生きるためには生活しないといけないんだ。それをずーっと書いてる。どんなに抵抗したって映画みたいな展開にはならないし、ヒーローにもなれない。順応していくだけ。そう考えると、確かにって思っちゃわない? ありそうっていうか、まぁ、絶対にありえないんだけど。ふふ。気に入ったなら他のも読んでみてよ。
     あー、でも嬉しいなぁ。同僚とかに勧めてもさ、あいつはっきりとした展開がある話しか読めないって言うんだ。そもそも少年漫画好きだしね。日常系とか無理。これからも、良かったら由利の話しようね。

     で、おじさんの話なんだけど、そう、うん。ちょっと日が空いたじゃん? 僕週一は来てるよね。それが三週間空いたのには、ちょっと理由があってさ、まぁ、おじさんのせいなのが半分、もう半分は……、ストーカー? に、あってる、かも。

     わっ、すっごい驚いてるね。ごめん。えーっと、まずおじさんの、あ、ストーカーの話がいい? 確かにね。そっちの方が早く終わる。
     いや、あのね、僕もびっくりなんだけど、ストーカーというか、嫌がらせ? 付き纏い? にあってるの。多分。いや、気のせいかな。職場からの帰り道につけられてるのと、ポストに手紙? わざわざ紙を真っ黒に塗り潰してるから実質ただの黒い紙なんだけど、そういうのが投函されてたり。これに関しては黒い折り紙とかをポストに入れた方が効率良くない? ほんとに、わざわざ墨汁で塗り潰してんだよ? 墨の臭いで分かったけど。なんの拘り? あ、うん。心配するのここじゃないよね。
     後は、地味に迷惑なのが店に僕指名で予約入れて、直前キャンセル。同僚にも迷惑かかるし、オーナーにもなにがあった、なんて事情聞かれてさ、心当たりないから困ったよ。それと、これは気のせいだと思うけど、最近やたらと高い所で人にぶつかるんだよね。駅の階段とか、歩道橋とか、別に落とされそうってほどじゃないんだけど、ほぼ毎回。一回階段で落ちそうになって足ぐねったし、人の多い所でやられるから、誰なのか分からなくて、流石に気味悪いよ。警察には相談しにくい。こんな見た目だし。こういうのがずっと続いててさ、ちょっと疲れた。

     それと、これと関係あるのかは分かんないけど、おじさんが情緒不安定でさ。あぁ、話してなかったっけ。おじさん、軽く鬱病なの。僕と会う前に入院してて、退院を機に今の家に引っ越してきたんだって。なんか、入院前に色々あって、前に住んでた街に住めなくなっちゃったみたい。たまに街中で暴れてる人とかいるけど、おじさんも前まではそういう人だったらしい。で、今でも通院はしてて、家に薬とかあった。メンタル弱ってくるとすぐに分かるタイプでさ、重たくなった日には布団から一歩も動けないの。そもそもがセルフネグレクト気味なのに。え? 知らない? 自分で自分をネグレクトしちゃうの。ご飯食べられなかったり、お風呂に入れなかったたり、煙草吸ってないのに歯が黄色いのは歯磨きもできないから。爪とか噛んで、ささくれとか、指の皮も無理やり剥いちゃって、手が荒れてるのはそのせい。軽い自傷癖って感じかな。だから、メンタル面での支え? そういうのをやってた。風呂入らせて、ご飯食べさせて、歯磨きさせて、爪の手入れもしたよ。もう噛まないように苦いマニキュアも塗った。
     優しくはないよ。おじさんだからだもん。多分、姉がこうなってもここまではしないかな。親でも同じ。どうでもいいし。それに下心あるしね。おじさんに優しくしておけば、関係も進めやすいかなって。ね、聞いてって言ったのはこの事。
     今、おじさんと付き合う一歩手前くらいなんだ。やっぱり、弱みに付け込むのって定石だよね。落ちてる時に支えてあげれば、勘違いで恋くらいするんじゃないかな。一回付き合っちゃえば、僕が飽きるまで別れるつもりないし。ふふ、多分だけど、おじさんって世話焼きにモテるタイプだと思うんだ。自分じゃなぁんにもできないから。でも世話されて当たり前って態度じゃなくて、丁度良く卑屈というか、いつでも自分を下に置いてる。それなのに憎まれ口叩くから、それがまた可愛くて。メンヘラで社会不適合者で卑屈なのになけなしのプライド持ってるって、なにこれ、可愛さのてんこ盛りじゃん? 今までならウザかったけど、おじさんなら最高。興奮する。この前、おじさんの家に泊まった時ね、あの人悪夢で魘されてて、動画撮ってから起こしてあげたんだけど、そうしたらおじさんの方から僕に抱きついてきたんだ! 流石に勃起したよね。あ、ポロちゃん下ネタ無理? ごめん。まぁ、悪夢明けでぼんやりしてるおじさんと楽しみましたよー、って事。鼻水垂らして泣くんだもん。
     ん? うん。多分怖がられてるよ。でも、それ関係ある? だって、おじさんはこの辺に友達いないし、僕しかお世話してくれないんだよ。ギブアンドテイクってやつ。僕はおじさんを好きにするし、おじさんは自分じゃできない世話をやってもらえる。僕がいなくなった方が困るはずだよ。
     それでさ、もうほぼ付き合ってるようなものなんだけど、ちょっと気になることあるんだよね。あ、相談っていうか、自分で口に出して整理したいだけだから、ちょっと聞いてもらえる? うん。ありがとう。

     えっとー、多分、なんだけど、おじさん妻子持ちなんだよね。

     ……大丈夫? ポロちゃんめっちゃ驚いたね。座りなー。お尻打ってない? 痛い? 平気? そう。なら良かった。
     いやー、びっくりだよね。確かにバイでもあり得るな、とは思ってたけど、まさか結婚して子供いるとは。娘さんね。これ、浮気になるのかな。でも、普通、鬱病の夫放っておく? もう関係破綻してるんじゃないかな。もしくは、引越しせざるを得なくなったのは、その奥さん関係が原因とか。

     うん。えっとね、その日は、一旦自分の家に帰ってからおじさんの所に行った日で、ポストには数日分の黒い紙が入ってたよ。で、買い物してからおじさんの家に行って、ご飯作って……。あ、そうそう! 僕自炊始めたの。おじさんのためだよぉ。落ちる日になると外食も無理になるから、簡単なものだけど作ってあげてる。その日は親子丼だったかな。卵茶色になっちゃった。あと、インスタントのスープ。前に買い溜めしておいたのが、もう卵スープしか残ってなくて、なんか卵尽くしになっちゃってた。ああいうのって、変わった味ばっかりが先になくなるよね。チゲスープとか、パイタンスープとか。わかめスープと卵スープは残り物の常連。それで、その時はおじさんも比較的調子が良くて、食べ終わった食器洗ってくれた。そんな後ろ姿見て、まぁ、ありがちな話だけど、

    『なんか、結婚したみたい』

     って。もしも僕らが結婚したら、僕が旦那さんでおじさんが奥さんで、姉さん女房ってやつだよね。本気で思った訳じゃないけど、おじさんがちょっと笑ってくれたら良いなぁって。稀に、おじさんの笑いのツボを捉えられる時があって、そうなるとずっとくすくす笑うんだ。そうやって震える背中を撫でるのが好き。振動のおかげでより生きてるって感じがして、生身の感覚が味わえるから。
     でも、おじさんは笑わなかった。それどころかしんって黙り込んじゃって、気になったから隣に立って、顔を覗き込んだ。顔色がゴミだった。

    『え、どうしたの?』
    『……そんなに、良いもんじゃねぇよ』

     一瞬、意味がわからなくて……。で、すぐに意味が分かって、僕、酷い顔してたみたいで、おじさんがこっち見て泣き笑いみたいな顔になってた。僕に申し訳ない、みたいな。おじさん、とっくに僕がおじさんの事好きなの気づいてたんだと思う。前からそんな感じはしてたし、でも歳の差かなりあるから、それで知らないふりしてるんだろうなって、その時までは思ってた。それなのに……。
     ……え? あれ、触ってた? 無意識だった。あぁ、やだ、リップ塗ってたのに。指についた。クソ。何今の。気持ち悪。気持ち悪。え、ほんとに何してんの、僕。キスとか別に、今までもしてたし。してないのセックスくらいで、後は全部やってるのに、なんで今更。
     あぁ、そっか、整理つけるためにポロちゃんに話してるんだっけ。そうだね、話そっか。さっきの続きね。
     僕、どんな顔してたんだろう。分かんないけど、何も言えなくて、自分でもなんであんなにショック、……ショック? なんで? おじさんが結婚してようとどうでもよくない? 僕、今までそんな事気にした事あったっけ。そりゃ既婚者は初めてだったけど。

     …………。え、あぁ、喉渇いたから。

     どんな顔してたかはさておき、おじさんがさ、黙ってた僕にキスしてきたんだ。首傾げて、俯いちゃってた僕を下から覗き込むみたいにして。あの人リップ嫌いでさ、起きてる間は無理だから、寝てる間に塗ってたんだ。でも、唇噛む癖もあるから手入れが追いつかなくて、やっぱりひび割れて逆剥けがあった。それで、離れた時には時間とか分かんなくなってた。ぼんやりしちゃって、耳の奥で心臓の音がして、秒針みたいだけど絶対にズレてるし。なんか言わないとなって顔を上げようとして、そしたら。

    『うそ』

     って、耳元で囁かれた。

    『は?』
    『だから、嘘』

     勢いよく顔を上げたら、おじさんもゆっくり離れてて、嘘だって繰り返してるのと目が合った。

    『……なにが?』
    『あぁ、確かに。なんだろ。分かんない』

     ぶん殴ってやろうかと思ったよ。嘘って何が? 結婚してたっぽい事? だって、結婚してなかったら、結婚が『そんなに良くないもの』って分かんないじゃん。もしくは、結婚は良くないものじゃないって事? つまり結婚最高、幸せ〜って事? 意味分かんねぇしマジで。なにが嘘かも分かんないって脳細胞死んでんのか、あのジジイ。そりゃ額面通りに受け取るつもりはないけど、モヤモヤして仕方ない。
     その後、どうなったのかはあんまり覚えてない。多分、適当な事言ったりしていつも通りに戻ったんでしょ。それで、おじさんはいつも通りに日付が変わる前に寝て、僕は部屋に一人になった。
     おじさんは、珍しく睡眠薬を飲んで寝てた。いつもは飲みたがらないのに。おじさん、睡眠薬と相性悪いらしくて、ものすごく寝過ぎちゃうんだ。なのに、その日は薬を飲んで眠った。僕がする事を分かっていて、その上で見たくないって言ってるみたいに。でも止めようとしない分、許されてたんだと思う。だから……。

     おじさんの部屋には、引き出し付きの本棚があって、あれは多分、元々は本棚だったやつに引き出しを後付けしたんだと思う。当然、引き出しの中を見たことはあった。でも、なんか箱とか、ファイルばっかりでつまらなくて、真剣に調べようとは思わなかった。その中の一つ。つまらない物の中でも、前々からちょっと気になってた箱がある。木の箱でさ、寄木細工って言うの? でも、土産物で見た事があるものと比べて、なんか下手っていうか、あれって木が沢山寄せ集められて、その並びで模様になってるって奴でしょ? なのに、その箱は寄せられた木の大きさがチグハグで、継ぎ接ぎで拵えたみたいな箱だった。だから、これは他のと違うなって。
     それで、おじさんが眠った後で、引き出しを開けて、その箱を取り出した。寄木細工っぽくはなくても、箱自体は良いものなのか、ちゃんとツルツルすべすべで、開けた時も引っかかる感触は全然なかった。大きさとしては、両手のひらに丁度乗るくらい。小箱の部類に入るのかな。で、その中にあったのは、若いおじさんの写真。
     今の僕と同じくらい、だから二十代後半かな。やっぱり老け顔だったけど、肌艶とか、目とか、全体的に元気でさ、びっくりしたのが、満面の笑みだった事。写真の中のおじさんは、顔全体で笑ってた。楽しくて、幸せで堪らない、みたいに。歯も白くて、手も普通で、体もなんか引き締まってて、それで、その写真には、必ず、……女の人と女の子が写ってた。気の強そうな美人が、若いおじさんの腕を掴んで寄り添ってたり、可愛い赤ちゃん抱っこしてたり、極め付けが結婚式の写真だよ。日付確認したら、多分出来ちゃった婚だった。それでも二人とも嬉しそうで、誇らしげに笑ってる女の人の隣でおじさんが照れくさそうに笑ってて、多分、女の人の方から結婚迫ったんだろうね。どうせ、おじさんの事だからうじうじしてたんでしょ。それを、気の強そうな奥さんが既成事実突きつけて責任取れって背中押した。多分、そんな感じ。そこから数年分、ずっと幸せそうな写真ばっかり。それと、指輪。写真に写ってたのと同じ物と、もう一つ。これはなんなのか分からなかったけど、木で作られた指輪だった。彫刻風の模様が刻まれてて、長年使ってたのか、色褪せてた。もしかしたら、おじさんって元々こういう木工職人だったのかも。
     そういう、箱だった。思い出だった。おじさんの、おじさんが、自分の体から無理やり剥ぎ取ったみたいな、綺麗なものばっかりが入った。おじさんはこれがなくなったから今のおじさんになって、どれだけ僕が埋めても埋めても、水捌けの良いスポンジみたいにすぐに流れていっちゃうんだ。

     全く、なにしてんだよ。奥さんと娘さんもいて、あの人……。離婚したのかな。じゃあ、おじさんの奥さんは今どこにいるんだ。この人がこんな風になってるのに。おじさんの全ては、多分箱の中に仕舞われてて、今のおじさんは、そこから弾き出された汚い所だけ。汚い、排泄物とか、老廃物みたいな、『要らない』ってされたものだけ。それくらい別人なんだ。
     でも、僕は、今のおじさんだから興味を惹かれた訳で。こんなに生活がしやすい人はいない。手を伸ばせばおじさんに手が届いて、僕の物が落ちてても何も言わない。それどころか勝手に使う。そこにあるのが当たり前みたいに。生きるのがとても楽だ。人と住んでるんだから、そりゃ一人の時とは違うけど、不快じゃないんだよね。丁度良く、僕に合った隙間に入り込むというか、余裕がある所に、おじさんが入ってくる。それで満たされる。すごく満足してる。だから、今のままでいい。
     そうだ。今のままでいいんだよ。おじさんが結婚してたところで、今全く会ってないんだから関係ないじゃん。娘がいたところで、それがなんだよ。今のおじさんは僕のものなんだから。別にいっか。あははっ。

     よし、僕、これから告白してくる。今でも付き合ってるようなものだし、おじさんが文句言っても別にいいや。変えるつもりないし、振られても家行くし、キスもハグもする。え、本当に何も変わんないじゃん。笑える。僕ってこんなに可愛いところあったんだ。おじさんが結婚してるってなってこんなに落ち込むって、え、超可愛い。いいね、可愛いと可愛いの組み合わせ、最高。
     じゃあね、ポロちゃん。聞いてくれてありがとう。やっぱり口に出すと違うね。頭すっきりした! 今度は惚気聞いてね〜。


    六月二十日 午後九時

     やぁ、ポロちゃん。あ、由利の本読んだ? 今度はなに読んだの? 
     それかー、思考回路どうなってんのって思ったわ。隣人が殺人犯。そこからどうして普通のご近所付き合いを続けようとするかねぇ。でもまぁ、すぐに通報したら、チクったのが自分だってすぐにバレるしね。報復とか考えると、放っておくのも手かな。そのせいで被害者は出続けるんだけどさ。そこの罪悪感抱いてるのも面白いよね。自分が殺した訳じゃないのに。あれ、全部読んだ? うん。そう、そこ。ぞっとするよね。主人公以外にもそいつが殺人鬼だって分かったアパートの住人がさ、同じようになんて事ないふりするの。皆知ってるのに、誰も止めない。全員が似たような罪悪感背負って、協力して殺人鬼の犯行隠していくの。気持ち悪くない? でもあるんだろうね。相手が怖いから、その人の犯罪を許すというか、自分に向かわないなら許容するって。これは由利の作品の中でも奇作だよね。最高に怖い日常。全員、自分が一番怖いって思ってるけど、実際にはお前らも怖いよって。ポロちゃんならどうする? あぁ、確かに。それありだよね。引っ越してから通報しちゃえば、報復のしようがないもんね。そっかー。

     え? あぁ、今日はいいよ。おじさんとは付き合ってるけど、話したくなるような事はないし。え、ありがとう。祝われるとは思ってなかったわ。あ、それと、おじさんにそれとなく聞いたらさ、奥さんと娘さん、もう死んじゃったんだって。だからおじさん病んじゃったんだよ。可哀想に。そりゃ、写真も指輪も手放せないよね。僕はこれからも、ずっとおじさんと一緒にいるよ。女の人無理だから子供作れないし、実家の方は姉が継ぐみたいだから心配しなくていい。どっちにしたって僕は普通の家庭は作れない。なら、年の差あってもおじさんと一緒にいるべきだよね。世界になんの影響もないもん。僕らは僕らの日常を過ごして、老いて死んでくだけ。

     それと、ストーカー? あれねー。まだ付き纏われてるよ。まぁ、そろそろおじさんの家に引っ越そうかなって思ってるし、もういいかなって。なにが目的なのかは知らないけど、僕は気にしない。大丈夫。もう、全部なにもかも大丈夫だよって。ね?
     うん。だから由利の話しよ。僕のおすすめはね。


    七月二十五日 午後二時

     ポロちゃん! なんで予約取れなかったの? 試験? ……なんだよもうっ! いや、責めるつもりはないし、それは仕方ないけど。でも! えっと、待って、ごめん。本当にごめん。今ちょっとぐるぐるしてて。というか、前からずっとぐるぐるしてるんだけど。

     ……そうだね。ごめん。落ち着く。落ち着いてみせる。大丈夫。……僕いつもこうなんだよね。気に入ったものとか、人とか、好きになった相手に対しての執着が酷くて、昔からやばいって言われ続けてて、だから昔からすぐに付き合ったり別れたりっていう同級生が意味分かんなくて、気持ち悪かった。幸い、家族には執着しなくて、お気に入りのおもちゃとか、使い終わったノートとか、いつまでも捨てられないんだ。部屋も同じ。ポロちゃんも、おじさんも。多分、同僚の事も気に入ってるんだよなぁ。あいつ、今度店辞めるんだって。パートナーと独立するって。パートナーの事は知ってるよ。あいつにお似合いの良い子ちゃん。でも、辞めるって。そりゃ関係が切れる訳じゃないのは分かってるけど、友達だけど。
     あぁ、僕ってすっごい子供だね。わがままなガキじゃん。ポロちゃんの事も、気に入らないようにって、いつも深い話は避けてて、素顔も名前も知らないくせに、こんなに執着するとかキモいよね。ごめんね。タトゥーとかピアスとかしてんのもさ、自分でも気に入ってて、似合ってるって思ってるし誇りでもあるけど、人から先に距離を置かれたいからもあるんだと思う。下手に仲良くなって、それから嫌われるよりも、最初っから印象悪くさせて、嫌われても傷つかないようにしてた。僕自身も周りをどうでも良いって思い込んでた。
     あーあ、気持ち悪い。僕、いつの間におじさんにこんなに惚れてたの。好きだよ、好きだけどさぁ、僕、軽く言ってるつもりだったんだ。軽薄で、つまらなくて、スナック菓子みたいな感じの。僕の言葉の『好き』はそのつもりだった。ちゃんとするのは行動で、というか、あんまり重いのもバレたくなかったから。でも、でもさぁ。

     ……◯日って、ポロちゃん、あ、試験。真っ只中だったんだ。なら本当に仕方ないね。うん。そう。その日に、……その日の前日が、姉ちゃんの子供の誕生日で、次いでに第二子の性別公開とかで、実家帰ってて。ピアスは外したし、タトゥー隠すために長袖で行ったよ。すげぇ暑かった。うん。いやでも、恨まれるのも嫌だから、付き合いは続けてる。親の面倒見るのも姉ちゃんと義兄さんだし、子供も姪だから、『心配』ないなって。……心配ってなんのだよ。
     距離はあるけど仲悪い訳じゃないし、姪っ子の初恋僕なんだって。趣味悪。姪が僕に泊まってって駄々こねるから、二泊、したかな。その時に親におじさんの事言ったら、変な顔してた。親よりも年下だからセーフでしょ。まぁ、そういう問題じゃなかったんだろうけど。カミングアウトはしてるよ、高校の時。殴られた。今回は殴られはしなかったけど、泣かれた。別にショックでもないよ。どうでもいい人にどう思われたって、どうでもいいし。でも、姉夫婦はおじさんに会ってみたいって言ってくれた。なんであれ、パートナーができて安心したって。二人目男の子らしいから、そりゃ安心するよね。
     あと、親がいなくなった後で言われたんだけど、僕の縁談話が上がりかけてたんだって。相手は十四歳上の幼馴染で、家族包みで仲が良かったお姉さん。僕がゲイ自覚したきっかけの人。近所の男子共の初恋が軒並み彼女でさ、好きじゃない僕がおかしいって言われて、それで、あぁ、女の子に興味ないんだって。その人が、離婚して子連れで出戻ってきたらしくて、世間体が悪いから早めに再婚させたい、ゲイならカモフラージュとして喜んで結婚するだろうって。頭古いんだよねぇ。うちの親も、幼馴染の親も。久しぶりに会った幼馴染は、相変わらず美人だったけど、こんな事があった後だからなんか気持ち悪くてさ。姪っ子祝ったら、本当はすぐに帰りたかった。実家に僕の部屋ないし。引っ越して、一緒に住んでるおじさんの家に帰りたかった。
     で、次の日にすぐに実家出たよ。本当に生活が辛かった。子供がいるから整理整頓で落ち着かないし、そのくせ観葉植物が増えてて葉っぱにぶつかるし、物が仕舞い込まれてるから、ちょっとの事で移動して、ぶつかって、邪魔で仕方なかった。ぶつかろうとしないとぶつからないおじさんとの生活に慣れちゃってたからさ、本当にイライラして、ちゃんとおじさんが生活できてるのか心配になったし、色々無理だった。次からは深夜になっても絶対に日帰りするって心に決めて、こっちに帰ってきた。

     それで、最寄駅に着いて、家の方に歩いて行ったら、なんか、やたらと同じ人を見かけるんだよ。まずは、駅のホームで駅名確認してるのを見かけて、次はおじさんに今から帰るってメッセージ送ってたら目の前横切って駅から出て行って、それからは当分前後で歩いてたら。その人は度々スマホで位置なのか道なのかを確認してて、僕は追い越して行ったり、その人歩くの早くて追い越されたり、でも、その人は僕に気付いてないのか一心不乱に歩いてた。それで、気味悪くなったから途中で商店街のパン屋さんに入ってさ、朝食兼昼食を買った。どうせおじさん碌な食事してないから。
     ……で、家に着いた時だよ。築五年くらいのアパートの、二階が僕らの家。オーナーと知り合いで、コネで入居させてもらったんだって。その家の前に、そのずっと見かける人が立ってた。階段の前で、困ったように立ち尽くしてるんだ。

    『邪魔なんだけど』

     イライラもあって荒っぽく声をかけたら、その人は振り返って、慌てて階段を譲ってくれた。でも、このまま行くのも気になってね。

    『駅から見かけたけど、目的地ここで合ってんの?』

     って聞いたら、え、って驚かれた。

    『僕も今帰ってきて、駅からあんたの事何度か見かけてんの。ずっとスマホ見てるから何度かぶつかりかけたんだけど?』

     ぶつかりかけたのは嘘だけど、実際目の前うろうろされて鬱陶しかったし。そしたら、その人困った顔して、また自分のスマホを確認して、顔を上げた。

    『すいません。目的地はここで合ってるはずです。人を、探してて』
    『じゃあ早く行けばいいじゃん』
    『そう、なんですけど』

     まごつく男に、なんか嫌な感じがした。うちのアパート、僕らを含めて何人か、訳ありな住居者がいてさ、中には隠れてる人もいる。理由は大抵が、暴力夫とか彼氏、親から逃げてきたってやつ。そういうのがあるから、なんとなく住人同士で助け合いみたいのがあって、僕も例に漏れずスマホ準備した。すぐに通報できるようにね。

    『え、なに、ストーカー? キモいんだけど』
    『違うっ。そういうんじゃない』
    『そもそも、その探し人はあんたに会いたがってるの? 会いたがってるなら探す必要なくない? 揉め事とかやめてよね』

     探すって時点で怪しいよね。昨今、人が消えるなんて、よほどの事がない限り自分で消えてるのに。自分の意思で、隠れてる。それを探偵か興信所かは分からないけど勝手に掘り返して追い詰めるとか、色々事情はあるんだろうけどさ。少なくとも、僕が知ってる住人に、悪いことして隠れてる人はいない。相手も狼狽えたし、釘刺しかないとって。
     そしたら、もっと狼狽える奴が情けなくて、気持ち悪い。

    『違います、本当に。もう大丈夫な事を伝えに』
    『それDV野郎の定型文だって知ってる? マジでどっか行けよ。キモいんだよ』

     そう言って、階段を上がって行った。
     なのにさ、そいつ着いてくるの! 帰ったらおじさん奥にしまって不審者で通報しようって決めたね。早足で通路抜けて、角部屋のおじさんと僕の家について、急いで鍵開けた。ら、そうした、ら、その男に声をかけられたんだ。

    『あの』
    『なに? 通報するよ』
    『いや、あの、……そこ、貴方の家ですか』
    『……そらそうでしょ。鍵持ってるんだから』

     その時は、割と混乱してた。なんか、僕の家が目的地だったっぽくて、僕とスマホを何度も交互に見て、そいつはあからさまに肩を落とした。

    『……人違い?』
    『多分。……あの、確認なんですけど』

     人違いであれって、今でも思う。もしくは、ご丁寧に話を聞いてあげないで、さっさと家に入れって。前の僕を殴りたくなる。その人はさ、探しに来たであろう人の名前を言ったんだ。

    『ーーーーって人、このアパートに居ませんか?』

     それ、おじさんの名前だった。同時に、その人のスマホ、を持ってる手に、指輪があるのに気付いた。おじさんの、あの寄木細工のなり損ないみたいな箱に入ってた、木製の指輪と同じやつ。
     で、僕やらかしちゃったんだよね。指輪見つけてさ、思いっきり動揺して、その人の手を掴んで、指輪を見て、

    『なんで持ってんだよ!』

     って、怒鳴っちゃった。その人の目が見開かれて、ぼさぼさの髪が、丁度吹いてきた風に靡いて、僕は真正面からその人の顔を見た。
     おじさんの、結婚式の写真に、一緒に写ってる人だった。写真では高校生くらいで、おじさんよりも奥さんの方をぽうっとした顔で見てた。その後も、娘さん抱っこしてたり、何枚か一緒に写ってる写真があった。多分、おじさんよりも十歳くらい年下で、逞しいとか、凛々しいって言葉が似合う人。彫りが深い顔で、九州か、もしくは海外の人とのハーフっぽい顔立ち。僕よりも背が高くて、体格も全然違う。

    『ーーを、知ってるのか?』

     敬語が外れたその男が、我に帰ったのかそう聞いてきた。不味い事したって後悔して、無視して鍵開けたけどドアに手を突かれて塞がれた。
     なんとなく、この人をおじさんに会わせちゃいけない。そんな気がしてた。だって、写真の人って事は、おじさんにとってもう箱の中にしまった人って事だから。おじさんは多分、過去ともう向き合えないから、引っ越してきたんだ。今も苦しんでるけど、僕が一緒にいるからマシになってきた。だから、このままでいい。誰にも会わずに、過去はしまったままでいい。そうでしょ? 結婚の話題出しただけであんな顔をする人に、その時に一緒にいた人を会わせられる訳ない。その時は、おじさんに優しくしたかった。おじさんに傷ついて欲しくなかった。だから、

    『知らない。通報する』

     そう言うしかなかった。でも、その人が諦めるはずもなくて、胸ぐらを掴まれた。

    『じゃあなんで俺の指輪を知ってる。お前はーーとはどんな関係だ』
    『うるさいな。あんたに関係ないだろ』
    『ーーはまだ指輪を持ってるのか』
    『うるさい! あんたの方こそ誰だよ!』
    『……元同居人だ』
    『嘘つけ! おじさんはここにくる前は結婚してた、家族と住んでたんだ! お前の指輪も、奥さんとの指輪のはずだろ! なんでお前が持ってるんだよ!』
    『お前こそなんでそこまで知ってるんだ』
    『なんであんたにそこまで言わないといけないんだよ』

     て、そんな風に色々話してたら、騒がしいのに気付いたのか、ドアがいきなり開いたんだ。当然、出てくるのはおじさんしかいない。

    『ーー? お前なに騒いでんだよ』

     僕の名前を呼んで、おじさんがひょっこり顔を出してきた。目が合って、おじさんの顔が強張ってた。

    『ハレ……?』

     って、後から聞いたらその人のあだ名を呼んだ。ハレも僕の事なんて忘れたみたいに手を離して、勝手に部屋に上がり込んで、僕が慌てて追いかけたら、玄関すぐの廊下でおじさんの事抱きしめてんの。泣きながら、何度も名前呼んで、良かった良かったって。

     ……結論から言うとさ、ハレって奴は、おじさんの元カレ。死んじゃった奥さん、ハレ、僕っていう遍歴。なんか同性と付き合うのに慣れてる気はしてたんだよね。
     ただ、たださ、おじさんがパニックになっちゃって。ハレに抱きしめられたのを見て、僕慌てて引き離そうとして、なんか揉み合いみたいになった。そうしたら、おじさん尋常じゃない悲鳴上げて、過呼吸になって泣いちゃって。もう、ハレってなんの役にも立たないの。一緒に慌てるだけで、あははっ、がっかりだよね。元彼のくせして、おじさんのために何もできてないじゃん!
     だから、僕が抱きしめて、寝室まで運んで、落ち着いて眠るまでずっと側にいた。それで、ああ、帰ってきたって。実家なんて居心地悪い。おじさんといる方がいい。この部屋がいい。生活がしやすい。息がしやすい。おじさんの匂いが落ち着く。調子が良くなってきた肌も、しっかりと伸びてきた爪も、ようやくひび割れが落ち着いてきた唇も、全部が落ち着く。全部が、僕の隙間に噛み合う。満たされる。充ち足りてる。
     それで、おじさんが眠った後で、引き出しから例の箱を持ち出した。部屋を移って、リビングで不安げにしてるハレに向かって、箱の中身を投げつけてやった。写真がバカみたいに散らばって、指輪が二つガツンッて鳴って、おじさんの綺麗な所が晒された。

    『あんたの探してるおじさんはこれだよ』

     戸惑ってるハレに言ってやった。

    『あんたが探してるおじさんは、もう写真の中にしかいねぇんだよ。今のおじさんはこんなに笑わないし、綺麗じゃない窶れてる。魘されてパニックになって、ご飯食べたら吐いちゃって、どうしようもない人。一人じゃ何にも出来なくて、放っておいたら死んじゃう。そういう人。どう思う?』

     僕が大好きなおじさんの事を、話してあげた。そうしたら、あいつなんて言ったと思う?

    『……可哀想に、酷くなってる』

     だって。キレたよね、普通に。

    『ふざけんなよっ! 何が可哀想だ! 良いじゃんよ今のおじさんも! まともなおじさんじゃないとダメ? 綺麗で、元気で、満面の笑みで笑う人じゃないのダメなのかよ。馬鹿みてぇ。綺麗なもんしか大切に出来ないんなら出てけよ! ここは僕とおじさんの家なの! ダメなおじさんが落ち着ける場所なんだ! 否定するなら出てけ、僕らの部屋を荒らすな!』

     みたいな事怒鳴りながら、ハレの事殴ってた。まぁ、体格差あるからすぐに抑え込まれたけど、ハレも痛そうな顔をしてた。

    『……申し訳ない』

     ぼそっと謝られて、体も解放された。ハレは一枚一枚写真を拾って、それで呟いた。

    『ずっと好きだったんだ。憧れのお兄さんだと思ってた』

     おじさんの事を言ってるって分かった。でも、なんか引っかかった。だって、結婚式の写真のハレは。

    『……奥さんの方が好きだったんじゃないのかよ』

     奥さんの方を明らかに見つめていて、頬も赤くなってた。だから、奥さんの方が好きなんだと。でも、ハレは首を振って、その写真を手に取る。

    『この写真の俺は、あの人が羨ましかっただけ。好きだったけど、無理だった。だって、この二人幼馴染だったから』
    『そうなんだ?』
    『うん。俺と会った時にはもう一緒にいて、付き合い始めたのは大人になってからだけど、昔から仲が良かった。お互いに特別で、息もぴったりだった』
    『おじさん、尻に敷かれてたんじゃない?』
    『うん。ーーは優柔不断だったから。でもその分慎重で、考え方が優しい人だった。逆に彼女は考えるよりも前に動く人で、向こう見ずな所もあって、だから尚の事、上手く噛み合ってる二人だった。最初っから一緒になるためだったみたいに』

     ハレの話は新鮮で、今のおじさんと繋がる所もあった。だから、本当なんだと分かる。ハレは、昔のおじさんをよく知っている。
     写真を集め終わったハレは、箱に仕舞い直し、その箱を撫でた。

    『これ、俺が作ったんだ』
    『え?』
    『俺、木工職人。本職は家具がメインだけど、小さいのもやってる。これは屑木集めて作った』
    『じゃあ、おじさんは』
    『警察官。とうにやめてるけどな』
    『見えね〜』
    『それはそう』

     箱に仕舞い、そして、最後にハレは二つの指輪を拾った。

    『その指輪も、あんたが?』
    『木の方はそうだ。こっちはーーが用意した。今は、指輪してないのか?』
    『うん。アクセサリー類全部嫌い』
    『……痩せてたもんな』
    『どういう事?』
    『この指輪作ったのは、ーーが痩せて、こっちの指輪のサイズが合わなくなったから。指にしててもすっぽ抜けそうで、だから、この木の指輪を重ねてつけて、本当の指輪を堰き止めた』
    『……嫌じゃないのかよ。結婚指輪を落とさないための指輪って』
    『嫌じゃない。むしろ嬉しかった。ようやく、役に立てた。告白して、付き合えた』

     ハレが泣いた。指輪を握りしめ、土下座するみたいに蹲って、絞り出すみたいに呟いた。

    『幸せだった』

     その言葉で、ハレの中のおじさんと、僕の中のおじさんは明確に違うんだって再認識した。だって、幸せだよ? しあわせ、あははっ、僕らが嫌いな言葉。言ってなかったからポロちゃんは知らないよね。おじさんね、幸せになるのが怖いんだって。あんなに幸せだった結婚生活がなくなっちゃったから。呪いみたいに、おじさんの中に刻み込まれてる。呪いってさ、案外簡単なんだよ。つまりは条件反射みたいなもんでさ、怖い思いをした時に聞こえてた音は、その後もずっと怖くなるとか、転んで怪我をした道は歩けなくなるとか、そのもの自体には何も変化はないのに、自分の中に刻み込まれると、もうダメ。
     それをハレは分かってないんだよ。ま、分かる訳ないよね。おじさんと一緒にいるのは僕なんだから。それに気付いたら、なんだがハレに対する敵意は無くなっててさ、泣き止むまで待ってあげる余裕も生まれた。ハレとは仲直り。でも、おじさんの事はまだ吹っ切れないらしい。そもそも、別れたのも不可抗力みたいなものだったって。僕には関係ないけど。

     そう、おじさんに何があったのか、ハレから聞ける事になってるんだよね。約束はこの後。どうしようかなって思ってて、確かに、おじさんの過去は気になる。けど、それを知った所で、何が変わる訳でもない。それに、おじさんは知られたくないのかもしれない。思い出を、ハレが作った箱にしまって、その箱ハレが作った本棚兼引き出しの奥の方に追いやってたんだ。でも、おじさんはそうとは言わない。だったら、僕がしてあげるべきなのは、そのおじさんの気持ちを汲んで、知らないままでいる事じゃないのかな。最初は聞く気満々で、でもなんか怖くて、だからポロちゃんに話したくて八つ当たりとかしちゃったけど。やっぱり、話すと違うね。ね、そう思うよね、ポロちゃん。
     ……おじさんとも話さないと。実は、ハレが帰った後から気まずくなってて、ハレが元カレで、男の初めてが僕じゃないの、おじさん気にしちゃってるんだよね。確かに凄い嫌だったけど、僕の方が絶対に良いに決まってる。うん。いやー、僕って変わったよね。最初は、こんなつもりじゃなかったのに。なんか、ちょっとまともになった? あははっ、つまんなーい。でも、いいよ。側から見たらつまんないだろうさ。僕らが楽しければいい。ね。

     あーでも、ハレのやつ人に話したくて堪らない感じだったんだよなぁ。なんか、共有したいみたいな。同じ傷を負わせたい、みたいな。あいつも、多分ぐるぐるしてんだろうな。さっきまでの僕みたいに。おじさんと気まずいの本当に辛かったもん。ハレからしたら、ようやく会えた恋人に、すでに新しい恋人ができてたって事だもんね。え、めっちゃスカッとするわ。ざまぁみろ。え? うん。僕そんなに変わってないね! そう簡単に変わって堪るかよ! なんちゃって。
     あーあ、今から断るのめんどいなぁ。ドタキャンでいいかな。どう思う? あ、そうだったね、家バレてるんだった。どうするか。うーん。

     ……あっ、目の前にプロいるじゃん。


    同日 午後五時

     どうも、ミツ、じゃなかった、タルト? からの紹介で来た。ハレ、です。
     ……あ、料金。え? 後払い? そっか。分かった。時間、あ、もうスタートしてるのか。えっ、あっ、あぁ、飲み物、ありがとうございます。仮面も。あ、うん。料金が発生するのは知ってる。
     ええと、君が、ポロさんで? はい。ハレです。知ってる。そうだよな。タルト、が俺の事話したって言ってたし。……君も大変な仕事だな、あの男とまともな会話になるのか。正直、俺は嫌いなタイプだ。ヨシト、……あの、タルトはここで『彼』の話もしていたんだよな。なんと呼んでいたんだ? 俺は本名を言ってしまいそうで。
     あ、……すげぇ安直。というかそのまま。おじさん、うん。分かった。おじさん。まぁ、あいつはもうおじさんだ。昔はまだ格好良い所があったんだがな。

     ……まず、申し訳ない。君は、明らかに巻き込まれてる。なんで許可したんだ? いや、仕事だとしても、言ってしまえばゲイのおっさん同士のあれこれだぞ? 苦手だったなら、あ、割と好き。……そうか。有り難い。偏見がないだけ、それでいい。タルトには言って、……ないのか。だろうな。それが正解だと思う。すげぇマウント取られたから。あいつも、おじさんも趣味が悪い。最高の結婚相手から俺、タルトってレベルが下がっていってる。大丈夫なのか。
     ……俺とおじさんの関係はどこまで? まぁ、言えないよな。守秘義務あるって言ってたし。元カレというか、押しかけてたっていうか、一人になったあいつがあまりにも窶れてたから無理やり一緒に住んで、あちこち連れ出してた。親父とか、道場の師範には放って置いてやれって言われたけど、じっちゃんとかは一緒にいてやれって言うし、好きにしてたんだ。そしたらだんだん、笑うようになってきて、告白したら応えてくれて、凄い幸せだった。仲間内からの反応は色々あったけど、やっぱりあいつが元気そうなのが何よりだって。俺兄弟多いから、家継ぐとか、老後の介護とかの人手は足りてるし、家族からも祝われて、ずっと一緒にいるのが当たり前みたいに、周りからもそう思われてた。

     ……なんだけど、なぁ。……ポロさん、タルトからおじさんの家族はなんで死んだのか、聞いたか? 
     轢き逃げ。それも、ユリカさんとユミちゃん狙った、故意の轢き逃げ。殺人? 犯人がさ、『ちょっと驚かせてやるつもりだった』って。だから、先にクラクション鳴らして逃げる猶予は与えてたって。……でも何キロ出てたと思う? 逃げられる訳ねぇだろ。そのまま減速もしないで逃げて、自首して、減刑。でも、俺も周りも皆が知ってた。そいつは、学生時代、おじさんに懐いてた後輩で、結婚式に呼ばれなかった事を恨んでた。大して仲良くもなかったくせに。一方的に付き纏って、おじさんも若干引いてた。
     でも、あいつは昔からそういう所があった。周りにいる人間の内、数人くらいが、何故か異常に執着する。俺がガキの時も、兄弟でおじさんと誰が遊ぶって喧嘩になって、流血沙汰になったりした。大人はそれに気づいてて、おじさんに気をつけるようにって何度も言ってた。護身のために武道も習わせて、揉め事も避けるべきだって、結果、あいつは優柔不断で、優しくて、表面上の付き合いしかしない。そういう奴になった。深くまで立ち入らせるのは数人だけ。

     勘違いさせてた方が悪いって思うか? あの時も、何人かそう言う奴がいたよ。だから、あいつはぐっと人付き合いを狭めた。昔からの付き合いがある人とだけ接して、表面上の付き合いだけだった奴とはだんだん関係を薄くしていった。俺が色々連れ回した先でも、人と応対するのは俺で、あいつはいつもぼうっとしてた。それで良かった。あいつの本心を知ってるのは俺とか、親父とか、長い付き合いのある人達だけ。本当に信用できる人だけ。
     ……別れたくなかった。離れたくなかった。でも、俺が階段から落ちたから。
     突き落とされた。目撃者多数で即捕まった。あいつの目の前で。
     ……犯罪の被害者家族って、どういう生活してるんだろう。普通に生きてるよな。普通に生きてていいよな。なんで、悪魔みたいな野郎に家族殺されて、それだけで一生苦しむって分からないのか? 日がな暗い顔をしてないと薄情か? 働けなくなって引きこもり続けないといけないのか? 笑ったら、幸せになったら、それは事件を忘れたって事になるのか?
     ユリカさんにずっと片想いしてた奴だった。そいつも結婚して、子供もいて、ユミちゃんよりも長く生きてるのに、おじさんが幸せなのが許せなかったって。『幸せになるなんて可哀想だ』って。
     俺が、……意識失って、入院してる間に、あいつ自殺しようとしたって、親父から聞いた。
     そうしたら、次は、

    『まだ死んでないのに自殺なんて』
    『奥さんと娘さんのためにも生きないと』
    『そもそも女と結婚したのに男と付き合うのが悪い』
    『その気があったから、轢き逃げの男も勘違いしたんじゃないか』
    『幸せになるなんて不謹慎だ』

     って。そういうのが、手紙とか、留守電とかで山ほど届いて、流石に生活ができないから警察に通報したら、今度は黒い紙が届くようになった。真っ黒い紙。墨汁で塗り潰した、文字は書いてない紙だけが、何枚もポストに入ってた。黒い折り紙とかで良いのにな。
     それで、あいつの、おじさんの方が参っちゃって、部屋から一歩も出られなくなって、仕方ないから必要なものを全部周りに置くようになった。手を伸ばせば届くように。俺は仕事があったから。でも、多分一人にしたから、色々考えちゃったんだろうな。あいつが昔から頼りにしてる大人。だから今はもう爺さん婆さん連中だけど、その人達に手引きされてあいつは姿消した。
     何度も後悔した。一人にしたから、うまく守れなかったから、そもそも階段から落ちなかったら、踏ん張ればなんとか耐えれたんじゃないかな、……あとは、俺が、

     幸せに、しようとしたから。

     あいつがばらばらになって、ふるいにかけたら綺麗なものだけが落ちてくる。それを箱にしまって、残骸だけが、今息をしてる。俺は、それを多分拾おうとしちゃうんだ。でも、タルトはその残骸でも良いって言う。そのままで、そこから素敵なものを作ろうとしてる。あいつらの中で素敵であればそれでいいものを。

     ……悔しい。悔しいなぁ。あいつは俺のものだったのに。俺が大切にしてたのに。俺のせいじゃねぇだろ。それなのにこんなの、ふざけんな。……せっかく、元に戻れそうだったのに。本当はこの前、あいつに、おじさんにもう大丈夫だって、言いに行ったんだ。よりを戻したいっていうのも目的だったけど。ただ、俺らが別れた原因は、やばい奴に逆恨みされてたのと、周りの目が厳しかったから。でも、最近になって、俺、知り合いの職人に誘われて一緒に独立する事になって、別の土地に、行ける事になったんだ。もう、傷つける奴はいないって思ったから。それと、ユリカさん達を轢き殺した奴と、俺を突き飛ばした奴、二人とももう死にそうでさ、一人は病気、もう一人は家族に疎まれて精神病んで、飛び降り計って失敗。寝たきりなんだ。はっ、ざまぁない。
     だから、おじさんの居場所を知ってる師範に頼み込んで、家を教えてもらった。で、その時に、師範の後輩、今おじさんとタルトが住んでるアパートのオーナーから、おじさんには既に新しい相手がいるって聞いてたんだ。若い男で、甲斐甲斐しく世話を焼いてる。他の住人や、近所の人からも暖かく見守られてるって。知ってた。でも、アパートの前で声をかけてきたタルトはすげぇ柄悪くて、聞いてた話と全然違う奴だったから。酷かったぜ、顔色悪くて、目つき悪くて、刺青もピアスもてんこ盛りで、俺よりもこいつの方が不審者だろって。
     だから、正直、タルトを見ても全然脅威に感じなかった。あんな奴よりも、俺の方がいい。俺がいないから、タルトと付き合ったんだって、すぐに戻ってきてくれるって、思い込んでた。一番辛い時期を支えたのは俺で、俺が掬い上げたんだから。今の相手なんて、関係ない。本気で思ってた。あんな奴よりも、俺の方がずっと長いのに。
     でも、俺は、あいつが苦しんでると一緒に苦しくなってしまう。だから結局何もできなくて、なのにタルトは、あいつは変わらない様子で声をかけて、落ち着かせて、当たり前みたいに側にいた。そこだけは確かなんだ。
     あー、やっぱり悔しい。何でだろうな、俺の方が幸せにできる。絶対に。逆に、あいつと一緒にいても幸せになれないだろ。タルトは幸せを求めてない。自分達が良ければ、それで。
     …………そっか、それでいいのか。それで、良かったのか。

     話すっていいな。ありがとう。すっきりした。タルトに勧められた時は意味分かんなかったけど。また来ようと思う。吹っ切れた話が出来ると良い。
     ……でもちょっと遠いんだよな。二号店とか出す予定ないのか? うちの地元でやれば、爺さん婆さんで大繁盛だぞ。
     ん? うん。黒い紙。それだけだ。階段? 歩道橋、だったかな。電話? ……え、何で知ってるんだ? 予約があったけど、キャンセルってのが続いた時期はあった。
     ……ストーカー? え、待て。誰、タルトに? え、まずい、それはダメだ。それだけは、また、同じ事が。でも、あいつらはもう動ける状態じゃ。

    同日 午後七時

     はい。樽崎充人は私の幼馴染です。略してタルトタルトって、甘いものが好きだった事もあって、昔からそう呼ばれていましたね。ふふ。懐かしい。私の家と、充人の家は家業を通じて付き合いがあって、いつかは子供同士を結婚させようか、なんて話もしょっちゅう上がっていました。政略結婚だなんて、そんな堅苦しいものじゃありませんよ、普通に、仲の良い男女が一緒になるってだけです。

     ええ。あれは、私の望んだ結果ではありませんでした。今じゃ二十代で未婚なんでよくある事なのに、地域柄と、家柄ですかね、親に紹介された方と、まぁまぁ気が合ったので。でも、充人の事が心配で。家業の方は弟がおりますので心配はなかったんですが、幼馴染のあの子は自由人で、お部屋の片付けがいつまでもできない子だったんです。
     なので、なんとなく結婚した相手と、明確な気持ちで離婚したんです。相手方は私を気に入っていたみたいで、私もパートナーとしては信用していましたが、恋愛、となるとそれは別でして。
     ……思えば、いつ頃からだったんでしょう。可愛い弟分が、恋愛対象の男性になったのは。あの子は昔から捻くれていて、屁理屈の天才で、部屋が汚いのを生活に合わせてるんだって言い訳するような子なんです。大人に好かれるなんて簡単だよ、とか言ったり、私も含めた周りは、生意気なやんちゃ坊主って認識でしたね。でも、あの子だけが、私の美醜を気にしなかった。可愛いね、可愛いね、可愛いは得だねって言われ続けて、成績の良さや、私自身の努力はおまけだったんです。でも、充人は私が頑張ったところを見つけて、すごいねって言ってくれる。ただの子供ができる気遣いじゃなくて、だから、私自身を見てくれているんだって。こんな小さな子供しかいないって事に軽く絶望もしましたが、……まぁ、いっかって。実際、可愛いは得でしたので。
     充人は私を頼りにしていました。充人のお父様、お母様も、なにかと充人を私に任せてくれて、うちの両親も微笑ましく見守ってくれていたんです。だから、時がくればなるようになるだろう、と、思っていました。ですが、成長期が来た充人はみるみるうちに完成されていきまして、同級生から告白された、だの、チョコレートをもらった、だの、ざわざわと。私の周りでも、結婚だお見合いだと、ざわざわと。
     少し前にもお話しした通り、充人は部屋の片付けができないんです。いや、したくない、の方が正しいかな。片付けの手伝いに行くのは私なので、きっと、私に会いたくて、わざと散らかしていたんですね。可愛い。だから、ご褒美でした。部屋を綺麗にできたね、綺麗っていいねって、言いながら、あの子に初めてキスをしました。

     その時? 小学校、六年生くらい、だったかな。中学に上がって、私は結婚をして、それでも、充人の散らかし癖は治らなくて、あぁ、本当に可愛い。細やかな独占欲だったんでしょうね。部屋を散らかして、私が片付けて、それで、手を握るんです。緊張してるのか冷たかった。偶に、部屋を綺麗にしている時もあったんです。そりゃもう褒めましたよ。いい子だねって、だから、綺麗にしていたご褒美もあげて。……うふふ、バレました? きっと、私の子供は。

     はい? そんな訳ありません。息子は、充人に似て、……似せてないです。服の趣味がそうなんです。強要していません。自分から、ああいう服を選んで。刺青だって、生意気な男の子だったら一度は憧れるでしょう? それに、タトゥーシールですよ。ピアスも、イヤリングですし、ほら、根っこが充人に似ていて。
     ……違いますけど? あの子は私の事が好きで、だから、私の本質を。……なんて失礼な事を言うんですか? 彼はそんなんじゃありません。昔から私を。
     話を遮らないでくれませんか。あんな田舎じゃなかったら、こうはなっていません。それだけです。それだけが悪いんです。違います。私と彼はっ、……ええ、ええいましたよ。なんか冴えないおじさん。私よりも歳上で、だらしない、吹けば飛びそうなくらいに情けなくて、……はぁ? そんな訳ないじゃない! だって、おと、男でっ! そんなの知らない。誰もそんな事教えてくれなかったじゃない! え、聞いてない。聞いてないです。充希ちゃんが? 何度も? いや、でも、うちの親も、彼の親もなにも。だって、充希ちゃんなんてどうせ他所へ行っちゃうから。え? 充希ちゃんが、継ぐんですか? じゃあ、充人は……。

     そんな、私は悪くありません。私はただ、ようやく彼に思いを伝えようと、絶対に応えてくれるから。だって、ずっと私と一緒にいたんですよ? 勉強教えたり、部屋を、片付けたり。……嫌だった? なんで? 綺麗なままの方が良いに決まってるじゃないですか。あの子はそういう子です。あんなに綺麗な子なんですよ。
     だから、ただ縁談の話を進めようと思って、断られたのは、彼は理想家で自由人だから、堅苦しいのは好きじゃないんだろうなって、私には分かるんです。私だって、すぐに再婚しようなんて考えていません。きちんと交際期間を経て、誰から見ても幸せだと認められる時に。ただ、その話をしようとしただけなんです。
     ……凶器? そんなの持ってなかったですよ。危ないじゃないですか。あれは、普通に、お掃除する時に、待っている充人に、いつも使っていたんです。片付ける端から散らかしてしまうので。
     そのための、道具、ですよ。

     全く、あのおじさん、……大路さん、でしたっけ。歳を取ると色々大袈裟になるんですね。警察を呼ぶなんて。
     ごめんなさいね。こんな痴話喧嘩みたいな事に巻き込んでしまって、警察も暇じゃないのに。そう思いますよね、お巡りさん。



    九月四日 午後一時

     っあー、どうも、充人が、いや、ここじゃタルトだっけ? まぁ、連れが世話になりました。大路です。おじさん? ふはっ、良いあだ名だな。おじさんの大路です。あー、仮面つけるんだっけ? まぁ、いいや。流石に後日談を話さない訳にはいかなかっただけだし。君がポロさんで合ってる? あ、穂口さん。あれ、本名言ってもいいの? そう、内緒で。分かった。穂と、口で、ホロ、ポロちゃんね。いいあだ名じゃない。充人からよく聞くよ。君と話すと頭がすっきりするって。現代にもモモはいたんだな。あれ、知らない? 時間泥棒、とか。物語だよ。子供騙しに見せかけて、重たい事を突きつけてくる。良かったら読んでみて。本読むんでしょ。この本なら、大抵の本屋にあるから。

     聞いたよ、ハレをこっちに向かわせてくれたの、君なんだろ。ありがとう。あの日は、俺が元々予定があって、出かけた時間に充人はこっち来たらしい。『話したい、合流したい』って連絡が来て、そこそこに覚悟決めたよ。別れ話のな。おじさん弱い人間だから、泣いちゃうだろうなって思ってた。でも、泣いても邪魔はできないなぁって。なにかを望むのは、もう怖い。だけど、駅で待っててくれた充人はいつも通りでよ、やめろって言ってんのに往来で抱きつくんだ。こんなおっさんを。『一緒に帰りましょう』って言いながら。
     俺も腹括るしかないか、とか別の覚悟を急拵えしてたら、ハレが来た。あいつ、必死になると顔怖くなるんだよ。本当はゴキブリ殺すのにも目を背ける奴なのに、魚とかも捌くのを見てから苦手ときた。切り身が泳ぐとか、空から降ってくればいいとか言い出した時には笑ったね。そんな優しい奴が、怖い顔してやってきて、仕方ないから、一瞬離れた。とりあえず落ち着かせようと思ったけど、その前にハレが『充人が危ない』って言ってくれた。

     嫌な予感がして、振り返ったら充人がいない。あぁ、安心してくれ、すぐに見つかったから。少し離れた線路沿いの道で、蹲ってた。腕だけ上に伸ばして、その腕をあの女が掴んでた。

    『充人っ』

     って、声をかけたら顔を上げて、酷い顔色で俺を見つけてくれた。途端に女を振り払って転がるみたいにこっち来た。悲鳴も、上がってたんだろうけど、声にはなってなくてな。
     そうしたら、あの女が。……あれは、やばい女だったなぁ。偶にいるんだよ。別の世界で生きてる人間。怖いよな、あれ。知らない? ならいい。なんだろうな。こっちが困るんだよ。何を言っても、鉄の塊みたいに変わらない。諦める方が早い。でも、諦められるのは外野の人間で、標的にされてる人間は逃げられない。あの時は充人が標的だったから。明らかに尋常じゃない様子なのに、あの女はなんて事ないように笑った。お上品で、こんな状況じゃなかったら話しかけられてラッキーって思うくらいの美人さんでさ。

    『あら、充人のお知り合いですか?』

     って話しかけられて。一瞬確かに迷った。充人のこの状況は、この女のせいなのかって。あまりにも良い人そうだったから。こんな人なんだから、充人が苦しんでいる所に通りかかって、助けようとしてたんじゃないかって。一瞬だけ考えた。ほんの一瞬だけ。すぐに我に帰った。充人の方からさ、パキッて音がしたから。見たら、マニキュアごと、爪を噛み割ってんの。俺も爪噛みは癖だけど、あいつも偶にやるんだよ。それを防ぐために、あんなにギラギラの盛ってるんだ。あー、言わなかった? だろうねぇ。あの時の充人は、片手で俺の腕掴んで、もう片手で爪噛んでて、俯いて。そういう時はやばい時なんだよ。伊達に付き合ってねぇもん。分かる。って、誰に対して牽制してんだか。ごめんねぇ、おじさんもメンタル丈夫な訳じゃないから。やばそうになったら逃げてね。見苦しいから。
     えーっと、それで、そう。充人がこうなってるって事は、こいつやばい女だって気づいて、おろおろしてるハレもどうにかしてあげたかったんだけど、余裕がなくてね。とりあえず、

    『こいつの同居人です。調子が悪そうなので、一旦連れて帰りますね』

     って、その場から離れるために。でも、そうなったら、女がね、目が変わってさ。
     ……三人目だったよ。『アレ』を見るの。八尾、庄野、あの女。全員、『自分は悪くない』って顔するんだよなぁ。俺は八尾と部活でしか会った事なかったし、庄野は裕里香と同じクラスってだけだった。で、あの女は幼馴染だっけ。なにが頭の中で行われてるのか全然分かんねぇんだよ。それなのに、至極当然な顔して『やる』。
     ……三度目の正直って言葉あるけど、それかも。いや、違うかもな。まぁでも、今回は、起こる前に通報できた。
     いやね、チラッと見えたのよ。

    『充人は私に任せてください。昔からの付き合いなので。ご心配なく。ね、充人』

     とか言いながら、カバンに手を突っ込んだ時にさ、スタンガンが。護身用って言い訳されるかもなって思ったけど、その後で結束バンドやらカッターやらが出てきたって聞いて、通報して良かったわ。ただ、あの女もやっぱり落ち着いてたよ。なんでだろうな。悪い事がバレて捕まったのに、なんであんなに堂々と。

    『脅かすためだったんです。ぶつかる気なんて。避けると思ったから、クラクションだって鳴らしてました』
    『だって、ねぇ皆さん聞いてください。この男は、大切な奥さんと子供を失ったばかりなのに、もう忘れているんですよ。薄情でしょう。死んだ二人が可哀想でしょう』
    『あら、もう、どうしてこんな騒ぎに? なにか誤解がありますよ。私は、充人の幼馴染で、というか、同居人の方なのに私の事をご存知ないんですか?』

     …………死ねっ、クソ共。
     あぁ、ごめんね。汚い言葉吐いちゃった。あはは。
     まぁ、実際の所、前々から察してはいたんだ。俺の部屋が汚いのは、ハレとの生活を忘れたくなかったから。あいつが俺に合わせて色んなもの引っ張り出して、『大丈夫だからな』って言ってくれるのが嬉しかったから。それに縋ってた。だから、ゆくゆくは綺麗にしようとは思ってた。もうちょい、治ってきたら。

     でも、充人のは違う。どっか病的で、綺麗な部屋に怯えてた。自覚はないだろうけど、一緒にいると分かるんだよ。物の配置変えるとちょっと不安げにしたり、いくら生活に合わせていたとしても、流石に溜まった埃を掃除しないわけにはいかない。だから、定期的に埃は掃いてたんだよ。その後で、きちんと物はあちこちに配置してな。でも、掃除の日は必ず魘された。俺じゃなくて、充人が。布団の中で丸まって、何してるのかと思ったら、隠してるんだよ。蹲って、背中丸めて、両手で。……そこに触られるのが嫌だったんだろうな。必死に抵抗してた記憶がフラッシュバックして、どうしようもなくなって子供みたいに泣くんだ。多分、そういう事があったのは、部屋が綺麗な時だったんだろうな。もしくは、そもそもあの女が部屋を片付けていたか。だから、あいつの中で『綺麗な部屋』と『怖い出来事』が繋がっちゃったんだ。
     女に興味がないのは、多分元から。でも、高校、専門学校、学生の頃のバイト、今の職場、俺が知ってる限り、全部男しかいない場所なんだ。男子校とか、男性のみのクラス、肉体労働のバイト、今のスタジオは完全に男性向けだから、同僚も客も男だけ。ゲイなのはそうだけど、ここまで男一色なのは逆に難しい。無意識に、女を避けてたんだろうな。
     ポロさんは……、多分ショートヘアだから。それと、本人のリハビリ的な理由もあったのかもな。成長した感じがするって言ってたし。声も低めで落ち着くしね。あ、ごめん。気にしてた? でも、良い声だよ。子守唄とか、売れそう。

     そんな訳で、一旦の危険は去ったけど、ただ今までは実家っていう、そもそもそんなに好きじゃなかった場所に押し込めてたものが、普通の日常に現れたから、完全に蓋が外れちゃってさ。女性が本当に無理になっちゃって。すれ違うとか、同じ電車に乗る、とかは平気らしいんだけど、目が合うとか、話す、とかがダメ。触れるのももっとダメ。だから来れないの。ごめんね。君には会いたいって言ってたんだけど、やっぱり無理みたいで。
     まぁ、でも、協力してくれる人はいるからさ、職場の人とか、アパートの人とか、街の人とか。一番は、あの女がしっかり捕まって、前科ついたから。怖い女の人はいないって、ゆっくり理解し始めてる。それと、実家と和解したのもあるかも。
     いや、初めて聞いたし、この前初めて会ったんだけど、充人、地元ではそこそこの坊ちゃんだったのよ。びっくりした。あの女は、その実家の取引先みたいな感じで、確かに仲は良かったけど、娘のやらかしに流石に炎上してね。充人の親も、今までは息子のわがままだと思ってた事が、全部自分の身を守るためだったんだって気づいて大後悔。お姉さんだけは、なんとなく気づいてて、なんとかあの女を入れないようにと頑張ってたみたいなんだけど、親同士が仲良かったら無理だよなぁ。お姉さんがそりゃもう激怒して、親子の縁を切るとまで言って、両親はもうべっこべこ。会って早々、謝罪と感謝伝えられて戸惑ったわ。でも、家族が来た事に充人が尋常じゃなくキレてだな。

    『なんで来んの! あんたらが来ると部屋が荒れる! 僕が何度も何度も言っても片付けろ片付けろって! 出てけ! 僕とヨシさんの部屋をめちゃくちゃにしないで! あんたらがいるだけで荒れるんだよ! 気持ち悪いっ! だから家出たんだろ!』

     って。なんとか謝ろうにも、実際、嫌がってるのにあの女何度も呼んだり、部屋にこもってるのに怪しまなかったり、お姉さんが充人の好きにさせたらいい、こっちも妥協するべきだって言ってるのに聞かなかったり。まぁ、落ち度はあるからな。言おうにも、それがどういう事か知る前に最初があったみたいだし、なにがなんだか分からなかったんだと思う。
     あいつの中で、安全地帯は散らかってる部屋の中で、手を伸ばせば何かが届く、不安定じゃない場所。実家や家族じゃない訳だ。親御さんが家の物に触れるたびに激怒して、最終的にパニックになっちまって。……あんな風に

    『息子を頼みます』

     って言われたの初めてだわ。どうすりゃいいのよ。俺も無理よ? 俺もやばい日は一歩も動けんからね。
     まぁ、でも、なんとなくは家族が自分の味方になったって理解してはいる。それだけでいいだろ。あいつはまだ若いんだし、最後ちゃんと仲直りできれば御の字だ。あぁ、うちの両親はとっくに逝ってるから。別に仲違いもしてないけど、反抗期終わってすぐの、学生の頃な。親孝行前に失っちまったから。その後は裕里香の親御さんに世話になったよ。……すげぇ怖いんだ、師範。

     っと、こんな訳で、一件落着、って言っていいのか分からないけど、こんなもん。いやね、もう少ししたら、俺ら引っ越すのよ。充人の相棒が独立して店開いてさ。あ、それは知ってる? パートナーのしっかり者の兄ちゃんと。開店したは良いものの、なんか手が追っつかないみたいでね、人混みからは避けてるし、落ち着くまでは裏方の手伝いだけで良いって言われてるから、そっちに転職するんだ。そこはタトゥーじゃなくて、爪と髪メインのサロン? で、フェイクタトゥーとかタトゥーシールも今度展開していこうってなってるらしい。ただ、男性メインって訳じゃないから女性客も来る。そこはフォローしてくれるって。俺? 俺も一緒に引っ越すよ。幸い、俺の仕事は体とパソコンありゃどこでもできるからね。
     ストーカー女が捕まったから、安心と言えば安心なんだけど、やっぱり不安が残るから。

     ……ん? なぁに? うん。帰り道つけられたりとか、嫌がらせ、付き纏いは、あの女がやった事。
     ……へぇ。……ふひひっ。それ、知ってどうするの? あんたに関係ないだろ。……あーあー、待って、分かった。降参。通報やめて。

     そうだよ。ほとんど俺がやった。黒い紙と、予約キャンセル、後は、数回階段でぶつかった。あ、言っとくけど、あいつ元から人にぶつかるの。しょっちゅうぶつかるのに、自覚ねぇのよ。俺びっくりしたわ。自動モードで謝罪までつけてるんだもん。その謝罪もほぼ覚えてない。ほんっとうに、あいつぼぉーっと、してんの! だから、階段は最初の方にわざと何回がぶつかって、その後で『最近人とよくぶつかるんだよな』って話振っただけ。そうしたら、ようやくほぼ毎日人とぶつかってる事に気づいてくれたの。だから、気をつけたらすぐになくなったって。あいつも、気のせいかもって言ってただろ?

     で、予約キャンセルは、半分は同僚くんの協力。あいつ同僚くん気に入りすぎておもちゃ扱いしてたから、軽く鬱憤溜まってた彼が乗ってきてくれて、オーナーさんもちょっと懲らしめるつもりで話を盛ったの。

     最後の黒い紙は、……忠告? こういう事もあるよって。それでも、続けるのか。
     ……黒ってさ、なんであんなに迫力あるんだろうな。黒い紙が床に散らばって、その一枚一枚が、大口開けた人の口みたいで。そこから声が聞こえる。聞きたくもない。でも、あの時の俺は『聞かなくちゃいけない』って思ってた。俺のせいで裕里香と由海が殺されて、俺のせいでハレが突き飛ばされて意識不明。責任だと思ってた。俺が負うべき責任。これが罰で、聞き続けて従い続ける事が、償いになるって。つまりはあれは訴状でさ、毎回、毎回、俺は有罪な訳よ。いつか死刑にならねぇかなって、一人の部屋でそう考えた。ハレと別れたのもさ、俺はいつか死刑になって死ぬから、ハレを巻き込んじゃいけないって。あいつ良い奴だから、一番、幸せになってほしいから、だから……っ。

     悪い。おじさんはこれだから嫌だね。涙腺は年々馬鹿になる。

     俺は、黒い紙をそう解釈した。送ってきた奴らはただの冷やかしの嫌がらせだったろうけど、俺にはそう見えてならなかった。ずっと死にたかった。だってよぉ、一番愛してた娘と一番好きだった女が、妻が死んで、殺されて、その後でそこから救ってくれた子が、幸せにしてくれた分、世界一幸せになってほしい子が、目の前で突き落とされたんだ。三人、三人殺したらもう死刑だろ? 死にたかったんだ。あのままで死にたかったんだよぉ。
     ……なのに、花火なんてやってるから。
     充人はさ、俺が有罪の、俺の罪の証だって思った黒い紙を、手一杯に抱えて俺の前にぶち撒けたんだ。

    『これ、僕に対する思いの丈を書ききれなくて、真っ黒になってしまったラブレターだって解釈するから! めっちゃ嬉しい!』

     って。馬鹿だろ。
     え、そう。全部バレてた。ぶつかるのは早々に自分で気をつけるようになったし、予約キャンセルは同僚くんが詰問に耐えきれずに自供した。可哀想に、締め上げられてる同僚くんと、締め上げて満面の笑みになってる充人の写真が送られてきたよ。うん。帰ってきたら謝った。オーナーは拗ねられて、有給ねじ込まれたらしい。はい。俺とお出かけしました。
     で、黒い紙を前に、色々言い訳しようとしたら、その前に抱き込まれて、一枚一枚に勝手な感想つけてくんだよ。手が怪しい所掠めるおまけ付きで。

    『あはっ、熱烈。僕も同じ気持ちだよ、ヨシさん』
    『えぇー! そんなに褒められると照れるわぁ。ヨシさんも、えっと、ギリギリ良い所ある!』
    『やっぱり、ポエミーおじさん。こんな遠回しに言わなくても、僕は大丈夫だよ』
    『僕も、大好きだなぁ』

     て、温かくて、体の奥の黒いもんがドロドロになって沸騰してく。自分の唇ががさがさなのが申し訳なくなるくらい、充人の口を覚えさせられた。あ、ごめん。セクハラになるね。
     早い話が、単純なおじさんだからさ、あっという間に、黒い紙が変わってった訳よ。
     ふふ、意外? 俺があいつの事ちゃんと好きなの。俺も意外。あんなガキ、自分を苦しめるために寄っていったのに。『傷をちょうだい』って、言ったのに。あいつ、苦しめるどころか、俺のダメなところで楽しみ始めてさ。手を引かれて、掬い上げられるってのとは違う。振り回されて、その場でぐだぐだのたうち回って、今の俺のままで、楽に息ができる。幸せにはなれねぇよ。なっちゃいけない。でも、充人となら、不幸せなままで幸せになれるだろうから。お互いに足を引っ張りあって、どん底まで落ちても、なんだかんだで一緒にいたいんだよ。
     ……ふふっ、キモいねぇ、おじさんの惚気。
     いや、充人の言ってた通りだわ。話すとスッキリする。君の相槌も絶妙だね。なんか面白そう。これからも、充人が来るだろうけど、変わらずに接してくれると有り難い。あいつが女の子で気に入ったの、君だけだから。あ、でもバイトか。学生終わったら別の所で就職、……え、ここに就職するつもりなの? 最高。じゃ、また、うちの連れが来たらよろしく。

     えっ。……なるほど。覚えてたから良い事あったかな?
     改めまして、大路由利です。サイン? 喜んで。あ、だから名乗ったのね。穂口、あきらさんね。うん? 充人はすぐ気づいたよ。あいつ、俺の本全部持ってるから。名前も、結構気に入ってるのよ。裕里香と仲良くなったきっかけだから。ユリ、って読めるだろ?
     え、ヨシトシだよ、読み方。え、ずっとユリだって思ってたの? いや、充人は正しい読み方知ってるはず。……あぁー。
     なんか、ごめんね。

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門 #ドラマ脚本

     
     
    手芸と読書と映画が好きな者です。 小説も書きますが、素人故、お手柔らかにおねがいします。

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