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Photo bylusk

ここまでの旅をセーブしますか?

    桜餅

     卒業とは不可逆な変化ではない。
     私にとっての卒業は、凪のように穏やかな移り変わりである。

     門出、祝福、変革、開放、決別。
     卒業という言葉からイメージするものといえばこの辺りだろうか。

     変わらないことを選んでいる私には、なんだかどれもこれも重たい言葉に思えた。
     私には、卒業なんてできないのかもしれない。


     これでは、かぜの帽子さんのメンバーシップでいただいた「私、◯◯を卒業します」というお題に答えられないので、少し視点を変えて考えてみることにした。

     卒業は本当に決別なのだろうか?

     卒業してしまったら、過去の自分とは完全に決別したことになるのだろうか。


     私はならないと思う。
     なぜなら、ここまでの自分がいなければ今の自分はいないからだ。

     ここまでの自分が積み重ねてくれたものがあるから、今の自分が新たな一歩を踏み出せる。
     そうは考えられないだろうか。


     もちろん、何かを卒業すること自体は悪いことではない。
     人によって晴れやかな気持ちになる、自分を整理するための通過儀礼である。

     ただ、卒業を過去を悪いものとして捨て去るための儀式にしてしまうのを見ると少し寂しく感じる。
     過去は未来へ進むための糧になるものでもあるからだ。
     
     私は、ここまでの自分に「お疲れ様。よく頑張ったね」と声をかけて、休ませてあげるための儀式だと思っている。

     

     たしかに、過去の自分は未熟で至らないところも多い困ったやつだったのかもしれない。
     でも、それも自分なのだ。

     悩んで、傷付いて、それでも進んできた自分は不恰好でもそこにいた。
     それを忘れるのは、本当の卒業ではないのではないだろうか。

     卒業した後、母校を訪れると建物の古さや狭さに懐かしさを感じるように。
     あるいは、久しぶりに会った先生がただの一人の大人であることに気付くように。

     振り返ることで得られるものもある。
     過去の出来事なので、良くも悪くも冷静な視点で見ることができるのだ。


     人が持ち切れる荷物の量には限りがある。
     背負いすぎたままでは進めない。

     だから、一度下ろす。

     しかし、これは永遠の別れではない。

     いつだって取りに戻っていい。
     それは自分の一部なのだから。

     立ち止まって振り返ってもいい。
     過去は変わらずそこにあるから。


     変わっていく自分も、変わらない自分も誇らしく思うことができたなら、それが卒業できたということなのだろうと私は思う。

     だから、今の私が卒業される日もきっとくる。
     その日になったら、今を進む私の背中を精一杯押してやろうと思う。





    かぜの帽子さん、素敵な企画をありがとうございました。


     
     
     

    桜餅

     
     
    私は違和感を言語化して、自分が納得できる言葉に定義し直すことで、自由に生きています。 ここにあるのはそんな私の断片です。

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