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日本武尊最終章:白鳥伝説を追う

    大和朝廷の全国統一 第二十六話 白鳥伝説を追う

    はじめに


     日本武尊やまとたけるのみことの伝承地を巡る旅、最終回は陵墓を訪れました。『古事記』『日本書紀』(以下、「記紀」)は、日本武尊が死後に白鳥となって飛び立ったと記します。建部大社たけべたいしゃの案内板画像を載せますので、あらすじをご存知ない方は、一読ください。

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    建部大社参道の掲示。『古事記』は能褒野→河内、『日本書紀』は能褒野→大和→河内へ飛び立ったと記します。

    (ヘッダー画像 : 大鳥大社 日本武尊像)


    日本武尊終焉の地、能褒野を訪ねて

    「記紀」の記述

     「記紀」には、日本武尊が能褒野のぼので亡くなり、陵みささぎが造られ葬られたと記します。以下は現代語訳と原文の抜粋です。

    『日本書紀』

    (現代語訳)
    天皇は(日本武尊の死を)お聞きになり、安らかに眠れなかった。食べてもその味もなく、昼夜むせび泣き、胸をうって悲しまれた。大変歎いて、「わが子小碓皇子おうすのみこ(日本武尊の幼名)、かつて熊襲くまその叛いたとき、まだ総角あげまき(角髪みづらと類似。小児の髪型)もせぬのに、長く戦いに出て、いつも私を助けてくれた。東夷あずまえびす(東国の人をののしる語)が騒いで、他に適当な人がいなかったので、やむなく賊の地に入らせた。一日も忘れることはなかった。朝夕に帰る日を待ち続けた。何の禍わざわいか何の罪か、思いもかけずわが子を失ってしまうことになった。今後だれと鴻業あまつひつぎ(帝の行う大業)を治めようか」と言われた。群卿に詔みことのりし、百僚に命じて、伊勢国の能褒野のぼのの陵に葬られた。

    (原文)
    天皇聞之、寢不安席、食不甘味、晝夜喉咽、泣悲摽擗。因以、大歎之曰「我子小碓王、昔熊襲叛之日、未及總角、久煩征伐、既而恆在左右、補朕不及。然、東夷騷動勿使討者、忍愛以入賊境。一日之無不顧、是以、朝夕進退、佇待還日。何禍兮、何罪兮、不意之間、倐亡我子。自今以後、與誰人之、經綸鴻業耶。」卽詔群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。

    現代語訳、宇治谷孟訳 『全現代語訳日本書紀 上』講談社学術文庫

    『古事記』

    倭建命の訃報を受けて、大和においでになる后たちと御子たちはみな能煩野のぼのに下って来て、御陵みささぎを作り、御陵の脇の田を這い廻って、哀しみの声を上げて泣いた。歌っていう。

    かたわらの 田の稲の茎に その稲の茎に 這いからまっている 山芋の蔦よ

    (原文)
    於是、坐倭后等及御子等、諸下到而作御陵、卽匍匐廻其地之那豆岐田自那下三字以音而、哭爲歌曰、

    那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良

    中村啓信訳注『新版古事記』角川ソフィア文庫


     能褒野にはいくつかの伝承地があります。今回は宮内庁治定じじょうの能褒野墓、加佐登神社の白鳥塚古墳、そして武日塚(長瀬神社)を訪れました。


    能褒野神社と能褒野墓

    能褒野神社
    所在地 : 三重県亀山市田村町1409
    ご祭神 : 日本武尊 配神 : 建貝児王たけかいこのみこ、弟橘姫命おとたちばなひめのみこと

    明治12年(1879) 「王塚」(丁子塚とも)が日本武尊の能褒野墓のぼののはかに治定されたことで神社を創建。建貝児王は、日本武尊と吉備穴戸武媛の子です。

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    内部
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    由緒書


    能褒野墓
    能褒野墓は能褒野古墳群の中で最大の前方後方墳(墳丘長90m、4世紀末頃の築造)。北伊勢地方最大の規模を誇ります。

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    能褒野墓①
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    能褒野墓②


    加佐登神社と白鳥塚古墳

    加佐登神社
    所在地 : 三重県鈴鹿市加佐登町2010
    御祭神 : 日本武尊、天照大御神、他十四柱

    神社は白鳥塚古墳のそばに鎮座します。日本武尊の形見である「笠」と「杖」をご神体として祀ったのが始まりとされています(神社由緒)。

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    境内
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    由緒書
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    拝殿内


    白鳥塚古墳
    白鳥塚古墳は、墳丘長78mの前方後方墳で、5世紀前半の築造とされます。

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    神社手前から行きました
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    案内板
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    拝所


    長瀬神社の武日塚

    長瀬神社
    所在地 : 三重県鈴鹿市長澤町2201
    御祭神 : 倭建命 ほか

    延喜式内社長瀬神社が、明治44年に武備たけび神社の跡地に遷座。地元では今でも武備神社と呼ばれることがあるようです。

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    武備塚(「武日塚」とも書く)

     神社本殿裏にあります。江戸時代に亀山藩が日本武尊の墓と定めました。武備たけび(日)塚の名は、日本武尊の東征に従った吉備武彦や大伴武日の名を連想させます。彼らとの関連はわかりませんが、興味深い点です。

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    碑と説明
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    武備塚


    白鳥となって、倭やまとの琴弾原ことひきのはらへ

     『日本書紀』によれば、能褒野の陵から白鳥となって飛び立った日本武尊は、やがて倭やまとの琴弾原にとどまり、そこにも陵が造られます(琴弾原は『古事記』には記載がありません)。

    『日本書紀』 

    (現代語訳)
    そのとき日本武尊は白鳥となって、陵(能褒野墓)から出て倭国やまとのくにをさして飛んでいかれた。家来たちがその柩ひつぎを開いてみると、衣だけが空しく残って屍はなかった。そこで使いを遣わして、白鳥を追い求めた。倭の琴弾原にとどまった。それでそこに陵をつくった。

    (原文)
    時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。

    現代語訳は、宇治谷孟訳 『全現代語訳日本書紀 上』講談社学術文庫


    琴弾原白鳥陵ことひきはらのしらとりのみささぎ

    所在地 : 奈良県御所市冨田

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     看板にある「條ウル神古墳」からは、石舞台古墳(蘇我馬子の墓?)に匹敵する大きさの石室が発見されています。葛城系巨勢氏の墓かもしれません。
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    民家の横を入っていくと
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    すぐにこんな感じになり、少し登ると
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    日本武尊・白鳥伝説の案内板
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    正式には、日本武尊琴弾原白鳥陵
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    略称 白鳥陵
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    拝所

     琴弾原白鳥陵周辺には様々な史蹟・古墳が重層的に存在します。秋津・中西遺跡は、紀元前5世紀頃の国内最大級の水田跡や、古墳時代前期の大和朝廷の成立に関わる重要な祭祀建物跡などが発見されています。また、欠史八代天皇の伝承が多い地域でもあり、第五代孝昭天皇、第六代孝安天皇の宮や陵が近くにあります。また、武内宿禰の子で、葛城氏の祖・葛城襲津彦の墓とされる宮山古墳などがあります。

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    それぞれの位置関係


    尾張氏と葛城氏

     葛城かつらぎ地方は、尾張氏と葛城氏の伝承が重なる地です。葛城は元々尾張氏の本拠地だったと考えられています(諸説あり)。「記紀」によれば、孝昭天皇の皇后となったのが尾張氏の世襲足媛よそたらしひめと記されています。しかし、4世紀頃から、葛城の地は武内宿禰たけのちうのすくねとその子・葛城襲津彦かつらぎのそつひこ(4世紀末頃の人)を祖とする葛城氏かつらぎうじが本拠とします。

    日本武尊は尾張氏の宮簀媛みやつひめのものに草薙剣くさなぎのつるきを置いて伊吹山へ向かい、いのちを落とします。尾張氏の故地である葛城に白鳥となって舞い降りたことに、何か意味があるのでしょうか? あるいは、後に葛城を本拠とした葛城系氏に、何らかの伝承が残されていたのでしょうか。


    白鳥は再び飛び立ち、河内国へ


    『日本書紀』

    (現代語訳)
    白鳥はまた飛んで河内に行き、古市邑ふるいちのむら(大阪府羽曳野市富田)にとどまった。またそこに陵を造った。時の人はこの三つの陵を名づけて、白鳥陵といった。それからついに高く飛んで天に上った。それでただ衣冠だけを葬った。功績を伝えようとして、武部たけるべ(日本武尊の功績を伝えるために設けられた職)を定められた。

    (原文)
    白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。

    現代語訳、宇治谷孟訳 『全現代語訳日本書紀 上』講談社学術文庫


    『古事記』

    (能煩野の御陵から)倭建命(日本書紀は日本武尊)の霊魂が、大きな白い千鳥になり、天に飛翔して、浜に向かって飛んでお行きになった。これを見て、その后と御子たちは、そこの篠竹の刈り株に、足が切り裂かれても、その痛みを忘れて、声をあげて泣きながら追った。

    (四首の歌が記されますが省略します)

    それから千鳥はその国から飛翔してお行きになって、河内国の志紀にお止まりになった。そこで、その地に御陵を作って、鎮座申し上げた。その御陵に名付けて白鳥の御陵という。しかしまたその地から天高く飛翔してお行きになった。

    中村啓信訳注『新版古事記』角川ソフィア文庫


    日本武尊白鳥陵しらとりのみささぎ(軽里大塚古墳)

    所在地 : 大阪府羽曳野市軽里3
    墳丘墓190m 5世紀後半の築造、古市古墳群(世界文化遺産)

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    ここから御陵の拝所まで700mほど竹内街道を歩きます。
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    竹内街道は飛鳥と難波津を結ぶ日本最古の官道(今で言う国道)。名前は武内宿禰に由来するという説もありますが・・ かつては丹比道たじひみちと呼ばれていました。
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     拝所に着きました。古墳周囲は住宅密集地です
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    古墳を訪れたとき、私は神社と同じ二拝二拍手一拝して参拝しますが、特に決まった作法があるわけではないようです。
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    ズームアップ
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    後円部と 周濠
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     案内板


    大鳥大社

    所在地 : 大阪府堺市西区鳳北町1丁1-2
    ご祭神 : 日本武尊、大鳥連祖神
    延喜式内社(名神大)、和泉国一宮

     「記紀」の記述は、「ついに天に上っていった」で終わりますが、どうやら白鳥は海(大阪湾)の方へ向かったようです。直線距離で10キロ余り飛んで行って舞い降りました。舞い降りたところは一夜にして樹木が生い茂り、「千草の森」と呼ばれるようになりました。そこに社を建てて日本武尊をお祀りしたのが大鳥大社だと言います(神社社伝)。

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    由緒
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    参拝した時、インバウンド客がめちゃめちゃ多かったです
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    いろいろ見てきたけど、この像が一番自分のイメージに合うかなぁ
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    本殿裏にあります
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     白鳥はここに飛来した、という伝承。
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     大鳥大社は、大鳥連が祖神を祀った社です。大鳥連は中臣氏と同祖で、『延喜式』の「神名帳」には、祭神大鳥連祖神の一座だけが記されますので、日本武尊を祀ったのは後世のことと考えられます。



    さて、白鳥伝説はこれで終わりかと思いきや、実はまだありました。ただし、日本書紀は白鳥を「鵠くぐい」と記しているので、ここまで「白鳥」を「ハクチョウ」と理解してきましたが、次の伝承は、「白鳥」は白い鳥の鶴になります。その場合、鵠は「弓の的」という意味と考えるようです。

    鶴になって海を渡る

    白鳥しろとり神社

    所在地 : 香川県東かがわ市松原69
    ご祭神 : 日本武尊

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    鳥居
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    由緒
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    神門に鶴
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    拝殿
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    本殿
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    白鳥の松原
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    白鳥の松原には、「日本一低い山」と称する御山みやまがありました。※定義によって諸説あるようです


    なぜ讃岐に日本武尊の伝承があるのか?

     『日本書紀』には、日本武尊と吉備武彦の娘である吉備穴戸武媛きびあなとのたけひめとの間に生まれた武卵王たけかいごのみこと十城別王とおきわけのみこが、それぞれ讃岐綾君、伊予別君の祖であると記されています。後裔氏族が治めた地に、祖神が祀られ、伝承が伝えらたと考えることができます。

    また『日本書紀』は、東征で捕虜とした蝦夷が、伊勢神宮、三輪山を経て、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五国の佐伯部の先祖となったと記しますので、佐伯氏の系譜や伝承と結びついた可能性も考えられます。ちなみに弘法大師・空海は讃岐佐伯氏の出身とされます。


    日本武尊をどう考えるか


     ここまで全国各地に点在する伝承地を巡ってきました。日本武尊は、「記紀」に記される千数百年以上前から語り継がれる〝古代のスーパーヒーロー〟です。もし編年を共有してもらえるなら、私が仮定しているのは4世紀前半であり、この時期に大和朝廷が全国に勢力を広げていった痕跡と、彼の物語はシンクロするように思います。そうした連想をさせる遺跡や遺物も数多く存在します。

     日本武尊の話が歴史的事実かどうかはさておき、「記紀」に日本武尊の逸話が記されていること自体は事実です。そして「記紀」は律令国家としての体制を築くために、当時の人々に向けて編纂されたものです。ですから、当時を生きた人々が読んで不自然に思うようなこと、例えば何ら関係の無い古墳を白鳥陵と呼ぶとか、そのような稚拙なことはしないと思うのです(律令制が崩れ後世にほとんどの墓は所在がわからなくなります。現在治定されている古墳が当時のものとは限りません)。

     現代の私たちは、国史として編纂された「記紀」を、捏造されたもの、創作、勝者の歴史だなどと批判的に捉えがちです。しかし、『日本書紀』は異なる見方がある場合、「一書曰くあるふみにいわく」として異論を併記します。それらも捏造するための手の込んだパフォーマンスなんでしょうか?

    私は「記紀」に記されることが全て歴史の真実とは考えていませんが、編纂にあたっては元となる史料や、各氏族に伝わる伝承、口伝などがあって、それらを参考にしたと思っています。しかし、残念ながらそれらは現存しません。「記紀」を、元となる史料や他の文献、他国の史書などとクロスチェックすることが困難なのです(『古語拾遺』や『先代旧事本紀』などとは比較検討して記事は書いていますが)。

    そうしたことで、日本武尊が実在したか否かも、誰も証明することはできません。不毛な議論に時間を割くより、当時の社会や人々の価値観の中で日本武尊の物語がどう機能したかを考えるほうが有益だし、ヒーロー像は読む人それぞれが心の中で描いていただければ、それでよいのではないかと思います。


    おわりに


     昭和生まれの私にとって、この数十年でずいぶん世の中の価値観が変わったなと感じます。きっとあと数十年もすれば、またガラッと変わるんでしょうね。時代の常識なんて、本当に移ろいゆくものだと思います。もちろん、一方で普遍的な価値観もあって、私は「不易流行」という言葉が好きなんですね。不易を知らなければ基礎が立たず、流行を知らなければ新しいものが生まれない、その本もと(根本)は一つなりと。

     また、歴史を知ることの楽しさは、まさに「温故知新」にあると言えます。過去を温たずねて新しきを知るわけですが、その時に大切なのは、今の価値観で過去を裁くのではなく、当時の視点や考え方を尊重すること(想像すること)。そうやって歴史を紐解いていくと、新たな発見があって面白いのと同時に、多様な価値観を受け入れる寛容さを育むことが出来ると思うのですが、皆さんは、どう思われますか?

    次回は景行天皇の最終回として、景行天皇・日本武尊の時代を、違う視点から見てみたいと思います。

    最後までお読みいただき、ありがとうございました。


    おまけ

     夜中に記事を書いている時に作業用BGMとして流していたのがこの曲。記事とイメージが合い、集中することができました。

    もちろん、朝はパンにしたよ(笑)



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    意外とムズい・・、たまごが固まる前にパンが焦げる(•ᴗ•; )



    【参考文献】

    『日本書紀Ⅰ 』井上光貞監訳 中公クラシックス
    『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟 講談社学術文庫
    『新版古事記 』中村啓信 角川ソフィア文庫
    『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典・志村裕子 批評社
    『特選神名牒』上巻・下巻 八幡書店
    Google Gemini Pro
    ナレッジジャパン検索『日本歴史地名大系』 『日本大百科全書』『世界大百科事典』ほか。
    掲載神社の由緒・社伝
    画像は全て筆者現地撮影

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    キキ

     
     
    ​「歴史は、川の流れのように。」 ​いくつもの中小河川が集まり、やがて大河となる。 貴方も私も、その流れを形づくる一滴。 ​上流から下流へ続く因果。 支流がどこで本流と交わったのか。 そんな視点から、日本という国の成り立ちを紐解いています。

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