
傘を忘れる人│拝啓文芸部│雨の日の傘
こちらに参加させていただきました。
父は、雨の日に限って傘を忘れた。
朝の天気予報が降水確率八十パーセントと言っていても、玄関の傘立てには父の黒い傘が残っていた。母はそれを見て、黙って私の長靴を出してくれた。夕方になると、きまって電話が鳴る。
「駅にいるんだけど」
小学生の私は長靴をはき、自分の赤い傘をさし、父の黒い傘を抱えて駅まで歩いた。十五分の道のりだった。改札の前で、父はいつも申し訳なさそうに笑って待っていた。
「助かった。お前がいなかったら、濡れて帰るところだった」
帰り道、二つの傘は並ぶたびに縁がぶつかって、雨粒がまとめて落ちた。それがおかしくて、私たちは何度もわざとぶつけ合った。
中学に上がると、迎えに行くのが面倒になった。
「コンビニで買えばいいじゃん」
父は「そうだな」と笑った。その日から、電話は鳴らなくなった。それなのに父は、雨の日も濡れずに帰ってきた。
結婚が決まって家を出る前の晩、父の書斎の片づけを手伝った。
古い通勤鞄の内ポケットに、紺色の折りたたみ傘が入っていた。布は色あせて、留め具のボタンはとれかけている。何年も、もしかすると何十年も、そこにあった傘だった。
「お父さん、これ」
居間でテレビを見ていた父は、振り向いて、少しだけ目を泳がせる。
「ずっと持ってたの?」
「まあ、念のためにな」
「じゃあ、なんで毎回電話してきたの」
父は湯呑みに目を落とした。
「見たかったんだよ。小さいのが大きい傘を抱えて、きょろきょろしながら改札の向こうから歩いてくるのが」
台所で母が吹き出した。父は耳まで赤くなって、テレビの音量を上げた。
結婚して半年。久しぶりに実家へ帰る日は、雨だった。
駅の改札を出て、鞄の中を探る。折りたたみ傘は、ちゃんと入っていた。紺色の布を、少しのあいだ見つめた。それから奥へ押しこんで、電話をかける。
「駅にいるんだけど。傘、忘れちゃって」
電話の向こうで、父は黙った。雨の音が、二、三秒ぶん流れた。
「……待ってろ。すぐ行く」
十五分後、雨の向こうから、大きな人影が歩いてきた。黒い傘をさして、片手に赤い傘を抱えて、きょろきょろしながら。
私が手を振ると、父も手を振った。少しだけ、背中が丸くなっていた。
帰り道、二つの傘の縁がぶつかって、雨粒がまとめて落ちる。
もう一度、私はわざとぶつけた。
____了