
銀の川、空海の天 第八章
連環
高野の山に、あれから何度も秋が訪れていた。
杉の梢を渡る風は穏やかで、谷を流れる水は、昔と変わらぬ音を立てていた。
空海は静かに立ち上がる。
随分たった、長い道のりだった。
幼き日、若杉山で一人の男と出会い、海を渡り、長安で知を授かり、この山へ辿り着いた。
人を導き、多くの命を救い、多くの別れを見送ってきた。
その歩みの果てに残ったものは、一つだった。
受け取ったものを、次へ託すこと。
それだけだった。
空海は弟子たちを伴い、あれから誰も立ち入ることのなかった山の奥へ向かった。
深い杉林を抜け、苔むした岩壁の前で足を止める。
長い年月を経てもなお、石積みは静かにその姿を残していた。
空海は岩肌へ手を添える。
冷たい。
その奥では、今も絶えることなく水が流れている。
目を閉じる。
闇の向こうに、一人の男が立っていた。
若杉山で初めて出会った日と変わらぬ、あの穏やかな微笑み。
空海もまた、静かに微笑んだ。
弟子たちは、ただ見守った。
やがて石の戸がゆっくりと開く。
冷たい空気が流れ出る。
空海は弟子たちへ振り返った。
その顔に恐れはなかった。
別れの悲しみもなかった。
ただ、永い旅の果てに、ようやく帰る場所へ辿り着いた者だけが浮かべる、満ち足りた微笑みがあった。
「私は終わるのではない。」
空海は静かに言った。
「これからも、この流れの中にいる。」
弟子たちは涙を流した。
空海は石室へ歩みを進める。
一歩。
また一歩。
迷いはなかった。
若杉山で受け取った知。
長安で託された知。
高野で与えられた知。
人を救い、ときに人を傷つけ、それでも未来へ渡されていく知。
その果てしない流れの中へ、自らも一つの輪となって加わる。
それは終わりではない。
空海にとって、それは人生で最も大きな喜びだった。
この大地と。
地下深く巡る鉱脈と。
絶えることなく流れ続ける水と。
丹玄と。
そして、まだ見ぬ未来を生きる人々と。
永遠につながる。
そのために、自らこの場所へ帰ってきたのだから。
戸口で立ち止まる。
空海は最後にもう一度、空を見上げた。
秋の澄み切った夜空には、天の川が静かに輝いている。
その光は山を越え、大地を巡り、地下深く流れる見えない川へ溶け込んでいくようだった。
天の川。
地の川。
地下を巡る銀の流れ。
すべては、一つだった。
空海は静かに目を閉じる。
弟子たちは深く頭を下げた。誰もが唇を強く噛みしめ、こみ上げるものを必死に押し殺していた。
震える手で石の戸を閉める。
外側から、太い木の横棒を抱え上げる。
深く息を吸い込み、静かに受け木へ下ろした。
ドン。
その音は、谷に響いた。
かつて、丹玄が空海へ託した音。
今、その音は空海から未来へ託される音となった。
杉の梢を風が渡る。
幼き日、若杉山で始まった出会いは、
海を越えて長安へ続き、
再び高野へ帰り、
時を越えて、
人から人へ、
祈りから祈りへ、
静かに受け継がれていく大きな輪となり、
天も、地も、銀の川も、千年を越えて流れ続ける。