
化粧のあとに②花曇りの萱野――六段目の早野勘平
『仮名手本忠臣蔵』六段目「勘平腹切の場」を訪ねて

花曇りの西国街道
コーヒーの苦みが、舌に残っていた。
ペットボトルのキャップを締め、車を降りた。
国道沿いは車の通行量が多く、チェーン店が立ち並んでいた。その奥には萱野の田園が広がっている。
田植え前の田んぼには水が張られていた。薄曇りの空は水面には映っていない。
コンビニの前には、「萱野三平前」というバス停があった。
バス停の先にある交差点を曲がって、早野勘平のモデル、萱野三平の旧邸に向かう。
国道から一本道を入ると、空気が変わる。
行き交う車の音が、背後に遠のいた。
細い石畳の道に人影はなく、道路沿いに寺院や日本家屋が続いている。
足音だけ石畳の上に小さく響き、車の音は、もう聞こえなかった。くすんだ白壁の長屋門が見えてきた。
西国街道沿いに萱野三平旧邸はあった。
萱野三平と俳人「涓泉」

三平はこの地で二十八歳の生涯を閉じた。
長屋門を回り込んで記念館の入り口に立つ。
真っ白な壁の額には「涓泉亭」と刻まれている。
その門をくぐる。
中庭の木々には影がなかった。
受付の男性に挨拶をして中に入る。
茶室へと続く土間の床石は室内灯の光を弾いている。壁には、三平の辞世が飾られていた。
晴れゆくや
日ころ心の
花曇り
連判状の不在

記念館を出ると中庭を挟んで長屋門が見えた。
三平の自刃の間が今も残っていた。
縁側の障子が開けられ、畳は日に焼けている。
その畳の間に、三平の像が置かれていた。
差し込む薄い光がほんのりと三平の像を照らしていた。
二十八歳の最期が、そこにあった。
敷居越しの畳に、右手をすうっと置いた。
魂魄(こんぱく)この土にとどまって、かたき討ちの御供せいでおこうか
六段目の勘平が右手で茣蓙を掴む。
じりじりとにじる手の指の腹に織目の凹凸が食い込む。
コロナ禍。
ぎふ清流プラザで演じた「勘平腹切の場」は、入場制限で客席は半分だった。
勘平の最期の瞬間。
私は舞台から、観客ひとりひとりの顔を辿っていた。
劇場のまばゆいスポットライトが勘平を照らす。
音はない。勘平の吐息だけが響く。
視線はすべて勘平に向けられている。
左脇に突き刺した刀を右手で握る。
鋭利な刃が手に食い込む。
一気に右脇腹まで掻っ切る。
刃を上に向けて引き上げる。
一回では足りない。もう一回。
震える右手を臓腑に差し込む。
血まみれの手のひらを、差し出す。
湿った風が邸内の木々をざわざわと揺らした。
ここに連判状はなかった。
私は、親指の腹を畳に押し付けた。跡は残らなかった。
風が止む。
庭の隅にある小さな石碑には、三平の辞世の句が刻まれていた。文字が風化して、もう読めない。
萱野三平前

旧邸を出ると、空はまだ曇っていた。
石畳の道には人の気配はない。
もう一度、長屋門の外観を眺めた。
白壁の土塀が並ぶ細い道を戻る。
土塀の向こうには青々とした木々が揺らめいている。
一歩、また一歩。
石畳の感触を確かめながら歩く。
足音は響かなかった。
車の音が戻ってきた。
身体には、まだ熱が残っている。
私はコンビニに入り、アイスクリームを買った。
行き交う車のエンジン音を聞きながら、駐車場でそれを頬張る。
萱野三平前のバス停に、バスが停まった。
空はまだ、晴れきらない。
アイスを食べた唇を手で拭った。親指の腹にバニラの白が残った。
舞台の記録――実際に演じた六段目「勘平腹切」の映像は こちら
この旅は、映像にも残した。花曇りの萱野を、ここに。