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チョラサン⑪

     「今回で終わるんだって。チョラサンの無料配布」
     お椀にコーンスープをおたまで注ぎながら、蘭は言った。
     「あらぁ、わたしが子供の頃から続く行事なのに。もっと前からかしら。不景気なのねぇ、きっと」
     母は食卓で美容雑誌を読みながら、言った。母はその雑誌で、勤めている会社の化粧品の広報担当として、顔写真つきで掲載されている。夏の新作のパウダーファンデーションだ。
     「どう?母さん綺麗でしょ?」
     そう言って、母は得意気に雑誌の一ページを楡に見せた。写真の母は、目の前の母とは全く違うように、楡には見えた。
     蘭は母と楡の前にコーンスープの入ったお椀を置きながら雑誌を覗き込み、「ちょっと直し過ぎなんじゃない?」と笑いながら言った。
     その第三日曜日の昼食は、うな丼だった。甘辛いにおいが食卓に満ち、食欲をそそった。うなぎは、母の一番の好物だ。
     「ああ、良いにおい」母は言った。「残りものでも、うなぎならご馳走ね。もう毎日でもオッケー」
     昨夜も、食卓にうなぎが上った。今日はトモミくんの資格試験の日だ。だから前の晩は合格祈願もあって、蘭が寺田屋から特上のうなぎを仕入れていたのだ。トモミくんの昼の弁当にも、蘭はうなぎを入れていた。
     「トモミくん大丈夫かしらねぇ」母は言った。
     「大丈夫なんじゃない?ランク“S”なんだし」蘭は言った。
     「ねぇ、あなたトモミくんはどうなの?」
     「どうって何よ?」
     「男としてどうかってこと」
     「はあ?」
     「あら、ダメ?資格取ったら出世するかもしれないじゃない」
     「資格と出世はイコールじゃないでしょ?」
     「でも手に職つけるワケだから食いっぱぐれないわ」
     「そうかもしれないけどねぇ」
     「ダメなの?わたしはトモミくんって好きよ。真面目で、派手さがないトコがね」
     「なら母さんどうぞ。ひとり身なんだし」
     「そうねぇ、いっちゃおうかしら。わたし年下にモテるのよ」
     「あ、そう」
     そう言って、蘭はコーンスープを飲み干した。
     「トモミくんが父親になるのは嫌よねぇ?」
     窺うように見る蘭の視線から、楡は不機嫌に顔を背けた。
     「トモミくんは、素朴な外見とは裏腹で面倒臭い人」
     「まあ、トモミくんはB型だからねぇ」
     「血液型なんて関係ないわよ」
     「あら、そうでもないのよぉ」
     楡は丼の底のごはんをかき込むと、丼を流しに置いてそそくさと二階に上がった。

      トモミくんが帰って来たのは、夜の十二時近かった。楡は自分の部屋で、ベッドに潜り込んでいた。
     お帰り、遅かったね。
     うん。試験終わってから映画に行ったから。
     声を通した蘭とトモミくんのやりとりが、何だか妙に秘めごとめいていて、楡の心は落ち着かなくなる。
     何の映画?・・・・・へぇ、わたしも観に行こうかな、楡と。
     そして二人の笑い声が波紋のように広がっていく。闇の中だと、空気の揺れをことさら感じるのだ。
     それからふいに静かになった。二人ともどこにもいなくなってしまったように。確かにいるはずなのに、どうしてこんなにも静かなのか。そう思い始めると、楡はどうにも落ち着かなくなる。そっとベッドから抜け出し、廊下に出た。階下から明かりが滲んでいる。その明かりに導かれるように、楡はいつもの忍び足で進む。階段を下りるごとに、何やら体温のような温かさを感じた。これから目の当たりにするだろう熱源の正体に、動悸が高鳴る。
     わずかに開いたドアの隙間から食卓の方を覗くと、トモミくんと蘭がお互いの唇を合わせていた。そういう状況になっていることにさほど驚きがなかったのは、あらかた想像出来る展開だと、楡は思っていたからだった。テレビドラマや映画でも、男と女は同じように、二人っきりになれば唇を合わせていたのだから。それこそ呼吸するみたいに自然に。何故そういう衝動にかられるのかということはわからなかったが、それはきっと喉が渇いて水を飲んだり、お腹が空いたからお菓子をつまんだりするのと、さほど変わらないことのように思えた。あのおじさんが楡にした行為も、そういう生理現象に近いものなんだろうか。
     目の前にいるトモミくんと蘭はすでに楡の知る二人ではなく、どこか動物めいていた。圧縮された世界で二人の視線は極限まで狭まり、お互いしか捉えていない。だから二人にとって楡はここにいないのだ。
     トモミくんは蘭に口づけをしながら、その手は蘭の胸を捉え、磁石のように吸い寄せられている。二人は動き合い、ひしめき合っているのに、何故かとても静かなのだった。漏れ出るのを必死に抑え込もうとする声は、不穏な息遣いとなって揺れている。
     大人の男と女は、二人になるとどうしてこういうことをするんだろう。楡は何度目かの疑問を感じた。あらゆるドラマで、映画で、大人の男と女はそうなのだ。楡は、自分が女の人とああいうことをするなど絶対にないと思うし、そうすることが大人になることならば、絶対に大人になどなりたくない気持ちを新たにした。それなのにどうしたことだろう、楡は目の前の情景から目を離すことができないし、驚くことに下腹部に妙な違和感すら覚えた。触れることすらはばかられるような違和感は、何故か絶望的な恥ずかしさを催した。その恥ずかしさの矛先は、真っ直ぐにトモミくんに向かっているのだ。
     その時、何かが床に落ち、割れる音が響いた。蘭とトモミくんはビクンとしてお互いの身体を離し、床を見つめた。床に落ちたのはチョラサンの瓶だった。瓶の破片と、チョラサンのレモン色の錠剤が散らばっている。
     「あ、もったいない」
     そう言うと、トモミくんは床のチョラサンを拾い始めた。蘭は、床に這いつくばっているトモミくんの後頭部を見つめていたかと思うと、手を口に当てて笑い始めた。
     「笑ってないで手伝ってよ」
     トモミくんは抗議した。
     「はいはい」
     蘭は言うと、トモミくんと同じ体勢になって、せっせとチョラサンを拾い始めた。さっきまでの営みの具合とはあまりにもかけ離れた様子に、楡は不思議な生き物を目の当たりにしているように凝視した。二人は頭をぶつけ合ったりしながら、その度に笑い合いながら、その様は陽向でじゃれ合う猫みたいだった。
     「あら、楡」
     蘭は言った。トモミくんも楡を見て、「あ」という顔をした。
     「どうしたのよ、そんなトコに突っ立って。いやねぇ、いつからいたの?」
     楡は、蘭の表情や目の色から、蘭の真意を読み取ろうとした。ここで行われた一部始終を見られたとしても、そんなことはとるにたらないとでも言いたげな、そのもの言いに対して。
     トモミくんはチョラサンを拾い、それを蘭に手渡した。
     「いらないの?あげるわよ」蘭は言った。
     「いや、もう大丈夫」
     トモミくんは後頭部をポリポリと掻きながら、言った。
     「もう卒業」
     「卒業って」
     おうむ返しして、蘭は笑った。

      窓から差し込む西日が、楡の顔半分を照らしている。姿見に映る楡が着ているのは、あのあじさい柄の浴衣だ。蘭が丈を綺麗に直してくれ、所々あったシミもクリーニングで可能な限り抜いてくれて、最初に箪笥から引っ張り出した時とは見違えるほど綺麗になった。
     「似合うじゃない。いいわよぉ」
     母が姿見を覗き込み、言った。
     「ホント、捨てなくてよかった」
     蘭は鋏で裾の糸のほつれを切りながら、言った。
     今日は夏市がある。皆総出で訪れることになっているのだ。
     「お化粧してあげる」
     そう言って、母は楡を鏡台の前の椅子に座らせた。
     「可愛いよ」
     改めて母は言うと、何故か、楡を後ろから抱きしめた。母がいつもつけている香水のにおいが、鼻孔をくすぐった。鏡台に映る母の顔を見ようとしたが、うつむいているから見えなかった。
     母の体温と初夏の陽ざしも相まって、楡の背中にひと筋、汗が伝った。

     〈完〉

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

     
     
    私の日常のこと。エッセイや小説も書いてます。

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