無理に握った手を、いったん離してみた日
話し合いを終えたあと、なぜか握手だけが記憶に残ることがある。
互いに笑っていた。
「では、この方向で進めましょう」と確認し、表面上はきれいにまとまった。相手の希望も一部は入り、こちらの条件も通った。
誰かが勝ったわけでも、明らかに負けたわけでもない。
それなのに帰り道、胸の奥に小さな重さが残っていた。
本当は納得していなかった。
けれど、ここで断れば空気が悪くなる。せっかく重ねた話し合いが無駄になる。相手をがっかりさせるかもしれない。
そんなことを考えて、最後には「わかりました」と答えた。
合意したはずなのに、心のどこかでは、すでに少し距離を置き始めていた。
今回の言葉を読んで引っかかったのは、互いに満足できないなら取引をしない、という部分だった。
はじめは、ずいぶん割り切った考え方にも見えた。
関係を続けたいなら、多少の我慢は必要になる。どちらかが譲らなければ、まとまらないこともある。仕事でも家庭でも、すべてがきれいに折り合うことなど、ほとんどない。
ただ、ここで語られているのは、少しも譲らないということではないのだと思った。
納得していないのに、関係を失う怖さから同意したことは、あとになって別の形で戻ってくる。
返事が遅くなる。
頼まれたことを最低限で済ませたくなる。
小さな変更に腹が立つ。
口では「問題ありません」と言いながら、心の中に、自分ばかりが譲ったという記録を残していく。
その場では守ったはずの関係が、見えないところから少しずつ痩せていく。
以前、知人が友人と小さな仕事を始めたことがあった。
知人は企画を考え、友人は制作を担当した。もともと気の合う二人で、話し合いも穏やかだった。
報酬について決めるとき、友人が提示した割合を、知人はそのまま受け入れた。
本当は少し引っかかっていた。企画だけでなく、顧客との連絡や進行の管理も自分が担うことになる。その負担が十分に含まれていないように感じていた。
けれど、お金の話で関係をぎくしゃくさせたくなかった。
「それでいいよ」
そう答えたとき、友人はほっとした顔をしたという。
仕事が始まると、知人の違和感は消えるどころか、少しずつ膨らんだ。
友人から修正に時間がかかると言われると、自分だって多くの時間を使っていると思った。相手が感謝を口にしない日は、自分の仕事を軽く見ているように感じた。
けれど、最初に了承したのは自分だった。
だから不満を言う資格がないような気がして、黙っていた。
友人は友人で、知人が納得していると思っていた。頼んでも断られないため、仕事を増やしても問題ないのだろうと考えた。
二人とも関係を壊したくなかった。
その結果、話さないことが増えていった。
最後には、たった一通の連絡をめぐって言い争いになった。けれど、問題はその連絡ではなかった。
最初の「それでいいよ」の中に置き去りにされたものが、時間をかけて現れただけだった。
二人はその仕事を途中でやめた。
しばらくは、以前のように話すこともなかった。
知人は「あのとき、始めないという選択もあったんだよね」と言った。
それは友人を拒むことではなく、今の条件では一緒に進めないと伝えることだった。別の形を考えられなければ、いったん何も始めない。
当時の彼には、それが関係を壊す行為に見えていた。
けれど実際には、無理に始めたことで、仕事だけでなく友人との関係まで傷ついた。
やらないことは、空白に見える。
契約も生まれず、成果も残らない。話し合いに使った時間が無駄になったようにも感じる。
何より、目の前の機会を逃した自分が、臆病に思えることがある。
それでも、納得できないまま手を握ることにも、見えにくい代償がある。
その代償は、お金や時間だけではない。
相手への好意だったり、自分の言葉への信頼だったりする。
本当は嫌だったのに受け入れた経験が重なると、「はい」と言うたびに、自分の声が少しずつ聞こえなくなる。
反対に、こちらの都合だけで相手を押し切れば、相手の沈黙を合意だと思うようになる。
どちらも、関係が続いているように見えるぶん、気づくのが遅い。
今でも私は、話をまとめることを急いでしまう。
結論が出ない時間に耐えられず、少し無理のある条件でも着地点をつくりたくなる。断られるより、自分が少し我慢したほうが楽だと思うこともある。
ただ、合意にたどり着くことと、関係を守ることは、いつも同じではないらしい。
いったん手を離すことでしか、残せないものもある。
世界は変わらず、折り合えない人や、今は重ならない条件がある。話し尽くしても、互いに納得できる場所が見つからないこともある。
そのとき、無理に答えをつくらずに終えることは、敗北なのだろうか。
それとも、いつかもう一度向き合える余白を、二人の間に残すことなのだろうか。
