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BWV-161 第13話 ノクターン

    夜の帳が下りかけた午後7時。
    消灯時間前の静まり返った城南総合病院に
    私は一人で訪れていた。

    すでに執行を終えた
    安楽死処置の手続き書類の受け取りと、
    これからの看取りスケジュールのヒアリング。

    日中の喧騒が嘘のように消え去った廊下には、
    常夜灯の薄暗い光が落ちるだけの、
    静謐な空間が広がっている。

    だが、私の記憶にあるかつての夜の病棟は、
    全く違う地獄だった。

    慢性的なベッド不足、人手不足。
    数年前のこの時間、
    ここは常に喧騒の舞台だった。
    廊下にまでパーテーションや
    簡易ベッドが溢れ返り、
    医師も看護師も、擦り切れた顔で走り回っていた

    ――そのかつての狂気が、
    制度の定着の後は綺麗に削ぎ落とされていた。

    *

    「ああ。後期高齢者の延命治療、
    その引き延ばしが劇的に減ったからね」

    白衣のポケットに手を突っ込み、
    佐藤医師が寂しげに微笑んだ。

    彼の顔から、かつて私が見た
    酷使による隈は消えていたが、
    その瞳にはどこか奇妙な空白が宿っている。

    「以前なら、意識のない患者の心臓をマッサージし、
    何本もの管で繋ぎ止め、
    ただ数日間の『生』を維持するだけだった。

    だが今は違う。
    人々は自らの意思で、
    あるいは家族との対話の果てに、
    穏やかなサロンでの幕引きを選ぶようになった。
    結果として、
    病院のベッドには劇的な余裕が生まれたんだ」


    佐藤医師は手元にある厳重に封緘された
    手続き書類を見つめ、
    それを私へと手渡しながら、自嘲気味に呟いた。

    「我々医師は、どんな状態であれ『命を救うこと』、
    一秒でも長く生かすことこそが
    絶対の正義だと教え込まれて育ってきた。
    だが今、この静まり返った病棟にいると、
    時々分からなくなるんだ。

    まあ、なにが尊厳かなんて
    人それぞれなんだろうけどさ。」

    *

    熱い医師の面影が、静範な環境の中で
    安楽死の処置を行う。

    命を救うというアイデンティティそのものが、
    制度の完璧な合理性の前で、
    その拠り所を失いつつあった。

    「佐藤先生」
    私は受け取った書類を鞄にしまい、
    今後のスケジュール帳を開きながら静かに声をかけた。

    「先生が晴子さんに施した緩和処置があったからこそ、
    彼女は人間の尊厳を保って逝くことができた。
    現場の医師が介在する意味は、決して消えていません」


    「……ありがとう。
    かつてのあの修羅場を知っている君に
    そう言ってもらえると、少し救われるよ。
    分かってはいるんだ。ただの、贅沢な独り言だよ」

    佐藤医師は白衣の襟を正した。
    その時、ナースステーションの呼び出し音が鳴った。

    それは、かつてのような心
    停止を知らせるけたたましいアラートではなく、
    一般病棟からの穏やかな定期連絡の音だった。

    佐藤医師は「失礼」と短く言い残し、
    次の看取りプロトコルの確認のために
    静かな廊下の奥へと歩いていく。

    その背中は、
    どこか役割を終えた戦士のようにも見えた。

    *

    私は一人、夜の病院を後にした。
    車窓から見える街並みは、
    洗練され、無駄なノイズが削ぎ落とされたように
    美しい。

    効率的で、合理的で、誰も傷つかない新しい社会。

    その静謐の中、私はハンドルを握り続けた。

     
     
    アマチュア小説を書いています。

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