飲みかけのメーカーズマーク・二十代の私が、カウンターで客の「遺影」と向き合った夜のこと
酒場という空間には、
さまざまな人間がそれぞれの事情や
勝手な思い出を置いていく。
綺麗事ばかりではない。
街場のバーには、
むしろ泥のような情念しか残らない夜もある。
ミキオさんは、大阪で知り合った陽気な飲み友達だった。
知的でウィットにとんだ軽快な会話、すべてを許すような達観した処世術。
一言でいえば優しい人だった。
彼が訪れる夜、その視線の先にはいつもあどけない面影を宿した若い男性がいた。
どこか不均衡な距離感を抱えたまま、決まって二人で泥酔するまで飲む姿があった。
ミキオさんは、報われない思いに心を焦がしていた。
思いを寄せる相手への、どうしようもない不条理と孤独。
それを抱え、その晩もまた彼は店に来た。
ただ、その日は一人だった。
カクテルをつくりたい年頃の私に、彼はただバーボンをロックであおるように飲んだ。
時折、大きなため息をつく。
話が長い。
いつもの彼がいない分、私がすべて受け止めなければならなかった。
帰り際になっても、話は終わらない。
と言って終わりのある話でもない。
階下の道端まで見送った私は、少しばかり苛立ちを覚えていた。
「仕事が終わったら、飲みに行きませんか」
暇な平日の夜。
早々に店を閉めて家に帰りたかった私は、その会話を無理矢理に打ち切った。
それが、彼との最後になった。
――そして。
あの日、カウンターの正面に、顔を上げた私の視界に飛び込んできたのは、見慣れたミキオさんの姿ではなかった。
およそ酒場には似つかわしくない老女と共に、あの夜まで彼が恋焦がれていた、あの若い男性が座っていた。
緊張した表情の彼が胸に抱いていたのは、一枚の遺影だった。
息子の人生最後の酒場となったこのカウンターに、ミキオさんはもういない。
事故なのか、自死なのか。
あまりにも静かな最後だった。
母親が語ってくれた最期の夜の光景が、脳裏に突き刺さる。
家でも毎晩のように酒をあおり、心配する母との諍いは絶えなかったという。
しかし、その晩だけは違った。
煙草をくゆらせ静かにグラスを傾ける彼へ、早く寝るよう促した母。
その母に残した最後の言葉は「お母さん、ありがとう」だったという。
その夜、彼は睡眠薬を大量に飲み、二度と目覚めなかった。
母は言う。
努めて明るく。
母子家庭の一人息子との訣別。
それだけに、その言葉は氷のように冷たくカウンターへ落ちていった。
「苦しかった。
でも同じように、あの子も苦しかったでしょう。
もう悩まなくていい。
私ももう、争わなくていい。
あの日笑顔で別れたことだけを、救いと、思うしかありません。。。」
瞼に焼きついて離れないのは、部屋に残された、結露すらなくなった少し黄色がかった水の残るグラス。
彼の凍てついた時間がそのまま取り残されていた。
すべては終わった後だった。
私はこんな因果な商売を呪った。
日々の些細な営みに、客は思い出という重荷を勝手に置いていく。
当然のように、私は自分を責めた。
あの夜、もう少し話を聞いていれば、別の未来があったのではないかと。
同時になぜ、私がそんな十字架を背負わねばならないのかと、答えのない迷路をさまよった。
二十代の駆け出しだった私にとって、その重みはただ苦しかった。
しかし、思いを寄せられていた彼もまた、苦しみながらその死を受け止めていた。
あの日、母親の横で、一度も目を上げず、氷の溶けきったバーボンを黙って喉へ流し込んでいた。
誰かの想いに応えられない歯がゆさと、自分が守るべき日常を背負いながら。
彼もまた自分に拭えない十字架を背負って、今もどこかで生きている。
振り返れば、私はミキオさんの歳を遥かに超えた。
ミキオさんは、ずっと四十歳のまま止まっている。
今更あの頃のような自責の念はない。
それでも、あの夜の帰り際に見せた、あのはにかんだ笑顔だけは鮮明に覚えている。
ミキオさんはいつもバーボンだった。
それもロックだった。
あおるように飲む。
氷が少し溶けて、自分好みの濃さになったところをくいっと流し込む。
華やかなカクテルを愛していた私にとって、当時の彼は張り合いのない手持ち無沙汰な客だった。
だが、彼にとって私は、あの夜確かに必要な存在だった。
あれから、私はただただ馬齢を重ねた。
何か成長できたなどとはどうしても思えない。
誰かを支えられるような強さだってあまり持ち合わせていない。
自分を生きることで精一杯な毎日を、何とかやり過ごしている。
あの日から長すぎる歳月が流れた。
あの出来事を、ひとつの切ない思い出として今、静かに見つめ直している。
残された彼の部屋の机の上には、飲みかけのメーカーズマークのボトルがぽつんと置かれていたという。
私は今も赤い封蝋の向こう側に、あの夜のミキオさんを見ている。

