
【健一のエッセイ】北海道の冬の暗闇で、12月10日に気づいた――“春待月”と当たり前を守る希望(No.20)
健一の気まぐれエッセイ
2025年12月10日
今日も五時過ぎには真っ暗だ。窓の外は何も見えない。ストーブの前に座って、とりあえずラジオをつけた。別にテレビでもよかったんだが、なんとなく声だけの方がいい気がして。
十二月十日。ラジオから流れてきたコラムで、この日が世界人権宣言が採択された日だと知った。正直、自分とは関係のない大きな話題だと思っていた。中学の社会科で習ったはずだが、記憶にはない。覚えているのは、隣の席の田中が消しゴムを落として先生に怒られたことぐらいだ。
焼酎を一口飲む。情報が次々に出てくるコラムに、ついていけない感覚がある。でも、ラジオだから目の前の情報だけに集中できる。「年満月」「除月」「春待月」といった、季節の言葉が静かに流れ込んでくる。
特に印象に残ったのは「春待月」という言葉だった。今は寒いけれど、その向こうには必ず春が来るという意味だと言う。うん、まあ、そうだよな、と反射的に思う。春は来る。毎年来る。当たり前のことだ。
でも、ここで少し引っかかった。当たり前のことを、わざわざ言葉にして残した昔の人がいるという事実は、立ち止まって考えさせる。なぜ彼らはそれを残したのか?
たぶん、春が来るのが当たり前ではない時代、あるいは、寒さに耐えかねて希望を失いそうになる瞬間があったからではないか。この言葉は、単なる季節の描写ではなく——いや、うまく言えないんだが——必ず訪れるサイクルを宣言することで、人々の心に希望みたいなものを定着させる意味を持っていたんじゃないかと思う。
そう考えると、世界人権宣言も同じなのかもしれない。人間は生まれながらにして自由で平等だ。これもまた、本来は当たり前のことだ。しかし、その当たり前が全然当たり前じゃなかった時代があったからこそ、わざわざ宣言として残した。
宣言や法、そして季節の言葉は、個人では簡単に忘れ去ってしまう重要なもの——自由とか、希望とか——を、社会全体で繰り返し確認する仕組みとして機能しているんだろう。
ストーブの火を見ている。赤い光が揺れている。この光も、いつか消える。でも、また明日、つける。そういうことの繰り返しだ。
灯油代が高くなったなあ、と思う。去年より確実に上がっている。でも、つけないわけにはいかない。北海道の冬は、そういうものだ。
ラジオから流れる世界の繰り返し(宣言)や、自然の繰り返し(季節の言葉)が、目の前の個人の繰り返し(ストーブの点火)と結びつく。僕の日常の小さな行動の繰り返しと、人類が過去から必死に守り続けてきた大きな宣言の繰り返し。これらは全て——うまく言えないが——失ってしまうもの(温もり、自由、希望)を、構造と行動で引き継いでいくという点で、本質的に同じ意味を持っているんじゃないか。
最近AIの勉強を始めたんだが、AIは論理的で完璧な答えを出す。でも、ラジオから流れてくるこういう話は、完璧じゃないからこそ、心に残るんだと思う。人間の声には、ゆらぎがある。迷いがある。それがいいんだろう。
焼酎がぬるくなった。もう一杯作ろうかと思ったが、やめた。明日も朝は早い。明日もまた、ストーブをつけて、一日を繰り返す。この繰り返しこそが、失わないための静かな抵抗なのかもしれない。
そんなことを考えながら、ラジオを消した。外はまだ真っ暗だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
便利すぎるAIと、不器用な人間。
雪深い札幌で、その狭間を行ったり来たりしています。
執筆:健一
(61歳、北の大地でAIと格闘中)
👇もしよかったら、自己紹介も覗いてやってください。
【この記事を書いた人:健一】
昭和・平成・令和と激務時代を生き抜いた元企業戦士。 現役時代は「24時間戦えますか」の世界で生きてきましたが、引退した今は、北の大地でAIやラジオに触れる静かな時間を噛み締めています。 「昔はよかった」とは言わないが、「今は今で大変だ」と若手を案じている61歳。 👇自己紹介(AIとの格闘記録など) https://note.com/keniti26/n/nc8d74d9242fd
姉妹ブログ
健一のアニメblog