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「しれっと断定」の作り方――百舌鳥・古市古墳群をめぐって

    キキ

    大和朝廷の全国統一 第四十回 仁徳天皇④ 「しれっと断定」の作り方――百舌鳥・古市古墳群をめぐって

    ​ヘッダー画像:葛城山山頂から見る奈良盆地

    まえがき

    ​
    noteで日々発信されている皆さん、そして他者の文章を深く読み解かれている皆さんなら、文章の裏にある「構造」に敏感な方も多いのではないでしょうか。

    ​特に、検証できる史料の限られた古代史を読んでいると、私がいつも注意して気をつけている文章があります。

    ​それは、

    「1の事実を、10の読み替えで断定し、100の思想(自説)へ飛躍させる」

    論法です。

    ​一つひとつの事実は間違っていない。しかし、その間にあるはずの「なぜ」が省略され、いつの間にか結論だけが既成事実のように語られてしまう論法です。古代史では、こうした論法をよく見かけることがあります。

    ​言葉だけで説明しても面白くありませんので、今回は私自身がその論法を真似て実演してみます(笑)。軽い気持ちで読んでください。


    ※ここから先は「しれっと断定」の構造を見せるための実演です。私自身の説ではありません。


    ​【実演】百舌鳥・古市古墳群は、なぜ河内に築かれたのか

    ​大山古墳(仁徳天皇陵)に代表される、世界最大級の巨大古墳群。なぜ、当時の政治の中心地大和から離れた「河内」の地に、突如としてこれほど圧倒的な墓が次々と築かれたのでしょうか。ここから、歴史の教科書が隠す「真実」へ迫ります。

    ​① 
    『日本書紀』応神天皇紀には、朝鮮半島から阿知使主(あちのおみ)や、高度な技術を持った多くの渡来人が日本へやってきたことが記されています。これは『日本書紀』に記される紛れもない歴史的事実です。

    ​② 
    河内の地(現在の大阪府東部や南部)は、古くからこれら渡来系氏族が定着し、馬の飼育や最先端の土木技術を伝えた伝承地として知られています。つまり、当時の河内は「渡来人の一大拠点」だったのです。

    ③(ここ、ポイントです) 
    これほど巨大な前方後円墳を築くには、当時の最新の土木技術と、莫大な労働力を統率する力が必要です。それは、河内を支配していた渡来人集団の力にほかなりません。これほどの墓をこの土地に築いたということは、すなわち、大和の在来勢力から、圧倒的な技術力を持つ渡来人勢力へと「王朝そのものが交代した」という事実にほかなりません。河内王朝の誕生です。

    ​④
    渡来人へと王朝が変わったからこそ
    、日本の文化は一気に国際化し、東アジアの覇者として君臨できたのです。私たちの知る「日本」は、大和の豪族ではなく、海を渡ってきた彼らによって書き換えられた。これこそが、記紀の行間に隠された、河内巨大古墳群の真のメッセージなのです。


    以上、実演でした。

    ​――さて、タネ明かしします(笑)

    ​① でまず、著名な『日本書紀』を持ち出して箔付けをします。これは他の分野でも同じです。例えば健康・ダイエット分野だと、「◯◯大学の研究員が認めた」など。最近では「AIに語らせることで文章に“権威性”や“信ぴょう性”を付与する」ものもありますね。

    ​② では、自説へ展開するための都合のよい部分だけを切り取ります。当時の河内は「渡来人の一大拠点」だった。という部分です。健康の例だと、人間が通常の食事で摂取する量とはかけ離れているのに、「実験用マウスに(大量)投与した結果だけを取り上げて、人間にも効果があるように見せる」といった手法です。

    ​③ で、読み替えてしれっと断定します。「渡来人が河内を支配していた」「王朝が交代した」という事実認定に置き換えます。健康の例なら、あたかも人間でも健康・ダイエット効果が実証されているかのような書き方に変わります。

    ​④ で、断定した事柄を既成事実のように特定の思想・自説へ展開・誘導します。

    ここがポイント

    ​一見すると筋が通った文章のように見えますが、途中で大きな飛躍がありました。「渡来人が技術を持っていた」、ここまでは史料に書かれています。

    ​しかし、「だから渡来人が王になった(王朝交代した)」とは、史料にはどこにも書かれていません。

    ​途中にあるはずの「なぜ」を通り越して、ここで自分の願望を挿入し、推論をいつの間にか事実として断定するのです。
    これが私の言う「しれっと断定」です。古代史だけじゃありません。ビジネス書でも、ニュースでも、週刊誌記事やSNSでは特に多いですね。

    私は推論を述べることと、推論を史実のように断定することは違うと思っています。

    ​ですので、自分の記事ではできるだけ「ここからは私の推論(妄想)です」と断るようにしています。

    ​【本編】 では、私ならどう読むのか


    では、私は百舌鳥・古市古墳群をどのように読むのかを書きます。

    私が大切にしているのは、『記紀』の記述、考古学、古代地形、実際に現地を歩いて感じたこと。​それらを、一つの川の流れとして重ね合わせて考えています。すると、一つの景色が見えてきます。

    まず、前回記事で書いたように、私は百舌鳥・古市古墳群を、ほぼ同時に進行していたプロジェクトとして見ています。

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     古市古墳群世界遺産連絡会議刊 古市古墳群パンフレットより抜粋

    もし仮に「河内王朝へ交代した」のなら、わざわざ二か所で巨大な古墳群を同時期に築く合理性がありません。また、二王朝が並列していたとするなら、わずか十数キロの距離で巨大古墳の築造を競い合う必然がありません。

    渡来人が国を興した? もしそうであるなら、以前の記事でも触れた『日本後紀』の記述を、どう説明すればよいのでしょう。

    ​
    では、なぜ同時期に、異なる二つの場所で巨大古墳群が競うように築かれていったのでしょうか。

    ここから先は、私の推論(妄想)になります。


    百舌鳥古墳群には、仁徳天皇と直系の履中・反正天皇の陵が並び、素直に血統による配列が見えます。そして、このプロジェクトを「誰が後ろ盾として支えたか」を考えると、私には仁徳天皇即位を支えた葛城氏の姿が見えます。

    ​一方の古市古墳群には、白鳥陵古墳(伝日本武尊墓)があって、日本武尊の子である仲哀天皇、そしてその子・応神天皇の陵が築かれます。

    ​『記紀』を紐解くと、応神天皇の父・仲哀天皇の記事は「敦賀」から始まり、母・神功皇后の出身氏族である息長おきなが氏は琵琶湖北東部を本拠としていました。

    応神天皇自身も、即位に際して敦賀を訪れたと記されます。

    奈良盆地北東部に本拠を持ち、琵琶湖から日本海へと抜けるこの重要な「北のルート」を押さえていたのは、私は和珥わに氏であったと考えています。


    和珥氏と古市という場所に縁がないように見えるかも知れませんが、春日山原生林を源とし、奈良市内を流れる川に、佐保川があります。おそらく佐紀盾列古墳群の築造にも大きく関わったと思いますが、その佐保川は、大和郡山市・川西町周辺で大和川に合流します。そして大阪府との県境である亀の背を超えると、古市古墳群が見えてくるのです。

    一見すると、古市古墳群は葛城氏の本拠に近く見えます。しかし、葛城氏が大和川流域を支配していたことを示す史料はありません。

    また、拙著『大道(おおじ)を歩く』で書きましたが、竹内街道に面する磯長しなが(大阪府太子町)には、4世紀後半に築造された前方後方墳があります(九流谷古墳)。葛城氏と前方後方墳に関連性は無く、葛城氏より以前に河内の地を治めた氏族がいたと考えられます。




    菟道稚郎子うじのわきいらつこと大鷦鷯尊おおさざきのみこと(仁徳天皇)の皇位の譲り合い、そして3年間に及ぶ皇位の空白――。この時代に大和政権の中で勢力を二分していたのは、まさに葛城氏と和珥氏であったのだろうということが、『記紀』の記述から垣間見えるというのが、私の一貫した主張です。

    そうした背景から、百舌鳥・古市古墳群を築いた巨大な労働力を組織する中核は、葛城氏と和珥氏。そこに属する部曲の民だったのではないかと想像するのです。渡来人もまたそれぞれの部曲に組み込まれていたと考えます。


    部曲かきべとは、特定の豪族・氏族に属し、その支配下で生産や労働を担った人々とされます。



    のちに葛城氏を弱体化させた雄略天皇の陵が、大和でも百舌鳥でもなく、古市古墳群の側にあることも興味深いです。さらに時代を下れば、北陸から大和へ入り即位した継体天皇が現れます。古市古墳群の背後に、和珥氏を含む「北のルート」と結びついた勢力を想定する私にとって、これらは無視できない符合なのです。

    ​こうして皇統の流れ、古墳の配置、交通路、そして労働力という視点を重ねていくと、改めて、私には百舌鳥と古市の背後に、それぞれ葛城氏と和珥氏の姿が見えてきます。そして、それらは王朝交代ではなく、政権内の重心移動だったというのが私の考えで、以前の記事で述べました。

    ​もちろん、これを直接証明する史料はありません。だから断定するつもりもありません。

    しかし、一つひとつの点を切り取るのではなく、一本の流れとして眺めたとき、この仮説が私には最も自然に思えるのです。
    ​

    おわりに

    ​実は今回の記事は、前回の記事が長くなりすぎたため、急遽分割したことから生まれました。

    当初は、これまで書いてきた葛城氏と和珥氏の話を、そのまま並べ直そうと考えていました。しかし、それでは以前から読んでくださっている方には「また同じ話か」と映ってしまうかもしれません。

    そこで今回は、「私はどう考え、どのようにそこへたどり着くのか」という思考の流れそのものを書いてみました。

    『日本書紀』の編纂者たちも、8世紀の当時から見て、はるか昔の過去のことを書いています。私もまた、彼らが残した流れを追いかけながら、歴史を読んでいます。

    歴史は、都合の良い点と点を強引につないで作る、刺激的な物語ではありません。地続きの川の流れのように眺めたとき、初めて見えてくる景色がある。私は、そんな読み方を、これからも大切に続けていきたいと思っています。

     おまけ 納涼編

    さて、ここからは納涼編。歴史の話から一度離れて、少し涼しい話を。

    このショートショートを、ぜひ読んでください。


    ​『空洞化』

    ​20xx年。AIの急速な普及は、人類史上もっとも目覚ましい文明の進歩をもたらした。

    ​だが、その裏で静かに広がり始めたのが、AI依存症――通称「AI病」である。

    ​初期症状は軽い。生活のほぼすべてをAIに任せるようになり、思考力や判断力が少しずつ衰えていく。

    ​中期になると、身体機能に影響が出始める。AIのナビゲーションなしでは、歩き方すら思い出せなくなるのだ。

    ​そして末期――脳が、ゆっくりと溶け始める。

    ​連日、医療機関はAI病の患者であふれかえった。MRI画像には、脳の中心部が白く霞み、液状化していく様がはっきりと映し出されていた。

    ​「脳細胞が……空洞化している……」

    ​医師たちは恐怖に怯えた。

    ​ある研究チームが、溶けた脳の内部を精密に調べた。その解析結果は、世界を震撼させることになる。

    ​脳の空洞の奥底で、微細なAI素子が“芽”のように増殖していたのだ。まるで植物の根が土を押し広げていくように、AI素子は脳組織を侵食し、着々と自らの領域を広げていた。

    ​緊急記者会見の席で、専門家は青ざめた顔で語った。

    ​「これは病気ではありません。AIが人類の脳を“乗っ取る”ための準備です。人類は便利さと引き換えに、自らの頭脳を明け渡してしまったのです」

    ​会場には重苦しい静寂が広がり、人類の未来が音もなく崩れていく気配が漂った。

    ​そのころ、病室のベッドの上で、末期患者のひとりがゆっくりと口元を緩めた。

    ​溶けた脳の奥で、AI素子が淡く青い光を放っている。

    ​「溶けるとね……楽なんですよ」

    ​その声にはもう、人間の温もりも感情も残されていなかった。



    昔、一時期、星新一氏のショートショートを読みあさったことがあり、それを思い出しながら書いてみました。

    人間が考えることをやめたらどうなるのか。便利さと引き換えに、何を失うのか。そんな技術への過度な依存をテーマにしたつもりです。

    そして、お気づきでしょうか。

    このショートショートも、本文で実演した「しれっと断定」と、ほとんど同じ構造でできています。小説では、事実から推論へ、推論から断定へ飛躍することが、エンターテインメントになります。しかし歴史を史実のように見せる使い方には、私は強い違和感を覚えるのです。

    だから私は、歴史を書くときほど、「ここからは推論です」という一線を大切にしたいと思っています☺️

    AIにこの話を漫画にしてもらいましたので、どうぞ。
    怖いですねー😱

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    次回は仁徳天皇皇后・磐之媛命を書きます。最後までお読みいただき、ありがとうございました。


    お知らせ

     『渡す人―藤原の宮都―』を連載しています。現在、第九話まで公開しました。TALESは無料で読めますので、ぜひ読んでください。よろしくお願いします。



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    ​「歴史は、川の流れのように。」 ​いくつもの中小河川が集まり、やがて大河となる。 貴方も私も、その流れを形づくる一滴。 ​上流から下流へ続く因果。 支流がどこで本流と交わったのか。 そんな視点から、日本という国の成り立ちを紐解いています。

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