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「民のかまど」の読み方

    大和朝廷の全国統一 第三十七話 仁徳天皇第一回 「民のかまど」の読み方

    ヘッダー画像:大川。天満橋から中之島方面


    ​国家運営として読む

    ​仁徳天皇といえば、やはりまず思い浮かぶのは「民のかまど」の話でしょう。

    民の暮らしが苦しく、竈の煙が立たないのを見た天皇が、税を免じ、自らも倹約して民の回復を待った。有名な逸話ですね。
    ​けれども私はひねくれているので、この話を美談だけでは読みません(笑)

    ​以前の記事でも書いたように、私が古代史を語るとき、少し他の語り方と違うとすれば、いきなり「何が史実か」という正解探しをしない、ということだと思います。

    まずは8世紀の『記紀』編纂者たちが、自分たちより遥か前の時代をどのように見つめていたのか。その視点をスタートラインにします。

    だからこそ、書物に記されていることを、いったんは丸ごと受け止める。  その上で、「なぜ彼らはこういう描き方をしたのだろう」と、そこに寄り添うように考える。  

    歴史を一本の大きな川の流れとして捉え、史料が増えてくる時代から、今へと伝わる形跡をたどり、少しずつその流れを川上へ遡っていく。  その遡行の果てに、確かな推論の光が見えてくる。と、私は考えています。

    ​そう考えたとき、仁徳天皇をめぐる記述の中で見逃せないのが、難波堀江なにわのほりえや茨田堤まんだのつつみのような大規模土木事業です。

    ※茨田は古称では「まむた」とされますが、この記事では現在の地名の「まんだ」で読みます。

    ​考古学と地形が示す「開発の時代」

    大阪歴史博物館は、『日本書紀』にみえる仁徳天皇11年の「堀江」開削記事について、これがいわゆる難波堀江なにわのほりえであり、現在の大川に当たるものだと説明しています。


    また門真市のホームページは、「伝茨田堤」を、『古事記』『日本書紀』に記述がみえる最古の堤防で、5世紀ごろ淀川の洪水を防ぐために築かれたものとし、宮野町に残る遺構を、現在地上に残る唯一の「茨田堤」跡と推定されるものとして紹介しています。


     寝屋川市もホームページで、『日本書紀』の記述をふまえた「大間」の地名の説明を詳しく載せています。


    さらに淀川資料館の展示年表にも、5世紀に、仁徳天皇が難波の堀江、茨田の堤を築かせたとされる(日本書紀)と記しています。

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    国土交通省近畿地方整備局 淀川資料館(大阪府枚方市)展示パネル


    私が重要だと思うのは、8世紀の編纂者たちが、仁徳天皇の時代を「治水と開発の時代」として記憶していた
    、ということです。

    そして、その記憶が、考古学や地形から見えてくる5世紀の開発の様相と、重なって見えることです。

    『記紀』が編纂されたのは8世紀初めです。その編纂者たちは、そこから200~300年ほど前の仁徳天皇の時代に、難波堀江や茨田堤が築かれたと記します。一方、考古学からも、5世紀には難波や茨田周辺で開発が進んでいたことを示す痕跡が見つかっています。

    もちろん、発掘された遺構や土器に「仁徳天皇が築いた」と書かれているわけではありません。考古学から確認できるのは、5世紀にこの地域で開発が進められていたというところまでであり、その事業を仁徳天皇に結びつけて伝えているのは『記紀』です。

    私はそこで『記紀』の記述を切り捨てようとは思いません。むしろ、8世紀の編纂者たちが、200~300年前の治水と開発の記憶を、仁徳天皇の時代の出来事として伝えていたことに注目したいのです。

    「民のかまど」がそのまま史実か、後世の創作かという水掛け論ではなく、まずはそこを出発点にしたいと思います。

    「民のかまど」を、単に聖帝を讃えるための説話ではなく、当時の国家運営を背景に生まれた物語として読むことができるなら、実際にその舞台となった場所も見ておきたい。そう考えて、現地を歩いてみました。

    難波堀江なにわのほりえ

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    難波堀江は、現在の大川(旧淀川)に比定されています。そして古代の港・難波津は、天満橋てんまばし・八軒家浜はちけんやはま付近だったのではないかとされます。
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    天満橋の少し上流で、大川は寝屋川ねやがわと合流します。
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    天満橋から下流を眺めると、中之島を挟んで川が二手に分かれます。向かって右が大川、左は土佐堀川とさぼりがわです。その後二つの川は再び合流し、安治川あじがわと名を変えて大阪湾に注ぎます。左に見えるのが八軒家浜はちけんやはまの船着場。
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    大阪歴史博物館展示、前期難波宮(6〜7世紀)時代の想定パネル

    現在の大川を前にすると、もちろん今と同じ姿ではないにせよ、河内湖の水を大阪湾へ逃がすためにこの流路を切り開いた先人たちに、頭の下がる思いがします。

    茨田堤まんだのつつみ

    日本で最古の堤防。この治水事業によって周辺の湿地帯が農地に開発され、茨田屯倉みやけ(屯倉は、大和朝廷が日本各地に設置した直轄地およびその穀倉のこと)が置かれたと伝えられています。

    ​寝屋川市大間町たいまちょうの碑

    『日本書紀』に衫子断間ころもこのたえまと記され、かつてこの場所が淀川の氾濫によって堤防が決壊しやすい場所であったことから、断間たえまが訛って大間となったようです。

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    寝屋川市大間町。現在の淀川堤防。
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    碑は、その堤防沿いにありました。
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    蛇が苦手なので、草を払って踏み込もうとは思いませんでした💦
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    大間天満宮

    碑から300メートルほど南へ行ったところにあり、「衫子絶間」の碑が建てられていました。

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    鳥居と社号標
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    衫子絶間の碑

    衫子絶間(ころもこのたえま)の逸話は『日本書紀』に記されます。

    茨田堤の工事を行っているとき、どうしても堤防が決壊する難所が二カ所あり、川の神を鎮めるために「生贄」が必要とされました。

    選ばれたのは、武蔵国の大部強頸(おおべのこわくび)と河内国の茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の2人でした。 

    コワクビは川の神への犠牲となりましたが、コロモコは機転を利かせ、ひょうたんを使って神意を試すことで難を逃れたと伝えられます。そして、この伝承地が寝屋川市大間町とされます。

    一方の強頸絶間こわくびのたえまの伝承碑は、大阪市旭区千林にあります。

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    京阪千林駅からすぐです。商店街から少し住宅地へ入った場所に碑がありました。


    門真市の伝茨田堤碑

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    堤根神社境内に建つ碑
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    現地説明板
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    説明板の画像だけズームアップ
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    堤根神社


    国家最大の資産――人

    ​現代のように、機械があるわけでもない。AIがあるわけでもない時代です。古代において国家を動かす力とは、つまるところ「人力そのもの」でした。

    ​水を抜くのも人。堤を築くのも人。運河を掘るのも人。田を耕すのも人。古墳を築くのもまた人です。

    皆さんは実際にツルハシやスコップで土を掘ったことがありますか?たとえわずか1m掘り下げるだけでも、粘土は硬いし、石はあるし、相当腰にきますよ(笑)

    ​当時の人口は現代とは比べものにならないほど少ないです。その限られた人間の手で、河川を制御し、湿地をひらき、大規模な土木工事を成し遂げようとする。
    それがどれほど過酷で、どれほどの延べ人数を必要としたかは、少し想像すればわかると思います。

    『記紀』は、百姓――大御宝(おおみたから)と記します。

    私は、古代のこの言葉を単なる美しい修辞(きれいごと)とは読めません。人は宝である――。それは優しさの言葉である以前に、国家運営の現実を示す言葉だったのではないかと思うのです。

    ​人を使い潰すようなやり方では、あれほどの工事は続かない。土を掘らせ、水を制し、築き、運ばせるには、生身の人間を極限まで組織しながら、なおかつ生かし、養わなければならない。そこには、感傷ではなく、長期的な合理性が必要だったはずです。

    この時代を語るとき、よく「鉄」や「技術」の話になりますが、古代国家は、人そのものを資源とした人力国家だったという視点が大事だと思います。


    為政者が何を見なければならなかったのか

    ​そう考えると、「民のかまど」の逸話も、少し違って見えてきます。

    この話は、単に「仁徳天皇は優しかった」という道徳譚ではなく、人こそが国家最大の資産であった時代に、為政者が何を見なければならなかったのかを語る物語だったとも考えられます。

    民の暮らしが立たなければ、国家は立たない。  
    竈の煙が消えるということは、単なる生活苦ではなく、国家の基盤そのものが痩せていくことを意味する。  
    だからこそ編纂者たちは、この時代を「民のかまど」という象徴的な物語で描いたのではないか。  
    私はそんなふうに読みます。

    ​もちろん、実際に三年間の免税が行われたのかどうかはわかりません。けれども、難波堀江や茨田堤のような事業を支えるためには、民の負担を調整し、その回復を待つような発想が必要だったであろうことは、十分に想像できます。

    ​先人の積み重ねの上に立つ、現代のインフラ

    ここまで、「民のかまど」の話を、聖帝を讃えるための美しい説話であるだけでなく、巨大事業を支えた古代国家の人間観を映す物語として見てきました。いかがだったでしょうか。

    昔は人の労働力こそが国を動かす力でした。そして、その過酷な泥の積み重ねの先に、後の人々もまた恩恵を受け、国の基盤は少しずつ形づくられていった。これは、今へと続くこの国の遠い先祖たちの話です。

    私たちが当たり前のように享受しているインフラ一つを取ってみても、すべてはそうした長い歴史の積み重ねの上に成り立っています。 

    AIやテクノロジーが人の労働を置き換えていく時代だからこそ、古代のこの物語は、あらためて「人間の価値とは何か」を問い返してくるように思います。


    補足「仁徳天皇」という名について

    仁徳天皇のような呼び名は、後に付けられた漢風諡号です。
    『記紀』編纂時にそう呼ばれていたわけではなく、『日本書紀』本文では大鷦鷯天皇おおさざきのすめらみことと記されます。そのため、「『仁』と『徳』を備えた天皇だから仁徳天皇と描かれたのだ」「『民のかまど』もその儒教的理想像から作られたのだ」といった説明を見ることがありますが、それはいささか順序が逆ではないかと思います。私も便宜上「仁徳天皇」と書いていますが、漢風諡号が後に選ばれたものであることを前提に書いています。


    最後までお読みいただき、ありがとうございました。次回は仁徳天皇の高津宮について書きます。

    ​

    おまけ

    ​八軒家浜は、京阪電車・天満橋駅に直結しています。

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    船着場と遊歩道
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    川の駅 はちけんや
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    川辺りのテラス席でハンバーガーというのも絵になりそうでしたが、結局はエアコンの効いた涼しい川の駅はちけんやにある「大起水産」で海鮮丼をいただくことにしました。 ​目の前の大川を眺めながら、5世紀から現代までこの川を制してきた先人たちの汗に思いを馳せる。現代の快適さの中でいただく海鮮丼は、どこか歴史の重みを感じる格別の味でした。

    おまけのおまけ

    「パティーナ大阪」というホテルが、米国の旅行雑誌『Travel + Leisure』のランキングで「世界のベストホテル」第1位に選ばれたそうです。

    2025年5月に開業したこのホテルは、大阪城と難波宮跡に隣接しており、客室やスカイロビーから大阪城を一望できるのが売りだそうです。

    私は泊まったことはありませんが(笑)、もし眺望を楽しむなら、大阪歴史博物館もおすすめですよ。NHK大阪放送局と同じ建物にあり、難波宮跡や大阪城を見渡すことができます。

    ちょうど大河ドラマ豊臣兄弟の特別展も開催されていますので、大阪散策の際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

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    大阪歴史博物館からの眺め
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    常設展は大人600円、「豊臣兄弟!」展は当日券2,000円。眺望は常設展示室のある階から楽しめます。ホテルは一人一泊ン万円かかると思いますけど、景色も見られて、歴史も学べて、エアコンも効いて、座る場所もあって600円です(笑)

    お知らせ

    7月24日発売『大道(おおじ)を歩く』。Kindle本の予約受付が始まりました! こちらは500円で、世界遺産登録される飛鳥の、また違った一面を見ることが出来ます☺️

    ペーパーバック本も同時発売です。こちらは税込1,500円になります。よろしくお願いします! 


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    キキ

     
     
    ​「歴史は、川の流れのように。」 ​いくつもの中小河川が集まり、やがて大河となる。 貴方も私も、その流れを形づくる一滴。 ​上流から下流へ続く因果。 支流がどこで本流と交わったのか。 そんな視点から、日本という国の成り立ちを紐解いています。

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