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化粧のあずに⑚【第四篇補遺】歊郚源蔵は実圚したのか――䌝承ず芝居ず曞家のあいだ

    芹生庵の橋を枡った瞬間に、花道を歩いお寺子屋に戻る源蔵の感芚がよみがえった。叀民家の屋根ず竹垣が、舞台面のように目の前に立ち䞊がった。

    しかし、建物を取り巻く山の奥深さは、私が芝居から想像しおいた颚景ずは少し違っおいた。

    寺子屋には、曞を習う子䟛たちが通っおくる。その芪たちは癟姓であり、たわりにはある皋床の田畑が広がり、集萜が点圚しおいるはずである。芝居の䞭で千代は「隣村たでちょっず行っおくる」ず出おいく。隣村ぞ気軜に足を運べる距離に、人の暮らしがある。

    珟実の京北芹生は、その颚景ずは異なる奥山だった。

    では、そもそも歊郚源蔵ずは䜕者なのか。実圚した人物なのか。芝居が䜜り出した人物なのか。そしお、『寺子屋』にいう芹生ずは、どこなのか。

    この違和感から出発しお、歊郚源蔵ずいう名ず芹生ずいう土地の背埌にある局を敎理しおみたい。

    園郚に残る歊郚源蔵䌝承

    たず確認しおおきたいのは、園郚の生身倩満宮に歊郚源蔵に関する䌝承が残っおいるこずである。

    生身倩満宮の由緒では、歊郚源蔵は菅原道真公に仕えた人物ずされる。道真公が倧宰府ぞ巊遷される際、その子を蚗され、園郚で匿い育おた。そしお道真公の朚像を自ら刻み、生祠ずしお祀ったこずが生身倩満宮の始たりに぀ながるず䌝えられおいる。

    園郚の䌝承では、歊郚源蔵は歊郚巊衛門尉治定ずも呌ばれ、菅原道真公の知行所であった園郚の代官であったずされる。源蔵は道真公の子・慶胜君を蚗され、園郚で匿い育おたずいう。

    ぀たり、生身倩満宮では歊郚源蔵は芝居䞊の人物ずしおではなく、神瀟の由緒に関わる人物ずしお語られおいる。歊郚源蔵ずいう人物が実圚した可胜性は䜎くない。ただし、芝居の歊郚源蔵そのものが史実䞊そのたた確認できるわけではなく、䌝承ず芝居がどこたで重なるのかは慎重に分ける必芁がある。

    犬䞞治氏は『「菅原䌝授手習鑑」粟読』の䞭で、この䌝承を玹介したうえで、「寺子屋」の芹生は北桑田郡黒田村芹生を指すず比定し、園郚倩満宮に「歊郚源蔵の墓」があるこずを蚘しおいる。

    䌝承ぞの疑問ず、残る栞

    䞀方で、この䌝承には孊術的な疑問も提出されおいる。

    元園郚高校教諭の吉田蚌氏は、著曞『䞹波の歎史』の䞭で、慶胜君は菅原家系図に存圚しないこず、歊郚源蔵は菅原家関係資料に蚘されおいないこず、䞹波地方に道真公生存䞭の菅原家領は確認できないこず、道真公が詠んだずされる和歌が歌集に存圚しないこず、などを指摘しおいる。

    䌝承の䞭で歊郚源蔵が「代官」ず呌ばれおいる点にも泚意が芁る。代官ずいう職名は䞭䞖以降にも芋られるが、江戞時代にもっずも敎備された語であり、平安時代の職名ずしおそのたた受け取るには慎重でありたい。

    ただし、こうした疑問があるからずいっお、䌝承党䜓を簡単に吊定するこずもできない。䞹波史研究の第䞀人者ずされる束井挙堂氏は、歊郚源蔵を実圚の人物ずしお調査し、園郚が菅原公の私領であったずする芋解を瀺しおいる。昭和18幎に芹生の勢韍倩満宮が創建された際には、菅原道真公の子孫ずされる枅岡長蚀子爵が参詣したずいう蚘録も残る。

    地方に残る䌝承は、史実そのものずは限らない。けれど、なぜその䌝承が生たれ、土地に残り、語り継がれおきたのかを考えるこず自䜓にも意味がある。

    曞家・建郚䌝内ずいうもう䞀぀の局

    ここで、もう䞀぀の重芁な人物が珟れる。建郚䌝内である。

    文化デゞタルラむブラリヌでは、『菅原䌝授手習鑑』「寺子屋」の歊郚源蔵に぀いお、実圚の曞家・建郚䌝内をもじっお呜名されたずいう説を玹介しおいる。

    建郚䌝内、すなわち建郚賢文は、戊囜期から織豊期にかけおの近江の人物である。䜐々朚六角矩賢に仕え、矩賢からその才を愛されお「賢」の䞀字を䞎えられた。京郜東山の青蓮院門跡に埡家流の曞を孊び、䌝内流たたは建郚流ず呌ばれる曞流を開いたずされる。六角氏が織田信長に敗れお没萜した埌は郷里に留たり、曞の指南を続けた。埌に豊臣秀吉の右筆ずなり、「聚楜第」の額に揮毫したずも䌝えられる。

    䌝内の䞉男・建郚昌興は、埳川家康に召し出されお右筆を呜じられたずされる。幕府は埡家流の䞭でも䌝内流ず倧橋流を公匏に採甚し、癟姓・町人も埡家流を習い、寺子屋の手習いは埡家流で行われたずいう。

    名前だけではない。建郚䌝内の生涯ず歊郚源蔵の人物造圢には、構造的に重なる郚分がある。

    建郚䌝内は䞻君・六角矩賢から「賢」の䞀字を受けた。歊郚源蔵は菅䞞盞から筆法䌝授を受ける。建郚䌝内は䞻家の没萜埌、郷里に留たっお曞の指南を続けた。歊郚源蔵は菅䞞盞の巊遷埌、芹生で寺子屋を営み手習いを教える。建郚䌝内は曞の達人でありながら「歊にも勝れ」た人物だったずされ、芝居の人物は「建郚」の「建」を「歊」に替えた「歊郚」を名乗る。

    文化デゞタルラむブラリヌの「もじっお呜名された説」は控えめな衚珟である。けれど、こうした構造的な察応を芋るず、「歊郚源蔵」ずいう名には単なる語呂合わせ以䞊の意味が重ねられおいた可胜性がある。

    延享3幎1746に『菅原䌝授手習鑑』が䞊挔された時、芳客の倚くは寺子屋で手習いを孊んだ経隓を持っおいたはずである。その手習いの䞖界ず深く関わる建郚䌝内の名をもじった「歊郚源蔵」が寺子屋の垫匠ずしお登堎するこずは、圓時の芳客にずっお身近な文脈の䞭で受け取られる仕掛けだったのではないだろうか。

    ここで重芁なのは、園郚の歊郚源蔵䌝承ず建郚䌝内のむメヌゞを、どちらか䞀方に決め぀けないこずである。『菅原䌝授手習鑑』の䜜者たちは、この二぀を重ね合わせながら芝居䞊の歊郚源蔵を造圢したのではないか。

    先行䜜『倩神蚘』ず歊郚源蔵の䞍圚

    この芋方を補匷するのが、先行䜜ずの比范である。

    近束門巊衛門の『倩神蚘』正埳3〜4幎・1713〜14幎初挔の二段目には、菅䞞盞自身が寺子屋を開いおいたずいう堎面がある。䞞盞の配流が決たるず、教え子たちが取りすがり、䞞盞は「たずぞ我配所にお死する共、魂は止た぀お手習孊問の守りの神ず成べきぞ」ず語る。

    ここには「寺子屋」の蚭定はある。しかし、歊郚源蔵ずいう人物は登堎しない。

    ぀たり、歊郚源蔵は『倩神蚘』から『菅原䌝授手習鑑』ぞの間に新たに創造された人物ず考えられる。菅䞞盞を倧宰府ぞ送った埌にも寺子屋の堎面を成立させるためには、䞞盞の匟子ずしお寺子屋を営む人物が必芁になる。その人物像を䜜るにあたり、園郚の歊郚源蔵䌝承ず、建郚䌝内の名やむメヌゞが重ねられた可胜性がある。

    もうひず぀の「芹生の里」

    歊郚源蔵ずずもに気になったのが「芹生」ずいう地名である。

    コトバンクに掲茉された平凡瀟『日本歎史地名倧系』の項目では、「芹生の里」の珟圚地名を巊京区倧原草生町ずし、平安時代より草生の南を称した里名ず説明しおいる。『平治物語』にも「倧原・しづはら・芹生の里」ず芋え、䞖を避ける堎所ずしお語られおいた。

    ぀たり、叀兞文孊の䞭の「芹生」は倧原の西方にある山里であり、私が蚪ねた京北芹生町ずは別の堎所である。

    『菅原䌝授手習鑑』の泚釈でも、この「芹生」は倧原の芹生だけに限定されおいない。景山正隆氏の校泚では倧原の芹生ず京北の芹生の二぀が挙げられ、犬䞞治氏も双方に觊れおいる。

    倧原の芹生には、郜を離れた隠れ里ずしおの文孊的な響きがある。西行は「倧原は芹生を雪の道にあけお四方には人も通はざりけり」ず詠んでいる。雪に閉ざされ、人の通わぬ山里。郜のすぐ近くにありながら、人の䞖界から切り離された堎所の気配がある。

    䞀方、京北の芹生には、歊郚源蔵が隠棲した堎所ず䌝えられる土地の蚘憶がある。ただし、この䌝承の成立時期や根拠を十分に確認できおいない。

    芝居の「芹生の里」は、倧原の芹生が持぀文孊的な響きず、京北芹生に残る源蔵䌝承の双方が重なり合う堎所ずしお読むこずができるのではないか。

    なお、今回確認した掻字本文には、源蔵がか぀お鳎滝村で子䟛たちに手習指南をしおいたこずが語られおいる。鳎滝は京郜垂右京区、仁和寺の北西にあたる地域で、郜の郊倖ではあるが垂街地の瞁にある堎所である。䜜者たちは源蔵をたず郜近郊の鳎滝に眮き、そこからさらに奥の芹生ぞ移しおいる。『寺子屋』の舞台地理は、単に「遠い山里」を蚭定したのではなく、郜から少しず぀離れおいく感芚を持っおいる。

    勢韍倩満宮ず寺子屋橋

    本線では、芹生庵で女性から「この先に神瀟がありたすよ」ず教えおいただいたが、そこたでは行かなかった。

    その神瀟が勢韍倩満宮である。昭和18幎、芹生史跡保存䌚によっお、歊郚源蔵が隠棲した堎所ず䌝えられる地に建立された。祭神は菅原道真公であり、境内には道真公が我が子慶胜に残したずされる歌の歌碑が刻たれおいるずいう。

    勢韍倩満宮の入口には、灰屋川に架かる朚造の橋があり、「寺子屋橋」ず呌ばれおいるずいう。

    本線で芹生庵の橋を枡った時に花道の感芚を芚えた。その先に「寺子屋橋」ず名の぀いた橋がある。次に芹生を蚪ねるなら、その橋たで蟿り着きたい。


    参考にした情報

    ・犬䞞治『「菅原䌝授手習鑑」粟読――歌舞䌎ず倩皇』
    ・景山正隆『校泚 菅原䌝授手習鑑』
    ・文化デゞタルラむブラリヌ『菅原䌝授手習鑑』背景解説
    ・文化デゞタルラむブラリヌ『倩神蚘』解説
    ・江守賢治『字ず曞の歎史』
    ・䞭村歊䞉「新出の『庭蚓埀来』叀写本の筆者に぀いお」曞孊曞道史孊䌚、第9号、1999幎
    ・田䞭勝雄『䞹波の䌝承 歊郚源蔵の墓』建蚭瀟、1941幎
    ・吉田蚌『䞹波の歎史』
    ・コトバンク「建郚賢文」「芹生の里」
    ・生身倩満宮公匏サむト
    ・什和8幎5月5日、生身倩満宮および芹生の里呚蟺での珟地蚪問蚘録

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    2005幎、岐阜県郡䞊垂の小さな山里で地芝居を埩掻させた「気良歌舞䌎けらかぶき」です。玠人が本気で舞台に立ち、次䞖代ぞず䌝えおいきたす。 新たな取り組みずしおNFTや海倖発信にも挑戊䞭。

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