なぜ、神は沈黙するのか――旧約聖書が「苦難」の中で見つけた答え
「これだけ努力したのに、なぜ報われないのだろう」
人生の中で、そんな思いに立ち止まることがあります。
仕事、試験、人間関係、健康。
一生懸命やってきたつもりなのに、思うような結果が出ない。そんなとき私たちは、運が悪かった、周囲が悪かった、あるいは自分が悪かったと、どこかに理由を求めたくなります。
旧約聖書にも、同じような切実な問いが刻まれています。
それは、「なぜ、神は私たちを助けてくれないのか」という問いです。
宗教の話というより、苦難に直面した人間が、その出来事にどう意味を見いだそうとしたのか。その長い思索の記録として読むと、旧約聖書は今を生きる私たちにも近づいてきます。
「救われた記憶」から始まった
旧約聖書は、一人の著者が一度に書いた本ではありません。
古代イスラエルの人々が長い年月をかけて受け継いだ、神話、歴史、律法、詩、知恵、預言などから成る文書群です。

その中心にあるのが、神ヤハウェとイスラエルの民との関係です。
物語によれば、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいました。神はその叫びを聞き、モーセを通して民をエジプトから導き出します。
海が分かれる有名な場面を、歴史的事実としてどこまで受け取るかについては、さまざまな立場があります。
けれども、物語が伝えようとしている核は明確です。
それは、
「自分たちは、滅びかねない苦境から救い出された」
という共同の記憶でした。
神との「契約」が民を結んだ
エジプトを出た民は、シナイ山で神から十戒を授かったとされます。
「ほかの神々を拝んではならない」
「偶像を造ってはならない」
「殺してはならない」
「盗んではならない」
これらは単なる禁止事項ではありません。
神が民を守り、民は神の教えに従う。その関係を形にしたものが「契約」でした。
さらに重要なのは、王や権力者の気分ではなく、誰にも共通する掟の下に人々を置こうとしたことです。
人が人を絶対的に支配するのではない。
王でさえ、神の掟の外には立てない。
この考え方は、共同体が自らを律するための大きな土台になりました。
豊かさが、切実さを薄れさせる
やがてイスラエルの民はカナンの地に入り、王国を築きます。
ダビデ王の後を継いだソロモン王の時代には、国は繁栄し、エルサレムに壮大な神殿も建てられました。
ところが、豊かさは別の問題を生みます。
苦しいときには必要だった結束が、暮らしが安定すると弱くなる。人々はヤハウェだけでなく、豊作など自分の願いに合う別の神々にも心を向けるようになった、と聖書は描きます。
これは、現代の私たちにも思い当たるところがあります。
困っているときには大切にしていた初心を、うまくいき始めると忘れてしまう。
力や規模を追ううちに、本来は誰かを幸せにするためだった仕事が、いつの間にか人を苦しめてしまう。
創世記の「バベルの塔」も、天に届くほどの塔を建てて名を上げようとした人間の傲慢と、その企ての崩壊を語る物語として読むことができます。

発展することそのものが悪いのではありません。
発展の陰で、何を失い、誰に負担を負わせているのか。その問いを忘れたとき、繁栄は内側から崩れ始めるのかもしれません。
「神が悪い」ではなく「自分たちを見直す」
ソロモンの死後、王国は北と南に分裂します。
そして北のイスラエル王国は、紀元前8世紀にアッシリアによって滅ぼされました。
神が守ってくれるはずなのに、国は滅びた。
ここで人々は、信仰の根幹を揺さぶられる問いに直面します。
「神には力がないのではないか」
「私たちは見捨てられたのではないか」
神を離れる人もいたでしょう。
一方で、なお神を信じようとした人々は、別の答えを探しました。
神が無力なのではない。
自分たちが契約を忘れ、神の前でふさわしくない状態に陥っていたのではないか――。
この「神との正しい関係から外れた状態」を表す言葉が、旧約聖書における「罪」です。

罪とは、個々の違反行為の一覧だけではありません。
自分たちの在り方そのものが、本来あるべき方向からずれている。そのずれを認め、関係を結び直そうとする考え方でもあります。
「罪」を自己責任論にしないために
ただし、ここは慎重に読みたいところです。
苦難に遭った人に向かって、「あなたが悪いからだ」と言うための考え方ではありません。
災害、病気、差別、暴力など、本人に責任のない苦しみは確かにあります。被害を受けた人に罪を負わせる読み方は、さらに人を傷つけてしまいます。
また旧約聖書そのものも、単純な因果応報だけで終わりません。
正しく生きようとした人が、なぜ理由の分からない苦しみに遭うのか。その問いは、後に『ヨブ記』でさらに深く掘り下げられていきます。
だから現代の私たちが受け取れるのは、「すべて自分が悪い」と責めることではなく、苦難の中でも、自分に問い直せることはないかを探す姿勢ではないでしょうか。
他人や運命だけを責めるのでもない。かといって、すべてを自分一人で背負うのでもない。
変えられないものと、これから変えられるものを見分ける。その間に立って考え続けることが大切なのだと思います。
Kemmotsu's View
私も、新しい資格への挑戦や英語の学び直し、函館・道南でのガイド活動を続ける中で、思うような結果が出ないことがあります。
そんなとき、「環境が悪かった」「タイミングが悪かった」と考えれば、少し気持ちは楽になります。
反対に、「全部、自分の努力不足だ」と決めつけると、今度は前へ進む力まで失ってしまいます。
旧約聖書の「罪」という言葉から私が考えさせられたのは、自分を罰することではなく、自分の向きを確かめることでした。
最初に何を目指していたのか。
結果だけを追い、周囲とのつながりや大切にしたかった姿勢を忘れていないか。
今の自分に変えられる小さなことは何か。
人生後半の挑戦では、若い頃のように勢いだけで進めない場面も増えてきます。だからこそ、立ち止まって方向を確認する時間には意味があるのでしょう。
私自身、まだ答えを得たわけではありません。
ただ、失敗や停滞を「終わり」と見るのではなく、これまでの経験と新しい学びの関係を結び直す機会として受け止めたい。そう考えながら、今も挑戦の途中にいます。
苦難の中で、何を選び直すか
旧約聖書の民は、救われたから神を信じただけではありませんでした。
救いが見えなくなったときにも、神との関係をどう捉え直すかを問い続けました。
その答えに、現代の私たちが全面的に納得する必要はありません。
けれども、思いどおりにならない出来事の前で、ただ誰かを責めるのでも、自分を責め尽くすのでもなく、これからの生き方を問い直す――。
その姿勢には、時代や宗教を超えて受け取れるものがあるように思います。
あなたは今、どんな「原点」と結び直したいでしょうか。
